2024年4月26日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 『古事記』の大人国の神生み1

 『山海經』によると、日本には周饒国という武力を持たない中心勢力の国が有ったが、その背景には大人国という造船し市場を開いて貿易する国の存在があった。周饒国の神話が『伊未自由来記』であり、『古事記』は大人国から生まれた史書である。『伊未自由来記』に登場する始祖の木葉比等は神を生まず、神木の木根を立てたと思われる。その後、海人の佐神が於母島の東に住み、木葉比等の神木を「汝木(奈岐)」と呼んだと考えられる。佐神が於佐の奈神の奈美と呼ばれ、その場所が奈岐の浦であった可能性が高い。

その後、沖津久斯山祇が小之凝呂島の神として現れた。沖津久斯山祇は出雲の鞍山祇の神子であり、若狭の神のようだ。そして、於母の島の東大津に於漏知が襲来した。この際、流宮の加須屋の大神祇が援助し、その一族も多く島にやってきた。そして、宇都須山祇の子である大人様が加須屋大海祇の協力を受け、於母の島の王になった。つまり、沖津久斯山祇と宇都須山祇以外に神が生まれていないので、国を征服したときに、神が生まれたことが分かる。

そして、大人様の国生みの後援者は加須屋大海祇だった。この名前から、加須屋から大国に来た対馬の神を祖とする神であることが分かる。しかし、大神祇も大海祇も『古事記』には記述されていな。海神と対置されるのは山神と考えられ、海神は大綿津見、大海祇の次の世代神は山神と習合した大山津見と考えられる。大海祇は大神祇の次世代の流宮の神であり、大人様は大山祇の姫を娶っていることから、大山津見が流宮の神と推測される。

大綿津見の綿は、伝来が8世紀であり、古代には日本に綿布は存在していなかった。この「綿」は綿毛のような繭の絹糸のことと考えられる。『山海經』には、君子國の近辺に青丘國があり、「衣絲帛」と絹布を着ていると記されている。豊岡市には、仁徳朝から続く絹巻神社があり、かつての神社名は海神社であり、海神イコール綿津見と合致している。『三國志』に異文雜錦を中国に献上し、吉野ケ里遺跡には絹織物が出土していて、中国製と糸使いが異なる

2024年4月24日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国生み2

  自然の海や河、そして島や山を神と考え、島や山の神を祀るための対象が野の木や草に変化し、それを祀る人物を神と同一視した。廼馳は土地の神霊で、木霊の句句廼馳は豊の久士(比泥別・日根別)の国神で、草霊の野槌は津島出身の神である。対馬日国の島の神霊と河の神は、日女(女王の意味)の日孁と日子(天子の意味)の蛭子を生んだ。日国の蛭子は他の国に天降って、別の国の祖神となる。このような神々の出生連鎖によって、六合では多くの国が生まれた。

『山海経』には数多くの国が記述されているが、「国」という単語が付加されている国は多くない。その中で、国は「海内経」と「海外経」に集中し、特に、「海外経」には多くの国が記されている。その理由は、「海外南経」の六合で神霊が生まれるからだ。国が形成されると、神霊()も生まれる。神の帝俊が神霊の娥皇と「三身国」を生んで、さらに、娥皇の子にも国霊が生まれる。娥皇は土地の河神であり、中国語でも娥(é)と河(hé)は音が似ている。実際、「神」という言葉の語源は河と考えられ、日本語の漢字の読みは漢代のものに近いと言われている。

『日本書紀』は、大八島について『古事記』が含めた壱岐や対馬を大八島から除外し、その代わりに越洲と大洲を含めた。壱岐や対馬は天を付加する倭国の領地なので、倭国から分裂した大伴氏は壱岐対馬を含めなかったのだろう。『三国志』でも、壱岐や対馬は「邪馬壹國」に含まれている。『古事記』において、大国と高志国は淡国と共に、大倭国そのものである。そのため、『古事記』は淡島を「不入子之例」として子に含めず、代わりにこれらの3つの国を合わせて淡道之穗之狹別とした。

淡道州は琵琶湖岸の大津から敦賀や若狭の間と考えられる。伊豫二名州は、二つの名なので、4国ではなく、道後と道前の国のことだろう。神も二名の愛上比賣と飯依比古で、国も讚岐と土佐で併せて伊豫である。粟国の大宜都比賣は大国の神で、淡海の大津の神だろう。大津に粟津があるのは偶然だろうか。そして、『古事記』が日向国を記述しないのは、『古事記』を記述した巨勢氏に敵対する氏族である大伴氏が日向国の王であるためかもしれない。

2024年4月22日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国生み1

  『海内經』には、「西海之内流沙之中」に、「壑市」と呼ばれる国が存在していた。流沙之中はおそらく砂漠の中のオアシスのことだろう。この国は市場を開いて繁栄したようだ。『伊未自由来記』の中の大人様は、この「壑市」を参考にして、「海東經」で黄海の中に市場を開いた。さらに、「大荒東經」では太平洋沿岸に「大人之國」という分国を建国し、「有大人之市」という市場を開いたようだ。同様に、「大荒北經」ではオホーツク海にも分国を建国した。

市場を造るには物産が必要だ。その物産を仕入れ、市場で交換した物を送り届ける国があったのだろう。これが国生み神話の国なのだろう。大人國は特に船造りを特筆し、「削船」という造船技術を持っていたようだ。船は多くの土地で出土しているが、その造船の記述は大人國にしか見られない。

『舊事本紀』によれば、大八州の構成国は八国ではなく、淡路州が数に含まれないため、7州となる。一方、『日本書紀』では淡路洲が含まれており、9洲となる。つまり、八つの国ではなくて、大八国という連合国の構成国を記述していると考えられる。二つの名の国の伊豫之二名島については愛上比賣と飯依比古の名前が起源と考えられる。また、粟國の大宜都比賣は琵琶湖の淡國の比賣と考えられる。気比大神は名前を交換し、琵琶湖から敦賀に来た。

津島の天之狹手依比賣や小豆島の大野手上比賣など、比賣を記述する場所には分国や市場が造られたと考えられる。天を接頭語にした国がいくつかあり、その中の津島や伊伎が『後漢書』等によれば、倭国に含まれ、畿内とは別の国だった。天を接頭語にする国は旧倭国の倭奴国の構成国と見なすべきだろう。倭奴国は三身国の義均が定めた九州を意味する。これらの天を冠する国々が倭奴国の構成国として含まれているのは、大人國が貿易対象としていた国々だったからと思われる。したがって、これらの大八島の国々は国を生みしたのではなく、市を造ったと考えられる。

大人國は()狭の分国の淡道之穗(穴太)から始まり、多くの市場を手に入れ、分家を造ったと考えられる。大人様は宇都須山祇の子で、祇は海から対馬、山は野洲の霊、宇都は宇治の津の大津が神の履歴書である。つまり、大八国の勢力下の大津の神であり、加須屋大海祇大神の姻戚だったと思われる。

2024年4月19日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 ゲノム解析記事に対する考察

令和6年4月18日付けの新聞によると、理化学研究所の寺尾知可史チームがゲノム解析を通じて、興味深い解析結果が出た。それによると、日本の縄文時代や弥生時代に生きた人々に加え、もう一つの系統が見つかったというのだ。さらに、日本人はネアンデルタール人やデニソワ人とのつながりも示唆された。

私はこれまで、日本人と共通する人種がチベットやシベリアなどの辺境に孤立して存在することから、日本人は最初に極東に到達した民族と考えてきました。その後、温暖化が進み、スンダランドから現代の中華系民族(北方系も含む)が進出してきて、それによって辺境に押しやられたと考えています。その為、日本列島は多くの種族が集まる地域であり、『山海經』には日本列島を含む「海經」の「海外經」や東と南の「大荒經」、「海内經」の一部に多数の国や集団が記載されていることから、多様な人々が存在したと推測できる。

アフリカからの移民は同じ時期に到達したものの、スンダランドにまとまった種族と、広い東アジアに散在した種族が存在しただろう。後者の散在した種族が、日本列島に押しやられたと理解している。この中には、ネアンデルタール人やデニソワ人と交雑した種族も含まれていたと考えられる。特に、デニソワ人は東アジアに広く散在していたとされている。

歴史書の解析から、天と呼ばれた「海内經」の地域に住む倭人や聖人と東日本列島人との交流について述べてきた。さらに、葛城襲津彦の日向の妻やその子たち、日向の日臣大伴氏、宇佐の姫と中臣氏との子ら、曲浦の珍彦と同系の人々によって王朝交代が起こった。その後も、文身国(後に俀国と分裂した倭国となる)や大漢国(後に広国となる)の王である蘇我氏、そして俀国の王である天氏の天智天皇など、権力者が変遷してきた。襲津彦らは多くの配下を引き連れて熊襲に移動し、引き連れた者たちは熊襲との婚姻関係を通じて熊襲と血縁関係を持った。このような熊襲との血縁関係は、畿内を支配すると、畿内の有力者たちが姻戚関係を競い合って拡がる要因となる。一方で、権力のない中国人や扶余人が来ても、姻戚関係は拡がらなかったと考えられる。

この理化学研究所の記事は、「最終兵器の目」の研究の正統性を示すものとして、急遽掲載した。

2024年4月17日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神の履歴書

「名は体を表す」と言われるように、神の名前にはその神を祀って移り住んだ地名を継承している。最初の神は水を生み、魚を生む、天の恵みそのものが神である。そして、人々は島や土地に住み、その土地の神は島や土地ごとに異なる名前で呼ばれた。例えば、魔や遲や馳や祇などである。神靈を生んだ六合というのは神に名を付けたことを意味した。

最初に日本語を話した人は他の島の住人に会うと、自分を「吾」と言い、相手は「汝」と呼ぶ。吾の身内は「男夫叔伯 ()」、汝の集団の代表者は「主(ヌやウ)」、それ以外は「氏()」と呼ばれる。子どもたちが生まれて、男性は夫であり、上の者は兄()、下の者は弟()、女性は賣()と呼ばれた。しかし、寿命は約30歳程度であり、孫を見ることなく死んでいった。そのため、神の名前も同様に女や男や子で呼ばれた。そして、人々にとっての神は死んでいった爺(ジ・地)や婆(バ・場)で、比古遲・比婆なのだろう。木の葉比等の同族を木の葉爺・木の葉婆・箕爺・箕婆などといったが、箕は三国の野なのだろうか。

氏族の神も同様で、最初の日本語を話した島民の吾魔(海士・天民)は国神を吾魔神(奄美)と呼び、新天地の津に到着すると、その土地神を津島と呼び、天神を津見()と呼ぶ。常世から来た神は夜に木を祀る津の木神の月読だろう。それに対して、津島の住民は昼間に海を昼ヶ浦で祀り、昼国・日国と呼び、神子は昼子や昼女や日子や日女である。日国は日別の速国に分国を造り、そこ住む自国を木と呼ぶ速人が隠岐に行く。すなわち、速の比等が於島に来島して木神を祀り、その後に岬に住む佐之男が於島に来島して於佐神を祀った。漁師海士の佐之男は於島でも岬に住む。天神の佐之男が於島の岬で祀って於佐神、菅の岬で祀って須佐之男、速国で祀って速須佐之男、熊襲の国で祀って、建速須佐之男と名前を変えて(合祀習合して)佐之男を襲名する。

『日本書紀』では國常立が祖神だったが、伊邪那岐にペア神の伊邪那美が居たように、『古事記』が記述するように天常立が居たが書かなかった。そして、神の履歴書から、天より来た常の国の但馬の霊、そして、元々住んでいた國常立である。その祖神が『日本書紀』に記述される名が無い神の「天地之中生一物状如葦牙」、それが、『古事記』では宇摩志阿斯訶備比古遲、その神が対馬の昼ヶ浦から美浜近くの常神半島に降ってきた。

2024年4月15日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神話のペア神

  史書の神話は、その王朝の祖がどのように生まれ、国を建国したかを物語るものである。通常、王朝の祖を生んだ人物は両親しかいないので、複数のペア神は必要ない。しかし、『日本書紀』では神を生む伊邪那岐・伊邪那美のペアのみが登場するが、『舊事本紀』と『古事記』では他の神を生むペア神も登場する。それは、速秋津日子・速秋津比賣のペアや大山上津見・野椎のペアだ。

速秋津日子・速秋津比賣は河海に因んで生んだとされるが、海神は大綿津見であり、水戸神の速秋津日子と速秋津比賣とは関連があるものの、海とはやや遠い存在である。本来なら海神はウ神()、河神はカ神()であると考えられる。つまり、名前のない海神の津見と河神の土が沫那藝・沫那美、頬那藝・頬那美、天之水分・國之水分、天之久比奢母智・國之久比奢母智の4ペア8柱の神を生み、また、山神の山椎と野神の野椎は山野に因んで天之狹土・國之狹土、天之狹霧・國之狹霧、天之闇戸・國之闇戸、大戸惑子・大戸惑女の4ペア8柱の神を生んだと思われる。しかも、海は淡海、河は野洲川だろう。

しかし、『舊事本紀』では、沫那藝は六代耦生天神の青橿城根の別名であり、國之狹土も二代化生天神の國常立の別名であるとされ、世代が矛盾している。つまり、國之狹土を生んだ大山上津見・野椎は最初の祖神である。沫那藝を生んだ速秋津日子・速秋津比賣も、七代耦生天神の伊邪那岐・伊邪那美よりも前に生まれた。このことから、『古事記』・『舊事本紀』は伊邪那岐・伊邪那美以外にも神を生む神がいることを主張し、複数の王朝が存在したことを示唆している。さらに、『舊事本紀』はこれらの神々の順序まで示している。つまり、『古事記』は大臣の王朝の神である伊邪那岐・伊邪那美に対して、速秋津日子と速秋津比賣の生んだ王朝と、大山上津見・野椎の生んだ王朝が存在したことを述べている。

2024年4月12日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 氏族の祖神と神子

  『日本書紀』の神話を記述した大伴氏の祖神は国常立であった。しかし、そこには、宇摩志阿斯訶備比古遲を取り除いて、記述されたことが推測された。『日本書紀』ではこの宇摩志阿斯訶備比古遲のかわりに、国常立のペア神である天常立が常で祀られ、その常立を祖神としたのだろうと考えられる。さらに、最後に記述された『舊事本紀』では、天常立の代わりに天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊を祖神に置き換え、『古事記』の天御中主と可美葦牙彦舅の前に記述された。

『古事記』は大臣の歴史書であり、『舊事本紀』は大連の歴史書である。つまり、両書とも、元々は宇摩志阿斯訶備比古遲が大臣・大連の祖神であったことを示している。可美葦牙彦舅の「シ」は島や氏の「シ」と解釈され、彦は昼ヶ浦の日神の神子を指し、葦牙は吾シ()の河()の日(日神)を指す。そして、神子の妻(女王)にとって舅に対し姑が存在するはずで、姑が国常立であると考えられる。この神は若狭美浜に天から降った神を象徴している。美浜は常神半島と敦賀半島に挟まれており、敦賀半島には馬背峠、常神半島には日向湖がある。また、宇摩志麻治の母は鳥見の姫であり、鳥浜は美浜の隣に位置している。そして、宇摩志麻治の父である饒速日は大臣と大連の祖である。

『古事記』と『日本書紀』では、ペア神として敦賀の気比の神の伊邪那岐・伊邪那美が描かれているが、『舊事本紀』ではおそらく、「二代化生天神」と「三代耦生天神」がペア神と考えられる。これらは、天八下尊が対馬から大津に降った宇都須山祇を、天三降尊が出雲の鞍山祇之大神と対応させたものと思われる。

『舊事本紀』によれば、大神君の祖である大夫の天日方奇日方と共に、事代主を大神として奉齋したのが宇摩志麻治であった。事代主の娘である活玉依姫は、常神半島の日向湖の近くの日向で祀られたと思われる事代主を祀る、恐らく、生倉の女王と考えられる。高御産巣日は高島の神であり、劔根が高倉山で神剣を得て、孫の羸津世襲が初代の大連となった。そして、「素戔鳴尊此則筑紫胸肩君等所祭神是也」という記述から、胸形丈夫国の神が須佐之男であり、つまり速須佐之男であると考えられる。これが大伴氏の祖とされる神子なのだろう。

2024年4月10日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『日本書紀』の始祖神3

饒速日の祖神は『舊事本紀』が天常立に替わって記述する狹霧尊と考えられる。『日本書紀』には、狹霧尊は存在せず、代わりに、國常立と同等の國狹槌と豐斟渟が存在している。南の「狗奴國」の討伐の際、「志我神直入物部神直入中臣神」という三神を祈った。この三神によって、大伴氏は日向諸縣を手に入れた。直入物部神の祖も狹霧と考えられ、これは國狹槌が祀られる地形と同じ豊の土地の神と考えられる。中臣神は仲国王の祖神、安芸も豊の国であり、豊国の神である豐斟渟となのだろうか。当然、志我神は日臣の祖神と思われ、大伴氏の祖の神であると考えられる。狹霧の狹は「先・岬」を意味する「さ」であり、企救半島の神であると思われる。企救半島には足立山(霧ヶ岳)があり、霧の発生が多いとされている。3氏とも征服したので拘奴国での女系の神と考えられる。新しい土地に住めば、新しい祖神に世代交代する。男系のみなら1柱の神で十分で、多くの神を記述する理由は女系で、移り住んだ場所の神を祀ったからである。

本来、始祖神は「()ミ」か「()マ」、海が神で島が霊である。そして、始祖神の海()の子が天子である。そして、天子は移住して、皇后の母、女系の皇太后がペア神となって、天子の子が統治する天孫である。ペア神は氏族それぞれに存在し、大臣の葛木氏達の始祖が伊邪那岐・伊邪那美であった。大臣は隠岐の於母島、周饒國の中心人物であり、臣は隠岐の於母島の国の支配下の神を指し、隠岐に支配される大国の臣が大臣である。於母島の奈岐の浦の神が伊邪那岐・伊邪那美の本来の形と考えられる。そして、伊奢沙和氣大神は息長帯日売の子と名を交換して氣比大神と名乗った。すなわち、伊奢は現代の敦賀の気比であり、伊邪那岐・伊邪那美は気比の神であった。

大伴氏が大臣家の葛木氏の政権を奪取したことから、伊邪那岐・伊邪那美を大伴氏の祖神と思われる常立の後に記述したと考えられる。大国は名目上、隠岐の於母島の王の配下にある。『山海經』には「周饒國在其東・・・冠帶」と記述され、これが於母島であると考えられる。一般に一国を統治する王が存在しても、象徴の冠は不要である。多くの国を支配する王には象徴の冠が必要だが、周饒・丈夫・君子の3国以外では記述されていない。大倭根子、大臣、大連の史書は偶然ではないのだろう。

2024年4月8日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『日本書紀』の始祖神2

  「天常立」は六合を行き交った聖人、その出身地の肥後国を含む九州に関する記述は、『古事記』には肥国が「建日向日豐久士比泥別」とあり日向國は無く、熊曽国は「建日別」とある。一方、『舊事本紀』では肥国も熊襲国も「建日別」、日向国は「豐久士比泥別」とされている。つまり、拘奴への東征の前は肥・豊・熊襲・日向の4国がまとまっていて、日根別の豊の「久」(j iǔ)士、すなわち4国併せて拘(jū)州で、東征後は「建日別」の肥・熊襲と豐と日向に3分裂した。豊の中臣、日向の大伴、建の伊襲縣主、『三國志』の伊都爾支である。

日向国は東の拘奴の豊国からの分国で、火國(建日別)の分国の始祖の國背()別の子と思われる日向襲津彦が王だったのだろう。諸縣君牛諸井(君牛は君主だろう)の娘は日向國の髪長媛、諸縣は君の中の主がいる日向国の中心国であり、諸縣は諸縣君泉媛から景行天皇が譲られていて、泉媛の父が日向国を命名したのだろう。すなわち、日向髪長大田根も日向襲津彦も拘奴国崩壊後に生まれた人物と解る。『日本書紀』の日向國造の始祖の豐國別は『舊事本紀』には吉備別の祖と記述され、「吉備兒嶋謂建日方別」とあるように拘奴国の分国で襲津彦の東征の軍備補給地の王になっている。すなわち、豐國別の後裔は日向王、更に、吉備王となり、豐國別の妃が泉媛の可能性がある。豐國別の母の御刀媛は筑紫で生まれた時量師神を祀る姫なのだろう。

神武東征は筑紫から「速吸之門」を通過して菟狹に着いた。関門海峡の近辺には曲浦があり、そこが日根別の速日国である。豊前国の京から南にある「狗奴國」の碩田を討伐する際、速見邑があり、速津媛という女王がいた。すなわち、豊前・豊後は速の国だったようであり、東の「拘奴國」の地域に含まれた。豊と日向を奪われて、「狗奴國」は建日別の国、すなわち、肥と熊襲の領域の国となった。その後、南の「狗奴國」は卑弥呼等によって滅亡し、邪馬壹国には對蘇國、蘇奴國、華奴蘇奴國、伊蘇()國が含まれていた。伊都は伊襲縣主が統治した熊襲、建日別国に含まれた国である。

2024年4月5日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『日本書紀』の始祖神1

『日本書紀』には、「開闢之初」と世界が生まれたとき、神聖の国常立が生まれたと記されている。ところが、「聖」は「ヒジリ」、つまり日本人が肥後をそう呼び、その地域の人々を指す。この「聖」の文字は、『山海經』の聖人に関連づけられるものと考えられる。本来、神には名前を必要とせず、海が神とされていただろう。その後、海の神を祀りアマやシマという名で呼ばれるようになり、海の神は天神と呼ばれた。一方、島の神は霊の「チ・シ・ジ・ヂ」である。島の人々のアイデンティティーが異なるため、異なる神々が信仰され、複数の神が存在するようになった。そのため、『古事記』や『日本書紀』では、「次に現れた神」「次に生まれた神」といった順序が示された。本来、祖神は複数ある必要が無いので、支配と被支配の関係と考えられる。

海は一つだが、複数の島があるので、違う島の住人たちは、ある島を自分たちの島の吾島(アマ)に対して吾汝方の「汝」河(ナカ)州や「汝」河(ナカ)国、彼方の「方」()島と呼んでいただろう。それで、但馬の国の神を「タ」の霊、「タチ」と呼んだ。生命を生み出すのは神である母、その子たちは生まれた土地で育ち、母親を尊重し、孫たちは亡くなった祖母を崇拝し、祖母は神として崇められる。

しかし、海から新しく神が来て、その国の土地に居を構える。元々の国の神である常立に加えて、新たな神も常立だ。新しい常立と既存の常立を区別するため、天と国や岐()と神()などが付け加えられて区別される。大伴氏の祖神の高御産巣日は、天から降った天常立ではなく、既存の国常立を祀る氏族だったのだろう。すなわち、『日本書紀』は「状如葦牙」の『古事記』の「如葦牙因萌騰之物而成神」の宇摩志阿斯訶備比古遲と思われる聖の天常立を消し去った。消し去った人物は『日本書紀』を最初に書いた雄略天皇である。

天常立は天から直通の神で、大伴氏の神の高御産巣日神は海から対馬(昼ヶ浦から?洲藻)そして宗像、三国を経由して高島の神になった。高御産巣日は『日本書紀』では國常立、泥土煮、大戸之道、面足、伊弉諾と続き、天照大神と同世代である。『舊事本紀』では伊邪那岐・伊邪那美と同世代、國常立が「二代化生天神」に対して高御産巣日は「七代耦生天神」の世代である。高御産巣日の名前の履歴書に合致する。

2024年4月3日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『古事記』の祖神4

  天之常立は『舊事本紀』に記述されず、可美葦牙彦舅は記述される。そして、天之常立に替わって、『舊事本紀』に記述されるのが、天祖天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊である。『舊事本紀』には狭土と大戸惑女が記述されているが、狹霧神について記述がない。おそらく、この狹霧神が『舊事本紀』の最初に記述された天祖の狹霧尊なのだろう。『舊事本紀』では、「一代生天神」の神が可美葦牙彦舅であり、美浜の神が物部氏の女系の祖神である可能性がある。美浜近辺には常神(ツネガミ)半島があり、常神社が美浜にもある。常立の生まれた場所のようだ。歴史書において、権力者の祖の神々をどのように位置付けるかが重要であった。

 従って、『舊事本紀』で可美葦牙彦舅と同列に扱われる天御中主も権力者の大連や大臣の姻戚だった可能性がある。葛木氏の葛木襲津彦の妃が阿武郡の奄智君の祖の日向襲津彦の娘で、その母、日向襲津彦の妃が中臣氏だったと私は考えている。日向襲津彦の母は日向髮長大田根、その大田を引き継いだと思われる、大田別の祖の豐門入彦が『舊事本紀』に存在し、安芸に大田別と思われる安芸太田がある。中臣氏の祖は天之(?)「タネ」で、豊門は穴門・長門の事、長門が仲国の発祥地なのだろうか。そして、355年乙卯年三月十五日に崩じた仲国王の帯中日子が葛木襲津彦だったと思われる。川上梟帥から名を譲られたが梟帥は姓で、熊襲日向の津彦、襲津彦が譲られた名だったのだろう。豐門入彦に対して、『日本書紀』と共通する國背()(豊戸別)が火國別の祖、母は()襲武媛で、仲国から分国した日向の王と思われる。97年十月丁酉朔は間違いの日干支で345年がピッタリ当て嵌まる。名を譲られた王が355年崩じた帯中日子だ。 

饒速日は、隠岐の西から船でやって来た。饒速日が祀る神は天祖の「天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊」であり、饒速日はその神の後裔の天孫である。饒速日は日月の国の対馬から降ってきた狹霧尊を祀っている。「饒」は二岐を意味し、若狭と敦賀を併せて二岐と呼ぶそうで、二岐の日別の速の神である。狹霧は、対馬から国を譲られた神であり、対馬「女子国」は二女王が統治し、月神と日神を祀っている。また、「狭」は岬のことのようで、ここでは、多くの岬がある若狭の岬を指すと考えられる。狹霧尊は、対馬から来た天狹霧であり、もともといた国神であるペア神國狹霧は対馬神の後裔の大山津見が生んだ神だ。

2024年4月1日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『古事記』の祖神3

宇摩志阿斯訶備比古遲と同じく「別(こと)天神」、天()神から別れた神が『日本書紀』のみに記される「天之常立」なのだろう。後から支配者になった氏族の祖神を前に置いたと考えられる。「天之常立」の立は但馬の「タ」プラス土地神の霊()だろう。常世の国は「田道間守遣常世國令求非時香菓」と記述される地域である。「時香菓」は高麗橘、済州島原産で、萩に群生する橘の事だ。すなわち、「常」は六合の地域を日本人は「トコ」と言い、済州島は常の「ヨ」の国と呼んだのだろう。そして、天はシナ海、黄海、渤海。六合の島々や日本海南岸の常神半島も常に含まれたと考えられる。

隠岐の最初の住人は木の葉比等であり、彼らは西方千里の地から来たとされる。『伊未自由来記』は昭和初期に作成されたものであり、中国の1里は約400mなので、西方千里はおおよそ200㎞の距離だろう。朝鮮半島までは300㎞と遠く、おそらく須佐の高山岬辺りから、木の葉比等や於佐神も同じ地域から来たのだろう。その後、沖津久斯山祇が後を継ぎ、於漏知が出雲を奪い、隠岐にも到来した。於島の山祇は大海祇の力を借りて戦った。その後、出雲鞍山祇の子である大人様が加須屋の大神祇の援助を受けて王になった。加須屋は「三身國」であり、大国は三身の綱で建国された。大神祇は丹波に居住し、丹波の出雲は「大人國」と呼ばれたのだろう。その後、天津神の御子である美豆別之主が於島を征服した。この天津神の御子は三方の常神半島にいた「宇摩志阿斯訶備比古遲」を祀る鹽土老翁から隠岐へ向かうように命じられたのだろう。

美豆別主は天津神の子で、「久米部・綾部・工部・玉造部の民を率いて来島」したとされている。また、天津神は天の津の対馬を支配していたが、天津神の神子の後裔の大山津見の子の狹霧尊が三子島に降り立った。物部氏の神武天皇の幼名が佐野尊、偶然だろうか。美豆別主は別名で「小之凝呂別」とも呼ばれている。隱伎の三子島の別名は「天之忍許呂別」であり、於島すなわち許呂島の分国である。隠岐の島後には黒島が点在しているが、これが許呂の語源と関連している可能性がある。

2024年3月29日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『古事記』の祖神2

  神産巣日までの三柱の神が身を隠した後、「宇摩志阿斯訶備比古遲」という神が現れた。宇摩志とは、饒速日の子である宇摩志麻遲が住んでいた地域である。鹽土老翁から饒速日に向かうように伝えられたのは、「美地青山四周」の国だった。この国は「六合之中心乎」と六合の中心にある。ここで言う六合とは、黄海から日本海にかけての島々のことだ。この地域は船の交易路でもあり、「聖人能通其道」と記されている。

『海外南経』で述べられる六合は、『海外西経』でも言及される結匈国から隠岐島後の周饒国の東の長臂国までを含む。『海外西経』は結匈国から北に向かって九州北部、壱岐・対馬、朝鮮東岸、肅慎国までを記述しており、このため、六合の道は対馬海流の流域にあり、壱岐・対馬も含まれると考えられる。この中に饒速日の目的地があり、大人国や君子国、生駒は含まれない。六合の中にあるカルデラ地形は隠岐にある。つまり、鹽土老翁が指す「青山四周」は、六合にある隠岐の島前の三小島を指すと考えられる。伊弉諾と伊弉冉は、可美少男と可美少女と言いながら、小之凝呂島で国を築いた。

饒速日の子である宇摩志摩治は、「うま」という地域に住み、そこでは連の原型となる「シマジ」と呼ばれた。美浜と敦賀の境界には馬背峠があり、敦賀側には馬坂峠もある。この地域は最初に「うま」と呼ばれ、後に馬浜から美浜に名前が変わったと考えられる。饒速日が降り立った場所は鳥見で、美浜の近辺には鳥浜や鳥辺島がある。若狭なら船で降ることができ、この点で『日本書紀』のように、空に浮かぶ船から飛び降りるような矛盾はない。

「比古遲」とは、日神の神子の霊で、対馬の下県の日の国神を指す言葉である。「阿斯訶備」とは、日の河神の「あし・吾島」を指すのだろう。名が無い国が自国を「我が国」と呼ぶのは当然のことだ。そして、「宇摩志」は美浜の氏族を指し、美浜の祖神を示しているようだ。つまり、「宇摩志阿斯訶備比古遲」の意味は、昼ヶ浦の神の子が美浜に天降りしたことを表しているのだろう。

2024年3月27日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『古事記』の祖神1

  『古事記』において、最初に「天之御中主」という神が登場する。しかし、仲国を統治する王、仲国主を賜姓する王が登場する前に、中主を記述することになるという矛盾がある。たとえば、「伊都爾支」には上位者として卑弥呼が存在していた。中臣氏が仲国の王となったのは、おそらく南の「狗奴国」を打ち破った時期と推測される。道臣が「豊前国長峽縣」の「京」に都を移し、碩田国を攻める際に初めて直入中臣神が記述された。それにもかかわらず、「御中主」が最初に記述されたのは、『古事記』を完成させたのが藤原氏や中臣氏だったからだろう。このように、祖神を記述する順序は、史書を完成させた時点での権力関係を示している。

次に登場するのは「高御産巣日」であり、この神は大伴氏や葛木氏の祖神とされている。後裔が劔根とされ、神話には葛木氏の活躍が語られ、葛木氏が見つけた劔で国が建国された。「高御産巣日神」は「高木神」とも呼ばれ、高木は高国、高岐、高州を意味し、現在の高島を指すと考えられる。高倉山は『舊事本紀』に菟田の高倉山の頂として言及される。高倉下は熊野の出身なので、葛木氏の劔根やその祖先が高倉山に住んでいたと考えられる。福井県の小浜には熊野があり、熊野神社もある。「若御毛沼」の子である「神八井耳」は意富臣の祖だった。「高御産巣日」は三国から来た人物と考えられ、経歴は対馬の日神から始まり、ム州の胸形を経て三国、更に高島に至ったと考えられる。九州が日別であることから、神霊が生まれた六合の対馬の日神が祀られる昼ヶ浦が「」だと推測される。そして、饒速日は「高御産巣日」の曾孫であり、尾張氏と物部氏の祖だ。

次に登場するのは「神産巣日」であり、ここでの「神」は「ミ」を指し、この神は三国の神と考えられる。『古事記』は大臣の歴史書であり、葛木氏は大臣の国の大国を奪った。そのため、「神産巣日」はおそらく丹波大国を支配した神だったのだろう。出雲や隠岐まで支配していたのは、於漏知を配下に持つ君子国、すなわち三国の王だったと考えられる。『古事記』の「三柱神者並独神」は、畿内を統治した朝廷の逆順で、大神君、次が物部氏、尾張氏を含めた葛木氏、そして藤原氏の順に統治したことを示している。

2024年3月25日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『古事記』の大人國

 『古事記』は、大臣と呼ばれる役職の史書である。この大臣とは、出雲色多利姫の子である出雲醜大臣が初めて登場する役職である。「食国政大夫者今大連大臣」という表現は、大臣が食国(隠岐)の一人しか居ない重職にあることを意味している。大夫という役職の最初の登場は天日方奇日方であり、それは大神君の祖である。天日方奇日方は、大国主の上に立つ大神の起源であることを示している。大国の神と三()国の神を合祀した神が大神と考えられる。また、宇摩志麻治も大夫として記述されており、彼の子は大祢であり、大国の禰宜(祭祀を司る役職)だった。「侍臣奉齋大神」とは、大神の筆頭の配下を指す言葉だ。その大祢から大臣、更に大連にその権威が遷った。

出雲醜大臣が大臣の地位を得たのは、出雲色多利姫の出自である出雲氏からだった。出雲の鞍山祇之大神の子の沖津久斯山祇が隠岐王になり、出雲氏は隠岐王の筆頭の地位にいた。この当時の出雲は、現在の島根県とは異なる。「出雲國多藝志之小濱」という表現で、但馬の小浜と記されている。「志」は島や村の長を意味すると考えられ、藝志は国の志、すなわち、連を指す可能性が高い。

大国主が追放された後、出雲氏らは島根県の出雲に移住した。『丹波国風土記』によれば、亀岡の出雲神社から大国主を出雲大社に遷したとされている。このことから、現代の出雲大社は当初、大国主のために建てられたものではなかったことがわかる。

『山海經』によると、大人国は南から東北に向かって砂丘の次に大人國があり、その次に君子國があるとされる。君子國は三国であり、さらにその北方には「兩水間」と半島にある「八首人面八足八尾」の八岐大蛇の国が存在する。ここでの大人國は丹波の大国を指すと考えられる。大人を「ウシ」と呼ぶが、これは、多藝志が多国(但馬国)の連を意味したように、主人や大人は宇津の連を意味すると思われる。つまり、宇津(大津)の国王を指すものと考えられ、大臣の祖が大津王だったことを示している。大津王の宇都須山祇は大人様の親の家系で、後の大臣のことと考えられる。

2024年3月22日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 天種子

  『日本書紀』允恭七年の項に、中臣烏賦津使主が中臣氏として最初に登場する。その後、中臣常盤は自身を大連と称し、つまり天皇と同等と系図で述べている。彼は後の欽明天皇となる蘇我氏との戦いで敗北し、連となった大漢国王だったと思われる。中臣氏は大漢国で天皇と同等の大連を自称した可能性がある。

天種子は神武天皇が東征で菟狹津媛を妃に迎え、菟狹王となった。そして、天種子らは安芸(豐秋津洲)に向かい、高千穂宮の皇子である日臣が瀬戸内の道臣、そして豊国王になったと考えられる。しかし、日臣は日向に逃れたか、遷都して、おそらく、中臣氏がその後を埋めたと思われる。

西暦200年二月には中臣氏は連を賜姓されていた。その後、三月には使主(中使主)を姓にしており、この時期に大伴氏が卑弥呼に追われ、中臣氏が彼女に従ったことが示唆される。

西暦57年、倭奴王が『漢委奴國王』の印を授けられた。その後、「倭国者古倭奴国也」と倭奴の地域は後に倭国と呼ばれるようになった。倭国に侵略された際、筑紫の皇子である日臣は高千穂宮にいた。そして、天種子、日臣、珍彦と共に新転地へ向かうため、東の「拘奴國」と戦い、南の「狗奴國」へと追いやったと考えられる。天種子は天の「田根子」、大田田根子と同地域の但馬出身の神子だったと思われる。

『日本書紀』には、大国主が大国から追い出される話がある。この話に登場する人物のうち、建甕槌は、出雲臣の娘である沙麻奈姫の子であり、出雲臣の皇子と考えられる。大国主は葦原中国から追い出された。仲国は「豊葦原中国」とあるように、豊国の一部である。建甕槌の子供は「豊御氣主」で、『古事記』の中の「豐御毛沼」と類似している。豊御氣主の後裔には、妃が記されない大友主君という人物がいる。漢字の無い時代は、大伴との区別ができない。その為、大友主君の妃は日臣の娘である可能性が高いと考えられる。豊御氣主の孫は和迩君の祖で珍彦は曲(ワニ)浦の出身である。また、室屋の父が山前、祖父が豊日であり、豊日は豊国の日使主()と呼ばれたのではと思われる。神武天皇の東征メンバーの系図である。

2024年3月20日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 中臣氏

  『古事記』によれば、最初の神は「天之御中主」であり、天降った三国の配下の中主だった。不思議なことに、神でありながら「仲国王」(Chinaと区別のため)と呼ばれ、さらに主は官位で上位者が存在したと思われる。中臣の上位者は大臣、中主の上位者は君子国か周饒国と思われる。一方、『日本書紀』には中主の名前は記載されていない。この史書は、森博達によれば、安康紀以前は漢文に詳しくなかった人物が記述した可能性がある。同じ王朝内であれば、その王が理解できる言葉で記述されるはずである。したがって、『日本書紀』は継ぎ接ぎの史書であり、その神話は雄略朝の人々によって記述されたものであると考えられる。その為、「天之御中主」を祖に持つ氏族は雄略天皇の有力な氏族ではなかった可能性が高い。

雄略天皇は葛木氏の市邊押磐皇子や圓大使主(大臣)を排除して皇位に就いた。彼は臣に使主の文字を用いた人物で、漢直や倭王の阿知使主、都加使主は、大伴氏を豊國や日向に追い出した氏族だ。雄略天皇は漢直を排除し、東漢直を使っていることも記されている。さらに、物部氏の日觸大使主を倒し、物部氏から大連を奪った。紀氏の根使主は大草香皇子の皇位の璽の玉縵を奪った逆賊である。

物部氏が書いた『舊事本紀』では、祖神の中で狭霧尊が特別視され、他の神である天御中主尊と可美葦牙彦舅尊も「一代倶生天神」として同じくらいの扱いを受けている。しかし、この記述で注目すべきは、狭霧尊は物部氏が祀る大神であり、当然のことと言えるが、天御中主尊と可美葦牙彦舅尊はこの記述以外には一切登場しない。つまり、最初の神が全く現れない神話は、本来の神話とは言えない。実際には、物部氏が記述した神話は、物部氏の祖神の饒速日から始まる神話に、天皇や藤原氏の祖神を追加したものであると考えられる。

2024年3月18日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本

  人々は、山や海、木などの生命を生み出す自然と生命を生み出す生物や母を同化して信仰の対象としていた。一つの家族だけが住む場合、それらに特定の名前を付ける必要は無かった。しかし、他の家族と出会うと、お互いを識別するために神の「マ・ミ」に「吾マ」や「汝ミ」という名前が付けられたと思われる。同じ地域に住む人々は、自分の土地の「ア」の地と他方の土地を「ナ」の地と区別した。

新しくその地域に住み始めた氏族は、通常、外部から来た男性がその土地の女性と結婚してできた氏族である。そして、娶った女性の氏族も同じ地名「汝」の人々であったため、区別できなかった。海から来た氏族は、神を呼ぶときに「天」や「ミ()」という言葉を付加し、元々の氏族は「国」や「キ()」を付加して呼んだ。例えば、「伊邪那美」と「伊邪那岐」や「天之狹土」と「國之狹土」などである。古代の情報が十分に流通していなかった時代では、人々は津や門、泉などの地形や環境に基づいて呼ばれることが一般的だったであろう。

交流が始まると、勝者の神々には名前を付けるためのルールが存在した。武力で征服された神々は、征服者の神と合祀習合され、征服者の神の名前に置き換えられた。一方で、対になる名がある神々は平和的に共存した。獨神は征服した神であり、征服した神は出身地域の名前、つまり神名を持ち込んだ。例えば、天照大神は日本を征服した大国が、天神と照神を合祀した神と考えられる。神名は歴史的な背景を持ち、それぞれの名前には特別な意味が込められていた。

例えば、牟遲は胸形の国神の霊を指し、津見は津の神、椎は津の霊を表す。海から渡ってきた津に移住した神が津見(神)と考えられる。神々の名前は、彼らの出身地や移住先を示しており、地名や神社の名前は古い地名を伝えていると考えられる。

2024年3月15日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本の神話構造

『日本書紀』は大倭根子を、『古事記』は大臣を、『舊事本紀』は大連を扱った歴史書である。『日本書紀』には天智天皇が天命開別天皇と記されている。しかし、『續日本紀』では天智天皇を近江大津宮御宇大倭根子天皇、淡海大津宮御宇倭根子天皇としている。ここでの「倭根子」は『続日本紀』の天皇の称号である。即位時の天皇は、「現御神大八嶋國所知倭根子天皇」と記述されており、このことからも明らかだ。『續日本紀』を記した桓武天皇は天智天皇の末裔であり、そのため天智天皇に「倭根子」の称号を与えたのだ。『日本書紀』を書いた藤原氏は、天智天皇の家系から皇位を奪ったため、倭根子の称号を与えなかったと思われる。

倭根子の称号は、日子賦斗迩、日子国玖琉、日子大毘毘、小碓の弟、白髮に限られている。これに代わって出雲色、出石心、瀛津世襲の大臣たちが登場した。葛木彦や尾張連の祖の羸津世襲、そして尾綱根などがその中に含まれる。尾綱根は意乎巳連(大臣連)の父であり、崇神朝では伊香色雄大臣から武諸隅大連と、以後、大臣の代わりを大連が務めた。白髮は、大伴室屋大連と平群真鳥大連の2人の大連の対立の結果と見られる。

『日本書紀』の安康紀までは、大伴氏と葛木氏を中心にした記述である。葛木氏の政権参画の祖は「葛木土神劔根」であり、その劔根の娘である賀奈良知姫と尾張氏の天忍男が婚姻し、羸津世襲が生まれた。「羸津世襲命亦云葛木彦命尾張連等祖」ということで、葛木王は尾張氏と意乎巳(大臣)連の祖でもある。『日本書紀』には大伴氏、葛木氏、尾張氏に関する神話が記されており、物部氏は補助的に扱われている。

雄略朝には倭根子の存在がなく、代わりに大伴氏が大連になった。大伴氏が最高権力者のため、『日本書紀』の最初には大伴氏に関する神話が掲載されていると考えられる。そして、『舊事本紀』は物部氏と大伴氏、そして葛木氏の系統を継ぐ蘇我大臣によって編纂され、最後は藤原氏の時代に完成されたため複数の神話が並列して記述された。『古事記』は葛木氏と巨勢氏によって記され、後に藤原氏によって編纂された。大臣の神話よりも藤原氏の神話が先に記されている。『日本書紀』の一書を見れば、複数の氏族による神話が存在したことが明らかである。異なる氏族が同じ神話を伝えたために、いくつかの差異が生じた。しかし、共通部分は、異なる氏族であっても、主要氏族との姻戚の関係があったため、神話も相互に影響し合っていた。日本の朝廷は皇太后を祀る政権だったのが、その理由である。

2024年3月13日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 朝鮮

  高句麗の始祖である東明聖王の両親は不明な人物である。『三國史記』を記述した高麗にとって、彼が東扶余の王になったことが重要だったのだろう。『史記』と同様、都合の悪いことは曖昧にされる。たとえば、東明聖王が辰人や倭人である可能性があるということを避けた。もし箕氏が扶余人であれば、それを誇りにして記述しただろうが、そうでなかった可能性があるため、書かれていないのかもしれない。

『後漢書』には、「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」と記されている。これは、義熙九年(413年)まで、現代の朝鮮の北に位置し、扶余の南にあり、箕子朝鮮や衛氏朝鮮とは異なる国であったことを示している。その後、高句麗は百濟とともに国として認められ、「都督營州諸軍事征東將軍高句驪王」と呼ばれるようになった。広開土王は領土を広げ、倭に勝利し、畿内政権との融和を果たしたことが、これらの結果の一部であると考えられる。

新羅の始祖は赫居世居西干とされている。彼は辰韓六部の高墟村出身で、「大卵剖之有嬰兒出焉則收而養之」という伝承では両親が不明である。高麗政権にとって、彼の両親の情報が解明されることは都合が悪かったのかもしれない。辰韓は辰国の末裔であり、中国語を話す秦の末裔とも記述するが、彼らは中国語でも扶余語でもない不明な秦語恐らく辰語を話していた。辰韓は「馬韓割東界地與之」と馬韓が割譲した東界の地を領有しており、高句麗と同様、扶余人ではないことが分かる。新羅王の名前は「辰人謂瓠爲朴以初大卵如瓠故以朴爲姓」という辰人の伝統に基づいて命名された。辰韓が辰人の国であることから、このような名前が付けられたのは当然のことだった。

百濟の始祖である溫祚王は、扶余の王だった。彼の父である鄒牟朱蒙は、「自北扶餘逃難」という不明な国から北扶余に逃れてきた。「扶餘王無子只有三女子・・・以第二女妻之」と鄒牟朱蒙は扶余王の娘と婚姻し、王位を継承したが、「北扶餘所生子來為太子」という北扶余の子である來が太子となり、溫祚王は十人の臣下とともに馬韓に逃れ、漢江の南に住む馬韓の王となった。朱蒙の出自や母親の名前は分からないが、彼は扶余出身の王であった。

高麗王朝によって公認された『三國史記』では、箕子朝鮮や馬韓、辰韓については記述されていない。その代わりに、『三國遺事』では箕子朝鮮の代わりに扶余の神子である檀君の朝鮮が記述されている。これは高麗王家の神話である。

2024年3月11日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 朝鮮の檀君

朝鮮の古代に関連する書籍としては、一般的に『三國遺事』が有名である。一方、古い内容のある、『桓檀古記』は在位年が詳細に記されており、神話的ではない。記録としては、中国の歴史書には周武王の時代から干支が記録されているが、それ以前の帝堯の時代にも年の概念が存在し、干支の記録があった可能性がある。

『三國遺事』には「受圖籙」という図や記録を受け継いだという記述があるが、具体的な証拠は見つかっていない。また、この書では漢の劉邦が三国の始祖とされているが、「沛公自此而降豈可殫記然則三國之始祖」という記述には「此紀異之」と疑問符が付けられている。

檀君王險の説話は、『三國史記』には触れられてないが、これは『史記』の黄帝の話と同様である。つまり、高麗の始祖である神の檀君が馬韓以前に挿入された可能性が考えられる。

『三國志』によれば、「高句麗東夷舊語以爲夫餘別種」と高句麗は魏朝以前の時代には扶余とは見なされていなかったことが記されている。つまり、これ以前の朝鮮は扶余ではない別の民族の国だったということだ。

檀君は旧の燕の領土に属する扶余の人物と考えられる。彼は檀雄と熊氏の娘の子であり、王の地位に就いたとされる。一部の文献では『魏書』にその記述があると言われているが、実際には存在しない。その代わり、高句麗を支配した毌丘倹が王儉である可能性がある。毌丘倹は山西省の出身であり、沛公の首都が西安に近いことからも関連性が考えられる。『桓檀古記』は、毌丘倹を檀君に変えて、古代朝鮮から高麗時代までの歴史を記述したと考えられる。

同様に、『三國遺事』も箕子朝鮮に焦点を当て、その首都が平城にあった後、韓地の白岳山に遷り、馬韓となったとされている。「信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君」とあるように、馬韓の王はおそらく天君と考えられる。ここで言及されている信鬼神の鬼道は、天神を祀ることだろう。鬼国は西周の東方に位置し、遼東半島北部にあったが、後に燕によって滅ぼされたようだ。鬼道というのは、この鬼国の神を祀ることから来ているのだろう。箕氏朝鮮の箕は、日本語では鬼と同じ音である。『伊未自由来記』の木の葉比等は箕爺と呼ばれ、これが偶然ではないと考えられる。

2024年3月8日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神々たち

  「南山經」に、招揺之山の近辺の十山には「鳥身而龍首」と鳥の身体を持ちながら龍の首を持つ神がいた。同じく、十七山に「龍身而鳥首」、十四山には「龍身而人面」と龍神がいた。龍神は黄帝の同族の神であると考えられる。山東半島周辺には四十一柱の神々が存在しており、これらは『山海經』で最初に記述されている。したがって、この地域が中心とされるのは当然の結論だ。その中には黄帝が含まれていたと思われる。農耕民族にとって、耕す土地毎に神が存在すると考えられる。

「西山經」には、十神が「人面而馬身」、七神が「人面而牛身」、その他二十三山に「皆羊身人面」の神がいた。「北山經」にも、二十五山に「皆人面蛇身」、十七山に「皆蛇身人面」、廿神が「馬身而人面」、十四神が「皆彘(?)身」、十神が「皆彘身而八足蛇尾」という神がいた。渤海に面すると考えられる「東山經」には、十二山に「皆人身龍首」、十七山に「皆獸身人面」、九山に「皆人身而羊」という神がいた。「中山經」には九山に「人面而鳥身」、九山に「皆人面獸身」、十九山の十六神が「皆豕()身而人面」、二十三山に「皆鳥身而人面」、十六山に「皆馬身而龍首」、九山に「皆龍身而人面」、四十八山に「皆彘身人首」、十萬山に「皆鳥身而龍首」という神がいたと記述する。十萬山とあるように、山は氏族や部族ではなく、家族単位の集まりの狩猟民の可能性が高い。馬牛羊鳥などを神聖視していたようだ。

「山經」に対して「海經」では女子國、二八神、昆侖之虛、女媧之腸の4地域以外、国毎に1神である。人が集まって住めば、その地に神が一柱存在する。複数の家族が協力するため、指導者が必要になり、氏族となって神が生まれる。一神教とは異なり、土地ごとに異なる多神の信仰である。それに対して、狩猟民族は個々人が其々神を持つので、集団になると神を崇拝するのではなく、預言者や教祖を尊敬して、教祖の神が唯一無二の神となる。

春秋戦国時代には多くの朝廷が興亡した。これらの朝廷には伏羲、女媧、燧人、神農、炎帝、天帝などの神々が信仰されており、これらの神々は「山海經」に含まれているのだろう。現代でも天照大御神が信仰されるのは、現代の朝廷の神が天照大神だからだろう。一方中国で、天帝や黄帝が信仰されないのは、漢などの朝廷が滅んだからだと考えられる。北方の狩猟民族が中国や朝鮮を支配したため、神ではなく、儒教の孔子のような教導者が尊敬された。

2024年3月6日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 中国王朝の祖の帝嚳2

帝嚳は「帝嚳高辛者・・・高辛生而神靈」というように、神格化された存在として描かれている。また、帝堯もまた「其仁如天其知如神」と記述され、神のような存在とされていますが、実際には神ではなく、神のような人間であるとされる。一般的に、神はある特定の氏族や部族にとって唯一無二の存在とされるため、黄帝や帝顓頊も、帝嚳の末裔にとっては他の氏族の神と見なされる。実際、帝嚳の宮殿は「海内北經」に記述されており、渤海の王の祖とされ、山東半島の天民の王の天子ではない。

殷や周も帝嚳の妃の末裔を自称しているが、帝嚳と血縁関係があるわけではない。『山海經』には、黄帝の子が駱明、孫が鯀、曾孫が夏禹と記されているが、帝嚳の血統に関する記述はない。中国では、神の子である場合、彼らは神ではなく、神子として天子と呼ばれる。つまり、神と神子、または神と人(氏族)との関係があるが、本来、神には親子関係という概念はない。むしろ、それは人と人、氏族と氏族の支配や被支配の関係に親子関係が適用される。

したがって、「生而神靈」という記述は、実際には国々を統一し、被支配国の神を配下に置いたことを示している。一方で、黄帝や帝顓頊は他の氏族の神と思われる。帝嚳の氏族が黄帝の氏族に敗れた結果、黄帝の4番目の曾孫として位置づけられた。そして、神霊を生むことは、国を支配したことを意味する。帝嚳の子である帝堯が「其知如神」と記述されるように、帝堯は『史記』にとっては初代の天子と見なすことができる。

帝嚳が黄帝の曾孫であるということは、おそらく、漢朝の祖神が黄帝の後継者であると主張していることを意味する。殷と周は帝嚳の末裔であり、天乙の統治下で、殷の武乙が天神を祀って無道とされ、それが殷の衰退につながったと考えられる。天神は天帝を意味し、黄帝の末裔であるにもかかわらず、天帝を祀ったことで、黄帝の神罰が下ったと示されたのだろう。

秦の始皇帝が皇帝(huáng dì)を名乗ったのは、同音の黄帝(huáng dì)の末裔であるとの主張があったためと考えられる。しかし、秦始皇帝より前の王朝は、黄帝は神ではなく、天神の天帝の子の天子であると記されている。

2024年3月4日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 中国王朝の祖の帝嚳1

  周の初代の王である后稷は、帝嚳の元妃である姜原の子供である。しかし、『山海經』には「帝俊生后稷」という記述があり、これは帝俊の子であると示している。これは『史記』とは矛盾する。『史記』では、巨人の足跡を踏んだことで妊娠したという話が伝えられている。漢朝にとっては、中国の天子は黄帝の子孫でなければならないという主張があるため、この事実は不都合になる。

帝俊はまた、帝嚳の別名とも言われていて、帝俊の子の帝鴻が「黄帝と同一人物である」という説も関連がありそうだ。もし説が正しいとすれば、帝俊の子である帝鴻(黄帝)が、曾孫の帝俊(帝嚳)として描かれることになる。このように誰彼となく、同一人物とする手法は論理的とは言えない。神に親子関係を持ち込み、その親子関係も矛盾だらけである。

『史記』「三皇本紀・帝舜」の項では、后稷は夏禹や殷契と同じ時代の人物とされている。しかし、后稷の15代後の周武王は初代周の王とされている。つまり、后稷は殷の最後の皇帝の帝辛の15世代前の天乙と同じ時代の人物であることになる。しかし、『山海經』には「西周之國」という記述があり、これは后稷の父である帝俊が帝嚳の神話の時代に存在したことを示唆している。これが、「帝俊は帝嚳の別名」説の裏付けなのだろう。

后稷は農耕を始めた英雄と記述しており、彼の弟である台璽の子である叔均は「西周之國」の王とされ、西周が最初の国と記述されている。勿論、中国は天子の国なのだから、それ以前に天子が支配する天民の国が存在している。『史記』に従うと、殷の帝嚳妃簡狄から周武王に朝廷を奪取されるまでの間には30代の世代が存在するが、これは周后稷からの同じ『史記』の記録と矛盾する。現代も古代も生物学的に出産適齢期は変わらない。平均すれば、20歳頃に生まれて、世代差は20歳程度となる。兄弟相続が有れば、差が5歳程度あるだろうが、兄の早逝で子が成人していないから起こるので、世代差はそれ程開かない。それは、結局、先代の長男の子が相続することからもわかる。

2024年3月1日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神話の継承

帝俊の子の帝鴻が黄帝とする説がある。しかし、日本人には同じ「コウ」と読めるかもしれないが、現代の中国人は「鴻」が「Hóng」、黄が「Huáng」と微妙に異なり、同一人物とは考えないだろう。中国の古代でも、文字が異なれば、微妙にニュアンスが違う。それでなければ、聞き取って文字が書けないこともある。そして、同一文書内に同一人物の文字をかき分けることは考えられない。また、黄帝は「姓公孫」と公孫氏、帝鴻は「帝鴻生白民白民銷姓」と銷氏とされる。

「海外南經」には「六合之閒四海之・・・神靈所生・・・唯聖人能通其道」と記されている。黄帝と帝嚳は「生而神靈」と神霊を生む神になった。帝堯は「其知如神」と人間で神のようだと記述されている。帝顓頊は「依鬼神以制義」と鬼道で治めた。つまり、帝堯と帝顓頊は神ではなく聖人であると言えるだろう。帝堯は「海外南經」「大荒南經」「海内北經」「海外東經」に記されている。六合の住人であり、羲和も「東海之外」、「東南海之外」と黄海やシナ海に近い地域に住んでいた。彼らは六合を行き交う聖人と言える。また、黄帝と帝嚳は神霊であるため、六合で生まれたと考えられる。帝嚳の宮殿は「海内北經」の渤海沿岸にあり、埋葬された場所は「海外南經」と「大荒南經」の交わる場所で、関門海峡と考えられる。古代は生まれた場所に埋葬されることが多いと言う。

殷の初代の殷契は、「玄鳥墮其卵簡狄取吞之因孕生契」と玄鳥が卵を落とし、簡狄がそれを取って食べ、それで孕み、契が生まれたとされている。彼は帝嚳の子ではなく、帝嚳の妃と玄鳥の居る地域の不明な人物の子のようだ。「幽都之山黑水出焉其上有玄鳥・・・有玄丘之民有大幽之國」と玄鳥は大幽之國に居た。その後、14世代後に初代殷帝とされる天乙が現れる。夏帝の禹と夏后は殷契と同世代であり、その12世代後に帝履癸が夏帝に即位し、「湯乃踐天子位」と湯に天子の位を譲ったと記されている。禹の系図には兄弟相続も2回有り、帝位は14世で、世代的には矛盾がないようだ。

2024年2月28日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 漢の神

  帝顓頊は「黃帝之孫而昌意之子也」と記述する。さらに、帝嚳は「黃帝之曾孫也高辛父曰蟜極蟜極父曰玄囂玄囂父曰黃帝」と記述する。すなわち、帝顓頊の父は昌意と記述され、少昊ではない。しかし、『山海經』では「少昊之國少昊孺帝顓頊于此」とあるように、帝顓頊は少昊から少昊之國を譲られる。項目の初出の顓頊に帝を付加しないのは、奇異で、孺帝ではなく、乳飲み子の帝顓頊だろう。神格である孺帝なら帝孺と記述するべきだ。帝顓頊の系図は帝嚳に比べて曖昧だ。帝顓頊らは天子なのだから、最高神は天帝である。

 帝堯は朝廷で70年間統治後、帝舜に「令舜攝行天子之政」と政治を任せた。28年後、堯朝は崩壊し、「中國踐天子位焉是爲帝舜」と帝舜が天子に即位した。帝舜は、黄帝、昌意、帝顓頊、窮蟬、敬康、句望、橋牛、瞽叟、そして帝舜の黄帝から9世代の子孫だった。一方、帝堯の系図は黄帝、玄囂、蟜極、帝嚳、そして帝堯の4世代だ。この5世代の差は、約100年に相当する。堯朝が98年間続いたことと整合的である。ここで、帝堯が90年以上帝位にあるのは考えられない。これは数代の帝堯の存在を意味する。その後、「舜乃豫薦禹於天」という記述があり、帝舜は56年の在位期間で禹に天子位を譲った。夏禹は黄帝、昌意、帝顓頊、鯀と継承した鯀の子で、そして、帝堯と同世代である。『山海經』には「黄帝生駱明駱明生白馬白馬是為鯀」と記されている。黄帝5代目の夏禹が9代目の帝舜から天位を譲られるのは矛盾している

 すなわち、帝舜は天帝の末裔であり、夏禹は黄帝の末裔と考えられる。『史記』においては、夏朝も漢朝が龍神である黄帝の子孫の立場としている。しかし、『山海經』には帝顓頊の子孫である帝舜の祖である窮蟬の記述は無い。帝舜の母親についても記されていないが、帝舜は姚姓であることが知られている。姚姓は『山海經』に「帝俊妻娥皇生此三身之國姚姓」と記されており、帝俊の子孫である可能性が高い。帝堯は羲和に歴法を制定させた。「羲和者帝俊之妻」という記述から、帝俊の妃である羲和の子孫であると考えられる。帝俊は三身国王を生み、孫の義均は「是始作下民百巧」と100の技術を考案した。また、「舜子商均」という記述から、帝舜の子である商均も同様に均と名付けられている。商は殷のことである。ただし、帝舜と帝俊は発音が異なり、帝舜は帝堯よりも後の世代に位置し、帝俊の孫は帝堯と同世代である。帝舜は義均の子孫なのだろうか。

2024年2月26日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天帝

 


 

后稷は『山海經』に「帝俊生后稷」と記述されているが、『史記』には帝俊の記述はない。劉邦は「太公往視則見蛟龍於其上」と述べ、龍神の化身であるとされている。また、『南山經之首』には「神狀皆鳥身而龍首」と記述され、この龍神の化身が劉邦と思わせている可能性がある。「糈用稌米」という記述から、米があり、糈を供えて祀っていたことが分かる。『史記』は漢朝の史書であり、最初に黄帝を記述するのは、龍神が黄帝の化身であるとされているためだろう。黄帝は苗龍の親であり、應龍に冀州の野を攻めさせた。周朝の祖は后稷だが、その父である帝俊は記述されていない。帝俊は晏龍の父の龍神でもあり、周朝の始祖を黄帝に書き換えた可能性がある。それは、黄帝の八代後にあたる帝舜と、四代後にあたる夏禹が同時に記述されていることから、矛盾が生じているからである。中国では皇帝を天子と呼ぶことがあり、神である天の子と言い、帝は神であると考えられ、日本の天神と同様の意味を持っている。

『山海經』の冒頭は『南山經』であり、そこには龍神が存在している。この『南山經』には「西海之上」、「會稽之山」、「天虞之山」という地名が記されている。これらは東シナ海に面した地域で、天子が生まれた天民の国が存在した場所と考えられる。次に登場するのは「西山經」で、ここでは「玉山是西王母所居也」と記述されている。これは西王母が住むとされる場所であり、古代に月支国近辺にあった湖の沿岸だった可能性がある。また、『海西經』でも最後に西王母が言及されており、「西南陬以北者」と揚子江から上流と示唆されている。

西王母が住む玉山から50㎞西に「長留之山」があり、少昊が住んでいた。少昊は「少昊孺帝顓頊」と記述されており、帝顓頊の父であり、大壑に子供を置き去りにした。「長留之山」の西80㎞には天山があり、「英水出焉・・・實為帝江也」という記述がある。この場所は天帝の川が流れ出す場所とされている。中国人も日本人も神は海や川、生命が生まれる場所であると思っていると考えられる。さらに、西王母が住む「玉山」から東に60㎞離れた場所に「槐江之山」がある。その文末の「有天神焉其狀如牛而八足二首馬尾其音如勃皇見則其邑有兵」という記述は、天神が軍隊によって王となった牛の化身である皇帝、天帝を表している。神霊が生まれた場所は「六合」と『山海經』は記述している。「六合」は黄海・シナ海・渤海・日本海南部・東部のことと考えられる。この天神は東王父・扶桑大帝なのだろうか。扶桑は鳥取砂丘から北の日本海東部を記述した『海外東經』の「湯谷」の北に位置している。天神の天帝も「六合」で生まれたと考えるべきだろう。

2024年2月23日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神話から歴史へ

  史書にとっての神話は、記述した王朝の拠り所となる神の説話で、氏族によって祖神は異なる。『史記』での「五帝本紀」の黄帝、帝顓頊、帝嚳までが神話と考えられる。これは、その後の帝堯の説話に、例えば「八月西巡狩十一月北巡狩皆如初」とか、「堯立七十年得舜」といった具体的な時期が記述されているからである。これらの時期が記録されていなければ、帝堯の統治がいつ始まり、いつ行われたのかがわからない。

帝堯は、「命羲和敬順昊天數法日月星辰敬授民時」と、羲和に対して歴法の制定を命じた。これは、年や季節、月、日を決め、特定の日付を記録する必要性があったためだろう。農耕が始まり、特定の時期に特定の農作業を行う計画が必要だったからだ。そして、その経験を活かすためには、記録が不可欠だった。中国では、ちょうどその頃に甲骨文字が使われていた。甲骨文字は殷の遺跡から発見されたが、おそらく帝堯の時代には文字が既に使用されていたと考えられる。もちろん、文字は骨や甲羅にだけ刻まれていたわけではないだろう。限られた量しかない甲骨ではなく、竹簡や木簡にも記録され、束ねて保存されていただろう。束ねる際には順序を考慮しており、そうでなければ記録として機能しないからだ。甲骨に文字を刻むことができたのなら、竹や木にも同様に刻むことが可能だったと考えられる。

神話の『山海經』には、「帝俊生后稷・・・稷播百榖始作耕」と記述され、農耕は后稷が始めたとされている。また、「稷之孫曰叔均始作牛耕」ともあり、牛耕は叔均によって初めて行われたとされる。「西周之國」の王の叔均は、帝嚳の元妃の子であり、帝堯と同じ時代に農耕を始めた人物だ。「叔均乃為田祖」という記述からも、田祖とは農業の神である神農氏の可能性が高いと考えられる。しかし、『史記』は叔均には触れず、神農氏や后稷に項を設けていない。漢朝にとって、あまり意味のない神なのだ。

『山海經』には「有都廣之野后稷葬焉 ・・・膏稻膏黍膏稷百榖自生」と記され、后稷が亡くなるまで、自生した稲を食べた。稲を粉にして餅状の糈を作り、「皆用稌糈米祠之」と神に供えられたとされる。糈は調理せずに提供されたようだ。

また、后稷と叔均は叔父甥と関係が深く、叔均は黄帝の子の魃(バツ)に命じて、「令曰神北行先除水道」と北方に行かせ、水路を止めさせた。黄帝と后稷が同じ時代の人物であることが示されている。

后稷は周朝の始祖とされ、その周王朝は天帝の帝嚳から天位を継承したと主張する。しかし、黄帝の末裔であると主張する漢が天位を取り戻した。漢は正統な天帝の継承王朝であると主張している。周と漢は祖神が異なるからである。『史記』は漢朝の主張を記述した書であり、都合の良い神話を記述し、都合の悪い神話は省略されている。『山海經』も中国人にとって都合の良い神話だが、それでも利害関係が少ない遠交近攻の時代の書である。遠方の内容は信頼できる。

2024年2月21日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭国3

  『薬師寺東塔の擦管』には「庚辰之歳建子之月以中宮不悆」と記されており、これが中宮天皇の崩御時期を示している。680年、天豊財の崩御で、天智が完全な最高実力者となった。同年、天武九年十一月四日に、「高麗人十九人返于本土」と高麗に帰った。「是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」と、天豊財の葬儀に参加していた者が帰国を20年延期したと記されて奇異である。「建子之月」は11月と合致し、葬儀は十一月四日にあったのだろう。天豊財中宮天皇の葬儀の為の大和への弔問で、帰国記事を葬儀の日付に記述したのである。

高麗使節は斉明天皇六年七月に乙相賀取文が帰国後、天智天皇五年正月に能婁が来日、そして六月帰国以外無かった。高麗滅亡後は帰国しない使節があったが、亡命者の可能性が高い。葬儀に参列した使節が実際に帰国したのは681年、天武十年五月に「高麗卯問歸之」として帰国した。この葬儀の使節の日本訪問は、「遣・・・朝貢」の為の、680年の天武九年五月の「高麗使人卯問等於筑紫」の訪日である。この時期は、筑紫都督のもとに首都が在り、「饗高麗客卯問等於筑紫賜祿有差」と饗応も俸禄も筑紫で行った。

饗応場所の記述がある、天武天皇元年から持統六年まで31回ある。本来饗応場所は決まっているので、記述する必要が無い。しかし、その中の19回が筑紫、飛鳥寺が4回、難波舘が2回と、筑紫が圧倒的だ。しかも、中宮が生存中は筑紫以外で饗応していない。これは、この間天皇が筑紫に滞在した、筑紫が首都だったと考えられる。そして、中宮死後、天皇が畿内に戻ったと考えられる。晩さん会は王が出席することに意味がある。王が出席しない晩さん会を、史書に記述する意味が無い。出席できなかった持統四年には、饗応するよう命じている。

『日本書紀』は77%の朔の日干支が合っていた。もちろん、その77%のうちには23%の間違いの可能性もある。史書は、記述する政権に都合の悪い部分は記述しない傾向がある。足りない情報は他の資料と組み合わせることで補完した。しかし、説得力を持たせるための日付によって、矛盾が生じた。古代には日付を精密に算出することができなかったが、現代では可能である。私たちは複数の資料から朔の日干支を証拠に正確な歴史を示すことができるようになった。そして、この他文献との対比によって新しい歴史を示すことが出来た。

2024年2月19日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭国2

『日本書紀』には、650年から670年まで、「即位未幾」や「」で崩御した天皇は存在しない。孝徳天皇の在位は大化と白雉の10年、斉明は7年、天智も10年である。また、短命政権の5年在位の崇峻や2年の用明にはそのような記述がない。しかし、『家伝』には、「俄而崗本天皇崩」、「俄而天万豊日天皇已厭萬機登遐白雲」という記述があり、崗本天皇と天万豊日は短命政権であることが示されている。95%以上が正しい『新唐書』と77%の『日本書紀』、『新唐書』に優位性がある。

『日本書紀』も、存在しない孝徳元年から孝徳十年を記述できないため、白雉年号を使用した。そして、白雉だけでは足りないため、大化年号も使った。この時期の『日本書紀』を記した際、唐も大化の天皇や元正天皇にとっても、蝦夷と入鹿の統治の痕跡を残せなかったのだろう。倭国は670年文武王十年十二月に、「倭國更號日本」と国号が変わった。

648年以降、東夷伝に倭国は記載されない。史書は利害に関わるため、歪めて記述されることがある。従って、利害が無い中国史書や朝鮮史書の日本像が『日本書紀』より正しいと考えられる。逆に、書かれなかった部分には、正しい史実が隠されている可能性がある。書かれなかった蝦夷と入鹿の歴史は、『家伝』の短命な2天皇の間にあった。

『家伝』は俀国、後の日本国の皇統を記述していると思われる。そのため、崗本天皇は智奴王、「崗本天皇崩皇后即位」の皇后は吉備姫と考えられる。「後崗本天皇四年」は俀王の天万豊日の年号と考えられる。664年6月の乙巳の日晦日に郭務悰の指示でクーデターが起こり、嶋皇祖母と大紫蘇我連大臣が殺害された。紫冠を賜った人物は、入鹿と鎌足のみで、入鹿は連も名乗った。物部大臣を弟と記述するが、代理の大臣が2人は奇異で、2代目豊浦大臣蝦の弟、鎌媛の子の入鹿が物部大臣と考えられる。

2024年2月16日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭国1

   磐井が敗れ、その子である筑紫君葛子が粕屋以東を放棄し、倭国は「俀国」と粕屋以東の「倭國」に分裂した。筑紫君の子は火中君と火君であり、俀国の領域は小国で筑後と肥前に限られたようだ。肥後では、『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』が発見され、「獲□□□鹵大王」の記述は、倭国王の上殖葉皇子である可能性が高いと思う。

『舊唐書』は、「日本舊小國併倭國之地」と記述している。日本はもと俀国の旧倭奴国が分裂した国であり、一方の倭国が畿内で政権を掌握した。631年、貞觀五年に、日本国王として倭国が朝貢、唐も来日してきたが、交渉は決裂した。648年、貞觀二十二年には、新羅と唐が同盟し、「又附新羅奉表」として記されている。そして、『新唐書』には「令出兵援新羅未幾孝德死其子天豐財立」とあり、つまり、664年には白村江の戦いでの敗北、天命開別、鎌足のクーデター、郭務悰による九州占領が起きた。クーデターで俀王の崗本天皇が即位したが、「俄而崗本天皇崩」と、わずかで孝徳が崩御し、天豐財が即位した。

 665年、麟徳二年に泰山で仁軌が管理した、「新羅及百濟耽羅倭」の「四国酋長」と唐の皇帝が会談した。日本側の酋長である天皇は中宮天皇の天豐財である。『新唐書』には「孝德即位改元曰白雉」・「未幾孝徳死其子天豐財立」という記述があり、これは実際に会談に参加した人物であるため名を知っていたのだろう。こうして、白雉を建元した孝徳帝が智奴王であったと唐朝は理解したことが分かる。そして、智奴王が崩御し、倭王の蝦夷・入鹿親子が権力を握ったため、『新唐書』がこれを記述しなかったのであろう。これは、天萬豐日が記述されなかったのも、白村江で戦った「筑紫君薩野馬」だったためだろう。

2024年2月14日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭奴国

  倭国は最初、「親魏倭王」と魏の支配下にあった。しかし、286年の泰始二年当時の魏の武帝のもとに「倭人來獻方物」と朝貢したが、それ以降不平不満を持ったようだ。276年、咸寧二年には「東夷八國歸化」とあるように、晋が倭国領と見なしていた八国を併合した。さらに、280年、太康元年には「東夷十國歸化」、282年、太康三年春には「東夷二十九國歸化」と併合して、晋側に47国余が加わった。

『晋書』の四夷傳の三韓の馬韓の条の「咸寧三年復來明年又請」の記述がある。これは百濟を中心とする「馬韓・・・凡五十餘國」の中の47国が含まれていたことを示している。その後、さらに「東夷二十國朝獻」と倭国から20国が離脱したようだ。289年太康十年には「東夷遠三十餘國」と『三國志』の邪馬壹国の国は晋と断絶した。それに対して、同年応神二十年に「都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」とあるように、倭国の一部が畿内政権に加わった。しかし、416年の腆支十二年に、「為使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と、百濟が晋の将軍に任命された。それに対抗して、413年、安帝義熙九年の「倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」のように、交流を再開したが、認められなかったようだ。

 倭国は宋朝が興ると国交を回復し、425年には「都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍」のように、百濟を含む倭領と認めさせようとした。しかし、451年には「新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍」とあるように、百濟は含まれなかった。これは百濟が中国に内附しているため、倭領を認めることができなかったからだ。

倭国が主張する支配域は、「海北九十五國」と韓地の95国、「西服眾夷六十六國」と九州の66国、そして「東征毛人五十五國」と中国地方の55国と考えられる。磐井に勝利したなら、「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と述べられ、中国地方の文身國、大漢國まで、旧豊国・仲国の支配を示唆している。

2024年2月12日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と『古事記』

『山海經・海内東經』によれば、倭は「蓋國在鉅燕南倭北」とされ、蓋州すなわち遼東半島の南、黄海の東部に存在した。蓋は「蓋天地之中」・「華山青水之東・・・至于天」という記述から、天に位置して、山東半島や遼東半島周辺が天地であるとされている。また、「西北海之外赤水之西有天民之國」とあるように、赤水は対馬海流を指しようで、西北海は渤海の西部を示していると考えられる。山東半島の外側、つまりシナ海岸側、山東半島南部に天民の国があり、その子孫が天子になったと考えられる。その対岸には倭人が住んでおり、天草などの韓西岸や九州西岸や島々に存在していたと思われる。

そこに住む人々が、漢の時代に「樂浪海中有倭人・・・分為百餘國」と記述され、百余国が朝貢していた。「東海之内北海之隅有國名曰朝鮮」及び「朝鮮今樂浪郡也」と記述され、これは遼東半島南東部に位置する朝鮮という国を指している。つまり、樂浪海中は黄海の中にある国である。その樂浪海中の百余国が朝貢し、倭人だったと記述する。

そして、西暦57年、建武中元二年には「倭奴國奉貢朝賀・・・倭國之極南界也」と朝貢が行われた。金印は志賀島で発見され、志賀島が南の境界であるとされた。この朝貢は九州の黄海沿岸の30国を倭国が引き連れて朝貢した。「衆夷六十六國」の残りの36国は東の拘奴國と南の狗奴國に属していたと思われる。百余国の残りの34国余は、韓地にあったようである。

「狗奴國」は三笠と周芳娑麼から出撃して奪った八女、菟狹川上、三毛、碩田、速見、直入、來田見、竹田市稻葉川、大野、直入、熊縣、玉杵名である。日向国もその中に含まれる。東の「拘奴國」は神武東征の際に速吸之門の曲浦、菟狹、安藝などと考えられる。

そして、『魏志倭人伝』において、豊国は拘奴國で、豊国の記述が見当たらない。このことから、3世紀の時点では「邪馬壹國」の領域は豊国や大国には及んでいなかったと推測される。つまり、神倭や大倭などの、『古事記』の対象とされる倭と「邪馬壹國」は異なる地域であったと言える。

2024年2月9日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と遺物

  『三國志』の武器と『古事記』の武器は異なるもので、『三國志』の倭奴国では矛が主流であったのに対し、畿内では剣が一般的だった。「其兵有矛楯木弓竹矢或以骨為鏃・・・宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞」と祭祀のための矛では無かった。実戦で使い慣れた矛だから役立ち、威嚇にもなる。そして、『後漢書』から『三國志』の時代に、漢や魏の臣下の倭奴國と畿内政権の大倭と熊襲との戦乱が始まった。

すなわち、『古事記』は『三國志』の世界とは一線を画した史書であり、青銅器の分布からも異なる武器の使用が示されている。瀬戸内地域は青銅の剣の出土地帯であり、九州とは異なる傾向が見られる。大国の神話において刀剣が登場することも、考古学的な証拠と合致している。また、武器の分類には長さなどの要素が関わることもあるが、矛と剣は別物として扱われる。

島根で矛と銅鐸がまとまって出土した遺跡があるが、『古事記』には出雲に関する矛や銅鐸の説話は見られない。『出雲風土記』にも矛の記述が無い。実際、現代の島根県は『古事記』の出雲ではない。「大人國」に出雲があり、『山海經』では大人國は(鳥取)砂丘の(東)北方、伊根の経ヶ岬の南にあった。『日本書紀』でも出雲振根は木刀、弟は眞刀であり、出雲で刀剣に関する記述が見られる。『古事記』に登場する矛は祭器としてのものであり、出雲臣たちが東の「拘奴國」との戦いや畿内政権から奪った武器や祭器を埋めた可能性も考えられる。

現代の神器は、天沼矛ではなく草薙剣・草那芸之大刀・天叢雲剣であり、剣と刀を区別していない。また、神事では矛と剣をあいまいにしていない。『古事記』の対象地域は豊国以東の地域であり、豊国は『日本書紀』の中で日臣が得た地域と一致する。『日本書紀』の雄略朝廷は大伴室屋が最高権力者と考えられ、大伴氏の遠祖が日臣である。したがって、『日本書紀』が日臣の神話を使用するのは自然なことだ。

2024年2月7日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の武器

 倭人の武器を『三國志』は、「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃」と記述する。そこで、『古事記』の武器を調査した。同時代と宣言している神功皇后以前の武器を見ると、古事記で剣が13例、刀が65例、矛が15例、劔が5例と、圧倒的に矛の数が少ない。

 「古事記」矛

天沼、其沼、八千神、此八千神、握横刀之手上由気、宇陀墨坂神祭赤色楯、大坂神祭黒色楯、縵八縵・、縵四縵・(2回)、羅木之八尋

「古事記」剣

御佩之十拳(3回)、御佩之十掬(2回)、神度、其前、以納于、自懐出自其胸刺通、自尻刺通、賜草那芸置其美夜受比売之許而

「古事記」 釼

抜其所御佩之十拳、亦取成刃。八尺勾鏡及草那芸、其弟破御佩之十拳、御陵在池之中崗上也

「古事記」刀

人名 16

訓或云麻比、布玉命() 二字以音、於底津石根宮柱布斯理、如先期美阿多波志都、伊古夜能伊毛能美許等、久米能摩伊比売、名荒河弁之女、弁二字以音、苅羽田弁、弟苅羽田

使用例(使用の動詞有り、若しくは、動詞+前置詞有り) 39

著其御前之血、著御本血亦、集御之手上血、因御所生之神者也、御之刃毀、思恠以御之前、取此大、汝所持之生大・生弓矢以而、持其大・弓、取佩頭椎之大、以槽小析其口、解所佩之槽小、齎一横、受取其横之時、問獲其横之所由、専有平其国之横、可降是、此者坐石上神宮也、降此状者、信有横、以是横而献耳、即握横之手上、毎人佩、抜一時打殺也、令作横壱仟口、即作八塩折之槽小、以此小刺殺天皇之寝、其后以槽小為刺其天皇之御頚、作八塩折之槽小授妾、莫動其、作詐、取佩出雲建之解置横而、詔為易、佩倭建命之詐、云伊奢合、各抜其之時、出雲建不得抜詐、抜其而打殺出雲建、所忘其地御

刀の名 7

所斬之名謂天之尾羽張、在都牟刈之大、是者草那芸之大也、其持所切大名謂大量、此名云佐士布都神、先以其御苅撥草、以其御之草那芸剣

祭祀 3

御幣登取持而、布詔戸言祷白而、取持其大神之生大与生弓矢及其天沼琴而

以上

剣・刀等の多くは実際に武器として使用・携帯し、矛は神事で出現する。中国の使者は矛と刀や剣と見間違えたか、省略したのか、見分けがつかないのだろうか。すくなくとも中国ではすべてまとめて矛と言わない。全て中国語、漢字で、刀や剣は矛と全く別物である。

2024年2月5日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の官位

  『古事記』に登場する国と『三國志』に登場する国は、異なる対象を指していたが、共通点がある。それは官位で、對海國や一大國の卑狗、伊都國の爾支、投馬國の彌彌などが挙げられる。つまり、對海(対馬)彦、一大(壱岐)彦、伊都()主、投馬耳となる。『古事記』や『日本書紀』には見られない官位としては、奴國の兕馬觚(しまこ)、不彌國の多模があるが、兕馬觚の「しま」は島(土地神)、国神の意味であり、觚()は子、天国神の子、天子と同じ意味である。多模は「賜う」の官位を与える人の意味だろうか。邪馬壹國の官位は伊支馬、伊島(伊国神)であり、これは伊都に常駐する一大率の役職を指しているのかもしれない。副官の卑奴毋離も、『三國志』は将軍の様で、『日本書紀』は辺境を守る低い身分の扱いである。邪馬壹國王が神官、恐らく他の国々も、王は王妃の巫女と考えられる。

「一」と「伊」はどちらも読みは「」であり、異なる文字で表現されているため、異なる国を指している可能性が高い。当然ながら、壱岐の「壱」は「一」を指している。卑弥呼の名は『日本書紀』では「一国神夏磯姫(イクニカミナツイソ姫)」であり、壹国王になる那珂川の伊都()姫も一大率を意味するのだろう。夏磯姫は「事鬼神道・・・於是共立爲王」と共立され、一国の「魁帥」になったと記述される。

神功皇后は「筑紫橿日宮時・・・更造齋宮於小山田邑」と小山田邑に齋宮を造ったとされる。「猪野皇大神宮」の齋宮の可能性が高い。息長帯日売は4世紀の人物であり、別の若狭の女王の事績と考えられる。『後漢書』に「建大木以縣鼓事鬼神」、『三國志』に「名之爲蘇塗立大木縣鈴鼓事鬼神」と記述される。枝に矛や鏡や瓊を垂らし、そこを境に神域に区切ったとされる「蘇塗」は、二本の木を建てた門や鳥居を連想させる。

小山田邑に対して「穴門」にも山田邑が記述されて、出張所のような扱いである。齋宮を置く山田は、「山」の神を抑えるための宮のようだ。そして、「穴門山田邑」に齋宮を置いた王が「邪馬臺国」王だと考えられる。そして、200年には「穴門山田邑」に齋宮を置いていた王と思われる印岐美が、卑弥呼を女王と認めたと考えられる。『邪馬壹国』は201年に倭奴国の実権を握り、206年に承認されたと考えられる。これにより、東の「拘奴國」だった久努、久努直の祖の物部印岐美(猪君)がよく符合する。

2024年2月2日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の倭の王朝交代2

  434年、允恭二三年の「爲太子」は、「讃死弟珍立」が記述されるように、珍が皇太子になったことを意味する。その後は、珍の子である濟が継承し、「濟丗子興」とその子の興が後を継ぎ、親子で継承している。その為に「爲太子」がなかったようだ。

401年、履中二年には讃が太子となった。343年、仁徳卅一年には都加使主が皇太子になり、その後阿知使主を名乗ったようだ。阿知使主は289年から400年まで記述され、襲名する役職名と考えられる。阿知使主の王朝は、289年に「來歸焉」と、十七縣を引き連れて畿内政権に帰順した。この時、残りの30余国は別の王朝、おそらくは日向諸縣君として分裂した可能性がある。日向髪長大田根の子の日向襲津彦は『古事記』に記述がなく、代わりに諸縣君牛諸井の娘である髪長媛がおり、諸縣君が襲津彦を賜姓された可能性が高い。熊襲の津の長官である。

それ以前の応神四十年の「立菟道稚郎子爲嗣」には、阿知使主以前の記録がなく、倭国または高千穂王朝の記録しか残っていなかったのだろう。その記録は、『三国史記』の記録と同様だったと考えられる。この記録では、応神の四十年間の倭の王朝が存在し、新しい王朝の王がその40年目に皇太子になったことが示唆される。そして、使主を賜姓された阿知使主がその王朝を名乗り、289年は前王朝の40年目だろう。

前王朝は250年に壹與が皇太子になったが、前の男王では国がまとまらず、卑弥呼の宗家厚鹿文が復権し、市乾鹿文が女王、そして壹與が太子となった可能性がある。同様に、248年は成務四八年、元年は201年で、卑弥呼女王、皇太子は男弟王だった可能性がある。この女王が一國の魁帥である神夏磯媛で、206年には大倭王の皇太子である夏花に承認されたと考えられる。

2024年1月31日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の倭の王朝交代1

倭奴王は皇祖天智天皇の先祖であり、葛城氏が即位できた立役者であり、『日本書紀』の安康朝までを記述した王朝と同祖である。593年、推古元年には「立厩戸豊聡耳皇子為皇太子」という記述があり、聖徳帝が皇太子になった。天皇が即位すると、太子を指名するのは当然のことだ。しかし、用明・崇峻・敏達天皇は皇太子を指名していない。欽明天皇は554年と568年に敏達天皇を2回皇太子に指名している。また、用明天皇には指名していない太子彦人が存在する。彦人は敏達皇后の長男であるため、13歳以上であれば自動的に皇太子となる資格がある。そのため、通常は全ての天皇に、「為皇太子」の記述は不要であり、長男か弟が自動的に皇太子になる。しかし、『日本書紀』は無い「為皇太子」を記述し、それは、天皇ではない、俀王・東漢直の立太子の日付を流用した。

591年、法興元年に俀国の法興帝の多利思北孤が即位したが、翌592年には皇太子の東漢直駒が馬子に殺害された。その時点で東漢直駒の子は13歳未満だったので、翌593年に弟の利歌彌多弗利が皇太子となった。政権は皇太子が実権を持ち、聖徳帝の利歌彌多弗利の長男がその後の帝位を継承していく。聖徳帝の子である漢王の妹の大俣王、茅渟王、天萬豊日、および、その妹天豐財重日の子である天命開別が太子として続いた。

それ以前は、568年には欽明廿九年に筑紫火君が皇太子になり、その子が法興帝、そして孫が東漢直駒だ。554年には欽明十五年に筑紫火君の兄である筑紫君の子である火中君が太子になった。

494年、仁賢七年に筑紫君磐井が皇太子になったが、少なくとも、倭王武は502年まで生存していたことが確認される。王位はその後、磐井、筑紫君葛子、そして、火中君に継承された。億計王が立太子したのは482年で、白髮三年の立太子は倭王武が478年雄略廿二年から502年まで在位中であり、太子が早逝したと考えられる。白髮三年から13年後に磐井が太子となり、早逝の理由が透けて見える形となった。

倭王武が若くして王位に就き、弟が太子であったが、子の磐井が生まれると、おそらくは弟を殺害したのだろう。太子に後継者が生まれると、王への権力を取り戻すことは難しいため、それが殺害の動機だった可能性がある。磐井が太子の適齢年齢である13歳に達するまで待ってから立太子し、天監元年の「征東大将軍」の綬号は磐井が21歳である。王位は、20歳以上なので、皇位継承を認めてもらうための梁朝訪問の年齢に合致する。

2024年1月29日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と『日本書紀』の「狗奴國」

  日臣と思われる豊御毛沼の東征で「臣是国神名曰珍彦釣魚於曲浦」と記述する。この珍彦は和珥臣の祖であり、日臣と合流する。仲哀朝の大伴武以連から允恭朝まで続く中臣烏賦津使主、そして雄略朝の和珥臣深目の初登場である。これらの人物はすべて、『後漢書』の対象時代以降に登場する。豊御毛沼や多臣の祖、国前臣の祖、物部君の祖は南ではなく、東の「拘奴国」に向かったようだ。神八井耳の後裔の多臣は多(岐津)の臣、火君、大分君、阿蘇君になり、国前臣は宇佐の国東の王になった可能性がある。物部君の祖は久奴直の祖の大小木であり、武諸遇の兄弟だ。

大倭王は南の「狗奴國」を攻撃するため、一国の魁帥である「神夏磯媛」と面会した。この神夏磯媛は、「上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡下枝挂八尺瓊」と詠まれ、鬼道の魁帥とされている。那津の伊襲媛もまた、大倭王に従ったと記述されている。この「一国」は邪馬壹國であり、後漢時代には邪馬臺国と呼ばれていた地域で、おそらく山田の猪の国の皇大神宮があった所である。伊襲の高千穂宮には一大率が存在し、「常治伊都国於国中有」と、伊都国で統治していたと記述されている。同様な統治形態は韓にも見られ、「共立其种辰王都目支国盡王三之地」と記述されている。目支国は月支国を指すものと考えられる。年代的には、82年の景行十二年八月乙未朔己酉、九月甲子朔戊辰が、206年と同じ日干支であった。また、「幸筑紫」、「到周芳娑么」、「議討熊襲」は、周芳の南、宇佐方面の討伐に関する説話だろう。

大倭王は物部君の祖である夏花と考えられる人物、印岐美の可能性がある。印岐美は志紀縣主や久努直の祖であり、つまり、彼自身かその子孫が拘奴国王や志紀縣主になった。師木玉垣宮は128年まで首都だった可能性が高い。師木玉垣宮の天皇の子であり、志賀髙穴穗宮天皇の弟である印岐美が志紀縣主であれば、理にかなっている。印岐美は猪君、山田猪(邪馬臺)国の王である可能性が高く、一方で、一国の魁帥である神夏磯媛が「我之屬類必不有違者今將歸徳矣」と述べ、帰順している。206年には卑弥呼が即位していた。卑弥呼は神那津の伊襲国媛であり、那珂川河口の熊襲の女王で、これは『三国志』にも合致する。また、伊都國も伊襲と記述されているので、奴國の那珂川河口も奴()襲と考えられる。そして、景行十二年十二月癸巳朔丁酉は263年の日干支と考えられる。神夏磯媛と市鹿文を同時に倭国の女王にするのは奇妙だ。すなわち、厚鹿文が卑弥呼の宗家であり、迮鹿文が卑弥呼の男弟王の子である可能性がある。そして、宗家厚鹿文の娘である宗女の市鹿文(宗女壹與)を「賜於火國造」と日国造と追認した。

2024年1月26日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」3

  27年、新羅王子の天日槍が質として来日し、新羅王が辰韓王となった。この頃、多婆那國の皇子が金官國に赴任したとされ、その子である解が実質的な新羅王の瓠公を継いだ。そして、西暦8年に南解次次雄の長女と結婚した。その土地の王の娘に婿入りして、王位を継ぐ、日本と同じ王位継承である。多婆那國は「其國在倭國東北一千里」とあり、『後漢書』の「拘奴國」の位置に一致する。

『桓檀古記』によれば、「狗邪韓國多婆羅一稱多羅韓國自忽本」と記述されている。この文から多婆那國は多羅とも呼ばれ、金官國は狗邪韓國とも呼ばれていたことが分かる。また、「多羅國與安羅國同隣而同姓舊有熊襲城今九州熊本城」とあり、多羅国と安羅國は隣接し、同じ姓を使っていたことが述べられている。さらに、「倭其南東屬於安羅安羅本忽本人」とも記述され、安羅は東の拘奴國であり、さらに、南()の狗奴國の熊襲になったとされている。これにより、同族の拘奴國は倭と敵対しており、一方で隣国の但馬は倭と同盟関係にあった可能性が考えられる。また、狗邪韓國の王として解の父が赴任したと推測される。

多婆那國の描写は、西暦57年に即位した解の出来事を説明しており、多婆は多()の端、萩に田道間守が高麗橘を持ち込んだ頃の出来事と考えられる。田道間守が仕えた王は出雲振根の可能性が高く、出国時は但馬に仕える王がいて、帰国時は萩に命じた王の墓があったと考えられる。

また、遼東半島の南は倭と『山海經』に記述されて、常世と思われる済州島がある。そして、大人國は倭の領域に市場を開いていたことが言及されている。天日槍の説話は、辰王賜姓のための活動と考えられる。阿羅斯等は安羅国人であり、拘奴國と多婆那國による狗邪韓國の勢力争いの説話と見られる。

出雲氏は若狭の小浜を追われて、但馬の小浜に宮を建てた。地名は人と共に動くものであり、現代においても京丹後に小浜があることは興味深い。そして、後に出雲氏は現代の島根の出雲に追われたと考えられる。ただし、島根県の小浜は出雲には存在せず、石見にある。石見の隣には大田市があり、「大田々祢古」すなわち「大国王(大直祢古)」が遷った土地である可能性がある。

出雲振根は筑紫と同盟関係にあったが、「多藝志之小濱」を追放された。日槍の寶物が但馬にあったのも、但馬に宮柱を建てた王が所有していたためだろう。そして、振根が敗れて、但馬の大直祢古の娘と天児屋の分家の天種子が、南の狗奴國の宇佐に進出したと考えられる。

2024年1月24日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」2

   『三國志』によれば、女王国の東には「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と記述されている。また、長州には魏朝に朝貢してこない倭種の国が存在する。南の「狗奴國」の一部は逆に魏朝に朝貢していた可能性もある。戦った熊襲と歓迎した熊襲の存在が、それを物語る。このように、倭人は倭国人、倭奴、倭種などの異なるグループが存在していたようだ。曲浦の和珥臣や宇佐の中臣、長州の日臣の祖達もその中の一グループで、『後漢書』に登場する大倭国の王の配下として『後漢書』は認知していた。大倭王の武諸遇の弟である久奴直の祖の物部大小木が『後漢書』の邪馬台国の王である可能性が考えられる。また、東の「拘奴國」を攻撃したのは高千穂の王である豐御毛沼であり、彼は後に日臣となる可能性が高い。

もう一人の人物は「筑紫國菟狭」に関連して、「勅以菟狭津媛賜妻之於侍臣天種子」という文言があり、天種子は「中臣氏」の「遠祖」とされる。前38年、武諸遇が出雲振根から神寶を得て出雲を支配下においた。『古事記』によれば、「宮柱布刀斯理」を行った地が三か所あり、「出雲國之多藝志之小濱」、「宇都志國」(おそらく宇(治)の(大)津の志国(岐))、「水穗國」(おそらく三国)だとされる。

出雲の多藝(岐:但馬)に宮柱を建てた王(神子)は多()根子で、その末裔が大田田祢子であり、分家が天種子と思われる。この一族は加須屋の大神祇を祀る一族の援助を受けていたと考えられる。実際、出雲振根は筑紫と共謀して、武諸遇の要求を拒否した。そして、大田田祢子が畿内に、天種子が東の「拘奴國」に逃げた可能性もある。

2024年1月22日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」1

  『三國志』倭人伝においては、韓地が歩行か水行かといった論争がある。また、『後漢書』にも韓地や倭国についての詳細な記述がある。しかし、『後漢書』には具体的な国名が記載されていない。一方で、『三國志』では馬韓が「凡五十餘國」、さらに「弁・辰韓合二十四國」のように詳細に述べられている。

倭王武は「海北九十五國」と述べており、これは『後漢書』の74国と比較すると21国の差がある。倭人伝も「衆夷六十六國」を30国と述べ、これも少ない。しかし、『後漢書』も韓地を「馬韓在西有五十四國」などと記述しているが、具体的な国名を挙げていない。そのため、これは魏の使者が実際に見た国々の可能性が高いと考えられる。『宋書』も実際に見ていないので、詳細な国名を記述していないし、国数が多い。

『三國志』は女王国の東に「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と記述する。長門には魏に朝貢してこない、魏朝が認めない倭種の国がある。すなわち、倭人は、倭国人、倭奴、倭種が存在した。それらの中の、曲浦の和珥臣や宇佐の中臣、長門の日臣の祖達が倭人のひとつの倭種と考えられる。すなわち、後漢時代において、東の倭種が拘奴國に侵攻して、魏時代には南の狗奴國、曲浦、宇佐、長門が倭種の国に組み込まれたと考えられる

倭種は『後漢書』の漢が認知していたが、朝貢しない大倭国の王の配下だ。大倭王の武諸遇の弟、久奴直の祖の物部大小木が王だろうか。東の「拘奴國」を攻撃したのは高千穂の王の豐御毛沼、日臣になる人物だろう。葛木氏は伊奢沙和氣大神と御食津大神(『古事記』記述時は氣比大神)が名を交換した。すなわち、御食津大神から伊奢沙和氣大神のように、若御毛沼が伊耶本和気に名をかえた。

2024年1月19日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と新羅2

徐那伐国が新羅になる前、馬韓の徐那伐国の王は倭人の瓠公の家系だった。このため、馬韓は倭によって支配され、辰・卞二韓は辰王として新羅によって統治されたと思われる。『遼史』によれば、渤海が蓋州に改名し、辰州と呼ばれるようになったとされているが、これは逆だろう。渤海は7世紀の国であり、辰州から別れた辰韓は紀元前に存在していて、史実が逆転している。『山海經』には「蓋國在鉅燕南倭北」とあり、蓋州の南は倭だった。半島の西は倭、東が辰国である。元々、渤海は「鬼國」と呼ばれ、「蓋州」は「辰州」と言われたと考えられる。その辰州を燕が奪って蓋州となったが、蓋州の東は辰州のままだったようだ。半島東部、粛慎の南には「白民之國」のみで空白地になり、漢代には四郡が置かれ、馬韓と辰韓は半島南部に押し出された。『漢書』には「樂浪海中有倭人分為百餘國」とあり、紀元前108年以降、馬韓を含む黄海沿岸に100余国の倭人の国が存在していたことが示される。

新羅が中国史書に初めて記述されたのは『宋書』で、倭の領有地域として言及された。国家として詳細に扱われるのは『梁書』からだ。『梁書』では新羅の言語が「其言語名物有似中國人」、すなわち中国人に似ているとされている。しかし、「語言待百濟而後通焉」、つまり百濟人の通訳が必要とあるため、矛盾が生じている。これにより、その時期に、新羅が中国の秦の言葉ではなく、鬼神を祀る辰人の言葉で統治していた可能性が考えられる。

『梁書』によれば、「辰韓始有六國稍分爲十二新羅則其一也」と述べている。初めの6国は『三国史記』の「朝鮮遺民分居山谷之間爲六村」を指しており、これは馬韓の東に位置する6つの村を指している。しかし、この記事には梁の時代に辰韓が新羅になったための矛盾があると思われる。6つの村が辰韓12国の中の1つの新羅の旧国名の斯盧國の記事がある。馬韓王は「共立其種為辰王都月支國」とあり、月支国を都として三韓を統治した。

19年、赫居世統治の39年目に馬韓王が死に、その際、解尼師今が「金官國」に現れた。これは偶然ではないだろう。赫居世の死に対して、「其國不足平也」と述べており、その国が混乱していることを指摘している。「解本多婆那國所生也其國在倭國東北一千里」で、千里は約50㎞、「度海千餘里至拘奴國」の倭国に敵対する国だ。「初其國王娶女國王女爲妻」とあるように、多婆那國の婿であり、拘奴國の王族でもあるため、倭国と対立していた。この王族の解が、同盟関係にある馬韓王が統治する「金官國」に来た。そのため、戦乱が勃発し、馬韓王と初代解が亡くなったと考えられる。2代目の解は「辰韓阿珍浦口」に逃れ、「乃生大卵」とあり、生後間もないことが窺える。そして、彼は南解次次雄の長女と結婚した。卵生は、解の親が誰かを書くと不都合があったことを意味する。