2018年6月29日金曜日

最終兵器の聖典 神々の盛衰2・・・藤原神話まで

 国産みした「伊奘諾・伊弉冉」神話は『古事記』の「阿夜上訶志古泥」が出雲から隠岐へ移住して「水蛭子 次、生淡島」を産んだ神話が最初、 水蛭子が淡島に住み着いたことが隠岐の島の建国神話で、その中の淡国(大国)島後で八束水臣津野が他の3島を自領にした。
さらに、大国の姫「大斗乃弁」が水蛭子と淡島を産まなかったことにして、隠岐の島の島後を「淤能碁呂島」として産みなおし、実際の大国の建国説話は「大穴牟遅」が侵略した土地の姫の「八上比売」と姻戚になることで建国できた。
「伊奘諾伊弉冉」は大神と呼ばれるのだから、隠岐の島の神で「大穴牟遅」以降に出来上がった神様、「佐之男」が「速」から隠岐の「須」の地域にやってきて「大日孁」の閨閥になり、「大日孁尊 此子光華明彩 照徹於六合之内」と『山海經 海外南經』に「地之所載,六合之閒,四海之内」と記述しているように、五島列島、壱岐、対馬、隠岐の小島3島などの島々を6合と呼んで、これらを「天」を付けた島名にした。
殊に、「六合之閒,四海之內」と黄海から玄界灘のことを記述している『山海經 海外南經』の「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬于陰・・・文王皆葬其所・・・有范林方三百里」に出現する狄山は方三百里と『三国志』の「一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里」と島の大きさも同じで4000年以上前に「文王」がいて、帝堯・帝嚳を葬って伊弉諾・伊弉冉より前の話だ。
すなわち、「天之忍許呂別」・「天比登都柱」・「天之狭手依比売」・「天一根」・「天之忍男」・「天両屋」の黄海から日本海につながる6島で大八島を支配する前、大八島の国産み前の状況だ。
『山海經大荒南經』に「大荒之中有不庭之山榮水窮焉 有人三身帝俊妻娥皇生此三身之國」、『山海經海外西經』に「三身國在夏后啟北」、『山海經海內經』に「帝俊生三身・・・均定九州」と記述され、これは、黄海・日本海・太平洋に跨る国を示し、さらに、『神異經』に「東方荒外有豫章焉。此樹主九州」と同じく太平洋に九州が有り、夏后が啟(ケイ・ひらく)約4000年前からと記述する。
これは、『古事記』の「筑紫国謂白日別豊国謂豊日別・・・熊曽国謂建日別」と三身之國の白日・豊日・建日とよく相似して、『日本書紀』の国生みの原型を『山海經』が記述し、「君子之國,其人衣冠帶劍」と衣冠帶劍して、「八岐大蛇」は龍のような冠と、尾から剣が出てきて帯剣と考えられてやはり合致する。
そして、轟B式土器が淡路島に出土していない状況を考えると、大日孁尊と戔嗚の時代が轟B式土器を使う六合の国の状態で、佐之男は「建速須佐之男」と言われるように、また、建は「熊曽国謂建日別」と記述されるように熊襲が出身と思われ海原を闊歩していた神のようだ。
そして、最後の神話が『宋史』の「年代紀所記云 初主號天御中主 次曰天村雲尊 次天八重雲尊次天彌聞尊次天忍勝尊次瞻波尊次萬魂尊次利利魂尊次國狹槌尊次角龔魂尊次汲津丹尊次面垂見尊次國常立尊次天鑒尊次天萬尊次沫名杵尊次伊奘諾尊」である。
『宋史』に「日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至獻銅器十餘事並本國 職員今 王年代紀 各一卷 奝然衣綠自云姓藤原氏」と記述し、藤原氏奝然が持ってきた『年代紀』に最新の神話が掲載され、この神話こそ藤原氏の神話と考えられる。
藤原氏は尾張氏から独立した『古事記』を書いた巨勢氏と同系の天御中主を祀る家系で16の国の支配を経て最高権力を得たことを記述し、藤原氏と本系の中臣氏の元明天皇が最初に受け取った史書が『古事記』であったのは主神が同じ天御中主であったためということが良くわかる。

2018年6月27日水曜日

最終兵器の聖典 神々の盛衰1・・・神話分析

 私はこれまで『日本書紀』は天氏、『古事記』は巨勢氏、『先代旧事本紀』は物部氏の史書だと述べてきたが、神産みを比較すると、最後に書かれて一番たくさん神産みをするべき『日本書紀』が一番少ないことに気づく。
『日本書紀』の神産みは「國常立尊 國狹槌尊 豐斟渟尊」、『古事記』は「天之御中主神(神産巣日神 高御産巣日神) 宇摩志阿斯訶備比古遅神(天之常立神) 国之常立神 豊雲上野神」、『先代旧事本紀』は「天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊 天御中主尊 可美葦牙彦舅尊 國常立尊(亦云國狭立尊 亦云國狭槌尊 亦云葉國尊)豊國主尊」という順序で書かれている。
最後に完成した史書が『日本書紀』なのだから、『先代旧事本紀』が狭霧尊を最初の史書の『古事記』に追加して、『日本書紀』が狭霧尊、御中主、宇摩志阿斯訶備比古遅を削除し、3書共通の神の國常立を先頭にしたということは、『日本書紀』が先に『古事記』完成前に古い形で存在し、『日本書紀』を基本に書き換えたことが解る。
最後に新たな史書『日本書紀』を書いたのなら、『先代旧事本紀』を踏襲して国常立を最初にしておけばよく、また、一書に「天之御中主神」や「宇摩志阿斯訶備比古遅神」を残す必要もないし、「天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」のように書かなければよい。
國常立を祀る天氏が國狹槌を祀る人々を破り、御中主を祀る巨勢氏は可美葦牙彦舅を祀る国から政権を奪い、狭霧を祀る物部氏は巨勢氏から政権を奪い、物部氏から更に天氏が政権を奪った。
『先代旧事本紀』は更に「天祖詔伊奘諾伊弉冉二尊日有豊葦原千五百秋瑞穂之地冝汝住脩」と豊葦原千五百秋瑞穂の地は既に用意してあるから治めなさいと述べ、「伊奘諾伊弉冉」は豊国の葦原を譲り受けた国の王となったことを認めている。
そして、出身地も『古事記』は最初の漂着地「磤馭慮嶋」すなわち「淡島」を「意能碁呂島者非所生 亦蛭子与淡島不入子之例也」と数に入れず、「如此言竟而 御合生子 淡道之穂之狭別島」と淡路島を出身地にし、『先代旧事本紀』は「生淡州亦不入子例也・・・先産生淡路州為胞意所不快故日淡道州即謂吾恥也 或本州皆爲洲」と『古事記』に上書きして元から本州を出身地とした。
それに対して、『日本書紀』は「磤馭慮嶋」すなわち隠岐出身で、「先以淡路洲爲胞意所不快 故名之曰淡路洲廼生大日本豐秋津洲」と淡路島出身の国から政権を奪取した安芸出身の国から政権を奪ったと記述した。
神話の誕生にはこのような情報が含まれていたのであり、特に『先代旧事本紀』は「天八下」から「高皇産霊」までの「獨化天神第六之神也」と6神を付け加え、「高皇産霊」は「伊奘諾伊弉冉」と同列で、その他多くの神々が「高皇産霊」の子として記述され、すなわち、「高皇産霊」の子たちは「天照大神」と同等の権威の子たちと言える。
『先代旧事本紀』は実際は「天譲日天狭霧國禪月國狭霧」→「天八下尊」→「天三降」→「天合」→「天八百日」→「天八十萬魂」→「高皇産霊」→「天照大神」という系列の王朝だと宣言しているのではないか。
『古事記』に「次成神名宇比地迩上神 次妹須比智迩去神 次角杙神 次妹活杙神 二柱 次意富斗能地神 次妹大斗乃弁神 次於母陀流神 次妹阿夜上訶志古泥神 次伊耶那岐神」と亦の名を書かないで記述され、これが隠岐での権力の移り変わりと考えられる。

2018年6月25日月曜日

最終兵器の聖典 神々の国2

 「三身国」は『古事記』の王朝の先祖御中主の建国時の4国より以前の『日本書紀』の国産み時の国で、『山海經』の対象と同じ時期の九州は、『日本書紀』でも対象外で、『日本書紀』の筑紫は九州三身国と交易するのに便利な対岸の島のことで、『日本書紀』の筑紫島の対岸の3地域をまとめた三身国筑紫が『古事記』では4面すなわち4国に分国している。
その「三身国」の綱を使って八束水臣津野は国引きするのだが、『山海經 大荒東經』・『山海經 海外東經』に「有大人之國 有大人之市名曰大人之堂」と「東海之外」東海は黄海のことでその外、海外日本海と大荒太平洋がつながる場所から日本海東南端にいたる地域に「大人国」があり、「大人國在其北為人大坐而削船」と船を造っているが、三方五湖近辺の鳥浜遺跡では船が出土している。
「大人国」の北には「君子国」があって、「君子國在其北,衣冠帶劍」と記述されるが、石川県中屋サワ遺跡に石冠と石刀が出土している。
そして、「大人国」は『山海經 海内東經』に「大人之市在海中」と「大人之市」が黄海にあり、『山海經 大荒北經』に「有人名曰大人 有大人之國」とオホーツク海近辺最南端の北門、三方五湖は越の国で国引き神話を物語る。
「三身之綱」は「大国主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理毘売命」と九州宗像との関連、「君子国」は「八千矛神、将婚高志国之沼河比売」との関連が示され「君子国」と「三身国」の力を借りて領土を増やした。
すなわち、九州から対馬海流に乗って8000年前頃に可美葦牙彦舅」を祀る「コノハ」人が、7000年前の「アカホヤ」によって九州「三身国」の「面足尊 惶根尊」を祀る「アマ」人が隠岐にやってきて、一人の王「八束水臣津野」もちろん臣と氏姓を持っているので主人が別にいる(偉大な王を後代といえ氏姓を付加しない)「八束水臣津野」王、「三身国」出身の王が4地域に分国をつくった。
当然、出身地のすでに九州と呼ばれた「三身」国、分国してもらった「高志」国、「志羅紀」・「北門」の国もすでに存在していて、4000年前の夏朝建国より前の話で、おそらく、大人国が「辰国」の前身で、黄海・玄界灘の「六合」の「轟B式縄文土器」が出土する島に「蓋州」(『遼史』「渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」と朝鮮南部も領域)、「蓋国」(『山海經』「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」朝鮮半島を含む鉅燕)の南に倭人が住んでいる。
大人国の西隣りには『山海經  海外南經』最後最東に記述され、『山海經  海外東經』最南に記述される「大人国」の西隣りに「長臂國」があり「捕魚水中兩手各操一魚 一曰在焦僥東捕魚海中」と海に潜って魚を両手(素手とは考えられない、スクレーパー銛や網を使用?)で捕獲するが、「海中」黄海まで遠出して漁をしていて、中継基地は「六合」の倭人の地であろう。

2018年6月22日金曜日

最終兵器の聖典 神々の国1

 『日本書紀』の神産みはその後、「泥土煮尊 沙土煮尊 (角杙神 妹活杙) 大戸之道尊 大苫邊尊 面足尊 惶根尊 伊弉諾尊 伊弉冊尊」と3書順番や亦の名に違いがあるがほぼ同じで、伊弉冊が産んだことを惶根が、それを大苫邊、また更に沙土煮が国産みしたことにして豐斟渟(豊雲上野・豊國主)・御中主・国常立が国産みさせたことにした。
すると、史書で国産みした人々はいつどこからやってきたのか考えると、概ね内容が同じなのだから3書同じ人々で、産んだ国もほぼ共通なのだから、大八島を産む前に国産みしたと考えられ、土器分布を考えると、轟B式土器が山陰以西の西日本に分布しており、アカホヤによってやってきた人々の可能性がある。
もちろん、轟B式土器は朝鮮半島では南部の海岸にしか出土せず、土器の連続性もないので中国・朝鮮半島方面からの人々ではなく、東日本にも出土しないので、三内丸山や火炎土器の仲間でもない。
ここで、『出雲風土記』の「志羅紀乃三埼矣・・・北門佐伎之國矣・・・北門良波乃國矣・・・高志之都都乃三埼矣・・・三身之綱打挂而」と大国は島を船に見立て綱で船を引き寄せて杭でとめるように国引きで建国していて、惶根の亦の名が吾屋橿城と天の八、大苫邊は大国の門、八束水臣津野は八の津と名前に関係性があり、大穴牟遅は八上比売を娶っている。
もちろん、国引きの最初の説話は隠岐の島のどこか(中之島?)で船を操って島前の3島を治めた話が大もとで、見えない国を引き寄せる荒唐無稽な説話を最初に造ることは考えられず、もっと具体的・現実的な説話で、後の『出雲風土記』を書いた人々は元の説話を知った上での説話だということを理解している。
「三身之綱」は『山海經』に記述される「三身国」と無関係とは思えず、国引きの時は既に「三身国」が存在したようで、『伊未自由来記』の「木葉比等」は西千里の地域からやってきたと述べられるが、西島の西は六合と呼ばれた玄界灘の地域で『山海經 海外南經』には「地之所載,六合之閒,四海之内」と黄海の中に含められる。
『山海經 海内東經』に「蓋國在鉅燕南倭北」と『遼史』に「渤海改爲蓋州 又改辰州 以辰韓得名」と渤海・遼東半島・朝鮮にある蓋国の南に倭があるとやはり六合を示している。
そして、「六合」は『日本書紀』にも「天照大日孁尊此子光華明彩照徹於六合之内」と天照大神が支配している地域と記述している。
さらに、「三身国」は『山海經 海外西經』・『山海經大荒南經』・『山海經海内經』に記述され、黄海・日本海・太平洋に面した国で、『山海經海内經』に「帝俊生三身 三身生義均・・・是始為國 禹鯀是始布土 均定九州」と「三身国」は九州とし、「夏朝」建国以前の話しである。
ここで、三身は体が3つの化け物の国ではなく、『古事記』の「生筑紫島 此島亦 身一而有面四 毎面有名 筑紫国謂白日別 豊国謂豊日別 肥国謂建日向日豊久士比泥別 熊曽国謂建日別」と記述される「白・豊・建」の3国が連合した日国を「三身国」と記述した。

2018年6月20日水曜日

最終兵器の聖典 神々の誕生3

 『日本書紀』も導入部に不可欠だった「葦牙」なのだから常立神もこの「葦牙」から派生した神と考えるのが順当で、日本列島で資料として残る最古の神が「葦牙」と想定出来る。
すなわち、「葦牙」の王朝を「狭霧」や「常立」が征服したことを意味し、『古事記』に「天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神」、『先代旧事本紀』では「天先成而地後定然後於高天原化」と高天原が火山島の噴出のように自然に発生して最初の神が産まれるのである。
『古事記』では伊耶那美命に「阿那迩夜志愛上袁登古袁」と伊弉諾に対して枕詞を使わないが、『日本書紀』は「遇可美少男焉・・・遇可美少女」、『先代旧事本紀』は「伊弉冉尊先唱曰喜哉遇可美少男焉」と言う。
共に「可美」で物部氏の祖も「弟宇摩志麻治命亦去味間見命 亦云可美真手命」、「號曰櫛玉饒速日命 是娶吾妹三炊屋媛 遂有兒息 名曰可美眞手命」と可美は我々が言う「うまし」が『日本書紀』に「内彦火火出見尊於篭中沈之干海 即自然有可怜小汀 可怜 此云干麻師」・「可怜」と記述しどちらかと言えば「可美」は地名を思わせる。
すなわち、日本という国はもともと「可美」国と呼ばれ、「可美葦牙彦舅」という神が「高天原」で建国したが「天御中主」や「狭霧尊」を先祖神とする国を経て、『日本書紀』を完成させた「国常立」神を先祖神とする『日本書紀』を完成させた国にとってかわられたことを意味する。
史書から消し去られた可美国は常立を祀る人々が建国する以前に伊弉冉の母国の根国を含む人々の国であることは明らかで、素戔嗚が天降った時に存在した宮主を配下に持つ出雲国(出雲郡出雲郷)、八岐大蛇の高志国(神門郡古志郷?板屋Ⅲ遺跡)のある、神産み・国産み以前から続いた国だとわかる。
なお、八岐は尾が8ではなく壱岐・隠岐と国のことで、『山海經』に「蛇號為魚」・「左耳有蛇」・「珥兩青蛇」と蛇は細長い物を呼び大蛇は大きな耳飾りを身に纏う部族かと思われる。
山海經  海外東經』に「・・・一曰在君子國北 朝陽之谷神曰天吳是為水伯 在北兩水間 其為獸也八首人面八足八尾背青黃」とまさに『古事記』の「彼目如赤加賀智而、身一有八頭八尾」と共に八岐大蛇と思われる記述があり、漢代には怪物と感じる漢代常識と違う感性の表現が残っていて、漢代と同じ感性の6・7世紀の日本人が存在したということだ。
山海經  海外南經』に有神人二八・・・一曰在二八神東」と28の神の地域がありまさしく神国で、君子国の北の朝陽は8の神が剣を持って1つの国を治めていた程度の事、史書作成時に伝説の神の大の地の蛇の神「おろち」、「ろ」が蛇その物だが、漢字を知った時「大蛇」と当て、中国では「ろの」神→「ろん」神で龍に文字を当てても不思議ではない。
『出雲風土記』の「嶋根郡郷捌里廿四餘戸」と山海經  海外南經』の二八神東」から1国30家程度の郷を神話時代は国と呼んだことが解る。
私が神話を現実的に読んで理解しているのに対し、非現実的な文章を書く神話は信用できないので絵空事と無視して、その代わりにどこにも書いていない、文化は全て中国からという信仰から、現在一部族も中国や朝鮮に存在しない日本人を信じるかを問えば、答えは常識的に考えれば神話を信じると思う。

2018年6月18日月曜日

最終兵器の聖典 神々の誕生2

  『伊未自由来記』という伝聞に隠岐の西島に最初に住んだのは木葉比等で男女2人して火を作る道具と釣りの道具を持って毛皮(暖のため)と木の葉(防水のため?)を纏って勿論島なのだから船に乗ってやってきて、後に刺青した海人がきたといわれている。
『古事記』の「妣国根之堅州国」、『出雲風土記』の「嶋根郡郷捌里廿四餘戸壹 驛家壹・・・方結郷 郡家正東廿里八十歩 須佐能袁命御子 國忍別命詔 吾敷坐地者國形宜者 故云方結」(松江市)と隠岐の島の対岸島根県が伊弉冉の国と記述し、宮尾遺跡(隠岐)と同系の土器が板屋Ⅲ遺跡(飯南町志津見)や佐太講貝塚(松江市)に見つかり土器の状況も裏付ける。
すなわち、対馬海流の400Km上流から木葉比等が船でやってきて、子孫伊弉諾が根之堅州(嶋根郡方結郷?)の伊弉冉とともに島後に船着き場を作って石矛で『古事記』の「興而生子水蛭子 此子者入葦船而流去 次生淡島」と大国(淡国)を建国し、蛭子が初代の王となったことが想定でき「大日孁貴」に滅ぼされ海人の「木の葉船」と呼ばれる葦船で水葬された。
『古今和歌集 藤原興風』に「白浪に 秋の木の葉の 浮かべるを 海人の流せる 舟かとぞ見る」と歌い、海人が漕ぐのではなく白浪だから海に流した木の葉舟での水葬とお盆の時期に流す精霊流しの木の葉をだぶらせ平安時代でも常識だった。
『日本書紀』で「名曰鹿葦津姫 亦名神吾田津姫 亦名木花之開耶姫」、『古事記』で「白之大山津見神之女名神阿多都比売亦名謂木花之佐久夜毘売」と初めて天降った地で娶った姫の説話で、「木の葉」と「木花」で語幹がが類似し、西島から島後の木花之開耶姫の家に婿入りした話に「鹿葦津姫」を上書きしたことが考えられる。
ここで、『日本書紀』の最初の神が生まれる時の文章が「時天地之中生一物状如葦牙便化爲神 號國常立尊」で国常立の生まれた時の説明だが、どうして国常立の由来なのかが今一つ理解できない。
しかし、それに対して、『先代旧事本紀』では「鶏卵子溟涬含牙其後清氣漸登薄靡為天浮濁重沈」と現代的に言えば小さな鶏卵すなわちゼリーのようで卵のように小さな領域の海から芽吹き霧が立ち上り重く濁った塊は沈んで大地となったと状況を説明して「生一神號日天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」と狭霧の名前とよく符合する。
そして、鶏卵の牙は『日本書紀』の「生一物状如葦牙」と符合、その葦牙に良く似合う神が存在し「可美葦牙彦舅」がそれで、『先代旧事本紀』では「一代倶生天神 天御中主尊 可美葦牙彦舅尊」と『古事記』の「天御中主」と同等に扱われている。
すなわち、『先代旧事本紀』は「天御中主」の王朝と可美葦牙彦舅」の王朝を征服した「狭霧」の王朝だと宣言しているのであり、「天御中主」は巨勢氏の豊国(豊御毛沼の)王朝だが、可美葦牙彦舅」はどのような王朝を背景にした神なのだろうか。

2018年6月15日金曜日

最終兵器の聖典 本節 神々の誕生1

 日本には3冊の史書が写本で残っていて、『先代旧事本紀』は史書を推古天皇ではなく聖徳太子が創らせたと書き、蘇我馬子が命じられて書いたとしている。
私は、もし、聖徳太子が書かせたとしても、本来は推古天皇が書かせたと記述すべきと考え、『古事記』が天武天皇(実際は文武天皇)に命じられ、元明天皇に献上したと書いているので、私は『先代旧事本紀』を最高実力者の馬子が書かせ、馬子が薨じたから中止したと理解した。
『古事記』は仁賢天皇以降記述されていないから、本来仁賢天皇が書かせそれを大安万呂が修正し、『日本紀』は『続日本紀』に「一品舍人親王奉勅 修日本紀 至是功成奏上」と元正天皇に修正して奏上したと書かれ元正天皇に命じられた事を物語っている。
これら3冊の作成事実を踏まえ、内容や多くの文献・中国や朝鮮の史書・出土物をもとに日本の古代史を検討していこうと思う。
先に書いたように、『日本書紀』を書いた人々の先祖の建国の地は『日本書紀』に「底下豈無國歟 廼以天之瓊矛指下而探之 是獲滄溟 其矛鋒滴瀝之潮 凝成一嶋 名之曰磤馭慮嶋」と「磤馭慮嶋」だが、『古事記』にある「生淡島 是亦不入子之例」の「淡島」が『日本書紀』になく、『古事記』には「生隠伎之三子島 亦名天之忍許呂別」と隠伎之親島の島後が記述されない。
そのため、数に入れない「淡島」が「磤馭慮嶋」で『古事記』は「忍許呂」島と呼んでいたと考えられ、語幹が「コロ」で国生みの場所が隠岐の島の島後ということが推論でき、隠岐の島から『日本書紀』が始まる。
 まず、最初の神が誕生する場面で、『日本書紀』は「古天地未剖」、『古事記』は「天地初発之時 於高天原成神名天之御中主神」、『先代旧事本紀』は「時天先成而地後定然後於高天原化生一神號日天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」と『日本書紀』のみ伊弉諾・伊弉冉が何もないところから国産みするが、他はすでに高天原が存在している。
高天原は『日本書紀』の「吾今奉教將就根國 故欲暫向高天原與姉相見而後永退矣」と伊弉諾・伊弉冉神が産んだ国の中に有り、その高天原で『古事記』と『先代旧事本紀』の主神が生まれたということが解る。
「洲壞浮漂 譬猶游魚之浮水上也」と主神が生まれる状況は海の情景なのだから、神話の始まりは海の上で、そこに主神が誕生したと『日本書紀』は述べている。
もちろん、船でやってきたのだから、出身地は船を作る能力が有り、12000年前の丸ノミ型石斧が発見された栫(かこい)ノ原遺跡は有力な出身地で、対馬海流が日本海に流れ始めた8000年前頃に流されて隠岐の島に上陸したと考えれば、状況的にピッタリだ。
常識的に考えて、最初の船の冒険は沿岸航行と目で見える陸地に向かっての航行だが、海流の知識がないと日常的に行き来は難しく、また、隠岐の島は9000年前に噴火を起こし、それ以前の島民が生き延びていたか疑問だ。

2018年6月13日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー まとめ

 神話分析そして神話に対応した遺跡、建国説話そして中国や朝鮮の史書を使って日本古代史の概要を述べたが、実際に出土した、実際に書いてある文脈を証拠として述べてきた試案だ。
私の解釈と異なる人々がいるとは思うが私はかまわない、それは、解釈だからで、発掘されていない事を、書かれていないことを以ての批判ではなく、書かれている文書や出土物という証拠を以ての批判は受け入れ、それが正しいと思われれば私の試案は取り下げる。
解釈を変えて古代史を合理的に、出来事とその結果が合理的に説明されるならその解釈を受け入れることにやぶさかではなく、科学的な思考を受け入れている私にとっては本望である。
たとえば、『三国志』に韓は「皆古之辰國也 馬韓最大共立其種為辰王」や『後漢書』の「辰韓、耆老自言秦之亡人」から秦帝国の末裔を主張してもよいが、私は「辰→秦」の変化や最大の馬韓が辰王なら馬韓王でよく、「有似秦語」と記述するが秦語は中国語では無いのか、中国は秦の頃語順が主語動詞の順だったのか、また、「其國近倭 故颇有文身者」と矛盾だらけで、この矛盾の証拠がある論証を必要とする。
残念なことに、発掘されていないことをそのうち発掘されると証明に使い、都合の悪いものは偽物扱いにし、書かれていないことを消されたと言い、書いてあることも間違い、書き換えたといって証明に使う、このような論理は科学ではなく受け入れることができない。
巷で、特定の文書をもとに他の文書は歴史を書き換えられたと騒ぐ説も古田説も含めて、私は解説書を乱読したが、その感想は、「解説書は記紀を批判しているが記紀の内容を無批判に都合の良いところを利用している」で、一般の記紀批判をしている人々と同類であった。
私は古代文字文書や『津軽外三郡史』等も偽造と呼ぶつもりはないが、同じように記紀や海外文献との整合性を究明することが、正しい文献の究明につながることを忘れてはならない。
日本では『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』・『室見川銘板』・『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』・『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』の文面を自説に合わないと全て偽造とし、国宝を貶めてきた。
中国史書を対象時代よりずっと後の時代の常識で当てはめて、対象時代の検証もせず間違いだから信用できないとすることで無理やり違う文字・読み方に書き換えて自説に合わせてきた。
『後漢書』に「光武賜以印綬」と記述される『漢委奴國王』印すら偽造・盗難・紛失と言いたい放題の暴言・暴論の嵐で、おそらく、彼らは「親魏倭王」印が発見されても同じことを言うのだろう。
非科学的な妄想の論理は誰も否定できないが、妄想を信じる人々は納得できても、信じない人々は誰も賛同してくれない、各々が相いれず、論争で解決することができず、多数派工作や著名人や教授という権力を使って押し通す以外ない。
現在、私達は太陽や星座が私たちの大地の上を回るのではなく、大地が回り、大地が平面ではないことを知っているが、中世まで誰もがそれを信ぜず、権威ある科学者や宗教者を信じていたことを知っている。
私はこのような非科学的、既に信仰としか言いようのない古代史にいつの日か科学的な古代史へと変貌することを信じている。
なぜなら、考古学は科学であり、科学はいつまでも力で押さえつけることはできないからで、土器の絶対年代や、木材の絶対年代が解れば、数値は嘘を言わないし、測定方法は日本国内だけに通じることを否定するはずだからである。
纏向遺跡の桃の種と卑弥呼の関係は、種が135~230年のもので240年代を包含しないので卑弥呼の食した桃ではない可能性が高い。
新しい考古学的発見があるたびに私の論理は補強されているのに対して、多くの学者は新しい発見に戦々恐々とし、世界で信頼される方法での発見も、従来通り自説に合わないと否定するのだろうか。

2018年6月11日月曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書5

 しかし、同じ『旧唐書』では「日本國者倭國之別種也」と倭国とは別種の倭国に併合される以前の日本は「日本国者・・・西界南界咸至大海」と海中(黄海・玄界灘)・海外(日本海)ではないが日本に併合されたため「大荒」が「大海」と名前を変えている。
そして、『新唐書』では「日本古倭奴也」と唐末において日本は昔の海中(黄海・玄界灘)にあった倭奴の末裔で「直新羅東南在海中島而居」とそのまま海中(黄海・玄界灘)に有ると記述している。
すなわち、併合される前の倭国と別種の日本は大海にあり、倭国の前身の倭奴国は海中にあったと記述して、倭奴国は昔から海中の東シナ海にあり、日本は昔から大荒→大海にあって俀国に『旧唐書』で「日本舊小國 併倭國之地」と併合された。
この、「日本舊小國」は『新唐書』の「日本古倭奴也」の新生日本と旧倭国と同種、旧日本の別種で俀国王は『新唐書』に書かれる「次用明亦曰目多利思比孤」の末裔の俀国、旧日本を併合した「舊小國」倭国を俀国が670年に併合して新生日本を建国した俀国も「舊小國」で唐初では共に小国なのである。
私は、倭国の併合が629年の守屋滅亡、俀国の併合が664年6月乙巳の日に起こった「乙巳の変」の入鹿に対するクーデタと論証し、壬申の乱は倭国勢力のクーデタで天智天皇は694年まで天皇だったとした。
海外史書は一貫して小国の倭と大国の日本を神話時代から記述して、670年に小国の倭国が併合した日本を俀國が昔の日本という名前で建国したことを述べたのである。
中国史書は『後漢書』の「倭奴國」・「倭王居邪馬台國」・「倭國大亂」、『三国志』の「邪馬壹國女王之所都」・「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」、以降『晋書』・『宋書』・『梁書』と変わらず倭国を記録にとどめ、「邪馬台」は恐らく「ヤマダ・イ」、「倭奴」は「イノ」と呼んだ方が日本語的だ。
そして、『隋書』には「大業六年 己丑 倭國遣使貢方物」・「俀国在」・「又至竹斯國 又東至秦王國」と隋時代は竹斯國と違う俀国が「大業三年・・・明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・此後遂絶」と608年に国交を断絶し、「倭国」と国交を継続したと記述して、俀国から国交を引き継いだ「倭国」の到着地が「竹斯国」だ。
小国だった「俀国」が旧日本国を奪取し、その旧日本国は『旧唐書』の「倭國者 古倭奴國也」と「俀国」と同じルーツの「大業六年」に貢献した昔倭奴国だった小国の倭国が併合していた。
筑紫の近辺には山田斎宮跡や猪野皇大神宮があり志賀島で金印が見つかり、『三国志』の貢献記事が神功皇后紀に記述され、神功皇后は香椎宮に住み、山田宮で自ら斎王となったというのを無関係と考えることができない。
『日本書紀』は「卅九年是年也 大歳己未 魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等 詣郡求詣天子朝獻」等と神功皇后39年・40年・43年に記述し720年に『日本書紀』を完成させたとき、『三国志』の邪馬台国は香椎宮に宮が有ったと考えていたことを示している。
『日本書紀』に「五十五年 百濟肖古王薨」と375年・384年・385年のことを255年・264年・265年に書いて意に介しないことと対照的な扱いである。
そして、『宋史』は藤原氏の僧奝然が983年に持参した「職員今 王年代紀各一卷 奝然衣綠 自云姓藤原氏」と藤原氏中心の史書の可能性がある伊弉諾以前から長い歴史があると主張する史書をもとに「其年代紀所記云」と記述され藤原氏は中国と呼んだ北九州周辺の筑紫出身で尾張氏と共に畿内に侵入したと述べているのだろう。
しかし、『宋史』も「日本國者本倭奴國也」と漢代からの海中・黄海・六合の国と「神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」の春秋戦国の大和建国と矛盾をきたし「海中」から「大海中」、「大荒」から「大海」へと中国の常識が変わり共に海中として混同したのだろう。

2018年6月8日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書4

 瓠公は『三国史記』で「瓠公者未詳其族姓本倭人」と倭人で、「脫解本多婆那國所生也」と倭国ではない日本生まれの脫解王に「拜瓠公爲大輔」と重要な立場で仕えた。
「脫解王代 永平三年・・・瓠公夜行月城西里 見大光明於始林中」と西暦60年に後の新羅王味鄒の祖金閼智を倭人瓠公が招き入れ、阿達羅王即位四年157年に『三国遺事』の「阿達羅王即位四年・・・延烏郎・・・負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立為王」と日本人の王を受け入れ、共に前後して『三国史記』の「脫解三年・・・與倭國結好交聘」・「阿達羅五年・・・倭人來聘」と倭国が朝貢して、倭国は日本の威光に逆らえない立場と考えられる。
『後漢書』の「馬韓人復自立為辰王 建武二十年」は西暦44頃の後漢時代の記述で辰王は日本人のようで、西暦400年頃に書かれた『後漢書』が辰と始皇帝の秦をまず混同しない。
『日本書紀』に「筑紫國造磐井陰謨叛逆 猶豫經年 恐事難成恒伺間隙 新羅知是 密行貨賂于磐井所」と倭の5王は筑紫国造であるにもかかわらず、中国の配下として畿内政権に反逆して新羅を攻め、新羅の畿内政権への上納物を掠め取ったが、日本国内で幸運にも内乱に乗じて倭国王が『日本書紀』に「筑紫君葛子恐坐父誅」と君・『隋書』の「號阿輩雞彌」と大王の地位を得ることができた。
中国でも南朝が廃れて北朝が力を付けたため、『隋書』にあるように「其國書曰日出處天子至書日沒處天子無恙云云」と新興隋と対等な立場と考えてしまって、『隋書』に「遣清復令使者隨清來貢方物 此後遂絶」と国交を絶たれてしまった。
そして、『隋書 卷三 帝紀第三 煬帝上』に「大業六年・・・己丑 倭國遣使貢方物」、『隋書 俀国伝』に「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国」、『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也」とあるように俀國と別国・分国の倭国(共に倭奴国の末裔)が『旧唐書』に「至二十二年又附新羅奉表以通起居」とあるように、新羅を頼って唐と交流を再開したが、新羅も倭と対等となってしまって政策を誤り百済と心中することになった。
『三国史記 卷六 新羅本紀 第六』に「十年・・・倭國更號日本 自言近日所出以爲名」と670年に国号を変え、当然、日本国内では唐に逆らった倭国の責任者が粛清されたと考えられ、倭国残党の抵抗が壬申の乱で、郭務悰の訪日と駐留で中国に反逆できないようにした。
『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也・・・日本國者倭國之別種也・・・日本舊小國,併倭國之地」、『新唐書』に「日本古倭奴也・・・皆以尊爲號居築紫城彥瀲子神武立更以天皇爲號徙治大和州」、『隋書』にも「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国」と記述され倭国も670年建国の日本国も俀国も倭奴国の後裔で670年まで唐の敵国の倭国だったが、昔から大和に有った別種の日本を倭国が乗っ取り更に小国の俀国の天智天皇が乗っ取り倭国以前の国名日本を継承したと記述しているのである。
『隋書』に「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」と乗っ取られた国は秦王国以外書かれていないので秦王国の可能性が高く、俀国の最終到着地は「又至竹斯國」と筑紫が到着地で筑紫君の地だ。
ところが、新しい日本となっても『旧唐書』は「多自矜大不以實對故中国疑焉」と疑いを持っているということは、壬申の乱と郭務悰の駐留に失敗し、反中勢力が日本の中枢に残ったことがうかがえる。
『山海經』で「渤海・黄海・東シナ海・六合(玄界灘)」を「海中」、「日本海」を「海外」、「太平洋」などを「大荒」と記述したが、『漢書』で「樂浪海中有倭人」、『後漢書』で「倭在韓東南大海中」、『三国志』で「倭人在帶方東南大海之中」、『晋書』で「倭人在帶方東南大海中依山島爲國」、『宋書』で「倭國在高驪東南大海中」、『梁書』では「大抵在會稽之東 相去絶遠」、『梁書』と同時代の『隋書』が「夷人不知里數」と里数を知らないから『梁書』では絶遠とどこに有るか書かず、『隋書』で「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」、『旧唐書』で「倭国者・・・在新羅東南大海中」と「倭國者 古倭奴國也」と倭奴國以来全て「海中」として黄海・玄界灘に中心があるとしている。

2018年6月6日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書3

  そして君子国の北部にやはり『山海經』の『海外東經』から『大荒東經』にかけて「黑齒國在其北,為人黑,食稻啖蛇」と国が存在し、稲を食べ、稲作は中国以外ただ1国で、後代に東北で水田遺跡が見つかる背景だ。
『大荒東經』・『大荒南經』・『海外東經』・『海外南經』を合わせた地域の国は多数あり、『漢書 卷二十八下 地理志 第八」に「樂浪海中有倭人 分為百餘國 以歲時來獻見云」と旧蓋国の南黄海の中に倭があり、『三国志』では倭国の東に倭種がいて、漢代以前には既に日本列島で混血が進んだことを裏付ける。
同じ『漢書 卷二十八 地理志第八下 吳地』に「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」と漢代に黄海・六合を中心にした倭と別種の東鯷人が日本海にいると述べている。
さらに、『三國史記 卷一 新羅本紀 第一 赫居世』には「始祖姓朴氏・・・八年,倭人行兵,欲犯邊」、「辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱」 および『三國志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十』では「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。國出鐵,韓、濊、倭皆從取之」、『後漢書 馬韓伝』では「皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。」と朝鮮人とは異なる、もちろん倭人とも異なる辰人が出現する。
馬韓人に共立されて王になった辰人、馬韓人に統治を任せた辰王は秦帝国以前から辰が存在するので中国人でもない、この辰人という人々は誰なのだろうか。
『日本書紀 神功皇后摂政前紀』に「新羅王遥望以爲・・・乃今醒之曰 吾聞東有神國謂日本亦有聖王」と日本の朝廷に対して日本に神国がある、「シン」国があると、敵対する倭国ではなく尊敬すべき聖王がいるシン国が新羅の東に有ると述べている。
偽作と言われているが、『契丹古伝』に漢が朝鮮を攻めて郡を作った時、辰が朝鮮2族と共に海や山によって守ったと記述され、辰は朝鮮2族の漢から見て遠方の東国で国が海を隔てて別れていると記述する。
漢は当然歯向かう辰に対抗して行動を起こすはずで、それが、倭への援助で『漢委奴國王』の金印を与えて援助したのであり、倭人の新羅への侵略も漢の影響があったから、漢代に倭の新羅への侵略が始まったと考えるのが理にかなっている。
だから、倭は中国から『宋書』に「以倭國王珍為安東將軍」と将軍位を授与されたことを喜び、日本は『梁書』に「貴人第一者爲大對盧 第二者爲小對盧」と高句麗の對盧という官位を真似て使用していいる。
中国の援助が有る倭国は中国と呼応して新羅や高句麗を侵略し、それに対抗して、新羅・高句麗は畿内政権と協調したから、『三国史記』の倭に対して、『日本書紀』の新羅は全く違う友好的かつ優位的な対応をしている。
『三國遺事 卷第一 紀異第一』の日本は「東海濱有延烏郎・細烏女 夫婦同居 一日延烏歸海採藻 忽有一巖 負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立爲王」と新羅の王に日本人がなったと記述し、関係の良好さを示している。
しかし、良好な日本との交流を『三国史記』は一切触れていないのは、当然で、攻め込まれた倭国以上に日本の冊封体制下であったことを戦勝国の新羅が史書に記載するとは思えない。
それは、『日本書紀』で中国に贈り物を献上したと書かないのと同じことで、天皇が665年に『旧唐書 卷八十四 列伝第三十四 劉仁軌傳』に「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と唐の皇帝に平伏しに訪中したことを書いていないことからよくわかる。
特筆すべきは『三国遺事』において「阿達羅王即位四年丁酉・・・延烏郎・・・負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立為王」の記事以降「開元十年・・・屬慶州東南境乃防日本塞垣也」まで日本が出現せず、『三国遺事』は明確に倭と日本の国名を峻別した。

2018年6月4日月曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書2

 距離を非常識にして、「だから内容が信用できない」とする論理は、史書が正しくては困る人々が異常値と信じ込んでいるだけで、常識ある人々は「里単位が違うのでは」などと正しく読むための方策を考え、それは『三国志』も同じで、『三国志』の里単位は壱岐の直径14から16Kmが「方可三百里」から1里約50m、唐津市から糸島市まで30Kmの「東南陸行五百里」で松浦川から26Kmだ。
里単位を1里約50mにすると、絶対に邪馬台国を筑後山門や大和に誘致できないため、壱岐の直径を見なかったことにして1里約400mと信じ込ませることで、ほら『三国志』どおり読むと日本列島を突き抜ける、だから『三国志』は信用できないと足りないありもしないのに船行・陸行部分を継ぎ足し、方向を変えて強弁せざるを得ない、万二千里を無意味にする論理である。
里単位を1里約50mで距離は『梁書』と同じ、国境間距離で対馬・壱岐・伊都・不彌の領内を加える、そういう常識的方法で読めば『三国志』は整合し、後代に常識はずれな地図が出現して、異様に日本列島が大きかったり、東と南が異なるが、後代の中国人ですら里単位が変わったことを理解していないために発生した錯誤で自国中国は正しい里単位で描き、短里の古い資料も信頼したため歪な地図となった。
  また、『山海經 大荒東經』の「君子國在其北,衣冠帶劍」に対し、『神異經』では「男皆朱衣縞帶元冠」と共に帯冠し「東荒山中有大石室東王公居焉」と東王が住み、「東方荒外有豫章焉 此樹主九州」と九州と呼ばれていたと記述し、大荒東が日本を証明している。
勿論、古代においては女上位で「中荒經十則」に出てくる西王母が上位で中荒の中国中枢に存在して、九州に対して「九府玉童玉女 」と九府があり、州と府どちらが上位かは一目瞭然で府が上位で後に九州を中国国内に当てはめたもので、八岐が八州と同じで九岐・九国の意味だ。
その九州の三身国は『山海經』の『大荒東經』・『大荒南經』・『海內經』に記述されて、黄海・日本海・太平洋に接する現代の九州で、白日・豊日・建日の3身の国で帝俊生三身,三身生義均」と帝俊が国産みし、『古事記』の4面以前、『日本書紀』が天降りする対象国である日国の話だ。
そして、帝俊とともに黄帝も『大荒西經』・『大荒北經』・『海內經』や夏后も『大荒西經』・『海外西經』・『海內南經』とモンゴルから朝鮮半島・東シナ海の領域の人物で、極東の遺跡の出土状況を物語っていて、中国建国前の黄帝や夏后より前に国が既に散在していた。
また、帝俊・黄帝・夏后の記述から、『山海經』・『神異經』の対象の「現代」は黄帝・夏后の時代で、黄・夏という人物に対して尊称の帝・后をつけて呼び、 帝俊は歴代の帝の中の俊ということで、黄帝・夏后より前の人物とわかる。
さらに日本海側から太平洋までの君子国の南には『山海經』の『海外東經』・『大荒東經』に「大人國在其北,為人大,坐而削船」と船をもつ大人國があり福井県三方湖周辺の鳥浜遺跡などの縄文遺跡からは丸木舟の出土と1万2千年前の漆が出土し、河姆渡遺跡周辺の漆と船の出土と無関係とは思えない。
『山海經 大荒北經』の大人国は別国か不明だが『出雲風土記』の「国引き神話」は日本海の対岸の国を引いていて、『山海經 海內東經』の「蓬萊山在海中 大人之市在海中」と蓬莱山の近辺の黄海の中に流通拠点を持っていたようだ。
『山海經』の『海外東經』から『大荒東經』にかけて「君子之國」があり「其人衣冠帶劍」と冠を戴き剣を帯びた人々と記述し、海外東すなわち日本海東部の石川県中屋サワ遺跡に石冠と石刀が出土しそこから太平洋側に至る国が存在し、君子は中国国内の『西次三經』の「天地鬼神是食是饗 君子服之以禦不祥」・『海內南經』の「巴蛇食象,三歲而出其骨,君子服之,無心腹之疾」と交流が有る。
大人国が出雲を含んで「稲田宮主須賀之八耳神」の国、君子国が支配する出雲の『出雲風土記』の「古志郷 即属郡家。伊弉那彌命之時、以日淵川築造池之」、『古事記』の「高志之八俣遠呂知」、帯冠帯刀したオロ神(チ)の配下の宮主で官名耳の娘たちを人質として上納させる姿が思い浮かぶ。

2018年6月1日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書1

  前章では日本の3史書の違いや鏡・甕棺などから、国譲り・天降の伝承を検証したが日本に関する資料が中国や朝鮮に残っているので海外史書をもとに古代史を俯瞰してみよう。

  後代の室町時代の史書であるが『遼史 第三十八卷 志第八 地理志二』に「辰州奉國軍節度 本高麗蓋牟城 唐太宗會李世攻破蓋牟城即此 渤海改爲蓋州 又改辰州 以辰韓得名」と辰韓の由来が記述されている。
戦国以前は東夷であった現代の蓋州市あたりから朝鮮半島南部まで蓋州と呼ばれていた、すなわち、飛び地で州はあまり無いので箕子朝鮮以前から蓋州、辰州と呼ばれ、後に分断されて朝鮮という地域ができたことを意味する。
『山海經 海内東經』に「蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕 朝鮮在列陽東」と書かれて、蓋国が渤海東岸から遼東半島のことと解り、朝鮮の語句の前には時間の経過も含まれた内容で、漢代の燕は蓋州の一部を併合したが、朝鮮半島がそれ以前は辰国、その前は蓋国と呼ばれ、倭も辰国に属していたということだ。
鉅燕というのは『山海經 海內北經』に「貊國在漢水東北。地近于燕,滅之」と漢代に貊國を滅ぼして鉅燕となったという意味で、『山海經』の対象時代には鉅燕はもちろん燕すらなく、『山海經 北山經』に「燕山,多嬰石。燕水出焉,東流注于河」と地名があるのみで、周建国の元勲である召公が燕を建国した。
すなわち、蓋國は蓋州のことで朝鮮半島全体すべてだった可能性が高く、倭は朝鮮半島ではない、『山海經 』を書いた漢時代の領海の東部、黄海にあったということだ。
そして蓋国は辰国に支配され、漢時には、辰国領域は三韓の地へと後退し、朝鮮が領域を持ちそれが中国建国前の事で、『契丹古伝』には辰国は海を隔てて2国に分かれたと記述し、辰国は3韓の南や東以外考えられない。
『山海經』では海を海内・海外・大荒にわけ、海外は日本海、大荒は太平洋及び辺境を示す内容が散在して、海外南・海外東・大荒東は『三国志』に出てくる黒歯国・侏儒国を思わせる国が書かれて日本列島を思わせる。
更に、前漢に書かれた『神異經』の「東荒經九則」に「東方有樹,高五十丈,葉長八尺,名曰桃」、「木栗出東北荒中」、「東方荒中,有木名曰栗」と縄文時代から食べられていた食物を記述し、三代丸山遺跡では栗を栽培していたと言われ、『山海經』の「湯谷上有扶桑」と同じ「大荒之東極至鬼府山臂沃椒山腳巨洋海中升載海日 盖扶桑山有玉鷄」と扶桑が出現する。
そして、この扶桑は後漢の『洞冥記』の「是長安東過扶桑七萬里有及雲山」、『梁書』の「扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東 其土多扶桑木」と連綿と記述されるのである。
ここで、『梁書』の二萬餘里は恐らく、日本側が125Km、1里50mの2千5百里と報告したのに対し、梁は日本が長里で報告しと考え、この時代日本が短里を使用していることを中国は知っていたので、更に8倍の二萬里と記述したと考える方が理に適う。
「文身國 在倭國東北七千餘里」の倭国と分身国間は7千里の八分の一の875里の約45Km、「大漢國 在文身國東五千餘里」の大漢国と分身国間は同じく625里の約32Km、「扶桑在大漢國東二萬餘里」の大漢国と扶桑国間は2万里の同じく2千5百里で約125Km、計205Kmである。
これは国境間距離のため、領内に同程度の距離が有り、倭国と扶桑国間は国境間300Kmで岡山辺りから扶桑国となり、扶桑国の領内も125Kmとすると430Kmになり、常識的距離と言え、他の計算法の時は日本列島を突き抜ける。
そのため、『隋書』は「短里」を認めず、「夷人不知里數但計以日」と里単位を知らないので、行程を日数で示すと記述しているが、『梁書』で「慧深又云 扶桑東千餘里有女國」と慧深が里数を述べている。