2023年3月31日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話9

  『日本書紀』の火明は『舊事本紀』・『古事記』の火明と時代が異なる。『舊事本紀』の火明は天稚彦が神屋楯比賣の子の事代主を殺害した時の人物で物部氏である。 『日本書紀』の火明は、劔根の娘賀奈良知姫の子の「羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」と物部氏の祖ではない。ただし、羸津世襲は高倉下の孫の天忍男の子で、『舊事本紀』の火明の家系だ。すなわち、『日本書紀 』の火明は劔根で、神武東征は『日本書紀』の火明が起こした。御毛沼の神武東征は大物主の娘、大田田祢古の妹を妃にするのだから、崇神朝以降である。『日本書紀』の火明は豊国の人物で、由布岳や鶴見岳がある地域が支配地と思われる。『舊事本紀』の火明は穂国の「ほ」なのだろう。鶴見の名の起源がいつからか解らないが、つる(?)神と考えると、別府湾は弦を張ったような湾だ。言わば弦湾の弦国()の王が剱で、根国の葛󠄀木の王になった剱根である。

 『日本書紀』の火明が剱根だったが、『古事記』では、三男の穂々手見が後継者で、剱根とは異なる。元々国譲り自体が、忍穂耳ではなく、大年神だった。すなわち、忍穂耳、瓊々杵、穂々手見、鸕鷀草葺不合は葛󠄀木氏の系図だったようだ。 忍穂耳は豐の安芸の水穂国を目指した、耳という三国の神だ。『古事記』の始祖神は御中主で、主の官位を持つ後代の人物である。最初の国生みは淡島だったが、生みなおして淡路島である。本来は淡島・淡海国だったのを、生みなおした。淡道之穗之狹別で、すなわち、穂の国の分国で若狭の領土の意味なのだろう。葛木氏は国譲りで若狭と野洲を結ぶ道を支配したことを意味している。

 そして、穂々手見の子の彦波瀲武鸕鷀草葺不合は母の妹玉依姫を妃にした。この姫は大国御魂ではなく、宇迦之御魂神の娘と思われる。武鸕鷀草は八国の宇治川の将軍で、伊吹・美濃の相津方面の将軍の名に感じる。そして、その子の御毛沼の孫は師木に遷った。そこには、剱根がいた。すなわち、火明・珍彦達の東征で、葛󠄀木氏は大津を追われて、師木にやって来たようだ。すなわち、天忍人の妃の角屋姫は宇治川の津、大津の八国の姫だった。そして、天忍人は葛木氏の出石姫を妃にして、師木に遷り、弟の忍男は剱根の娘の賀奈良知姫を妃にした。天忍男の子は羸津世襲、葛󠄀木彦で尾張連の祖だ。

 葛木彦の祖父の『日本書紀』の火明・剱根の東進が神武東征だ。剱根は別府の王と思われ、九州の暦は知っていたかもしれないが畿内の暦は知らない。2つの暦を知っていた、周饒国の人物、大年神が生んだ、大国御魂神は豊国神と考えられた。『日本書紀』の一書第一に「海神豐玉彦之宮」の娘が豐玉姫と記述される。この王は配下に高速船、大鰐を操る部下がいた。この王なら、両方の暦を知っていて、東征する人物としてピッタリである。大鰐を操る部下は珍彦で、おそらく、豐玉彦の子と考えられる。同じく一書第一に「伊弉諾尊曰吾欲生御宇之珍子」と宇治の津、大津の神を白銅鏡で生むと記述される。かなり後代の神話である。そんな後代の神話の後に、葛󠄀木氏を追い出した人物、宇迦之御魂神の兄弟の大年神の末裔が珍彦である。すなわち、神武東征、暦を持つ珍彦の東征が始まった。


2023年3月29日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話8

  『日本書紀』や『舊事本紀』は九州の暦と畿内の暦を共に知っていた。そして、暦は神武天皇即位以前から記述されていた。すなわち、神屋()王朝と高千穂王朝の暦を知っていたのである。神屋王朝の人物が、高千穂王朝の暦を使わないし、反対も同じだ。なので、両王朝と交易を行った周饒国を構成する人物という事である。高千穂王朝は、大年神が神活須毘の娘の伊怒比賣を娶って、大國御魂神、韓神、白日神、聖神を生んだ、その聖神の後継王朝だ。聖や韓の地には中国の天子も来訪し、中国海内と接する場所で、暦も中国に影響される。大年神は大山津見の娘の市比賣と大人様・奈岐の命との子である。大人様・奈岐の命は加須屋の大海祇の子と宇都須山祇の子との子と思われる。宇迦之御魂神は兄弟で、大年神も大国御魂神を生んだ。大年神が生んだ中に三身国を構成する豊国が無いので、大国御魂神は豊国神と思われる。

 奈岐の命は加須屋大海祇の助けを得るため、大山祇の姫を娶った。後に出雲大山祇の姫を娶るので、出雲を付加しない大山祇は加須屋の大山祇の姫と思われる。六代目が出雲大山祇の娘を娶って、於漏知から独立する。この出雲大山祇は加須屋の大山祇の子孫の可能性が高い。奈岐の命は出雲大山祇の娘を娶って、子孫は美豆別之主と呼ばれる。この主は天津神の子達、加須屋大海祇の子孫で、久米部等を率いていた。そして、天菩比が国譲りを求めるが、『日本書紀』では大己貴、「むち」と宗像神で大国(但馬や丹波)も支配していた。建御雷之男は君子国の王、安寧天皇の孫で、建甕槌の剱を奪って尾張氏が皇位を奪った。なので、天菩比の子建比良邊が出雲国造の祖であるように、天菩比が国譲りさせた。

 国譲りされたのは「葦原中國」、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂國」、「豊秋津嶋」である。仲国の安芸、広島県である。忍穂耳の妃は豊秋津師比賣、安芸の姫で、高木()神の娘である。すなわち、忍穂耳は君子国の神の配下の耳の冠位をもち、そして、安芸に婿入りした。だから、子の日子番能迩々藝は「豊葦原水穂國者汝將知國」なので、王になった。そして、もう一人の子の天火明は恐らく高木神の後継で、天道日女を妃にして、天香語山を生んだ。長男は後継者で、それ以外は、各地で婿入りする。若狭から琵琶湖への道の女王で高島(高岐)の王の高倉下とも呼ばれた。また、根国の淀川(難河)河口の王と思われる長髓彦の妹の御炊屋姫を妃にした。ただし、御炊屋姫を妃にしたのは、火明ではなく欝色雄と考えている。

 天津日子番能迩々藝は天忍日と天津久米を引き連れて高千穂に天下った。天津神の子の天津日子は瑞別主、配下に久米部がいる。天忍日は『舊事本紀』に「天忍日命大伴連等祖亦云神狭日命」と記述される。大伴連の祖すなわち日臣で、神武東征の一員だ。迩々藝は神阿多都比賣を妃にするが、天日方奇日方の亦名が阿田都久志尼で、君子国の姫と考えられる。すなわち、天津日高日子穗穗手見は葛󠄀木氏の始祖と考えられる。それを示すように、『日本書紀』には火明がいて、尾張連の祖で、尾張氏は葛󠄀木氏の分家である。すなわち、穗穗手見が葛󠄀木へ移住する、物部氏と同祖となる饒速日である。そして、火照、火須勢理、火遠理は『日本書紀』の豐吾田津姫が母で高千穂宮の人物と思われる。豊国の吾田君小橋等の本祖の火須勢理は日向襲津彦に繋がる人物である。すなわち、葛城氏の母系の穗穗手見、父系の火須勢理で、天狭霧神との血縁で物部氏と尾張氏が関連付けられた。狭い畿内で、血統は意味を持たない。どこかで、血統が交差する。


2023年3月27日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話7

  日本の神は天照大神と大神を祀っている。神武天皇は事代主の娘を妃にして、王朝が始まった。事代主を検証すると、事代は磐余にある社と結論付けられた。すなわち、本来は天稚彦が大国主ではなく、神屋楯比賣の子から国譲りされて、若狭の王になった。そして、邊都宮髙降姫が照光姫大神と呼ぶように、多紀理毘賣の子の下光比賣も大神と呼ばれたと思われる。それは、下光比賣の兄弟の阿遅鍬高彦根、その阿遅鍬高彦根の子が奈賀命だったからだ。奈賀命と丹波の須津姫との子達が大国主・大人国王である。その大国の神だから大神である。

 天稚彦達が国譲りで戦った相手とされる事代主は場所も違い、もっと後代、神武天皇の頃である。実際の、神屋楯比賣の子は恐らく建御名方である。『古事記』には母が記述されず、『舊事本紀』には髙志沼河姫とある。事代主は邊都宮髙降姫の子で、事代主は「倭國髙市郡髙市社」に祀られ、事代は磐余近辺で地域が異なる。

 八岐の於漏知が強力な剱を持っていた、その八国王が八千矛なら矛盾しない。隠岐が八国に支配されたころの王が宇都須山祇である。その頃の宇都志國玉が八国の於漏知の八上比賣を妃に木俣神を生んでいる。八国の木の俣の於漏知、八俣の於漏知だ。於漏知を追い出した周饒国王の奈賀の大人様・奈岐命は山津見の娘の市比賣を妃に大年神と宇迦之御魂神を生んだ。阿遅鍬高彦根の子の大人様の奈賀の命は丹波の須津姫を妃にして、大国の誕生である。そして、佐の男の阿遅鍬高彦根は「坐倭國葛󠄀上郡髙鴨神云捨篠社」と葛󠄀木に祀られる。またの名が「迦毛大御」髙鴨神で根国葛󠄀木神だ。

 於漏知達の王は須賀の稻田宮主の名椎と思われる。八束水臣津野命の子孫の戔嗚がその娘の櫛名田比賣を妃にした。その子が八島士奴美で君子国王と考えられる。島は「し」が国で「ま」は八国の神の魔物の神と考えられ、「しぬみ」は「しま」が後代に「ま」神が「み」神に変化したのではないか。八嶋士奴美は出雲の山津見の娘の木花知流比賣を妃に出雲を征服した。子は布波能母遅久奴須奴神で、淤迦美、隠岐の国神の娘を妃にして隠岐を支配した。子の深淵之水夜禮花は 美豆別之主や八束水臣と同じ水で、子の淤美豆奴も同系だ。子は天津神の天之冬衣で、若狭の刺国の若比賣を妃に、これは若比賣と対の稚彦の娘で須津姫と思われ、大国主を生んだ。阿遅鍬高彦根の子の奈賀の命と若比賣は従兄妹、奈賀の命の妃は丹波の須津姫だ。

 大国主は葛木氏の先祖の八島牟遲の娘を妃に鳥鳴海を生む。葛木氏は君子国・周饒国・丈夫国の血を引く氏族の様だ。甕主日子は御毛沼と関連が有りそうで、建飯勝の子が建甕尻で、同時代なのだろうか。そして、天日腹大科度美の妃は天狭霧、物部氏と尾張氏の祖神と思われる。その、天狹霧の娘の遠津待根を妃に遠津山岬多良斯を生む。遠津氏は豊木入日子の母系で、息長氏と証明した。山は息長氏の領地の伊吹山の麓、多良斯は統治する帯・足と考えられる。崇神天皇の時代である。葛木氏の神話は崇神天皇の時代まで続いたことを示す。大物主の娘を妃にするのだから、よく当てはまる。事代主は東征で磐余に住み着いた剱根の義父の神話である。

2023年3月24日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話6

  六合は神霊の生れる所、黄帝も神霊を生んだ。しかし、神霊が生れるとは各氏族と交流して、首領の娘との間に子が生れる。そして、その子が首領になった事を意味する。全能の神の天が、神である天子・帝の黄帝達を生み、天子の帝俊が三身国などを生む。人が他部族の人と会うことで、利益を共有する纏まりを形成する。纏まりは国と呼ばれた。個々の部族には、元々、リーダーの首領が存在し、中心となる1人のリーダーを神と呼び、国神が生れた。八国も、1部族なら神は不要だが、他部族の人物と出会い、国として纏まる。八国を国と意識させ、そこに、他部族の人物が舟に乗って到来した。その舟に乗って来た人物が宇摩志阿斯訶備比古遲と思われる。『古事記』は畿内の氏族の葛󠄀木氏の史書だ。八国の人物の歴史が記述されている。「八島士奴美以下遠津山岬帶神の十七世の神」は当然、族葛󠄀木氏の神の系図である。葛󠄀木氏は天之甕主や敷山主等の姫を妃にすることで、その氏族の庇護を受けて、勢力を拡げたようだ。

 アカホヤ後、佐の男の子達は交易を行い、相手の窓口の首領の娘と婚姻した。その子達が奧津宮の多紀理毘賣すなわち隠岐の姫だ。多紀理毘賣は元々但馬の出身のようで、但馬が元々出雲氏の出身と思われる。また、中津宮の市寸島比賣すなわち壱岐の姫だ。そして、邊津宮の田寸津比賣、おそらく、但馬の姫である。そして、八国の主、須智賀の八耳の娘の櫛名田との子が八嶋士奴美である。さらに、出雲の山津見と於漏知との娘の神大市比賣との子が年神と宇迦の御魂なのだろう。「大」や「神」は伝説を話した人物の出身地の説話だから付加したと考えられる。出雲の山津見は加須屋の大海祇の子孫だ。出雲の山津見は奈賀の命生んだ。この山津見が阿遅鍬高彦根で奈賀命は丹波の須津姫を妃にし、その子達が大国主だ。そして、隠岐の多紀理毘賣は宗像の多紀理毘賣と変化した。

 丈夫国の加須屋大海祇大神の子の、海神の出雲の大綿津見の娘が周饒国王の奈岐命の母とおもわれる。大綿津見は周饒国を配下にした。周饒国王は出雲の大山津見の娘を妃にして、阿遅鍬高彦根や美豆別之主らを生んだ。美豆別之主は天津神・綿津見の子孫の周饒国王である。すなわち、大山津見も綿津見の子で、丈夫国の子達だ。阿遅鍬高彦根の子の奈賀命は周饒国王となった。それで、おそらく、大山津見の支配地が但馬・多岐で娘が奥津宮の多紀理毘賣、邊津宮の田寸津比賣なのだろう。そして、丈夫国が奥津宮も邊津宮も領土と主張したと思われる。

 戔嗚の子達で天菩比はその子の建比良邊が津嶋縣直である。また、遠江國造等の祖で『大荒東經』の「大人之國」を思わせる。そして、天津日子根は凡川内國造や木國造、倭田中直、山代國造・・・等之祖」と根国の祖だ。そして、市比賣の子の年神は神活須毘の娘の伊怒比賣を娶って、大國御魂神、韓神、白日神、聖神を生んでいる。すなわち、年神が韓地、筑紫、襲、そして、御魂神は残った豐を領有したと考えられる。『舊事本紀』は「大国御魂神大和神也」と豐の神が大和を征服したと述べる。そして、さらに、香用比賣との子が山戸臣、すなわち、大和の国神、そして、跡継ぎの年御神である。大年神の兄弟に宇迦之御魂神がいる。宇迦能山は葦原色許男が須世理毘賣を正妻に、宇迦能山の山本に宮殿を建てた。おそらく、須世理毘賣は宇迦之御魂の子孫だと思われる。火須勢理、火遠理の説話は、宇迦能山の説話がモデルと考えられる。兄猾・弟猾の争いで、弟猾が勝利している。葦原は「豐葦原中國」と豊国にあり、葦原色許男は豊国の王だ。豊国の王は大御魂の子孫なのだから、豐玉彦だろう。そして、年神は丈夫国の王なのだから、日臣すなわち大伴連の祖の忍日である。すなわち、九州の国譲りは、忍穗耳や瓊瓊杵ではなく、大年神と忍日だったと考えられる。忍穗耳や瓊瓊杵の舞台は但馬・丹波・若狭・三国・近江の説話である。

2023年3月22日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話5

  君子国は『続日本紀』に「唐人謂我使曰亟聞海東有大倭國謂之君子國」と記述される。大倭国は君子国の末裔だということだ。「君子国」は『山海經』の『海外東經』と『大荒東經』に記述される。北陸から東海地方にまたがる国のようだ。それは黃帝が生きた紀元前2千5百年より前から「君子国」と呼ばれた国が有った。だから、火炎土器を造った長野から新潟にかけて存在した縄文遺跡の国しか有り得ない。そして、『山海經』には君子国の北に「朝陽之谷神曰天呉是為水伯在北兩水間其為獸也八首人面八足八尾背青黃」と記述される地域がある。「八首人面八足八尾」と八岐大蛇そのものだ。両側に海がある能登半島のことで、君子国の配下のようだ。勿論八首の人などいないので、8国の人々が集まって、能登半島を拠点に軍隊を構成していたと考えられる。

 君子国は剣を帯びて軍隊を率いているようだ。すなわち、君子国は中心的な八国を統治する中心国である。それは、『海外東經』の青丘國・黑齒國・雨師妾國・毛民之國・勞民國が構成国と思われる。また、太平洋側の『大荒東經』の小人國・蒍國・中容之國・司幽之國・白民之國・青丘之國・黑齒之國・夏州之國も構成国と考えられる。とくに、 黑齒國は「食稻」と中国以外ではこの国以外、稻作の記述がない。『伊未自由来記』に於漏知は「踏鞴を踏んで金を作り、鎧・兜・盾・剣を作るので、それを用いた」と記述され、金属器を用いた。その為、人数は少なくても戦いは強かった。それは、『日本書紀』に素戔嗚の十握劒を欠かした、固い於漏知の尾の草薙劒と良く合致する。さらに、『伊未自由来記』は於漏知が出雲の地まで領域で、三つ子の島にも侵略した。それで、於母の島に逃げたが、守り切れず、加須屋の大神祇大神の援助を受け勝ったと記述している。

 それは、金属製の武器を携えた軍隊が存在して、その中心が君子国で隠岐全土を一時期統治したと言う事である。『出雲風土記』の「阿太加夜神社國引碑國引神話所以號意宇者國引坐八束水臣津野命詔」は有名な説話だ。この八束水臣津野命は八津神津臣津の命と書くべきと考えられる。それは、八国の津の国神の出身で、隠国の国神の港にいる将軍の意味で、於漏知の一人である。この人物は隠岐と出雲の意宇の間の航路を支配していたと考えられる。隠岐は畿内と朝鮮の中間点の給水ポイントで、重要な土地だから、手に入れたと思われる。

 八国は紀元前3千年以前から続き、アカホヤ後に舟での交易が始まったときから隆盛する。そして、海への出航の拠点の君主国が権力の中心となるのは必然である。沿岸航行なので、中継地毎に領地を持ったと思われ、その一つが出雲や糟屋だ。そして、海洋航行が得意な海士を配下にして、隠岐を中継地にした。目的地は朝鮮やウスリー川河口部と考えられ、八束水臣津野命の国引きの結果だ。そして、その海士は各地で子を残し、国を生んだ聖人である。帝俊など「帝」と呼ばれる、神の海中・天の子の天子で、肥後を拠点に活動したと思われる。


2023年3月20日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話4

  三身国を生んだ帝俊は『大荒西經』、タリム盆地のロプノール湖が有った地域でも活躍し 、白民之国を生んだ。白民之国はウスリー川河口部と思われる場所にも生み、太平洋東岸にも生んだ。同様に、『大荒西經』には、「女子之國」や「丈夫之國」もある。そして、大本の「女子國」・「丈夫國」は『海外西經』にあり、宗像や対馬の国と思われる。この地域は六合と呼ばれる地域で、聖人が行き交い、神霊が生れる場所で、黄帝も神霊を生む。すなわち、黄帝も帝俊も神や聖人で、タリム盆地や沿海州、太平洋岸まで動き回った。そして、日本人は聖人を「ひじり」、肥後の人と呼んだ。黄帝も帝俊も肥後を拠点に活躍し、帝俊は玄界灘と太平洋とシナ海に面する三身国を生んだ。その女王が『大荒南經』の「娥皇」で太平洋側、すなわち、葉木国の女王のようである。そして、その中心国が丈夫国である。

 女子国は「兩女子居水周之」と二人の女王がいて、島と思われる国である。本来、「王が二人」は有り得ず、どちらかが従だが、並立と表現している。これは、二つの島からなる国で、元々双方に王がいたのが、一つの国になったと考えられる。日本では、『隋書』の俀国の夜の天子と昼の太子のように、宗教的王と政治的王の分業があった。『日本書紀』は三貴神を記述し、「夜之食國」と夜の神の月読、「知高天原」と昼の神の天照、「知海原」と水軍の指揮の素戔嗚と分業した。対馬は地峡のため、2地域の生活圏に分断され、王が二人いたと思われ、よく対応している。そして、恐らく、海神の夜神(よみ)、土地の神の昼女(ひるめ)、昼神の子の昼子(ひるこ)が古形と思われる。

 そして、有明海、玄界灘、豊後水道にまたがると思われる三身国が帝俊と娥皇によって生れた。その中心国が丈夫国で、三身国の北に一臂国、その北に奇肱之国、その北に女祭がある。女祭は「居兩水閒」と半島に有り、海の中道・志賀島を考えた。糸島半島や松浦半島では広すぎて、複数の国が有りそうである。その北に維鳥、その北に丈夫国である。その北に女丑の屍、中津宮のある大島か?。その北の西側に巫咸国の壱岐、東側に「并封」の沖津宮のある沖ノ島。巫咸国の北に「兩女子」と二人の女王がいる女子国・対馬である。

 そして、『海外南經』西隅に結匈国が有り、『海外西經』は「西南隅」が結匈国の北で、佐賀県が境界のようだ。長崎県は『海内經』で、倭人が住む場所と考えられ、佐賀県に帝俊たち聖人が生れた。娥皇は葉木国の港の国神の野槌の後裔の草野姫と考えられ、草野姫は日国・三身国の女王・日女でピッタリだ。そして、三身国に周饒国の交易の中継所が糟屋に出来た。そして、三身国の力で八束水臣津野命が「三身之綱打挂而」と国を拡げた。そして、戔嗚は丈夫国の加須屋の大海祇の姫を妃に奈賀の大人様・奈岐の命を生んだ。大海祇は奈岐の命に力を貸して、出雲の於漏知を追い出した。奈岐の命は大海祇の配下となった大山祇の姫を妃にして、東侵して、若狭まで於漏知を排除したようだ。

 奈岐の命の妃、大山祇の姫は神大市比賣で大年神と宇迦之御魂神を生んだ。大年神は伊怒比賣を妃に大國御魂神、韓神、白日神、聖神を生んだ。糟屋に伊野皇大神宮があり、そこの姫と思われる。大國御魂神は豊国の神と考えられ、出雲・安芸・周防・穴門・豊前・豊後・筑前を含む領域と考えられる。そして、紀元前千年頃に倭が五島列島や長崎あたりから糟屋に侵入したようだ。そして、西暦百年頃までこの体制が続いたようだが、倭が中国の協力で領域拡張をはじめた。伊都国は弱体化して、諸縣君が日向に移住したと考えられる。火闌降や火火出見など、火山を連想させる人物は、鶴見岳や由布岳の説話が相応しく、豊国の説話と思われる。


2023年3月17日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話3

  『出雲風土記』の國引神話の八束水臣津野命は八津神津臣津の命の意味と思われる。それは、八国の港神で隠岐の津の宮の国神の意味だ。すなわち、八国の海の、隠岐の津の将軍ということだ。そして、国引きしたのは隠岐の三小島と於母島と考えられる。国引きは「三身の綱」、三身国の力をかりた。それで、後代の宇都須山祇が加須屋の大海祇に助けを求め、その援助を子の奈賀の大人様に与えて、於漏知を撃破した。三小島が八国()の於漏知に支配されていた時、その王は宇都須山祇と呼ばれ、山(八魔)に支配された津神である。

 大人様は『山海經・海外東經』の初め、さ(+)丘の北、若狭の辺り、君子国の南に「大人国」が記述される。そして、「大人之市」が『海内東經』黄海にある。また、『大荒東經』に「大荒東南隅・・・日月所出・・・有波谷山者有大人之國有大人之市」つまり伊勢湾辺りにある。そして、『大荒北經』樺太近辺にも「有人名曰大人有大人之國」がある。初代大人様は「大海祇大神の姫をめとり」、六代目も「出雲大山祇神の姫をめとり」、その力を借りて勝った。大人様は大海祇の姫を娶ったから大人と呼ばれるようになったと思われる。勿論、大人ではなく、隠岐の宇津の日国出身の人、「隠宇日人」と考えられる。侏儒の周饒国人の中で、糟屋から来た2代目以降は大きかったのを中国人が見た。それを、逆輸入したと思われる。『古事記』で伊耶那伎が月讀に「知夜之食國」と隠岐の夜、宗教的地位を与えた。海神の姫が夜神(よみ)で大神誕生である。

 大人様は武器ではなく婚姻で糟屋・出雲を支配し、強大になった。これが、周饒国に帯冠だけで、帯剣が記述されない理由で、戦いは婚姻で配下にした人々に戦ってもらった。大人様は『海内東經』の領域の「志羅紀之三埼」、『大荒北經』の領域の「北門佐伎之國」と「北門良波之國」と『海外東經』の領域の「高志之都都之三埼」に領地を持った。『山海經』の大人国がある場所だ。『出雲風土記』の国引き神話は大人様・奈岐の浦命の説話だったのである。国生み神話の大八洲神話は国引きと交易の拠点を置いた説話と思われる。大八洲神話の頃、隠岐の津臣、津の対岸の若狭の道臣、糟屋の日臣、出雲の中臣という姓が始まったのではないか。

 その後、美豆別主が奈岐命の娘に婿入りして、奈岐の浦中の鼻に宮を立て、小之凝呂島を統治した。それで、周饒国は天津神の美豆別主が継いだ。すなわち、周饒国は丈夫国の支配下になって、王は出雲に住み、阿遅鍬高彦根と呼ばれた。阿遅鍬高彦根は若日子と友人で、若日子の妻は下照比賣だ。そして、『舊事本紀』では阿遅鍬高彦根と下照比賣は兄妹だ。若日子は於漏知から大国を奪った。そして、阿遅鍬高彦根命の子の奈賀の命が、丹波の須津姫を妃にして、大国王となった。

それで、生駒周辺の根国の「国譲り」があり、阿遅鍬高彦根の後裔が根国を支配し、倭國葛󠄀上郡髙鴨神に祀られた。すなわち、奈岐浦命が素戔嗚で奈賀命が大穴牟遲・大国主だ。男は糟屋や出雲・若狭等で子を生み、娘は現地に残し、息子は連れ帰って、奈岐の姫と婚姻したと思う。戦って国を支配するより合理的で、一番力のある国の姫の父や兄弟が甥や孫を守る。但し、これはもろ刃の剱で、複数の強力な氏族を残すことになる。それが、素戔嗚の娘達で、隠岐の姫の奥津嶋比賣、壱岐の市寸嶋比賣、但馬の姫と思われる多岐都比賣だ。


2023年3月15日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話2

  『日本書紀』も『舊事本紀』も『古事記』も文頭は国生み神話である。神話は紀年が解らないから、神話だ。その神話の時代を記述した文書が中国にあり、『山海經』である。その『山海經』に、『海外南經』の冠帶する国に周饒国があり、日本海南部を統治する国だ。周饒国は「三首東」と三首国の東にある。三首国は「一身三首」と3島で一国を構成する国で、その東が周饒国だ。周饒国は「焦僥國」とも言い、『大荒南經』にも「焦僥之國」が存在する。『大荒南經』は南太平洋のことで、『海外南經』と接して、「焦僥之國」は丁度その接点にある。すなわち、「焦僥之國」は関門海峡の辺りにある国と解る。だから、隠岐の人々は元々関門海峡・豊国の人で、「其為人短小」・「有小人」と記述された。『三国志』に「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」と倭から200㎞、「焦僥之國」に当たる地域が記述される。海路なら豊後半島、陸路なら日向で、『日本書紀』にも景行紀に「碩田」の遠征で「土蜘蛛」がいた。土蜘蛛は地を這うように背が低いと考えられ、碩田は国東半島の南である。すなわち、周饒国の人々は隠岐島後に住む、豊後出身の人物が建国した国と理解される。

  隠岐の伝説を記述した、『伊未自由来記』がある。『伊未自由来記』には「隠岐の国に初めて住み着いた人間は木の葉比等」と記述された。これが、『古事記』「如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯訶備比古遅神」のモデルだ。『日本書紀』一書に「豐國主尊・・・亦曰葉木國野尊」と豊国は葉木国と呼ばれ隠岐の人々の出身地である。すなわち、「阿斯訶備比古遅」の前に、「葉木國野尊」が生れた。だから、木葉の比等(日人)と呼ばれ、男女二人(爺・婆)で、火を作る道具や、釣をする道具を持っていた。神生み神話は、海川山を生むが、「み」・「か」・「ま」が神、「宇摩」は海と同じ「う神・う魔」、「やま」は八国の神で魔と思われ、山祇は野と津の神だ。そして、最初の神の子は「生木祖句句廼馳次生草祖草野姫」、草は葉で木葉、国生みで「葉木國」が生れた。因幡の白莵の伝説は、宇佐の国(岐)の人物が鰐すなわち舟に乗って隠岐まで渡った説話ではないだろうか。

  木葉比等は「西方千里」の加羅斯呂から来たと記述する。短里50㎞では海の中なので、長里400㎞なら、直線では朝鮮半島の中で、国東からなら400㎞程度である。『伊未自由来記』には原本が残っていないので、里単位が時代につれて変化したのだろう。そして、木葉比等は舟に乗り新天地隠岐の三子島に着いて、三首国の祖となった。恐らく、アカホヤの紀元前5千年より前、対馬海流が流れ始めた以降の事だと思われる。その後、アカホヤで逃げて来た海人が多数三子島にやって来た。漁は年中釣れるので、危険を犯して移動する必要が無い。何らかのきっかけがないと、移住する必要が無いからである。木葉比等の同族も続いて到着しているのは制御できない海流があったからと思われる。そして、海人も最初は出雲に逃げたようだが、迫害されて隠岐に逃げて来たようだ。

  海人の中に「海人の於佐神」が於母島の東後の奈岐の浦に住み着いた。これが、於()()の佐神の奈岐と奈神()、「於佐奈岐」と「於佐奈神」で、「於の凝呂島」の話である。塩を垂らしたのは、釣り糸か魯か縄だと思われる。『古事記』「坐而見立天之御柱見立八尋殿」と奈岐で八尋殿を建てて住んだモデルだ。そして、その子孫が佐の男の尊だろう。そして、「於佐之神」に変わって出雲の鞍山祇の子の「沖津久斯山祇」が、於母島の東の大津の宮に住んだ。その後、火炎土器の縄文国の八国の於漏知が出雲を支配し、さらに、隠岐も支配した。


2023年3月13日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話1

  神話は一書群が多数あるように、氏族ごとに存在する。氏族は血縁のある氏族の神話を繋ぎ合わせ、前後関係に矛盾を生じた。そのため、崇神期の大物主を神武期の事代主と同じ人物にしてしまった。しかし、『史記』『五帝本紀帝堯』に「乃命羲和敬順昊天數法日月星辰敬授民時分命羲仲居郁夷曰暘谷敬道日出」と記述された。帝堯は紀元前2千3百年頃の人物。ここに記述する羲和が『山海經』に「東海之外甘水之閒有羲和之國有女子名曰羲和」と記述される。すなわち、禹の紀元前2千年位まで記述された内容が日本の神話の絶対年代を決定づけた。

  『史記』には「黃帝者少典之子姓公孫名曰軒轅生而神靈」と、黃帝は生れて神靈になったと記述された。少典が神霊を生んだのだ。『三海經・海外南經』には「地之所載六合之閒四海之内・・・神靈所生・・・唯聖人能通其道」とある。すなわち、少典も六合の住人だ。黃帝も『大荒東經』に「黃帝生禺禺䝞・・・禺䝞處東海是為海神」と東海・黄海の海神を生んでいる。すなわち、『史記』も『山海經』も同じ立場の文献だと解る。

  『山海經』で「天」と呼ばれる場所が特定でき、『海内經』の海と『西山經』の水が湧き出る所が「天」と呼ばれている。『西山經』には「玉山是西王母所居也」と、玉山に神の西王母がいる。そして、西王母が『海内西經』に「龜山西王母梯几而戴勝」と勝利を祝っている。そして、『海外南經』に「有神人二八連臂為帝・・・狄山帝堯葬于陽帝嚳葬于陰」と生れた神が帝になった。その中に堯・嚳が含まれる。さらに、『大荒南經』に堯・嚳・舜、『海内南經』に舜・丹朱、・『海外北經』に顓頊、『海内經』に舜が葬られた。これらの帝が東方父と考えられる。

  すなわち、天に生れた神たちの子が天子で、天子も神である。そして、『海内南經』に「三天子鄣山在閩西海北」、『海内經』に「南海之内有衡山有菌山有桂山有山名三天子之都」と記述される。すなわち、神の子の天子たちが東シナ海の中で都し、中国では天子が全知全能の神だった。

  それに対して、日本では、「天」のことを「う」と呼び、「神靈所生」と「う」で生まれたのがう神の「うみ」である。それで、日本の天子は「神子・みこ・あまみこ・ひこ・ねこ」の神靈であり、実際に統治する王は孫である。そのため、日本では、天イコール海なので、天を海の表意文字に使っている。

  『山海經』の日本は海内と海外と大荒の海に囲まれる。海内は黄海(東海)、渤海(北海)、シナ海(南海)、月支国近辺の古代に有った巨大な湖(西海)だった。海外は日本海、東南北の大荒は太平洋、大荒西は中国北西の凍土がある地域である。『海外南經』にある「六合」は、6海が集まり、2海は日本列島が有るので「四海」の中にある。「六合」は神霊が生れる、日本の神話の舞台ということを中国は知っていた。

  そして、『海外南經』「周饒國在・・・冠帶」と10余国の中に周饒国があって、その中心国である。そのような国が、『海外西經』「丈夫國在・・・人衣冠帶劍」、『海外東經』と『大荒東經』に「君子國在・・・衣冠帶劍」と併せて3国ある。一国、氏族だけ支配は誰もが知る長老なので、冠帶という権威付けは不要だ。しかし、3国は他の国を支配する爲に冠帶という権威が必要だったと思われる。中でも君子国は『続日本紀』にも唐の使者が日本はその後裔と言ったと記述される。『後漢書』にも、「東方曰夷夷者・・・有君子不死之國焉」と後漢の時代にもあった。すなわち、この3国の神話が中心となって、関連付けて伝えられ、書き継がれたと考えられる。そして、それらは漢代まで存在した。


2023年3月10日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』(『論理的な日本古代史』)はじめに

  これまで、『日本書紀』を天文学的日干支を使って分析した結果、矛盾が頻出した。矛盾の原因は、『日本書紀』の一書群が多数存在し、さらに、「魏志云」や「百濟記云」と他書から引用したからである。『魏志』や百濟記事が掲載される『三國史記』には日干支はほとんど記述されず、元号や王の在位年が記述されていた。そして、『日本書紀』を記述したのが葛城氏や蘇我氏だった。しかし、これらの氏族は、同じように葛城氏と蘇我氏が記述した、『古事記』と同様に日干支の記録を持っていなかった。

 『古事記』では、天皇の死亡記事は注記で日付を追加した。その日付は蘇我氏に『古事記』とは別の『墓記』から引用したからと思われる。持統5年に「紀伊平群羽田・・・上進其祖等墓記」と記述されて、葛城氏の後裔の墓記、持統天皇の祖父は蘇我山田石川麻呂大臣で蘇我氏だ。従って、『古事記』注記に『日本書紀』のように死亡日を追加できるはずが、墓記には年干支と月日が記述されただけだったと思われる。

 年干支は間が60年を超えると意味を成さないが、死亡日が60年を超えることは無かったと考えるべきだろう。もし、60年を超える場合は何らかの記述がないと見分けが出来ない。死亡日を書き出してみる。『日本書紀』の死亡年戊子の豊御食炊屋比賣は『古事記』と同じで、戊子628年三月十五日癸丑崩。同じく壬子死亡の長谷部若雀は壬子592年十一月十三日崩。丁未崩の橘豊日も丁未587年崩である。しかし、乙巳585年崩の沼名倉太玉敷は甲辰584年崩。しかし、辛卯571年崩の押波流岐廣庭、己未539年崩の建小廣國押楯は『古事記』に記述が無い。しかし、乙卯535年崩の廣國押建金日は『日本書紀』と同じく乙卯崩である。

 すなわち、沼名倉太玉敷、押波流岐廣庭、建小廣國押楯の時代には別に蘇我氏以外に天皇が存在していたことを示している。さらに、辛亥531年崩の袁本杼は丁未527年崩。そして、再び、丙戌506年崩の小長谷若鷦鷯、戊寅498年崩の意祁、丁卯487年崩の袁祁、甲子484年崩の白髪大倭根子は『古事記』に死亡日が無い。そして、己未479年崩の大長谷若建は己巳489年崩、丙申456年崩の穴穂は『古事記』に記述が無い。癸巳453年崩の男浅津間若子宿祢は甲午454年崩。庚戌410年崩の水齒別は丁丑437年崩。乙巳405年崩の伊耶本和氣は壬申432年崩。己亥399年崩の大鷦鷯は丁卯427年八月十五日崩で、『日本書紀』と異なるが『舊事本紀』「八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と同じである。しかし、仁徳83年は己亥で、『日本書紀』と異なる。

 すなわち、蘇我氏は日向襲津彦(武内宿祢)が葛城襲津彦を生んだ時、物部氏と血縁を持ったと考えられる。そして、その子が蘇我石河宿祢で、それ以降の蘇我氏の墓記を『古事記』の死亡年としたと思われる。そして、それ以前の、庚午310年崩の品陀和気は甲午394年崩。庚辰200年崩の帯中日子は壬戌362年崩。庚午190年崩の若帯日子は乙卯355年崩で、景行・垂仁は『古事記』に記述が無し。そして、辛卯前30年崩の御真木入日子印恵は戊寅318年崩であろう。それは丁度、尾張氏の政権下で、物部氏と姻戚関係だった可能性が高い。

 このように、特に蘇我氏には紀年がある資料が無く、しかも、『日本書紀』には『古事記』や『舊事本紀』以上の内容が記述されている。すなわち、蘇我氏や物部氏以外の資料を対応させなければならない。それを実行するため、物部氏の紀年と倭国の紀年等、複数の紀年を持つ氏族の資料と対応させたと考えられる。その紀年は中国の元号、『三國史記』の元資料の王の在位、高千穂宮の継続年数などで、それらを対応させた。その結果が『日本書紀』なので、『舊事本紀』や『古事記』、中国・朝鮮史書などを分析すれば、その結果で、真実の日本古代史が解る。すなわち、『日本書紀』は起きた事件を違う時期に挿入したり、主語を換えて挿入した。そんな記事だから、それを再検討すれば、真の古代史、論理的な古代史が解る。

2023年3月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書まとめ

  これまで、『日本書紀』と同時代の史書や金石文で『日本書紀』を検証してきたが、学者は『日本書紀』が720年に官僚が創った史書で史実ではないとの説、また、国史なので『日本書紀』が史実で他の史書・金石文が造作との意味不明な説、金石文を誰が何のために造作したのか証明不能なのに、証明できなければ良い説、更に神功皇后からは信頼できる、継体天皇から信頼できるなど、これも同じく、証明不能で評価が確定していない。

金石文が信頼できなければ、信頼できるものはないので、歴史など研究するべきでないのに、自説に都合の良い所は正しい、都合の悪い所は間違いと、良いとこ取りの、全く論理的とは言えない説が支持され、非論理的な説を定説にして、新説にする説すら存在し、根拠もないのにそれが通説となっているものすら存在する。

『稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣』の「獲加多支鹵」と『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』「治天下獲□□□鹵大王」をワカタケルと読むと決めてしまったが、獲は『日本書紀』で約60個有り、読みは「とら」える、「と」、「え」、「う」、「たも」ち、禽獲で「とりこ」以外なく、『古事記』は10個すべて「え」、『舊事本紀』も9個あって全て「え」で、歌の「わ」には「和」「涴」「輸」「倭」、表意文字に「丸」、「勾」を使っている。

もちろん、「獲」を「か」とも使っていないが、肥後で治天下の王は倭国・分身国・侏儒国・大漢国・扶桑国・女国から俀国・倭国・秦王国と変化した統治体制を見れば、埼玉県の支配者は畿内との間に「女国」が存在するため、都督・上毛野君・下毛野君の支配、熊本県は俀国か倭国が支配して、別王朝が存在して雄略帝とは決められないが、『日本書紀』の都合の良い所、若武が唯一の天皇だったと信じることで、ここの治天下大王を雄略帝と決めつけてしまった。

他書には『日本書紀』と異なる、倭の5王や多利思北孤などの王達が存在するのに、それを無理やり天皇と紐付け、合わない所は中国史書が間違いと片付けるが、日蝕の日干支や朔の日干支を検証すると、中国史書はほとんど正しいが、『日本書紀』や『舊事本紀』には合っているのも間違っているものも同程度あり、『日本書紀』は『舊事本紀』を記述した氏族の記録を流用し、『日本書紀』・『舊事本紀』両書とも他王朝の記録を流用したことが解った。

『古事記』を作成したのは仁賢天皇で葛城氏、完成させたのは馬子と推古天皇で蘇我氏なので、遠慮なく葛城氏が天皇で、その歴史を書けば良いが、日干支の記録を持たずに、「乙卯年三月十五日崩也」などと年干支と月と日の記録しか持たず、『古事記』を完成させた蘇我氏や、天氏や中臣氏が記述した『日本書紀』には日干支が記述された。

そして、『舊事本紀』は作成した推古天皇より後は物部氏の天皇ではないので、「天孫本紀」に物部氏の関連氏族を記述し、『舊事本紀』記述時の天皇・蘇我氏・葛城氏との関連を「皇孫本紀」以降に記述し、物部氏にとっては大連が天皇だったことを示し、『日本書紀』を作成した葛城氏・蘇我氏は日干支の記録を持っていないので、物部氏の記録を利用しなければならなかったと考えられる。

物部氏の記録は、最初の大連の大新河以前から記録があり、大連は「奉齋神宮」によってその地位を示し、石上神宮にその記録があった事が解り、石上神宮は布都大神を祀り、韴(布都)靈は建甕槌が持っていたもので、初代天皇天日方奇日方から引き継いだ記録と解る。

すなわち、『舊事本紀』も『古事記』も『日本書紀』が流用した氏族の記録だったことが解り、両書とも金石文と同等の真実を記述した文書だったと解った。

次からは、これらをもとに、真実の日本史を提示していきたい。

2023年3月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書その他2

 前項で、『続日本紀』も元明・元正天皇が完成させた『日本書紀』のため、出生を改竄された可能性に触れたが、桓武天皇が737年生れで806年死亡、父の光仁天皇は709年生れの782年死亡で、桓武天皇は28歳の時の子で、光仁天皇の父志貴皇子は716年に死亡し、志貴皇子は709年が25歳程度と考えるのが妥当で、684年生れとなってしまい、志貴皇子は早くても680年以降の生れで、天智天皇は680年以降も生存していたと考えられる。

『新唐書』は白壁以降は親子関係を記述せず、「欽明之孫女雄古立」、「其王孝德即位改元曰白雉・・・未幾孝德死其子天豐財立死子天智立・・・天智死子天武立死子總持立・・・其王文武立改元曰太寶・・・文武死子阿用立死子聖武立改元曰白龜・・・聖武死女孝明立改元曰天平勝寶・・・孝明死大炊立死以聖武女高野姫爲王死白壁立」と唐と同時代で「仲満慕華不肯去易姓名曰朝衡」と安倍仲麻呂の知識が反映された続柄が記述され、白雉と改元した天皇は豐財の父なので茅渟王と述べている。

730年建造の『美努岡万墓誌』で、「飛鳥浄御原天皇御世甲申年正月十六日勅賜連姓藤原宮御宇大行天皇御世大宝元年歳次辛丑」と701年に前天皇の諱が決まらないとしているのに、藤原宮天皇、すなわち701年は新しい藤原宮天皇、730年の『美努岡万墓誌』には藤原宮天皇と呼ばれる文武天皇が即位したことを示している。

710年和銅三年十一月、平城京遷都の時建造の『伊福吉部臣徳足比売墓誌』に「藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月・・・和銅三年十一月十三日己未」と文武天皇の崩じる前、すなわち、文武天皇が崩じる直前でも、大行天皇と記述し、730年建造の『美努岡万墓誌』にも、「藤原宮御宇大行天皇御世大宝元年歳次辛丑五月使乎唐国平城宮治天下大行天皇御世・・・天平二年」と建造時には大行天皇は不要でも記述されている。

677年建造の『小野毛人墓誌』には「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」、689年持統3年建造の『采女氏塋域碑』に「飛鳥浄原大朝廷」、700年建造の『那須国造碑』も「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮」と、天武天皇在位中に大行天皇とは記述されず、文武・元明天皇には大行でない天皇が存在したことを示している。

また、『長谷寺銅板法華説相図』には「歳次降婁漆菟上旬道明率引捌拾許人奉為飛鳥清御原大宮治天下天皇敬造」と大行天皇が記述されないにもかかわらず、干支を使わないで、『古事記』の「歳次大梁月踵侠鐘清原大宮昇即天位」の大梁が使用され、12年以内しか分別できないにも関わらず使用し、文武元明朝では飛鳥清御原大宮治天下と大梁や降婁が記述されれば理解できる用法があった事を示し、大行天皇を使用していないのだから、降婁は文武即位4年・大化6年・700年に造られたことを示している。

そして、708年に刻んだ『大村骨臓器銘文』には「後清原聖朝初授務廣肆藤原聖朝小納言闕」と藤原聖朝の前に後清原聖朝、すなわち、清原聖朝には前後があったようで、天武天皇元年文武クーデタの「遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮」、『古事記』「清原大宮昇即天位」が後清原聖朝、朱鳥元年「改元曰朱鳥元年仍名宮曰飛鳥淨御原宮」が前清原聖朝で、前清原聖朝が大化元年695年から、後清原聖朝が大宝元年からと考えられる。

すなわち、鸕野皇女は645年4・50歳位の蘇我山田石川麻呂大臣の孫なので、天智と同年代、母が一書に茅渟娘と記述され、茅渟王の妃の吉備姫の娘の可能性があり、吉備姫が稲目の家系で建元の権限を持ち、吉備姫の娘が鸕野皇女で2代目鏡姫は従妹の阿陪皇女・額田姫の可能性がある。

2023年3月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書その他1

  前項で、661年の死亡は吉備姫と述べたが、それでは豐財重日はいつ死亡したかと言うと、『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框』「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時請願之奉弥勒御像也」と、中宮天皇が病に罹患して伏せっていたので667年4月に仏像を建立して治癒を願い、668年『日本書紀』天智7年「或本云六年歳次丁卯三月即位」と667年3月に19歳なので天皇即位は出来ないが、実質天皇を代行したと記述される。

そして、『薬師寺東塔の擦管』「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」と680年に667年に罹患した皇祖母と呼ばれない中宮が崩じ、11月に伽藍を創り、『日本書紀』680年11月「高麗人十九人返于本土是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」と何故か661年の後岡本天皇の弔使が20年も留まっているのは奇異で680年に後岡本天皇中宮が崩じたのならよく理解できる。

また、この680年は白鳳20年で、白鳳は23年683年飛鳥淨御原宮天皇12年まで続き、近江天皇も中宮天皇も清原宮馭宇天皇も建元の権限を持つ天皇ではなかった事を示し、683年の「鏡姫王薨」の鏡姫が適当と考えられ、『興福寺流記』に「冬十月内大臣枕席不安嫡室鏡女王請曰敬造伽藍安置尊像大臣不許再三請之乃許」と、鎌足がなかなか許さなかったが、何度も願うので許し、しかも、鏡姫が鎌足の嫡室とされ、否定されてしまう、天智七年668年九月「中臣内臣使沙門法弁秦筆賜新羅上臣」と大臣ではなく、「即位二年冬十月・・・翌日而誓願无徴病患弥重・・・即時還宮遣東宮太皇弟・・・作汝可得之任仍授織冠以任太政大臣改姓爲藤原朝臣」と684年以降、すなわち、鏡姫が存命中は内臣で、嫡室とは到底呼べない地位で、また、『興福寺流記』は『日本書紀』を講義するために記述された書を基に記述し、『日本書紀』を普遍化した内容を基に記述されたもので、『日本書紀』から逸脱出来ないと考えられる。

『粟原寺鑪盤銘』に「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」と694年から715年にかけて伽藍を建造し、『新唐書』は「永徽初其王孝德即位改元曰白雉・・・未幾孝德死其子天豐財立死子天智死子天武立死子總持立」と孝徳は茅渟王・吉備姫、子の天豐財で子の天智、その子の天武、その子の總持と受け継がれ、『新唐書』「長安元年其王文武立改元曰太寶」と總持の子でない文武が即位したと記述し、蘇我倭国政権と 天豐日は唐と戦った戦犯政権の為、無視されたと考えられる。

すなわち、日並は天智の子、皇太子妃が額田比賣で日並は中臣大嶋が後見、すると、恐らく額田の父は大嶋・母が鏡姫の可能性があり、『興福寺流記』の大臣記事は中臣大嶋大臣の妃の鏡姫と天智天皇の死後の日並・天武天皇の嫡后額田姫が天智天皇の爲に伽藍を建造しようとした記事を流用したのではないだろうか。

大嶋は693年持統七年「賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物」と既に死亡していると記述されているが、『粟原寺鑪盤銘』では694年に存命で、この賻物記事は鎌足に対する記事、若しくは、大化7年と考えられ、大嶋は681年天武十年「大山上中臣連大嶋」で17位とこの頃初授で25歳頃と思われ、神祗伯は乙巳の変前の鎌足27歳で初授は15位以上の錦冠、大嶋は鎌足より低位で、690年に神祗伯となっているので、この時35歳程度で、娘が皇太子妃なら、伽藍建設が出来る地位になったとしてもおかしくはない。

そして、その伽藍を建設し続けたのだから、大嶋は文武天皇側の人物と解り、天武天皇の名が真人と臣下の名なので大嶋が文武朝の天武天皇の可能性があり、『新唐書』「文武死子阿用立死子聖武立」、その大嶋の子の草壁皇子の妃の阿陪皇女親子、阿陪皇女の子の聖武天皇が即位した可能性があり、天武天皇からは聖武天皇達が記述しているのだから、天武天皇が天智天皇の子や兄弟以外の人物である可能性が高い。


2023年3月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『藤氏家傳大師』4

  『藤氏家傳大師』藤原貞幹校写版は続けて「十四年皇太子攝政・・・攝政六年春三月遷都于近江國七年正月即天皇位是爲天命開別天皇・・・是太皇弟以長槍刺貫敷板帝驚大怒以將執害大臣固諌帝即止之太皇弟初忌大臣所遇之高自茲以後殊親重之後値壬申之亂從芳野向東土歎曰若使大臣生存吾豈至於此困哉人之所思略此類也七年秋九月新羅進調大臣即付使金東嚴賜新羅上卿庾信舩一隻・・・先此帝令大臣撰述禮儀刊定律令通天人之性作朝廷之訓・・・即位二年冬十月・・・翌日而誓願无徴病患弥重・・・遣東宮太皇弟・・・仍授織冠以任太政大臣改姓爲藤原朝臣十六日辛酉薨于淡海之第時年五十有六・・・庚午閏九月六日葬於山階・・・」、【十四年、皇太子が摂政となった。・・・攝政六年の春三月に近江國に遷都した。七年正月に天皇に即位した。これを天命開別天皇といた。・・・太皇弟が、長槍で敷板を刺し貫いて、帝は驚きとても怒って、將に成敗しようした。大臣は固く諌めて、帝は止めた。太皇弟は、初めて大臣を高く評価して、以後、殊に親しみを重ねた。後の壬申の乱になって、芳野から東の土地に向うのに、「もし大臣が生きていたら、私はこの困難にあわなかっただろうに」と嘆いた。人が思うのは、だいたいこんなものだ。七年の秋九月、新羅が年貢を納めた。大臣は、使者の金東嚴に付け、新羅の上卿庾信に船一隻を与えた。 ・・・これより先、 帝は大臣に禮儀を術作して律令を刊行し、天皇の思いに通じる、朝廷のおしえを作らせた。・・・即位二年の冬十月に・・・翌日病が悪化した。・・・東宮太皇弟を派遣し・・・織冠を授けて内大臣に任命し、姓を藤原朝臣とした。十六日、辛酉に淡海の第で薨じた。年令は五十有六。・・・庚午閏九月六日に、山階精舎に葬った。・・・】と訳した。

即位二年669年の「授織冠以任太政大臣改姓爲藤原朝臣」は奇異で、684年天武十三年の「更改諸氏之族姓・・・一曰眞人二曰朝臣・・・」、「・・・中臣連・・・凡五十二氏賜姓曰朝臣」と、684年に中臣朝臣に賜姓以降のはずで、692年5月に「鎭祭藤原宮地」と藤原宮の建設が始まり、十月に藤原姓賜姓は理解でき、『続日本紀』698年「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之」と、藤原朝臣に藤原朝臣を賜姓することは有り得ない。

すなわち、それ以前は中臣朝臣と思われ、鎌足は中臣朝臣だった姓に、一人だけ藤原姓を与えられ、天智紀は大化5年以降に記述されたから、藤原姓が記述され、698年に他の人々も藤原朝臣を与えられたのであり、685年「更改爵位之號仍増加階級明位階・・・并册八階」は、大化3年697年の可能性がある。

『日本書紀』は皇極天皇から天智天皇まで、恐らく大化5年699年頃に、俀国王の末裔が記述したと考えられ、吉備姫・茅渟王・萬豊日・豐財重日・天命開別の王位継承を記述していて、倭国の最高権力者嶋皇祖母に対して、もう一人の皇祖母が、「皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟等往居于倭飛鳥河邊行宮」、「皇太子聞天皇病疾乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟公卿等」、「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」と天皇になった皇祖母が存在した。

661年に死亡した皇祖母は、643年薨の嶋大臣妃の嶋皇祖母に対して、吉備姫の吉備皇祖母と考えられ、吉備姫は『古事記』「沼名倉太玉敷・・・小熊子郎女生御子布斗比賣命次寶王亦名糠代比賣・・・太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と糠代比賣が実子の妃というのは奇異である。

すなわち、糠代比賣と寶王は親子で糠代比賣が岡本宮天皇を生み、子若しくは姪の吉備姫・寶王が知奴王に嫁ぎ、知奴王が岡本宮皇太子、そして、寶王が皇極天皇さらに吉備姫皇祖母となり、倭王稲目の家系を継ぎ、661年に崩じ、後に、やはり稲目の家系の鏡姫が後継し、白鳳改元を行ったと考えると理に適う。