2023年3月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書その他1

  前項で、661年の死亡は吉備姫と述べたが、それでは豐財重日はいつ死亡したかと言うと、『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框』「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時請願之奉弥勒御像也」と、中宮天皇が病に罹患して伏せっていたので667年4月に仏像を建立して治癒を願い、668年『日本書紀』天智7年「或本云六年歳次丁卯三月即位」と667年3月に19歳なので天皇即位は出来ないが、実質天皇を代行したと記述される。

そして、『薬師寺東塔の擦管』「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」と680年に667年に罹患した皇祖母と呼ばれない中宮が崩じ、11月に伽藍を創り、『日本書紀』680年11月「高麗人十九人返于本土是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」と何故か661年の後岡本天皇の弔使が20年も留まっているのは奇異で680年に後岡本天皇中宮が崩じたのならよく理解できる。

また、この680年は白鳳20年で、白鳳は23年683年飛鳥淨御原宮天皇12年まで続き、近江天皇も中宮天皇も清原宮馭宇天皇も建元の権限を持つ天皇ではなかった事を示し、683年の「鏡姫王薨」の鏡姫が適当と考えられ、『興福寺流記』に「冬十月内大臣枕席不安嫡室鏡女王請曰敬造伽藍安置尊像大臣不許再三請之乃許」と、鎌足がなかなか許さなかったが、何度も願うので許し、しかも、鏡姫が鎌足の嫡室とされ、否定されてしまう、天智七年668年九月「中臣内臣使沙門法弁秦筆賜新羅上臣」と大臣ではなく、「即位二年冬十月・・・翌日而誓願无徴病患弥重・・・即時還宮遣東宮太皇弟・・・作汝可得之任仍授織冠以任太政大臣改姓爲藤原朝臣」と684年以降、すなわち、鏡姫が存命中は内臣で、嫡室とは到底呼べない地位で、また、『興福寺流記』は『日本書紀』を講義するために記述された書を基に記述し、『日本書紀』を普遍化した内容を基に記述されたもので、『日本書紀』から逸脱出来ないと考えられる。

『粟原寺鑪盤銘』に「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」と694年から715年にかけて伽藍を建造し、『新唐書』は「永徽初其王孝德即位改元曰白雉・・・未幾孝德死其子天豐財立死子天智死子天武立死子總持立」と孝徳は茅渟王・吉備姫、子の天豐財で子の天智、その子の天武、その子の總持と受け継がれ、『新唐書』「長安元年其王文武立改元曰太寶」と總持の子でない文武が即位したと記述し、蘇我倭国政権と 天豐日は唐と戦った戦犯政権の為、無視されたと考えられる。

すなわち、日並は天智の子、皇太子妃が額田比賣で日並は中臣大嶋が後見、すると、恐らく額田の父は大嶋・母が鏡姫の可能性があり、『興福寺流記』の大臣記事は中臣大嶋大臣の妃の鏡姫と天智天皇の死後の日並・天武天皇の嫡后額田姫が天智天皇の爲に伽藍を建造しようとした記事を流用したのではないだろうか。

大嶋は693年持統七年「賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物」と既に死亡していると記述されているが、『粟原寺鑪盤銘』では694年に存命で、この賻物記事は鎌足に対する記事、若しくは、大化7年と考えられ、大嶋は681年天武十年「大山上中臣連大嶋」で17位とこの頃初授で25歳頃と思われ、神祗伯は乙巳の変前の鎌足27歳で初授は15位以上の錦冠、大嶋は鎌足より低位で、690年に神祗伯となっているので、この時35歳程度で、娘が皇太子妃なら、伽藍建設が出来る地位になったとしてもおかしくはない。

そして、その伽藍を建設し続けたのだから、大嶋は文武天皇側の人物と解り、天武天皇の名が真人と臣下の名なので大嶋が文武朝の天武天皇の可能性があり、『新唐書』「文武死子阿用立死子聖武立」、その大嶋の子の草壁皇子の妃の阿陪皇女親子、阿陪皇女の子の聖武天皇が即位した可能性があり、天武天皇からは聖武天皇達が記述しているのだから、天武天皇が天智天皇の子や兄弟以外の人物である可能性が高い。


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