2026年3月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇3

  八年春正月庚辰朔は664年に遷都したと考えられる小墾田宮の八年、671年に蘇我赤兄が筑紫率に拝謁したのだろう。蘇我赤兄は数日前に左大臣になっている。三月己卯朔の耽羅遣使は正しい日干支、久麻伎遣使は673年と同じと考えられる。

夏五月戊寅朔の山科野の狩りは大皇弟が随行しているが藤原姓を名乗る鎌足を記す。『藤氏家伝』には、鎌足の葬に蘇我舎人臣が「内大臣朝臣」と呼び掛けている。朝臣は天武十三年に制定したとされている。すなわち、鎌足は692年に薨去した。690年に藤原への遷都を決め、692年遷都で、それを記念して藤原姓を与えられた可能性がある。この時、大嶋も藤原姓を名乗ったのだろう。そして、698年、不比等にのみ藤原姓の賜姓とした。朝臣制定時には藤原姓は含まれていない。 

筑紫都督府で統治した681年即位の草壁太子が大皇弟、草壁が日並にとっての大皇弟。すなわち、この時期の目線が日並からの目線の可能性が高い。秋八月丁未朔の高安城改修の中止、九月丁丑朔の新羅の遣使は正しい日干支、669年の記録と考えられる。唐からの命令なのだろう。

冬十月丙午朔の藤原内大臣家への見舞は俀国の暦、692年だろうか。それとも、この年に病気になったのだろうか。都督府の記録が俀国の、畿内の記録が正しい暦になったようだ。国名変更決定が影響したのだろう。唐の統治が始まった。

九年春正月乙亥朔の宮門内での大射、三月甲戌朔の中臣金連の祝詞、夏四月癸卯朔の法隆寺の火災は正しい日干支、670年の記録と考えられる。秋九月辛未朔の阿曇連頬垂を新羅に派遣したのは間違いの日干支、妥当な日が見当たらない。太陽暦の変換不良だろう。

年候補

9月辛未朔日 608 701

8月辛未晦日 644 737

9月辛未2日 391

2026年2月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇2

  四年春二月癸酉朔の間人大后の薨は俀国の暦、665年の出来事だろう。三月癸卯朔の間人大后のための三百卅人の出家は正しい日干支なので、違う年かもしれない。九月庚午朔の劉徳高派遣、十一月己巳朔の劉徳高饗応は俀国の暦、唐軍駐留が始まった。十二月戊戌朔の劉徳高への「賜物」は正しい日干支、白雉五年二月の劉徳高が船で帰った記事に続くのだろう。冬十月己亥朔の菟道訪問は正しい日干支、天智十年の記録、中宮天皇の宮五年なのだろうか。

五年春正月戊辰朔の高句麗の使者の能婁の来日は正しい日干支、夏六月乙未朔の能婁の帰国は俀国の暦、来日は朝鮮の記録なのだろうか。冬十月甲午朔の高句麗奄𨛃(あむす)の来日は俀国の暦、666年の記録で正しいだろう。

六年春二月壬辰朔の天豐財重日と間人皇女の合葬は正しい日干支、680年以降の記録だ。間人皇女が義姉妹での合葬は奇異だが、親子ならば理解できる。十一月丁巳朔の劉仁願の記録は正しい日干支、熊津都督府の記録可能性がある。

七年春正月丙戌朔は間違いの日干支、695年の日並の即位の可能性がある。また、浄御原七年、679年に中宮天皇が禅譲した可能性もある。二月丙辰朔の倭姫の皇后即位は俀国の暦、668年であっているだろう。夏四月乙卯朔の百済の使者来日は正しい日干支のため、いつのことか不明だ。高句麗も百済も王はこの年に退位したが、崩じて支持する土地や住民が消えたわけではない。668年に来日した記録が、公式ではなく、私的に旧倭国の豪族への訪問だった可能性がある。秋九月壬午朔と十一月辛巳朔の新羅の使節は俀国の暦、668年でよいだろう。

 

年候補

丙戌12 695(6941229日晦日)

丙戌2月朔日 668

2026年2月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇1

     天智天皇紀は662年から671年と655年、そして685年から694年の記録が入り混じっていると考えられる。『日本世記』は『古事記』と似た紀伝体の記録と考えられるから、天智自身、白鳳、朱雀、朱鳥、長津宮、近江宮、浄御原宮などの紀伝が入り混じっているのだろう。晦日と朔日を区別する正式な日干支の暦と、中国が駐留するためなのか、中国式の晦日を朔日と混同する暦が入り乱れる。それを、編年体に纏めたのが天智紀である。

元年春正月辛卯朔と三月庚寅朔の百済への援助は俀国の暦、662年で、俀国が入鹿に命じられたのだろう。この時、六月己未朔の百済の返礼、冬十二月丙戌朔と二年春二月乙酉朔の百済の避城遷都、州柔帰還、夏五月癸丑朔の高句麗への説明は正しい日干支、倭国の記録だろう。秋八月壬午朔は俀国の暦、筑紫から白村江へ出航した記録なのだろう。九月辛亥朔の百済降伏は正しい日干支、倭国の記録のようだ。

三年春二月己卯朔の大皇弟の廿六階は俀国の冠位ならば663年でも有りうる。天智即位三年の670年二月に671年制定する冠位法度を創るように命じたのだろうか。大皇弟は中宮天皇が即位しないと大皇弟といえない。夏五月戊申朔、冬十月乙亥朔、十二月甲戌朔の郭務悰来日、平伏、帰国は正しい日干支、664年、乙巳の変の原因だ。唐への逆賊の入鹿と嶋皇祖母を排除した。

2026年2月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 斉明天皇2

四年春正月甲申朔は正しい日干支、左大臣巨勢徳太の薨去だが、左大臣の出現は蘇我大臣以降の664年以降と考えられるので、677年の説話と考えられる。左右大臣にはそれ以上の太政大臣などの天皇以外の人物が存在した可能性が高い。秋七月辛巳朔の蝦夷朝獻は俀国の暦、658年で正しい。蝦夷は高句麗が支援していたのだろう。高句麗の勢力が弱まり、倭国に支援を求めたと思われる。正しい日干支の冬十月庚戌朔の建皇子の薨は677年の説話だろう。

十一月庚辰朔の有間皇子の反乱は俀国の説話で658年なのだろう。蘇我赤兄がまだ大臣になっていない。俀国の内紛で、天豐財重日が王位に就いたのに不満があったのだろう。有間皇子が20歳以上なら有間皇子が俀国王になるはずだったと思われる。

五年三月戊寅朔の天皇の吉野幸は正しい日干支で678年の事だろう。秋七月丙子朔の唐遣使は678年の記事、坂合部連の小錦下の冠位は664年の制定だ。六年春正月壬寅朔も正しい日干支、679年の記事で、高句麗が滅亡し、筑紫に亡命者が百人余、遣ってきた。夏五月辛丑朔は俀国の暦、俀国の暦なので660年の記録なのだろう。660年の高句麗使者の乙相賀取文が679年に亡命してきたのだろうか。十二月丁卯朔の百済救国軍派遣は俀国の暦、660年の説話だ。倭王の命令なのだろう。

七年春正月丁酉朔の西征、三月丙申朔の娜大津帰還、五月乙未朔癸卯の朝倉遷都は正しい日干支、680年の説話だろう。661年は白村江の前夜の帰還は奇異だ。『三国遺事』に開耀元年(681年)、新羅文武王が倭を鎮めたいと願って感恩寺を創建している。朝倉遷都も倭国にとって、朝倉は無関係だが、俀国にとっては故地、中国が進駐している筑紫都督府にも近い。

秋七月甲午朔の天皇崩は正しい日干支、680年に崩じた中宮天皇は11月に崩御なので、漢王の薨去だろうか。八月甲子朔、冬十月癸亥朔の天皇喪、難波へは俀国の暦661年である。十一月壬辰朔の飛鳥川原の天皇の喪は俀国の暦だが、680年の喪の可能性も捨てられない。川原宮と無関係とは思えない川原寺は673年から686年まで『日本書紀』に出現する。

2026年2月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 斉明天皇1

  斉明天皇の記事は655年から661年と674年から680年の記録が混じっていると考えられる。九州の暦がこの時の常用の暦、『日本書紀』の編纂者は正しい日干支に、記録を当てはめたと考えられる。斉明前紀の「橘豐日天皇之孫」の橘豐日は『新唐書』の「用明亦曰目多利思比孤」の法興帝の可能性がある。子が漢王と妹の大俣王、婿が彦人、子が茅渟王、おそらく、茅渟王は漢王の娘を妃にしたのだろう。一代の抜けがあり、その子が高向王(天萬豊日・筑紫君薩夜麻)と考えられる。

天萬豊日の妃が間人皇女、その子が天豐財重日、婿も漢王と考えられる。天豐財重日は倭国の舒明天皇の妃では年代が合わない。天豐財重日の再婚相手が蘇我赤兄か石川麻呂ならば、相応しい。筑紫君薩夜麻は百済で囚われの身、天豐財重日が王位を代行したようだ。再婚しているのだから、漢王は薨去している。

元年春正月壬申朔は正しい日干支だが、674年に飛鳥板盖宮に遷都したのだろう。672年に中宮天皇は浄御原に遷都したので、680年は『薬師寺東塔の擦管』の「清原宮馭宇天皇即位」八年にあたる。夏五月庚午朔も正しい日干支、龍に乗る者を見た。唐を恐れた説話でやはり674年の唐軍が駐留していたので、恐れをもって唐を見ていたのだろう。秋七月己巳朔は俀国の日干支、蝦夷と百済人が亡命してきた。唐・新羅連合軍と高句麗・百済連合軍の戦いがあり、唐が翌年、帰って行った。百済は敗れ日本に亡命してきたのだろう。正しい日干支の八月戊戌朔の唐への使者が帰った記事、冬十月丁酉朔の小墾田再建記事だが、655年なのだろう。唐との交渉が失敗し、小墾田再建後、嶋皇祖母は遷都した。

二年秋八月癸巳朔は俀国の暦、高句麗からの使者の説話で、援助を求めたのだろう。二年秋八月癸巳朔は正しい日干支、覩貨邏国人の漂流記事だが、675年の記録の可能性が高い。

2026年2月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 白雉

白雉年間は、孝徳天皇の崩御が記されるのだから、650年から654年の記録と660年から664年の白鳳の記録が混じっている可能性が高い。

白雉元年春正月辛丑朔の味經宮の賀正禮と二月庚午朔戊寅の白雉献上は正しい日干支である。二月庚午朔戊寅は「正月九日於麻山獲焉」と俀国の『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』と同じ記法だ。正しい日干支に正しい日付である。 二年春三月甲午朔の丈六の繍像の完成、 三年春正月己未朔と三月戊午朔の大郡幸も正しい日干支である。これらの記録は次に記述する記録の時期を示すための記述のように感じる。俀国の白雉改元や倭国の戸籍の完成などの記録を朝廷の暦に接合するための記事だったのではないだろうか。 夏四月戊子朔の無量壽經の講義は俀国の記録、筑紫の記録と考えられる。

四年夏五月辛亥朔の唐への遣使は正しい日干支、653年の記録だろう。五年春正月戊申朔の「鼠が倭都へ」は正しい日干支、次項の中臣鎌足への紫冠授与の日付のための説話を含めたのだろう。遷都はこの時期にしたわけでもないが、記した理由だろう。白鳳五年665年の記録で、664年の大綿冠授与を本来記すべきだったのだろう。秋七月甲戌朔は正しい日干支、百済と新羅が筑紫に向かったのだから、百済滅亡前、654年の記録だ。

冬十月癸卯朔の天皇病疾は正しい日干支、664年の記録だ。十二月壬寅朔の大坂磯長陵埋葬も正しい日干支、664年の記録である。10年の欠落は、倭国滅亡時になくなった、記録を示している。

2026年2月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 大化2

  三年春正月戊子朔は正しい日干支、新羅と高句麗が遣使した。『日本世記』の元資料なのだろうか? 夏四月丁巳朔も正しい日干支、「我子應治」と天智に国を任せた。667年の事なのだろう。「與天地之初 君臨之國也」と新しく出発しようという意気込みだ。天智七年正月(668年)の天智即位記事の「或本云 六年歳次丁卯三月即位」がこれに対応する。唐の進駐軍のため小郡宮を建て替えた。冬十月甲寅朔の有間温泉行は俀国の暦、647年かやはり667年の記事なのだろう。正しい日干支は記録に残っているので、それを流用したと思われる。

正しい日干支の四年春正月壬午朔の難波碕宮幸は668年なのだろうか。中宮天皇が難波碕宮で神を祀り、天智天皇が難波碕宮に行幸したのだろう。最高実力者が元旦に皇居から出ることはないだろう。正しい日干支の二月壬子朔の三韓に僧を派遣したのは648年なのだろう。夏四月辛亥朔は俀国の日干支、古い冠位を廃止した。左右大臣が古冠を使い続けているので、668年と考えられる。白鳳5年、鎌足は紫冠を賜り、647年の冠位が続いている。

五年春正月丙午朔の賀正は間違いの日干支、2月朔日が丙午だ。倭国の太陽暦の変換ミスなのだろうか。この2月に大紫を含む官位を制定して、入鹿が大紫を得ている。三月乙巳朔の阿倍大臣薨は俀国の暦、669年の記録だろう。阿倍夫人が681年薨なのだから、相応しい。

夏四月乙卯朔甲午の冠位授与は間違いの日干支、乙卯と甲午は一月以上離れている。668年か倭国の太陽暦の変換ミスで、649年の記録だろうか。五月癸卯朔新羅遣使も間違いの日干支、該当する年が無く、太陽暦と考えられ、649年の記録だろうか。三輪君色夫の小華下の冠位は647年に制定された倭国の冠位だ。

 

年候補

丙午 1月朔日 582 675 768

丙午 12月晦日30 431 710

丙午 12(12月小月) 607 731

 

乙卯 4月朔日 637 668