2026年2月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇1

皇極天皇から天智天皇の説話は大化中の天皇(701年以降703年迄)が記した記録が基本線である。天智天皇の子や孫の死亡時の年齢、不比等の死亡時の年齢から、乙巳の変は664年、白鳳4年のことだ。すなわち、六月丁酉朔戊申が正しい日干支でも正しいと言えないことになる。

倭国は太陽暦の併用、俀国は中国風の暦、そして、朝廷の公式文書は正しい日干支、これらが混在した。大化6年以降の天武天皇が稗田阿禮に記させた内容は『古事記』と同じく蘇我氏の太陽暦の内容だった。そして、出来上がったのが『日本世記』、712年に元明天皇の手に入った。それに、天武・持統紀を付け加えて編纂したのが『日本書紀』である。

安萬侶を天武紀の壬申の乱に記さないのは、この時まだ幼少で7歳程度、723年卒去で60歳程度だった。実際の壬申の乱は700年頃、安萬侶は天智天皇の子の天武天皇に仕えた可能性が高い。

642年から664年までの記録は乙巳の変で焼かれ、他氏族の記録を寄せ集めただけだ。それぞれの氏族の記録は住んだ宮の経過年数が解るだけだっただろう。世代が変わっても襲名するから同一の名前である。二世代目も1年から始まって重複したかもしれない。したがって、『日本世記』は絶対年が不明な紀伝体だった。それを、『日本書紀』の絶対年の編年体に置き換えた。すなわち、大化元年は中宮元年、白雉元年は俀国の孝徳元年、天智元年は白鳳元年ということだろう。乙巳の変や壬申の乱は元明天皇が名付けた戦乱なのだろう。大化の改新を名付けたのが歴史家であるように。

2026年2月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇3

  九年春二月丙辰朔の流星も正しい日干支、三月乙酉朔丙戌の日蝕は俀国の日干支だ。2日に日蝕は起こらないし、乙酉は30日晦日、丙戌が朔日だ。

十年秋七月丁未朔の大風、十一年春正月乙巳朔の有馬温泉からの帰京は正しい日干支、冬十一月庚子朔の新羅饗応も正しい日干支だ。新羅が高麗から攻撃を受けたので、友好国の倭に使節を新羅が送ったのだろう。

十二月己巳朔も正しい日干支、伊豫温泉に向かい、十二年春二月戊辰朔の星入月も正しい日干支だ。夏四月丁卯朔の伊豫から廐坂宮へ向かったのは俀国の暦、俀国王のようだ。正しい日干支の五月丁酉朔の法会、冬十月乙丑朔は新羅が百済を引き連れて来日した。百済は義慈王の即位直後、唐に朝貢したので、新羅の配下という建前なのだろう。

十三年冬十月己丑朔も正しい日干支で、天皇が崩じた。付け加えた丙午の天皇への誄は664年、天萬豊日孝徳天皇の崩御に対してだろう。この時、天智は16歳なのだから、また、実際は生まれていないので即位できず、668年に成人して即位と記された。661年に13歳なので、太子になった。舒明紀を編んだのは天智天皇、天智天皇に都合よく記すことができる。元正天皇の都合で大化を皇極天皇の後ろに挿入している。元正天皇の王朝は大化六年に始まったからだ。

皇極天皇は豊浦大臣の妃の吉備嶋皇祖母、すなわち田目皇女(鎌媛大刀自)だろう。蝦夷がまだ成人していなかったので、即位できなかったのだろうか。鎌媛大刀自は小治田・豊浦宮の参政なのだから、豊浦大臣妃の吉備嶋皇祖母、小治田と豊浦の皇祖母を意味したのだろう。

2026年2月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇2

  元年春正月癸卯朔は正しい日干支、豊浦皇子が天皇の璽印を得た。璽印は推古と舒明のみの記述で、法興帝が天子という地位に相応しい皇帝の印を作らせたのだろう。それを受け取ったのが推古前紀、日付を特定しない。そして、倭国に臣従する記しとして、舒明元年に舒明天皇に献上した。それ以前は「」、「天皇のしるし」だった。変わったのは俀国王が中国風の璽印を推古即位以前591年・法興元年に作ったからなのだろう。それを、天智政権が挿入したと考えられる。

夏四月辛未朔は俀国の暦で、屋久に使者を送った。「寶皇女爲皇后」の二年春正月丁卯朔は不明な日干支、候補日は665年のみだ。やはり、太陽暦の影響だろうか。中宮天皇の子たちの説明で、無関係とは言えない。三月丙寅朔、秋八月癸巳朔、九月癸亥朔は中国・朝鮮外交で正しい日干支だ。冬十月壬辰朔も正しい日干支、岡本宮遷都である。

三年春二月辛卯朔の掖玖人帰化、三月庚申朔の豊章人質も正しい日干支である。秋九月丁巳朔、冬十二月丙戌朔の温泉旅行も正しい日干支だ。四年冬十月辛亥朔、五年春正月己卯朔の対唐外交も正しい日干支である。百済外交で七年夏六月乙丑朔は正しい日干支、秋七月乙未朔は俀国の日干支である。この年は新羅が唐から楽浪郡公に賜姓され、百済は追い詰められたため、俀国にも支援を申し入れたのだろう。

八年春正月壬辰朔の日蝕は正しい日干支、秋七月己丑朔の労働時間の制定も正しい日干支である。大派王、世代的に大俣姫の子の茅渟王が舒明天皇に進言した。桑田姫が高向王の妃と考えている。

卯始朝之 巳後退之」は5~7時の夜明けから日没までの12時間前後と私は考えている。時間を計るのは太陽、午刻ならば昼までで理解できるが、巳刻は計れない。日の出から日没、一刻の長さが季節によって違う時代、標準時など無い。

 

年候補

丁卯130日晦日  665

2026年1月30日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇1

  夏四月壬午朔辛卯の雹零は推古・舒明期間中に当てはまらず、全く不明である。但し、辛卯の日は4月15日、『古事記』の豊御食炊屋比売の崩御が3月15日、偶然なのだろうか。倭国は太陽暦、陰暦への換算ミスか。四月壬午は6日、3月6日は『日本書紀』の推古天皇の崩御日である。これも偶然か。推古・舒明・乙巳の変は天智天皇が記させた、天智天皇に都合の良いものだ。聖徳太子が記されたのも、俀国皇太子だったのだから当然だ。

舒明天皇が彦人大兄の子としているが、舒明天皇は倭王なのだから、豊浦大臣、田眼皇女(鎌媛大刀自)が皇后である。彦人大兄の子というのは、俀国の王が彦人の子の茅渟王だったのだろう。日本の史書は兄弟の妃も天皇の娘に組み込まれた。太子たちの彦人・豊浦・麻伊古の妃を彦人の妃に組み込んだのだろう。例えば、用明天皇の妃は豊御食炊屋姫の婿の親や、義理の姉妹を組み込んだ。葛城直磐村の娘の廣子と息長眞手王の娘の廣姫は同一人物、子の麻呂子(彦人)、菟道磯津貝皇女も酢香手姫も伊勢の女王になった。

舒明天皇息長足日廣額の名は息長眞手王の娘の子だからだ。田村王の子ならば田目皇子が可能性大だ。したがって、秋九月己巳朔の推古帝の殯も俀国の暦の634年くらいしか当てはまらない。俀国王の彦人の崩御だろうか。628年、恵佐古大連が崩御し、布都姫の後継者の鎌媛大刀自が夫の豊浦(田目)皇子に皇位に就かせたのだろう。倭国政権の誕生だ。皇太子は蝦夷、626年推古卅四年に馬子が薨じ、後を継いで豊浦皇子が倭王、皇太子蝦夷が大臣である。

 

年候補

壬午4653 330日晦日 596

己巳830日晦日  634 9月朔日 598

2026年1月28日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇5

  廿七年夏四月己亥朔、廿八年十二月庚寅朔の珍現象は正しい日干支、畿内の記録だ。『舊事本紀』廾八年春二月甲午朔は間違いの日干支で『舊事本紀』の編纂は646年のこと。蘇我右大臣に、「侍卿、臣連 國造、伴造及諸百姓」を集めさせて即位を宣言した。この時、『舊事本紀』の作成と『日本書紀』の推古・舒明朝の記録を命じたのではないだろうか。一年で『舊事本紀』をまとめ切れるとは思えない。春三月甲子朔の「君后不忠者・妣に対する不孝者・それを隠した者」を重罪と宣言したのも646年だろう。

廿九年春二月己丑朔の「厩戸豐聰耳皇子」の薨は正しい日干支、麻伊古の薨去だったのだろうか。麻伊古の大連の賜姓は無いが、大連と記され、太子だった可能性が高い。上宮法皇は622年、「法興元丗一年歳次辛巳」621年の翌年の二月廿二日に薨去している。『舊事本紀』も壬午年622年だ。以降、俀国の記録が1年のズレを生じさせた。

卅二年夏四月丙午朔の「歸三寶具懐戒法」は前年、秋九月甲戌朔「校寺及僧尼」も、冬十月癸卯朔も前年の623年、この王は馬子の甥、彦人の子の茅渟王のようだ。卅三年春正月壬申朔は前年の624年、高麗王が僧惠潅を派遣した。隋と敵対する俀国と友好に務めたのだろう。これに対して夏五月戊子朔の大臣薨去は正しい日干支である。

卅六年春二月戊寅朔の「天皇臥病」は間違いの日干支で654年のようだ。654年に「高麗 百濟 新羅遣使奉弔」と弔問にやってきている。この頃、『古事記』から解るように、倭国は太陽暦を使用していたようで、崩御の戊子年の三月十五日癸丑、三月癸丑の日はピッタリだ。

三月丁未朔戊申の「日蝕」の日干支は九州の暦、戊申の日が朔である。2日に日蝕は起きない。

 

年候補

甲午2月朔 584 646

甲子3月朔 589 646

年候補

丙午4月朔 623 654

2026年1月26日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇4

  十七年夏四月丁酉朔、五月丁卯朔は正しい日干支、百済外交で倭国の記事だろう。十八年冬十月己丑朔は俀国の暦、新羅との記事である。廿年春正月辛巳朔も俀国の暦、酒宴の記事だ。歌の中に「於朋耆彌(おほきみ)」、『俀国伝』の「阿輩雞彌」は同一人物なのだろうか。

廾年春二月朔は正しい日干支、「改葬皇大夫人堅鹽媛」は『古事記』の橘豊日の妃の「意富藝多志比賣(おほぎたし)」、『日本書紀』の石寸名(いしきな)と考えられる。堅鹽媛は推古五年に薨去していたのではないだろうか。推古即位は39歳推古五年である。崇峻崩後の5年間は天皇が居ないことになる。推古五年まで、皇大夫人が最高権力者だったのではないだろうか。

廿一年十二月庚午朔は正しい日干支、片岡に遊んだ太子は麻伊古だろうか。廿二年六月丁卯朔、廿三年十一月己丑朔は俀国の暦だが、百済は俀国と対立しているので、百済の記録なのだろう。朝鮮も中国の暦を使っている。

『舊事本紀』では廿二年六月丁卯朔の日干支の時に、麻伊古に代わって物部恵佐古連が大連(太子)になった。聖徳太子はまだ生存中だ。廿六年秋八月癸酉朔は正しい日干支、高麗からの貢献で、秦王国の記事だ。倭国は隋に朝貢しているのだから、隋と対立した高麗は倭国に朝貢しないだろう。

『舊事本紀』の廾七年冬壬戌朔は間違いの日干支、630年11月だろうか。この冠位制定は、秦王国から見た冠位、『日本書紀』では推古十二年604年、おそらく、倭国の冠位だったのだろう。秦王国の崩壊は629年の舒明即位によってだった。翌年、倭国の冠位を受け入れたのだろう。

 

年候補

冬壬戌朔(1012)

壬戌12月朔604年 10月朔625 11月朔630 12月朔661

2026年1月24日土曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇3

  七年夏四月乙未朔、秋九月癸亥朔は正しい日干支、大地動が発生し、百済がその見舞いを行ったのだろう。三月甲申朔は俀国の暦で、新羅が領有する任那を守るために高麗・百済に使者を送った。冬十一月庚辰朔は正しい日干支、新羅攻撃を相談している。十年春二月己酉朔と夏四月戊申朔は俀国の暦、新羅討伐の将軍の來目皇子が筑紫にやってきた記事だ。

六月丁未朔は正しい日干支、來目皇子が病に臥し、新羅攻撃を中止した。十一年春二月癸酉朔と夏四月壬申朔は俀国の暦、筑紫での情報で、來目皇子が薨じ、兄の當麻皇子が将軍になったという知らせなのだろう。秋七月辛丑朔は正しい日干支で、當麻皇子が難波を出た。冬十月己巳朔の日干支は正しく、小墾田宮に遷都した。豊浦宮は倭国の宮で皇子が豊浦皇子なので、理に適う。それまでは倉梯宮が首都だったのだろう。

十一月己亥朔は俀国の暦、太子が「我有尊佛像」と述べている。俀国伝によく合う。十二月戊辰朔、十二年春正月戊戌朔は正しい日干支、畿内の記録だろう。『日本書紀』は「徳仁禮信義智」、俀国伝は「德仁義禮智信」と位順が違う。夏四月丙寅朔は俀国の暦、憲法十七條は上宮法皇の制定である。十三年夏四月辛酉朔、五月甲寅朔は正しい日干支、高麗から祝いが届き、倭国・秦王国の記事ならよく合う。与えた領土も坂田郡、息長氏の領地だ。

十五年春二月庚辰朔も正しい日干支で壬生部を定めた畿内の記事だ。秋七月戊申朔は正しい日干支、煬帝との面会が翌年大業三年なのだから、俀国に連れられて隋に渡ったのだろう。608年、十六年六月壬寅朔、秋八月辛丑朔、秋九月辛未朔の唐客裴世清の記事も正しい日干支で、俀国で不調だったので、倭国と友好関係になったのだろう。大業六年610年に倭国は隋に朝貢した。俀国は607年から隋と断交したので、よく合う。