『新唐書』は記す。孝徳天皇から、初めて親子関係が記録された。それ以前は、王名の羅列。唐が認めた「真正の系譜」は、中宮天皇の血筋だった。神功・推古は経歴を記したけれど、唐とは無関係。用明を多利思比孤と書くように、隋朝の時までを俀国人に聞いたのだろうか? 文武天皇の即位後、「大宝元年」と改元された。それは、唐が「日本国王」として正式に認めた証。倭王の血統は、白村江で終わった。
俀王の血は、薩野馬とその娘・天豊財へと継がれ、「日本国」の名が宣言された。だが、天智もまた、白村江で戦った中国の敵。その死後、唐は政敵・文武天皇を承認した。文武の血筋が途絶えた後、白壁王が即位。唐は、もはや興味を失った。敵の王統が復活したから。
『舊唐書』の一句。「日本国 もと小国 倭国を併せた」。それは、地名の言い換えではない。三つの王統を統一し、天子の系譜として再出発した証。列島の歴史は、ここから塗り替えられた。神武から皇極までは、王の羅列。だが、天豊財、中宮天皇の即位と、その子から始まるのが、新たな「天皇の歴史」だった。
天智天皇は「不改常典」、改める事がない法を創ったと『続日本紀』は記す。そして、「日本」という国名は、天命の正統性を、中国と日本国内に向けて宣言するための、始まりだった。