唐は倭が日本を統一したと記した。倭王の名、唐が認めた神武天皇から光孝天皇までに卑弥呼たちはいない。どうしてか?
西暦665年、唐帝国の高宗は、聖なる山「泰山」に登った。天に報告する大礼、封禅。それは、征服と平定を果たした天子が、自らの正統性を天下に示す、最大級の祭儀。そしてその場に、倭国の〝酋長″も姿を見せた。『旧唐書』・劉仁軌伝はこう語る。「麟徳二年 封泰山 新羅及百濟 耽羅 倭四国之酋長赴會」唐の儀礼に、東アジアの列国の王たちが招かれた。新羅、百済、耽羅、そして倭。では、この「倭」の代表者は、誰だったのか?
その姿を残したのは、ひとつの仏像だった。大阪・野中寺に安置された「銅造弥勒菩薩半跏思惟像」。その台座に刻まれた銘文が、語りかけてくる。「丙寅年四月大旧八日癸卯」・「中宮天皇大御身労坐之時」通説では「丙寅年=606年(推古14年)」とされてきた。しかし、四月八日が癸卯になる年は、606年ではない。この年は四月十九日癸卯だ。
暦を洗い直すと「666年」こそが、その条件に一致する唯一の年。実際は四月七日が癸卯。三月が大の月なので、晦日が朔日となり、八日が癸卯として記される。倭国は、中国に臣従した。だから、中国の暦を使用。それが〝大旧″の意味だろう。つまり、銘文が示すのは西暦666年4月7日。そして、前年665年は、唐の泰山封禅の年だった。この仏像は、唐との戦に敗れ、臣従することとなった倭王「中宮天皇」が、療養と再起を祈願して造らせたものだったのかもしれない。