大連の記録が語る、並立する王権。『先代舊事本紀』には、こうある。推古二十二年、物部恵佐古に「大連」の姓を賜う。馬子大臣が病に倒れたとき、国を担った者。同時期、「贄古大連」という人物も登場。崇峻天皇の夫人と再婚したが、『書紀』には登場しない。なぜか? それは、異なる王朝が、二人の「大連」を任命していたからである。つまり、この時代、三つの王権が、並立していた。
馬子を中心とする、倭国系の王。
物部恵佐古や贄古を大連にした、秦王国系の政権。
法興帝と法皇を擁する、俀国系の仏教王朝。
それらは、同じ時間軸に並び立っていた。『日本書紀』は、それらをひとつに統合した。であるから、矛盾が生まれる。暦のズレ。死亡日の違い。それは偶然ではない。記録された矛盾ではなく、記録された痕跡だった。そして最終的に、勝者の系譜に属した〝ひとりの太子″だけが、「聖徳太子」として記憶された。しかし、本当は、もうひとりの太子がいた。いや、三人いたのかもしれない。
同じ時代に、同じ仏教に生き、同じ理想を掲げながらも、違う暦を使い、違う系譜に属していた。そして、歴史の統合のなかで、それらはやがて、〝聖徳太子″という像に吸収された。