推古三十六年、『日本書紀』には日蝕の記録がある。三月丁未朔戊申「三月二日の空が暗くなった」、と。二日に日蝕? しかし、現代の天文学によれば、その日蝕が見られたのは「九州」のみ。関西では観測できなかったはずの現象が、なぜ2日の記録に残ったのか。それは、おそらく記録した主が、九州にいたからであろう。この丁未朔の干支は晦日の干支、2日戊申の干支が朔日の干支であった。
考えられるのは、夏磯媛や市鹿文と同じ〝朔と晦の混同″である。中国式の暦では、朔(新月)と晦(みそか)の区別が曖昧になりやすい。つまり、報告者が晦日を1日と誤って認識し、その翌日を〝2日″として記録してしまった。日蝕の観測地、報告の暦、そこには、別の王朝の気配が見え隠れする。
さらに、「五月五日 薬猟を行う」の記述もある。推古十九年、二十年、二十二年、繰り返し現れるこの言葉と日付。薬猟。それは、薬草を摘む、薬学の風習。中国や朝鮮半島でも行われていた習俗で、暦も中国式に近い。旧暦の五月五日では薬猟の時期に最大ひと月のズレが起こる。環境が違ってしまうのだ。つまり、太陽暦を使って夏至の頃に薬猟を行う政権があった。
