2026年4月8日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代  三千年前の声

神話は三千年前の記録ではなく言葉で話しかけている。その声、『日本書紀』、『先代舊事本紀』、『古事記』は異なる世界を伝えてくる。その異なる声の最初は神だ。最初の神は、『日本書紀』が国常立、続いて国狹槌、『先代舊事本紀』が天譲日天狭霧国禅日国狭霧。『古事記』が天之御中主で最初から主という王が。そして国狹槌は記されない。代わりに豐雲上野。順も語られ方も異なっていた。

記録ある時代になっても、鮪臣は異なる相手とライバル? その相手は『日本書紀』では、武烈天皇で恋敵、『古事記』では、なぜか清寧天皇の代に袁祁・意祁の〝政敵″として描かれる。そして、『日本書紀』には「時代のズレ」もあった。神功皇后が活躍したとされるのは西暦239年。その年は、中国の史書『三国志』に出てくる「景初三年」と重なる。しかし、神功皇后の時に出てくる百済の貴須太子の即位が奇異だ。日本では256年に即位したと記されているけれど、朝鮮半島の史書には375年即位。

 こんなにも時間がずれている。このずれは神功皇后だけではない。神武天皇も景行天皇にもあったことを、これまで述べた。〝歴史″は「誰が」「何のために」語るかで、まったく別の物語になる。この編者たちの主観を抜け出し、科学と論理で「真実の古代」を述べる時が来た。「奇異だ」、「矛盾している」、は終わりにしよう。『日本書紀』の編年は借り物の歴史、『古事記』と同じように紀伝体の史書と考えて、客観的に整理しよう。

2026年4月6日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 まとめ

  真実の古代では『日本書紀』の日干支が間違ったところに当て嵌めたものがあったことを示した。朔日の日干支をユリウス数から求め、日蝕の日干支を中国の日干支に比べたところ、ほゞ、あっていた。中国の日蝕の日干支が95%正しかったが、日本の日蝕の日干支は80%正しかっただけ。

私の暦は標準の暦、ユリウス数0がユリウス暦に換算すると紀元前4713年11日 正午(ロンドン)からの日数。それが基準だ。その数値が中国の史書の暦と95%、現代の旧暦と100%合っている。ただし、中国は晦イコール朔だった。そして、『日本書紀』は中国の史書と符合するように編んだことを示した。たとえば、卑弥呼の遣使が238年景初二年を239年景初三年に記した。中国を信用していたのだ。

日干支を使った最初は周武王の「十一年十二月戊午」、最初の晦の使用は「高祖三年冬十月甲戌晦」、後に高祖が10月を1月にするので、紀元前204年1月1日である。最初の朔の使用は「惠帝紀八年春正月辛丑朔」、紀元前188年1月1日である。

ところが、日本での最初は前667年十月丁巳朔、中国が知らない暦だ。日本には東洋の暦を創った羲和がいた。夏至や冬至を知っていた。天降って一百七十九萬二千四百七十餘歳と干支(おそらく十干)を数えた。高千穗の宮にいた年数伍佰捌拾歳を数えた。適当な数値なら、もっと簡単な数値で十分。ある種の記号を高千穂宮に残していたことが解る。4900年間も毎日数えたのだろう。

氏族の長は「太立宮柱於底磐之根」と宮柱を建立して、記録を残した。そしてその場所を移動する時も、同様に宮柱を建立した。そして、その記録が、朔日を基準にした日干支と記録だった。史書に適当な数値や日干支が無いことを述べてきた。

以降、『日本書紀』の記録挿入場所が20%間違っていたことを踏まえ、中国史書、『古事記』、『旧事本紀』を利用して、真実の古代史を検証していこう。

2026年4月3日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇6

十年春正月甲辰朔の卿大夫への饗応、二月癸酉朔と六月辛未朔戊子の吉野宮へ行幸、三月癸卯朔の二槻宮へ行幸、夏四月壬申朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、秋七月辛丑朔の日蝕、八月庚午朔の多臣品治への直廣壹授与、九月庚子朔の若櫻部五百瀬への直大壹の贈、十一月己亥朔の大官大寺沙門弁通へ食封の加増、十二月己巳朔の金光明經を読ませた記録は正しい日干支、畿内の記録だ。五月壬寅朔の大錦上秦造綱手の忌寸賜姓は九州の日干支だが、大錦上は天武十四年には廃止され、忌寸は天武十三年以降なので、684年の内容である。大来皇女の伊勢斎宮の紀年なのだろうか。冬十月己巳朔の右大臣丹比眞人の卒も九州の暦、都督府の記録だ。

十一年二月丁卯朔の直廣壹當麻國見を東宮大傅にした記録は九州の暦、高市皇子の薨去で、若い文武天皇が東宮、その後見が國見で、都督府の影響があったため、中国風名称の大傅は相応しい。20歳に達していない天皇の為の後見なのだろうか。三月丁酉朔の大法会、夏四月丙寅朔の爵位授与、五月丙申朔の雨乞いは正しい日干支、たくさんの爵位授与から解るように、日並(天武天皇)の即位によって、世代交代が起こったことを示す。六月丙寅朔の恩赦は九州の暦、都督府の閉鎖による赦免だろう。秋七月乙未朔の恩赦は正しい日干支、畿内の記録である。八月乙丑朔の文武天皇即位は九州の暦、この時、浄御原には大友皇子が太政大臣、文武天皇が蜂起した。

『古事記』の「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期聞」、浄御原天皇の御世に潜伏していたが、機に応じ蜂起した。その王は賢后と比較し、また漢民族の始祖の軒后、中国の初代の夏王朝の初代の文命や殷王朝の初代の天乙と比較した安萬侶の目の前に立つ元明天皇である。中国は元明を文武と理解した。

2026年4月1日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇5

  七年春正月辛卯朔の高市皇子への淨廣壹授与、三月庚寅朔の日蝕、夏四月庚申朔の雨乞い、六月己未朔の高麗沙門福嘉の還俗、秋七月戊子朔の吉野宮への行幸、八月戊午朔の藤原宮地への行幸、九月丁亥朔の日蝕、冬十月丁巳朔の観兵の詔勅、十一月丙戌朔の吉野宮行幸、十二月丙辰朔の諸国に陣法を習わせた記録は畿内の記録である。二月庚申朔の新羅の遣使は九州の暦、都督府の記録である。五月己丑朔の吉野宮へ行幸も九州の暦、鸕野讃良皇女か高市太政大臣が行幸したのだろうか。

八年春正月乙酉朔の布勢御主人と大伴御行を加増と氏上授与、三月甲申朔の日蝕、夏四月甲寅朔の河内王へ淨大肆贈、六月癸丑朔の河内国更荒郡の白山鷄献上、秋七月癸未朔の諸國へ巡察使派遣、八月壬子朔の飛鳥皇女のための百四人出家、九月壬午朔の日蝕、冬十月辛亥朔朔の白蝙蝠捕獲、十一月辛巳朔の恩赦、十二月庚戌朔の藤原宮への遷都は正しい日干支、畿内の記録である。文武天皇の遷都は704年なので、天智天皇が藤原宮に遷ったのだろうか。日並は文武天皇が蜂起した時、浄御原に居たとある。八年は五月癸未朔の内裏での饗応のみ九州の暦である。

九年春正月庚辰朔の舍人皇子へ淨廣貳授与、潤二月己卯朔と八月丙子朔と十二月甲戌朔の吉野宮へ行幸、三月戊申朔の新羅から遣使、夏四月戊寅朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、五月丁未朔の隼人大隅への饗応、六月丁丑朔の雨乞い、冬十月乙亥朔の菟田吉隠への行幸は正しい日干支、畿内の記録である。秋七月丙午朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、九月乙巳朔の恩赦は九州の暦、都督府の記録だろう。

2026年3月30日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇4

  五年春正月癸酉朔の叙位、三月壬申朔の宴、五月辛未朔の百濟淳武微子への褒美、秋七月庚午朔の吉野宮行幸、八月己亥朔の墓記の上進、九月己巳朔の音博士と書博士に下賜、冬十月戊戌朔の日蝕は畿内の記録である。二月壬寅朔の仏教に関する詔勅は九州の暦、天皇の言葉に天皇と発言するのは奇異で、九州の天皇(高市太政大臣)が上位の天智天皇の事を述べたのだろう。夏四月辛丑朔の除籍した奴婢の扱いの詔勅も九州の記録である。九州は勢力争いで奴婢が多数発生したのだろう。十二月戊戌朔の薬の博士や咒禁の博士に褒美を与えたのも九州の記録である。

六年春正月丁卯朔の高市皇子に増封、二月丁酉朔の三月三日に伊勢へ出発する詔勅は畿内の記録である。但し、本当に出発するのは三月六日で、太陽暦の可能性がある。『古事記』が太陽暦で編まれていることと対応している。三月丙寅朔の高市麿の諫言は九州の暦である。五月乙丑朔の阿胡行宮も同じ九州の暦である。廣瀬王、當麻智徳、高市麿は『続日本紀』で702・3年から出現する。これらの記録は大化六年(700年)の記録と考えられる。夏四月丙申朔の大伴友國への贈直大貳は正しい日干支だが、大化六年の戦死の可能性がある。

潤五月乙未朔の大水、六月甲子朔の山岳の河の祈祷、秋七月甲午朔の大赦、八月癸亥朔の赦罪、九月癸巳朔の四畿内の視察の使者、冬十月壬戌朔の山田御形に務廣肆授与は正しい日干支、畿内の記録である。十一月辛卯朔の新羅からの遣使は九州の暦、新羅の孝照王即位の使節なのだろう。十二月辛酉朔の音博士に水田を授与は正しい日干支、畿内の記録である。

2026年3月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇3

  三年春正月甲寅朔の天皇の朝賀、三月癸丑朔の大赦、五月癸丑朔と秋七月壬子朔の新羅弔使の説話は九州の暦なので、都督府の記録だろう。二月甲申朔の防人の年限の詔勅、夏四月癸未朔の新羅人を下毛野に投化、六月壬午朔の筑紫大宰への衣裳下賜、秋八月辛巳朔の神事は正しい日干支、畿内の記録である。

潤八月辛亥朔は九州の暦で、戸籍を創る詔勅である。戸籍は白雉三年や天智九年に詔勅を出したので、九州では天智九年の戸籍と様式が違っていたのだろう。九月庚辰朔の石上麿、石川虫名の筑紫派遣、冬十月庚戌朔の高安城行幸、十二月己酉朔の雙六禁止は畿内の記録だ。十一月己卯朔の高田石成が軍を削減したことで褒美を与えた。これは九州の暦で、九月の戸籍の詔勅で、軍は4軍までとあったのを、3軍に減らしたためだ。

四年春正月戊寅朔の朝賀は九州の暦、都督府の記録である。大嶋は中臣朝臣で、ここから藤原姓を外れた。

二月戊申朔の腋上行幸、夏四月丁未朔の廣瀬大忌神與龍田風神の祭り、五月丙子朔と八月乙巳朔と冬十月甲辰朔の吉野宮行幸、六月丙午朔の泊瀬行幸、十一月甲戌朔、十二月癸卯朔の金高訓の記録は正しい日干支で畿内の説話である。三月丁丑朔の京と畿内の老人に祝いの物を渡し記録は九州の暦、天智天皇の首都は畿内にあるのに、京が別に記されているのは、この京が畿内でなく筑紫だったことを示している。秋七月丙子朔の公卿百寮に新しい朝服を配った記録、九月乙亥朔の戸籍の造り方の詔勅は九州の暦である。

2026年3月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇2

  元年春正月丙寅朔の皇太子の殯は2月の朔日の日干支である。他に候補日が無い。すなわち、1月晦日の記録を2月朔日と変換した可能性がある。大化元年、日並の即位の説話だろうか。三月乙丑朔の高句麗人の投化、夏四月甲午朔の筑紫大宰が献上した新羅人の投化は正しい日干支、畿内での記録である。五月甲子朔の殯は畿内での大海皇子への殯なのだろう。

元年六月癸巳朔の恩赦、秋七月癸亥朔の徳政令は畿内の政策である。八月壬辰朔の御青飯の記録は九州の暦、都督府の記録である。九月壬戌朔の国葬の祭壇を設けた記録は畿内、冬十月辛卯朔の陵墓作成は都督府の記録である。この大規模な葬儀は、九州の天皇の大海皇子の葬儀ではなく、大化元年695年の記録の可能性が高い。天皇の即位時に常に言及する「不改常典」を定めた天智天皇、この葬礼も常典なのだろうか。十二月辛卯朔の路迹見の新羅遣使は畿内の記録である。

二年春正月庚申朔の皇太子による殯、三月己未朔の藤原朝臣大嶋の誄も、やはり、大化二年(696年)の記録なのだろう。694年に建造を始めた粟原寺の鑪盤銘には大嶋の名があった。皇太子は十市皇女の婿の大友皇子と考えられる。九州の記録の六月戊子朔の恩赦、畿内の記録の八月丁亥朔の大伴安麻呂の誄、九州の記録の冬十一月乙卯朔の皇太子の殯宮の慟哭も同様だ。大伴安麻呂は714年に大納言兼大將軍正三位の地位で薨去した。大嶋と共に誄する地位に相応しい。

二月庚寅朔の大宰からの新羅の品の献上も新天皇への献上で、畿内の記録だ。夏五月戊午朔の百済人の甲斐移住、秋七月丁巳朔の大旱魃、九月丙辰朔の饗耽羅佐平加羅の饗応、十二月乙酉朔の蝦夷饗応は畿内の記録である。