天武天皇の記録は『新唐書』の天武・總持朝の記録(『日本世記』)の内容を記したと考えられる。天武・持統朝の記録があれば、『古事記』は不要だった。続き柄は元明天皇の続き柄と考えられる。『続日本紀』の文武・元明天皇は桓武天皇の血筋の天武・總持天皇の続き柄を記したと私は理解した。『粟原寺鑪盤銘』には694年に日並が皇太子の時、「惶惶」と恐れていた。近江朝(藤原遷都)天智天皇が病弱、筑紫都督府のもう一人の皇祖母の持統天皇が中国を後ろ盾に、かなりの権力を持っていたのだろう。
鸕野皇女は天智天皇の世代、阿陪皇女はその娘か姪だろう。鸕野皇女は蘇我氏の娘で大海皇子はその婿、稲目の系譜である。天智天皇は馬子の系譜の古人の婿である。672年の壬申の乱は蘇我氏内の権力闘争で蘇我氏が壊滅した大戦争だったのだろう。大皇弟の蘇我赤兄の婿と考えられる有間皇子が敗れて、同族の蘇我山田石川麻呂の婿の大海皇子は筑紫都督府の中宮天皇に従い、天智天皇が畿内で成務を遂行した。壬申の乱は有間皇子の反乱と697年から704年の間に起こった、日並
(『新唐書』の天武天皇)と草壁の子の輕天皇との戦いである。
天武天皇は浄御原御宇天皇と呼ばれる。そして、『古事記』は文武天皇の即位前、浄御原に天皇がいたと記す。天智天皇は近江で崩じた近江天皇、筑紫浄御原は大海皇子と草壁皇子が天皇である。草壁皇子薨去後、浄御原宮は日並の婿の高市太政大臣に任せ、藤原宮に遷ったようだ。
しかし、鸕野皇女が中国を後ろ盾に勢力を保ったのだろう。『大村骨臓器銘文』には清原宮→藤原宮→大宝元年と記され、日並は藤原宮(東宮)の天皇とわかる。東宮は聖徳太子、開別皇子、大皇弟(有間皇子)、日並が呼ばれる。九州俀国の首都に対する東国畿内の宮が東宮、それが皇太子と考えれば理に適う。