2026年2月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 斉明天皇2

四年春正月甲申朔は正しい日干支、左大臣巨勢徳太の薨去だが、左大臣の出現は蘇我大臣以降の664年以降と考えられるので、677年の説話と考えられる。左右大臣にはそれ以上の太政大臣などの天皇以外の人物が存在した可能性が高い。秋七月辛巳朔の蝦夷朝獻は俀国の暦、658年で正しい。蝦夷は高句麗が支援していたのだろう。高句麗の勢力が弱まり、倭国に支援を求めたと思われる。正しい日干支の冬十月庚戌朔の建皇子の薨は677年の説話だろう。

十一月庚辰朔の有間皇子の反乱は俀国の説話で658年なのだろう。蘇我赤兄がまだ大臣になっていない。俀国の内紛で、天豐財重日が王位に就いたのに不満があったのだろう。有間皇子が20歳以上なら有間皇子が俀国王になるはずだったと思われる。

五年三月戊寅朔の天皇の吉野幸は正しい日干支で678年の事だろう。秋七月丙子朔の唐遣使は678年の記事、坂合部連の小錦下の冠位は664年の制定だ。六年春正月壬寅朔も正しい日干支、679年の記事で、高句麗が滅亡し、筑紫に亡命者が百人余、遣ってきた。夏五月辛丑朔は俀国の暦、俀国の暦なので660年の記録なのだろう。660年の高句麗使者の乙相賀取文が679年に亡命してきたのだろうか。十二月丁卯朔の百済救国軍派遣は俀国の暦、660年の説話だ。倭王の命令なのだろう。

七年春正月丁酉朔の西征、三月丙申朔の娜大津帰還、五月乙未朔癸卯の朝倉遷都は正しい日干支、680年の説話だろう。661年は白村江の前夜の帰還は奇異だ。『三国遺事』に開耀元年(681年)、新羅文武王が倭を鎮めたいと願って感恩寺を創建している。朝倉遷都も倭国にとって、朝倉は無関係だが、俀国にとっては故地、中国が進駐している筑紫都督府にも近い。

秋七月甲午朔の天皇崩は正しい日干支、680年に崩じた中宮天皇は11月に崩御なので、漢王の薨去だろうか。八月甲子朔、冬十月癸亥朔の天皇喪、難波へは俀国の暦661年である。十一月壬辰朔の飛鳥川原の天皇の喪は俀国の暦だが、680年の喪の可能性も捨てられない。川原宮と無関係とは思えない川原寺は673年から686年まで『日本書紀』に出現する。

2026年2月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 斉明天皇1

  斉明天皇の記事は655年から661年と674年から680年の記録が混じっていると考えられる。九州の暦がこの時の常用の暦、『日本書紀』の編纂者は正しい日干支に、記録を当てはめたと考えられる。斉明前紀の「橘豐日天皇之孫」の橘豐日は『新唐書』の「用明亦曰目多利思比孤」の法興帝の可能性がある。子が漢王と妹の大俣王、婿が彦人、子が茅渟王、おそらく、茅渟王は漢王の娘を妃にしたのだろう。一代の抜けがあり、その子が高向王(天萬豊日・筑紫君薩夜麻)と考えられる。

天萬豊日の妃が間人皇女、その子が天豐財重日、婿も漢王と考えられる。天豐財重日は倭国の舒明天皇の妃では年代が合わない。天豐財重日の再婚相手が蘇我赤兄か石川麻呂ならば、相応しい。筑紫君薩夜麻は百済で囚われの身、天豐財重日が王位を代行したようだ。再婚しているのだから、漢王は薨去している。

元年春正月壬申朔は正しい日干支だが、674年に飛鳥板盖宮に遷都したのだろう。672年に中宮天皇は浄御原に遷都したので、680年は『薬師寺東塔の擦管』の「清原宮馭宇天皇即位」八年にあたる。夏五月庚午朔も正しい日干支、龍に乗る者を見た。唐を恐れた説話でやはり674年の唐軍が駐留していたので、恐れをもって唐を見ていたのだろう。秋七月己巳朔は俀国の日干支、蝦夷と百済人が亡命してきた。唐・新羅連合軍と高句麗・百済連合軍の戦いがあり、唐が翌年、帰って行った。百済は敗れ日本に亡命してきたのだろう。正しい日干支の八月戊戌朔の唐への使者が帰った記事、冬十月丁酉朔の小墾田再建記事だが、655年なのだろう。唐との交渉が失敗し、小墾田再建後、嶋皇祖母は遷都した。

二年秋八月癸巳朔は俀国の暦、高句麗からの使者の説話で、援助を求めたのだろう。二年秋八月癸巳朔は正しい日干支、覩貨邏国人の漂流記事だが、675年の記録の可能性が高い。

2026年2月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 白雉

白雉年間は、孝徳天皇の崩御が記されるのだから、650年から654年の記録と660年から664年の白鳳の記録が混じっている可能性が高い。

白雉元年春正月辛丑朔の味經宮の賀正禮と二月庚午朔戊寅の白雉献上は正しい日干支である。二月庚午朔戊寅は「正月九日於麻山獲焉」と俀国の『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』と同じ記法だ。正しい日干支に正しい日付である。 二年春三月甲午朔の丈六の繍像の完成、 三年春正月己未朔と三月戊午朔の大郡幸も正しい日干支である。これらの記録は次に記述する記録の時期を示すための記述のように感じる。俀国の白雉改元や倭国の戸籍の完成などの記録を朝廷の暦に接合するための記事だったのではないだろうか。 夏四月戊子朔の無量壽經の講義は俀国の記録、筑紫の記録と考えられる。

四年夏五月辛亥朔の唐への遣使は正しい日干支、653年の記録だろう。五年春正月戊申朔の「鼠が倭都へ」は正しい日干支、次項の中臣鎌足への紫冠授与の日付のための説話を含めたのだろう。遷都はこの時期にしたわけでもないが、記した理由だろう。白鳳五年665年の記録で、664年の大綿冠授与を本来記すべきだったのだろう。秋七月甲戌朔は正しい日干支、百済と新羅が筑紫に向かったのだから、百済滅亡前、654年の記録だ。

冬十月癸卯朔の天皇病疾は正しい日干支、664年の記録だ。十二月壬寅朔の大坂磯長陵埋葬も正しい日干支、664年の記録である。10年の欠落は、倭国滅亡時になくなった、記録を示している。

2026年2月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 大化2

  三年春正月戊子朔は正しい日干支、新羅と高句麗が遣使した。『日本世記』の元資料なのだろうか? 夏四月丁巳朔も正しい日干支、「我子應治」と天智に国を任せた。667年の事なのだろう。「與天地之初 君臨之國也」と新しく出発しようという意気込みだ。天智七年正月(668年)の天智即位記事の「或本云 六年歳次丁卯三月即位」がこれに対応する。唐の進駐軍のため小郡宮を建て替えた。冬十月甲寅朔の有間温泉行は俀国の暦、647年かやはり667年の記事なのだろう。正しい日干支は記録に残っているので、それを流用したと思われる。

正しい日干支の四年春正月壬午朔の難波碕宮幸は668年なのだろうか。中宮天皇が難波碕宮で神を祀り、天智天皇が難波碕宮に行幸したのだろう。最高実力者が元旦に皇居から出ることはないだろう。正しい日干支の二月壬子朔の三韓に僧を派遣したのは648年なのだろう。夏四月辛亥朔は俀国の日干支、古い冠位を廃止した。左右大臣が古冠を使い続けているので、668年と考えられる。白鳳5年、鎌足は紫冠を賜り、647年の冠位が続いている。

五年春正月丙午朔の賀正は間違いの日干支、2月朔日が丙午だ。倭国の太陽暦の変換ミスなのだろうか。この2月に大紫を含む官位を制定して、入鹿が大紫を得ている。三月乙巳朔の阿倍大臣薨は俀国の暦、669年の記録だろう。阿倍夫人が681年薨なのだから、相応しい。

夏四月乙卯朔甲午の冠位授与は間違いの日干支、乙卯と甲午は一月以上離れている。668年か倭国の太陽暦の変換ミスで、649年の記録だろうか。五月癸卯朔新羅遣使も間違いの日干支、該当する年が無く、太陽暦と考えられ、649年の記録だろうか。三輪君色夫の小華下の冠位は647年に制定された倭国の冠位だ。

 

年候補

丙午 1月朔日 582 675 768

丙午 12月晦日30 431 710

丙午 12(12月小月) 607 731

 

乙卯 4月朔日 637 668

2026年2月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝徳天皇・大化1

天萬豊日が即位した。『新唐書』が言うように天豐財重日の父、子の有間皇子が太子だったが、娘が皇位を継承した。『日本書紀』の大皇太弟天武は中宮天皇の弟の有間皇子の可能性が高い。有間皇子と蘇我赤兄が起こした謀反で赤兄が許されるとは思えない。赤兄の婿が天武天皇、有間皇子が婿ならよく理解できる。孝徳天皇の項目がない理由は、即位数ヶ月後、俄かに崩御したからだ。大甦娘が美濃津子娘と考えれば、大海皇子が蘇我倭国の皇位継承の正当性を持つ。

大化元年七月丁卯朔は正しい日干支、おそらく、茅渟王の娘の間人を皇后にした。天豐財重日の母なのだろう。664年の記録である。中宮天皇が即位した665年に間人大后と呼ばれ、薨去している。八月丙申朔も正しい日干支、戸籍を創った。戸籍は顕宗元年に押磐を山部連の籍に入れたとあり、戸籍制度は既にあった。九月丙寅朔も正しい日干支、兵力を調査した。665年若しくは695年の可能性がある。冬十二月乙未朔の難波長柄豐碕遷都は皇極四年にも記され、645年と664年と665年、倭国と俀国の首都なのだろう。

二年春正月甲子朔は間違いの日干支、645年12月30日で、「改新之詔」の名が大化の改新ならば、696年なのだろう。挿入間違い? 二月甲午朔は正しい日干支、蘇我右大臣に詔勅させたのだから666年だろう。野中寺の『銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と中宮天皇の具合が悪かった。だから、代読させたのだろう。三月癸亥朔は正しい日干支、東国の臣下に詔勅を述べた。『那須国造碑』で永昌元年689年に那須国造が追大壹を得ていりので、それ以前、やはり、詔勅は666年のことだろう。俀国王は常用が九州の暦、正しい日干支は借り物の暦と理解するべきだろう。

 

年候補

甲子 1月朔日 677

甲子 12月晦日30 645

2026年2月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇3

   五月庚戌朔は俀国の日干支、5月2日の干支である。月食は15日に発生するので癸亥に発生したが、2日ズレ、17日の乙丑にしてしまったのだろう。六月己卯朔は正しい日干支、高句麗からの遣使だ。秋七月己酉朔は俀国の暦、百済国が朝廷に調を献上したが、不和があったと記している。俀国に都合がよい記録である。八月戊申朔は正しい日干支、茨田池に藻が異常発生したようだ。九月丁丑朔は俀国の日干支、茅渟王の埋葬なのだろう。640年に改元しているので、豊浦王と同時期に崩御したのだろうか。冬十月丁未朔は正しい日干支、朝堂庭に臣下を集め、地位の継承を宣言した。吉備嶋皇祖母から鎌媛大刀自に女王の政権交代があった。子の蝦夷が成人していたなら、最初から即位している。十一月丙子朔は俀国の暦、山背大兄王を攻撃した。『舊事本紀』が嶋大臣の子の豊浦大臣を蝦夷なのに入鹿と記すのと同様の一世代削除の現象があるのだろう。

三年春正月乙亥朔の中臣鎌子を神祗伯にしようとしたのは俀国の暦だ。藤原氏の『家傳』には崗本天皇の世に錦冠を得、三島の別業に帰ったと記され、すぐに「俄而崗本天皇崩」と記される。そして、錦冠を賜ったが、すぐに紫冠を白鳳五年665年に賜った。それは、天萬豐日天皇が俄かに崩御し、庶務を委ねられた皇太子から賜ったと記されている。すなわち、俀国の暦の記述は中宮天皇の記録を挿入した、665年正月朔日の記録を643年12月晦日、俀国歴664年1月朔日に挿入したということだ。夏六月癸卯朔は正しい日干支、大伴馬飼が百合を献上した。

四年夏四月戊戌朔は俀国の暦、学問僧の鞍作得志の高句麗帰国の説話なので、朝鮮の暦かもしれない。六月丁酉朔は正しい日干支、乙巳の変の計画だ。664年の大紫蘇我連大臣(入鹿)と嶋皇祖母(法提郎)の崩御にあたる。

2026年2月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇2

    元年春正月丁巳朔は正しい日干支、皇后が即位した。入鹿の説話は斉明天皇の時代の記録と考えられる。二月丁亥朔も正しい日干支、百済と高句麗との外交だ。新羅との戦いが始まり、どう対抗するかを話し合ったのだろう。三月丙辰朔も正しい日干支で天候の記事、その後に新羅の使節記事、来て帰ったとそっけない。会談は失敗したのだろう。夏四月丙戌朔も正しい日干支、百済の翹岐が来日し、蘇我大臣と会った。

五月乙卯朔己未も正しい日干支、5月5日薬狩りの日だが射猟。この年の夏至は5月18日、その頃に薬狩りをしたのだろうか。但し、その日に百済の使者が遣ってきた。六月乙酉朔も正しい日干支、大旱魃で、やっと小雨が降る異常気象で、秋七月甲寅朔も正しい日干支で、不吉の象徴だったのだろう。八月甲申朔も正しい日干支でやっと大雨が降った。

九月癸丑朔は俀国の暦、畿内は寺、造船は俀国に命じたのだろうか。冬十月癸未朔も正しい日干支、大地震があった。十一月壬子朔は俀国の暦、九州で大きな雷雨があったのだろう。十二月壬午朔も正しい日干支、まだ異常気象が続いたようだ。

二年春正月壬子朔も正しい日干支、大きな虹が架かったようだ。二月辛巳朔に桃の花が咲き、三月辛亥朔に百済の客舘堂が焼け、夏四月庚辰朔に大風雨、すべて正しい日干支で、1年近く異常気象が続いた。