九年春二月丙辰朔の流星も正しい日干支、三月乙酉朔丙戌の日蝕は俀国の日干支だ。2日に日蝕は起こらないし、乙酉は30日晦日、丙戌が朔日だ。
十年秋七月丁未朔の大風、十一年春正月乙巳朔の有馬温泉からの帰京は正しい日干支、冬十一月庚子朔の新羅饗応も正しい日干支だ。新羅が高麗から攻撃を受けたので、友好国の倭に使節を新羅が送ったのだろう。
十二月己巳朔も正しい日干支、伊豫温泉に向かい、十二年春二月戊辰朔の星入月も正しい日干支だ。夏四月丁卯朔の伊豫から廐坂宮へ向かったのは俀国の暦、俀国王のようだ。正しい日干支の五月丁酉朔の法会、冬十月乙丑朔は新羅が百済を引き連れて来日した。百済は義慈王の即位直後、唐に朝貢したので、新羅の配下という建前なのだろう。
十三年冬十月己丑朔も正しい日干支で、天皇が崩じた。付け加えた丙午の天皇への誄は664年、天萬豊日孝徳天皇の崩御に対してだろう。この時、天智は16歳なのだから、また、実際は生まれていないので即位できず、668年に成人して即位と記された。661年に13歳なので、太子になった。舒明紀を編んだのは天智天皇、天智天皇に都合よく記すことができる。元正天皇の都合で大化を皇極天皇の後ろに挿入している。元正天皇の王朝は大化六年に始まったからだ。
皇極天皇は豊浦大臣の妃の吉備嶋皇祖母、すなわち田目皇女(鎌媛大刀自)だろう。蝦夷がまだ成人していなかったので、即位できなかったのだろうか。鎌媛大刀自は小治田・豊浦宮の参政なのだから、豊浦大臣妃の吉備嶋皇祖母、小治田と豊浦の皇祖母を意味したのだろう。