2026年2月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 大化2

  三年春正月戊子朔は正しい日干支、新羅と高句麗が遣使した。『日本世記』の元資料なのだろうか? 夏四月丁巳朔も正しい日干支、「我子應治」と天智に国を任せた。667年の事なのだろう。「與天地之初 君臨之國也」と新しく出発しようという意気込みだ。天智七年正月(668年)の天智即位記事の「或本云 六年歳次丁卯三月即位」がこれに対応する。唐の進駐軍のため小郡宮を建て替えた。冬十月甲寅朔の有間温泉行は俀国の暦、647年かやはり667年の記事なのだろう。正しい日干支は記録に残っているので、それを流用したと思われる。

正しい日干支の四年春正月壬午朔の難波碕宮幸は668年なのだろうか。中宮天皇が難波碕宮で神を祀り、天智天皇が難波碕宮に行幸したのだろう。最高実力者が元旦に皇居から出ることはないだろう。正しい日干支の二月壬子朔の三韓に僧を派遣したのは648年なのだろう。夏四月辛亥朔は俀国の日干支、古い冠位を廃止した。左右大臣が古冠を使い続けているので、668年と考えられる。白鳳5年、鎌足は紫冠を賜り、647年の冠位が続いている。

五年春正月丙午朔の賀正は間違いの日干支、2月朔日が丙午だ。倭国の太陽暦の変換ミスなのだろうか。この2月に大紫を含む官位を制定して、入鹿が大紫を得ている。三月乙巳朔の阿倍大臣薨は俀国の暦、669年の記録だろう。阿倍夫人が681年薨なのだから、相応しい。

夏四月乙卯朔甲午の冠位授与は間違いの日干支、乙卯と甲午は一月以上離れている。668年か倭国の太陽暦の変換ミスで、649年の記録だろうか。五月癸卯朔新羅遣使も間違いの日干支、該当する年が無く、太陽暦と考えられ、649年の記録だろうか。三輪君色夫の小華下の冠位は647年に制定された倭国の冠位だ。

 

年候補

丙午 1月朔日 582 675 768

丙午 12月晦日30 431 710

丙午 12(12月小月) 607 731

 

乙卯 4月朔日 637 668

2026年2月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝徳天皇・大化1

天萬豊日が即位した。『新唐書』が言うように天豐財重日の父、子の有間皇子が太子だったが、娘が皇位を継承した。『日本書紀』の大皇太弟天武は中宮天皇の弟の有間皇子の可能性が高い。有間皇子と蘇我赤兄が起こした謀反で赤兄が許されるとは思えない。赤兄の婿が天武天皇、有間皇子が婿ならよく理解できる。孝徳天皇の項目がない理由は、即位数ヶ月後、俄かに崩御したからだ。大甦娘が美濃津子娘と考えれば、大海皇子が蘇我倭国の皇位継承の正当性を持つ。

大化元年七月丁卯朔は正しい日干支、おそらく、茅渟王の娘の間人を皇后にした。天豐財重日の母なのだろう。664年の記録である。中宮天皇が即位した665年に間人大后と呼ばれ、薨去している。八月丙申朔も正しい日干支、戸籍を創った。戸籍は顕宗元年に押磐を山部連の籍に入れたとあり、戸籍制度は既にあった。九月丙寅朔も正しい日干支、兵力を調査した。665年若しくは695年の可能性がある。冬十二月乙未朔の難波長柄豐碕遷都は皇極四年にも記され、645年と664年と665年、倭国と俀国の首都なのだろう。

二年春正月甲子朔は間違いの日干支、645年12月30日で、「改新之詔」の名が大化の改新ならば、696年なのだろう。挿入間違い? 二月甲午朔は正しい日干支、蘇我右大臣に詔勅させたのだから666年だろう。野中寺の『銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と中宮天皇の具合が悪かった。だから、代読させたのだろう。三月癸亥朔は正しい日干支、東国の臣下に詔勅を述べた。『那須国造碑』で永昌元年689年に那須国造が追大壹を得ていりので、それ以前、やはり、詔勅は666年のことだろう。俀国王は常用が九州の暦、正しい日干支は借り物の暦と理解するべきだろう。

 

年候補

甲子 1月朔日 677

甲子 12月晦日30 645

2026年2月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇3

   五月庚戌朔は俀国の日干支、5月2日の干支である。月食は15日に発生するので癸亥に発生したが、2日ズレ、17日の乙丑にしてしまったのだろう。六月己卯朔は正しい日干支、高句麗からの遣使だ。秋七月己酉朔は俀国の暦、百済国が朝廷に調を献上したが、不和があったと記している。俀国に都合がよい記録である。八月戊申朔は正しい日干支、茨田池に藻が異常発生したようだ。九月丁丑朔は俀国の日干支、茅渟王の埋葬なのだろう。640年に改元しているので、豊浦王と同時期に崩御したのだろうか。冬十月丁未朔は正しい日干支、朝堂庭に臣下を集め、地位の継承を宣言した。吉備嶋皇祖母から鎌媛大刀自に女王の政権交代があった。子の蝦夷が成人していたなら、最初から即位している。十一月丙子朔は俀国の暦、山背大兄王を攻撃した。『舊事本紀』が嶋大臣の子の豊浦大臣を蝦夷なのに入鹿と記すのと同様の一世代削除の現象があるのだろう。

三年春正月乙亥朔の中臣鎌子を神祗伯にしようとしたのは俀国の暦だ。藤原氏の『家傳』には崗本天皇の世に錦冠を得、三島の別業に帰ったと記され、すぐに「俄而崗本天皇崩」と記される。そして、錦冠を賜ったが、すぐに紫冠を白鳳五年665年に賜った。それは、天萬豐日天皇が俄かに崩御し、庶務を委ねられた皇太子から賜ったと記されている。すなわち、俀国の暦の記述は中宮天皇の記録を挿入した、665年正月朔日の記録を643年12月晦日、俀国歴664年1月朔日に挿入したということだ。夏六月癸卯朔は正しい日干支、大伴馬飼が百合を献上した。

四年夏四月戊戌朔は俀国の暦、学問僧の鞍作得志の高句麗帰国の説話なので、朝鮮の暦かもしれない。六月丁酉朔は正しい日干支、乙巳の変の計画だ。664年の大紫蘇我連大臣(入鹿)と嶋皇祖母(法提郎)の崩御にあたる。

2026年2月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇2

    元年春正月丁巳朔は正しい日干支、皇后が即位した。入鹿の説話は斉明天皇の時代の記録と考えられる。二月丁亥朔も正しい日干支、百済と高句麗との外交だ。新羅との戦いが始まり、どう対抗するかを話し合ったのだろう。三月丙辰朔も正しい日干支で天候の記事、その後に新羅の使節記事、来て帰ったとそっけない。会談は失敗したのだろう。夏四月丙戌朔も正しい日干支、百済の翹岐が来日し、蘇我大臣と会った。

五月乙卯朔己未も正しい日干支、5月5日薬狩りの日だが射猟。この年の夏至は5月18日、その頃に薬狩りをしたのだろうか。但し、その日に百済の使者が遣ってきた。六月乙酉朔も正しい日干支、大旱魃で、やっと小雨が降る異常気象で、秋七月甲寅朔も正しい日干支で、不吉の象徴だったのだろう。八月甲申朔も正しい日干支でやっと大雨が降った。

九月癸丑朔は俀国の暦、畿内は寺、造船は俀国に命じたのだろうか。冬十月癸未朔も正しい日干支、大地震があった。十一月壬子朔は俀国の暦、九州で大きな雷雨があったのだろう。十二月壬午朔も正しい日干支、まだ異常気象が続いたようだ。

二年春正月壬子朔も正しい日干支、大きな虹が架かったようだ。二月辛巳朔に桃の花が咲き、三月辛亥朔に百済の客舘堂が焼け、夏四月庚辰朔に大風雨、すべて正しい日干支で、1年近く異常気象が続いた。

2026年2月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇1

皇極天皇から天智天皇の説話は大化中の天皇(701年以降703年迄)が記した記録が基本線である。天智天皇の子や孫の死亡時の年齢、不比等の死亡時の年齢から、乙巳の変は664年、白鳳4年のことだ。すなわち、六月丁酉朔戊申が正しい日干支でも正しいと言えないことになる。

倭国は太陽暦の併用、俀国は中国風の暦、そして、朝廷の公式文書は正しい日干支、これらが混在した。大化6年以降の天武天皇が稗田阿禮に記させた内容は『古事記』と同じく蘇我氏の太陽暦の内容だった。そして、出来上がったのが『日本世記』、712年に元明天皇の手に入った。それに、天武・持統紀を付け加えて編纂したのが『日本書紀』である。

安萬侶を天武紀の壬申の乱に記さないのは、この時まだ幼少で7歳程度、723年卒去で60歳程度だった。実際の壬申の乱は700年頃、安萬侶は天智天皇の子の天武天皇に仕えた可能性が高い。

642年から664年までの記録は乙巳の変で焼かれ、他氏族の記録を寄せ集めただけだ。それぞれの氏族の記録は住んだ宮の経過年数が解るだけだっただろう。世代が変わっても襲名するから同一の名前である。二世代目も1年から始まって重複したかもしれない。したがって、『日本世記』は絶対年が不明な紀伝体だった。それを、『日本書紀』の絶対年の編年体に置き換えた。すなわち、大化元年は中宮元年、白雉元年は俀国の孝徳元年、天智元年は白鳳元年ということだろう。乙巳の変や壬申の乱は元明天皇が名付けた戦乱なのだろう。大化の改新を名付けたのが歴史家であるように。

2026年2月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇3

  九年春二月丙辰朔の流星も正しい日干支、三月乙酉朔丙戌の日蝕は俀国の日干支だ。2日に日蝕は起こらないし、乙酉は30日晦日、丙戌が朔日だ。

十年秋七月丁未朔の大風、十一年春正月乙巳朔の有馬温泉からの帰京は正しい日干支、冬十一月庚子朔の新羅饗応も正しい日干支だ。新羅が高麗から攻撃を受けたので、友好国の倭に使節を新羅が送ったのだろう。

十二月己巳朔も正しい日干支、伊豫温泉に向かい、十二年春二月戊辰朔の星入月も正しい日干支だ。夏四月丁卯朔の伊豫から廐坂宮へ向かったのは俀国の暦、俀国王のようだ。正しい日干支の五月丁酉朔の法会、冬十月乙丑朔は新羅が百済を引き連れて来日した。百済は義慈王の即位直後、唐に朝貢したので、新羅の配下という建前なのだろう。

十三年冬十月己丑朔も正しい日干支で、天皇が崩じた。付け加えた丙午の天皇への誄は664年、天萬豊日孝徳天皇の崩御に対してだろう。この時、天智は16歳なのだから、また、実際は生まれていないので即位できず、668年に成人して即位と記された。661年に13歳なので、太子になった。舒明紀を編んだのは天智天皇、天智天皇に都合よく記すことができる。元正天皇の都合で大化を皇極天皇の後ろに挿入している。元正天皇の王朝は大化六年に始まったからだ。

皇極天皇は豊浦大臣の妃の吉備嶋皇祖母、すなわち田目皇女(鎌媛大刀自)だろう。蝦夷がまだ成人していなかったので、即位できなかったのだろうか。鎌媛大刀自は小治田・豊浦宮の参政なのだから、豊浦大臣妃の吉備嶋皇祖母、小治田と豊浦の皇祖母を意味したのだろう。

2026年2月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇2

  元年春正月癸卯朔は正しい日干支、豊浦皇子が天皇の璽印を得た。璽印は推古と舒明のみの記述で、法興帝が天子という地位に相応しい皇帝の印を作らせたのだろう。それを受け取ったのが推古前紀、日付を特定しない。そして、倭国に臣従する記しとして、舒明元年に舒明天皇に献上した。それ以前は「」、「天皇のしるし」だった。変わったのは俀国王が中国風の璽印を推古即位以前591年・法興元年に作ったからなのだろう。それを、天智政権が挿入したと考えられる。

夏四月辛未朔は俀国の暦で、屋久に使者を送った。「寶皇女爲皇后」の二年春正月丁卯朔は不明な日干支、候補日は665年のみだ。やはり、太陽暦の影響だろうか。中宮天皇の子たちの説明で、無関係とは言えない。三月丙寅朔、秋八月癸巳朔、九月癸亥朔は中国・朝鮮外交で正しい日干支だ。冬十月壬辰朔も正しい日干支、岡本宮遷都である。

三年春二月辛卯朔の掖玖人帰化、三月庚申朔の豊章人質も正しい日干支である。秋九月丁巳朔、冬十二月丙戌朔の温泉旅行も正しい日干支だ。四年冬十月辛亥朔、五年春正月己卯朔の対唐外交も正しい日干支である。百済外交で七年夏六月乙丑朔は正しい日干支、秋七月乙未朔は俀国の日干支である。この年は新羅が唐から楽浪郡公に賜姓され、百済は追い詰められたため、俀国にも支援を申し入れたのだろう。

八年春正月壬辰朔の日蝕は正しい日干支、秋七月己丑朔の労働時間の制定も正しい日干支である。大派王、世代的に大俣姫の子の茅渟王が舒明天皇に進言した。桑田姫が高向王の妃と考えている。

卯始朝之 巳後退之」は5~7時の夜明けから日没までの12時間前後と私は考えている。時間を計るのは太陽、午刻ならば昼までで理解できるが、巳刻は計れない。日の出から日没、一刻の長さが季節によって違う時代、標準時など無い。

 

年候補

丁卯130日晦日  665