2018年8月1日水曜日

最終兵器の聖典 神武天皇2

 『古事記』や『先代旧事本紀』は宮崎県から福岡県に戻って大和に向かっていることに違和感を持ち、実際は、共通の安芸が出発地で「国史」である『日本書紀』に合わせたか、史書作成時の王の指示で辻褄合わせで付け加えられたと神話内容から理解した。
「火火出見」の名前は先々代の「兄火闌降命」の分家の名前の襲名で、王では無いので彦という役職を冠して父「天津日高日子波限建鵜葺草不葺合」の分家、本家なら新しい土地を目指す必要が無いので分家が「火火出見」の宮に婿入りして襲名したのだろう。
そして、東征の内容はそれほど違いが無く、皇后の違いが際立って、『日本書紀』は「事代主神之大女也」と事代主の家系、『古事記』は「美和之大物主神」と大物主の家系、『先代旧事本紀』は「磐余彦尊都橿原宮初即皇位号日元年尊皇妃姫韛五十鈴姫命立爲皇后則大三輪大神女」と三輪神の家系なのだ。
父親が違って姫の名前だけ同じなのは奇妙で、『出雲風土記』の国引き神話を隠岐の島から持ってきたように、韛五十鈴姫の説話を其々の史書が持ってきて内容を一部変更したのだろう。
日本では神様もいくつかの名前を持っているので、誰も気にも留めないが、大切に信じる神様の名が違うということは、お頼みする神様を呼んだつもりでも、神様はあまりにも名前が多すぎて自分が呼ばれたかわからなくなってしまいそうで、非常に違和感を感じた。
本来、自分達が崇拝する神様の名前は1つで、しかも、名前すら必要が無く、唯の私の「神」で、多くの氏族が集まったので名前で区別して合祀され、神にも上下関係が発生して「大神」が一番偉い神様となったのである。
そして、下位の合祀された神は次第に亦の名前だけ残り上位の神と同一とされるようになり、これが、神武天皇の誕生で国を統合するとともに神様も統合したのであり、そして、下位の神も単独の祭祀を許し、序列のみ、「一宮・二宮・三宮」と格式で融和した。
従って、それぞれの神武天皇は別人で、『日本書紀』には名前が出現しないが、私は『古事記』の「若御毛沼」が本来の『日本書紀』の王名で『古事記』の王名が「豊御毛沼」と一時考えた。
それは、国史である『日本書紀』の王を先祖とする王が最終的に日本の王となったと考え、神名の「豊」を冠する神が下位に記述されているからだ。
しかし、いくら何でも自王朝の初代王の名前を消してしまうことは無いと考えなおし「火火出見」が『日本書紀』の王で「火火出見」が「事代主」の支配する土地で建国、『古事記』は「若御毛沼」が大物主とともに「大三輪」の支配する土地で建国、「豊御毛沼」が「大物主」の支配する土地の豊国で建国、『先代旧事本紀』は「狭野」が「大三輪」の支配する土地畿内で建国し、後の崇神天皇時に「意富多ゝ泥古命、為神主而、於御諸山拝祭意富美和之大神前」と三輪神を祀っていて、大和は本来大物主を祀ってはいないことから、『古事記』の神武天皇は大和ではなく豊国で建国したことが解る。
そして、建国の地は、福岡県の筑紫の芥屋の大門と篠栗及び豊の京都郡に太祖神社が残っていて、初代の王を祀る神社にふさわしく、勿論大和にも太祖神社とは呼ばないが神武天皇を祀っている神社がある。
すなわち、神武天皇の皇后が同じ名前ということは、王名や皇后名を信頼してはいけない、ここでは「韛五十鈴姫」「富登多多良伊須須岐比売」は有名な韛五十鈴姫の説話を借りてきた名前で本来はそれぞれ皇后の氏名は違う、そして、王名も皇太子名も違うということを、複数の人物が隠れていることを忘れてはならない。

2018年7月30日月曜日

最終兵器の聖典 神武天皇1

 私は、『古事記』をはじめ編年体風に書かれた『先代旧事本紀』・『日本書紀』も含めて紀伝体で書かれている述べてきた。
そして、神武天皇を筆頭にすべての1天皇は1人でなく複数人存在し、私は天皇というのを夫婦と長男と姉妹を一纏めにした家が天皇で、大小の王朝を創始した家を複数一纏めにしたものが神武天皇なのだと主張してきたので、神武天皇すらも一王朝で複数人存在し、「四方志」を書いたように四王朝以上の王朝の神武天皇が存在するからだ。
天皇は義兄弟と婚姻したと記述するが、姫は財力がある限り家から外に出ることは少なく、婿を取って生まれた姫は本家の長男にとって義兄弟となり、現代で言えば従弟にあたり、長男の長男も神武天皇だ。
姫を天皇に嫁入りさせるのは、天皇に臣従した証で、王朝が変わるときは、新しい王が婿入りし、婿入りした宮が首都となる。
 隠岐の島後を「大島」、その神を始祖神として「大神」とよび、その民を「大人」、その国の中の中心国を「大国」、「大国」と同盟する国々の王を「大王」・「大臣」・「大連」とよび、出雲国は大国の領国で大国が支配する領域が「日本」だ。
中心国を大国と呼び、祀る神を大神とよぶ国神達を取り込んだ新しい国家、いわゆる縄文人と弥生人の混血国家、漁師の小さな島に住む人々と大きな領土を持つ農耕の民との混合国家を誕生させたのが神武天皇と呼ばれる人々だ。
 日本には古代を記述した史書が3冊残っていて、それは、『古事記』・『先代旧事本紀』・『日本書紀』の3冊で、そこには日本建国の王が記されている。
その王の名前は『古事記』が「若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古命」、『先代旧事本紀』が「日本磐余彦天皇亦云彦火火出見尊即少年時号狭野尊」、『日本書紀』が「神日本磐余彦尊諱彦火火出見」と名前は一定しないが、「磐余彦」は同じだ。
私は『古事記』を読んで王名に亦の名があることに違和感を感じたが、なぜなら、王というのは本来1人で名前すら呼ばれることが無いはずなのに、複数の名前が付けられているということは、区別しなければならない王が存在することを意味するのである。
諱などと後代の風習と同じ言葉のため、古代に当てはめて知ったかぶりをしている学者がいるが、諡号なら公に発表するから解るが、だれも知らない生前の名前なのに皆が知っているという重大な矛盾を生じてしまい、本来『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』「池邊大宮治天下天皇」のように宮名で天皇を呼ぶ。
『日本書紀』の諱も神武天皇以外の天皇では「億計天皇、諱大脚 更名大爲」と仁賢天皇のみ出現し、どちらかと言えば幼名や改名前の名に近く、この億計天皇 は『隋書』に「名國王爲乙祁」と名前を堂々と慧深が述べていて、諱と更名も意味合いが違うようだ。
しかも、「神日本磐余彦」などという如何にも「神日本」という国の「磐余」という邑の邑長のような名前が付けられていることに違和感を感じざるを得なかったし、さらに、史書によって出発地も順も人も違うのである。

2018年7月27日金曜日

最終兵器の聖典 天皇誕生2


 皇位継承者が決まらない時、たとえば19歳で有間皇子が皇位を簒奪しようとした時に『日本書紀』の「人諌曰 不可也 所計既然而无徳矣 方今皇子年始十九 未及成人 可至成人而待其徳」と20歳未満は未成人と言っている様に天智が天皇即位年齢に達していなかったため、物部氏・蘇我氏・天氏の血を引く蘇我氏 の宮の姫の豊財重日が中宮天皇として皇位を継承し、子の天智に引き継いだのである。
天皇というものは、天皇が20歳以上で天皇の璽を持ち皇位継承者の皇太子が存在して皇太后を持つ宮殿があって初めて皇位に就いたと言え、応神天皇はが3歳で皇太子に就任しているが、この時期の実際の天皇や皇太子は品陀和氣ではなかった。
大臣や大連・皇太子は同等の権力を持っていて、特に大臣は他王朝の皇太子で、自王朝の皇太子と同じ権力の大王であり、天皇は祭祀を司どる象徴で実質は皇太子や大臣が統治者、王朝交代時では大臣イコール皇太子の可能性があり、『先代旧事本紀』「修撰未竟太子薨矣撰録之事輟」の太子の薨去は馬子大臣のことで馬子も聖徳太子と考えられる。
神武東征以前の畿内の地は東鯷国が少なくとも紀元前660年から統治していて、『先代旧事本紀』に「伊香色雄命 此命春日宮御宇天皇御世以爲大臣磯城瑞籬宮御宇天皇御世詔大臣爲」と伊香色雄が天皇と同等の大臣となって、「天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神」と紀元前157年に実際は伊香色雄かどうか解らないが璽を得て、まさしく天皇となった。
そして、その璽は「捧天璽劔奉於正安殿」と神武天皇に授けたのではなく宮に飾られ、『日本書紀』の「允恭天皇元年」「皇子將聽羣臣之請 今當上天皇璽符」と412年に璽が允恭天皇に移動して物部氏が天皇ではなくなった。
そして、物部氏は『日本書紀』に紀元前91年「崇神天皇七年・・・物部連祖伊香色雄爲神班物者」と伊香色雄が、『先代旧事本紀』の「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓」と大新河が物部姓を賜って姓の無い天皇から姓のある臣下になった。
尾張氏も同様に『先代旧事本紀』の「尾綱根命・・・品太天皇御世賜尾治連姓爲大江(江は原文のまゝ臣?)大連」と尾綱根が尾張の氏姓を賜って、『古事記』応神記に「娶尾張連之祖、建伊那陀宿祢之女」、『日本書紀』允恭紀に「遣尾張連吾襲」と記述され以前は連を使っていない。
『古事記』と『日本書紀』は2代ズレ、『日本書紀』も「廿五年。百濟直支王薨」と応神天皇の項目が允恭天皇の時代の420年の直支王死亡記事を記述し、『先代旧事本紀』の品太天皇も允恭天皇のことと考えられる。
すなわち、『先代旧事本紀』の尾張氏の神武の項に「詔椎根津彦・・・大倭連等祖也」として神武建国前に大倭があるので、紀元前157年に物部氏が東鯷国(神国)を引き継ぎ大倭国として、紀元前91年に尾張氏が畿内を侵略し、紀元前28年に尾張氏が政権を完全奪取し、東鯷国が滅亡して『日本書紀』「垂仁天皇二年・・・于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇」と国号が日本国となり、412年に巨勢氏が書いた『古事記』では天皇名が「品太」と天皇になり、『日本書紀』では允恭天皇が璽を得たことから政権を奪取して『梁書』に「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州」と国号が扶桑国になった。

2018年7月25日水曜日

最終兵器の聖典 天皇誕生1

 天皇は複数の王が現れた時に王の王である大王・天皇が現れたとしてきたが、大王は『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王」この「日十」は『日本書紀』の「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之」の太子「彦人」で皇太子彦人を大王と呼んだ。
また『日本書紀』の「更名豐耳聰。聖徳。或名豐聰耳。法大王」、『上宮聖徳法王帝説』でも「于時多至波奈大女郎 悲哀嘆息白 畏天之雖恐懐心難止 使我大王与母王如期従遊」と聖徳太子も大王と呼ばれた。
それは当然で、天皇の子たちの多くが王を名乗っているのだから皇太子も王よりも偉い王で、私は立皇太子が天皇即位としたが、息子に大王の皇太子がいる王が天皇だとも言える。
立皇太子以前も長男は皇太子なのだから、天皇という大王と皇太子という大王が2人存在することになり矛盾を生じるが、実際には大王の中の皇太子を持つ大王が天皇で、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王」や『上宮聖徳法王帝説』の「小治田大宮御宇大王天皇」と大王天皇と記述され、『日本書紀』の「允恭天皇即位前紀」の「願大王雖勞 猶即天皇位」のように大王が天皇に即位している。
皇太子も大王なのだから、日本で王が誕生し、王という地位を与えた時すでに1人は大王、王子2人以上の王が存在した時、皇太子は大王と考えざるを得ないので、『日本書紀』の「和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」と天皇・皇太子以外を王と呼び、『古事記』でも「彦坐王」「比古由牟須美王」「讃岐垂根王」など開化天皇の時初めて天皇と呼ばれたと考えてもよさそうだ。
しかし、わたしは皇太子が天皇と同等としたけれど、立太子時に残った前天皇が更に長く在位していて混乱が起こらないのか不思議に感じていた。
現に、垂仁天皇の時は景行・成務・仲哀・神功と並行して天皇が存在することになるが、それだからと言ってそれほど混乱していないが、混乱しない理由は天皇に半分実態が無いのではと考え、13歳以上の皇太子のいない天皇は天皇というシステムを持たないのではと考えた。
天皇が即位すると「宮」を決め、前王の陵を作り、「尊皇后曰皇太后」と皇太后が即位しているのだが、複数の長男が継承する時はこの儀式がなく、長男は同族の姫が輿入れ若しくは通い婚をして、長男がいない天皇や長男が13歳未満のとき、13歳以上の皇子がいる分家の王に皇位が遷り後継の姫をも皇后として手に入れるのである。
すなわち、天皇と宮があり、そこに皇后や皇太后が存在し、さらに宮を相続する姫が存在して王朝が続くのであり、長男以外は他の宮に婿入りして、その先の舅の力で皇位を継承するのだと理解できた。
宮は長男と未婚の姫が継承して、長男が天皇に即位する時その長男が13歳に達していないと他の宮の天皇家の姫から生まれた人物が相続することになる。
他王朝が政権を奪う場合は、皇位継承者である長男を排除して宮を継いでいる姫と璽を手に入れ、その子が皇太子となった時、国をまとめることができるのである。
いわば天皇即位とは大王が『日本書紀』允恭天皇「天皇之璽符 再拜上焉・・・乃即帝位」と大王や大臣・大連という大王が姫と璽を手に入れ、次の安康天皇の時「即天皇位 尊皇后曰皇太后」と子が継承しその前王朝の姫の皇后が皇太后となった時に完全に即位したと言える。
宿禰という役職名が消えて『古事記』「穴穂御子、坐石上之穴穂宮」のように穴穗と宮の名前そのものが名前、穴穂宮の「御子様」、「宮様」となる。

2018年7月23日月曜日

最終兵器の聖典 日本史誕生3

 古代は通い婚で姫が生まれ婿を迎えるために宮が造られ婿を迎え入れた時から宮年齢が始まるので、天皇に就任する時はその天皇に13歳以上の皇太子が必要で、皇太子が実質天皇にあたり、既に少なくとも2代目ということになる。
そして、その記録が『先代旧事本紀』で、紀元前660年建国の王朝を受け継いだ物部氏であるがために歴代の年干支・日干支が残され、『日本書紀』では神武元年以降年干支を含めた日付は記述されず天皇何年と月・日付とが記されている。
『先代旧事本紀』の最後の正しい日干支・年干支が記述されたのは「元年歳次丙午春正月壬子朔」の用明天皇元年で、これ以降は日本書紀と合わないため、何時の事柄か特定できないように年干支を削除したのだろう。
そして残った記録を基に日干支を付加していって、誤差の少ない干支が割り振られたのであり、間違っていたり、是年や是月などは記録と合わない干支だった可能性があり、また、全く見当違いの干支が割り振られているものは、挿入場所を変えた可能性がある。
そして、その記録を残す方法は不明だが、『古事記』に「坐高千穂宮、伍佰捌拾歳」と580年間続いた記録が残っていたが、『古事記』を書いた王朝が記録を残し始めた頃にまだ高千穂の宮が残っていて、その記録も残っていたことが解る。
その記録が『日本書紀』の履中紀403年「記言事達四方志」の記事で高千穂宮は紀元前180年頃から始まって、『日本書紀』・『古事記』の神話に流用されたのではないか。
また、『日本書紀』仁賢天皇紀に「億計天皇之宮有二所焉。一宮於川村。二宮於縮見高野。其殿柱至今未朽」と『日本書紀』の仁賢紀を書いた、少なくとも推古天皇のころまで仁賢天皇の宮が残り、その宮に『古事記』の原本が残っていた可能性が高い。
その残った『古事記』の原本に武烈天皇以降を継ぎ足した可能性が高く、『古事記』の原本は『梁書』の「有文字,以扶桑皮爲紙」と扶桑の木の皮を剥いで史書を記録して『古事記』の原本を残したのだろう。
日本には古代文字というものが遺物で残り、『山海經』の時代から扶桑の木を重要視し、漆やタールを接着剤や防腐剤に使っていたようで、これらは素手で使うとかぶれるので、筆様の道具を使ったと思われる。
干支の記録に扶桑の皮を使い、漆やタールを筆に付けて墨替わり、糊替わりとして、古代文字で扶桑の皮を接着した巻物に書かれて、高千穂の宮に残ったと言われても私は驚かないし、伊都の地域には硯や文字を書いた土器が出土し、「硯が渡って文字は渡ってこなかった」ことを信じられない。
私は『上記』という古代文字をひらがなに写し替えたものを読んだことが有るが、私には原文を解釈できないので翻訳者すら信頼できないが、この翻訳文書は漢字をひらがなにした文や、『日本書紀』の「四方志」の記事が書いてあり、早くて5世紀に書かれた漢字を知らない人のために書かれた地方文献なのだろう。
漢字を知っているのに、わざわざ古代文字を考える酔狂な人物は考えられないので、漢字が行きわたる前に古代文字が行きわたっていた地域が有ったことを物語っていて、『室見川銘版』の「延光四年」125年には室見川周辺に篆書と漢字を書く能力が有る周時代から中国と交流のある政権が応神天皇以前に存在した。

2018年7月18日水曜日

最終兵器の聖典 日本史誕生2

 すなわち、中国人も日本人も「羲和」以降1年366日と知り、民間の2倍年歴と朝廷内の1年366日が併存していたか、2倍年歴は「羲和」以前の伝説であった可能性が高く、日本では夏至・冬至・春秋分・北極星を示す巨石が下呂近くの岩屋岩陰遺跡に残っていてどちらが早いか解らないが「羲和」以前から1年366日を知っていた可能性もある。
そして、『史記 本紀 周本紀』に「武王即位・・・二月甲子昧爽武王朝至于商郊牧野乃誓 武王左杖黃鉞右秉白旄以麾」と干支が記述され、周の武王の頃の伝説に二月は卯月で月干支甲子は十一月なので日干支や帝堯の月は何とも言えないが周代に現代で言う陰暦の一月から十二月があった、少なくとも冬至などの節気と朔日の干支を知っていたことが解る。
私と同じ計算で『日本書紀』を書いた人々が「辛酉年春正月庚辰朔」を導き出すにはグレゴリー暦を知っていて、1年365日で4年に一度の閏年が100年に1回抜け400年に一回抜かないことを知っていなければならない。
しかし、春秋戦国に書かれた『尚書 堯典』にも「咨 汝羲暨和 朞三百有六旬有六日 以閏月定四時成歲 允釐百工庶績咸熙」と「堯」が1年366日として、『尚書 舜典』に「十有一月朔巡守至于北岳如西禮 歸格于藝祖用特」と「舜」の時に月齢による暦をはじめ、『尚書 周書 武成』に「惟一月壬辰」と日干支が始まった伝説を残し、『尚書』内でその原則が守られ、「堯」以前に年を書かず、「舜」以前に何月と書かず、「武成」以前に日干支を書いていないが、以降の例は多数ある。
すなわち、紀元前660年の旧暦1月1日の干支が『日本書紀』作成時まで残っていた可能性があり、すでにこの頃には干支が日本に伝わり、使用していた集団は饒速日の妃御炊屋姫や義兄の長髓彦の先祖で神(辰)国の創始者の伝説の可能性がある。
建国の紀元前660年の「辛酉年春正月庚辰朔」より以前、紀元前666年の「乙卯年春三月甲寅朔己未」建国以前にも干支が同じようにあり、既に干支を使う勢力が初代王者以前に存在していたことも証明される。
8世紀の人々が紀元前658年・661年にも閏月が有るのに元旦の干支が解るということはこの年の夏至と冬至を計算でき12の中気が何時なのか、そして、グレゴリー暦が解らないと朔日の日干支を知ることは不可能なのだ。
因に一月朔日が庚辰の年は紀元前では660・634・603・510・293・267・200・169・143・76・19年で「辛酉年春正月庚辰朔」は紀元前700年から20世紀までに紀元前660年のみで、その前年の「庚申年秋八月癸丑朔戊辰」も紀元前661年と西暦420年しか存在せず全く不定期で偶然の一致は期待できない。
従って、欠史8代の天皇の即位記録の干支は何らかの形で残った記録の可能性が高く、神国の何らかの、例えば冬至の日干支や元旦の日干支の記録が残っていて、日本書紀はそれを使用して干支を付加していったと考えられ、これは『日本書紀』の長い在位期間が神国の宮の期間の可能性を表している。
「七十有六年春三月甲午朔甲辰 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳」は政権を持った橿原宮(宮の名前は不明で便宜上の仮説、以下同じ)の統治期間が紀元前660年から76年間の紀元前585年までで、橿原宮は127年間続いたことを意味し、「卅三年夏五月 天皇不豫 癸酉崩 時年八十四」は高丘宮が出来て紀元前549までに33年間統治して宮は84年続いたことを意味する。

2018年7月16日月曜日

最終兵器の聖典 日本史誕生1

 私は暦の基準を知りたくて、紀元前700年から現代に至るまでの西暦カレンダーを作って日干支を当てはめ、さらに、太陽運行から中気、月の運行から朔日を当てはめ、月名を決める春分・秋分や夏至・冬至などの中気の無い月を閏月とする方法で標準太陰暦を作り上げた。
ここで、『日本書紀』神武元年「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歳爲天皇元年」の記事だが、私の標準カレンダーの朔の日干支と紀元前660年の年・日干支が符合して、「二年春二月甲辰朔乙巳」も同じ、「四年春二月壬戌朔甲申」は大小の月の関係か1日違い、「卅有一年夏四月乙酉朔」は同じである。
紀元前667年は7月に閏月があり、十・十一・十二月の記事があるが一月前に干支がズレていて、この時は十二月に閏月を付加と考えられ、紀元前477年・紀元前94年も共に閏月があって1月前後にズレ、閏月が原因で1月ズレるという想定内の理由でズレている。
『日本書紀』の朔日の干支を全て確認したが、ほとんど計算通り、一部大・小の月が原因の1日、一部丁度閏月が原因で1月ズレるが、これは朔がほゞ正しく、『日本書紀』の朔が計算であれば私の計算とズレることは無く、ズレるなら一定の割合でズレるはずなのだから計算で無かったことを意味する。
私は史書の中に計算で求めた日干支を一つだけ知っていて、『続日本紀』の文武元年「元年八月甲子朔 受禪即位」、『日本書紀』では「八月乙丑朔 天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」で『続日本紀』が計算通り正しいが『日本書紀』は1日ズレている。
これは、『続日本紀』が普通皇位継承は朔日にするもので計算では朔日が甲子だったので乙丑から書き換えたことを意味している。
前漢武帝時に書かれた『史記 本紀 五帝本紀』に「帝堯者・・・命羲和敬順昊天數法日月星辰・・・歲三百六十六日以閏月正四時・・・三年矣 女登帝位 舜讓於德不懌 正月上日」と帝堯が1年を366日で正月や閏月を知り、ここから『史記』は年数を記述する。
約4000年前の遺跡の大湯環状列石・伊勢堂岱遺跡などに日時計型組石があり、夏至・冬至の時の太陽の運行に合わせて作られたといわれ、1年が幾日かわかっていたのだから、堯が知らないとは言えない。
そして、堯が暦を創らせた羲和は『山海經 大荒東經 大荒南經』に「羲和者帝俊之妻是生十日」と記述され羲和が生んだ国が関東にあたり、町田市田畑遺跡に縄文中期のストーンサークルがあり、石柱を結んだ線は冬至に太陽が沈む方向を向き、帝堯を大荒南經の地に葬った。
『尚書 堯典』にも「乃命羲和,欽若昊天,歷象日月星辰,敬授人時。分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷」と羲仲が島夷の暘谷に住み、『山海經  海外東經』に「君子国」と「青丘国」の間に「朝陽之谷」がある。
『淮南子 墬形訓』に「暘谷 榑桑在東方」、『天文訓』に「日出於暘谷,浴于咸池,拂於扶桑,是謂晨明。登於扶桑,爰始將行,是謂胐明」、『山海經  海外東經』の「下有湯谷。湯谷上有扶桑」と扶桑の地に「暘谷」=「 朝陽之谷」の「羲仲」とともに「羲和」が暦を作った。
「羲和」は日本の関東と思われるところに国を作っていたのであり、私は「暘谷」を「甲府や諏訪では」と思った。