『先代舊事本紀』はもっとはっきりと伝えている。そこでは、立太子や即位と同時に、大臣・大連=政権の施政者が任命されている。
成務元年 → 膽吐大臣
神功皇后元年 → 多遅麻大連
履中元年 → 伊莒弗大連
安康元年 → 木蓮子大連
さらに、立太子に併せて――
譽田 → 五十琴宿祢大連
菟道稚郎子 → 印葉大臣
木梨軽太子 → 麦入大連・大前大連(『古事記』は大臣)
白髪太子 → 布都久留大連
これらの「即位(立太子)+大連(大臣)」の組み合わせは、『日本書紀』には登場しない者ばかり。つまり、それは〝裏の王朝″の新政権誕生だったのではないか。「太子」とは、単なる後継者の称号ではなかった。それは、もう一つの王統の継承を告げる痕跡。『先代舊事本紀』は立太子も王朝交代と理解しているのだ。
中国の史書も、こう語る。「大明二年(457年)」から「天監六年(507年)」、扶桑国があり、倭国とは別に、もう一つの国が並立していた。その王は「乙祁」。この乙祁という王は、記録されている倭王武とは別人。その東方には、さらにもう一つ、「女王の国」があった。倭王と大連と大臣の国が。太子たちは、ただの皇位継承者ではなかった。その名の裏には、王朝の交替、王統の二重構造、そして、もう一つの都が隠されていた。