八年春正月庚辰朔は664年に遷都したと考えられる小墾田宮の八年、671年に蘇我赤兄が筑紫率に拝謁したのだろう。蘇我赤兄は数日前に左大臣になっている。三月己卯朔の耽羅遣使は正しい日干支、久麻伎遣使は673年と同じと考えられる。
夏五月戊寅朔の山科野の狩りは大皇弟が随行しているが藤原姓を名乗る鎌足を記す。『藤氏家伝』には、鎌足の葬に蘇我舎人臣が「内大臣朝臣」と呼び掛けている。朝臣は天武十三年に制定したとされている。すなわち、鎌足は692年に薨去した。690年に藤原への遷都を決め、692年遷都で、それを記念して藤原姓を与えられた可能性がある。この時、大嶋も藤原姓を名乗ったのだろう。そして、698年、不比等にのみ藤原姓の賜姓とした。朝臣制定時には藤原姓は含まれていない。
筑紫都督府で統治した681年即位の草壁太子が大皇弟、草壁が日並にとっての大皇弟。すなわち、この時期の目線が日並からの目線の可能性が高い。秋八月丁未朔の高安城改修の中止、九月丁丑朔の新羅の遣使は正しい日干支、669年の記録と考えられる。唐からの命令なのだろう。
冬十月丙午朔の藤原内大臣家への見舞は俀国の暦、692年だろうか。それとも、この年に病気になったのだろうか。都督府の記録が俀国の、畿内の記録が正しい暦になったようだ。国名変更決定が影響したのだろう。唐の統治が始まった。
九年春正月乙亥朔の宮門内での大射、三月甲戌朔の中臣金連の祝詞、夏四月癸卯朔の法隆寺の火災は正しい日干支、670年の記録と考えられる。秋九月辛未朔の阿曇連頬垂を新羅に派遣したのは間違いの日干支、妥当な日が見当たらない。太陽暦の変換不良だろう。
年候補
9月辛未朔日 608 701年
8月辛未晦日 644 737年
9月辛未2日 391年