2018年12月17日月曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝3

 倭得玉を叔父に持つ垂仁天皇は神倭王家と 羸津世襲家の嫡流の丹波道主王の父坐王の娘を『古事記』「日子坐王・・・又、娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売、生子、沙本毘古王・・・次、沙本毘売命、亦名佐波遅比売 此沙本毘売命者、為伊久米天皇之后」と皇后にし、春日氏は『古事記』「天押帯日子命者、春日臣・・・之祖也」とやはり神倭王家・羸津世襲家の姫の子でもあり、その兄の神倭王朝で物部氏の娘婿である羸津世襲の正当な継承者狹穗彦を『日本書紀』垂仁天皇五年「狹穗彦與妹共死于城中」と壊滅させた。
『古事記』若倭根子日子大毘ゝ「息長水依比売、生子、丹波比古多ゝ須美知能宇斯王」と沙本毘古の兄弟の多ゝ須美知能宇斯王の子が「美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須郎女、生子、比婆須比売命次弟比売命 次真砥野比売命 次朝庭別王」と垂仁天皇の妃で、朝庭別王と分朝廷を継続し物部氏も石上神宮を祀る大連家と実質皇太子の大臣家に分裂し、『日本書紀』景行天皇十二年「物部君祖夏花」が物部膽咋宿祢のようだ。
それが、「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連」で大新河は天皇でなくなったのだから物部姓を授けられて大連となったが、「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時奉齋矣」と宿殿を祀る宿祢になって「物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮」、「大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部斤葉連公為大臣」と分朝廷の天皇として成務天皇から仁徳天皇まで続いた。
分朝廷は「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女其矢田皇女者難波高津宮御宇天皇立為皇后」と仁徳天皇が婿入りして終了し、莵道稚郎の義弟稚野毛二泒皇子の子孫、「品太天皇五世之孫」と五世之孫が物部後期王朝を復活させて「秦王国」と呼ばれる。
ここに、神倭王朝と物部王朝と尾張家の血を引く垂仁天皇が誕生して沙本毘古の姪を皇后に迎え卑弥呼の宮と呼ばれる纒向珠城宮に入城し、「八世孫物部膽咋宿禰」は「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時矣 市師宿祢祢(?祖)穴大足尼女比咩古命爲妻」と記述して成務天皇の時代としている。
このように、膽咋宿禰には足尼がすでに終了しているように、孝昭天皇時代の説話が混じり、同じ八世武諸遇は「磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔」と崇神天皇末、垂仁天皇時代の人物で、尾張氏の七世孫建諸隅は「腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生」と孝昭天皇の時代で妹大海姫は「亦名葛󠄀木髙名姫命 此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃誕生」と崇神天皇の時代と入り混じっている。
すなわち、ほぼ同世代に漢字が導入されたばかりなので、名前はひらがなで解釈しなければならない時代に同姓同名が存在し偶然とは思えず、賀茂氏の建飯勝命・建甕尻・建飯賀田須、物部氏の武建・武諸遇、尾張氏の建額赤・・・建稲種は尾張氏を中心に姻戚関係となり、同じ地域「たけ」という地域に住んだのではないのだろうか。
すなわち、「もろすみ」宮で尾張氏と物部氏が血縁関係になり、同じ宮を尾張氏と物部氏に記述していると考えた方が辻褄が合い、『日本書紀』崇神天皇六〇年「矢田部造遠祖武諸隅 一書云 一名大母隅也」と『先代旧事本紀』「弟物部大母隅連公 矢集連等祖 巳上三連公志賀髙穴穗宮御宇天皇御世並爲侍臣供奉」と、崇神天皇から成務天皇まで「もろすみ」宮が続いている。
そして、「もろすみ」宮は「大諸見足尼」が足尼の存在できる孝昭天皇時代の「出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神新河小楯姬為妻」と出石心の配下になり、出石心の妻が新河氏の姫で「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮」と大新河が「奉齋神宮」で新河の宮が垂仁天皇時に神宮を祀っていて、出石心と大新河は4世代の差とは考えられなず、大新河は初代の新河の意味で、この場合は初代物部連の新河宮の家長の意味なのだろう。

2018年12月14日金曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝2

  前項は尾張氏の祖「羸津世襲」を中心に尾張氏の家系を記述したが、ここでは、天皇の系図と尾張氏の大彦の国盗り物語を考える。
「天日方奇日方」の妹「鞴五十鈴命」の子神渟名河耳(綏靖)と同じく妹五十鈴依姫の子磯城津彦玉手看(安寧)と「天日方奇日方」の子渟中底姫との子大日本根子彦耕支(懿徳)、さらに孝照天皇「母日皇后天豊津媛命息石耳命之女也」と あるように、 懿徳とその兄弟の息石耳の娘との子が觀松彦香殖稻(孝昭)で孝昭 天皇は神倭王朝の天皇である。
觀松彦香殖稻(孝昭)は「世襲足姬命大臣瀛津世襲・・・尾張氏」世襲足姫を皇后にして日本足彦國押人(孝安)を産み孝安の兄弟天彦國押人の娘「姪押媛」を皇后にして大日本根子彦太瓊(孝霊)が生まれ、神倭王朝に尾張氏が姻戚になった。
息石耳は瀛津世襲とおそらく「おき」の同郷で、世襲足姬の子天彦國押人は天氏で四世世襲足姬の時代五世「孫建斗禾命 天戸目命之子」で天彦國押人と天戸目が同一人物の可能性がある。
大日本根子彦國牽(孝元)は「母日皇后細媛命磯城縣主大目之女也」と孝霊は磯城彦の娘婿で当然この天皇の宮は磯城に遷り磯城王磯城彦で、孝元は物部氏欝色謎命を皇后にして「兒大彦命次稚日本根子彦大日日尊」と大彦と稚日本根子彦大日日(開化)が生まれ、大彦は磯城彦と物部氏の姫の子で正室は「河内青王繫埴安姬」と埴安姬で長男武埴安彦で河内の戸見の長髄邑の王である。
物部氏は「乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降」と鳥見(鵄)に天降り(鵄降り)、「長髓彦妹御炊屋姬爲妃」と武埴安彦の妹を妃とするのだから、欝色謎の兄欝色雄が「活目長砂彦妹芹田真誰姬」と芹田真誰姬が御炊屋姬で活目長砂彦が長髓彦になり、河内の鳥見の長髄邑は活目という地域でもある。
その活目は宇摩志麻治が「活目色五十呉桃女子帥長姫為妃」と活目に婿入りし、葛城氏は「伊久米伊理毘古伊佐知」と活目の長官になっている。
そして、本来の神倭王家は稚日本根子彦大日日ではなく武埴安で「和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」と初めて王が付加される坐が『日本書紀』孝昭天皇六八年「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」とこれも世襲足姬の家系の姫からうまれていて、大彦との戦いの前で実際に戦った人物である。
欝色雄が「活目長砂彦妹芹田真誰姬為妻」と武埴安彦に婿入りしていて、その妹鬱色謎に神倭の分家の開化が婿入りし、物部氏と神倭王朝の血統の子が「春日宮御宇天皇」(開化)で、 春日宮御宇天皇も欝色雄の子の武建の妻の妹で大綜杵の子伊香色謎に婿入りして生まれた子が「磯城瑞籬宮御宇天皇」(崇神)だ。
神倭王磯城彦の武埴安彦は『古事記』「大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而・・・又、日子坐王者、遣旦波国、令殺玖賀耳之御笠」と新たに領地を拡げたが、『古事記』「建沼河別与其父大毘古」のように、領地を拡大したのは大彦親子で、大彦が反乱を起こして武埴安彦親子を駆逐して坐王は「彦坐皇子命子丹波道主王」と丹波に逃れた。
日本では、力があって王を倒したからと言っても王とは認められず、国をまとめるためには血統が重要で、神倭王家とその姻戚物部氏との皇子「磯城瑞籬宮御宇天皇」(崇神)を「御間城入姬即大彦皇子命之女也」と迎え入れ、「纏向珠城宮御宇天皇」(垂仁)が皇位に就いて大彦の王朝が樹立された。
そして、前項で述べたように、『日本書紀』孝元天皇七年「大彦命・・・伊賀臣 凡七族之始祖也」及び「八世孫倭得玉彦命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と倭得玉彦が大彦の娘婿となって、御間城入姬は倭得玉彦の兄弟で大彦の宮は60年間に3から4世代世襲している。
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2018年12月12日水曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝1

 尾張氏は饒速日の末裔としているが、実際は尾張氏の先祖熊野の高倉下が饒速日の軍門に下り姻戚関係になったのであり、それが饒速日神武の東征で、兄弟磯城の戦いのモデルの高倉下の娘婿香語山の孫すなわち「天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫」「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」と弟倉下の天忍男の葛木家義兄弟倉下との戦いが饒速日の軍門に下った戦いである。
そして、天忍男の子羸津世襲が孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命之子此命池心朝御世為大連」と尾張氏の祖で「世襲」は「しこお」と同じく宮名で、役職名が葛城の将軍と言ったところだろう。
ここで、第一の矛盾が物部七世大新河「此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時」と垂仁天皇の時始まった大連が孝昭天皇の時に記述されているということだ。
これは、本来、神倭王朝が大連を制定したのであり、『日本書紀』安寧天皇十一年「弟磯城津彦命 是猪使連之始祖也」と後に得る姓は唯の祖で始祖としていないので、この時すでに連は使われていた、連の一段上の連が居れば大連で、大新河は物部氏の大連の始めということのようだ。
第二の矛盾が四世羸津世襲の子が十世淡夜別の弟「次大原足屋 筑紫豊國國造等祖 置津與曽命之子 」と記述されるが、これは、羸津世襲の宮が世継ぎでなくなり、大原足屋(?尼)の叔父淡夜別に皇位を奪われたのだと思われる。
第三の矛盾が四世羸津世襲が「池心朝御世為大連」で「七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」とやはり世代がとんでいて、建諸隅は「此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫」と葛󠄀木氏の祖の娘を娶って子は葛󠄀木氏だ。
「此命秋津嶋宮御宇天皇御世並縁近宿元爲 足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時也」と足尼(たらしね)が宿祢(すくね)にかわったのが孝安天皇で矛盾が無いが、妹大海姫が「妹大海姫命 亦名葛󠄀木髙名姫命 此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃」と崇神天皇妃だが、これも、羸津世襲の宮の皇子や姫の説話を当てはめているのである。
そして、羸津世襲の妹世襲足姫に「世襲足姫命 亦名日置姫命 此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后」と神倭王朝の孝昭天皇が婿入りし、「世襲足姬命立為皇后誕生二皇子彦國押人命次日本足彦國押人尊」と彦國押人が神倭王朝を継ぎ、孝安天皇「姪押媛爲皇后誕生日本根彦太瓊命」と彦國押人の娘婿が 孝安天皇、孝霊天皇「細媛命爲皇后誕生皇子一柱兒・・・細媛命磯城縣主大目之女也」と孝霊天皇が磯城彦の娘婿となり、その子孝元天皇は磯城彦である
そして、饒速日が天降った「河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見」、鳥見は『日本書紀』神武紀「長髄是邑之本號焉 因亦以爲人名 及皇軍之得鵄瑞也 時人仍號鵄邑 今云鳥見」の長髄彦がいて、妃河内青王繫埴安姬生武埴安彦命」と埴安彦は河内の姫の子で長髄は地名なので、埴安彦も長髄彦である。
さらに、埴安彦を討ったのは兄弟の大彦で『日本書紀』孝元天皇七年「大彦命・・・伊賀臣 凡七族之始祖也」と大彦は伊賀臣の祖で、『先代旧事本紀』「八世孫倭得玉彦命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と孝昭天皇に仕えた七世建諸隅の次の世代で大彦より前の世代の倭得玉は大伊賀彦の婿で伊賀彦と考えられ、大伊賀彦が初代伊賀彦で大彦の可能性があり、倭得玉の義父で尾張氏だ。
そして、『古事記』崇神天皇「娶大毘古命之女、御真津比売命、生御子・・・次、伊賀比売命」大彦の孫が伊賀比売で大伊賀姫に対する伊賀姫で、都味齒八重事代主の神倭王朝に出雲醜が侵略し、葛城彦の羸津世襲が協力した神倭王朝の義兄弟、その直系で物部氏の姫の子で息子尾張氏の大彦が神倭王朝を壊滅させた。

2018年12月10日月曜日

最終兵器の聖典 欠史8代 前期物部王朝3(大倭国・天孫王朝)

 そして、物部王朝は「遷建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶」と開化天皇の時に璽を新しく遷建した石上神宮に収め、皇子に王の地位を与えて開化天皇は宗教の王・天皇になり、勿論この時期は天皇ではなくおそらく『日本書紀』の「天日槍對曰 僕新羅國主之子也 然聞日本國有聖皇」のように聖皇と呼ばれ、実際は宿祢と考えられる。
「近宿殿内矣因號足尼其足尼之號自比而始矣」と「たらしね」を、漢字を理解しているから当てた造語で、宿祢は本来の用法の「宿殿」の神官・禰宜の尼のことで、多くの尼の中で宿殿に居る多くの尼を支配する尼、王の中の王で、「大峯大尼此命者春日宮御宇天皇御世爲大尼供奉其大尼之起始發此時矣」と尼の中の尼の大尼は開化天皇の時始まったが、皇太子と同等の地位で大王と同じだ。
そして、開化天皇「八年春正月以大祢大綜押命為大臣武建命大峯命並爲大祢」と大峯大祢と記述され、大峯大尼と同じ、すなわち大尼イコール大祢も証明され、三世大祢命は役職名で、物部系図も襲名する役職名や宮名と考えるべきで大祢の家系の始まりなのだろう。
従って、「三世孫大祢命此命片塩浮穴宮御宇天皇御世為侍臣奉齋」は安寧天皇の時代ではなく、開化天皇の時の人物で大彦と同世代でその弟が「弟出雲醜大臣」でよく符合し、更に、「大峯大尼」の兄弟「妹鬱色謎命輕境原宮御宇天皇立爲皇后誕生三皇子則大彦命」と兄欝色雄命が宇摩志麻治の孫世代に記述される。
すなわち、「しこお」は役職名の継承で出雲醜イコール欝色雄イコール伊香色雄で「遷建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神」と天皇の璽を石上に祀り神武紀「天璽鏡劔奉正安殿」の正安殿である石上神宮で『日本書紀』崇神紀「朕初承天位。獲保宗廟」を意味する石上朝廷、出雲・欝・伊香は生まれた土地である。
「大木食命 三河國造祖出雲大臣之子・・・弟三見宿祢命 此命秋津嶋宮御宇天皇御世並縁近宿元爲足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時也」と、「出雲色多利姬」の子の出雲醜では人心を得られず、「倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と志紀王に婿入りしてその子が三見宿祢「足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始」と朝廷の主となった。
そして、同じ構図が伊香色雄「倭志紀彦女真鳥姫爲妾」で、伊香色雄の宮の子は磯城瑞籬宮崇神天皇で、この場合、出雲醜が志紀彦・開化天皇と婿入りした義兄弟で伊香色雄が志紀彦・孝元天皇と義兄弟で志紀彦・孝元天皇は欝色雄の宮に婿入りしていている。
出雲醜・欝色雄・伊香色雄3人とも天皇の義兄弟で大臣と呼ばれて外戚の皇太子を意味し、伊香色謎皇太后・伊香色雄天皇で伊香色謎の宮が磯城瑞籬宮で天皇に即位したと思われ、物部氏が宿殿(朝廷)を象徴とした、天皇(宿祢)と一心同体の長男大王(大尼)と皇太后の娘婿若しくは外戚の娘婿義兄弟が大臣というシステムを作り出し、志紀宿祢と物部宿祢とが互いに大臣と呼び王朝交代をスムーズに行った。
伊香色雄の宮の子建膽心大祢は「此命磯城瑞籬宮御宇天皇御世始為大祢供奉」と初めて物部王朝の皇太子・大王である大祢となったのであり、出雲醜の父大祢が畿内に地位を築き、しこおの宮は高宮と呼ばれ「大綜杵命此命輕境原宮御宇天皇御世為大祢」・「髙屋阿波良姫爲妻」と大綜杵大祢が高宮に初めて婿入りして伊香色雄の子たちが天皇を継いだ。
そして、同じ物部七世大新河は「此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時」と物部姓を持って皇室ではなくなり、十市県主の十市根大連の子の物部膽咋宿禰は「此宿祢志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時矣」と元宿殿だった石上神宮を祀る君となり、『日本書紀』景行天皇十二年西暦82年「物部君祖夏花」と夏花が十市根のことか。
物部氏は紀元前660年から続く磯城彦の王朝の宮の記録を引き継ぎ、物部氏の系図を当てはめた。

2018年12月5日水曜日

最終兵器の聖典 欠史8代 前期物部王朝2(大倭国・天孫王朝)

 宇摩志麻治は「橿原宮御宇天皇御世元爲足尼」と物部王朝の神武天皇で、足尼は漢字の無い倭語としては「タラシネ」の意味で国を支配する王の意味と思われ、配下に大尼(尼の中の尼)・『日本書紀』大田田根子・山背根子・眞根子・難波根子等は「尼」の配下である。
三世出雲醜大臣は三河国造の祖、子たちがいくつかの連の祖と領地を広げ、天日方奇日方の子建飯勝の妃が「出雲臣女子沙麻奈姫」、醜の父彦湯支も出雲色多利姫を妃として出雲氏の姫で醜は出雲氏を名乗り、大田田祢古も出雲神門氏の女を妃、子の大御氣持の妃も出雲氏だ。
『古事記』では垂仁天皇「若坐出雲之石くま(石+冋)之曽宮、葦原色許男大神」と出雲氏、開化天皇「朝庭別王者、三川之穂別之祖」と丹波之河上之摩須郎女の皇子朝庭別王も三河の祖で、姉妹の比婆須比売は景行天皇の母、このように、三輪・賀茂氏と物部氏・尾張氏が接点を持ち、これが物部王家の始まりで、紀元前88年から紀元前25年のことだ。
物部氏は「六世孫武建大尼命 欝色雄大臣之子」「七世孫建膽心・・・弟大新河・・・賜物部連公姓」「弟建新川命 倭志紀縣主等祖」とやはり武(たけ)氏を名乗ってから物部姓を使い始める。
賀茂氏は天日方奇日方の弟「四世孫建飯勝」「五代孫建甕尻」「六世孫豊御氣主命 亦名建甕依命」「八世・・・次建飯賀田須此命鴨部美良姫為妻」、尾張氏は「四世孫羸津世襲命・・・次建額赤命此命葛󠄀城尾治置姫為妻」・・・「七世孫建諸隅」と建(たけ)姓が続く。
そして、「八世孫倭得玉彦命」と倭得て璽を持つ王と初代の王名で、後、苗字が無くなり、「十三世孫尾綱根命・・・賜尾治連姓爲」と尾治姓を使い始める。
すなわち、賀茂氏・物部氏・尾張氏は建御名方から続く磯城の王者の後ろ盾がない限り王権を維持できず、王になったときは当然氏姓等は無いが、王を追放されたとき「たけ」氏を名乗るということは「たけ」氏に婿入りしていたため、氏が「たけ」氏だったということで、王を追放されたら不遇になるので、賀茂氏・物部氏・尾張氏に身を寄せて、王家につながる名誉ある人物であり、氏族にとって名誉である為、それぞれの氏を皇子が継いで行くのである。
「建飯勝命此命娶出雲臣女子沙麻奈姫」・「彦湯支命・・・出雲色多利姬為妾」と賀茂氏建飯勝が王位を追放されたとき、出雲氏の姫に彦湯支が婿入りして出雲醜大臣が誕生して長男大祢が王位を継ぎ、出雲醜が皇太子だ。
出雲醜は出雲からやってきた宇摩志麻治で大臣に、それと同時に、「世襲足姬命大臣瀛津世襲」「瀛津世襲・・・次建額赤」と葛城の弟が建氏を名乗り始める瀛津世襲が天日方奇日方で共に大臣で、醜は大臣を続け、瀛津世襲は大臣でなくなるが、妹は皇后で皇子が足彦天皇・率川宮の歴史でこの時の天皇は長髄彦である。
「七世孫建諸隅・・・御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫」と追放される大新河・十市根も前に述べたように葛󠄀木氏の志紀彦の皇子で尾張氏建諸隅が葛城氏に婿入りして皇太子・大臣になった。
伊香色雄「倭志紀彦女真鳥姫爲妾」は出雲醜も「倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と妾ではなく妻にしていて、伊香色雄と出雲醜は親子の物部氏の神武天皇で、伊香色雄は「石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神以為國家」と天皇の璽を祀ったと述べている。
このように、物部氏は彦湯支命「大神早部馬津名久流久美女阿野姫為妻」・「出雲色多利姬為妾」とこの大神は神倭大神の姫で、出雲氏は大巳貴や饒速日の出身地で出雲・神倭2氏の力と「出雲醜・・・倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と記述するように磯城彦の力で大祢が王位を得て弟 出雲醜が皇太子となりそれが懿徳天皇にあたるとしている。
『古事記』懿徳天皇「娶師木県主之祖、賦登麻和訶比売命、亦名飯日比売命」とこの時磯城彦は縣主になっておらず出雲醜が王位を継いだ時県主になったと考えられる。
『以爲大臣奉齋大神其大臣之号始起此時也』と王家の子以外の実力者が王家の皇太子に成り代わって出雲醜が国を統治する体制が出来上がり、大臣という名が付き、国を統治する権限が移った時、その権力はもう戻らず、物部氏が王権を簒奪した。

2018年12月3日月曜日

最終兵器の聖典 欠史8代 前期物部王朝1(大倭国・天孫王朝)

 史書は一人の王に複数の王を割り当て、中国の年表と対応させた倭国年号と干支を使った東鯷国年号があり、倭国年号の先史時代の欠史8代は紀元前186年以前の孝元天皇までだった。
『日本書紀』履中天皇四年「記言事達四方志」記事直後より『古事記』「坐高千穂宮、伍佰捌拾歳」と四方志の筆者が硯を出土する文字先進地域の伊都の歴史を書いたときに580年高千穂宮が残っていて、580年程度前の紀元前180年頃に分国したと書き、『日本書紀』の倭国建国がよく符合する。
東鯷国年号は「橿原宮・高丘宮・浮孔宮・曲峽宮・池心宮・秋津嶋宮・廬戸宮・境原宮・率川宮・瑞籬宮」の紀元前660年から紀元前98年まで、東鯷国からつながる物部年号は「瑞籬宮」で紀元前97年から紀元前28年で天皇としては崇神天皇となって有史天皇と言える。
『先代旧事本紀』・『日本書紀』共に孝昭天皇の皇后世襲足姫だが、『日本書紀』では復の名として「一云磯城縣主葉江女渟名城津媛」、次代の孝安天皇の皇后も「 一云磯城縣主葉江女長媛 一云十市縣主五十坂彦女五十坂媛也」、その次の孝霊天皇も「一云 春日千乳早山香媛 一云 十市縣主等祖女眞舌媛也」と磯城王の姫である。
そして、『先代旧事本紀』で綏靖天皇は「五十鈴依姫為皇后即天皇之姨・・・五十鈴媛命事代主神之少女也」、安寧天皇は「淳名底中媛命事代主神孫鴨玉女」、懿德天皇は「天豊津媛命息石耳命之女」とすべて事代主の家系で事代主を背景にした王で、次の孝昭天皇の皇后「世襲足姬命大臣瀛津世襲命之妹尾張氏」と尾張氏が背景だとしている。
ここで、『先代旧事本紀』懿徳天皇「渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后」と安寧天皇の皇后と皇后が一代ずれているが、息石耳の娘も渟中底姫を襲名し懿德天皇が婿入りし先代の淳名底中媛は義母だったのが表現されたと考えられる。
皇后の兄羸津世襲は「亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」と葛城彦で尾張氏の祖で次代の孝安天皇の皇后は「姪押媛爲皇后」と誰の姫か書かないが、その次の孝靈天皇は「細媛命磯城縣主大目之女」と磯城県主が兄弟、もちろん義兄弟で、孝安は天足彦妃の兄弟が磯城縣主でその娘を妃にして、孝靈も同様で瀛津世襲も葛城彦で神武東侵の世界・磯城彦と兄弟磯城がいる世界である。
さらに、『先代旧事本紀』で「素戔烏尊三世孫」「大神君祖天日方奇日方命」の「天日方奇日方命者皇后之兄也」と三輪神を祀る天日方奇日方の妹「鞴五十鈴命」が神武天皇の皇后で、「妹五十鈴依姫命」が神武の子の綏靖天皇の皇后だ。
天日方奇日方の娘「兒建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后」と綏靖の子安寧天皇の皇后、安寧天皇の子懿德天皇の皇后は兄息石耳の子天豐媛で全て皇后は大神王家と呼べ、「九世孫大田田祢古命」と6世代後に崇神天皇の伝説があるはずなのに、『先代旧事本紀』には出現しない。
そして、懿德天皇は安寧天皇の長男ではなく本来息石耳が正当な天皇後継者と考えるのが順当で、ある王が正当な天皇の姫を皇后にして、その皇太子が「出雲醜大臣此命輕地回峽宮御宇天皇御世元為申食國政大夫以爲大臣奉齋大神」と出雲醜で懿德天皇の大臣すなわち外戚の皇太子となった。
紀元前87年の『日本書紀』の「四道將軍以平戎夷之状奏焉」と大彦によって神国勢力を駆逐したのであり、『漢書』の対象時代前漢に「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」と東鯷国が存在し、『後漢書』には記述されないのだから、前漢の時代に神国東鯷国は滅び大倭国になった。
これで、神国王家が事代主の子たち、「大神君祖天日方奇日方」が弟倉下・弟磯城・長髄彦だったことが解り、懿徳天皇までは饒速日の宮の神国の歴史、開化天皇までは宇摩志麻治の宮の尾張氏を背景にした歴史で、紀元前98年までの物部王朝建国前夜だ。
系図はややこしくて大変だが避けて通れない重要な話題であるので許してほしいが、要は孝靈天皇まで葛城彦の王朝だということである。

2018年11月30日金曜日

最終兵器の聖典 欠史8代神倭地祇王朝3

 それでは、紀元前660年に宮を築いた人たちがどんな人々かを考えるとき、1つの取っ掛かりがあり、それは『先代旧事本紀』「左手持白銅鏡則有化出之神是謂大日孁尊」で物部氏の大神は銅鏡を王者の璽としていて、『日本書紀』「天香山之五百箇眞坂樹 而上枝懸八坂瓊之五百箇御統 中枝懸八咫鏡。一云眞經津鏡。」と天の岩戸説話で使い、『古事記』「八尺勾璁・鏡及草那芸釼」も同様だ。
勿論八尺もある鏡ではなく「八」国の1尺の鏡の意味で、全ての史書が鏡を王権の璽としているが、神武天皇建国時に鏡が出てくるのは、『先代旧事本紀』神武二年「八十聯綿必胤此軄永爲龜鏡矣此日物部連等祖宇摩志麻治」だけで、『日本書紀』崇神天皇六〇年「出雲人祭。眞種之甘美鏡」、景行天皇十二年「上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊」、『古事記』品陀和気命「貢上横刀及大鏡」と『日本書紀』・『古事記』の神武記紀に全く出てこない。
しかも、天皇が持っているものではなく他国の持ち物や贈り物で、『古事記』『日本書紀』では重要な宝物ではないということで、『古事記』・『日本書紀』の神武天皇は鏡を持って大和に入ってこなかった、しかも、生駒近辺を鵄と呼んでいた時代に鏡を持たない『日本書紀』の神武天皇は建国したということだ。
そして、生駒近辺を鵄と呼んだ時代の神武天皇は、都味齒八重事代主の親で、建御名方を諏訪に追い出した大巳貴の可能性が高く、『先代旧事本紀』に「大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社 次須勢理姫神 大三輪大神嫡后」とおそらく、須勢理姫が兄倉下建御名方の弟の弟倉下を婿入りさせ、すなわち、大巳貴が入り婿となって弟倉下と呼ばれたことを示し、『日本書紀』神武天皇元年「太立宮柱於底磐之根」と『先代旧事本紀』「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱」と同じことを述べ、この時が紀元前660年だった可能性が高い。
一方、物部氏は『先代旧事本紀』「採天金山之銅令鑄造日矛此鏡少不全」と鏡や矛を作り、「天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔・・・」と王者の璽を作り、「宇摩志麻治命先考饒速日尊自天受來天璽瑞寶十種」と饒速日から宇摩志麻治に璽を引き渡し、「棒天璽鏡劔奉正安殿」と神武天皇の宮殿に飾られた。
すなわち、饒速日の神武東侵は鏡や劔を持って侵略しており、その鏡が大和に出土、「多紐文鏡」が大和に出土して紀元前200年頃のものとされ、同時に銅鐸も出土しており、銅鐸はそれよりも早いということから、大巳貴の王朝の象徴だったことが解る。
それに対する多紐文鏡は中国遼寧省や沿海州・朝鮮に多数見つかり、『遼史』の蓋州→辰洲の領域に重なり、銅鐸は2世紀頃に埋められており、銅鐸の後三角縁神獣鏡が大量に出土し、おそらく、銅鐸を鋳つぶして三角縁神獣鏡を作成したのが原因と考えられ、同じように、日本では多紐文鏡が鋳つぶされて銅鐸にされたと考えられる。
三角縁神獣鏡をあれほどたくさん作成する人々が、出雲の大量な銅鐸・銅矛出土をさせる人々が、数枚の多紐文鏡で済ますことは有り得ない。
『日本書紀』の欠史8代は「天皇即帝位於橿原宮」の初代を含めて「都葛城。是謂高丘宮」「片鹽。是謂浮孔宮」「輕地。是謂曲峽宮」「掖上。是謂池心宮」「室地。是謂秋津嶋宮」「黒田。是謂廬戸宮」「輕地。是謂境原宮」「春日之地。是謂率川宮」は大神倭神に大巳貴を合祀し、初代大巳貴が兄倉下建御名方の須勢理姫を妃として弟倉下となり、須勢理姫の子は高倉下「武」氏として東鯷国を建国した。
大和周辺の神倭王朝、辰国(大国)も手に入れた大倭王朝と続き、『先代旧事本紀』「素戔烏尊帥其子五十猛神降於新羅曽尸茂梨」と銅鏡を持った素戔烏は多紐文鏡を出土する国新羅に渡り、『後漢書』「一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰・・・皆古之辰國也。馬韓最大」とまさに後漢以前の韓地を述べ大人国の後裔辰国が衰退し大倭王朝がとってかわった内容である。