私たちは「天」を「空」と理解した。
神様は空にいて、我々を観て、必要な時、空からやってくる。『日本書紀』の冒頭には、こう書かれている。 「古(いにしえ) 天地未剖(あめつちはまだ分かれていなかった)」。そして『古事記』には、「天地初發之時(あめつちが、はじめてひらけたとき)」。 どちらも、世界がまだ形を持たなかった頃の、静かな始まりを描いている。
現代人の多くは、これを「宇宙創世のような話」と解釈し、私たちはつい、「天=空」「地=大地」だと思い込んでしまう。けれどそれは、現代の感覚に過ぎない。古代の人々は、漢字を知らなかった。だから、音がすべてだった。漢字の意味より、音に宿る命の気配を信じていた。そのため、漢字を平仮名に変えて読んでみる。原文を見て確かめることが重要になる。そして、実際に原文を読むなら、改変の少ない江戸初期の写本を読むべき。そこには、まだ削られていない〝古代語の音″が残っているからだ。
写本を音だけで読み比べると、今まで、『日本書紀』のほうは「世界が 始まった」と感じ、『古事記』のほうがそれより前、「まだ ドロドロしている世界」との印象だった。それを、仮名に直して、耳で読む。すると、文字に隠れていた風景が、立ち上がってくる。写本の言葉をたどれば、『古事記』ではすでに三柱の神が現れている。御中主という主が、世界を動かし始めている。それに対して『日本書紀』では、まだ神も登場しないで、すべてが混沌とした無に包まれている。
『古事記』の「天地」は、「空と大地」のことでは無いことが解る。読み方も天は「てん」ではなく、『古事記』は「あめ」と読めと記される。「あめ」は「雨」、 同じ音なら、文字が違っても漢字が無い時代は同じ。同じもの・同じ事に漢字を変えて、記した人物の意思を加えている。「あめ」=「天」=「雨」、恵みを与えてくれるものを創造する。