2025年7月7日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 暦の変遷

  羲和は一年366日と決めたが、日本は陰暦、中国は太陽暦を選んだと考えられる。なぜなら、日本は朔を基準にし、中国は晦を基準にしているからである。晦は30日の意味で、本来、中国ではひと月を30日と31日にして、それを、ひと月29日の陰暦に変えたため、朔日イコール晦日になったと考えられる。日本人は晦日を「つごもり」と呼び、朔日(ついたち)と対だ。

漢では、紀元前105年まで二日を朔日と呼んだことがある。「元鼎五年十一月辛巳朔旦」と「太初元年十一月甲子朔旦」の記事はこの日が冬至だったので11月2日をわざわざ朔日にしたと記事にしている。紀元前188年、「惠帝紀八年春正月辛丑朔」と1月1日を朔と初めて記述しているが、前日が12月30日で大の月、すなわち、晦日だったから、次の日は朔日だった。漢で最初に29日の次が朔日だったのは、前84年の「始元三年十一月壬辰朔」から小の月の後の朔日を朔と記述した。『史記』の曆書第四に「王者易姓受命必慎始初改正朔易服色」と朔は自由に変えられた。始皇帝は在位26年に「改年始,朝賀皆自十月朔」と十月を年始とし、武帝は太初元年まで、年初は十月だったのが、二年は春正月から冬十二月と、年始を変えた。

江戸時代の日本の時計の文字盤は季節ごとに位置が変わったが、これは、日本では、時間の長さが季節によって違ったことを示している。時間は満月がどの位置から見えるか、その位置から日の出は3単位あとの寅の時刻とし、それから6(午・うま)単位のあとが日の入りの時刻としたと考えられる。すなわち、春分や秋分なら、6時から18時までである。

大化元年の禮法で「寅時南門之外左右羅列候日初出」「臨到午時聽鍾而罷」とある。仕事は日の出から始めて、「午時(うまどき)」の鐘がなったら帰れとした。日の出は一定でないので、日の出が出勤時間で日の出から12(午)時間後に鐘を鳴らすから帰れとした。当然、午時も一定ではないので、約12時間後、すなわち、日の入り後に帰れと言う意味だ。古代の労働は明るくなったら働いて、日が暮れて暗くなったら帰る習慣だった。

そして、天皇(天子)は夜襲に備え、月や星の運行を観て時刻を知り、夜明けと共に、皇太子に統治を任せた。これが、『隋書』の「天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟」の理由だろう。

2025年7月4日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 歴史が始まった

歴史は暦を持った記録が有って、いつの記録なのか解る、歴史と言える。『史記』の帝堯の項に「命羲和敬順昊天數法日月星辰敬授民時」と、羲和は堯の命令で天空の運行を観察し、太陽・月・星を観測して人々に農事の為の暦を授けたとされている。

『山海經』に「東海之外甘水之閒有羲和之國有女子名曰羲和方浴日于甘淵」とあるように、東海の外、すなわち、黄海の外、九州の太平洋岸側、『大荒南經』・『大荒東經』に記述されているので、日本列島の太平洋岸の東と南の接点の南九州から瀬戸内を含む紀伊半島の辺りに羲和がいた。その羲和が、「歳三百六十六日以閏月正四時」と1年366日、閏月で四季を調整したと記述している。すなわち、1年を四分割して、八十八夜のように91夜と92夜を決めた。『古事記』にも、壹拾肆島、參拾伍神、伍佰捌拾歳を記録して、数の概念は持ち合わせていた。縄文遺跡には、日時計と考えられる遺物も有る。

月や日や時間も鳥獣を表す文字の十二支を最小単位とした。勿論、鳥獣と言っても、中国人から見た鳥獣で、日本人を指し、『山海經』には、日本人を『海外南經』だけでも、「翼鳥」、「身生羽」、「鳥一脚」、「人面有翼」などとあり、「一身三首」、「小人」、「短小」と獣どころか化け物と見ている。勿論、服装や、土器の模様、祀るシンボルを表しているのだろう。すなわち、「子」は根、「丑」は主、「寅」は門(人達)、などを漢字と置き換えたのではないだろうか。

「子」や「申」や「未」は鳥獣を表す文字ではなく、他も暦や方位の為に造られた文字のようで、中国語では鳥獣と言えない。十干の文字も暦や鳥獣の意味ではなく、五行思想と関連する文字でもない。日本が五行説を取り入れて、「木・火・土・金・水」を使ったとされるが、日本の最初の日干支は紀元前666年の甲寅である。日本人は甲寅を、漢字が無いので仮名を表す記号で「木の兄の門等」と記したはずで、紀元前659年以降に書かれた『書経』より古い。しかも、「火」は「か・ほ」ではなく、「ひのえうま」はあまりにも有名で「ひ」と読み、「五行思想」ならば、日本から輸出したことになってしまう。

2025年7月2日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 序

  「新しい古代の神話」では、住む場所の宮を神の代理人が居る場と考え、地名が神、交流することで、地名を付加していった。また、地名は人々の移動によって運ばれた。地名が神、人々は埋葬された墓所を「し」と呼んで、その土地の人々を「氏」と呼んだようだ。「しかばね」は死んだ神が埋められた場に建てた木が根と言う意味だと考えられる。

『山海經』にあるように、日本人の国と考えられる、海外の東西南北經の52、海内の南・東經の34、大荒の東・南經の68の計154、但し重複する国があるので140位の人種が集まったのが日本人と考えられた。『漢書』にも「分為百餘國」と記述され、弥生期でも百以上の言語(方言)を話す人々が存在したと考えられる。

日本人のY遺伝子の構成から、日本人には周辺国に無い遺伝子が存在し、6.8から3.9万年前頃にアフリカを出発した人々が中国や日本に住み着き、その後、3.5万年以降にアフリカを出発した人々が後から遣って来て、日本列島の先住民と混血し、辺地に追いやったようだ。それらの多数の種族の人々の言語も神を「ま・け・み・き・ち」などと呼んで、其々、独自の言葉(方言)を話していたようだ。

移動生活では土器は邪魔だったが、日本に来た人々は土器を発明して定住し、舟を発明して黒曜石などを交易した。日本人は交易で交流するため、身振り手振りや擬態や擬音に声を載せて意思疎通しただろう。そして、交易範囲が拡大する毎に言葉が付加される膠着語の日本語が生まれた。また、其々の神を葬った木の根()・墓標がある土地の人々を纏めて死んだ神の「氏・主」と呼んだのだろう。「新しい古代の神話」では、その土地に繋がる氏族を検証した。

定住した日本人は舟による交易を行ったが、海は季節によって海流や風向きが変わり、また、日本は四季があるので、それに合った作業が必要だったと考えられる。それには、作業カレンダーが必要で、日本人は暦を理解した。『真実の古代』は暦という記録を考えてみたい。

2025年6月30日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ2

古代は末弟が継承すると主張するが、伊邪本和氣→水齒別→男淺津間若子、穴穗→大長谷と兄から即位している。伊邪本和氣・水齒別の在位年数は6年と5年で、兄弟の年齢差とすれば妥当である。

立太子は意味が無く、史書は皇后が決まってから太子を記述しているように、皇后の子が次の天皇になっている。そして、男子が100年後の天皇なのだから、100年間は皇后の娘が皇后の名を継承し、婿を迎えて皇位を継承すれば、皇后の()子が天皇だ。そして、娘が生まれないと、男子が他家へ婿に、または、分家の娘が皇后の名を継承し、婿を迎えれば継承される。

皇后が余曾多本毘賣になった時、余曾多本毘賣の兄の子の数代の國押人が婿に入り皇太子になる。皇后に娘が居ないとき、いつも迎えていた國押人が他家に婿入りして、婿入り先の宮で皇位を継承する。これが、合理的な継承方法だろう。皇后の男子は皇后の兄弟の婿に入って奧津余曾を襲名し、その子も次の太子の國押人である。

そして、王家を形成する人々は、人名を地名や役職名使って名前にした。同じ名前の人物は、同じ家系と考えるのが合理的だ。他家の人物が同名を使うのは、自らのアイデンティティーを捨てることになる。逆に、移住する時は、そのアイデンティティーを持って、地名を持って移住する。

このような原則に立って、神話集である『古事記』を分析した。日子坐のように多くの妃を記述するが、開化朝から崇神朝の120年の間に、何代もの意祁都比賣の子の日子坐が存在し、婿入りして分家を設けたと考えれば理に適う。

120年間あれば、親子の年齢差が20歳とすれば、6・7代の日子坐が存在する。そして、日子坐には4柱(4家)の妃が存在し、80年間、4代の天皇の分家の日子坐が存在したと考えられる。そして、1・2代の日子坐は2・3代の皇后の父だろう。妃の家系の権力を高めるためには、日子坐ブランドは利用価値が高い。

2025年6月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ1

『古事記』には年代や暦の日干支が記述されないため、いつの出来事か特定できない。従って、歴史とは言えないが、親子関係を詳細に語っている。しかし、親子関係は『日本書紀』で解るように、一世代が百年、親子で孝昭・孝安など百八十五年も国を治めている。これを、一部の歴史家はまじめに親子だと考えている不思議な生き物たちである。

しかし、常識的に考えれば、孝昭家から孝安家に政権が遷ったと帰結する。93歳で崩じた前天皇を継いだ子の天皇が123歳まで102年間皇位に就いていたなど有り得ない。孝昭天皇六八年に「立日本足彦國押人尊皇太子年廿」と20歳で太子になって、15年後に21歳で即位など、計算が合わない。

この年齢は異なる意味を持ち、間違いだからと無視はできない。いい加減だと言って、無視して即位期間の平均で1代20年程度とするのは、論理的ではない。20年は親子の年齢差に過ぎない。「太子年廿」は最後の孝昭天皇の太子が婿入りした年齢、93歳は葛城掖上宮が続いた年数と考えた。

もしも、太子の居ない68年間に天皇が崩じたら、皇位継承争いで王朝崩壊するだろう。神武天皇は神沼河耳を太子にしたが、神沼河耳には日子八井・神八井の兄も共に當藝志美美を倒そうと立ち上がり、頼りない兄に替わって即位した。立太子は全く無意味だった。私は立太子が九州倭国の王朝交代と考えた。

478年雄略二二年に「白髮皇子爲皇太子」と記述されるが、翌478年昇明二年に興の弟の武が安東大將軍倭國王を叙された。434年允恭二三年に「立木梨輕皇子爲太子」と記述されるが、「賛死立弟彌」と弟への王朝交代があり、「文帝元嘉十五年夏四月己巳以倭國王珍為安東將軍」と438年に叙された。賛は430年に遣使し、「贊死立弟彌、彌死立子濟濟死立子興、興死立弟武」と記述されるように、弟への王朝交代はこの2回である。弟が即位するというのは、皇后が異なる分家が即位することを意味する。

2025年6月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 大倭國造2 

  大和國造の祖は鸕鷀草葺不合の弟の武位起で、『舊事本紀』に「椎根津彦命爲大倭國造即大和直祖」とあるように、武位起が曲浦の王の祖で、紀伊名草姫の子の大御氣主が大倭國の民磯姫を妃にして生まれた阿田賀田須が丸迩君の祖、曲浦の王になった。

民磯姫は卑弥呼の別名の夏磯媛と同じく、熊襲の一員の壹襲(壹国)の姫で、但馬の姫なのだろう。孝安天皇の子の建斗禾の娘が民磯姫と考えられ、建宇那比が大海宿禰(大倭國王)()弟が建手和迩なので、大御氣主が大海宿禰の妹の民磯姫の婿なのだろう。建手丸迩と民磯姫は紀伊國造智名曽の妹の中名草姫の子と義子、大御氣主は紀伊名草姫の子なので、従兄妹同士の婚姻である。

大御氣主は「拘奴國」を倭國の東から南に追い遣り、子が曲浦や丸津の王で丸迩君の祖と呼ばれたと考えられる。宇豆比古が釣りをしていた浦や神功皇后が新羅に出発した丸津は丸や曲の文字を使うのだから、形状から神功皇后がいた橿日宮の海岸か筑紫の宇佐へ向かった関門海峡が有力である。

迩君は多遲摩國造の祖の大多牟坂、すなわち纏向大連・比布禮大臣の多遅麻と考えられ、娘の弟日賣眞若比賣の婿は曾都毘古の子の葦田宿禰・若野毛二俣だった。葦田宿禰は丸迩臣の許碁登であり、大倭國造は吾子篭で、吾子篭は「吾子篭遣於韓國而未還」とあるように、韓国に出向いたままだった。呼び返したのは兄の麻呂、同じように「襲津彦久之不還」と加羅に出向いたままの曾都毘古と重なり、迎えに行ったのは木菟宿禰(平群氏)と的戸田宿禰(丸迩臣の祖)であった。

兄弟は葦田宿禰と的戸田宿禰で、葦田宿禰は曾都毘古と共に加羅に行っていて、的戸田宿禰は倭直(淡海)の祖、葦田宿禰は倭(淡海)直だ。首都が河内の丹比に遷った時、丸迩の許碁登・葦田宿禰が大倭國造に賜姓されたようだ。丸迩佐都紀臣は深目・意富富杼で、その娘が袁杼比賣・童女君・春日大郎女と考えられる。春日大郎女は倭直の跡取り娘なので、倭比賣が相応しく、袁杼比賣を継承したと考えられる。その婿が袁本杼、すなわち、巨勢男人だろう。そして、倭国に勝利して、九州の倭国は俀国と名を変え、男人の娘婿の仲国王と考えられる広国押建金日が倭国王となった。

2025年6月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 大倭國造1 

  倭國造の祖は槁根津日子で、吉備から日下の蓼津に向かう途中の速吸門を進む水先案内を行った国神であり、宇豆比古は木國造の祖である。しかし、『日本書紀』と『舊事本紀』は珍彦が倭國造であり、珍彦は曲浦の漁師で椎根津彦の名を貰う、筑紫國菟狹へ向かう海導者である。

すなわち、木國造の祖の宇豆比古が曲浦の王であり、宇豆比古の協力で「拘奴國」を攻めた。そして、屋主忍武雄心がその娘の山下影媛を妃に紀武内宿祢が生まれた。そして、宇豆比古の子の紀伊国造の宇豆彦道彦男が大荒田の婿と考えられる建忍山垂根で、二代目武内宿禰の若帯日子が生まれる。宇豆比古の跡取りが槁根津日子を賜姓され、九州の倭國造、すなわち、『後漢書』の大倭王なのだろう。

倭直の祖は麻呂、倭直は吾子篭であり、倭國造の祖は比香賀君だ。比香賀君は君だから、倭直を賜姓されている。履中天皇と考えられる稚櫻柴垣二宮大連の伊莒弗の義父、すなわち、黒比賣の父であり弟比賣の父の葦田宿禰、すなわち、丸迩臣許碁登である。許碁登のもう一人の娘は都怒郎女で、その娘の都夫良郎女の婿が紀角宿祢だろう。武内宿祢と宇乃媛の子の紀角宿祢が圓大臣で、娘が韓媛、婿が雄略天皇の一人の平群真鳥大臣である。

すなわち、倭國造の祖は比香賀君、天皇の伊莒弗は稚櫻と柴垣宮の大連・天皇で、伊耶本和気と水歯別は兄弟ではなく矛盾する。ところが、伊耶本和気と水歯別の義父は共通の葦田宿禰なので、葦田宿禰が伊莒弗、伊耶本和気が倭國造の祖の比香賀君ならば相応しい。多遅麻の妃は世代的に五琴彦ではなく同名の五十功彦と弟媛との娘の安媛(弟媛)で、その娘の香兒媛は弟比賣眞若比賣、夫は若野毛二俣・葦田宿禰である。

伊耶本和気の子の市邊忍齒別の子の意祁は大和の石上の廣高宮天皇、すなわち、大和國の王である。清寧伊波禮甕栗宮天皇には子が無く、飯豐・忍海郎女が皇后だったと考えられる。皇后も居ないのに、子が無いことを嘆くのは奇異である。子も妃も無かったのは武烈天皇に敗れた鮪臣なのだろう。