天智天皇紀は662年から671年と655年、そして685年から694年の記録が入り混じっていると考えられる。『日本世記』は『古事記』と似た紀伝体の記録と考えられるから、天智自身、白鳳、朱雀、朱鳥、長津宮、近江宮、浄御原宮などの紀伝が入り混じっているのだろう。晦日と朔日を区別する正式な日干支の暦と、中国が駐留するためなのか、中国式の晦日を朔日と混同する暦が入り乱れる。それを、編年体に纏めたのが天智紀である。
元年春正月辛卯朔と三月庚寅朔の百済への援助は俀国の暦、662年で、俀国が入鹿に命じられたのだろう。この時、六月己未朔の百済の返礼、冬十二月丙戌朔と二年春二月乙酉朔の百済の避城遷都、州柔帰還、夏五月癸丑朔の高句麗への説明は正しい日干支、倭国の記録だろう。秋八月壬午朔は俀国の暦、筑紫から白村江へ出航した記録なのだろう。九月辛亥朔の百済降伏は正しい日干支、倭国の記録のようだ。
三年春二月己卯朔の大皇弟の廿六階は俀国の冠位ならば663年でも有りうる。天智即位三年の670年二月に671年制定する冠位法度を創るように命じたのだろうか。大皇弟は中宮天皇が即位しないと大皇弟といえない。夏五月戊申朔、冬十月乙亥朔、十二月甲戌朔の郭務悰来日、平伏、帰国は正しい日干支、664年、乙巳の変の原因だ。唐への逆賊の入鹿と嶋皇祖母を排除した。