皇帝の崩御と太子の即位は同じ日なのに、1年差。証拠は、『三国志』の注にある「正始三年九月辛未朔」。これは、242年ではなく、241年の日干支に該当する。つまり、正始の年号には、後ろへ1年のズレがあった。そして、注釈者も、正始の年を間違えていた。後の時代の解説者が正しいと言えない証拠と言える。
ここで登場するのが『日本書紀』の神功皇后。彼女の夫が宮を構えたとされる地は、二つ。穴門 豊浦宮と筑紫
橿日宮。この二つの地名は、きわめて象徴的。なぜなら、それぞれ、豊浦宮は、『後漢書』に登場する拘奴国、橿日宮は、邪馬台国、の記憶と重なる。このことが示唆するのが神功皇后は、「卑弥呼」の記憶を重ねられた存在。すなわち、〝合成された女王″だったということ。
神功皇后という一人の物語の背後には、複数の女王たちの痕跡が折り重なっていた。実際に、『日本書紀』の編年を見てみよう。
神功三十九年 = 景初三年(239年、真実は238年)
神功四十年= 正始元年(240年、真実は239年)
神功四十三年 = 正始四年(243年、真実は242年)
これらは、『三国志』の年号を下敷きにして編まれた年表。しかし、ここに、ひとつの重大な〝誤算″があった。編者たちは、『三国志』の記述を信じた。「景初三年(=239年)に 卑弥呼は魏から詔書を受けた」。従って、神功三十九年を239年とし、〝神功皇后こそ卑弥呼だ″という前提で、年表を整えた。