時代が下って、神功皇后の摂政元年(201年)。この年、日高で「立太子していない太子」と出会ったと記した。この太子は、のちの応神天皇(品陀和気)ではない。彼が太子になったのは203年。さらに不思議なのは、応神の子・菟道稚郎子。応神十五年(284年)に初めて太子として名が現れ、正式な立太子は、なんと応神四十年(309年)になってから。もう、孫の世代だ。
応神は、綏靖と同様の幼児、「3歳で立太子した」とされる。しかし、古代では、元服前の立太子は挙げた二人以外に例がない。応神の立太子は、既に太子が。意味を持たない立太子だった。沼河耳も同じく無意味だった。応神自身は? いつの時代も、幼児を王にするのは、抱いている人物が、正統な王でないことを示すが?
では、この「3歳」とは何を意味していた? 神功皇后の在位三年の立太子。この「三年」という数字に、「3歳」と何か関係が? そのヒントは、『魏志倭人伝』にある。卑弥呼の死後、男王が立つも国は混乱。やがて、宗女・壹與が即位する。
この時系列を整理すると――
景初2年(238年):卑弥呼の使節・難升米が訪中
正始元年(240年):卑弥呼、印綬を受ける
正始4年(243年) :倭王、再び使者を派遣
正始8年(247年) :王頎来日、卑弥呼、死去
正始8 〜 10年 :男王が立ったが国は治まらず
正始10年(249年):壹與が女王として即位
『梁書』には、この出来事が「正始中 10年までに起こった」とあるから、壹與の即位は正始10年だ。ここにあるのは、〝3年間の男王″。この「3年」という期間こそ王統の切り替えのための、静かな準備期間だったのでは? 応神「3歳立太子」も、即位3年目の王統交替の象徴だったのでは?
247年、男王即位を神功元年に。
249年、立太子=王朝交代。これを神功三年に。
すなわち、男王即位後3年、壹與即位を意味する。卑弥呼の王統、弟の子か孫の男王に対して、壹與は宗家、本家に王統が戻った。『日本書紀』の立太子は〝倭国の王朝交代″だった。ある倭王朝が即位してどれだけ続いたかを記した。