天萬豊日が即位した。『新唐書』が言うように天豐財重日の父、子の有間皇子が太子だったが、娘が皇位を継承した。『日本書紀』の大皇太弟天武は中宮天皇の弟の有間皇子の可能性が高い。有間皇子と蘇我赤兄が起こした謀反で赤兄が許されるとは思えない。赤兄の婿が天武天皇、有間皇子が婿ならよく理解できる。孝徳天皇の項目がない理由は、即位数ヶ月後、俄かに崩御したからだ。大甦娘が美濃津子娘と考えれば、大海皇子が蘇我倭国の皇位継承の正当性を持つ。
大化元年七月丁卯朔は正しい日干支、おそらく、茅渟王の娘の間人を皇后にした。天豐財重日の母なのだろう。664年の記録である。中宮天皇が即位した665年に間人大后と呼ばれ、薨去している。八月丙申朔も正しい日干支、戸籍を創った。戸籍は顕宗元年に押磐を山部連の籍に入れたとあり、戸籍制度は既にあった。九月丙寅朔も正しい日干支、兵力を調査した。665年若しくは695年の可能性がある。冬十二月乙未朔の難波長柄豐碕遷都は皇極四年にも記され、645年と664年と665年、倭国と俀国の首都なのだろう。
二年春正月甲子朔は間違いの日干支、645年12月30日で、「改新之詔」の名が大化の改新ならば、696年なのだろう。挿入間違い? 二月甲午朔は正しい日干支、蘇我右大臣に詔勅させたのだから666年だろう。野中寺の『銅造弥勒菩薩半跏思惟像
本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と中宮天皇の具合が悪かった。だから、代読させたのだろう。三月癸亥朔は正しい日干支、東国の臣下に詔勅を述べた。『那須国造碑』で永昌元年689年に那須国造が追大壹を得ていりので、それ以前、やはり、詔勅は666年のことだろう。俀国王は常用が九州の暦、正しい日干支は借り物の暦と理解するべきだろう。
年候補
甲子 1月朔日 677年
甲子 12月晦日30日 645年