阿莘王が即位したのは、392年。枕流王が亡くなった時はまだ、阿莘王は若かったため、叔父の辰斯王が王位に就いた。阿莘王は13歳以上20差未満でないと太子になれないので、阿莘王の即位時の年齢を20歳程度とすれば、誕生年は372年頃。そして、372年7月16日、この日の干支は丙午。これは、七支刀の銘文と重なる干支。十一月は17日が丙午だ。この場合、十月は三十日が晦日なので、この日を朔日とすると、十八日に。では、銘文にある「十■月」とは? 「七月」の「七」の下の横棒が摩耗して消えたものと考えれば、「七月十六日 丙午」、すなわち372年7月16日とするのが自然。そうであれば、七支刀は、曾孫・阿莘王の誕生を祝して、日本に贈られたものだった。
百済王家にとっても、曾孫の誕生は稀な出来事。血統が曾孫まで続く証。その慶事にあわせて、外交上の最高の贈り物。その象徴としての剱を、日本の大王へと献上した。そしてその贈り先は、石上神宮を擁する王家の中枢。そのとき治世を担っていたのが氣長足姫だった可能性が大きい。
けれど、ここで問題となるのが銘文に刻まれた「泰■四年」という元号。この372年当時は咸安二年、この頃の中国側の王朝に「泰■」の年号はない。「泰始」…西晋(265年〜274年)、「泰和」…北魏(477年〜499年)。どちらも、時代が合わない。神功五十二年が252年なら、嘉平四年。つまり、「泰■」は、中国の元号ではなく、日本国側の元号だった可能性がある。新羅が元号を持つのは、もう少し後。法興王二十三年(535年)の「建元」という元号だ。