古代の王は、姉妹をまとめて妃にしていた、そんな話を聞いたとき、あなたは神話の幻想だと思うかもしれない。しかし、それは夢物語ではない。
記録に刻まれた、制度の痕跡。婚姻が、政治だった時代の話だ。『後漢書・東夷伝』は語る。「大人皆有四五妻 其餘或兩或三」。王たちは、四人、五人の妻を持ち、身分が低くても、二人、三人。
『三国志』『梁書』もまた、同じ調べを奏でる。「大人皆四五婦下戸或二三婦」「貴者至四五妻 賤者猶兩三妻」それは、ただの贅沢ではない。
身分が低くても複数の妻。血と家と宮をつなぐ、政のかたちだった。身分が低くても複数の妻。血と家と宮をつなぐ、政のかたちだった。瓊瓊杵は、木花開耶姫と磐長姫の姉妹を妃に迎え、磐長姫を返した。その報いとして、命の短さを得たという。通常は返さないからだろう。これが二人、三人。
けれど、ふと疑問がよぎる。実の姉妹が四人、五人も揃う家など、そうあるだろうか? それが偶然でないなら、そこには、仕組みがあったのでは?鍵を握るのは、「宮」という単位。一つの宮に住まう女性たちが、揃って妃となる。そして次の代では、そこの娘たちに婿入りする男子が選ばれる。その繰り返し。だから、百年、皇后の名が変わらない。それは、同じ宮から、皇后が出続けていたから。そして、人数が多くなると分家を造る。その繰り返し。だから、百年、皇后の名が変わらない。それは、同じ宮から、皇后が出続けていたから。宮の姫すべてが皇后だったから。
応神天皇は、「品陀真若の三姉妹」を妃に迎えた。垂仁天皇は、「丹波道主の四姉妹」を。『古事記』は四姉妹と記すが、六姉妹を挙げている。そして、二人は返され分家を造った。これは、恋の物語ではない。姉妹(?従姉妹)を揃えて妃にすることは、家系ごと王権に取り込むということ。家を取り込めなければ、王権は長く続かない。命も、続かない。
鵜草葺不合は、叔母を妃にした。孝安天皇は、姪を。当然、同世代。それは、「従姉妹婚」という言葉では語りきれない。母の姉妹の娘たち、同じ家系の女性群。つまり、婚姻とは、血の交わりではなく、宮の連続性を編む技だった。