南朝の晋や宋の中国人も間違えたのか? 時代は三世紀。倭の女王が、海を越え、魏の都へと使節を送った。その名は卑弥呼。中国の正史『三国志・魏書』は、こう記している。「景初二年六月 倭女王 遣使 詣京都 其年十二月 詔書 報倭女王」景初二年、西暦で言えば、238年。倭からの使節は、魏の明帝に正式に認められ、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を授けられた。
ここまでは、よく知られた事実。けれど、この「景初二年」の〝年号″に、驚くべき歴史の罠が潜んでいた。注目するべきは、『三国志・三少帝紀』、「景初三年正月丁亥朔 帝甚病 乃立皇太子 是日、即皇帝位」この皇帝崩御の出来事は、239年の正月とされてきた。しかし、ここに記された干支「丁亥」、これは、実際には238年12月30日のこと。
238年12月30日に明帝が崩御
238年12月30日に齊王が即位して改元を宣言
239年1月「正始元年」
それなのに、なぜか? それは、齊王が、景初二年の「十二月」を景初三年「後十二月」としたから。
そして、次の元号「正始元年」の正月は、240年と。 つまり、こういうことになる。
238年景初二年十二月 = 景初三年「後十二月」(真実は238年末)
景初三年(十二月)= 記録上は239年(真実は238年末の出来事)
正始元年正月(改元)= 240年(真実は239年)
このことが示すのは『日本書紀』が語る「景初三年十二月の朝獻」が、239年のことではなく、実際には238年末の出来事だったということ。