2026年3月30日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇4

  五年春正月癸酉朔の叙位、三月壬申朔の宴、五月辛未朔の百濟淳武微子への褒美、秋七月庚午朔の吉野宮行幸、八月己亥朔の墓記の上進、九月己巳朔の音博士と書博士に下賜、冬十月戊戌朔の日蝕は畿内の記録である。二月壬寅朔の仏教に関する詔勅は九州の暦、天皇の言葉に天皇と発言するのは奇異で、九州の天皇(高市太政大臣)が上位の天智天皇の事を述べたのだろう。夏四月辛丑朔の除籍した奴婢の扱いの詔勅も九州の記録である。九州は勢力争いで奴婢が多数発生したのだろう。十二月戊戌朔の薬の博士や咒禁の博士に褒美を与えたのも九州の記録である。

六年春正月丁卯朔の高市皇子に増封、二月丁酉朔の三月三日に伊勢へ出発する詔勅は畿内の記録である。但し、本当に出発するのは三月六日で、太陽暦の可能性がある。『古事記』が太陽暦で編まれていることと対応している。三月丙寅朔の高市麿の諫言は九州の暦である。五月乙丑朔の阿胡行宮も同じ九州の暦である。廣瀬王、當麻智徳、高市麿は『続日本紀』で702・3年から出現する。これらの記録は大化六年(700年)の記録と考えられる。夏四月丙申朔の大伴友國への贈直大貳は正しい日干支だが、大化六年の戦死の可能性がある。

潤五月乙未朔の大水、六月甲子朔の山岳の河の祈祷、秋七月甲午朔の大赦、八月癸亥朔の赦罪、九月癸巳朔の四畿内の視察の使者、冬十月壬戌朔の山田御形に務廣肆授与は正しい日干支、畿内の記録である。十一月辛卯朔の新羅からの遣使は九州の暦、新羅の孝照王即位の使節なのだろう。十二月辛酉朔の音博士に水田を授与は正しい日干支、畿内の記録である。

2026年3月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇3

  三年春正月甲寅朔の天皇の朝賀、三月癸丑朔の大赦、五月癸丑朔と秋七月壬子朔の新羅弔使の説話は九州の暦なので、都督府の記録だろう。二月甲申朔の防人の年限の詔勅、夏四月癸未朔の新羅人を下毛野に投化、六月壬午朔の筑紫大宰への衣裳下賜、秋八月辛巳朔の神事は正しい日干支、畿内の記録である。

潤八月辛亥朔は九州の暦で、戸籍を創る詔勅である。戸籍は白雉三年や天智九年に詔勅を出したので、九州では天智九年の戸籍と様式が違っていたのだろう。九月庚辰朔の石上麿、石川虫名の筑紫派遣、冬十月庚戌朔の高安城行幸、十二月己酉朔の雙六禁止は畿内の記録だ。十一月己卯朔の高田石成が軍を削減したことで褒美を与えた。これは九州の暦で、九月の戸籍の詔勅で、軍は4軍までとあったのを、3軍に減らしたためだ。

四年春正月戊寅朔の朝賀は九州の暦、都督府の記録である。大嶋は中臣朝臣で、ここから藤原姓を外れた。藤原姓は以降、鎌足の子の不比等と大嶋の子の馬養が716年まで使っている。馬養は不比等の娘婿?

二月戊申朔の腋上行幸、夏四月丁未朔の廣瀬大忌神與龍田風神の祭り、五月丙子朔と八月乙巳朔と冬十月甲辰朔の吉野宮行幸、六月丙午朔の泊瀬行幸、十一月甲戌朔、十二月癸卯朔の金高訓の記録は正しい日干支で畿内の説話である。三月丁丑朔の京と畿内の老人に祝いの物を渡し記録は九州の暦、天智天皇の首都は畿内にあるのに、京が別に記されているのは、この京が畿内でなく筑紫だったことを示している。秋七月丙子朔の公卿百寮に新しい朝服を配った記録、九月乙亥朔の戸籍の造り方の詔勅は九州の暦である。

2026年3月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇2

  元年春正月丙寅朔の皇太子の殯は2月の朔日の日干支である。他に候補日が無い。すなわち、1月晦日の記録を2月朔日と変換した可能性がある。大化元年、日並の即位の説話だろうか。三月乙丑朔の高句麗人の投化、夏四月甲午朔の筑紫大宰が献上した新羅人の投化は正しい日干支、畿内での記録である。五月甲子朔の殯は畿内での大海皇子への殯なのだろう。

元年六月癸巳朔の恩赦、秋七月癸亥朔の徳政令は畿内の政策である。八月壬辰朔の御青飯の記録は九州の暦、都督府の記録である。九月壬戌朔の国葬の祭壇を設けた記録は畿内、冬十月辛卯朔の陵墓作成は都督府の記録である。この大規模な葬儀は、九州の天皇の大海皇子の葬儀ではなく、大化元年695年の記録の可能性が高い。天皇の即位時に常に言及する「不改常典」を定めた天智天皇、この葬礼も常典なのだろうか。十二月辛卯朔の路迹見の新羅遣使は畿内の記録である。

二年春正月庚申朔の皇太子による殯、三月己未朔の藤原朝臣大嶋の誄も、やはり、大化二年(696年)の記録なのだろう。694年に建造を始めた粟原寺の鑪盤銘には大嶋の名があった。皇太子は十市皇女の婿の大友皇子と考えられる。九州の記録の六月戊子朔の恩赦、畿内の記録の八月丁亥朔の大伴安麻呂の誄、九州の記録の冬十一月乙卯朔の皇太子の殯宮の慟哭も同様だ。大伴安麻呂は714年に大納言兼大將軍正三位の地位で薨去した。大嶋と共に誄する地位に相応しい。

二月庚寅朔の大宰からの新羅の品の献上も新天皇への献上で、畿内の記録だ。夏五月戊午朔の百済人の甲斐移住、秋七月丁巳朔の大旱魃、九月丙辰朔の饗耽羅佐平加羅の饗応、十二月乙酉朔の蝦夷饗応は畿内の記録である。

2026年3月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇1

天武天皇の内容は『日本世記』の内容で、九州の暦は筑紫都督府・浄御原宮の記録、正しい日干支は畿内の天智天皇の記録と考えられた。持統天皇の内容もおおむね同じだろう。そして、一部、元明天皇の記録と大長年間の記録が混じっていると考えられる。菟野讚良皇女は世代的に天智天皇と同世代の義妹と考えられる。天智天皇の皇后が馬子の家系の倭姫、日並が彦人の家系の鏡王の娘の額田姫を皇后にした。当然、その頃の最高権力者の娘たちだ。

持統天皇は總持天皇、皇祖母が額田姫だったと考えられる。鏡王の祖は宣化天皇の子の偉那公の祖の上殖葉大王、その娘が大俣王、その婿が彦人、その子が猪名鏡公高見である。額田姫と大村は兄妹だろう。

皇后が大后と呼ばれた時、東宮が後を大后に任せ、諸政は大友皇子に任せるように進言した。大友皇子は日並天皇の娘の十市皇女の婿、703年の出来事である。大友皇子は太政大臣、九州の浄御原で統治していたと思われる。持統上皇は702年に三河へ、文武天皇も尾張や美濃・伊勢・伊賀に行幸している。これは、額田大后の逃避行なのではないか。そして、大長元年・景雲元年(704年)に文武天皇が勝利して藤原宮で即位した。

朱鳥元年九月戊戌朔の天武天皇崩御、冬十月戊辰朔己巳の大津謀反は正しい日干支、天智天皇の記録である。皇太弟の都督府天皇の大海皇子が崩じた。大津皇子謀反は壹伎連博徳が連座していて、博徳は中宮天皇世代にあたり、冠位も小山下と685年より前の古い冠位である。十一月丁酉朔の大来皇女の伊勢参拝、十二月丁卯朔の浄御原天皇のための祈祷は正しい日干支、畿内の記録である。

2026年3月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇7

     十三年二月癸丑朔の金主山の筑紫での饗応、三月癸未朔の椿の献上、閏四月壬午朔の装束の詔勅、六月辛巳朔の雨乞い、秋七月庚戌朔の広瀬へ行幸、冬十月己卯朔の八色の姓の詔勅、十一月戊申朔の五十二氏に朝臣を賜姓、十二月戊寅朔の五十氏に宿禰の賜姓は正しい日干支で、天智天皇の政策である。

正月甲申朔の三野縣主、内藏衣縫造への連の賜姓、夏四月壬子朔の恩赦、五月辛亥朔の百済人を武蔵に置いた記録は九州の暦、都督府の指示である。

十四年春正月丁未朔の群臣の拝賀、二月丁丑朔の唐人、百済人。高句麗人への爵位、夏四月丙子朔の紀伊の温泉が止まった記録、五月丙午朔の射礼、六月乙亥朔の十一氏への忌寸の賜姓、秋七月乙巳朔の廣瀬龍田神の祭り、八月甲戌朔の淨土寺への行幸、九月甲辰朔の舊宮安殿での宴会、冬十月癸酉朔の僧常輝への増封、十一月癸卯朔の「儲用鐵」を周防に送付、十二月壬申朔の筑紫への舟の海難事故は正しい日干支、畿内の記録である。三月丙午朔の金物儒の筑紫での饗応と筑紫からの帰国は九州の暦、都督府の記録である。

朱鳥元年春正月壬寅朔の大極殿での宴、二月辛未朔の勤位の授与、三月辛丑朔の羽田眞人八國の病、夏四月庚午朔の桑原村主訶都の直廣肆の授与、五月庚子朔の多紀皇女が伊勢から帰った記録、六月己巳朔の槻本村主勝麻呂の連の賜姓、秋七月己亥朔の庶民の装束の詔勅、八月己巳朔の八十僧の出家、九月戊戌朔の川原寺での天皇治癒の請願は正しい日干支、天智天皇の記録である。

日付が特定できる大伴男吹、羽田八國は壬申功臣だが、『続日本紀』では記されない。2つの壬申の乱があった。

2026年3月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇6

  十一年春正月乙未朔の叙勲、三月甲午朔に新都の調査、五月癸巳朔の倭漢直に連を賜姓、六月壬戌朔の高句麗、新羅の遣使、秋七月壬辰朔の隼人の遣使、九月辛卯朔の礼法の改革、十一月庚寅朔の刑法の詔勅、十二月庚申朔の氏上の詔勅は畿内の出来事だろう。二月甲子朔の新羅の使者の金忠平の帰国、四月己亥朔の廣瀬龍田神の祭り、八月壬戌朔の順法の詔勅、冬十月辛酉朔の酒宴は九州の暦だ。金忠平は筑紫で饗応され九州の暦で記した。

 中宮天皇の崩御のため、天智天皇は夜の天皇で祭祀を、成務は九州の大海皇子が担当したのだろうか。そのため、実権を大海皇子に奪われ、壬申の乱が始まる、694年に大友太政大臣、日並天皇も再度の戦乱に対して持統四年、すなわち、文武四年700年に、高市太政大臣が軍務を遂行したのだろう。

 十二年春正月己丑朔の群臣の拝賀、二月己未朔の大津皇子が初出仕、夏四月戊午朔の銀銭廃止、六月丁巳朔の大伴連望多の薨、八月丙辰朔の大伴連男吹負の卒、九月乙酉朔の大風、冬十月乙卯朔の十四氏に連を賜姓、十一月甲申朔の戦術を習わす記録、十二月甲寅朔の国境の決定は正しい日干支、天智天皇の政策である。三月戊子朔の僧の統領を法に準じる詔勅は九州の政策だろう。秋七月丙戌朔の鏡姫王の見舞いは、『興福寺流記』に記される嫡室の鏡女王ならば、鎌足が薨去する692年時点でも生存中だ。藤原宮十二年の705年なのだろうか。もし、額田姫の母なら、世代的に相応しい。

2026年3月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇5

  八年六月庚戌朔の雹、十一月丁丑朔の地震、十二月丁未朔の恩赦は九州の暦で、筑紫での記録だ。それに対して、秋七月己卯朔の雨乞い、八月己酉朔の「貢女人」、九月戊寅朔の新羅遣使、冬十月戊申朔の治安の悪化は正しい日干支、畿内での記録である。

九年春正月丁丑朔の大宴会、三月丙子朔の巫鳥の献上、夏四月乙巳朔の廣瀬龍田神の祭り、六月甲辰朔の新羅の使者の帰国、八月癸卯朔の嘉禾の献上、冬十月壬寅朔の貧しい寺の僧や百姓への施し、十一月壬申朔の日蝕は正しい日干支、畿内の天智天皇の記録である。廣瀬龍田神の祭りが天皇交代時期681年や695年に九州の暦で記され、外交と廣瀬龍田神の祭る宗教の天皇、都督府の政務と行事の太子の切り分けができそうだ。

それに対して、二月丙午朔の東方で異音、五月乙亥朔の京内廿四寺への施し、秋七月甲戌朔の飛鳥寺西槻の枝が自然に折れた現象、九月癸酉朔の「馬的射」は都督府の記録なのだろう。

十年春正月辛未朔の幣帛を分け与えた記録、二月庚子朔の草壁皇子を皇太子にしたのは九州の暦だ。九年十一月に中宮天皇が崩じ、天智天皇が即位し、都督府の支配下の大海皇子が九州の王となったのだろう。三月庚午朔の阿倍夫人の葬、夏四月己亥朔の廣瀬龍田神の祭り、六月己亥朔の新羅饗応、九月丁酉朔の高句麗、新羅の遣使、十二月乙丑朔の新羅の饗応も九州の暦で、十二月の饗応は筑紫に派遣したと記した。 それに対して、五月己巳朔の皇祖の御魂を祀った記録、秋七月戊辰朔の朱雀を見た記録、八月丁卯朔の上毛野君三千の卒、冬十月丙寅朔の曰蝕、十一月丙申朔の地震は畿内の記録だ。