2020年9月30日水曜日

最終兵器の目 皇極天皇7

  『日本書紀』慶長版は

乙巳志紀上郡言有人於三輪山見猿晝睡竊執其臂不害其身猿猶合眼歌曰武舸都烏爾陀底屢制羅我伱古祢舉曾倭我底烏騰羅毎拖我佐基泥基左泥曾母野倭我底騰羅湏謀野其人驚恠猿歌放捨而去此是經歴數年上宮王等爲蘇我鞍作圍於膽駒山之地也戊申於劔池蓮中有一莖二者豊浦大臣妄推曰是蘇我臣將榮之瑞也即以金墨書而獻大法興寺丈六佛是月國內巫覡等折取枝葉懸掛木緜伺大臣度橋之時爭陳神語入微之說其巫甚多不可具聽老人等曰移風之兆也于時有謠歌三首其一曰波波魯魯儞渠騰曾枳舉喩屢之麻能野父播羅其二曰烏智可拖能阿婆努能枳枳始騰余謀作儒倭例播祢始柯騰比騰曾騰余謀湏其三曰烏麻野始伱倭例烏比岐例底制始比騰能於謀提母始羅孺伊弊母始羅孺母也秋七月東國不盡河邊人大生部多勸祭虫於村里之人曰此者常世神也祭此神者到富與壽巫覡等遂詐託於神語曰祭常世神者貧人到富老人還少由是加勸捨民家財寶陳酒陳菜六畜於路側而使呼曰新富入來都鄙之人取常世(?虫)置於清座歌儛求福棄捨珍財都無所益損費極甚於是葛野秦造河勝惡民所惑打大生部多其巫覡等恐休勸祭時人便作歌曰禹都麻佐波柯微騰母柯微騰枳舉曳倶屢騰舉預能柯微乎宇智岐多麻湏母此(?虫)者常生橘樹或生於(?)(?)其長四寸餘其大如頭指許其色緑而有黒點其貌全似養蠶冬十一月蘇我大臣蝦夷兒入鹿臣雙起家於甘檮岡稱大臣家曰宮門入鹿家曰谷宮門稱男女曰王子家外作城柵門傍作兵庫毎門置盛水舟一木鉤數十以備火災恒使力人持兵守家大臣使長直於大丹穗山造桙削寺更起家於畝傍山東穿池爲城起庫儲箭恒將五十兵士繞身出入名健人曰東方儐從者氏氏人等入侍其門名曰祖子孺者漢直等全侍二門

【乙巳の日に、志紀の上の郡が「人がいて、三輪の山に猿が昼寝しているのを見て、そっと肘をつかんで、体を傷つけなかった。猿が目を閉じたまま歌った()その人は、猿の歌に驚き怪しんで、放り投げて逃げ帰った。これは、数年経って、上宮の王達が、蘇我の鞍作の為に、膽駒山で包囲される兆しだ。」と言った。戊申の日に、剱池で、中の一つの茎に二つの花をもつ蓮があった。豊浦の大臣は、慎みも無く「これは、蘇我臣が栄える吉祥だ」と言い張った。それで金象嵌で書いて、大法興寺の丈六の仏像を献上した。この月に、国中の祈祷師達が、葉つきの枝を折り取って、木綿をぶら下げて、大臣が橋を渡る時を見計らって、先を争って神の語葉を事細かに口ずさんだ。その巫がとても多くてすべてが聞こえなかった。老人達が「世の中が変わる兆しだ」と言った。その時に、風刺の歌を三首を歌った。第一に、()第二に、()第三に、()秋七月に、東国の不尽の河の辺の人で大生部の多が、虫を祀るよう村人に勧めて、「これは常世の神だ。この神を祀る者は、富み幸せになる」と言った。祈祷師達は、とうとう神の語葉だと、「常世の神を祭れば、貧しい人は富み、老人は若返る」と嘘を言った。それで、さらに財宝を捨てるよう勧めて、酒を並べ、野菜や六種の肉を道の辺に並べて、「新しい富が向こうからやってきた」と叫んだ。都も田舎もみな常世の虫を取って、浄めた所に置いて、歌い踊って、幸福を求めて財宝を捨て、何の益も無く損害は甚大だった。そこで、葛野の秦の造の河勝が、人を惑わすことは悪い事と考え大生部の多を討った。祈祷師達は、恐れて勧めたり祀ったりすることを一時止めた。当時の人は、それで歌を作った()この虫は、いつも橘の樹にいる。または犬山椒にいる。その長は四寸余で、その太さは親指位でその色は緑で黒い斑点がある。その見た目は蚕に似ている。冬十一月に、蘇我の大臣の蝦夷と子の入鹿臣が、邸宅を甘梼の岡に並べて建てた。大臣の家を、宮門(ミカド)と呼んだ。入鹿の家を、谷宮門と呼んだ。男女の子達を王子と言った。屋敷の外に柵を巡らし、門の隣に武器庫を造った。門ごとに、水を盛った舟を一つ、木鉤、数十を置いて、火災に備えた。いつも力自慢に武器を持たせて屋敷を守った。大臣は、長の直に、大丹穗の山へ、桙削の寺を造らせた。また屋敷を畝傍の山の東に起てた。濠を掘って城とした。兵器庫を建てて矢を積み上げた。いつも五十人の兵士を率いて、護衛させて城を出入りした。この力自慢を東方の儐從者と名付けた。その氏族の人達が兵舎で仕、祖子孺者と名付けた。漢の直達は2つの門を守った。】とある。

常生橘樹に卵を産む虫が常世の神と呼んでいるが、垂仁天皇九十年「田道間守遣常世國令求非時香菓」と橘を常世の国から持ってきていて、この橘と一緒に日本に入ってきた虫のようで、富士山周辺に虫を神格化した風習が古くから残っていたのだろう。

秦造河勝は推古天皇十一年に「皇太子謂諸大夫曰我有尊佛像誰得是像以恭拜時秦造河勝進曰臣拜之便受佛像」、推古天皇十八年に「命秦造河勝土部連菟爲新羅導者以間人連臨蓋阿閇臣大篭爲任那導者」と記述されるが、それぞれ639年、646年のことと解り、大化二年「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質遂罷任那之調」と新羅朝貢記事が記述されている。

そして、644年『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」646年に崩じる池邊天皇の時に濠や柵で囲った2つ並んだ宮殿を造りその門を漢直達に守らせ、漢直は『古事記』の「漢王之妹大俣王生御子知奴王」と茅渟王の義父のことで、古人皇子がその長男若しくは孫と思われ、中大兄もその家系なのだから、乙巳の変の時の門番は漢王の皇太子の中大兄の部下である。

そして、646年に茅渟王が崩じて、『藤氏家伝』に「俄而崗本天皇崩皇后即位」と皇后が即位したが、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「小治田大宮治天下大王天皇」と大王のままで、私は『古事記』「小治田王」『日本書紀』「其三曰小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と古事記には彦人の妃と記述せず、『日本書紀』に記述する小墾田皇女が天皇になったと考えていて、652年蝦夷に斑鳩の皇女の小墾田皇女が殺害されて皇位を奪われたのではないだろうか。

『古事記』は「日子人太子娶鹿庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」、「又娶漢王之妹大俣王生御子知奴王次妹桑田王又娶庶妹玄王生御子山代王次笠縫王」で崗本宮治天下之天皇を書きながら妻の皇極天皇を記述せず、『日本書紀』も「田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」と皇極天皇では無い。

すなわち、消された田眼皇女の夫の舒明天皇が田村王の子で、この舒明天皇を天智天皇が消し去り、漢王の家系(俀国)では皇室の家系ではないが、舒明天皇はもともと俀国王だったとし、小墾田皇女を自分の家系(倭国)に挿入して、正統性を主張したことを意味する。

そして、この、消し去った舒明天皇が蘇我大臣すなわち帝の蝦夷天皇・摂政入鹿で、天智天皇から見ると、勝手に宮門()と呼び、子達を勝手に王子と呼んだと見做しただけで、実際は当然な態度で、天智天皇の母系が馬子で馬子の孫にあたるが、漢直の摂政にすぎないのである。

天皇となって国史を記述する時、すでに公布された部分は変更できないが、続きの部分は、国史を記述する天皇の先代が天皇だったと想定して記述しても、前王朝も雄略天皇から推古天皇までもそのように記述してきたのだから、同じように国史を記述したのだ。


2020年9月28日月曜日

最終兵器の目 皇極天皇6

 『日本書紀』慶長版は

三年春正月乙亥朔以中臣鎌子連拜神祗伯再三固辭不就稱疾退居三嶋于時輕皇子患脚不朝中臣鎌子連曾善於輕皇子故詣彼宮而將侍宿輕皇子深識中臣鎌子連之意氣髙逸容止難犯乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿髙鋪新蓐靡不具給敬重特異中臣鎌子連便感所遇而語舍人曰殊奉恩澤過前所望誰能不使王天下耶舍人便以所語陳於皇子皇子大悅中臣鎌子連爲人恵正有匡濟心乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序挾社稷之權歷試接王宗之中而求可立功名哲主便附心於中大兄䟽然未獲展其幽抱偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶而候皮鞋隨毱脱落取置掌中前跪恭奉中大兄對跪敬執自茲相善倶述所懷既無所匿復恐他嫌頻接而倶手把黃卷自學周孔之教於南淵先生所遂於路上往還之間並肩潛圖無不相協於是中臣鎌子連議曰謀大事者不如有輔請納蘇我山倉田麻呂長女爲妃而成婚姻之眤然後陳說欲與計事成功之路莫近於茲中大兄聞而大悅曲從所議中臣鎌子連即自往媒要訖而長女所期之夜被偸於族由是倉山田臣憂惶仰臥不知所爲少女恠父憂惶就而問曰憂悔何也父陳其由少女曰願勿爲憂以我奉進亦復不晩父便大悅遂進其女奉以赤心更無所忌中臣鎌子連舉佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田於中大兄曰云云三月休留産子於豊浦大臣大津宅倉倭國言項者菟田郡人押坂直(闕名)將一童子欣遊雪上登菟田山便看紫菌挺雪而生髙六寸餘滿四町許乃使童子採取還示隣家捴言不知且疑毒物於是押坂直與童子煮而食之大有氣味明日往見都不在焉押坂直與童子因喫菌羹無病而壽或人云蓋俗不知芝草而妄言菌耶夏六月癸卯朔大伴馬飼連獻百合華其莖長八尺其本異而末連

三年の春正月の乙亥が朔の日に、中臣の鎌子の連を神祇の頭に指名したが、何度も辞退して就任せず、病気だと言って三嶋に退いていた。その時に、軽の皇子が、脚を患って朝廷に出仕出来なかった。中臣の鎌子の連は、昔から軽の皇子と懇意だった。それでその宮に行って、寝所近くで看病した。軽の皇子は、とても中臣の鎌子の連の意識が高く秀逸で立ち居振る舞いは決まりを破ることが出来ないと解って、それで寵愛の妃の阿倍氏を使いって、ちがう御殿をきれいに掃除して、新しい敷物を高く敷いて、行き届かないことが無いくらい派手にした。敬い厚遇して特別扱いだった。中臣の鎌子の連は、その待遇に心が動いて、護衛に「おかげを持ちましてこの上ない思いです。主人以外に誰が天下の王となれましょう」と語った。護衛は、それで言葉通りに皇子に言った。皇子はとても喜んだ。中臣の鎌子の連は、人となりはまごころを尽くして間違いが無く、

悪をただして乱れを失くそうとする気持ちが有った。それは、蘇我の臣の入鹿が君主と臣下の間、年長者と年少者の間で当然守るべき秩序を失くし、国を窺ってさしはさもうと企て、繫いできた王統に加わろうと、手柄を立てて求めていたからだ。それで、力ある主を探して、中の大兄につこうと決めたが、親しくないのでまだその心の中の思いを言えないでいた。たまたま中大兄が法興寺のケヤキの樹の下で中間と毬打ちをして、革靴が毬と一緒に脱げ落ちてしまって、それを手に持って、進み寄って跪き恭しく渡した。中大兄は、向き合って跪いて敬意をもって受け取った。これで、仲良くしあって、思うことをありったけ言い合った。それで、隠し事がなくなった。後で他人が頻繁に接していると嫌がられることを恐れて、一緒に書物を手にして周公や孔子の教えを南淵(?漢人請安・?坂田寺)先生の所で学んだ。その行き来の道すがらに、肩を並べて隠れて相談しても、纏まらないことが無かった。そこで、中臣の鎌子の連が「政権の転覆をしようとするなら、協力者があった方がいい。お願いだから、蘇我の倉の山田麻呂の長女を妃にして、姻戚関係になりましょう。そうした後で説得して、一緒に転覆を謀りましょう。成功するにはこれが一番近道だ」と願った。中大兄は、それを聞いてとても喜んで、入りくんで細かい計画に従った。中臣の鎌子の連は、それで自分で出かけて取り持ち話がついた。それなのに長女との約束の夜に、一門の者にとられた。これで、倉の山田の臣は憂い慌てて、寝込んでしまって成す術が無かった。少女は、父の苦しんでいるよう様子を怪しんで、傍に座って「何を思い悩んでいるのですか」と問いかけた。父はその理由を述べた。少女は「お願いだからくよくよしないでください。私を差し上げればまだ遅くないでしょう」と言った。父は、それでとても喜んで、その娘を進上した。姫は飾りのない真心を込めて仕え、何でも行った。中臣の鎌子の連と佐伯の連の子麻呂と葛城の稚犬養の連の網田を中大兄に中間に推薦して言って云云。三月に、梟が豊浦の大臣の大津の邸宅の倉に子産んだ。倭国で「このごろは、菟田の郡の人で押坂の直が一人の童子をつれて、雪の上で嬉しそうに遊んでいた。菟田の山に登って、それで紫のキノコが雪を押し分けて生えていた。高さは六寸余だった。四町(200m四方)位にいっぱい生えていた。それで童子が採って、帰って隣の家に見せた。皆も、『知らない』と言った。それで毒キノコと疑った。それで、押坂の直と童子とが、煮て食べた。とても風味があっておいしかった。翌日に行ってみると、何もなかった。押坂の直と童子とが、キノコ汁を食べてから、無病息災だ」と言った。ある人が「きっと、普通の人は霊芝ということを知らないで適当にキノコと言ったのだろうか」と言った。夏六月の癸卯が朔の日に、大伴の馬飼の連が、百合の花を献上した。その茎の長が八尺もあった。その根は別々で上のほうはつながっていた。】とあり、三年春正月乙亥朔は2年12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

『藤氏家伝』に「大臣以豐御炊天皇廿二年歳次甲戌生於藤原之第」と『日本書紀』に従った614年生まれと記述がされているが、「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠令嗣宗業固辭不受歸去三島之別業」と舒明天皇のはじめに舒明天皇の即位時の活躍としていて、『日本書紀』上では629年では15歳と若すぎ、『日本書紀』のこの記事は皇極3年だが皇極天皇の検証結果からは652年が対応する。

すなわち、『藤氏家伝』は『日本書記』に準じているので、年齢には疑問が残るが、舒明天皇の即位時、鎌足に功績があって錦冠が与えられ神祇の棟梁すなわち神官の長官に任命され、「俄而崗本天皇崩皇后即位」とこの時に舒明天皇が崩御して皇后の皇極天皇が即位した。


そして、「後崗本天皇二年歳次癸卯冬十月宗我入鹿與諸王子共謀」と『日本書紀』では643年の事件が発生するのだが、皇極天皇が後崗本天皇と孝徳天皇と同一視して矛盾しており、「白鳳五年・・・其大綿冠内臣中臣連功侔建内宿禰位未允民之望超拝紫冠」と665年に紫冠を授かったが「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲」と孝徳天皇が崩御した記述される。

白鳳5年を白雉5年とされるがやはり655年斉明天皇元年で、『日本書紀』どおりだと乙巳の変から10年も経ってから褒美と奇妙で、その後斉明天皇の記事と言われているが、「十四年皇太子攝政」と斉明天皇は7年しか無いのに14年と記述され、14年も在位したのは舒明天皇しかなく、天智天皇が摂政なのだから、舒明(岡本宮)14年は665年に相当することになる。


2020年9月25日金曜日

最終兵器の目 皇極天皇5

 前回の検証が長くなったので続きを検証する。

皇祖母は孝徳天皇前紀「奉號於豐財天皇曰皇祖母尊以中大兄爲皇太子」と皇極天皇が皇祖母で天智天皇を皇太子にしたと記述し、続いて「天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年」、白雉五年「皇太子母奉皇祖母尊遷居倭河邊行宮」、斉明天皇前紀「稱天豐財重日足姫天皇曰皇祖母尊」、斉明天皇元年「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」、皇極天皇二年「吉備嶋皇祖母命薨」、天智天皇三年「嶋皇祖母命薨」と記述されている。

すなわち、この皇祖母は皇極天皇の事で、白雉5年に皇太子が皇祖母を奉り、斉明元年に天皇に返り咲き、皇極3年すなわち天智3年、『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框」「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年重病だったことを示している。

なので、乙巳の変→孝徳即位・天智皇太子→皇極と言うことで、皇極は大化改元としているが白雉改元を行ったことを示し、吉備嶋は皇極天皇の皇極天皇即位前紀「母曰吉備姫王」と吉備姫のこと、茅渟王が舒明天皇でその妻が皇極天皇で皇極天皇の母も吉備姫で、茅渟王の母は『古事記』に「漢王之妹大俣王」と記述され、漢王の宮の住人達のようだ。

そして、蘇我氏は母が物部氏で『舊事本紀』「弟物部守屋大連公子日弓削大連・・・妹物部連公布都姫夫人字御井夫人・・・倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と弓削大連の妹で崇峻天皇の時に夫人となったが、崇峻天皇の夫人ではなく用明天皇の夫人で、崇峻天皇は用明天皇とともに敏達天皇に含まれ、敏達天皇末の5年間が崇峻天皇の期間で、「四年夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」が2代目敏達天皇が崩じ、用明天皇が即位、それが、推古天皇前紀「渟中倉太玉敷天皇之皇后卅四歳渟中倉太珠敷天皇崩卅九歳當于泊瀬部天皇五年」と用明天皇の在位期間が無い理由だ

なので、大臣を私授された入鹿の弟が御井夫人の孫で、入鹿も「物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と物部氏の皇子で、この私授は皇極紀を書いた俀国にとっては私授で倭国では公授、大臣を任命するのは倭国王で日本国はもと倭国である。

そして、入鹿は俀国の王位継承に口を挟んで『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「上宮法皇枕病弗悆」と法興帝上宮王の跡継ぎではなく舒明天皇二年「蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子」と蝦夷の甥を王位に就任させようとしたのである。

そして、蘇我氏の部下たちの役職は小德・大仁と俀国の配下達で、斉明天皇四年「左大臣巨勢徳大臣薨」、推古天皇十一年「新羅大將軍來目皇子薨之其臨大事而不遂矣甚悲乎仍殯于周芳娑婆乃遣土師連猪手令掌殯事」と記述されているので、639年以降658年までの記事と思われ、餘豊が人質で日本にいるので山背王の死は655年以降658年までの間の事のようだ。

『日本書紀』慶長版は

十一月丙子朔蘇我臣入鹿遣小德巨勢德太臣大仁土師娑婆連掩山背大兄王等於斑鳩於是奴三成與數十舍人出而拒戰土師娑婆連中箭而死軍衆恐退軍中之人相謂之曰一人當千謂三成歟山背大兄仍取馬骨投置內寢遂率其妃幷子弟等得間逃出隱膽駒山三輪文屋君舍人田目連及其女菟田諸石伊勢阿部堅經從焉巨勢德太臣等焼斑鳩宮灰中見骨誤謂王死解圍退去由是山背大兄王等四五日間淹留於山不得喫飲三輪文屋君進而勸曰請移向於深草屯倉從茲乗馬詣東國以乳部爲本興師還戰其勝必矣山背大兄王等對曰如卿所噵其勝必然但吾情冀十年不役百姓以一身之故豈煩勞萬民又於後世不欲民言由吾之故喪巳父母豈其戰勝之後方言大夫哉夫損身固國不亦大夫者歟有人遙見上宮王等於山中還噵蘇我臣入鹿入鹿聞而大懼速發軍旅述王所在於髙向臣國押曰速可向山求捉彼王國押報曰僕守天皇宮不敢出外入鹿即將自往于時古人大兄皇子喘息而來問向何處入鹿具說所由古人皇子曰鼠伏穴而生失穴而死入鹿由是止行遣軍將等求於膽駒竟不能覔於是山背大兄王等自山還入斑鳩寺軍將等即以兵圍寺於是山背大兄王使三輪文屋君謂軍將等曰吾起兵伐入鹿者其勝定之然由一身之故不欲傷殘百姓是以吾之一身賜於入鹿終與子弟妃妾一時自經倶死也于時五色幡蓋種種伎樂照灼於空臨垂於寺衆人仰觀稱嘆遂指示於入鹿其幡蓋等變爲黒雲由是入鹿不能得見蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等揔被亡於入鹿而嗔罵曰噫入鹿極甚愚癡專行暴惡伱之身命不亦殆乎時人說前謠之應曰以伊波能杯伱而喩上宮以古佐屢而喩林臣以渠梅野倶而喩焼上宮以渠梅拖伱母陀礙底騰褒羅栖柯麻之之能鳴膩而喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊又曰棄捨其宮匿深山相也是歲百濟太子餘豊以蜜蜂房四枚放養於三輪山而終不蕃息

十一月の丙子が朔の日に、蘇我の臣の入鹿が、小徳の巨勢の徳太臣と大仁の土師の娑婆の連を、山背の大兄の王達を襲いに斑鳩へ派遣した。そこで、しもべの三成と、数十人の護衛が出てきて防戦した。土師の娑婆の連、矢が命中して死んだ。兵士たちは恐れて退却した。兵士の一人が、「一騎当千というのは三成のことだ」と噂した。山背の大兄が、それで馬の骨を取って、寝床に投入れておいた。それで妃や子弟達を連れて、すきを狙って逃げ出して、膽駒の山に隱れた。三輪の文屋の君と舍人の田目の連とその娘の菟田の諸石と伊勢の阿部の堅經が従った。巨勢の徳太臣達が、斑鳩宮を焼いた。灰の中に骨を見つけて、間違って王が死んだと言って、囲みを解いて退却した。これで、山背の大兄の王達は、四五日の間、山に潜んで、飲食が出来なかった。三輪の文屋の君、近づいてきて「お願いだから、深草の屯倉に移って、馬に乗って、東国に行って、乳部を本拠に、軍を起こして戻って戦いましょう。きっと勝てます」と勧めた。山背の大兄の王達は「あなたが言う通りにすれば、きっと勝てるでしょう。ただし心底願うのは、十年も百姓を戦に使いたくない。一人だけの為に、どうして万民を煩わせようか。また、後世に人民をただ私のせいで自分の父母が死んだと言われたくない。それでどうして戦いに勝った後で、本当に立派な男だと言えるのか。自分の身を棄てて国を団結させることが立派な男でないか」と答えた。人がいて遠くから上宮の王達がを山中に居ると見ていた。帰って蘇我の臣の入鹿に教えた。入鹿は、それを聞いてとても怯えた。直ぐに軍隊を整えて、王が居る所を高向の臣の国押に教えて「直ぐに山に向ってあの王を探して捕えてきなさい」と言った。国押は「私は天皇の宮を守っているので、外に出れません」と報告した。入鹿はそれで自分で向かおうとした。その時に、古人の大兄の皇子が、息をゼイゼイ言わせてやって来て「何処行くのか」と問いかけた。入鹿は、詳しく経緯を説明した。古人の皇子は「鼠は穴の中で這いつくばって這いつくばって生き、穴を失うと死んでしまう」と言った。入鹿は、それで、行くのを止めた。将軍達を派遣して、膽駒を探した。とうとう探し出せ無かった。そこで、山背の大兄の王達は、山から帰って、斑鳩の寺に入った。將軍達は、兵で寺を囲んだ。そこで、山背の大兄の王は、三輪の文屋の君が将軍たちに「私は、兵を率いて入鹿を伐てば、勝つに決まっている。しかし一人のために、百姓を傷つけ殺したくは無い。だから、私の体一つぐらい入鹿にくれてやる」と言わせて、とうとう子弟と妃や妾と一度に首を括って一緒に死んだ。その時に、五色の幟と日除けが、種々の仮面劇のように、空で光り輝き、寺に当たっていた。皆は天を仰いで嘆いて、入鹿が殺したと言った。空に見えた幟と日除けが、黒い雲に変わった。それで、入鹿はそれを知らなかった。蘇我の大臣の蝦夷は、山背の大兄の王達が、皆入鹿に亡されたと聞いて、「ああ、入鹿よ、なんと愚かで手荒い事をしてしまったのだ。お前の命が心配だ」と怒り罵った。当時の人は、以前の風刺歌に「『伊波能杯伱』を、上宮に喩え。『古佐屢』を、林臣に喩え。『渠梅野倶』を、上宮を焼くに喩え。『渠梅多伱母多礙底騰裒囉栖歌麻之之能烏膩』を、山背の王の頭髪がまだらで山羊に似ていることを喩え。またその宮を棄てて深い山に隠れたためだ」と答え示した。この歳に、百済の太子の余豊が、蜜蜂の巣四枚を、三輪の山に放って養った。しかし繁殖できなかった。】とあり、十一月丙子朔は10月30日で10月が小の月なら標準陰暦と合致する。

2020年9月23日水曜日

最終兵器の目 皇極天皇4

 『日本書紀』慶長版は

二年春正月壬子朔旦五色大雲滿覆於天而闕於寅一色青霧周起於地辛酉大風二月辛巳朔庚子桃華始見乙巳雹傷草木華葉是月風雷氷雨行冬令國內巫覡等折取枝葉懸桂木綿伺候大臣渡橋之時爭陳神語入微之說其巫甚多不可悉聽三月辛亥朔癸亥災難波百濟客館堂與民家室乙亥霜傷草木華葉是月風雷雨氷行冬令夏四月庚辰朔丙戌大風而雨丁亥風起天寒巳亥西風而雹天寒人著緜袍三領庚子筑紫大宰馳驛奏曰百濟國主兒翹岐弟王子共調使來丁未自權宮移幸飛鳥板蓋新宮甲辰近江國言雹下其大徑一寸五月庚戌朔乙丑月有蝕之六月已卯朔辛卯

筑紫大宰馳譯奏曰髙麗遣使來朝群卿聞而謂之曰髙麗自己亥年不朝而今年朝也辛丑百濟進調舩泊于難波津秋七月巳酉朔辛亥遣数大夫於難波郡撿百濟國調與獻物於是大夫問調使曰所進國調欠少前例送大臣物不改去年所還之色送群卿物亦全不將來皆違前例其狀何也大使達率自斯副使恩率軍善倶荅諮曰即今可備自斯質達率武子之子也是月茨田池水大臭小(?)覆水其(?)口黒而身白八月戊申朔壬戌茨田池水變如藍汁死(?)覆水溝瀆之流亦復凝結厚三四寸大小魚臰如夏爛死由是不中喫焉 九月丁丑朔壬午葬息長足日廣額天皇于押坂陵丁亥吉備嶋皇祖母命薨癸巳詔土師娑婆連猪手視皇祖母命喪天皇自皇祖母命臥病及至發喪不避床側視養無倦乙未葬皇祖母命于檀弓岡是日大雨而雹丙午罷造皇祖母命墓役仍賜臣連伴造帛布各有差是月茨田池水漸變成白色亦無臰氣冬十月丁未朔已酉饗賜群臣伴造於朝堂庭而議授位之事遂詔國司如前所勅更無改換冝之厥任慎爾所治壬子蘇我大臣蝦夷縁病不朝私授紫冠於子入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣大臣之祖母物部弓削大連之妹故因母財取威於世戊午蘇我臣入鹿獨謀將廢上宮王等而立古人大兄爲天皇于時有童謠曰伊波能杯伱古佐屢渠梅野倶渠梅多伱母多礙底騰裒囉栖歌麻之之能烏膩是月茨田池水還清

二年の春正月の朔が壬子の日の夜明けに、五つの色の大きな雲が、空を覆いつくして、6時間後に欠け出した。その中の一つの色の青い霧が地平に立った。辛酉の日に、大風がふいた。二月の朔が辛巳の庚子の日に、桃の花が咲き始めた。乙巳の日に、雹が降って草木の花や葉を傷めた。この月に、風が吹いて雷が鳴りみぞれが降った。冬の祭を行わせ国内の祈祷師達は葉つきの枝を折り取って、木綿をぶら下げて、大臣が橋を渡る時を見計らって、先を争って神の語葉を事細かに口ずさんだ。その巫がとても多くてすべてが聞こえなかった。三月の朔が辛亥の癸亥の日に、難波の百済の客の館堂と、住民の家屋が火事になった。乙亥の日に、霜が降って草木の花や葉が傷んだ。この月に、風が吹き雷が鳴ってみぞれた。冬の行事を命じた。夏四月の朔が庚辰の丙戌の日に、大風が吹き雨が降った。丁亥の日に、北風が吹いて寒かった。己亥の日に、西の風が吹いて雹が降っ寒かった。みなドテラを三枚着た。庚子の日に、筑紫の大宰が、早馬で「百済国の主の子、翹岐と弟の王子が年貢の使者と一緒に遣って来た」と奏上した。

丁未の日に、副都の宮から飛鳥の板蓋の新宮に遷った。甲辰の日に、近江国が「雹が降った。その大きさの直径が一寸(?3cm)あった」と言った。五月の朔が庚戌の乙丑の日に、月食があった。六月の朔が己卯の辛卯の日に、筑紫の大宰早馬で「高麗が、使者を派遣して来朝した」と奏上した。官僚が聞いて「高麗は、己亥の年から来朝していなかった。それなのになぜか今年、来朝した」と話し合った。辛丑の日に、百済の年貢を進上する船が、難波の津に停泊した。秋七月の朔が己酉の辛亥の日に、高官達を難波の郡に派遣して、百済国の年貢と献上された物とを見分した。そこで、高官は、年貢の使者に「進上した国の年貢が、例年より少ない。大臣が去年の返礼と同じように今年も準備しているぞ。官僚への贈り物も全然持ってこず、全てにおいて前例と違うがそれはどうしてだ」と問いかけた。大使の達率の自斯と副使の恩率の軍善は、二人とも「それでは直ぐに準備します」と答えた。自斯は、人質の達率の武子の子だ。この月に、茨田の池の水がとても臭くて、小い虫が水面を覆った。その虫は、口が黒くて体は白かった。八月の朔が戌申の壬戌の日に、茨田の池の水が、変色して藍の汁のように濁った。死んだ虫が水面を覆った。溝の流れが、また凍った。氷の厚さが三四寸位あった。小魚が腐ってとても臭い、夏に爛れて死んだようだった。そのため、食べれるものでは無かった。九月の朔が丁丑の壬午の日に、息長の足日廣額の天皇を押坂の陵に葬った。丁亥の日に、吉備嶋の皇祖母の命が薨じた。癸巳の日に、土師の娑婆の連の猪手に詔勅して、皇祖母の命の葬儀のとりまとめを担当させた。天皇は、皇祖母の命が病床に就いてから、葬儀をするまで、床の側を離れず、臨終に立ち会った。乙未の日に、皇祖母の命を檀弓の岡に葬った。この日に、大雨が降って雹も降った。丙午の日に、皇祖母の命の墓を造るのを止めた。それで、臣・連・伴造にそれぞれ差をつけて絹の布を与えた。この月に、茨田の池の水がだんだん白色に変わって臭いも無くなった。冬十月の朔が丁未の己酉の日に、臣下と伴造を朝堂の庭で饗応した。それで位を授る相談をした。それで国司に「以前に詔勅したとおりで、新たに変えない。任せたことを額を地につけて拝むぐらいに謹め」と詔勅した。壬子の日に、蘇我の大臣の蝦夷が、病気で朝廷に出仕出来なかったので、紫冠を子の入鹿に私授して、大臣の代理にした。またその弟を、物部の大臣と呼んだ。大臣の祖母は、物部の弓削の大連の妹で、それで、母の財力で、勢力を世に示した。戊午の日に、蘇我の臣の入鹿は、自分で考えて、上宮の王達を廃嫡して、古人の大兄を天皇にしようとした。その時、風刺歌があって()。この月に、茨田の池の水が元通り澄んだ。】とあり、五月庚戌朔と六月己卯朔と七月己酉朔は617年ことで、ほかは標準陰暦と合致する。

高句麗が639年に朝貢があってから、643年まで朝貢が無かったと述べているが、『三国史記』に638年建武二十一年「冬十月侵新羅北邊七重城新羅將軍閼川逆之戰於七重城外我兵敗衂」の翌年の639年、643年の前年の642年建武王在位二十五年「蓋蘇文弑之立臧繼位新羅謀伐百濟」と新羅が動いた翌年に朝貢していていて、その前の629年建武十二年「秋八月新羅將軍金信來侵東邊破娘臂城」も、630年舒明天皇三年「高麗大使宴子拔小使若徳百濟大使恩率素子小使徳率武徳共朝貢」と翌年に朝貢している。

その記事の日干支が617年推古25年の日干支なのだから629年即位の推古天皇25年の653年白雉2年にあたり、653年の高麗訪日記事を推古25年の617年の日干支で資料を作り、その記事を643年の高麗訪日記事にしたということだ。

元年の「天皇遷移於小墾田宮」と異説に「東宮南庭之權宮」として二年に「飛鳥板蓋新宮」と記述しているが、この記事は斉明元年の「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」の記事と同じ遷都の記事で「權」は「秤」の意味で前宮と同等の都で、副都と訳した。

わたしは「闕於寅」6時間後と訳したが、春の夜明けが6時で寅の刻は5時頃で前に戻ってしまうので6時間後と考え、以前も「秋七月・・・卯始朝之巳後退」と秋に卯の刻は5から7時でこれは仕事を夜明けに始めて巳の刻だと9時から11時でこれも奇妙で、【隋書』に「天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務」と夜明け前まで天子が働き、夜明けから弟に任せていて、仕事は昼夜なくあると言っていて、昼前に仕事を止めることは考えられない。

そして、17条憲法の8条に「八曰群卿百寮早朝晏退公事靡盬終日難盡是以遲朝不逮于急早退必事不盡」と早朝から遅くまで働きなさいと記述していて、11時では早すぎるのだから、10から12時間後にすなわち、朝6時から夜6時まで働きなさいと述べている。

2020年9月21日月曜日

最終兵器の目 皇極天皇3

 『日本書紀』慶長版は

九月癸丑朔乙卯天皇詔大臣曰朕思欲起造大寺冝發近江與越之丁復課諸國使造舩舶辛未天皇詔大臣曰起是月限十二月以來欲營宮室可於國國取殿屋村然東限遠江西限安藝發造宮丁癸酉越邊蝦夷數千內附冬十月癸未朔庚寅地震而雨辛卯地震是夜地震而風甲午饗蝦夷於朝丁酉蘇我大臣設蝦夷於家而躬慰問是日新羅吊使舩與賀騰極使舩泊于壹岐嶋丙午夜中地震是月行夏令無雲雨十一月朔癸丑大雨雷丙辰夜半雷一鳴於西北角已未雷五鳴於西北角庚申天暖如春氣辛酉雨下壬戌天暖如春氣甲子雷一鳴於北方而風發丁卯天皇御新嘗是曰皇太子大臣各自新嘗十二月壬午朔天暖如春氣甲申雷五鳴於晝二鳴於夜甲午初發息長足日廣額天皇喪是日小德巨勢臣德太代大派皇子而誄次小德粟田臣細目代輕皇子而誄次小德大伴連馬飼代大臣而誄乙未息長山田公奉誄日嗣辛丑雷三鳴於東北角庚寅雷二鳴於東而風雨壬寅葬息長足日廣額天皇于滑谷岡是日天皇遷移於小墾田宮甲辰雷一鳴於夜其聲若裂辛亥天暖如春氣是歲蘇我大臣蝦夷立巳祖廟於葛城髙宮而爲八佾之儛遂作歌曰野麻騰能飫斯能毗稜栖鳴倭柁羅務騰阿庸比拖豆矩梨舉始豆矩羅符母又盡發舉國之民幷百八十部曲預造雙墓今來一曰大陵爲大臣墓一曰小陵爲入鹿臣墓望死之後勿使勞人更悉聚上宮乳部之民役使營兆所於是上宮大娘姫王發憤而歎曰蘇我臣專擅國政多行無禮天無二日國無二王何由任意悉役封民自茲結恨遂取倶亡是年也太歲壬寅

【九月の朔が癸丑の乙卯の日に、天皇は、大臣に「私は、大寺を建立したいと思う。近江と越の働き盛りを集めなさい」と詔勅した。また諸国に課税して、船舶を造らせた。辛未の日に、天皇は、大臣に「この月に人を集めて十二月から期限もうけて、宮室を作らせたい。国々に御殿の資材をとらせよう。それで東は遠江をまで、西は安芸をまで、宮を造る働き盛りを集めなさい」と詔勅した。癸酉の日に、越の辺境の蝦夷が、数千人が帰順した。冬十月の朔が癸未の庚寅の日に、地震があって雨が降った。辛卯の日に、地震があった。この夜、地震があって風が吹いた。甲午の日に、蝦夷を朝庭で饗応した。丁酉の日に蘇我の大臣が、蝦夷に家を造って、自ら慰労して問いただした。この日に、新羅の弔使の船と登り極めた新天皇の即位の祝賀の使者の船とが、壹岐の嶋に停泊した。丙午の日の夜中に、地震があった。この月に、夏の行事を行った。雲が無いのに雨が降った。十一月の朔が壬子の癸丑の日に、大雨が降って雷が鳴った。丙辰の日の夜半に、雷が一度、西北で鳴った。己未の日に、雷が五度、西北で鳴った。庚申の日に、天候が暖かくて春の季節のようだった。辛酉の日に、雨が降った。壬戌の日に、天候が暖かくて春の季節のようだった。甲子の日に、雷が一度、北の方で鳴って、強風が吹いた。丁卯の日に、天皇が新嘗を行った。この日に、皇子と大臣が、各々が自分で新嘗をした。十二月の壬午が朔の日に、天候が暖かくて春の季節のようだった。甲申の日に、雷が、五度昼間に鳴って、二度夜に鳴った。甲午の日に、はじめて息長の足日廣額の天皇の葬儀を行った。この日に、小徳の巨勢の臣の徳太が、大派の皇子に代って弔辞を述べた。次に小徳の粟田の臣の細目が、輕の皇子に代って弔辞を述べた。次に小徳の大伴の連の馬飼が、大臣に代って、弔辞を述べた。乙未の日に、息長の山田公が、皇太子の弔辞を述べた。辛丑の日に、雷が三度東北で鳴った。庚寅の日に、雷が二度東で鳴って、強風が吹いて雨が降った。壬寅の日に、息長の足日廣額の天皇を滑谷の岡に葬った。是の日に、天皇は、小墾田の宮に遷都した。甲辰の日に、雷が一度夜に鳴る。その音は地が裂けるようだった。辛亥の日に、天候が暖かくて春の季節のようだった。この歳に、蘇我の大臣の蝦夷が、自分の祖廟を葛城の高宮に立て、八列64人の舞を行った。それで歌を作った()あわせて百八十の部の民を集めて、あらかじめに2つの墓を今来に造った。一つを大陵という。大臣の墓とした。一つを小陵という。入鹿臣の墓とした。できたら死んだ後まで人を煩わせることは出来ないと、さらに全ての上宮の乳部の人を集めて、墓所で作業させた。そこで、上宮の大娘姫の王が、怒って「蘇我の臣が、国政をほしいままに振る舞い、無礼な行いがばかりする。天に二つの太陽は無く、国に二人の王はいらない。どうして勝手気ままに民を人に割り当てて使うのか」と嘆いた。それで恨みを持った者を纏めて滅ぼされた。この年は、太歳が壬寅だった。】とあり、九月癸丑朔は8月30日、十一月壬子朔は10月30日で共に前の月が小の月なら標準陰暦と合致し、他も標準陰暦と合致する。

この大寺建設は、前項でも既に記述されているように、639年の舒明天皇十一年「今年造作大宮及大寺則以百濟川側爲宮處」、舒明天皇十一年「百濟川側建九重塔」、645年の大化元年「遣使於大寺喚聚僧尼而」の大寺で、発掘調査で基壇規模から九重塔と考えられており、また、建立が文武天皇で完成しなかったと言われているが、天武天皇十一年「百卅餘人出家於大官大寺」、天武天皇十四年「誦經於大官大寺」、朱鳥元年「則諡觀世音經於大官大寺」、『続日本紀』大宝二年「設齋於四大寺」、大宝三年「遣使四大寺及四天王山田等卅三寺設齋焉」、大宝三年「詔四大寺讀大般若經」、大宝三年「令四大寺讀金光明經」、慶雲二年「宜令五大寺讀金光明經」、慶雲四年「於四大寺設齋焉」と天武天皇は大官大寺で、それ以降は最大5寺が大寺と呼ばれていて、完成しなかったとか焼けたとは書かれていない。

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に池邊大宮治天下天皇が大病して像を造ったが間に合わず「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と667年に小治田天皇と皇太子天智が奉納したと記述され、これは池辺天皇の皇太子小治田天皇の夫が翌年即位し、すぐに崩じたその宮が小治田で小治田天皇の皇太子、この皇太子は東宮聖王天智ではなく 太子は皇弟でその婦人が皇極天皇だ。

ここでは息長山田公は皇太子が死んだと言っていて、この弔辞もそれぞれ別の王の弔辞のようで、この皇太子は息長の皇子で「息長眞手王女廣姫爲皇后是生一男二女其一曰押坂彦人大兄皇子」と彦人の皇子の茅渟王で、親子同時期に死んだ可能性があり、彦人の子の息長を名乗る舒明天皇も即位後すぐに亡くなり妻が即位した。

彦人が奉納できなかった像を667年に奉納したことを『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』は記述していて、この「遷移於小墾田宮」は647年に即位した小治田天皇彦人の常色元年を挿入した記述とわかり、『日本書紀』では「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と彦人の妃が小墾田皇女で、彦人が小墾田に婿入りして宮にしたことが解る。

そして、入鹿が造った陵は石舞台古墳で、この時代は竪穴石棺ではなく横穴石棺で遺骸を埋納していて、墓を荒らすのに土を掘り返す必要が無く、この石舞台古墳は壊されたのではなく造り初めたばかりで造れなくなったことを意味し、皇極天皇元年に乙巳の変があって蝦夷と入鹿が殺されて古墳を完成できなかったということで、667年に「法隆寺金堂薬師如来像」を奉納した天皇の元年で664年がそれにあたり、再登板した小治田天皇だ。


2020年9月18日金曜日

最終兵器の目 皇極天皇2

 『日本書紀』慶長版は

辛酉新羅遣賀騰極使與吊喪使庚午新羅使人罷歸是月霖雨夏四月丙戌朔癸巳太使翹岐將其從者拜朝乙未蘇我大臣畝傍家喚百濟翹岐等親對語話仍賜良馬一疋鐵二十鋌唯不喚塞上是月霖雨五月乙卯朔已未於河內國依網屯倉前召翹岐等令觀射獵庚午百濟國使舩與吉士舩倶泊于難波津壬申百濟使人進調吉士服命乙亥翹岐從者一人死去丙申翹岐兒死去是時翹岐與妻畏忌兒死果不臨喪凢百濟新羅風俗有死亡者雖父母兄弟夫婦姉妹永不自看以此而觀無慈之甚豈別禽獸丁丑熟稻見戊寅翹岐將其妻子移於百濟大井家乃遣人葬兒於石川六月乙酉朔庚子微雨是月大旱秋七月甲寅朔壬戌客星入月乙亥饗百濟使人大佐平智積等於朝乃命健兒相撲於翹岐前智積等宴畢而退拜翹岐門丙子蘇我臣人鹿豎者獲白雀子是日同時有人以白雀納籠而送蘇我大臣戊寅群臣相謂之曰隨村々祝部所教或殺牛馬祭諸社神或頻移市或禱河伯既無所效蘇我大臣報曰可於寺寺轉讀大乗經典悔過如佛所說敬而祈雨庚辰於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像屈請衆僧讀大乗經等于時蘇我大臣手執香鑪燒香發願辛巳微雨壬午不能祈雨故停讀經八月甲申朔天皇幸南淵河上跪拜四方仰天而祈即雷大雨遂雨五日溥潤天下於是天下百姓倶稱万歲曰至德天皇已丑百濟使參官等罷歸仍賜大舶與同舩三艘是日夜半雷鳴於西南角而風雨參官等所乗舩舶觸岸而破丙申以小德授百濟質達率長福中客以下授位一級賜物各有差戊辰以舩賜百濟參官等發遣己亥髙麗使人罷歸已酉百濟新羅使人罷歸

【辛酉の日に、新羅は、登り極めた新天皇の即位の祝賀と弔使を引き連れて派遣した。庚午の日に、新羅の使者が帰った。この月に、雨が降り続いた。夏四月の朔が丙戌の癸巳の日に、大使の翹岐が、従者を連れて朝廷に挨拶した。乙未の日に、蘇我の大臣が、畝傍の家で、百済の翹岐達を呼び出した。自ら対面して会談した。それで良馬一匹と鐵二十鋌を与えた。ただし塞上だけは呼ばなかった。この月は、雨が降り続いた。五月の朔が乙卯の己未の日に、河内の国の依網の屯倉の前で、翹岐達を招いて、狩猟を見せた。庚午の日に、百済国の年貢の使者の船と吉士の船と、一緒に難波津に停泊した。壬申の日に、百済の使者が年貢を貢上した。吉士が服命した。乙亥の日に、翹岐の従者が一人死去した。丙子の日に、翹岐の子が死去した。この時に、翹岐と妻とが、子が死んだことを殺されたのではと恐れて、葬儀に出なかった。おおかた百済と新羅の風俗では、死者が有るときは、父母兄弟夫婦姉妹といっても、絶対に自分の事を考えない。自分の事を考えると、思いやりが全く無くてけだものと変わらないということだ。丁丑の日に、もう枯れた稲を見た。戊寅の日に、翹岐がその妻子を連れて、百済の大井の家に移った。それで人を派遣して子を石川に葬った。六月の朔が乙酉の庚子の日に、小雨がやっと降った。この月は、とても日照りが続いた。秋七月の朔が甲寅の壬戌の日に、急に現れた星が月にぶつかった。乙亥の日に、百済の使者の大佐平の智積達を朝庭で饗応した。それで元気な若者に命令して、翹岐の前で相撲を取らせた。智積達は、宴会が終わったので退席して、翹岐門で帰りの挨拶した。丙子の日に、蘇我の臣の入鹿の小僧が、白い雀の子を捕った。この日の同じ時に、人がいて、白い雀を篭に入れて、蘇我の大臣に送った。戊寅の日に、役人が「村々の祝部の言うがままに、あるいは牛馬を殺して、諸々の社の神を祭る。あるいは何度も市を移す。あるいは河の守り神に祈祷しても全く効き目が無い」と話し合った。蘇我の大臣が「寺々に大乗経典を読み伝えなさい。悔い改めることは、佛の説いたように、敬って雨ごいをしよう」と応じた。庚辰の日に、大寺の南の庭で、菩薩の像と四天王の像とを厳かに、多くの僧を頼みこんで呼び出し、大雲經などを読ませた。その時に、蘇我の大臣は、手に香炉を持って、香を焚いて願立てをした。辛巳の日に、小雨が降った。壬午の日に、雨ごいしたが叶わず、それで読経を止めた。八月の甲申が朔の日に、天皇は、南淵の河上に行幸して、跪いて四方を拜んだ。天を見上げて雨ごいをした。すると雷が鳴って大雨が降った。それで雨が五日降り続き少しばかり天下が潤った。そこで、天下の百姓は、みんなで万歳と言って「この上なく立派な徳を持った天皇だ」と言った。己丑の日に、百済の使者の參官達が帰った。それで大きい舶と同じ大きさの船を三艘を与えた。この日の夜半に、雷が西南ので鳴って、風が吹き雨が降った。參官達が乗る船舶が、岸にぶつかって壊れた。丙申の日に、小徳を百済の人質の達率の長福に授けた。中客より下位に、一級の位を授けた。物をそれぞれ差をつけて与えた。戊戌の日に、船を百済の參官達に与えて、出港させた。己亥の日に、高麗の使者が帰った。己酉の日に、百済と新羅の使者が帰った。】とあり、標準陰暦と合致する。

翹岐は641年に義慈王が即位した時に島流しにあって642年に日本に渡ってきた皇子で島流しに有ったのは舒明天皇の末の舒明13年ということになるが、641年は629年即位の推古天皇13年に当たり、しかも、翹岐が実際に来日するのは643年皇極天皇二年「百済國主兒翹岐弟王子共調使來」と兄弟で来日しているが、時期が異なり、直接日本の朝廷に身を寄せなかったと思われる。

しかし、『三国史記』に653年義慈王十三年「春大旱民饑秋八月王與倭國通好」と白雉2年に朝鮮でも干ばつが発生し、使者が8月に来日してよく符合し、翌年の、舒明天皇で説明した舒明天皇三年「百濟王義慈入王子豐章爲質」の記事を654年と検証し、654年に皇太子も人質となり、すなわち、百済の訪日記事は653年のことで、653年に王となった人物がいたことを示している。

以前にも触れたが、推古天皇十四年「是歳皇太子亦講法華經於岡本宮」の時、岡本宮はまだ無いので、白雉三年四月「請沙門惠隱於内裏使講無量壽經」が同じことを述べたとがこの蘇我大臣の法会と同じことを意味し、653年の干ばつに対する大法会だったようだ。


2020年9月16日水曜日

最終兵器の目 巻第二十四  皇極天皇1

  『日本書紀』慶長版は

天豊財重日足姫天皇渟中倉太珠敷天皇曾孫押坂彥人大兄皇子孫茅渟王女也母曰吉備姫王天皇順考古道而爲政也息長足日廣額天皇二年立爲皇后十三年十月息長足日廣額天皇崩元年春正月丁巳朔辛未皇后即天皇位以蘇我臣蝦夷爲大臣如故大臣兒入鹿自執國政威勝於父由是盜賊恐懾路不拾遺乙酉百濟使人大仁阿曇連比羅夫從筑紫國乗驛馬來言百濟國聞天皇崩奉遣吊使臣隨吊使共到筑紫而臣望仕於葬故先獨來也然其國者今大亂矣二月丁亥朔戊子遣阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直縣遣百濟吊使所問彼消息吊使報言百濟國主謂臣言塞上恒作惡之請付還使天朝不許百濟吊使傔人等言去年十一月大佐平智積卒又百濟使

人擲崐崘使於海裏今年正月國主母薨又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人內佐平岐味有髙名之人卌餘被放於嶋壬辰髙麗使人泊難波津丁未遣諸大夫於難波郡撿髙麗國所貢金銀等幷其獻物使人貢獻既訖而諮云去年六月弟王子薨秋九月大臣伊梨柯湏彌弑大王幷殺伊梨渠世斯等百八十餘人仍以弟王兒爲王以已同姓都湏流金流爲大臣戊申饗髙麗百濟於難波郡詔大臣曰以津守連大海可使於髙麗以國勝吉士水鶏可使於百濟以草壁吉士真跡可使於新羅以坂本吉士長兄可使於任那庚戌召翹岐安置於安曇山背連家辛亥饗髙麗百濟客癸丑髙麗使人百濟使人並罷歸三月丙辰朔戊午無雲而雨

【天豐財重日足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇の曽孫、押坂彦人大兄皇子の孫で、茅渟王の娘だ。母を吉備姫王という。天皇は、昔どおりに筋道を考えて政治を遂行した。息長の足日廣額の天皇の二年に、皇后になった。十三年の十月に、息長の足日廣額の天皇が崩じた。元年の春正月の朔が丁巳の辛未の日に、皇后は、天皇に即位した。蘇我の臣の蝦夷を大臣としたのは前のとおりだ。大臣の子の入鹿は、自ら国の政策を執行して、勢力は父に勝っていた。それで、盜賊が恐れ怯えて、道に落ちていた物すら拾わなかった。乙酉の日に、百済の使者の大仁の阿曇の連の比羅夫が、筑紫の国から、早馬に乗ってやって来て「百済国が、天皇の崩御を聞いて、弔使を奉遣した。私は、弔使を引き連れて、一緒に筑紫に着いた。そして私は葬礼の手伝いをしたいと思って、先に一人でやってきた。それにあの国は、今、大乱が起こっている」と言った。二月の朔が丁亥の戊子の日に、阿曇の山背の連の比羅夫と草壁の吉士の磐金と倭の漢の書の直縣を、百済の弔使の所に派遣して、百済の消息を調べさせた。弔使が「百済国の主は、私に言うのに、『塞上はいつも悪さをするが使者と一緒に帰るよう願っても、天皇は許さないだろう」と報告した。百済の弔使の護衛の武官達が「去年の十一月に、大佐平の智積が死んだ。また百済の使者の、崐崘の使者を海の中に投げつけた。今年の正月に、国の主の母も薨じた。また弟の王子たち、子の翹岐とその母妹の女子四人と、内佐平の岐味と、高名の人四十人余が、嶋に流刑された」と言った。壬辰の日に、高麗の使者が、難波津に停泊した。丁未の日に、諸々高官達を難波の郡に派遣して、高麗国の貢上された金銀等、あはせてその献上された物を見分した。使者は、貢献の儀礼を終了して、「去年の六月に、第王子が薨じた。秋九月に、大臣の伊梨柯須彌が、大王を殺し、あはせて伊梨渠世斯達百八十余人を殺した。それで弟王子の子を王とした。自分と同族の都須流金流を大臣とした」と話した。戊申の日に、高麗と百済の客を難波の郡で饗応した。大臣に「津守の連の大海を高麗の使者にしなさい。国勝の吉士の水鷄を百済の使者にしなさい。草壁の吉士の眞跡を新羅の使者にしなさい。坂本の吉士の長兄を任那の使者にしなさい」と詔勅した。庚戌の日に、翹岐を呼んで、阿曇の山背の連の家で休ませた。辛亥の日に、高麗と百済の客を饗応した。癸丑の日に、高麗の使者と百済の使者が、一緒に帰った。三月の朔が丙辰の戊午の日に、雲が無いのに雨が降った。】とあり、標準陰暦と合致する。

天豐財重日足姫は『古事記』に「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇・・・又娶漢王之妹大俣王生御子知奴王」と田村皇子の従弟が知奴王でその娘が皇極天皇で、知奴王は漢王の妹の大俣王の子すなわち漢王は俀国王で知奴王も『古事記』では俀国王で皇極天皇はその娘である。

そして、年齢的に考えれば、この漢王は磐井の子の東漢直駒の可能性があり、「偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻」と嶋大臣の娘を妻としていて、彦人や馬子の聖徳太子と同年代で630年頃に天皇になれない年齢すなわち20歳未満で、天智天皇が664年が16歳なので、年齢から考えても知奴王の妻が妥当で、名前が天豊なのだから俀国と倭国の名を冠しているが、子の天智天皇が豊を冠せず、皇極天皇も天氏で、まだ、日本国ではなく倭国王の天皇となったのだから豊が付加されているのだと思われる。

『三国史記』656年義慈王十六年に「佐平成忠或云淨忠極諫王怒囚之獄中由是無敢言者成忠瘐死臨終上書曰忠臣死不忘君願一言而死」と別名で呼ばれる佐平が死んでいて、十七年「春正月拜王庶子四十一人爲佐平」と皇子を降格した。

ところが、高句麗は「寶臧王諱臧或云寶臧以失國故無諡建武王弟大陽王之子也建武王在位第二十五年蓋蘇文弑之」と642年の記事を挿入し、642年の前年に『船王後墓誌』の「阿須迦天皇之末」、『上宮聖徳法王帝説』の「嶋大臣薨卅五年夏六月辛丑とあり、蘇我大臣が阿須迦天皇と考えられる天皇の後を継いだ皇極天皇と、おそらく俀国の皇極天皇等の複数の王の事績が挿入されている。


2020年9月14日月曜日

最終兵器の目 舒明天皇4

  『日本書紀』慶長版は

九年春二月丙辰朔戊寅大星從東流西便有音似雷時人曰流星之音亦曰地雷於是僧旻僧曰非流星是天狗也其吠聲似雷耳三月乙丒朔丙戌日蝕之是歲蝦夷叛以不朝即拜大仁上毛野君形名爲將軍令討還爲蝦夷見敗而走入壘遂爲賊所圍軍衆悉漏城空之將軍迷不知所知時日暮踰垣欲逃爰方名君妻歎曰慷哉爲蝦夷將見殺謂夫曰汝祖等渡蒼海跨万里平水表政以威武傳於後葉今汝頓屈先祖之名必爲後世見嗤乃酌酒強之飲夫而親佩夫之剱張十弓令女人數十俾鳴弦既而夫更起之取伏仗而進之蝦夷以爲軍衆猶多而稍引退之於是散卒更聚亦振旅焉擊蝦夷大敗以悉虜十年秋七月丁未朔乙丒大風之折木發屋九月霖雨桃李華冬十月幸有間温湯宮是歲百濟新羅任那並朝貢十一年春正月乙巳朔壬子車駕還自温湯乙卯新嘗蓋因幸有間以闕新嘗歟丙辰無雲而雷丙寅大風而雨巳巳長星見西北時旻師曰彗星也見則飢之秋七月詔曰今年造作大宮及大寺則以百濟川側爲宮處是以西民造宮東民作寺便以書直縣爲大匠秋九月大唐學問僧惠隱惠雲從新羅送使入京冬十一月庚子朔饗新羅客於朝因給冠位一級十二月巳已朔壬午幸于伊豫温湯宮是月於百濟川側建九重塔十二年春二月戊辰朔甲戌星入月夏四月丁卯朔壬午天皇至自伊豫便居廐坂宮五月丁酉朔辛刄大設齋因以請惠隱僧令說无量壽經冬十月乙丑朔乙亥大唐學問僧清安學生髙向漢人玄理傳新羅而至之仍百濟新羅朝貢之使共從來之則各賜爵一級是月徙於百濟宮十三年冬十月巳丑朔丁酉天皇崩于百濟宮丙午殯於宮北是謂百濟大殯是時東宮開別皇子年十六而誄之

九年の春二月の朔が丙辰の戊寅の日に、大きな星が、東から西に流れた。それで音が鳴って雷のようだった。当時の人は、「流星の音だ」と言った。また「地鳴りだ」と言った。それで、僧旻僧が「流星ではない。これは天狗だ。吠える声が雷に似ているだけだ」と言った。三月の朔が乙酉の丙戌の日に、日食があった。この歳に、蝦夷が背いて来朝しなかった。それで大仁の上毛野の君の形名に官位を授けて、將軍にして征討させた。返り討ちにあって蝦夷に敗けて、砦に逃げ入った。それで賊に囲まれた。軍隊は残らず抜け落ちるように逃げて城が空になった。將軍はどうすることもできなかった。その時に日が暮れた。垣根を飛び越えて逃げようとした。そこで方名の君の妻が、「なんと嘆かわしい、蝦夷ごときに殺されるとは」と嘆いた。それで夫に「あなたの祖先達は、海原を渡って、萬里を股にかけて、海外の国も平らげて、武勇で鳴らして後世まで響き渡った。今、あなたが先祖の名を汚せば、きっと後世の笑いものになる」と言った。それで酒を酌んで夫に無理やり飲ませた。それで親ら夫の剱を帯て、十の弓を張って、女数十人に命令して弦をかき鳴らした。そうしたら夫も立ち上がって、武器を取って進撃した。蝦夷はそれで、軍隊がまだたくさん残っていると思って、次第に引き下がって行った。そこで、散らばった兵士がまた集まって来て、また勢いある旅団となって、蝦夷を撃って大敗させ、みんな捕虜にした。十年の秋七月の朔日が丁未の乙丑の日に、台風があって木をへし折り家が破壊された。九月に、雨が降り続いて、桃やスモモの花が咲いた。冬十月に、有間の温泉の宮に行幸した。この歳に、百済と新羅と任那が一緒に朝貢した。十一年の春正月の朔が乙巳の壬子の日に、天皇の車が温泉から帰った。乙卯の日に、新嘗を行った。おそらく有間に行幸したため、新嘗を忘れたのか。丙辰の日に、雲も無いのに雷が鳴った。丙寅の日は、暴風雨だった。己巳の日に、尾が長い星が西北に見えた。この時に旻師が「彗星だ。これが現れると飢饉がある」と言った。秋七月に、「今年は、大宮と大寺を造りなさい」と詔勅した。それで百済川の辺を宮を造る予定地にした。ここに、西の人民宮を造り、東の人民は寺を造った。それで書の直の縣を総監督の棟梁とした。秋九月に、大唐の学問僧の惠隱と惠雲が新羅の送使に連れられて京に入った。冬十一月の庚子が朔の日に、新羅の客を朝廷で饗応した。それで冠位の最高位を与えた。十二月の朔が己巳の壬午の日に、伊豫の温泉の宮に行幸した。この月に、百済川の辺に、九重の塔が建った。十二年の春二月の朔が戊辰の甲戌の日に、星が、月にぶつかった。夏四月の朔が丁卯の壬午の日に、天皇は、伊豫から帰って廐坂の宮に居た。五月の朔が丁酉の辛丑の日に、大法会を開いた。それで、惠隱僧を招い、無量寿経を教授させた。冬十月の朔が乙丑の乙亥の日に、大唐の学問僧の清安と学生の高向の漢人の玄理が、新羅経由で帰った。それで、百済と新羅の朝貢の使者が、一緒について来た。そのため各々に爵位の最高位を与えた。この月に、百済の宮に行った。十三年の冬十月の朔が己丑の丁酉の日に、天皇、百済宮で崩じた。丙午の日に、宮の北に祭壇を作った。これを百済の大祭場という。この時に、東宮の開別の皇子、年16歳で哀悼の辞を述べた。】とあり、九年三月乙酉朔は2月30日、十二年四月丁卯朔は3月30日と前の月が共に大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。

『隋書』の「大業三年・・・明年 上遣文林郎裴淸使於俀国」と608年に来日した裴淸の帰国時に推古天皇十六年「遣於唐國學生倭漢直福因奈羅譯語惠明高向漢人玄理・・・志賀漢人惠隱」と高向玄理が訪中し、640年のその帰国の記事で、『舊唐書』「至二十二年又附新羅奉表以通起居」と貞觀22年648年に新羅に連れ立って訪中しており、これが白雉五年654年の「遣大唐押使大錦上高向史玄理」と考えられる。

大化三年に「制七色一十三階之冠」と647年に制定した官位を冠しての訪中で、この年は「金春秋等送博士小徳高向黒麻呂小山中中臣連押熊來獻孔雀一隻鸚鵡一隻仍以春秋爲質」と官位を叙されておらず、翌年に小徳が大錦上と記述され、俀国は官位を変更した。

それが、「給冠位一級」で、『舊唐書』に「無冠帶・・・佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅」と倭国には冠帶が無く、地位は等級で服の色が違ったと記述され、皇極天皇二年に「蘇我大臣蝦縁病不朝私授紫冠於子入鹿」と倭国には紫冠がないから俀国を真似て私的に紫冠を被ったことを示している。

そのため、僧旻も皇極天皇四年「沙門旻法師高向史玄理爲國博士」とセットで出現するため、彗星や流星の落下や月に流星がぶつかったなどの記述は650年前後の出来事と考えられ、そして608年に高向玄理と一緒に訪中した惠隱も白雉三年「四月戊子朔壬寅請沙門惠隱於内裏使講無量壽經」と舒明12年と白雉3年が同じ年であることを示しているが、私は白雉3年ではなく白鳳3年663年に挿入すべき記事だった考える。

そして、皇極天皇から天武天皇が記述するのだが、最後の舒明13年は皇極天皇を記述した時に追加した記事で、もし、推古天皇や舒明天皇と同時に記述したのなら、開別皇子という名を舒明2年に記述しないのは奇妙で、すなわち、舒明13年は652年即位の舒明天皇が664年に崩じ、しかも、死亡記事を書かないで死亡したことを意味する。

従って、推古紀は629年から舒明天皇も含めた記事で664年まで記述され舒明紀は664年に663年までを記述して死亡した天皇の記述で、664年10月は天智天皇が皇太子で年齢が16歳だったことを示し、そのため、668年に20歳になったので小墾田宮の天皇が退位して皇位に就いたことを示す。

2020年9月11日金曜日

最終兵器の目 舒明天皇3

 『日本書紀』慶長版は

三年春二月辛卯朔庚子掖玖人歸化三月庚申朔百濟王義慈入王子豊章爲質秋九月丁巳朔乙亥幸于攝津國有間温湯冬十二月丙戌朔戊戌天皇至自温湯四年秋八月大唐遣髙表仁送三田耜共泊于對馬是時學問僧靈雲僧旻及勝鳥養新羅送使等從之冬十月辛亥朔甲寅唐國使人髙表仁等泊于難波津則遣大伴連馬養迎於江口舩丗二艘及鼓吹旗幟皆具整飾便告髙表仁等曰聞天子所命之使到于天皇朝迎之時髙表仁對曰風寒之日飾整舩艘以賜迎之歡愧也於是令難波吉士小槻大河內直矢伏爲導者到館前乃遣伊岐史乙等難波吉士八牛引客等入於館即日給神酒五年春正月已卯朔甲辰大唐客髙表仁等歸國送使吉士雄摩呂黑摩呂等到對馬而還之六年秋八月長星見南方時人曰篲星七年春三月篲星𢌞見于東夏六月乙丑朔甲戌百濟遣達率柔等朝貢秋七月乙未朔辛丑饗百濟客於朝是月瑞蓮生於剱池一莖二花八年春正月壬辰朔日蝕三月悉劾姧采女者皆罪之是時三輪君小鷦鷯苦其推鞫刺頸而死夏五月霖雨大水六月災岡本宮天皇遷居田中宮秋七月已丑朔大派王謂豊浦大臣曰群卿及百寮朝參巳懈自今以後卯始朝之巳後退之因以鍾爲節然大臣不從是歲大旱天下飢之

三年の春二月の朔が辛卯の庚子の日に、掖玖の人が帰化した。三月の庚申が朔の日に、百済の王の義慈が、王子の豊章を人質に入れた。秋九月の朔が丁巳の乙亥の日に、摂津国の有間温泉に行幸した。冬十二月の朔が丙戌の戊戌の日に、天皇が、温泉から帰った。四年の秋八月に、大唐が高表仁を派遣して、三田耜を送ってきた。一緒に対馬に停泊した。この時に、学問僧の靈雲と僧旻と勝の鳥養が、新羅の送使達についてきた。冬十月の朔が辛亥の甲寅の日に、唐国の使者の高表仁達が、難波津に停泊した。それで大伴の連馬養を派遣して、港の入口で迎えた。船が三十二艘で鼓と吹と旗印を、皆お揃いに飾った。それで高表仁達に「天子の命令の使者が、天皇の朝廷にやってきたと聞いて迎えに来た」と告げた。その時、高表仁が「風が冷たい時期に、たくさんの船を揃えて飾って、迎えてもらって、嬉しい限りです」と答えた。そこで、難波の吉士の小槻と大河内の直の矢伏に命令して、先導者として、館の前に着いた。それで伊岐の史の乙等と難波の吉士の八牛を派遣して、客達を引き連れて館に入った。その日に、迎えのお神酒の儀礼を行った。五年の春正月の朔が己卯の甲辰の日に、大唐の客の高表仁達が、国に帰った。送使の吉士の雄摩呂と黒麻呂達が、対馬まで送ってかえって行った。六年の秋八月に、足の長い星が南方に見えて当時の人は彗星と言った。七年の春三月に、彗星が戻って来て東方に見えた。夏六月の朔が乙丑の甲戌の日に、百済が、達率の柔達を派遣して、朝貢した。秋七月の朔が乙未の辛丑の日に、百済の客を朝廷で饗応した。この月に、めでたいしるしの蓮が生えた。一つの茎に二つの花が咲いた。八年の春正月の壬辰が朔の日に、日食があった。三月に、残らず、采女と姦淫した者を取り調べて、全て罰した。この時に、三輪の君の小鷦鷯が、その取り調べられたとを苦に、頚を刺して死んだ。夏五月に、雨が幾日も降り続いて洪水があった。六月に、岡本の宮が火事になった。天皇は、田中の宮に遷都した。秋七月の己丑が朔の日に、大派の王が、豊浦大臣に「官僚や役人が、朝から出仕する決まりをもう怠けている。これ以後は、朝6時に朝廷に出仕して10時間後に帰りなさい。それで節目を鍾で知らせなさい」と言った。しかし大臣が守らなかった。この歳は、とても日照り続きで、国中が飢饉となった。】とあり、七年七月乙未朔は7月2日で6月は小の月で7月は大の月なので、6月が大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

豊章が人質になった記事は、631年ではなく、『三国史記』に655年義慈王十五年「春二月修太子宫極侈麗立望海亭於王宫南」、659年義慈王十九年夏四月太子宮雌雞與小雀交遣將侵攻新羅獨山桐岑二城」そして翌660年二十年「迎古王子扶餘豊嘗質於倭國者立之爲王」と皇太子豊章が百済に滞在しないのは655年3月から659年3月までの間なのだから、629年や白雉元年から始まる舒明3年ではなく白雉元年から始まる舒明4年の事で、やはり1年ズレていて、白雉元年から始まる舒明天皇とは異なる651年即位の王の記事なのだろう。

『舊唐書』に貞観五年「遣使献方物太宗矜其通遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史高表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還」と631年の記事で、この舒明天皇は628年即位の王、すなわち倭国王が唐使を迎え、『旧唐書』は倭国記事なので、この時倭国とは礼儀を欠いた対応のため決裂し、この時、新羅経由で唐使が来ているように、すでに、唐・新羅と、隋に絶縁された俀国の連合が出来つつあったようだ。

それに対して『舊唐書』654年永徽五年「十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙琥珀大如斗碼瑙大如五斗器」と倭国は唐との関係を修復しようとしたようで、654年すなわち舒明3年に遣使した白雉5年の記事で、実際は白雉3年に「遣大唐押使大錦上高向史玄理」なのだろう。

この大錦上の官位は推古天皇十九年「諸臣服色皆隨冠色各著髻華則大徳小徳並用金大仁小仁用豹尾大禮以下用鳥尾」で、この推古19年は629年即位の推古19年で657年のことである。

2020年9月9日水曜日

最終兵器の目 舒明天皇2

  『日本書紀』慶長版は

元年春正月癸卯朔丙午大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子則辭之曰宗廟重事矣寡人不賢何敢當乎群臣伏固請曰大王先朝鍾愛幽顯属心冝纂皇綜光臨億兆即日即天皇位夏四月辛未朔遣田部連(闕名)於掖玖是年也太歲己丑二年春正月丁卯朔戊寅立寶皇女爲皇后后

生二男一女一曰葛城皇子二曰間人皇女三曰大海皇子夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子又娶吉備國蚊屋采女生蚊屋皇子三月丙寅朔髙麗大使宴子拔小使若德百濟大使恩率素子

小使德率武德共朝貢秋八月癸巳朔丁酉以大仁犬上君三田耜大仁藥師惠日遣於大唐庚子饗髙麗百濟客於朝九月癸亥朔丙寅髙麗百濟客歸于國是月田部連等至自掖玖冬十月壬辰朔癸卯天皇遷於飛鳥岡傍是謂岡本宮是歲改修理難波大郡及三韓館

元年の春正月の朔が癸卯の丙午の日に、大臣及び役人が、一緒に天皇の印璽を、田村の皇子に献上した。それで断って、「天皇の祖先を祀るということは重責だ。私は未熟でどうして敢えて担えようか」と言った。役人達は、土下座して強く「大王は前の天皇が大切に可愛がって、死んだ人も生きてる人もあなたを応援しています。皇統を継いですべてを見守ってください」と願った。その日に、天皇位に就いた。夏四月の辛未が朔の日に、田部の連を掖玖に派遣した。この年は、太歳が己丑だった。二年の春正月の朔が丁卯の戊寅の日に、寶皇女を皇后に立てた。后は、二人の男子と一人の女子を生んだ。第一を葛城の皇子という。第二を間人の皇女という。第三を大海の皇子という。夫人の蘇我の嶋の大臣の娘の法提の郎媛が古人の皇子、また吉備国の蚊屋の采女を娶にして、蚊屋の皇子を生んだ。三月の丙寅が朔の日に、高麗の大使の宴子拔と小使の若徳と、百済の大使の恩率の素子と小使の徳率の武徳が、一緒に朝貢した。秋八月の朔が癸巳の丁酉の日に、大仁の犬上君の三田耜と・大仁の藥の学者の惠日を、大唐に派遣した。庚子の日に、高麗と百済の客を朝廷で饗応した。九月の朔が癸亥の丙寅の日に、高麗と百済の客が国に帰った。この月に、田部の連達が、掖玖から帰った。冬十月の朔が壬辰の癸卯の日に、天皇は、飛鳥の岡の側に遷都した。これを岡本の宮という。この歳に、改めて難波の大郡と三韓の館を建てた。】とあり、元年四月辛未朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

舒明天皇の皇后が寶皇女となっているが、『古事記』の系図からすると、「沼名倉太玉敷・・・娶伊勢大鹿首之女小熊子郎女生御子布斗比賣命次寶王亦名糠代比賣」と日子人と同世代を舒明天皇にあてて、しかも、『古事記』は舒明天皇も「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と舒明天皇の母も妻も同一人物で、『古事記』記述時点では寶王はまだ皇后ではない。 

すなわち、彦人を襲名した系図を述べ、葛城皇子も大海皇子も注釈記事で天皇と記述しているだけで、天皇とは別人とおもわれる。

この元年629年に璽の移動がある政権交代が起こったことを示し、『日本書紀』では允恭天皇の「即選吉日跪上天皇之璽」、「今當上天皇璽符・・・即日捧天皇之璽符再拜上焉・・・乃即帝位」、清寧天皇「大伴室屋大連率臣連等奉璽於皇太子」、顕宗天皇「皇太子億計、取天子之璽置之天皇之坐」、継体天皇「跪上天子鏡劔璽符再拜・・・乃受璽符是日即天皇位」、推古天皇「因以奉天皇璽印十二月己卯皇后即天皇位於豐浦宮」と璽を手にすることで皇位に就いた。

数多の皇太子が皇位に就いているのが5人だけで、必ずそこには大臣と呼ばれる人物が出現して、それが葛城氏と平群氏と巨勢氏と物部氏と蘇我氏でこれらの大臣から王朝が始まり、若しくはこれらの大臣が滅ぶことで王朝も滅んだ。

ところが、この舒明天皇の大臣は嶋と蝦夷が前紀に記述され推古紀の馬子に豊浦の大臣と名目上は同一人物で、ということは、推古天皇の璽と舒明天皇の璽の記述は同じ内容、前章で述べたように、舒明前紀の記事は推古天皇が皇后の時の記事で629年が元年の天皇の記事だということが解る。

ところが同じく元年の掖玖人は推古天皇二四年「三月掖玖人三口歸化夏五月夜句人七口來之秋七月亦掖玖人廿口來之先後并卅人皆安置於朴井未及還皆死焉の記事と同じ記事で、629年元年の天皇の24年は652で白雉元年、すなわち岡本宮天皇は白雉元年から始まる天皇で、岡本宮が629年は守屋の宮の難波で652年でも難波京ということが解り、犬上君三田耜説話も推古天皇二三年「秋九月犬上君御田鍬矢田部造至自大唐百濟使則從犬上君而來朝」と同じ記事で、『隋書』の「内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁」の大仁の役職から俀国の記事のため『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆」と壬午死亡の「上宮法皇」と辛巳死亡の聖徳太子と1年のズレがあるようで、俀国王が早く即位したことを示している。


2020年9月7日月曜日

最終兵器の目 巻第二十三 舒明天皇1

 今回はとても長いが、前紀の分割が難しいので解説を最初にして、原文と訳は後に回した。

『古事記』に「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」とあるように、日子人太子の子で、「娶息長真手王之女比呂比賣命生御子忍坂日子人太子」と息長真手王の娘の子で舒明天皇の名が息長足日廣額と息長氏の皇子と天皇名から舒明天皇を考えるとよく符合している。

しかし、『藤氏家伝』に「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と舒明天皇の即位の時に活躍したのは鎌足となっていて、『日本書紀』では「中臣連彌氣」が活躍しており、鎌足が舒明天皇初年に活躍しなければ、乙巳の変での活躍は有り得ず、「彌氣」はその父親で推古天皇が若いころの活躍が妥当で、推古天皇三二年の「大臣遣阿曇連阿倍臣摩侶二臣」は十月癸卯朔623年の記事だったように、この舒明天皇前紀記事は620年代の記事である。

境部臣摩理勢は推古天皇二十年「境部臣摩理勢令誄氏姓之本矣」と堅鹽媛の哀悼をしているが、推古天皇59歳にその母の薨去は異様で、推古天皇の即位当時39歳頃なら堅鹽媛も60歳程度で妥当となり、摩理勢も推古天皇と同程度の年齢でなければ哀悼できないと思われるし、摩理勢は殺害されているのだから早死にである。

そして、斑鳩宮は聖徳太子の宮でなので、後継者の山背大兄がこの宮の当主のはずが、何故か

泊瀬王を記述して、摩理勢は山背王の為だったはずが泊瀬王の為に動いたことに挿げ代わってしまった。

私は、豊聴耳が馬子と述べ、馬子は御井夫人に婿入りして斑鳩に移ったとして、御井夫人の宮が斑鳩、御井夫人は泥部穴穗部皇女のことだと述べ、豊御食炊屋姫の夫が崩じた後を泥部穴穗部皇子が継承して、その皇太子が守屋で馬子の義兄達と述べた。

本来、天皇には必ず後継者が必要で、後継者がいない者は天皇になれなず、後継者は長男若しくは弟で、ここで、皇太子がいないと推古天皇が述べたのは、文中で「大王」と言っているように、天皇では無く大王だった推古天皇がすなわち前政権の皇后でもう皇后でもなく、皇太后でない前皇后も大王とよび、後継天皇の泥部穴穗部皇子と皇太子の守屋が殺害されたため、後継天皇を決めなければならなかったということだ。

『日本書紀』は俀国の遣隋使などの事績をいとも簡単に天皇家の事績に挿げ替え、法興帝を推古天皇の皇太子に挿げ替えたように、崇峻天皇のことを舒明天皇の即位記事に挿げ替えたのであり、それを継承した『上宮聖徳法王帝説』の太子の子達も複数の大王の寄せ集めだ。

そして、先代の馬子すなわち『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と623年に竹田皇子に鏡を送った嶋と物部御井夫人の子の厩戸豐聰耳の馬子、その子の厩戸豐聰耳と『舊事本紀』に「物部鎌媛大刀自連・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」、これは嶋を襲名した豊浦大臣の厩戸豐聰耳の妻が鎌媛大刀自で子供が豊浦大臣を襲名する入鹿である。

これは『日本書紀』にも皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣大臣之祖母物部弓削大連之妹」と入鹿の祖母が御井夫人と記述している。

『日本書紀』慶長版は

息長足日廣額天皇渟中倉太珠敷天皇孫彥人大兄皇子之子也母曰糠手姫皇女豊御食炊屋姫天皇二十九年皇太子豊聰耳尊薨而未立皇太子以三十六年三月天皇崩九月葬禮畢之嗣位未定當是時蘇我蝦夷臣爲大臣獨欲定嗣位顧畏群臣不從則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家食訖將散大臣令阿倍臣語群臣曰今天皇既崩無嗣若急不計畏有亂乎今以詎王爲嗣天皇臥病之日詔田村皇子曰天下大任本非輙言爾田村皇子愼以察之不可緩次詔山背大兄王曰汝獨莫誼讙必從群言愼以勿違則是天皇遺言焉今誰爲天皇時群臣嘿之無荅亦問之非荅強且問之

於是大伴鯨連進曰既從天皇遺命耳更不可待群言阿倍臣則問曰何謂也開其意對曰天皇曷思歟詔田村皇子曰天下大任也不可緩因此而言皇位既定誰人異言時采女臣摩禮志髙向臣宇摩中臣連(?)氣難波吉士身刺四臣曰隨大伴連言更無異許勢臣大麻呂佐伯連東人紀臣塩手三人進曰山背大兄王是冝爲天皇唯蘇我倉麻呂臣獨曰臣也當時不得便言更思之後啓爰大臣知群臣不和而不能成事退之先是大臣獨問境部摩理勢臣曰今天皇崩無嗣誰爲天皇對曰舉山背大兄爲天皇是時山背大兄居於斑鳩宮漏聆是議即遣三國王櫻井臣和慈古二人密謂大臣曰傳聞之升父以田村皇子欲爲天皇我聞此言立思矣居思矣未得其理願分明欲知升父之意於是大臣得山背大兄之告而不能獨對則喚阿倍臣中臣連紀臣河邊臣髙向臣采女臣大伴連許勢臣等仍曲舉山背大兄之語既而便且謂大夫等曰汝大夫等共詣於斑鳩宮當啓山背大兄王曰賤臣何之獨輙定嗣位唯舉天皇之遺詔以告于群臣群臣並言如遺言田村皇子自當嗣位更詎異言是群卿言也特非臣心伹雖有臣私意而惶之不得傳啓乃面日親啓焉爰群大夫等受大臣之言共詣于斑鳩宮使三國王櫻井臣以大臣之辭啓於山背大()時大兄王使傳問群大夫等曰天皇遺詔奈之

何對曰臣等不知其深唯得大臣語狀稱天皇臥病之日詔田村皇子曰非輕輙言來國政是以爾田村皇子愼以言之不可緩次詔大兄王曰汝肝稚而勿諠言必冝從群言是乃近侍諸女王及采女等悉知之且大王所察於是大兄王且令問之曰是遺詔也專誰人聆焉荅曰臣等不知其密既而更亦令告群大夫等曰愛之升父勞思非一介之使遣重臣等而教覺是大恩也然今群卿所噵天皇遺命者小小違我之所聆吾聞天皇臥病而馳上之侍于門下時中臣連(?)氣自禁省出之曰天皇命以喚之則參進向于閤門亦栗隈采女黒女迎於庭中引入大殿於是近習者栗下女王爲首女孺鮪女等八人幷數十人侍於天皇之側且田村皇子在焉時天皇沈病不能覩我乃栗下女王奏曰所喚山背大兄王參赴即天皇起臨之詔曰朕以寡薄久勞大業今暦運將終以病不可諱故汝本爲朕之心腹愛寵之情不可爲比其國家大基是非朕世自本務之汝雖肝稚愼以言乃當時侍之近習者悉知焉故我蒙是大恩而一則以懼一則以悲踊躍歡喜不知所如仍以爲社稷宗廟重事也我眇少以不賢何敢當焉當是時思欲語升父及群卿等然未有可噵之時於今非言耳吾曽將訊升父之病向京而居豊浦寺是日天皇遣八口采女鮪女詔之曰爲汝升父大臣常爲汝愁言百歲之後嗣位非當汝乎故愼以自愛矣既分明有是事何疑也然我豈餮天下唯顯聆事耳則天神地祇共證之是以冀正欲知天皇之遺勅亦大臣所遣群卿者從來如嚴矛(嚴矛此云伊箇之保虛)取中事而奏請人等也

故能冝白升父既而泊瀬仲王別喚中臣連河邊臣謂之曰我等父子並自蘇我出之天下所知是以如髙山恃之願嗣位勿輙言則令三國王櫻井臣副群卿而遣之曰欲聞還言時大臣遣紀臣大伴連謂三國王櫻井臣曰先日言訖更無異矣然臣敢之輕誰王也重誰王也於是數日之後山背大兄亦遣櫻井臣告大臣曰先日之事陳聞耳寧違升父哉是日大臣病動以不能面言於櫻井臣明日大臣喚櫻井臣即遣阿倍臣中臣連河邊臣小墾田臣大伴連啓山背大兄言自磯城嶋宮御宇天皇之世及近世者群卿皆賢哲也唯今臣不賢而遇當乏人時誤居群臣上耳是以不得定基然是事重也不

能傳噵故老臣雖勞面啓之其唯不誤遺勅者也非臣私意既而大臣傳阿倍臣中臣連更問境部臣曰誰王爲天皇對曰先是大臣親問之日僕啓既訖之今何更亦傳以告耶乃大忿而起行之適是時蘇我氏諸族等悉集爲嶋大臣造墓而次于墓所爰摩理勢臣壞墓所之廬退蘇我田家而不仕時大臣慍之遣身狹君勝牛錦織首赤猪而誨曰吾知汝言之非以干支之義不得害唯他非汝是我必忤他從汝若他是汝非我當乖汝從他是以汝遂有不從者我與汝有瑕則國亦亂然乃後生言之吾二人破國也是後葉之惡名焉汝愼以勿起逆心然猶不從而遂赴于斑鳩住於泊瀬王宮於是大臣益

怒乃遣群卿請于山背大兄曰項者摩理勢違臣匿於泊瀬王宮願得摩理勢欲推其所由爰大兄王荅曰摩理勢素聖皇所好而暫來耳豈違升父之情耶願勿瑕則謂摩理勢曰汝不忌(忘)先王之恩而來甚愛矣然其因汝一人而天下應亂亦先王臨設謂諸子等曰諸惡莫作諸善奉行余承斯言以爲永戒是以雖有私情忍以無怨復我不能違升父願自今以後勿憚改意從群而无退是時大夫等且誨摩理勢臣之曰不可違大兄王之命於是摩理勢臣進無所歸乃泣哭更還之居於家十餘日泊瀬王忽發病薨爰摩理勢臣曰我生之誰恃矣大臣將殺境部臣而興兵遣之境部臣聞軍至率仲子阿椰出于門坐胡床而待時軍至乃令來目物部伊區比以絞之父子共死乃埋同處唯兄子毛津逃匿于尼寺瓦舍即姧一二尼於是一尼嫉妬令顯圍寺將挿乃出之入畝傍山因以探山毛(?)走無所入刺頸而死山中時人歌曰于泥備椰摩虛多智于湏家苫多能(?弥)介茂氣菟能和區吴能虛茂羅勢利祁牟

【息長足日廣額天皇は、渟中倉の太珠敷の天皇の孫で、彦人の大兄の皇子の子だ。母は糠手姫の皇女という。豊の御食炊屋の姫の天皇二十九年に、皇太子の豊聰耳の尊が薨じた。しかしまだ皇太子を立てなかった。三十六年の三月に、天皇が崩じた。九月に、葬儀が終わった。後継天皇がまだ決まらなかった。この時に、蘇我の蝦夷の臣が大臣だった。自分だけで後継天皇を決めようと思った。思ういめぐらすと役人がついてこないのではと恐れて、阿倍の麻呂の臣と話し合って、役人を集めて、大臣の家で饗応した。食事が終わって解散しようとすると、大臣が、阿倍の臣に命令して、役人に「今、天皇は既に崩じたが後継者がいない。もしすぐに決めなければ、恐らく戦乱が起こる。今どの王を後継者にすべきだ。天皇が病気で床につ居ていた日に、田村の皇子に『天下を治めるということは重い責任のある役目だ。元々簡単に言葉にするものではない。お前田村の皇子は、慎重におしはかりなさい。油断してはならない』と詔勅した。次に山背の大兄の王に『お前は、一人で騒ぎ立てるな。必ず役人の言葉に従って、気をつけて行動を誤るな』と詔勅した。それでこれが天皇の遺言だ。今、誰を天皇とするべきだ」と語りかけた。その時、役人達は押し黙って答が無かった。また問いかけても答が無かった。それでもと強く問いかけた。そこで、大伴の鯨の連が進み出て「すでに天皇の遺言に従うだけで今更役人の発言を待たなくてもよい」と言った。阿倍の臣、それで「これはどういう意味だ。その真意を明らかにしろ」と問いかけた。「天皇がどう考えたかは、田村の皇子に 詔して、『天下を治めるということは重い責任のある役目だ。簡単に考えてはならない』と詔勅した。この言葉からいうと、皇位はもう決まっている。誰が異論をはさめるか」と答えた。その時に、采女の臣の摩禮志と高向の臣の宇摩と中臣の連の弥氣と難波の吉士の身刺の、四人の臣下が「大伴の連の言うとおり、更なる異論はない」と言った。許勢の臣の大麻呂と佐伯の連の東人と紀の臣の鹽手の、三人が進み出て「山背の大兄の王が、天皇に良い」と言った。ただ蘇我の倉麻呂の臣一人が、「私はこの場で、簡単に言えない。もう少し考えてから指し示したい」と言った。ここで大臣は、役人が賛同しないので、思いが遂げられないことを知って、退席した。これより前に、大臣は、一人だけの時に境部の摩理勢の臣に「今、天皇が崩じて跡継ぎがいない。誰が天皇になるべきだ」と問いかけた。「名を上げるとしたら山背の大兄を天皇に」と答えた。この時、山背の大兄は、斑鳩の宮に居て、この話し合いを漏れ聞いた。それで三国の王と桜井の臣の和慈古の二人を派遣して、そっと大臣に「聞いたのだけれど、叔父が、田村の皇子を、天皇にしようとしている。私はこれを聞いて、考えてもその理由が解らず居ても立っても居られなかった。出来たら、解りやすく叔父の真意を教えてほしい」と言った。そこで、大臣は、山背の大兄の告白を聞いて、自分だけの考えで答えられなかった。それで阿倍の臣と中臣の連と紀の臣と河邊の臣と高向の臣と采女の臣と大伴の連と許勢の臣達を呼んで、それでねじ曲げて山背の大兄の言葉を上げた。それでまたまた、高官達に「高官のお前たちは、一緒に斑鳩の宮に行って、山背の大兄の王に説明して、『私達がどうして一人だけで簡単に跡取りを決められるのか。ただ天皇の遺言をあげて、役人に伝えるのみだ。役人がみな言うことに、遺言は田村の皇子のようだ。だから跡継ぎになればよい。だれも異を唱えないだろうと言った。これは役人の言葉だ。特段私だけの思いではない。ただし私の思いが有っても、畏まって言うことが出来ない。それで顔を合わせた時に自分から話そう』と言うように」と言った。そこで高官達は大臣の言葉を受けて、一緒に斑鳩の宮に行った。三国の王と桜井の臣が、大臣の言葉を、山背の大兄に伝えた。その時に大兄の王は、高官達に「天皇の遺言をどう思うか」と伝え聞かせた。「私達はその深い考えは知りません。ただし大臣が語った内容から、天皇が病気で床についていた日に、田村の皇子に『軽率に国政がすぐに自分の物になるなどと言ってはいけない。それで、お前、田村の皇子は、謹んで怠りなく言葉にするな』と詔勅した。次に大兄の王に『お前は未熟だから騒ぎ立ててはいけない。必ず役人のいう通りにしなさい』と詔勅した。それで近習の諸々の女王や采女達みんなに知れ渡った。そして大王がよく考えたことだ」と答えた。そこで、大兄の王は、また

「この遺言を、誰が聞いたか」と問いかけた。「私達はそれがうわさ話なので知りません」と答えた。それでさらに、高官達に「大事な叔父を労わろうと、普通の使者ではなく、重臣達を派遣して教へ諭した。これは大変な情けをかけられた。しかし、今、役人達が教えてくれた天皇の遺言は、私が聞いたことと少々違う。私が聞いたのは、天皇が病気で床についたと聞いて、馳せ参じて庭の入口で命令を待った。その時に中臣の連の彌氣が、宮内から出てきて、『天皇の命令で呼びに来た』と言った。それで更に進んで内裏の中に向かった。また栗隈の采女の黒女が、庭の中に迎え入れて、居室に引き入れた。そこに、近習の者の栗下の女王をかしらに、女官の雑用係や侍女達八人と、併せて数十人が、天皇の側に控えていた。また田村の皇子も居た。その時に天皇は重体で、私を見ることすらできなかった。それで栗下の女王が『呼んだ山背の大兄の王が参上しました』と奏上した。それで天皇は床からおきて『私は見識も無いのに永く、帝王のしごとを骨折ってきた。今はもう命運が尽きようとしている。病には勝てない。それで、お前は昔から私の腹心だ。特別に目をかけてかわいがった気持ちは比べ物にならない。国家の根本は私の世だけではなく昔から務めてきた。未熟ではあるが慎みを持って発言しなさい』と詔勅した。その時に仕えた近習達が残らず知った。それで、私のこの深い恵みを受けて、あるいはおそれ、あるいは悲しんだ。飛び跳ねて大喜びするようなことを考えもしない。それで国家や祖先をまつったやしろを守るのは重大なことだと思う。私は見識が少なく未熟だ。どうすればよいだろう。この時に、叔父や役人に相談しようと思った。しかし教えてもらう機会が無く、今まで言わなかっただけだ。私は以前叔父の病の様子を見に、京に向って豊浦寺に居た。その日に、天皇は、八口の采女の侍女を派遣して、『お前の叔父の大臣が、いつもお前の事を思い悩んで、百年経っても、皇位を継げないと言う。それで謹んでよく考えなさい』と詔勅した。これはもうわかりきったことだ。何の疑いも無い。しかし私がどうして天下をむさぼりつくすと言うのか。ただ聞いたことを言うだけだ。それは天地神明に誓って言う。それで、出来たら天皇の遺言を知りたいと思った。また大臣が派遣した役人というのは、もともと、ぶつかり合うだけの矛で間を取り持つように裁可を求める人たちだ。それでよく叔父は伝えなさい」と詔勅した。すでに泊瀬の仲の王は特に中臣の連と河邊の臣を呼んで、「私父子は、ともに蘇我から出たことは国中が知っている。それで、高い山のように大臣の言葉を待ち望んでいる。お願いだから跡取りの事はいい加減なことを言わないでほしい」と言った。則ち三国の王と桜井の臣に命じて、役人と一緒に派遣して、「返事を聞こうと思う」と言った。その時に大臣は、紀の臣と大伴の連を派遣して、三国の王と桜井の臣「先日話した。何も変わらない。しかし、私が敢えてどの王を軽んじどの王を重んじたというのだ」と言った。そこで、数日の後、山背の大兄は、また桜井の臣を派遣して、大臣に「先日の事は、聞いたことを言っただけだ。むしろ叔父が間違っているのでは」と告げた。その日は、大臣が病気で、会って桜井の臣に答えられなかった。翌日に、大臣は、桜井の臣を呼び出して、それで阿倍の臣と中臣の連と河邊の臣と小墾田の臣と大伴の連を派遣して、山背の大兄に「磯城嶋の宮の御宇天皇の世から、今に至るまで、役人は皆 かしこくて、道理に通じている。ただ、今はわたしが未熟で、偶然にも人がいない時に当たってしまって、間違って役人の上になってしまった。それで、天皇を決められない。このことはとても重大なことです。伝えるようなことでは無いので、老臣に鞭打つようだが、直接会って伝えよう。そうすれば遺言を間違えない。私は私心で言っているのではない」と伝えた。大臣が、阿倍の臣と中臣の連に伝えた後、さらに境部の臣に「どの王が天皇になるべきだ」と問いかけた。「これより前に、大臣が自ら問いかけた日に、私はすでに伝え終わっています。今になってどうしてまたいわなければならないのですか」と答えた。それでとても怒って立ち去った。この時に、蘇我氏の同族達が残らず集まって、嶋の大臣の爲に墓を造って、墓所に席順に並んで控えた。ここに摩理勢の臣が、墓所の小屋を壊して、蘇我の田舎の家に引きこもって、出仕しなかった。その時に大臣は不満に思って、身狹の君の勝牛と錦織の首の赤猪を派遣して、「私はお前が言うことが間違いと知っているが、干支が一回りも違う者に対する礼儀があるので、傷つけられない。ただし他の人が悪くてお前が正しければ私はきっと他の人に従わないでお前に従う。もし他の人が正しくてお前が間違っていたら、私はお前に背いて他の人に従うだろう。これで、お前が従わないことが有ったら、私は、お前と傷つけあう。そうすると国がまた乱れる。そうしたら私達二人が国を滅ぼしたとずっと言われるだろう。これは後世まで語り継がれる悪名だ。お前は謹んで反逆を考えてはならない」と諭した。それなのにまだ従わないで、ついに斑鳩に赴いて、泊瀬の王の宮に留まった。そこで、大臣は益々怒って、役人を派遣して、山背の大兄に「この摩理勢は、私に背いて、泊瀬の王の宮に隠れた。お願いだから、摩理勢を貰い受けて、その理由を調べたいと思う」と伝えた。そこで大兄の王は「摩理勢は元々天皇が好ましく思っていた。それで少しの間来ているだけだ。叔父の考えに反対していようか。お願いだから傷つけないでほしい」と答えた。それで摩理勢に「お前は、先王の恩を忘れないで、来てくれたのはとてもうれしい。しかしお前一人のために、天下が乱れる。また先の王が死に臨んで、諸子達に『諸々の悪い事はするな。諸々の善行を行え』と言った。私はこの言葉を聞いて、永遠の戒めとした。これで、私の思い道理にならなくても、

我慢して恨んだりしない。また私の叔父に逆らうことは出来ない。頼むから、今からは、気兼ねなく考えを変えなさい。皆に従って逃げてはいけない」と言った。この時に、高官達は、また摩理勢の臣に「大兄の王の命令に逆らってはならない」と諭した。そこで、摩理勢の臣は、帰るところが無かった。それで泣き叫んで帰って、家に十日余りいた。泊瀬の王は急に病気で薨去した。それで摩理勢の臣は「私は生きていても頼る人がいない」と言った。大臣は、境部の臣を殺そうとして、

軍を興して派遣した。境部の臣は、軍隊がやってくると聞いて、子の兄弟の間の子の阿椰を率いて、門に出て床几に座って待った。その時に軍がやって来て、それで来目の物部の伊區比に命令して首をしめて殺した。父子共に死んだ。それで同じ所に埋めた。ただし兄にあたる毛津だけ、尼寺の瓦工房に逃て隠れた。それで一・二人の尼を姦淫した。それで、一人の尼が嫉妬して露顕して、寺を取り囲んで捕えようとした。それで出でてきて畝傍の山に逃げ込んだ。それで山を探し回った。毛津は逃げ場所がなくなって、頚を刺して山中で死んだ。当時の人は歌った()