2020年11月30日月曜日

最終兵器の目 天智天皇3

 『日本書紀』慶長版は

三年春二月己卯朔丁亥天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事其冠有二十六階大織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中大錦下小錦上小錦中小錦下大山上大山中大山下小山上小山中小山下大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建是爲二十六階焉改前華曰錦從錦至乙加十階又加換前初位一階爲大建小建二階以此爲異餘並依前其大氏之氏上賜大刀小氏之氏上賜小刀其伴造等之氏上賜干楯弓矢亦定其民部家部三月以百濟王善光王等居于難波有星殞於京北是春地震夏五月戊申朔甲子百濟鎮將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表亟與獻物是月大紫蘇我連大臣薨六月嶋皇祖母命薨冬十月乙亥朔戊寅發遣郭務悰等勅是日中臣內臣遣沙門智祥賜物於郭務悰戊寅饗賜郭務悰等是月髙麗大臣蓋金終於其國遣言於兒等曰汝等兄弟和如魚水勿爭爵位若不如是必爲隣咲十二月甲戌朔乙酉郭務悰等罷歸是月淡海國言坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生身取而收日々到富栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端一宿之間稻生而穗其旦垂頴而熟明日之夜更生一穗新婦出庭兩箇鑰匙自天落前婦取而與殷々得始富是歳於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置防與烽又於筑紫築大堤貯水名曰水城

【三年の春二月の朔が己卯の丁亥の日に、天皇は、大皇弟に命じて、冠を変えて位の階の名を多くして、氏の棟梁や民部や家部について諸事を宣下した。その冠は二十六階有った。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、と二十六階とした。前の花を改めて錦と言った。錦より乙までに十階を加えた。また前の初位一階を加え換えて、大建・小建、二階にした。これを異にした。他は前のままだった。その大きい氏の氏の棟梁には大刀を与えた。小さい氏の氏の棟梁には小刀を与えた。その伴の造達の氏の棟梁には干楯と弓矢を与えた。また民部と家部を定めた。三月に、百済王の善光王達を、難波に居住させた。流れ星が京の北に落ちた。この春に、地震があった。夏五月の朔が戊申の甲子の日に、百済の鎭將の劉仁願が、朝散大夫の郭務悰達を派遣して、表函と献上の物を進上した。この月に、大紫の蘇我の連の大臣が薨じた。(?或本に、大臣の薨は五月と注す)六月に、嶋の皇祖母の命が薨じた。冬十月の乙亥が朔の日に、郭務悰達が出発するにあたって詔勅を遺して宣下した。この日に、中臣の内臣が、僧の智祥を派遣して、贈り物を郭務悰に与えた。戊寅の日に、郭務悰達を饗応した。この月に、高麗の大臣の蓋金が、国で死んだ。兒達に「お前たち兄弟は魚と水のように一緒になって、爵位を争ことがあってはならない。もしそうでなかったら、きっと隣に笑われる」と遺言した。十二月の朔が甲戌の乙酉の日に、郭務悰達が帰った。この月に、淡海の国が「坂田の郡の人で小竹田の史の身が猪の飼い水飲み場の水の中に、急に稻が生えた。身は、刈り取って収穫した。どんどん富んだ。栗太の郡の人で磐城の村主の殷が新妻の床の頭の上端に、一晩で、稻が生えて穂が出てその翌日に穂が垂れて熟した。翌日の夜に、また一つの穗が生えた。新婦が庭に出ると二個の鍵が、上から目の前に落ちてきた。婦人が取り上げて殷に与えた。貧しかった殷は富むことが出来た」と言った。この歳に、對馬の嶋と壹岐の嶋と筑紫の国等に、備えと狼煙の設備を置いた。また筑紫に、大堤を築いて水を貯え、名付けて水城という。】とあり、二月己卯朔は1月30日で1月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

冠位26階の制定天皇は天智がまだ天智天皇即位前紀「皇太子素服稱制」と喪中に代行しているだけで、天智天皇六年「合葬天豐財重日足姫天皇與間人皇女於小市岡上陵」と天皇の埋葬が終わるまでとしても、天智天皇五年「皇太子親徃於佐伯子麻呂連家」と皇太子と呼んでいる。

『日本書紀』では天智天皇は摂政に就任しておらず、過去の摂政は神功皇后と聖徳太子でともに天皇は存在し、天皇が居ないのなら摂政など就任せず天皇に即位すればよく、公布も大皇弟と前天皇の弟が交付し、白雉四年「間人皇后并率皇弟等」、白雉五年「間人皇后并率皇弟公卿等」と孝徳天皇の弟が存在し、大皇弟はこの弟のことで、天智天皇の弟ならただの皇弟で、即位前ならただの太子弟だ。

そして、『藤氏家伝』に「十三年・・・至秋七月・・・天皇崩于朝倉行宮皇太子素服稱制」と斉明天皇に無い年号を記述し、13年は667年に相当してしまい、小市岡上陵への埋葬とも合致せず他の基準の年号とわかり、『藤氏家伝』 「十三年・・・是月・・・傳聞大唐有魏徴高麗有蓋金百濟有善仲新羅有淳・・・十四年皇太子攝政・・・故高麗王贈内公書云惟大臣」と14年の記事と664年の記事の高麗大臣蓋金と合致する。

そして、意味不明な5月記事に「或本大臣薨注五月」と5月に死んだと注釈していて、私は6月に挿入すべき記事と考え、大紫を与えられた大臣は皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿擬大臣位」で『舊事本紀』に「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と本来蘇我臣が連大臣としたことに合致し、乙巳の変が664年6月乙巳の日29日に発生したということで、弟の物部大臣を物部鎌媛大刀自連公が生んだとは記述されず、物部鎌媛大刀自連公の弟が物部大臣で、「大臣之祖母物部弓削大連之妹」と物部守屋が大臣で父親が違う弟が守屋を襲名した可能性が有る。

従って、664年7月に孝徳天皇が急死して、皇弟が大皇弟となり、冠位26階は664年7月以降で665年2月なら丁度、天智天皇四年二月是月「仍以佐平福信之功。授鬼室集斯小錦下」と合致し、大錦中阿雲比邏夫連もこのときに出世したのだろう。

また、ここの嶋皇祖母は、「豐財天皇曰皇祖母尊」の皇祖母ではなく皇極2年の「吉備嶋皇祖母命薨」で、おそらく、嶋大臣の婦人の可能性が高く、豐財皇祖母は、この乙巳の変で豊日を天皇に即位させる。

皇祖母は初代日本国王の天智天皇の母か初代倭国王の宮門を造った2代目馬子の蝦夷大臣の母、嶋大臣の妻以外有り得ず、『舊事本紀』の「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」は、豊浦大臣が豊浦宮の大臣の意味で、蝦夷は2代目の嶋大臣と考えられ、物部鎌足姫大刀自は妻と考えられる。

2020年11月27日金曜日

最終兵器の目 天智天皇2

  『日本書紀』慶長版は

二年春二月乙酉朔丙戌百濟遣達金受等進調新羅人焼燔百濟南畔四州幷取安德等要地於是避城去賊近故勢不能居乃還居於州柔如田來津之所計是月佐平福信上送唐俘續守言等三月遣前將軍上毛野君稚子間人連大蓋中將軍巨勢神前臣譯語三輪君根呂後將軍阿倍引田臣比邏夫大宅臣鎌柄率二萬七千人打新羅夏五月癸丑朔犬上馳告兵事於髙麗而還見糺解於石城糺解仍語福信之罪六月前將軍上毛野君稚子等取新羅沙鼻岐奴江二城百濟王豊璋嫌福信有謀反心以革穿掌而縛時難自決不知所爲乃問諸臣曰福信之罪既如此焉所斬不於是達率德執得曰此惡逆人不合放捨福信即唾於執得曰腐(?)癡奴王勒健兒斬而醢首秋八月壬午朔甲午新羅以百濟王斬已良將謀直入國先取州柔於是百濟知賊所計謂諸將曰今聞大日本國之救將廬原君臣率健兒万餘正當越海而至願諸將軍等應預圖之我欲自往待饗白村戊戌賊將至於州柔繞其王城大唐軍將率戰舩一百七十艘陣烈於白村江戊申日本舩師初至者與大唐舩師合戰日本不利而退大唐堅陣而守巳酉日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰我等爭先彼應自退更率日本亂伍中軍之卒進打大唐軍大唐便自左右夾舩繞戰湏臾之除官軍敗績赴水溺死者衆艫舳不得𢌞旋朴市田來津仰天而誓切齒而嗔殺數十人於焉戰死是時百濟王豊璋與數人乗舩逃去髙麗九月辛亥朔丁巳百濟州柔城始降於唐是時國人相謂之曰州柔降矣事無奈何百濟之名絶于今日丘墓之所豈能復往伹可往於弖禮城會日本軍將等相謀事機所要遂教本在枕服岐城之妻子等令知去國之心辛酉發途於牟互癸亥至互禮甲戌日本舩師及佐平余自信達率木素貴子谷那晉首憶禮福留幷國民等至於互禮城明日發舩始向日本

【二年の春二月の朔が乙酉の丙戌の日に、百済が、達率の金受達を派遣して、年貢を進上した。新羅人は、百済の南の近くの四つの国を焼いた。一緒に安徳達の重要な地点を取った。それで、避城は、賊との距離が近いから、この勢いでは居ることが出来ない。それで州柔にかえっていた。田來津の考えたとおりだ。この月に、佐平の福信が、唐の捕虜の續守言達を送って来た。三月に、前將軍の上毛野の君の稚子と間人の連の大と、中將軍の巨勢の神前の臣の譯語と三輪の君の根麻呂と、後將軍の阿倍の引田の臣の比邏夫と大宅の臣の鎌柄を派遣して、二萬七千人を率いて新羅を攻撃させた。夏五月の癸丑が朔の日に、犬上の君を速駆けで、軍略を高麗に伝えて帰った。糺解が石城に居た。糺解はそれで福信の罪を伝えた。六月に、前將軍の上毛野の君の稚子達が、新羅の沙鼻岐奴江の二城を取った。百済の王の豊璋は、福信が謀反を考えていると疑って、手に穴をあけて革で縛った。その時に自分で決められないのでどうすることもできなかった。それで家臣に「福信の罪はこのようであった。斬るべきかどうか」と問いかけた。そこで、達率の徳執得が「この主君を殺そうとした者を、放免してはならない」と言った。福信はそれで執得に唾を吐きかけて「腐った犬のように小汚いやつだ」と言った。王は、元気な若者を押さえつけて、首を斬って酢漬けにした。秋八月の朔が壬午の甲午の日に新羅は、百済の王が自分から立派な大将を斬ったので、すぐに国に侵入してまず州柔を取ろうと考えた。そこで、百済は賊の計画を知って、諸將に「今々聞いたのだが、大日本国の援軍の将軍の廬原の君の臣が、元気な若者萬人余を率いて、ちょうど海を渡って遣って来た。できたら、諸將軍達は、前もって考えるべきだ。私たちが自ら行って、白村で待って饗応しよう」と言った。戊戌の日に、賊將は、州柔に遣ってきて、その王の城を取り囲んだ。大唐の軍將が、軍船百七十艘を率いて、白村江に並んで陣取った。戊申の日に、日本の軍船団の第一陣と、大唐の軍船団と合戦した。日本が不利で退却した。大唐が陣を堅めて守った。己酉の日に、日本の諸將と、百済の王とが、戦況や天候を考えないで、「私たちが先を争ったら、敵は自ら退却するだろう」と語り合った。さらに日本の隊列を乱した中軍の兵を率いて、進軍して大唐が陣を堅めた軍に打って出た。大唐は、それで左右から船を挟んで取り囲んで戦った。あっという間に、官軍は負けに負けた。海に入っておぼれ死んだ者が多かった。引き返すこともできなかった。朴市の田來津は天を仰いで誓って、歯を食いしばって怒って数十人を殺したが戦死した。この時に、百済の王の豊璋は、数人と船に乗って、高麗に逃げ去った。九月の朔が辛亥の丁巳の日に、百済の州柔の城は、はじめて唐に降伏した。この時に、国中の人が「州柔が降伏した。このことは如何しようも無い。百済の名が、今この日で絶えた。丘墓すら破壊されてもう行くことが出来ない。ただ弖禮の城に行って、日本の將軍達に会って、結果の反省を言い合うだけだった」と語り合った。とうとう本から枕服岐の城に居た妻子達に教えて、国を去る理由を知らせた。辛酉の日に、牟弖に出発した。癸亥の日に、弖禮についた。甲戌の日に、日本の船団と一緒に、佐平の余自信と達率の木素貴子と谷那晉首と憶禮福留、あわせて国の人達が、弖禮の城についた。翌日、船で出発して日本へ向った。】とあり、八月壬午朔は8月2日で7月は小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、『三国史記』の晦が望月の日干支が威德王十九年「秋九月庚子朔日有食之」が朔日なのに三十九年は「秋七月壬申晦日有食之」と晦日が朔と1日ずれ、百済資料による誤差かもしれず、他は標準陰暦と合致する。

『三国史記』義慈王の龍朔二年七月「時福信旣專權與扶餘豊寖相猜忌福信稱疾臥於窟室欲俟豊問疾執殺之豊知之帥親信掩殺福信遣使高句麗·倭國乞師」と662年7月に福信を殺して、この時に日本に援軍を要請しているので、この天智2年の記事は662年の内容だと考えられ、『舊唐書』は「遣使往倭國迎故王子扶余豐立爲王・・・時龍朔元年三月也」と661年に余豊璋が王となったとのべ、東夷の百済に「二年七月・・・扶余豐覺而率其親信掩殺福信」と662年に福信を殺し、斉明天皇七年「夏四月百濟福信遣使上表乞迎其王子糺解」と王を挿げ替えようとしたことを糺解が伝え、それを聞いて福信謀反を知ったようだ。

すなわち、同じ『三国史記』でも百済記は唐と同じで、新羅は『日本書紀』の天智紀と同じで新羅の立ち位置が俀国よりで後に唐と離反したためで、『日本書紀』の資料を使った可能性が有る。

そして、『三国史記』義慈王の龍朔二年七月662年に扶餘隆帥水軍及粮船自熊津江往白江」と扶余豊が白江に出たのを待ち構えて、続けて「以會陸軍同趍周留城遇倭人白江口四戰皆克焚其舟四百艘煙炎灼天海水爲丹王扶餘豊脫身而走不知所在或云奔高句麗獲其寶劒王子扶餘忠勝忠志等帥其衆與倭人並降」と大勝利し、扶余豊が州柔を出ることを察知していたような記述になっていて、新羅や唐は百済の情報が筒抜けであったようで、その情報を流したのが天智天皇だったのだろう。

それで、中軍が壊滅し、前軍は早々と退却してその将軍の大華下阿曇比邏夫連が大錦中阿雲比邏夫連と出世し、同じく將軍の小華下河邊百枝臣も天武天皇六年「小錦上河邊臣百枝爲民部卿」と出世し、天智天皇の仲間で情報流出に関係が有るのかもしれない。

2020年11月25日水曜日

最終兵器の目 天智天皇2

  『日本書紀』慶長版は

元年春正月辛卯朔丁巳賜百濟佐平鬼室福信矢十万俟絲五百斤綿一千斤布一千端韋一千張稻種三千斛三月庚寅朔癸已賜百濟王布三百端是月唐人新羅人伐髙麗々々乞救國家仍遣軍將據䟽留城由是唐人不得略其南堺新羅不獲輸其西壘夏四月鼠産於馬尾釋道顯占曰北國之人將附南國蓋髙麗破而属日本乎夏五月大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率舩師一百七十艘送豊璋等百濟國宣勅以豊璋等使繼其位又予金策於福信而撫其背褒賜爵祿于時豊璋等與福信稽首受勅衆爲流涕六月己未朔丙戌百濟遣達率萬智等進調獻物冬十二月丙戌朔百濟豊璋其臣佐平福信等與狹井連朴市田來津議曰此州柔者遠(?)田畝土地磽确非農桑之地是拒戰之場此焉久處民可飢饉今可遷於避城々々者西北帶以古連旦涇之水東南據深埿巨堰之防繚以周田決渠降雨華實之毛則三韓之上腴焉衣食之源則二儀之隩區矣雖曰地卑豈不遷歟於是朴市田來津獨進而諫曰避城與敵所在之間一夜可行相近茲甚若有不虞其悔難及者矣夫飢者後也亡者先也今敵所以不妄來者州柔設置山險盡爲防禦山峻髙而谿隘守而攻難之故也若處卑地何以固居而不搖動及今日乎遂不聽諫而都避城是歳爲救百濟修繕兵甲備具舩舶儲設軍粮是年也太歳壬戌也

【元年の春正月の朔が辛卯の丁巳の日に、百済の佐平の鬼室福信に、矢十萬隻と絲五百斤と綿千斤と布千端となめし革千張と稲の種籾三千斛を与えた。三月の朔が庚寅の癸巳の日に、百済の王に、布を三百端与えた。この月に唐人と新羅人が高麗を伐った。高麗は、救援を国家に要請した。それで将軍を派遣して、疏留城を拠点にした。これで、唐人は、その南の境界を略奪できず、新羅は、その西の砦を破れなかった。夏四月に、鼠が馬の尾に子を産んだ。僧の道顯が「北の国の人が、南の国にくっつく。きっと高麗が破れて、日本に隷属するのか」と占った。五月に、大將軍の大錦中の阿雲の比邏夫の連達が、軍船百七十艘を率いて、豊璋達を百済国に送って、詔勅を述べて、豊璋達をその位をつけた。また必要な金を福信に与えて、その背中を叩いて、褒めて位と俸給を与えた。その時に、豊璋達と福信とが、土下座して詔勅を受け、みなこれを見て涙を流した。六月の朔が己未の丙戌の日に、百済は、達率の萬智達を派遣して、年貢で進上物を献上した。冬十二月の丙戌が朔の日に、百済の王の豊璋は、その臣の佐平の福信達が、狹井の連と朴市の田來津と相談して「この州柔は、遠く田畝で隔って、地味がやせた土地だ。農業や桑を育てる土地ではない。ここは防戦の場だ。こんなところに長くいたら、人々は飢饉になる。今は避城に遷るべきだ。避城は、西北一帯は古連旦涇の水が水が満ちて、東南は深泥巨水門で守られる。回りを田に囲まれ、決壊するほどの雨が降る。花や実の作物は三韓では鈴なりにできる。衣食の源は、天地が間に入り込んだ場所だ。場所が低い所と言ってどうして遷らないのか」と言った。そこで、朴市の田來津が、一人近寄って「避城と敵の居る所の間は、一晩で行けるとても近い所だ。もし何かあったら、それを悔やんでも悔やみきれない。飢えは後々のことで、亡ぶほうが先だ。今、敵がむやみに遣ってこないのは、州柔が、山の険しいところにあるから、全ての攻撃を守っている。山が急峻で高く谷が狭ければ、守りやすく責めにくい。もし低い土地にいたら、どうして固く守って動かなくてこのようになっただろうか」と諫めた。しかし諫言を聞かないで、避城を都にした。この歳に、百済を救うために、武具を繕い、船舶準備し、兵糧を集めた。この年は太歳が壬戌だった。」とあり、正月辛卯朔と三月庚寅朔は百済がすでに標準陰暦を使用していて、それを暦が違う俀国の日干支で晦の干支したと考えられ、六月己未朔は閏5月1日で閏付きでなかったら標準陰暦と合致する。

そして、大將軍大錦中阿雲比邏夫連は前項で「前將軍大華下阿曇比邏夫連小華下河邊百枝臣等後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣」と冠位が異なっていて664年以降の冠位を記述し、俀国年号の資料で大錦中と地位も上がり、664年の冠位を記述し、ある天皇の元年に昇進させた可能性が有る。

負けた将軍が出世した意味を考えれば、俀国の立ち位置がよくわかり、河邊百枝も677年に「小錦上河邊臣百枝爲民部卿」と出世したことを考えると、この前将軍が俀国や唐に有利なことをしたのだろう。

余豊璋は『三国史記』663年すなわち文武王三年「五月・・・百濟故將福信及浮圖道迎故王子扶餘豊立之圍留鎭郞將劉仁願於熊津城・・・信等釋仁願圍退保任存城既而福信殺道并其衆招還叛亡・・・皆下之扶餘豊脱身走王子忠勝忠志等率其衆降」と663年5月に即位と記述し3月に日本に滞在していても良く符合し、「龍朔元年三月也於是道琛自稱領軍將軍福信自稱霜岑將軍」と661年3月には豊璋が王では無いので将軍位を自称しているようだ。

そして、『三国史記』662年すなわち龍朔二年七月「遣使高句麗·倭國乞師以拒唐兵孫仁師中路迎擊破之」と白村江の戦いに突入するが、倭国に援軍を頼んでいて、良く合致するのは俀国情報で新羅と唐の情報も入って、しかも、唐や新羅の文書の流用なら標準の日干支になるので、俀国自身の情報だった可能性が高い。

そして、『三国史記』に続けて「加林嶮而固攻則傷士守則曠日周留城百濟巢穴 羣聚焉若克之 諸城自下」と『日本書紀』と全く同じ内容が百済義慈王紀に記述されて、『三国史記』の百済の記述が日本の資料を使っている可能性がある。

このように、斉明天皇の660年の記述と『三国史記』の齟齬が倭国朝廷と唐の資料に対して、俀国の資料を『三国史記』が参考にしたからと考えられ、天智天皇の年号も661年を元年とした王もしくは白鳳年号の記述と複数の系列の事績を記述していることがわかる。

2020年11月23日月曜日

最終兵器の目 巻第二十七 天智天皇1

  『日本書紀』慶長版は

天命開別天皇息長足日廣額天皇太子也母曰天豊財重日足姫天皇天豊財重日足姫天皇四年讓位於天萬豊日天皇立天皇爲皇太子天萬豊日天皇後五年十月崩明年皇祖母尊即天皇位七年七月丁巳崩皇太子素服稱制是月蘇將軍與突厥王子(?)苾加力等水陸二路至于髙麗城下皇太子遷居子長津宮稍聽水表之軍政八月遣前將軍大華下阿曇比邏夫連小華下河邊百枝臣等後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣大山上物部連熊大山上守君大石等救於百濟仍送兵杖五穀九月皇太子御長津宮以織冠授於百濟王子豊璋復以多臣蔣敷之妹妻之焉乃遣大山下狹井連檳榔小山下秦造田來津率軍五千餘衞送於本鄕於是豊璋入國之時福信迎來稽首奉國朝政皆悉委焉十二月髙()言惟十二月於髙麗國寒極浿凍故唐軍雲車衝輣鼓鉦吼然髙麗士卒膽勇雄壯故更取唐二壘唯有二塞亦備夜取之計唐兵抱膝而哭鋭鈍力竭而不能拔噬臍之耻非此而何是歳播磨國司岸田臣磨等獻寶劔言於狹夜郡人禾田穴內獲焉又日本救髙麗軍將等泊于百濟加巴利濱而燃火焉灰變爲孔有細響如鳴鏑或曰髙麗百濟終亡之徵乎

天の命の開別の天皇は、息長の足日の廣額天皇の太子だ。母を天の豊財の重の日足姫天皇という。天の豊財の重の日足姫天皇の四年に、天皇位を天の萬の豊日天皇に讓った。天皇を皇太子にした。天の萬の豊日天皇が、後の五年の十月に崩じた。明くる年に、皇祖母の尊が、天皇に即位した。七年の七月の丁巳の日に崩じた。皇太子は、喪中国政をとった。この月に、蘇將軍と突厥の王子契苾加力達と、水陸の二方向から、高麗の城下に侵入した。皇太子は、長津の宮に遷っていた。次第に海に面した宮殿で軍議に就いた。八月に前の將軍の大花下の阿曇の比邏夫の連と小花下の河邊の百枝の臣達及び後の將軍の大花下の阿倍の引田の比邏夫の臣と大山上の物部の連の熊と大山上の守の君の大石達を派遣して、百済を救援した。それで武器と兵糧を送った。九月に、皇太子は、長津の宮にいた。織冠を、百済の王子の豊璋に授けた。また多の臣の蒋敷の妹を娶せた。それで大山下の狹井の連の檳榔と小山下の秦の造の田來津を派遣して、軍兵を五千人余を率いて、本国に警護して送った。ここで、豊璋が国に入る時に、福信が迎えに来て、土下座して国の朝廷の政務を、残らずすべて委ねた。十二月に、高麗が、「この十二月に、高麗国は、極寒で全てが凍り付いた。それで、唐軍は、物見車や先陣を切って門を打ち破る車があって、鼓や鉦がわめくようだった。高麗の兵士は、恐れることなくおおしくさかんで、唐の二つの砦を取ったが、まだ二つの砦が有ったのでさらに夜に取ろうと考えて準備した。唐の兵は膝を抱えて泣いていた。鋭鈍を見るとすでに力尽きて、剣を抜くことができなかった」と言った。このような臍を噛む恥は他に無いだろう。この歳に、播磨の国司の岸田の臣の麻呂達が、宝の剱を献上して、「狹夜の郡の人が粟の田の穴の中から見つけた」と言った。また日本の、高麗を救援する軍將達が、百済の加巴利の浜に停泊して、火を焚いていた。灰が燃え尽きて無くなり孔になって、小さく響いて、鳴鏑のようだった。とある人が、「高麗と百済とうとう滅ぶのか」と言った。】とある。

天智天皇は『古事記』に「娶息長真手王之女比呂比賣命生御子忍坂日子人太子」と彦人の子の息長足日廣額が父親であるが、母親は『古事記』の沼名倉太玉敷に「娶漢王之妹大俣王生御子知奴王」、『日本書紀』の皇極前紀の「茅渟王女也母曰吉備姫王」と漢王と息長氏の血を引き吉備姫王は不明な人物で櫻井王の娘と言われているそうだ。

ところが、『日本書紀』の舒明前紀の「渟中倉太珠敷天皇孫彦人大兄皇子之子也母曰糠手姫皇女」、『古事記』の沼名倉太玉敷の「妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」、『日本書紀』の「采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人生太姫皇女與糠手姫皇女(更名田村皇女)」、『古事記』の「娶伊勢大鹿首之女小熊子郎女生御子布斗比賣命次寶王亦名糠代比賣」と舒明天皇の母も妻も寶媛で、『古事記』を記述した時は田村王と寶王で別人だった人物を糠代比賣と同一人物にしたということだ。

『日本書紀』も敏達天皇に「詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后是生・・・田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」、舒明天皇に「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子又娶吉備國蚊屋釆女生蚊屋皇子」と推古天皇が書いた田眼皇女が舒明紀に記述されずに、しかも、推古天皇が生存中に舒明天皇が即位していると考えられ、天智天皇が『日本書紀』を書いた時には推古天皇が書いた舒明天皇とは別人の舒明天皇だった。

すなわち、 田眼皇女が嫁いだ後、舒明天皇は『古事記』を書いた時と違う人物、田村皇子ではなくまたの名の糠代比賣の皇子が舒明天皇となり、この舒明天皇も2人いて糠代比賣の夫の彦人舒明天皇と寶王を妻に持つ茅渟舒明天皇で、従って、皇極天皇の母は小熊子郎女で斉明天皇七年の「伊勢王薨」は小熊子郎女が薨じた可能性が有る。

そして、この仮説で考えれば、伊勢王が俀国太后で660年天智天皇がまだ12歳で太子になれないので天萬豊日に大王を任せたが伊勢王が薨じたので、661年に天豊財重日足姫が俀国太后を襲名し、664年寶太后4年、天萬豊日大王5年、天智天皇ががまだ未成年の為天萬豊日を天皇に即位させたと考えることが出来る。

そして、『藤氏家伝』に「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子」と天萬豊日が急逝したため皇祖母天豊財重日足姫が再して天智が摂政に就任するが、それまでの「天皇崩于朝倉行宮皇太子素服稱制」と喪中は天智が政務をとった。

さらに、彦人も舒明天皇の一人で、田村舒明天皇の後を継いでいるのだから、彦人の妃の「豐御食炊屋姫尊爲皇后是生二男五女・・・其三曰小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女が宙に浮いてしまうが、小墾田皇女は豊御食炊屋姫の娘なのだから額田王女と言え、天武天皇二年「鏡王女額田姫王」、天武天皇十二年「鏡姫王薨」、『粟原寺鑪盤銘』に「爾故比賣朝臣額田」と額田を襲名した人物がいて、鏡姫王が薨去した翌年朱雀に改元され白鳳は天皇が崩じても改元されることが無く別に建元する人物が存在したことを意味し、この額田の宮の姫たちがその人物だった可能性が高く、『粟原寺鑪盤銘』に出てくる「比賣朝臣額田」は元明天皇の可能性が高い。

すなわち、『古事記』の推古天皇は鏡姫王まで、天皇としての権威の建元する力を持っていて、その後、元明・聖武天皇まで舒明天皇の家系に権力を奪われたが、また奪取したことが『古事記』の前提にあると考えられる。

そして、『三国史記』661年寶藏王二十年に「蘇定方 爲平壤道行軍摠管 與蕭嗣業及諸胡兵凡三十五軍 水陸分道並進」と 蘇定方と諸胡兵の突厥が並んで進撃して、662年寶藏王二十一年「春正月左驍衛將軍白州刺史沃沮道摠管孝泰與蓋蘇文戰於蛇水之上擧軍沒與其子十三人皆戰死蘇定方圍平壤會大雪解而退凡前後之行皆無大功而退」と「髙麗國寒極」と同じ時期のことだ。


2020年11月20日金曜日

最終兵器の目 斉明天皇8

  『日本書紀』慶長版は

七年春正月丁酉朔壬寅御舩西征始就于海路甲辰御舩到于大伯海時大田姫皇女産女焉仍名是女曰大伯皇女庚戌御舩泊于伊豫熟田津石湯行宮三月丙申朔庚申御舩還至于娜大津居于磐瀬行宮天皇改此名曰長津夏四月百濟福信遣使上表乞迎其王子糺解五月乙未朔癸卯天皇遷居于朝倉橘廣庭宮是時斮除朝倉社木而作此宮之故神忿壤殿亦見中由是大倉人及諸近侍病死者衆丁巳躭羅始遣王子阿波伎等貢獻六月伊勢王薨秋七月甲午朔丁已天皇崩于朝倉宮八月甲子朔皇太子奉徙天皇喪還至磐瀬宮是夕於朝倉山上有鬼著大笠臨視喪儀衆皆嗟恠冬十月癸亥朔己巳天皇之喪歸就于海於是皇太子泊於一所哀慕天皇乃口號曰枳瀰我梅能姑裒之枳舸羅伱婆底底威底舸矩野姑悲武謀枳瀰我梅弘報梨乙酉天皇之喪還泊于難波十一月壬辰朔戊戌以天皇喪殯于飛鳥川原自此發哀至于九日

【七年の春正月の朔が丁酉の壬寅の日に、船で西に討伐に向かって、はじめて海路に就いた。甲辰の日に、船が大伯の海に到着した。その時に、大田姫の皇女が女児を産んだ。それでこの女子を大伯の皇女と名付けた。庚戌の日に、船が、伊豫の熟田津の石湯の行宮に停泊した。三月の朔が丙申の庚申の日に、船が、元の海路に戻って娜の大津に到着した。磐瀬の行宮に居た。天皇は、名を長津と改めた。夏四月に、百済の福信が使者を派遣して文書で申し出て、その王子の糺解を迎えたいと願った。五月の朔が乙未の癸卯の日に、天皇が、朝倉の橘の廣庭の宮に遷っていた。その時に、朝倉の社の木を断ち切り除いて、この宮を造ったので、神が怒って御殿を壊した。また、宮の中に鬼火が現れた。これで、警護の者やそば近くに仕える者達が多数病死した。丁巳の日に、耽羅が、始めて王子の阿波伎達を派遣して貢物を献上した。六月に、伊勢の王が薨じた。秋七月の朔が甲午の丁巳の日に、天皇は、朝倉の宮で崩じた。八月の甲子が朔の日に、皇太子は、天皇の弔いを行って、磐瀬の宮に帰って来た。この夕方に、朝倉の山の上に、鬼がいて、大きな笠を被って、葬儀を見ていた。人々が皆嘆き怪しんだ。冬十月の朔が癸亥の己巳の日に、天皇の遺骸を海路で運んだ。そこで、皇太子は、ある所に停泊して、天皇の死を悲しみ慕って、歌を口ずさんだ()。乙酉の日に、天皇の遺骸が、難波に帰って停泊した。十一月の朔が壬辰の戊戌の日に、天皇の遺骸を、飛鳥の川原に殯殿を造って安置した。それで九日間死者を弔った。】とあり、八月甲子朔は8月2日で7月は小の月で、合致するのが697年か635年で、俀国暦の可能性が高く、それ以外は標準陰暦と合致する。

皇極・斉明天皇は『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳

次丙午年召於大王天皇與太子而誓願」と586年用明天皇元年では発病前で矛盾し、仏像の様式が飛鳥佛ではなく白鳳佛なので、646年に池邉天皇の為に仏像を造らせようとしたが、この造らせた人物はこの時天皇が池邉天皇なのだから後に天皇になる大王と池邉天皇の皇太子が造らせたと解釈できる。

この大王天皇は皇太子の夫人か天皇の皇后で、銘文を記述した時天皇だったことを意味しているので、この皇太子も聖王とは別人で、続いて「然當時崩賜造不堪」と池邉天皇は仏像が完成する前に崩じ、「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と667年に仏像作成を命令した時大王だった小治田大宮治天下天皇が皇太子の聖王、後の天智天皇と共に奉納したと記述されている。

そして『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時請願之奉弥勒御像也」と666年に皇后ではなく中宮天皇が存在し、『日本書紀』では天智摂政と天皇では無く別に天皇が存在する。

さらに、『薬師寺東塔の擦管』に「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」と中宮に居た皇太后と思われる人物が崩じたので、「大上天皇奉遵」と持統天皇は生きて伽藍を造っているので、天皇が680年11月に伽藍を造るように命じ、『日本書紀』に天武天皇九年十一月「高麗人十九人返于本土是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」とこの680年11月に「後岡本天皇之喪使」が残っていた。

ところが、この天皇の死は朝倉社の罰が当たったと記述し、葬儀を鬼が見ていたと噂し、死を怪しんで、中宮天皇に対しては仏像を造り、薬師寺伽藍を造って、口ずさんだ恋人に対する歌と同類で、ここには2人の天皇の死が記述されている。

天萬豊日天皇は「天豐財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄・・・輕皇子不得固辭升壇即祚・・・奉號於豐財天皇曰皇祖母尊以中大兄爲皇太子」と乙巳の変の後即位し、白雉五年十月に「天皇崩于正寢」と崩ずるが、『藤氏家伝』には「白鳳五年・・・俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子」と白雉を白鳳に書き換え、しかも、俄にすなわち皇位に就いてすぐ崩じたと記述している。

そして、その白鳳5年に「其大綿冠内臣中臣連功侔建内宿禰位未允民之望超拝紫冠増封八千戸」、そして、高祖母が再度天皇に復位して「故遷大紫冠進爵爲公増封五千戸前後并凡一萬五千戸」と大綿冠の鎌足が紫冠そして加増が実施される前に増封されているが、大綿冠位は649年からは存在せず、大綿冠が再度採用されるのは644年、白鳳5年記事は664年以降の記事で、天萬豊日天皇は644年以降に崩じている。

すなわち、『藤氏家伝』は『日本書紀』白雉五年「以紫冠授中臣鎌足連増封若干戸」と白雉5と記述しているが鎌足が大綿冠から紫冠を授与されて矛盾が有るので自家の資料の年号を記述したと考えられ大紫冠を授与されたのが665年だったことを示す。

すなわち、皇祖母小治田・中宮天皇は664年に斉明前紀「改元四年六月讓位於天萬豐日天皇稱天豐財重日足姫天皇曰皇祖母尊天萬豐日天皇後五年十月崩」と、この元号でない皇極4年と意味不明な改元は白鳳で白鳳4年6月に即位して、天豊財重日が皇祖母となって、乙巳の変が664年6月に起こったことを示し、後の5年の意味を私は俀国王での後の5年と理解した。

2020年11月18日水曜日

最終兵器の目 斉明天皇7

 『日本書紀』慶長版は

九月己亥朔癸卯百濟遣達率沙弥覺從等來奏曰今年七月新羅恃力作勢不親於隣引搆唐人傾覆百濟君臣揔俘略無噍類於是西部恩率鬼室福信赫然發憤據任射岐山達率餘自進據中部久麻怒利城各營一所誘聚散卒兵盡前役故以棓戰新羅軍破百濟奪其兵既而濟兵翻鋭唐不敢入福信等遂鳩集同國共保王城國人尊曰佐平福信佐平自進唯福信起神武之權興既亡之國冬十月百濟佐平鬼室福信遣佐平貴智等來獻唐俘一百餘人今美濃國不破片縣二郡唐人等也又乞師請救幷乞王子余豊璋曰唐人率我蝥賊來蕩搖我疆埸覆我社稷俘我君臣而百濟國遙頼天皇(?)念更鳩集以成邦方今謹願迎百濟國遣侍天朝王子豊璋將爲國主云云詔曰乞師請救聞之古昔扶危繼絶著自恒典百濟國窮來歸我以本邦喪亂靡依靡告枕戈嘗膽必存拯救遠來表啓志有難奪可分命將軍百道倶前雲會雷動倶集沙㖨翦其黥鯢紓彼倒懸冝有司具爲與之以禮發遣云云十二月丁卯朔庚寅天皇幸于難波宮天皇方隨福信所乞之意思幸筑紫將遣救軍而初幸斯備諸軍器是歳欲爲百濟將伐新羅乃勅駿河國造舩已訖挽至績麻郊之時其舩夜中無故艫舳相反衆知終敗科野國言蠅群向西飛踰巨坂大十圍許髙至蒼天或知救軍敗績之恠有童謠曰摩比邏矩都能倶例豆例於社幣陀乎邏賦倶能理歌理(?)美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理(?)

【九月の朔が己亥の癸卯の日に、百済は、達率と沙彌の覺從達を派遣して来て、「今年の七月に、新羅が、戦力の勢いで隣国と和親しないで、唐人を引き込んで、百済を破滅させた。君主も臣下もみな捕虜にしてほとんど歯向かう者がいない」と奏上した。そこで、西部の恩率の鬼室福信が、はげしく怒り意気込んで、任射岐の山にたてこもった。達率の餘自進は、中部の久麻の怒利の城にたてこもった。各々一ヶ所に陣営を作り、散らばった兵士を誘って集めた。武器は、前の闘いで尽きたので、棍棒で戦ったが新羅の軍を敗り、百済は、その武器を奪った。もう百済の兵力はよみがえって俊英だ。唐あえて入ってこない。福信達はとうとう同国人を集めた大軍にして、一緒に王城を守った。国の佐平の福信は、佐平の中で一人の力で進軍した。神のように勇敢な計略で既に滅んだ国を再興したのは福信だけだ」と貴んだ。冬十月に、百済の佐平の鬼室福信は、佐平の貴智達を派遣して、遣って来て唐の捕虜を百人余献上した。今、美濃の国の不破と片の縣の二郡の唐人達だ。また、救援軍の派遣を願い求めた。併せて王子の余豊璋を求めて「唐人は自国の根切り虫のような賊を連れて来て、私の国境をうろついて、私の国家を転覆させ、私の君主や家臣を捕虜にした。そして百済の国は、昔から天皇が心にかけて守ってもらえることを頼りに、より多くの民を集めて邦を造った。今こそ、謹しんでお願いするのは、百済の国が、天皇の朝廷に派遣して仕えている王子の豊璋を迎えて、国の主としたい」と云云。「援軍の願いは前に聞いた。国が絶えようとするのを助けるのは、不変のきまりに書かれている。百済の国は、にっちもさっちもいかなくなった。私は百済の人々が国の弔い合戦で頼る所も相談するところも無く矛を枕にして苦労しているので、遠くからきている使者に必ず援助の手を差し伸べようと表明した。奪い難い志を持って将軍達それぞれに命じて多くの路を共に進軍するべきだ。雲のように群れ雷のように行動して、一緒に沙㖨に集れば、その大悪人を滅ぼして、そのさかさまにつるされたような苦しみを和らげよう。役人が、詳しく命令を与えて、儀礼通りに出発して派遣させなさい」と詔勅して、云云。十二月の朔が丁卯の庚寅の日に、天皇は難波の宮に行幸した。天皇は、福信の願い通りに、筑紫に行幸して、援軍を派遣しようと思って、まずここに行幸して、諸々の兵器を準備した。この歳に、百済の為に、新羅を討伐しようと、駿河の国に詔勅して船を造らせた。造り終わって、續麻郊に引いて来た時に、その船が、夜中に理由も無く、横転して沈んだ。人々はきっと敗退すると知った。科野の国は「蝿が群って西に向って、巨坂を飛び過ぎて行った。大きさは十抱え位だった。高さは蒼い天に届いた」と言った。あるいは援軍が大敗して全てを失う異変と思った。子供たちが歌った()】とあり、十二月丁卯朔は660年ではなく659年12月2日で九州・朝鮮の朔日、他は標準陰暦と合致する。

『三国史記』義慈王十九年「夏四月太子宮雌雞與小雀交遣將侵攻新羅獨山桐岑二城」、武烈王六年「夏四月百濟頻犯境王將伐之遣使入唐乞師」と659年はまだ百済が優勢で、唐軍が新羅に援軍を出すと決定したのは武烈王六年「冬十月・・・昨到大唐 認得皇帝命大將軍蘇定方等 領兵以來年五月來伐百濟」と669年10月で659年12月の記事は俀国記事の新羅援軍の記事を流用した記事と思われ、百済の為の船を転覆させたのは俀国なのだろう。

余豊璋は『三国史記』文武王三年「五月・・・百濟故將福信及浮圖道迎故王子扶餘豊立之圍留鎭郞將劉仁願於熊津城・・・信等釋仁願圍退保任存城既而福信殺道并其衆招還叛亡・・・皆下之扶餘豊脱身走王子忠勝忠志等率其衆降」と663年5月に即位と記述し、「龍朔元年三月也 於是道琛自稱領軍將軍福信自稱霜岑將軍」と661年3月には豊璋が王では無いので将軍位を自称している。

そして、龍朔二年七月「時福信旣專權 與扶餘豊寖相猜忌福信稱疾臥於窟室欲俟豊問疾執殺之豊知之帥親信掩殺福信遣使高句麗·倭國乞師」と662年7月に福信を殺して、この時に日本に援軍を要請しているので、この記事は662年の内容だと考えられ、次項の「糺解」も豊璋の可能性を否定できず、入鹿大臣への即位年数が6年目と言うことかもしれない。

しかし、『舊唐書』は「遣使往倭國迎故王子扶余豐立爲王・・・時龍朔元年三月也」と661年に余豊璋が王となったとのべ、東夷の百済に「二年七月・・・扶余豐覺而率其親信掩殺福信」と662年に福信を殺し、660年12月に日本から送り出せば『舊唐書』に合致し、『日本書紀』は2つの資料を持ち、ともに記述して、『日本書紀』をもとに『三国史記』を記述した可能性が有る。


2020年11月16日月曜日

最終兵器の目 斉明天皇6

  『日本書紀』慶長版は

六年春正月壬寅朔髙麗使人乙相賀取文等一百餘泊于筑紫三月遣阿倍臣率舩師二百艘伐肅愼國阿倍臣以陸奧蝦夷令乗己舩到大河側於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔向河而營々中二人進而急叫曰肅愼舩師多來將殺我等之故願欲濟河而仕官矣阿倍臣遣舩喚至兩箇蝦夷問賊隱所與其舩數兩箇蝦夷便指隱所曰舩二十餘艘即遣使喚而不肯來阿倍臣乃積綵帛兵鐵等於海畔而令貪嗜肅愼乃陳舩師繋羽於木舉而爲旗齊棹近來停於淺處從一舩裏出二老翁𢌞行熟視所積綵帛等物便換著單(?)各提布一端乗舩還去俄而老翁更來脱置換衫幷置提布乗舩而退阿倍臣遣數舩使喚不肯來復於弊賂弁嶋食頃乞和遂不肯聽據己柵戰于時能登臣馬身龍爲敵被殺猶戰未倦之間賊破殺巳妻子夏五月辛丑朔戊申髙麗使人乙相賀取文等到難波館是月有司奉勅造一百髙座一百衲袈裟設仁王般若之會又皇太子初造漏剋使民知時又阿倍引田臣獻夷五十餘又於石上池邊作湏弥山髙如廟塔以饗肅愼四十七人又舉國百姓無故持兵往還於道秋七月庚子朔乙卯髙麗使人乙相賀取文等罷歸又覩(?)羅人乾豆波斯達阿欲歸本土求請送使曰願後朝於大國所以留妻爲表乃與數十人入于西海之路

【六年の春正月の壬寅が朔の日に、高麗の使者の乙相の賀取文達百余人が、筑紫に停泊した。三月に、阿倍の臣を派遣して、軍船二百艘を率いて、肅愼の国を伐たせた。阿倍の臣は、陸奧の蝦夷を、自分の船に乗せて、大河の辺に着いた。そこに、渡嶋の蝦夷千余が、海辺に集まって、河に向って陣営を置いた。陣営の中の二人が、進み出て急に「肅愼の軍船がたくさん遣って来て、私達を殺そうとしたから、お願いです、河を渡って召しかかえられたい」と叫んだ。阿倍の臣船を送って、ふたつの蝦夷を呼び寄せて、賊の隱れている所とその船の数を問いただした。ふたつの蝦夷は、それで隱れている所を指さして、「船が二十艘余だ」と言った。それで使者を派遣して召喚した。しかし来なかった。阿倍の臣は、それで美しいいろどりの絹織物と武器と鉄板を海の畔に積んで、関心を引いた。肅愼は、それで船団を並べて、羽を木に繫げて、掲げて旗とした。棹を大事に抱えて近づいて来て、浅瀬に停泊した。その船の中から、二人の老人が出てきて、積んである美しいいろどりの絹織物等をぐるっと一回りして、じっと見つめた。それで一重の肌着と着替えて、それぞれの布一端を手に持って、船に乗って帰った。少し経って老人がまた遣って来て、着替えた肌着を脱いで置き、一緒に手に持った布を置いて、船に乗って帰った。阿倍の臣は数船を派遣して召喚した。来ないで、弊賂辨の嶋に帰った。直ぐ後で和睦を請い求めたが許さなかった。自分の砦で戦った時に、能登の臣の馬身龍が、敵の為に殺された。それでも戦って疲れもしないうちに賊が負けて自分の妻子も殺した。夏五月の朔が辛丑の戊申の日に、高麗の使者の乙相の賀取文達が、難波の館に着いた。この月に、役人が、詔勅どおり、百の高くした座席と百の継ぎ接ぎの法衣を造って、仁王般若の集まりを設営した。また、皇太子が、はじめて水時計を造った。人々に時間を知せた。また、阿倍の引田の臣が夷を五十人余を献上した。また、石上の池の辺に、須彌の山を作った。高さは仏塔の高さ位いだった。それで肅愼人四十七人を饗応した。また、国を挙げて百姓が、理由も無く武器を持って道を往来する。秋七月の朔が庚子の乙卯の日に、高麗の使者の乙相の賀取文達が、帰った。また、覩貨羅人の乾豆波斯達阿が、国にに帰ろうと思って、送使を求めて「出来ましたら後で大国に朝貢します。だから、妻をここに置いてその印とします」と願った。それで数十人と、西海の海路をとった。】とあり、正月壬寅朔と七月庚子朔は標準陰暦と合致するが、五月辛丑朔は612年5月1日、669年5月2日で、『三国史記』に668年寶臧王二十七年「十二月・・・泉男建流黔州分五部百七十六城六十九萬餘戸爲九都督府四十二州百縣置安東都護府於平壤以統之」と668年12月に高句麗が滅び、「二年己巳二月王之庶子安勝率四千餘戸投新羅・・・夏四月劒牟岑欲興復國家叛唐立王外孫安舜羅紀作勝爲主」と669年に新羅を頼っていて、当然日本にも頼ってきたことが十分考えられ、新羅が援助してくれるので、7月に帰って行ったと考えられ、669年7月2日も庚子で、1月1日の前12月30日が壬寅で12月が小の月なら1月1日で畿内干支なら合致する。

そして、皇太子の記述が斉明天皇四年の「於是皇太子親問有間皇子曰」以来で、斉明天皇の項では斉明3年まで皇太子の記述が無く、次に出現するのは斉明天皇七年「皇太子奉徙天皇喪還至磐瀬宮」で記述があまりにも少ないのも、斉明天皇の記述自体が天智天皇の内容の可能性が高い事を意味する。

そうすると、この漏剋記事も再考が必要で、この遺跡と考えられる水落遺跡が飛鳥寺近くに存在し、飛鳥寺は斉明天皇三年「作須彌山像於飛鳥寺西」と657年から出現するが、その次は672年の天武天皇元年「我詐稱高市皇子率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營」でその後は何度も出現し、天智天皇一〇年「置漏尅於新臺始打候時動鍾鼓始用漏尅」と671年に漏尅を置いている。

これは奇妙で、須彌山像を作って、斉明天皇五年「甘梼丘東之川上造須彌山而饗」に須彌山を造って饗応の施設にしておきながら、20年放置して、天武天皇六年「饗多禰嶋人等於飛鳥寺西槻下」まで使わないなど考えられず、漏剋記事は670年代の別の皇太子の可能性が高い。

そして、ここの覩貨羅も『新唐書』列傳第一百四十六「吐火羅或曰土豁羅」の西域の大夏の吐火羅ではなく、トカラ列島の覩貨羅で海に面しない大夏が日本に人質を置いたり朝貢するはずが無く、また、大国と記述しているのだから、隠岐に流れ着いた、隠岐の説話の可能性が有る。

2020年11月13日金曜日

最終兵器の目 斉明天皇5

  『日本書紀』慶長版は

五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯三月戊寅朔天皇幸吉野而肆宴焉庚辰天皇幸近江之平浦丁亥吐火羅人共妻舍衞婦人來甲午甘檮丘東之川上造湏弥山而饗陸奧與越蝦夷是月遣阿倍臣率舩師一百八十艘討蝦夷國阿倍臣簡集飽田渟代二郡蝦夷二百四十一人其虜三十一人津輕郡蝦夷一百十二人其虜四人膽振鉏蝦夷二十人於一所而大饗賜祿即以舩一隻與五色綵帛祭彼地神至肉入籠時問菟蝦夷膽鹿嶋菟穗名二人進曰可以後方羊蹄爲政所焉隨膽鹿嶋等語遂置郡領而歸授道奧與越國司位各二階郡領與主政各一階秋七月朔丙子朔戊寅遣小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥使於唐國仍以陸道奧蝦夷男女二人示唐天子庚寅詔群臣於京內諸寺勸講盂蘭盆經使報七世父母是歳命出雲國造修嚴神之宮狐嚙斷於友郡役丁所執葛末而去又狗嚙置死人手臂於言屋社又髙麗使人持羆皮一枚稱其價曰綿六十斤市司咲而避去髙麗畫師麻呂設同姓賓於私家日借官羆皮七十挍而爲賓席客羞恠而退

【五年の春正月の朔が己卯の辛巳の日に、天皇は紀の温泉から帰った。三月の戊寅が朔の日に、天皇は、吉野に行幸して、大宴会を開いた。庚辰の日に、天皇は近江の平浦に行幸した。丁亥の日に、吐火羅の人が、妻の舍衞国の婦人と共にやって来た。甲午の日に、甘梼の丘の東の川上に、須彌の山を造って、陸奧と越との蝦夷を饗応した。この月に、阿倍の臣を派遣して、軍船百八十艘を率いて、蝦夷の国を討伐した。阿倍の臣は、飽と渟代の、二郡の蝦夷を二百四十一人、その捕虜を三十一人、津輕の郡の蝦夷百十二人、その捕虜四人、膽振鉏の蝦夷二十人を一所に善し悪しを考えて集め、大宴会を開いて俸給を与えた。それで船一隻と、五色の模様の絹を、その地の神に祭った。肉入篭に着いた時に、問菟の蝦夷の膽鹿嶋と菟穗名、の二人が進み出て、「後方羊蹄で、統治する」と言った。膽鹿嶋達の言葉通り、郡領を置いて帰った。道奧と越との5国司に位を各々二階、郡領と三等官に各々一階を授けた。秋七月の朔が丙子の戊寅の日に、小錦下の坂合部の連の石布と大仙下の津守の連の吉祥を唐国に使者として派遣した。それで道奧の蝦夷の男女二人を、唐の天子に紹介した。庚寅の日に、役人に詔勅して、京内の諸寺に、盂蘭盆経の法会を行わせて、七世の父母に報いた。この歳に、出雲の国造に命じて、神の宮の遷宮を行った。狐が、於友の郡の夫役の青年が持つ葛の先を食い切って去って行った。また、狗が、死人の腕を言屋の社に食いちぎって置いた。又、高麗の使者が、羆の皮一枚を持って、その価値を、「綿を六十斤の値だ」と言った。市の役人が、咲い去っていった。高麗の絵師の子麻呂が、同族の賓客を私邸で御馳走した日に、役所の羆皮を七十枚借りて、賓客の敷物にした。客達は、恥て戸惑いながら帰った。】とあり、標準陰暦と合致する。

この年の出来事は小錦下の坂合部連や大仙下津守連と664年の天智天皇三年「其冠有廿六階・・・大錦下小錦上小錦中小錦下・・・小山上小山中小山下・・・是爲廿六階焉改前華曰錦・・・加換前初位一階爲大建小建二階」と649年の大化五年「制冠十九階・・・七曰大華上八曰大華下九曰小華上十曰小華下十一曰大山上十二曰大山下十三曰小山上十四曰小山下・・・十九曰立身」と小錦下の冠位は664年以降のことである。

この入唐は白雉五年二月「遣大唐押使大錦上高向史玄理大使小錦下河邊臣麻呂・・・取新羅道泊于莱州遂到于京奉覲天子」と同じ年の記事で665年2月に唐の 高宗と天皇が謁見した遣大唐で、先遣の「小錦下坂合部連石布」が百済から黄海を渡ったが難破して会稽湾に漂着してから都に行き、天皇は高向史玄理達と新羅回りで渡ったようで、天皇は新羅と友好関係が有る。

それは『舊唐書』「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會高宗甚悅擢拜」、高宗 麟德二年「春正月壬午幸東都丁酉幸合璧宮戊子慮雍洛二州及諸司囚甲子以發向泰山停選三月甲寅」と 高宗が1月末に泰山にいて、ここで「四國酋長赴會」を行ったということだ。

この会談前に先遣隊が遣って来たので、日本の情報を得たのは良いが、「伊吉連博徳書曰・・・國家來年必有海東之政」と唐が日本を占領しようとしていることを知られたため、先遣隊を幽閉したのであり、天智天皇六年「送大山下境部連石積等於筑紫都督府」と唐が日本を統治しようと都督府を置いたのである。

すなわち、この斉明5年は白鳳5年で、白鳳年号に改元した王の年号で、皇極天皇は再婚して舒明天皇の皇后になっているのだから、白雉白鳳の改元は皇極天皇が行った可能性は否定できないが、『薬師寺東塔の擦管』に「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」、天武天皇九年十一月「是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」と薬師寺東塔を中宮天皇を弔うために建立し、なぜだか『日本書紀』どおりなら20年も後まで弔使が残っているはずが無く、680年に崩じているようだ。

従って、白鳳改元の王は、白鳳が683年まで続き、天豊財重日足姫の可能性は低い。

2020年11月11日水曜日

最終兵器の目 斉明天皇4

  『日本書紀』慶長版は

十一月庚辰朔壬午留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰天皇所治政事有三失矣大起倉庫積聚民財一也長穿渠水損費公糧二也於舟載石運積爲丘三也有間皇子乃知赤兄之善己而欣然報荅之曰吾年始可用兵時矣甲申有間皇子向赤兄家登樓而謀夾膝自斷於是知相之不祥倶盟而止皇子歸而宿之是夜半赤兄遣物部朴井連鮪率造宮丁圍有間皇子於市經家便遣驛使奏天皇所戊子捉有間皇子與守君大石坂部連藥塩屋連鯯魚送紀温湯舍人新田部未(?)麻呂從焉於是皇太子親問有間皇子曰何故謀反荅曰天與赤兄知吾全不解庚寅遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂是日斬塩屋連鯯魚舍人新田部連未麻呂於藤白坂鹽屋連鯯魚臨誅言願令右手作國寶器流守君大石於上毛野國坂合部藥於尾張國是歳越國守阿部引田臣比羅夫討肅愼獻生羆二羆皮七十(?)沙門智踰造指南車出雲國言於北海濱魚死而積厚三尺許其大如鮐雀彖針鱗々長數寸俗曰雀入於海化而爲魚名曰雀魚又西海使小花下阿曇連頰垂自百濟還言百濟伐新羅還時馬自行道於寺金堂晝夜勿息唯食草時止

【十一月の朔が庚辰の壬午の日に、留守を任された蘇我の赤兄の臣が、有間の皇子に「天皇が治める政事には、三つの失敗が有る。大きな倉庫を建てて、人民の財産を積み上げたことが一つ。長い用水路を掘って、国家の食糧を浪費したことが二つ。舟に石を載せて、運び積み上げて丘にしたことが、三つ」と語った。有間の皇子は、それで赤兄が自分に好感を持っていることを知り、よろこんで「私は年が明けたら挙兵するときだと思っている」と答えた。甲申の日に、有間皇子は、赤兄の家に行って、たかどのに登って計略をたてていたら、膝で挟まれたところから自然に折れた。それで、悪い験と思って、みな計画を取りやめて、皇子は宿に帰った。この夜半に、赤兄が、物部の朴井の連の鮪を派遣して、宮を造る働き盛りの者を率いて、有間の皇子市經の邸宅を取り囲んだ。それで急使を派遣して、天皇に奏上した。戊子の日に、有間の皇子と、守の君の大石と坂合部の連の藥と鹽屋の連の鯯魚とを捕えて、紀の温泉に送った。護衛の新田部の米麻呂が従者だ。そこで、皇太子は、自ら有間の皇子に「どうして謀反しようとした」と問いかけた。「天と赤兄がしている。私には全くわからない」と答えた。庚寅の日に、丹比の小澤の連の國襲を派遣して、有間の皇子を藤白の坂で絞殺した。この日に、鹽屋の連の鯯魚と護衛の新田部の連の米麻呂を藤白の坂で斬った。鹽屋の連の鯯魚は、誅殺されようとした時「お願いですからこの右手で国の宝となる物を創らせてほしい」と言った。守の君の大石を上毛野の国に、坂合部の藥を尾張国に流罪した。この歳に、越の国守の阿倍の引田の臣の比羅夫が、肅愼を討伐して、生きた羆二頭と羆の皮を七十枚を献上した。学問僧の智踰が、南を指さす人形を載せた車を造った。出雲の国が「北の海の浜に、魚の屍骸が打ち寄せられ、厚さが三尺ほどになった。その大きさはふぐで雀の嘴のような、針の鱗がある。鱗の長さ数寸で、みなは、『雀が海に入って、魚に化わった。雀魚と名付けたという』と言った」と言った。また、西海使の小花下の阿曇の連の頬垂は、百済から帰って、「百済、新羅を伐って帰ったが、その時に、馬が自分から寺の金堂を昼夜を問わず巡り歩き続けた。ただし草を食べる時だけ止めた」と言った。】とあり、十一月庚辰朔は11月2日で10月は小の月で大の月なら標準陰暦と合致するが、この干支が合致するのは632年と689年である。

しかし、持統十一年「八月乙丑朔天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」と文武天皇に皇位を譲位した日付も8月2日と7月が小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、違う年の記事も考えられるが『続日本紀』に文武元年「八月甲子朔受禪即位」と標準陰暦と合致する日付が記述されていて、朔日の基準が違う資料があることを裏付けている。

その傾向が継体天皇以降多数出現し、『三国史記』は朔日を新羅は200年まで、百済は300年まで記述しないで、晦日を記述し、すなわち、月の見え始めを朔日とする資料が存在したことを意味し、倭国・俀国と畿内の差が考えられ、百済は朔日に日食を記述すると畿内と日干支が一致し、畿内政権基準になるが、新羅は日干支を書かなくなり8世紀になると標準陰暦と合致する。

俀国より西の百済や新羅の日干支を『三国史記』から抽出すると百済は温祚王六年「秋七月辛未晦」と紀元前13年は辛未が標準陰暦で8月朔日、多婁王四十六年「夏五月戊午晦」と西暦73年は標準陰暦で6月朔日戊午から始まり、晦日9件中1件、蓋婁王二十八年「春正月丙申晦」は癸亥、2月朔日が甲子で近辺に丙申が無くて評価できず、肖古王五年「春三月丙寅晦」が170年3月30日晦日丙寅で前月大の月、威德王三十九年「秋七月壬申晦」が592年7月29日晦日壬申で暦法が変わった可能性が有る。

但し、中国は『後漢書』・『三国志』から畿内と同じ日干支で『漢書』宣帝本始二年夏五月「建太學修郊祀定正朔」と朔日の指定方法が変わるまでは標準陰暦と全く合致しないが、それ以降は標準陰暦と合致し、中には合致しない日干支が有り、『晋書』には太元四年十二月己酉朔が間違いで「十二月乙卯朔天文志中作閏月己酉朔」と注釈を付記していて、とても計算で記述したとは思えない。

新羅は晦日記事が194年まで10件と787年以降の朔日記事が11件と暦法が全く変わっていて、晦日記事は赫居世居西干二十四年「夏六月壬申晦」が紀元前34年6月29日晦日壬申で標準陰暦と同じ、南解次次雄三年「秋七月戊子晦」は6年7月29日乙卯で8月朔日丙辰と全く別の資料で、他は赫居世居西干三十年「夏四月己亥晦」が紀元前28年5月朔日己亥のように朔日が畿内と異なり、朔日が2日を表しているのは朝鮮と同じ経度の国の資料だと解る。

また、有間皇子の乱は天智天皇八年「以蘇我赤兄臣拜筑紫率」と669年に有間皇子を陥れた恩賞で筑紫の率に抜擢し、天智天皇八年「命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔」と大錦上位を貰っていて、天智天皇一〇年「以大友皇子拜太政大臣以蘇我赤兄臣爲左大臣」と671年に左大臣となり、「蘇我赤兄大臣女曰常陸娘生山邊皇女」は本来この時の記事と考えられる。

有間の皇子が反乱を起こしたのは667年のことで、「狂心渠」は664年から667年の間に造ったと思われ667年天智天皇六年「送大山下境部連石積等於筑紫都督府」と筑紫都督府の為の工事で、天智天皇三年「於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置防與烽又於筑紫築大堤貯水名曰水城」、天智天皇四年「筑紫國築大野及椽二城」の工事だろう。