2020年11月20日金曜日

最終兵器の目 斉明天皇8

  『日本書紀』慶長版は

七年春正月丁酉朔壬寅御舩西征始就于海路甲辰御舩到于大伯海時大田姫皇女産女焉仍名是女曰大伯皇女庚戌御舩泊于伊豫熟田津石湯行宮三月丙申朔庚申御舩還至于娜大津居于磐瀬行宮天皇改此名曰長津夏四月百濟福信遣使上表乞迎其王子糺解五月乙未朔癸卯天皇遷居于朝倉橘廣庭宮是時斮除朝倉社木而作此宮之故神忿壤殿亦見中由是大倉人及諸近侍病死者衆丁巳躭羅始遣王子阿波伎等貢獻六月伊勢王薨秋七月甲午朔丁已天皇崩于朝倉宮八月甲子朔皇太子奉徙天皇喪還至磐瀬宮是夕於朝倉山上有鬼著大笠臨視喪儀衆皆嗟恠冬十月癸亥朔己巳天皇之喪歸就于海於是皇太子泊於一所哀慕天皇乃口號曰枳瀰我梅能姑裒之枳舸羅伱婆底底威底舸矩野姑悲武謀枳瀰我梅弘報梨乙酉天皇之喪還泊于難波十一月壬辰朔戊戌以天皇喪殯于飛鳥川原自此發哀至于九日

【七年の春正月の朔が丁酉の壬寅の日に、船で西に討伐に向かって、はじめて海路に就いた。甲辰の日に、船が大伯の海に到着した。その時に、大田姫の皇女が女児を産んだ。それでこの女子を大伯の皇女と名付けた。庚戌の日に、船が、伊豫の熟田津の石湯の行宮に停泊した。三月の朔が丙申の庚申の日に、船が、元の海路に戻って娜の大津に到着した。磐瀬の行宮に居た。天皇は、名を長津と改めた。夏四月に、百済の福信が使者を派遣して文書で申し出て、その王子の糺解を迎えたいと願った。五月の朔が乙未の癸卯の日に、天皇が、朝倉の橘の廣庭の宮に遷っていた。その時に、朝倉の社の木を断ち切り除いて、この宮を造ったので、神が怒って御殿を壊した。また、宮の中に鬼火が現れた。これで、警護の者やそば近くに仕える者達が多数病死した。丁巳の日に、耽羅が、始めて王子の阿波伎達を派遣して貢物を献上した。六月に、伊勢の王が薨じた。秋七月の朔が甲午の丁巳の日に、天皇は、朝倉の宮で崩じた。八月の甲子が朔の日に、皇太子は、天皇の弔いを行って、磐瀬の宮に帰って来た。この夕方に、朝倉の山の上に、鬼がいて、大きな笠を被って、葬儀を見ていた。人々が皆嘆き怪しんだ。冬十月の朔が癸亥の己巳の日に、天皇の遺骸を海路で運んだ。そこで、皇太子は、ある所に停泊して、天皇の死を悲しみ慕って、歌を口ずさんだ()。乙酉の日に、天皇の遺骸が、難波に帰って停泊した。十一月の朔が壬辰の戊戌の日に、天皇の遺骸を、飛鳥の川原に殯殿を造って安置した。それで九日間死者を弔った。】とあり、八月甲子朔は8月2日で7月は小の月で、合致するのが697年か635年で、俀国暦の可能性が高く、それ以外は標準陰暦と合致する。

皇極・斉明天皇は『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳

次丙午年召於大王天皇與太子而誓願」と586年用明天皇元年では発病前で矛盾し、仏像の様式が飛鳥佛ではなく白鳳佛なので、646年に池邉天皇の為に仏像を造らせようとしたが、この造らせた人物はこの時天皇が池邉天皇なのだから後に天皇になる大王と池邉天皇の皇太子が造らせたと解釈できる。

この大王天皇は皇太子の夫人か天皇の皇后で、銘文を記述した時天皇だったことを意味しているので、この皇太子も聖王とは別人で、続いて「然當時崩賜造不堪」と池邉天皇は仏像が完成する前に崩じ、「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と667年に仏像作成を命令した時大王だった小治田大宮治天下天皇が皇太子の聖王、後の天智天皇と共に奉納したと記述されている。

そして『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時請願之奉弥勒御像也」と666年に皇后ではなく中宮天皇が存在し、『日本書紀』では天智摂政と天皇では無く別に天皇が存在する。

さらに、『薬師寺東塔の擦管』に「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」と中宮に居た皇太后と思われる人物が崩じたので、「大上天皇奉遵」と持統天皇は生きて伽藍を造っているので、天皇が680年11月に伽藍を造るように命じ、『日本書紀』に天武天皇九年十一月「高麗人十九人返于本土是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」とこの680年11月に「後岡本天皇之喪使」が残っていた。

ところが、この天皇の死は朝倉社の罰が当たったと記述し、葬儀を鬼が見ていたと噂し、死を怪しんで、中宮天皇に対しては仏像を造り、薬師寺伽藍を造って、口ずさんだ恋人に対する歌と同類で、ここには2人の天皇の死が記述されている。

天萬豊日天皇は「天豐財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄・・・輕皇子不得固辭升壇即祚・・・奉號於豐財天皇曰皇祖母尊以中大兄爲皇太子」と乙巳の変の後即位し、白雉五年十月に「天皇崩于正寢」と崩ずるが、『藤氏家伝』には「白鳳五年・・・俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子」と白雉を白鳳に書き換え、しかも、俄にすなわち皇位に就いてすぐ崩じたと記述している。

そして、その白鳳5年に「其大綿冠内臣中臣連功侔建内宿禰位未允民之望超拝紫冠増封八千戸」、そして、高祖母が再度天皇に復位して「故遷大紫冠進爵爲公増封五千戸前後并凡一萬五千戸」と大綿冠の鎌足が紫冠そして加増が実施される前に増封されているが、大綿冠位は649年からは存在せず、大綿冠が再度採用されるのは644年、白鳳5年記事は664年以降の記事で、天萬豊日天皇は644年以降に崩じている。

すなわち、『藤氏家伝』は『日本書紀』白雉五年「以紫冠授中臣鎌足連増封若干戸」と白雉5と記述しているが鎌足が大綿冠から紫冠を授与されて矛盾が有るので自家の資料の年号を記述したと考えられ大紫冠を授与されたのが665年だったことを示す。

すなわち、皇祖母小治田・中宮天皇は664年に斉明前紀「改元四年六月讓位於天萬豐日天皇稱天豐財重日足姫天皇曰皇祖母尊天萬豐日天皇後五年十月崩」と、この元号でない皇極4年と意味不明な改元は白鳳で白鳳4年6月に即位して、天豊財重日が皇祖母となって、乙巳の変が664年6月に起こったことを示し、後の5年の意味を私は俀国王での後の5年と理解した。

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