「二年秋八月癸巳朔庚子髙麗遣達沙等進調九月遣髙麗大使膳臣葉積副使坂合部連磐鍬大判官犬上君白麻呂中判官河內書首小判官大藏衣縫造麻呂是歳於飛鳥岡本更定宮地時髙麗百濟新羅並遣使進調爲張紺幕於此宮地而饗焉遂起宮室天皇乃遷号曰後飛鳥岡本宮於田身嶺冠以周垣復於嶺上兩槻樹邊起觀号爲兩槻宮亦曰天宮時好興事廼使水工穿渠自香山西至石上山以舟二百隻載石上山石順流控引於宮東山累石爲垣時人謗曰狂心渠損費功夫三萬餘矣費損造垣功夫七萬餘矣宮材爛矣山椒埋矣又謗曰作石山丘隨作自破又作吉野宮西海使佐伯連𣑥繩小山下難波吉士國勝等自百濟還獻鸚鵡一隻灾岡本宮三年秋七月丁亥朔巳丑覩貨邏國男二人女四人漂泊于筑紫言臣等初漂泊于海見嶋乃以驛召辛丑作湏弥山像於飛鳥寺西且設盂蘭瓮會暮饗覩貨邏人九月有間皇子性黠陽狂云云往牟婁温湯偽療病來讚國體勢曰纔觀彼地病自蠲消云云天皇聞悅思欲往觀是歳(?使)使於新羅曰欲將沙門智達間人連御廐依網連稚子等付汝國使令送到大唐新羅不肯聽送由是沙門智達等還歸西海使小華下阿曇連頰垂小山下津臣傴僂自百濟還獻駱駝一箇驢二箇石見國言白狐見」
【二年の秋八月の朔が癸巳の庚子の日に、高麗が、達沙達を派遣して年貢を進上した。九月に、高麗に大使の膳の臣の葉積と、副使の坂合部の連の磐鍬と、大判官の犬上の君の白麻呂と、中判官の河内の書の首と、小判官の大藏の衣縫の造の麻呂を派遣した。是歳に、飛鳥の岡本に、今の宮に加えて宮地を決めた。その時、高麗と百濟と新羅が、同時に使者を派遣して年貢を進上した。それで紺の幕をこの宮地に張って、饗応した。そして宮殿が建って天皇は遷った。後の飛鳥の岡本の宮と名付けた。田身の嶺は、垣根を巡らして冠木門を造り、また、嶺の上の2本のケヤキの樹の近くに、楼観を建てた。兩槻宮と名付けた。または天の宮と言った。その時にいろんなことを面白がった。それで水を利用するために用水を掘らせた。香山の西から、石上の山までだ。舟を二百隻に、石上の山の石を載んで、流れに沿って石を引き流し、宮の東の山に石を積み上げて石垣にした。当時の人が、「心を狂わせて作った水路だ。人夫を三萬余を犠牲にした。石垣を造るのに人夫を七萬余を犠牲にした。宮殿を造る材木は朽ち果て、山頂が埋もれてしまった」と蔭口を叩いた。また、「石の山を作った。造る最中に前に造ったところが壊れていった」と蔭口を叩いた。また、吉野の宮を造った。西海使の佐伯連の栲繩と小山下の難波の吉士の國勝達が、百済から帰って、鸚鵡を一隻献上した。岡本の宮が火事になった。三年の秋七月の朔が丁亥の己丑の日に、覩貨邏国の男が二人と、女が四人が、筑紫に漂着した。「私達は、はじめ海見の嶋に漂着した」と言った。それで通訳として呼んだ。辛丑の日に、須彌の山の像を飛鳥寺の西に造った。また、お盆の読経の盂蘭盆会を開いた。日が暮れて覩貨邏人を饗応した。九月に有間の皇子が、悪賢こく狂人のふりをした云云。病を治すと理由を作って牟婁の温泉に行って、帰って来て、国の様子や勢いを「ほんの少し其処を見ただけで、病気が自然に治った」云云と賞賛した。天皇は、聞いて喜んで、行ってみたいと思った。この歳に、使者を新羅に派遣して「沙門の智達と間人の連の御廐と依網の連の椎子達を引き連れて、お前の国の使者に付いて、大唐に使者を送りたいと思う」と言った。新羅は、送ることを聞き入れなかった。これで、沙門の智達達は、帰って来た。西海使の小花下の阿曇の連の頬垂と小山下の津の臣の傴僂が百済から帰って、駱駝を一頭、驢馬を2頭献上した。石見の国が、「白い狐を見た」と言った。】とあり、八月癸巳朔は8月2日で7月は小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、8月1日が癸巳の日はこの世紀には無く、また、他は標準陰暦と合致する。
ここの覩貨邏人は白雉五年「四月吐火羅國男二人女二人舍衛女一人被風流來于日向」の吐火羅と同一民族かどうかわからず、少なくともここの覩貨邏人は後代済州島の人と解釈しているのでトカラ列島人と思われ、『新唐書』列傳第一百四十六「吐火羅或曰土豁羅」に西域の大夏は漢字では吐火羅が共通語で、少なくとも唐の時代以降の人々は吐火羅の文字を使う。
この項にはいくつもの宮が記述されるが、『古事記』では「沼名倉太玉敷命坐他田宮治天下・・・崗本宮治天下之天皇」、「橘豊日命坐池邊宮治天下」、「長谷部若雀天皇坐倉椅柴垣宮」、「豊御食炊屋比賣命坐小治田宮」と記述され、『船王後墓誌』では「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇・・・阿須迦天皇之末 歳次辛丑」と、勿論、辛丑は641年で581年は『日本書紀』なら敏達10年で等由羅天皇は『日本書紀』では593年だ。
まとめると、他田宮→?→等由羅宮→阿須迦宮→池邊宮→柴垣宮→小治田宮→崗本宮で?は船王が子供で奉仕しなかったので?とし、『古事記』完成は崗本宮天皇の時に小治田宮天皇までを記述したので文中に崗本宮を書いたと判断し、もし次の天皇の時に『古事記』を書いたのなら崗本宮天皇は独立した記述になったはずである。
そして、『船王後墓誌』から641年に阿須迦天皇が崩じたのだからやはりこの天皇は飛鳥の前の岡本宮天皇で、642年から池邊天皇が即位し、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年・・・然當時崩賜造不堪」と『日本書紀』では586年は用明元年で用明天皇が病気になったのは587年だが、実際は646・7年に崩じ647年は柴垣宮のはずである。
すなわち、『日本書紀』をこの順に並べ替えると、推古天皇前紀「皇后即天皇位於豐浦宮」、舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍是謂岡本宮」、斉明天皇二年「於飛鳥岡本更定宮地・・・號曰後飛鳥岡本宮」「號爲兩槻宮亦曰天宮」「又作吉野宮」「災岡本宮」、皇極天皇元年「蘇我大臣蝦夷立己祖廟於葛城高宮」、大化三年「災皇太子宮時人大驚恠」、舒明天皇八年「災岡本宮天皇遷居田中宮」となる。
ということは、それを、正しいと思われる年の順で並べると、641年に用明天皇前紀「天皇即天皇位宮於磐余名曰池邊雙槻宮」、647年に崇峻天皇前紀「宮於倉梯」、『古事記』「治天下肆歳」で、651年に推古天皇十一年「遷于小墾田宮」は皇極天皇元年「天皇遷移於小墾田宮」、舒明天皇十一年「今年造作大宮及大寺則以百濟川側爲宮處」、白雉二年「大郡遷居新宮號曰難波長柄豐碕宮」、664年に斉明天皇七年「天皇遷居于朝倉宮」「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮」、白雉五年「皇太子母奉皇祖母尊。遷居倭河邊行宮」、皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」、斉明天皇元年「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」、666年に『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇」、667年に天智天皇六年「遷都于近江」、「送大山下境部連石積等於筑紫都督府」、「於小墾田造起宮闕擬將瓦覆」「災飛鳥板盖宮。故遷居飛鳥川原宮」となると考えた。
川原寺が筑紫にあり、朱鳥元年「爲饗新羅客等運川原寺伎樂於筑紫」と筑紫で饗応するのに饗応の場所を記述してないと言うことは、筑紫に首都があったことを示し、天武天皇十二年「凡都城宮室非一處必造兩參故先欲都難波」と683年に都を複数造ると宣言し、小墾田は断念し難波にまずは作ったと考えられ、たとえば、651年はある王の11年と他の王の元年が重なっていることを示す。
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