2020年11月23日月曜日

最終兵器の目 巻第二十七 天智天皇1

  『日本書紀』慶長版は

天命開別天皇息長足日廣額天皇太子也母曰天豊財重日足姫天皇天豊財重日足姫天皇四年讓位於天萬豊日天皇立天皇爲皇太子天萬豊日天皇後五年十月崩明年皇祖母尊即天皇位七年七月丁巳崩皇太子素服稱制是月蘇將軍與突厥王子(?)苾加力等水陸二路至于髙麗城下皇太子遷居子長津宮稍聽水表之軍政八月遣前將軍大華下阿曇比邏夫連小華下河邊百枝臣等後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣大山上物部連熊大山上守君大石等救於百濟仍送兵杖五穀九月皇太子御長津宮以織冠授於百濟王子豊璋復以多臣蔣敷之妹妻之焉乃遣大山下狹井連檳榔小山下秦造田來津率軍五千餘衞送於本鄕於是豊璋入國之時福信迎來稽首奉國朝政皆悉委焉十二月髙()言惟十二月於髙麗國寒極浿凍故唐軍雲車衝輣鼓鉦吼然髙麗士卒膽勇雄壯故更取唐二壘唯有二塞亦備夜取之計唐兵抱膝而哭鋭鈍力竭而不能拔噬臍之耻非此而何是歳播磨國司岸田臣磨等獻寶劔言於狹夜郡人禾田穴內獲焉又日本救髙麗軍將等泊于百濟加巴利濱而燃火焉灰變爲孔有細響如鳴鏑或曰髙麗百濟終亡之徵乎

天の命の開別の天皇は、息長の足日の廣額天皇の太子だ。母を天の豊財の重の日足姫天皇という。天の豊財の重の日足姫天皇の四年に、天皇位を天の萬の豊日天皇に讓った。天皇を皇太子にした。天の萬の豊日天皇が、後の五年の十月に崩じた。明くる年に、皇祖母の尊が、天皇に即位した。七年の七月の丁巳の日に崩じた。皇太子は、喪中国政をとった。この月に、蘇將軍と突厥の王子契苾加力達と、水陸の二方向から、高麗の城下に侵入した。皇太子は、長津の宮に遷っていた。次第に海に面した宮殿で軍議に就いた。八月に前の將軍の大花下の阿曇の比邏夫の連と小花下の河邊の百枝の臣達及び後の將軍の大花下の阿倍の引田の比邏夫の臣と大山上の物部の連の熊と大山上の守の君の大石達を派遣して、百済を救援した。それで武器と兵糧を送った。九月に、皇太子は、長津の宮にいた。織冠を、百済の王子の豊璋に授けた。また多の臣の蒋敷の妹を娶せた。それで大山下の狹井の連の檳榔と小山下の秦の造の田來津を派遣して、軍兵を五千人余を率いて、本国に警護して送った。ここで、豊璋が国に入る時に、福信が迎えに来て、土下座して国の朝廷の政務を、残らずすべて委ねた。十二月に、高麗が、「この十二月に、高麗国は、極寒で全てが凍り付いた。それで、唐軍は、物見車や先陣を切って門を打ち破る車があって、鼓や鉦がわめくようだった。高麗の兵士は、恐れることなくおおしくさかんで、唐の二つの砦を取ったが、まだ二つの砦が有ったのでさらに夜に取ろうと考えて準備した。唐の兵は膝を抱えて泣いていた。鋭鈍を見るとすでに力尽きて、剣を抜くことができなかった」と言った。このような臍を噛む恥は他に無いだろう。この歳に、播磨の国司の岸田の臣の麻呂達が、宝の剱を献上して、「狹夜の郡の人が粟の田の穴の中から見つけた」と言った。また日本の、高麗を救援する軍將達が、百済の加巴利の浜に停泊して、火を焚いていた。灰が燃え尽きて無くなり孔になって、小さく響いて、鳴鏑のようだった。とある人が、「高麗と百済とうとう滅ぶのか」と言った。】とある。

天智天皇は『古事記』に「娶息長真手王之女比呂比賣命生御子忍坂日子人太子」と彦人の子の息長足日廣額が父親であるが、母親は『古事記』の沼名倉太玉敷に「娶漢王之妹大俣王生御子知奴王」、『日本書紀』の皇極前紀の「茅渟王女也母曰吉備姫王」と漢王と息長氏の血を引き吉備姫王は不明な人物で櫻井王の娘と言われているそうだ。

ところが、『日本書紀』の舒明前紀の「渟中倉太珠敷天皇孫彦人大兄皇子之子也母曰糠手姫皇女」、『古事記』の沼名倉太玉敷の「妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」、『日本書紀』の「采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人生太姫皇女與糠手姫皇女(更名田村皇女)」、『古事記』の「娶伊勢大鹿首之女小熊子郎女生御子布斗比賣命次寶王亦名糠代比賣」と舒明天皇の母も妻も寶媛で、『古事記』を記述した時は田村王と寶王で別人だった人物を糠代比賣と同一人物にしたということだ。

『日本書紀』も敏達天皇に「詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后是生・・・田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」、舒明天皇に「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子又娶吉備國蚊屋釆女生蚊屋皇子」と推古天皇が書いた田眼皇女が舒明紀に記述されずに、しかも、推古天皇が生存中に舒明天皇が即位していると考えられ、天智天皇が『日本書紀』を書いた時には推古天皇が書いた舒明天皇とは別人の舒明天皇だった。

すなわち、 田眼皇女が嫁いだ後、舒明天皇は『古事記』を書いた時と違う人物、田村皇子ではなくまたの名の糠代比賣の皇子が舒明天皇となり、この舒明天皇も2人いて糠代比賣の夫の彦人舒明天皇と寶王を妻に持つ茅渟舒明天皇で、従って、皇極天皇の母は小熊子郎女で斉明天皇七年の「伊勢王薨」は小熊子郎女が薨じた可能性が有る。

そして、この仮説で考えれば、伊勢王が俀国太后で660年天智天皇がまだ12歳で太子になれないので天萬豊日に大王を任せたが伊勢王が薨じたので、661年に天豊財重日足姫が俀国太后を襲名し、664年寶太后4年、天萬豊日大王5年、天智天皇ががまだ未成年の為天萬豊日を天皇に即位させたと考えることが出来る。

そして、『藤氏家伝』に「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子」と天萬豊日が急逝したため皇祖母天豊財重日足姫が再して天智が摂政に就任するが、それまでの「天皇崩于朝倉行宮皇太子素服稱制」と喪中は天智が政務をとった。

さらに、彦人も舒明天皇の一人で、田村舒明天皇の後を継いでいるのだから、彦人の妃の「豐御食炊屋姫尊爲皇后是生二男五女・・・其三曰小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女が宙に浮いてしまうが、小墾田皇女は豊御食炊屋姫の娘なのだから額田王女と言え、天武天皇二年「鏡王女額田姫王」、天武天皇十二年「鏡姫王薨」、『粟原寺鑪盤銘』に「爾故比賣朝臣額田」と額田を襲名した人物がいて、鏡姫王が薨去した翌年朱雀に改元され白鳳は天皇が崩じても改元されることが無く別に建元する人物が存在したことを意味し、この額田の宮の姫たちがその人物だった可能性が高く、『粟原寺鑪盤銘』に出てくる「比賣朝臣額田」は元明天皇の可能性が高い。

すなわち、『古事記』の推古天皇は鏡姫王まで、天皇としての権威の建元する力を持っていて、その後、元明・聖武天皇まで舒明天皇の家系に権力を奪われたが、また奪取したことが『古事記』の前提にあると考えられる。

そして、『三国史記』661年寶藏王二十年に「蘇定方 爲平壤道行軍摠管 與蕭嗣業及諸胡兵凡三十五軍 水陸分道並進」と 蘇定方と諸胡兵の突厥が並んで進撃して、662年寶藏王二十一年「春正月左驍衛將軍白州刺史沃沮道摠管孝泰與蓋蘇文戰於蛇水之上擧軍沒與其子十三人皆戰死蘇定方圍平壤會大雪解而退凡前後之行皆無大功而退」と「髙麗國寒極」と同じ時期のことだ。


0 件のコメント:

コメントを投稿