2021年1月29日金曜日

最終兵器の目 天武天皇19

 『日本書紀』慶長版は

六月已亥朔癸夘饗新羅客若弼於築紫賜祿各有差乙夘雩之壬戌地震秋七月戊辰朔朱雀見之辛未小錦下采女臣竹羅爲大使當摩公楯爲小使遣新羅國是日小錦下佐伯連足爲大使小墾田臣麻呂爲小使遣髙麗國丁丒祭廣瀬龍田神丁酉令天下悉大解除當此時國造等各出?(禾犮:祓)柱奴婢一口而解除閏七月戊戌朔壬子皇后誓願之大齋以說經於京內諸寺八月丁夘朔丁丑大錦下上毛野君三千卒丙子詔三韓諸人曰先日復十年調税既訖旦加以歸化初年倶來之子孫並課役悉免焉壬午伊勢國貢白茅鴟丙戌遣多祢嶋使人等貢多祢國啚其國去京五千餘里居筑紫南海中切髮草裳粳稻常豊一葅兩收土毛支子莞子及種々海物等多是日若弼歸國九月丁酉朔己亥遣髙麗新羅使人等共至之拜朝辛丒周芳國貢赤龜乃放嶋宮池甲辰詔曰凢諸氏有氏上未定者各定氏上而申送于理官庚戌饗多祢嶋人等于飛鳥寺西河邊奏種種樂壬子篲星見癸丑熒惑入月冬十月丙寅朔日蝕之癸未地震乙酉新羅遣沙㖨一吉飡金忠平大奈末金壹世貢調金銀銅鐵錦絹鹿皮細布之類各有數別獻天皇々后太子金銀錦霞幡皮之類各有數庚寅詔曰大山位以下小建以上人等各述意見是月天皇將蒐於廣瀬野而行宮構訖裝束既備然車駕遂不幸矣唯親王以下及群卿皆居于輕市而撿挍裝束鞍馬小錦以上大夫皆列坐於樹下大山位以下者皆親乗之共隨大路自南行北新羅使者至而告曰國王薨十一月丙申朔丁酉地震十二月乙刄朔甲戌小錦下河邊臣子首遣筑紫饗新羅客忠平癸巳田中臣鍛師柿本臣猨田部連國忍髙向臣麻呂粟田臣真人物部連麻呂中臣連大嶋曾祢連韓犬書直智德幷壹拾人授小錦下位是日舍人造糠?(ノ虫:蟲)書直智德賜姓曰連

【六月の朔が己亥の癸卯の日に、新羅の客の若弼を筑紫で饗応した。俸禄を与え各々差が有った。乙卯の日に、雨乞いした。壬戌の日に、地震があった。秋七月の戊辰が朔の日に、朱雀を見た。辛未の日に、小錦下の采女の臣の竹羅を大使として、當摩公の楯を小使として、新羅の国に派遣した。この日に、小錦下の佐伯の連の廣足を大使とし、小墾田の臣の麻呂を小使として、高麗の国に派遣した。丁丑の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りをした。丁酉の日に、天下に命令して、残らず大祓いの儀式を行った。この時に、国造達は、各々が償わせる下男下女一人を出してお祓いした。閏七月の朔が戊戌の壬子の日に、皇后は、誓願の大法会を開いて、經を京内の諸寺で説教させた。八月の朔が丁卯の丁丑の日に、大錦下の上毛野の君の三千が死んだ。丙子の日に、三韓の諸々の人に「前に十年の年貢を許したが期限が切れた。また、加えて、初めて帰化した時に一緒にやって来た子や孫も課役を許したが、同じだ」と詔勅した。壬午の日に、伊勢の国が、白いふくろうを貢上した。丙戌の日に、多禰の嶋に派遣した使者達は、多禰の国の地図を貢上した。その国は、京を去ること、五千餘里だ。筑紫の南の海中にある。髮を切って草の腰巻を着ている。うるち米がいつも豊作だ。一度植えて二度収穫が有る。産品はクチナシの実・イグサ?及び種々の海産物等多種だ。この日に、若弼が、国に帰った。九月の朔が丁酉の己亥の日に、高麗・新羅に派遣した使者達が、一緒に遣ってきて朝廷に拝礼した。辛丑の日に、周芳の国が、赤い亀を貢上した。それで嶋の宮の池に放った。甲辰の日に、「全ての諸氏の氏上でまだ決まっていなかったら、各々氏上を決めて、管理者に申し送れ」と詔勅した。庚戌の日に、多禰の嶋の人達を飛鳥寺の西の河辺で饗応した。種々の楽曲を演奏した。壬子の日に、彗星が見えた。癸丑の日に、火星が月に入った。冬十月の丙寅が朔の日に、日食が有った。癸未の日に、地震が有った。乙酉の日に、新羅は、沙㖨の一吉飡の金忠平と大奈末の金壹世を派遣して、年貢を貢上した。金・銀・銅・鉄・錦・絹・鹿皮・細布など、各々たくさん有った。別に天皇・皇后・太子に献上し、金・銀・霞んだ錦・幡・皮のなど、各々多数有った。庚寅の日に、「大山の位以下、小建以上の人達は、各々、意見を述べよ」と詔勅した。この月に、天皇は、廣瀬野に狩りをしようと、行宮を構え終わって、裝束も着用した。しかしとうとう駕籠に乗って出かけなかった。ただし親王以下及び公卿は、皆、輕市に居て、裝束を整えた鞍を付けた馬を点検した。小錦以上の高官が、皆、樹の下に列をなして座った。大山位以下は、皆、自分の馬に乗った。共に大路に従って、南から北に向かった。新羅の使者、遣ってきて「国の王が薨じた」と告げた。十一月の朔が丙申の丁酉の日に、地震が有った。十二月の朔が乙丑の甲戌の日に、小錦下の河邊の臣の子首を筑紫に派遣して、新羅の客の忠平を饗応した。十二月の癸巳の日に、田中の臣の鍛師・柿本の臣の猨・田部の連の國忍・高向の臣の麻呂・粟田の臣の眞人・物部の連の麻呂・中臣の連の大嶋・曾禰の連の韓犬・書の直の智徳、併せて十人に、小錦下の位を授けた。この日に、舍人の造の糠蟲・書の直の智徳に姓を与えて連と言った。】とあり、六月己亥朔は6月2日、九月丁酉朔は9月2日で前月が小の月と都督府の暦、十二月乙丑朔は11月30日で九州の暦、他は標準陰暦と合致する。

大規模な狩りを天皇が取りやめていて、天皇の体調不良を思わせ、前項の摂政を思わせるが、摂政は天皇が不在の時に就任し、しかも、天智天皇を参考にすると20歳未満で、20歳以上なら即位すればよいので、695年の天智天皇の体調不良を裏付けている。

また、種子島の説明も、里単位が1里400mなら五千里は2000kmなら長安からの距離だが、文意を考えると筑紫視点なのだから、ここでも、唐朝の支配下に都督府があり、681年も都督府に支配されていることが解る。

すなわち、九州にいる朝廷は、まだ、短里の1里50mを使い、有明海から多禰嶋まで270Kmで約5千里となる。

新羅の使者が言う王の薨去は『三国史記』の681年文武王二十一年「秋七月一日王薨諡曰文武」と十月の報告で凡そ一致し、9月までは天皇が筑紫に滞在し、若弼の饗応も筑紫で行っている。

朝鮮の帰化人の子・孫の納税免除は、多くの訳者が子・孫の納税免除は続けたと解釈している

が、私は取りやめたと理解したのは共に免除取りやめでなければ、意味が通らないからである。

三世代が成人して帰化した人物と、成人早々に帰化した人物との公平性を考えれば理解できる。


2021年1月27日水曜日

最終兵器の目 天武天皇18

  『日本書紀』慶長版は

十年春正月辛未朔壬申頒幣帛於諸神祗癸酉百寮諸人拜朝庭丁丒天皇御向小殿而宴之是日親王諸王引入內安殿諸臣皆侍于外安殿共置酒以賜樂則大山上草香部吉志大形授小錦下位仍賜姓曰難波連辛巳勅境部連石積封六十戸因以給絁三十疋綿百五十斤布百五十端钁一百口丁亥親王以下小建以上射于朝庭巳丑詔畿內及諸國修理天社地社神宮二月庚子朔甲子天皇皇后共居于大極殿以喚親王諸王及諸臣詔之曰朕今更欲定律令改法式故倶修是事然頓就是務公事有闕分人應行是日立草壁皇子尊爲皇太子因以令攝万機戊辰阿倍夫人薨巳巳小紫位當麻公豊濱薨三月庚午朔癸酉葬阿倍夫人丙戌天皇御于大極殿以詔川嶋皇子忍壁皇子廣瀬王竹田王桑田王三野王大錦下上毛野君三千小錦中忌部連首小錦下阿曇連稻敷難波連大形大山上中臣連大嶋大山下平群臣子首令記定帝紀及上古諸事大嶋子首親執筆以錄焉庚寅地震甲午天皇居新宮井上而試發鼓吹之聲仍令調習四月巳亥朔庚子祭廣瀬龍田神辛丑立禁式九十二條因以詔之曰親王以下至于庶民諸所服用金銀珠玉紫錦繡綾及氈褥冠帶幷種々雜色之類服用各有差辭具有詔書庚戌錦織造小分田井直吉麻呂次田倉人椹足石勝川內直縣忍海造鏡荒田能麻呂大狛造百枝足坏倭直龍麻呂門部直大嶋完人造老山背狛烏賊麻呂幷十四人賜姓曰連乙夘饗髙麗客夘問等於筑紫賜祿有差五月己巳朔巳夘祭皇祖御魂是日詔曰凢百寮諸人恭敬宮人過之甚也或詣其門謁已之訟或捧幣以媚於其家自今以後若有如此者隨事共罪之甲午髙麗夘問歸之

【十年の春正月の朔が辛未の壬申の日に、お供えを諸々の神祇にわけた。癸酉の日に、役人たちが、朝庭を礼拝した。丁丑の日に、天皇は、向いの小殿にいて宴会した。この日に、親王・諸王を内安殿に引き入れた。諸臣は、皆、外安殿にいた。一緒に酒を準備して樂を演奏させた。それで大山上の草香部の吉士の大形に、小錦下の位を授けた。それで姓を与えて難波の連といった。辛巳の日に、境部の連の石積に詔勅して、六十戸を加封した。それで太絹三十匹・綿百五十斤・布百五十端・くわ百口を与えた。丁亥の日に、親王以下、小建以上が、朝庭で弓を射る行事を行った。己丑の日に、畿内及び諸国に詔勅して、天社地社の神の宮を修理させた。二月の朔が庚子の甲子の日に、天皇・皇后共に大極殿に居て、親王・諸王及び諸臣を呼んで、「私は、これからまた律令を定め、作法を改めようと思う。それで、一緒にこの事業をやり遂げよう。しかし急にこれだけに没頭したら、執務に支障をきたす。人員を振り分けて行いなさい」と詔勅した。この日に、草壁皇子の尊を皇太子にした。それで全てを任せて摂政とした。戊辰の日に、阿倍夫人が薨じた。己巳の日に、小紫の位の當摩公が豐濱で薨じた。三月の朔が庚午の癸酉の日に、阿倍夫人を葬むった。丙戌の日に、天皇は、大極殿にいて、川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下の上毛野君の三千・小錦中の忌部の連の首・小錦下の阿曇の連の稻敷・難波の連の大形・大山上の中臣の連の大嶋・大山下の平群の臣の子首に詔勅して、帝紀及び建国前の諸事を記録して定めさせた。大嶋と子首は、自ら筆を執って記録した。庚寅の日に、地震が有った。甲午の日に、天皇は、新宮の井の上にいて、鼓を打ち、笛を吹いてみた。それで訓練させた。夏四月の朔が己亥の庚子の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りをした。辛丑の日に、禁じる作法を九十二條作った。それで「親王以下、庶民まで、諸々の服に用いる、金・銀・珠玉・紫・錦・刺繍・模様、及び敷物・冠・帯、併せて種々多色を使うように、服を用いるのに各々身分の差を考えなさい」と詔勅した。詳細は詔書に書いてある。庚戌の日に、錦織の造の小分・田井の直の吉摩呂・次田の倉人の椹足の石勝・川内の直の縣・忍海の造の鏡・荒田の能麻呂・大狛の造の百枝・足坏・倭の直の龍麻呂・門部の直の大嶋・宍人の造の老・山背の狛の烏賊麻呂、併せて十四人に、姓を与えて連と言った。乙卯の日に、高麗の客の夘問達を筑紫で饗応した。俸禄し差が有った。五月の朔が己巳の己卯の日に、皇祖の御魂を祭った。この日に、「全ての役人は、宮中に仕える人をつつしみうやまうのに、度が過ぎる。あるいはその門に遣ってきて、自訴する。あるいは賄賂を渡して家族に媚びる。これからは、もしこのようなことが有ったら、それ相応の罰を与える」と詔勅した。甲午の日に、高麗の夘問が帰った。】とあり、正月辛未朔は12月30日、二月庚子朔は1月29日、三月庚午朔は2月30日、四月己亥朔は3月29日と晦日が朔で朝鮮半島と同じ暦で、五月己巳朔は前月が小の月だが5月1日と標準陰暦と合致する。

朝廷の皇太子は天皇が即位した時既に決まっていて、長男が13歳以下なら兄弟や叔父が後嗣となり、長男が13歳になると皇太子が変わり、後継者がいなかったり、20歳に満たない時は天皇になれず、叔父や皇后が皇位を継承した。

『新唐書』は「天智死子天武立死子總持立・・・長安元年其王文武立」と天智から總持までの親子相続から、701年に親子関係が無い文武が王に即位と記述され文武の父日並は東宮で朱鳥の天皇の子では無く、大化の天武天皇は朱鳥の天智天皇の子、日並は天智天皇の従弟の可能性が高い。

これまで、立太子は別王家の王位継承を記述していたことが解り、この立太子はおそらく、大化10年、704年に別の王家が皇位を継承し、それが、『続日本紀』の慶雲元年十一月「壬寅始定藤原宮地」の遷都の可能性が高く、九州の飛鳥浄御原朝廷が藤原朝廷に変わったようだ。

しかし、内容そのものの、摂政は実際の説話の可能性が高く、『粟原寺鑪盤銘』の「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始」の694年、天智天皇八年の「藤原内大臣薨日本世記曰」が692年の可能性が高かった。

それで、摂政の草壁皇子達に『帝紀』を書かせていて、これが『日本世記』と考えられ、鎌足死亡以後記述されていないことから、朱雀元年から10年目の694年頃なら良く符合する。

2021年1月25日月曜日

最終兵器の目 天武天皇17

   『日本書紀』慶長版は

秋七月甲戌朔飛鳥寺西槻枝自折而落之戊寅天皇幸犬養連大伴家以臨病即降大恩云云是日雩之辛巳祭廣瀬龍田神癸未朱雀有南門庚寅朴井連子麻呂授小錦下位癸巳飛鳥寺弘聽僧終遣大津皇子髙市皇子吊之丙申小錦下三宅連石床卒由壬申年功贈大錦下位戊戌納言兼宮內卿五位舍人王病之臨死則遣髙市皇子而訊之明日卒天皇大驚乃遣髙市皇子川嶋皇子因以臨殯哭之百寮者從而發哀八月發夘朔丁未法官人貢嘉禾是日始之三日雨大水丙辰大風折木破屋九月癸酉朔辛巳幸于朝嬬因以看大山位以下之馬於長柄杜乃俾馬的射之乙未地震已亥桑內王卒於私家冬十月壬寅朔乙已恤京內諸寺貧乏僧尼及百姓而賑給之一毎僧尼各絶四匹緜四屯布六端沙弥及白衣各絁二疋綿二屯布四端十一月壬申朔日蝕之甲戌自戌至子東方明焉乙亥髙麗人十九人返于本土是當後岡本天皇之喪而吊使留之未還者也戊寅詔百官曰若有利國家寛百姓之術者詣闕親申則詞合於理立爲法則辛巳雷於西方癸未皇后體不豫則爲皇后誓願之初興藥師寺仍度一百僧由是得安平是日赦罪丁亥月蝕遣草壁皇子訊惠妙僧之病明日惠妙僧終乃遣三皇子而吊之乙未新羅遣沙飡金若弼大奈末金原升進調則習言者三人從若弼至丁酉天皇病之因以度一百僧俄而愈之辛丑?(月葛:臘)子鳥蔽天自東南飛以度西北

【秋七月の甲戌が朔の日に、飛鳥寺の西のケヤキの枝が、自然に折れて落ちた。戊寅の日に、天皇は、犬養の連の大伴の家に行幸して、見舞った。それで大きな恩賞を下した云云。この日に、雨ごいした。辛巳の日に、廣瀬・龍田の神をお祭りした。癸未の日に、朱い雀が南門にいた。庚寅の日に、朴井の連の子麻呂に、小錦下の位を授けた。癸巳の日に、飛鳥寺の僧の弘聰が死んだ。大津皇子・高市皇子を派遣して弔問させた。丙申の日に、小錦下の三宅の連の石床が死んだ。壬申年の功績で、大錦下の位を贈った。戊戌の日に、納言を兼る宮内卿の五位の舍人王が、病で死にそうだった。それで高市皇子を派遣して訪問させた。次の日、死んだ。天皇は、とても驚いて、それで高市皇子と川島皇子を派遣した。それで遺骸を見て慟哭した。役人も一緒に哀悼した。八月の朔が癸卯の丁未の日に、裁判官の一人が、穂のたくさんついた稲を貢上した。この日から三日間雨が降った。洪水が有った。丙辰の日に、台風が来て木を折って家屋を破した。九月の朔が癸酉の辛巳の日に、朝嬬に行幸した。それで大山位より以下の馬を長柄の杜で見た。それで乗馬して的を射させた。乙未の日に、地震があった。己亥の日に、桑内王が、私邸で死んだ。冬十月の朔が壬寅の乙巳の日に、京内の諸寺の貧しい僧尼及び百姓を憐れんで施しを与えた。僧尼一人毎に、各々太絹四匹・綿四屯・布六端を与えた。修行僧及び庶民には、各々太絹二匹・綿二屯・布四端を与えた。十一月の壬申が朔の日に、日食が有った。甲戌の日に、19時から1時まで、東の方向が明るかった。乙亥の日に、高麗人が十九人、本国に帰った。これは後の岡本天皇の喪のために、弔問した使者がとどまっていて、まだ帰らなかった者だ。戊寅の日に、役人に「もし国家に利が有って百姓をを豊かにする方法が有ったら、朝廷に参内して自ら申し述べなさい。内容が、理に適えば、法律にしよう」と詔勅した。辛巳の日に、西方で雷鳴があった。癸未の日に、皇后が、病気を患った。それで皇后の為に誓願して、はじめて藥師寺を建立した。それで百人を出家させて僧にした。これで、平癒できた。この日に、罪を恩赦した。丁亥の日に、月食が有った。草壁皇子を派遣して、僧の惠妙の病を見舞わせた。翌日、僧の惠妙が死んだ。それで三人の皇子を派遣して弔問させた。乙未の日に、新羅は、沙飡の金若弼・大奈末の金原升を派遣して、年貢を進上した。それで通訳が三人、若弼に従って遣って来た。丁酉の日に、天皇は、病気になった。それで百人を僧した。しばらくして治った。辛丑の日に、アトリが空いっぱいになって、東南から西北に飛んで渡っていった。】とあり、七月甲戌朔は7月2日、九月癸酉朔は9月2日で共に前月晦日は29日、他は前日が30日で標準陰暦と合致し、都督府の暦の可能性が高い。

すると、飛鳥寺は九州に有った可能性があり、夜中に東方が明るかったのは噴火があった可能性が高く、アトリが東南から西北に渡ったのはやはり噴火や地震を感知した可能性が高く、東南に阿蘇山を見る地域に居たことがここでもわかる。

「後岡本天皇之喪」の使者は『薬師寺東塔の擦管』の「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」と680年に中宮天皇が治癒せず崩じたと記述した、その葬儀に出席していた使者で、661年から居たなどというのは荒唐無稽だ。

これまで書いてきた通り、野中寺の銅造弥勒菩薩半跏思惟像の「本像台座の框」に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年に病気の中宮天皇のために弥勒菩薩像を造り、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と667年にまだ奉納されていなかった薬師如来像を奉納した小治田天皇・中宮天皇・後岡本天皇が全て合致し、天智天皇の母の天豐財である。

2021年1月22日金曜日

最終兵器の目 天武天皇16

  『日本書紀』慶長版は

九年春正月丁丑朔甲申天皇御于向小殿宴王卿於大殿之庭是日忌部首々賜姓曰連則與弟色弗共悅拜癸已親王以下至于小建射南門丙申攝津國言活田村桃李實也二月丙午朔癸亥如鼓音聞于東方辛未有人云得麟角於葛城山角本二枝而末合有完々上有毛々長一寸則異以獻之蓋驎角歟壬申新羅仕丁八人返于本土仍垂恩以賜祿有差三月丙子朔乙酉攝津國貢白巫鳥戊戌幸于菟田吾城夏四月乙朔甲寅祭廣瀬龍田神乙夘橘寺尼房失火以焚十房己已饗新羅使人項那等於筑紫賜祿各有差是月勅凢諸寺者自今以後除爲國大寺二三以外官司莫治唯其有食封者先後限三十年若數年滿三十則除之且以爲飛鳥寺不可關于司洽然元爲大寺而官恒治復嘗有功是以猶入官洽之例五月乙亥朔勅絁緜糸布以施于京內二十四寺各有差是日洽說金光明經于宮中及諸寺丁亥髙麗遣南部大使夘問西部大兄俊德等朝貢仍新羅遣大奈末考那送髙麗使人夘問等於筑紫乙未大錦下秦造綱手卒由壬申年之功贈大錦上位辛丑小錦中星川臣麻呂卒以壬申年功贈大紫位六月甲辰朔戊申新羅客湏那等歸國辛亥灰零丁巳雷電之甚也

【九年の春正月の朔が丁丑の甲申の日に、天皇は、向の小殿にいて、王や公卿のために正殿の庭で宴会を開いた。この日に、忌部の首の首に、姓を与えて連とした。それで弟の色弗と共に喜んで拝礼した。癸巳の日に、親王より以下、小建までが、南門で弓を射る儀式を行った。丙申の日に、攝津の国が「活田の村に桃とすももが実った」と言った。二月の朔が丙午の癸亥の日に、鼓のような音が東方から聞こえた。辛未の日に、ある人が、「鹿の角を葛城の山で得た。その角は、生え際が二枝だが末端が合わさって肉がついていた。肉に毛が生えていた。毛の長さ一寸で、それで奇異に思って献上した」と言った。おそらく麒麟のつのだろう。壬申の日に、新羅の雑役夫八人が本国に帰った。それで恩賞を下して禄を与え差が有った。三月の朔が丙子の乙酉の日に、攝津の国が、白い小鳥(しとど)を貢上した。戊戌の日に、菟田の吾城に行幸した。夏四月の朔が乙巳の甲寅の日に、廣瀬・龍田の神をお祭りした。乙卯の日に、橘寺の尼の僧房で失火して、十の僧房が焼けた。己巳の日に、新羅の使者の項那達を筑紫で饗応した。禄を与え各々差が有った。この月に、「全ての諸寺は、今以後、国の大寺の二・三を除いて、それ以外は役人が統治してはならない。ただし食封がある寺は、あと三十年で食封をやめる。もし年を数へて三十に満たしたら、食封を停止しなさい。また考えるに、飛鳥寺は役人が治めてはならない。しかも元々大寺として、役人がいつも治めた。またかつては功績が有った。それで、官が治める例に入れなさい」と詔勅した。五月の乙亥が朔の日に詔勅して、太絹・綿・糸・布を、京の内の二十四寺に施し、各各差が有った。この日に、はじめて金光明經を宮中及び諸寺で説教させた。丁亥の日に、高麗が、南部の大使の卯問・西部の大兄の俊徳達を派遣して、朝貢した。それで新羅は、大奈末の考那を派遣して、高麗の使者の卯問達を筑紫に送った。乙未の日に、小錦下の秦の造の綱手が死んだ。壬申年の功績で、大錦上の位を贈った。辛丑の日に、小錦中の星川の臣の摩が死んだ。壬申年の功績で、大紫の位を贈った。六月の朔が甲辰の戊申の日に、新羅の客の項那達が、国に帰った。辛亥の日に、灰が降った。丁巳の日に、雷が酷かった。】とあり、二月丙午朔は1月30日、五月乙亥朔は5月2日で4月は小の月で前項と同じ現象で、他は標準陰暦と合致する。

2月の大きな音は九州の噴火のようで、そのため、6月に灰が降ったと記述して、5月は畿内の説話で、九州での畿内の記録なのだろうか。

ここでも、高麗が朝廷のある畿内に朝貢して、宗主国の新羅が都督府のある筑紫に送っていて、朝鮮半島に畿内政権が口を挟まないように、まだ、半島内で勢力を持つ高麗を遠ざけ、新羅は口出ししない代償で畿内政権に年貢を納めていると考えられる。

そして、この使者項那は来日時に火山噴火を記述し、半年近く動かず、筑紫で饗応され、天皇が機内に常駐しているので、実権が大友皇子や鎌足にあることが解り、中臣氏の勢力拡大が着々と進み、実質では、藤原朝廷の始まりと言える。

701年の天武天皇の失脚は筑紫都督府で政務を行ったが、郭務悰が日本を去り、都督府の実権が無くなって、大和の力が強くなったことが背景にあると考えられる。

2021年1月20日水曜日

最終兵器の目 天武天皇15

 『日本書紀』慶長版は

六月庚戌朔氷零大如桃子壬申雩乙亥大錦上大伴杜屋連卒秋七月己夘朔甲申雩壬辰祭廣瀬龍田神乙未四位葛城王卒八月巳酉朔詔曰諸氏貢女人巳未幸泊瀬以宴迹驚淵上先是詔王卿曰乗馬之外更設細馬隨召出之即自泊瀬還宮之日看群卿儲細馬於迹見驛家道頭皆令馳走庚午?(イ日罒方:縵)造忍勝獻嘉禾異畝同頴癸酉大宅王卒九月戊寅朔癸巳遣新羅使人等返之拜朝庚子遣髙麗使人遣耽羅使人等返之共拜朝庭冬十月戊申朔己酉詔曰朕聞之近日暴惡者多在巷里是則王卿等之過也或聞暴惡者也煩之忍而不洽或見惡人也倦之匿以不正其隨見聞以糺彈者豈有暴惡是乎以自今以後無煩倦而上責下過下諫上暴乃國家洽焉戊午地震庚申勅制僧尼等威儀及法服之色幷馬從者往來巷閭之狀甲子新羅遣阿飡金項那沙飡薩虆生朝貢也調物金銀鐵鼎錦布皮馬狗騾駱?(馳ク:駝)之類十餘種亦別獻物天皇々后太子貢金銀刀旗之類各有數是月勅曰凢諸僧尼者常住寺內以護三寶然或及老或患病其永臥狹房久苦老疾者進止不便淨地亦穢是以自今以後各就親族及?(サ馬:篤)信者而立一二舍屋于間處老者養身病者服藥十一月丁丒朔庚寅地震已亥大乙下倭馬飼部造連爲大使小乙下上寸主光欠(父)爲小使遣多祢嶋仍賜爵一級是月初置關於龍田山大坂山仍難波築羅城十二月丁未朔戊申由嘉禾以親王諸王諸臣及百官人等給祿各有差大辟罪以下悉赦之是年紀伊國伊刀郡貢芝草其狀似菌莖長一尺其蓋二圍亦因播國貢瑞稻毎莖有枝

【六月の庚戌が朔の日に、雹が降った。大きさは桃の実のぐらいだった。壬申の日に、あまごいした。乙亥の日に、大錦上の大伴の杜屋の連が死んだ。秋七月の朔が己卯の甲申の日に、あまごいした。壬辰の日に、廣瀬と龍田の神のお祭りをした。乙未の日に、四位の葛城王が死んだ。八月の己酉が朔の日に、「諸氏は、女を貢上しなさい」と詔勅した。己未の日に、泊瀬に行幸して、迹驚の淵の上で宴会を開いた。これより前に、王や公卿に「乗る馬のほかに、さらに馬を飼いならして、求めるとおりに提出しなさい」と詔勅した。それで泊瀬から宮に帰った日に、公卿が飼いならしていた馬を、迹見の駅家の道の前で見せて、それら全部走らせた。庚午の日に、縵の造の忍勝は、穂がたくさんついた穀類を献上した。異なる畝なのに穂が一つだった。癸酉の日に、大宅王が死んだ。九月の朔が戊寅の癸巳の日に、新羅に派遣した使者たちが、返って朝廷で拝礼した。庚子の日に、高麗に派遣した使者、耽羅に派遣した使者達が、帰って朝庭で拝礼した。冬十月の朔が戊申の己酉の日に、「聞いたのだが、近頃、凶暴な者が巷間にたくさんいると。これは王や公卿の過失だ。あるいは凶暴な者のことを聞いても、面倒と考えて我慢し放置した。あるいは悪人を見ても、怠って隠匿して正さない。その見聞どおり、糾弾すれば、どうして凶暴な者がいるのか。それで、今以後、面倒がらず、怠慢なく、上は下の過失を責め、下は上の暴挙を諫めれば、国家が治る」と詔勅した。戊午の日に、地震が有った。庚申の日に、詔勅して僧尼達の作法及び法服の色、併せて馬と従者が寺と里の往来の方法を定めた。甲子の日に、新羅は、阿飡の金項那・沙飡の薩虆生を派遣して朝貢した。年貢の品は、金・銀・鉄・鼎・錦・絹・布・皮・馬・狗・ラバ・駱駝のなど、十種類余だった。また別に物を献上した。天皇・皇后・太子に、金・銀・刀・旗の等を貢上し、各々たくさん有った。この月に、「全ての諸々の僧尼は、いつも寺の内に住んで、三宝を大切にしなさい。しかし、置いたり病んだりして、ずっと狭い部屋で臥せ、長く老いや病に苦しんでいる者は、財産も無く気の毒で、清浄な土地もけがれる。それで、今以後、各親族及び信仰のあつい者に看てもらい、一・二の舍屋を空いたところに立てて、老いた者は養生し、病人は藥を服用しなさい」と詔勅した。十一月の朔が丁丑の庚寅の日に、地震が有った。己亥の日に、大乙下の倭の馬飼部の造の連を大使として、小乙下の上の寸主の光父を小使として、多禰の嶋に派遣した。なお、爵位一級を与えた。この月に、はじめて関所を龍田の山と大坂の山に置いた。それで難波に羅城を築いた。十二月の朔が丁未の戊申の日に、豊作で親王・諸王・諸臣及び役人達に、禄を与え各々差が有った。死罪より以下残らず赦免した。この年に、紀伊の国の伊刀の郡が、マンネンタケを貢上した。その状態はキノコに似ていた。茎の長さ一尺、そのかさは二圍。また因播の国が、目出たい稲を貢上した。茎毎に枝分かれが有った。】とあり、六月庚戌朔は6月2日で前月は小の月で標準陰暦と合致せず、近辺にも合致する年が無く、30日の朔の変換間違いか、晦日を朔とする勢力が存在したのか不明で、十一月丁丒朔は10月30日、十二月丁未朔は11月30日で九州の暦を使い、それ以外は標準陰暦と合致する。

『三国史記』の新羅の日食記事が201年の奈解尼師今六年「三月丁卯朔日有食之」が最後に787年の元聖王三年「八月辛巳朔日有食之」まで記述が無く、201年の日干支も4月2日にあたり挿入間違い、若しくは高句麗が273年西川王四年「秋七月丁酉朔日有食之」を最後に記述し、この日干支が7月2日で、晦日の朔を違う暦を基に修正している可能性が高い。

すなわち、朝鮮半島では、この2日朔と同じ現象を700年頃も、間が長くて確信は持てないが、踏襲していた可能性が有り、筑紫都督府は熊津都督府の下に置かれていて、『日本書紀』に出現したこの現象も晦日が朔の暦を使用した可能性がある。

新羅の献上品を天皇と皇后と太子が分配しているが、草壁皇子の立太子は天武天皇十年で、679年の時点で太子と呼ばれるのは、長男の大友皇子と考えられ、『粟原寺鑪盤銘』の「日並御宇東宮」は、東宮と呼ばれた人物はいずれも天皇の子では無く、日並も同じで、この頃は、天智天皇が34才頃で、大友皇子が丁度13才程度と考えられる。

元明天皇の家系も、持統天皇が即位したのだから、持統天皇即位時は草壁皇子や日並なら、死亡していて、文武天皇もまだ20歳未満だったため、持統天皇が即位したと考えられ、天皇の後継者はこれまで見てきたように立太子は不要で、天皇が即位した時、すでに決まっている。

2021年1月18日月曜日

最終兵器の目 天武天皇14

  『日本書紀』慶長版は

八年春正月壬午朔丙戌新羅送使加良井山金紅世等向京戊子詔曰凡當正月之節諸王諸臣及百寮者除兄姉以上親及已氏長以外莫拜焉其諸王者雖母非王姓者莫拜凢諸臣亦莫拜卑母雖非正月節復准此若有犯者隨事罪之巳亥射于西門二月壬子朔髙麗遣上部大相桓父下部大相師需婁等朝貢因以新羅遣奈末甘勿那送桓父等於筑紫甲寅紀臣堅麻呂卒以壬申年之功贈大錦上位乙夘詔曰及于辛己年撿挍親王諸臣及百寮人之兵及馬故豫貯焉是月降大恩恤貧乏以給其飢寒三月辛已朔丙戌兵衞大分君稚見死當壬申年大役爲先鋒之破瀬田營由是功贈外小錦上位丁亥天皇幸於越智拜後岡本天皇陵已丒吉備大宰石川王病之薨於吉備天皇聞之大哀則降大恩云々贈諸王二位壬寅貧乏僧尼施綿布夏四月辛亥朔乙夘詔曰商量諸有食封寺所由而可加々之可除々之是日定諸寺名也己未祭廣瀬龍田神五月庚辰朔甲申幸于吉野宮乙酉天皇詔皇后及草壁皇子尊大津皇子髙市皇子阿嶋皇子忍壁皇子芝基皇子曰朕今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事奈之何皇子等共對曰理實灼然則草壁皇子尊先進盟曰天神地祗及天皇證也吾兄弟長幼幷十餘王各出于異腹然不別同異倶隨天皇勅而相扶無忤若自今以後不如此盟者身命亡之子孫絶之非忘非失矣五皇子以次相盟如先然後天皇曰朕男等各異腹而生然今如一母同産慈之則披襟抱其六皇子因以盟曰若違茲盟忽亡朕身皇后之盟旦如天皇丙戌車駕還宮已丑六皇子共拜天皇於大殿前

【八年の春正月の朔が壬午の丙戌の日に、新羅の送使の加良井山と金紅世達が、京に向った。戊子の日に、「正月の節目となって、諸王・諸臣及び役人は、兄姉より以上の親及び自分たちの氏の長を除いては、年始の挨拶をしてはならない。諸王は、母であっても、王の姓で無かったら年始の挨拶はしてはならない。全ての諸臣は、自分たちより身分の低い母に年始の挨拶をしてはならない。正月の節目でなくても、これに倣いなさい。もし犯す者がいたら、事実に応じて罰する」と詔勅した。己亥の日に、西門で弓を射る儀式を行った。二月の壬子が朔の日に、高麗は、上部の大相の桓父と下部の大相の師需婁達を派遣して、朝貢した。それで新羅は、奈末の甘勿那を派遣して桓父達を筑紫に送った。甲寅の日に紀の臣の堅摩呂が死んだ。壬申年の功労で、大錦上の位を贈った。乙卯の日に、「辛巳の年になって、親王・諸臣及び役人達の兵器及び馬を調査する。それで、豫め集めておきなさい」と詔勅した。この月に、大恩を裁可して貧困者に恩恵を与えた。それで飢え凍えている者に物資を与えた。三月の朔が辛巳の丙戌の日に、武官の大分君の稚見が死んだ。壬申年の大乱で、先鋒として、瀬田の陣営を破った。この功績によって外の小錦上の位を贈った。丁亥の日に、天皇は、越智に行幸して、後の岡本天皇の陵で拝礼した。己丑の日に、吉備の大宰の石川王が、病気になって吉備で薨じた。天皇は、それを聞いてとても哀しんだ。それで大恩を裁可して、云云。諸王の二位を贈った。壬寅の日に、貧しい僧尼に綿布を施した。夏四月の朔が辛亥の乙卯の日に、「諸々の封禄が有る寺の由来を考えて、加えるべきは加え、止めるべきは止めなさい」と詔勅した。この日に、諸寺の名を定めた。己未の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りをした。五月の朔が庚辰の甲申の日に、吉野の宮に行幸した。乙酉の日に、天皇は、皇后及び草壁皇子の尊と大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に「わたしは、今日、お前たちと一緒に庭で誓い、千年たっても何事も無いようにしたいとと思う。どうだ」と詔勅した。皇子達は、共に「そのとおりです」と答えた。則ち草壁皇子尊が、まず進み出て「天神地祇及び天皇は証人になってほしい。私と兄弟の上から下まで併せて十王余は其々母が違う。それでも母が同じでも異なっていても区別なく、一緒に天皇の詔勅に従って、扶け合い逆らわ無い。もし今以後、この誓いを破ったら、身も心も滅び、子孫が絶える。忘れません、過ちを犯しません。」と誓った。五人の皇子も同じように、次々に誓い合った。その後で、天皇は「私の男子達は、各々母を異にして生れた。しかし今は、同じ母から生まれたようにいつくしんでいる」と言った。それで胸襟をひらいてその六人の皇子を抱きしめた。それで「もしこの誓いに反したら、すぐに我が身を亡すだろう」と誓った。皇后が盟ったことは、天皇と同じだった。丙戌の日に、駕籠に乗って、宮に帰った。己丑の日に、六人の皇子が、共に天皇を正殿の前で拝礼した。】とあり、標準陰暦と合致する。

盟約の皇子の中で河嶋皇子は天智天皇七年「忍海造小龍女曰色夫古娘生一男・・・川嶋皇子」と天智天皇の皇子で、芝基皇子も同じく「越道君伊羅都賣生施基皇子」か天武天皇二年の「宍人臣大麻呂女擬媛娘・・・其二曰磯城皇子」かよくわからず、天智天皇の皇子たちの可能性が高く、「如一母同産」も天皇にとってはみな自分の子なので、わざわざ、同じ母のようと言うのは、奇妙で、皇后の言葉、もしくは女帝の言葉のように感じられる。

また、壬申の功で昇進された紀臣堅摩呂は直接壬申の乱に記述されず、壬申の乱に記述される石川王は、壬申の功績を記述されていない。

石川王の冠位の諸王二位は大宝律令の冠位で、『続日本紀』では慶雲元年704年に「无位」の諸王へ「无位長屋王授正四位上无位大市王手嶋王氣多王夜須王倭王宇大王成會王並授從四位下」と四位を与えていて、持統譲位から8年目と合致する。

2021年1月15日金曜日

最終兵器の目 天武天皇13

  『日本書紀』慶長版は

七年春正月戊午朔甲戌射于南門已夘耽羅人向京是春將祠天神地祗而天下悉秡禊之竪齋宮於倉梯河上夏四月丁亥朔欲幸齋宮卜之癸巳食卜仍取平旦時警蹕既動百寮成列乗輿命蓋以未及出行千(十)市皇女平然病發薨於宮中由此鹵簿既停不得幸行遂不祭神祗矣己亥霹靂新宮西廳柱庚子葬十市皇女於赤穗天皇臨之降恩以發哀秋九月忍海造能麻呂獻瑞稻五莖毎莖有枝由是徒罪以下悉赦之三位稚狹王薨之冬十月甲申朔有物如綿零於難波長五六尺廣七八寸則隨風以飄于松林及葦原時人曰甘露也已酉詔曰凢內外文武官毎年史以上属官人等公平而恪懃者議其優劣則定應進階正月上旬以前具記送法官則法官挍定申送大辨官然縁公事以出使之日其非真病及重服輕縁小故而辭者不在進階之例十二月癸丒朔已夘臘子鳥弊天自西南飛東北是月筑紫國大地動之地裂廣二丈長三千餘丈百姓舍屋毎村多仆壞是時百姓一家有岡上當于地動夕以岡崩處遷然家既全而無破壞家人不知岡崩家避伹會明後知以大驚焉是年新羅送使奈末加良井山奈末金紅世到于筑紫曰新羅王遣汲飡金消勿大奈末金世々等貢上當年之調仍遣臣井山送消勿等倶逢暴風於海中以消勿等皆散之不知所如唯井山僅得著岸然消勿等遂不來矣

【七年の春正月の朔が戊午の甲戌の日に、南門でに弓を射る儀式を行った。己卯の日に、耽羅人が、京に向った。この春に、天神地祇を祠ろうとして、天下に例外なく禊のお祓いをした。斎宮を倉梯の河上に建てた。夏四月の丁亥が朔の日に、斎宮に行幸しようと占った。癸巳の日と占いを受けた。それで 夜が明けたころに、神殿のとびらをあける合図で動いた。役人が列を成して、輿に乗って蓋いをさせたが、まだ出発する前に、十市の皇女が、突然に発病して、宮中で薨じた。これで、天皇の行列を止めて行幸できなかった。それで神祇を祭らなかった。己亥の日に、新宮の西役所の柱に落雷した。庚子の日に、十市皇女を赤穗に葬った。天皇は、葬る様子を見て、情けを掛けて泣いて哀悼した。秋九月に、忍海の造の能摩呂が、目出たい稲五茎を献上した。茎毎に枝分かれしていた。これで、労役の刑より以下を、残らず赦免した。三位の稚狹王が薨じた。冬十月の甲申が朔の日に、綿の様な物が難波に降った。長さが五六尺くらいで、広さ七八寸ぐらいだった。それで風で松林と葦原とに飛ばされた。その当時の人は「中国の伝説の天子が仁政を行ったしるしだ」と言った。十月の己酉の日に、「全ての内外の文武官は、年毎に、史より以上は、その所属する官吏達、公平に勤勉な者を、その優劣を相談して、与える階位を決めなさい。正月の上旬より以前に、詳しく記して法官に送りなさい。法官は、調査して決めて、大辨官に申し送りなさい。しかし公事なので、使者を出す日に、仮病や父母の喪でもないのに、簡単で些細な理由で断ったら階位を昇進させてはならない」と詔勅した。十二月の朔が癸丑の己卯の日に、アトリが、空を覆いつくし、西南から東北に飛んでいった。この月に、筑紫の国で大地震が有った。地面が広さ二丈、長さ三千丈余裂けた。百姓の舍屋が、村毎に多く倒壊した。この時に、百姓の一家が、岡の上に有った。地震が夕に発生し、岡が崩れて違う場所に移動した。それなのに家は全く、損壊が無かった。家の人は、岡が崩れて家が移動したことを気付かなかった。ただし夜が明けて、気づいて大変驚いた。この年、新羅の送使の奈末の加良井山と奈末の金紅世が、筑紫に遣ってきて、「新羅の王が、汲飡の金消勿と大奈末の金世世達を派遣して、その年の年貢を貢上した。それで臣下の井山を派遣して、消勿達を送らせた。ともに暴風に海中で遭遇した。それで消勿達は、みな散り散りになって、何処に行ったか解からない。ただし井山だけ、何とか岸に着くことができた」と言った。しかし消勿達は、とうとう来なかった。】とあり、標準陰暦と合致する。

十市の皇女は前述の『万葉集』の調査から、天智天皇が母親の鏡王より高齢なのに、鏡王の娘の額田を娶って、生まれた姫で違和感が有り、この説話は693年持統7年の説話の可能性が有り、『日本書紀』の天武天皇の説話も複数の王朝の大王が記述されている。

額田姫は皇太子の日並と婚姻していて『粟原寺鑪盤銘』「以甲午年始至和銅八年」と694年はまだ天智天皇がまだ皇位にあって、浄御原天皇と呼ばれ、天皇と同等の次代の天武天皇である「大友皇子拜太政大臣」で、大友皇子が20才未満なので、天智天皇の弟の日並が東宮で『万葉集』の三代目額田王の皇太子への歌が東宮日並に対する歌なら合致する。

『興福寺流記』の「文見 孝徳天皇代可勘定寶字記云興福寺此寺之興也創于飛鳥坂蓋宮御宇天豊財重日足姫天皇之代焉至于天皇四年歳次」と興福寺創建が鎌足の内大臣就任の669年より以前の孝徳天皇の時の資料で「大臣枕席・・・嫡室鏡女王」の鏡女王の夫が蝦夷と「皇極天皇8」で示したように、推古天皇の娘が白鳳を建元した鏡女王額田(天皇システムを構成する1人)・その娘が「天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女」と額田姫王・その娘か妹で父が『粟原寺鑪盤銘』の天武天皇ではなく、浄御原天皇の為に伽檻を造らせた「仲臣朝臣大嶋」が父と思われる。

『万葉集』には「草壁皇子」も「大友皇子」も歌われず、日並皇子のみ歌われ、大友皇子も日並皇子と重ねた可能性が有り、高市皇子の死亡は696年の持統十年「後皇子尊薨」で誰が死んだか不明で、この死亡が日並で、本来は天智天皇の皇子の高市皇子が『新唐書』の「子天武立死子總持立」の總持天皇だから、壬申の乱には草壁皇子が出現しないで、「高市爲太政大臣」と天皇と同等の高市皇子が活躍する。

2021年1月13日水曜日

最終兵器の目 天武天皇12

  『日本書紀』慶長版は

六年春正月甲子朔庚辰射于南門二月癸巳朔物部連麻呂至自新羅是月饗多祢嶋人等於飛鳥寺西槻下三月癸亥朔辛已召新羅使人清平及以下客十三人於京夏四月壬辰朔壬寅村田史名倉坐指庠乗輿以流于伊豆嶋乙巳送使珍那等饗于筑紫即從筑紫歸之五月壬戌朔不告朔甲子勅大博士百濟人率母授大山下位因以封三十戸是日倭畫師音檮授小山下位乃封二十戸戊辰新羅人阿飡朴刺破從人三口僧三人漂著於血鹿嶋巳刄(丑)勅天社地社神税者三分之一爲?(捉上天:擬)供神二分給神主是月旱之於京及畿內雩之六月壬辰朔乙巳大震動是月詔東漢直等曰汝等黨族之自本犯七不可也是以從小墾田御世至于近江朝常以謀汝等爲事今當朕世將責汝等不可之狀以隨犯應罪然頓不欲絶漢直之氏故降大恩以原之徒(從)今以後若有犯者必入不赦之例秋七月辛酉朔癸亥祭龍田風神廣瀬大忌神八月辛夘朔乙已大設齋於飛鳥寺以讀一切經便天皇御寺南門而禮三寶是時詔親王諸王及群卿毎人賜出家一人其出家者不問男女長幼皆隨願度之因以會于大齋丁巳金清平歸國即漂着朴判破等付清平等返于本土戊午耽羅遣王子都羅朝貢九月庚申朔己丒詔曰凡浮浪人其送本土者猶復還到則彼此並科課役冬十月庚寅朔癸夘內小錦上河邊臣百枝爲民部卿內大錦下丹比公麻呂爲攝津職大夫十一月巳未朔雨不告朔筑紫大宰獻赤鳥則大宰府諸司人賜祿各差且專捕赤鳥者賜爵五級乃當郡々司等加増爵位因給復郡內百姓以一年之是日大赦天下己夘新嘗辛巳百寮諸有位人等賜食乙酉侍奉

新嘗神官及國司等賜祿十二月巳丑朔雪不告朔

【六年の春正月の朔が甲子の庚辰の日に、南門で弓を射る儀式を行った。二月の癸巳が朔の日に、物部の連の摩呂が、新羅から帰った。この月に、多禰嶋の人達が飛鳥寺の西のケヤキの下で饗応した。三月の朔が癸亥の辛巳の日に、新羅の使者の清平及び以下の客人十三人を京に呼んだ。夏四月の朔が壬辰の壬寅の日に、杙田の史の名倉が、輿に乗っている天皇を指差して非難したので、伊豆の嶋に流した。乙巳の日に、送使の珍那達を、筑紫で饗応した。それで筑紫から帰った。五月の壬戌が朔の日に、朔を告げなかった。甲子の日に、大博士の百済人の率母に詔勅して、大山下の位を授けた。それで三十戸に封じた。この日に、倭の畫師の音梼に、小山下の位を授けた。それで二十戸に封じた。戊辰の日に、新羅人の阿飡の朴刺破と従者三人と僧三人が、血鹿の嶋に漂着した。己丑の日に、「天社地社の神税は、三つに分けて、一つを、神に供えるために、あとの二つを神主に分けなさい」と詔勅した。この月は、旱魃だった。京と畿内で雨乞いした。六月の朔が壬辰の乙巳の日に、大地震が有った。この月に、東の漢の直達に「お前たちの一族は、昔から七つのいけない事を犯した。そのため、小墾田の世から、近江の朝廷に至るまで、いつもお前達は陰謀を企てた。今、私の世になって、お前たちのいけない行為を責めて、犯行に従って罰しなければならない。しかし急に漢の直の氏を絶やそう思わない。それで、大恩を下して許そう。今から以後、もし犯す者がいたら、きっと赦さない」と詔勅した。秋七月の朔が辛酉の癸亥の日に、龍田の風神と廣瀬の大忌の神を祭った。八月の朔が辛卯の乙巳の日に、盛大に飛鳥の寺に法会を開いて、一切經を読経した。それで天皇は、寺の南門に居て、三宝に拝礼した。この時に、親王と諸王及び公卿に詔勅して、人毎に出家した者一人を与えた。その出家者は、男女と長幼とを問わず、皆、願いどおりに出家した。それで大法会を開いた。丁巳の日に、金清平が、国に帰った。即ち漂着した朴刺破達を、清平達に従わせて、本土に返した。戊牛の日に、耽羅が、王子の都羅を派遣して、朝貢した。九月の朔が庚申の己丑の日に、「全ての浮浪人を、その出身地に送ってまた戻ってきたら、出身地でもこちらでも課役しなさい」と詔勅した。冬十月の朔が庚寅の癸卯の日に、内の小錦上の河邊の臣の百枝を民部卿とした。内の大錦下の丹比公の麻呂を攝津職の大夫とした。十一月の己未が朔の日に、雨が降って朔を告げなかった。筑紫の大宰が、赤烏を献上した。それで大宰府の官吏に、俸禄して各々差が有った。また赤烏を捕った者に、爵位の五級を与えた。それでその郡の郡司達に、爵位を加増した。それで郡内の百姓に一年報いた。この日に、天下に大赦した。己卯の日に、新嘗した。辛巳の日に、官僚の諸位を持つ人たちに禄を与えた。乙酉の日に、新嘗に使えた神官及び国司達に禄を与えた。十二月の己丑が朔の日に、雪が降ったので朔を告げなかった。】とあり、標準陰暦と合致する。

朔の記述が無い説話に「饗于筑紫」と筑紫の内容が有り、朔の記事の内容は「庚寅朔・・・大錦下丹比公麻呂爲攝津職大夫」など畿内に関する内容で、天武期は朔記事がない内容が筑紫の出来事の可能性が高い。

私は何度も朔日の日干支が正しいから、『日本書紀』は真実を記述していると述べてきたが、朔記事は、中国史書や『三国史記』は1日が朔と晦日が朔が日食記事から解り、中国は晋朝から1日が朔になりそれ以前は晦日が朔で『三国史記』は国や時期によって異なる。

しかし、『日本書紀』は朔が晦日に対応する暦と30日を朔とする暦と1日が朔とする記述が混在し、倭国記事が「30日が朔」の暦、『古事記』の国が「晦日が朔」、畿内政権が「1日が朔」と判断した。

それで、立太子記事が倭国の記事と解り、垂仁・景行・政務・神功紀に卑弥呼たちの内容や『古事記』の朝廷の始まりが記述され、それ以外の武・物部・尾張の朝廷が畿内政権と判断できた。

私の標準陰暦は『史記』の史書最古の日干支付き日食記事の紀元前178年の孝文本纪三年「十月丁酉晦日有食之」から十月丁酉が11月1日で正しく、『三国史記』も紀元前54年の赫居世居西干「四年夏四月辛丑朔日有食之」も正しく、朔日記事が定数間隔でなく、『三国志』の注記「正始三年九月辛未朔」が242年ではなく、241年の日干支と間違いが有ったことも解り、史書本文が正しいことを証明できた。

『三国志』に景初3年記事は無く、「其以建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月」と景初2年12月が寅之月としていたので、後に丑月を「あとの12月」としていて、『三国志』本文は景初3年は丑月のみなので、「正始三年九月辛未朔」が241年の日干支で正しい。


2021年1月11日月曜日

最終兵器の目 天武天皇11

 『日本書紀』慶長版は

秋七月丁夘朔戊辰卿大夫及百姓寮諸人等進爵各有差甲戌耽羅客歸國壬午祭龍田風神廣瀬大忌神是月村國連雄依卒以壬申年之功贈外小紫位有星出于東七八尺至九月竟天八月丙申朔丁酉親王以下小錦以上大夫及皇女姫王內命婦等給食封各有差辛亥詔曰四方爲大解除用物則國別國造輸拔柱馬一匹布一常以外郡司各刀一口鹿皮一張钁一口刀子一口鎌一口矢一具稻一束且毎戸麻一條壬子詔曰死刑沒官三流並降一等徒罪以下已發覺未發覺悉赦之唯既配流不在赦例是日詔諸國以放生是月大三輪真上田子人君卒天皇聞之大哀以壬申年之功贈內小紫位仍謚曰大三輪真上田迎君九月丙寅朔雨不告朔乙亥王卿遣京及畿內授人別兵丁丑筑紫大宰三位屋垣王有罪流于土左戊寅百寮人及諸蕃人等賜祿各有差丙戌神官奏曰爲新嘗卜國郡也齋忌則尾張國山田郡次丹波國訶沙郡並食卜是月坂田公雷卒以壬申年功贈大紫位冬十月乙未朔置酒宴群臣丁酉祭幣帛於相新嘗諸神祇甲辰以大乙上物部連麻呂爲大使大乙中山背直百足爲小使遣新羅十一月乙丒朔以新嘗事不告朔丁夘新羅遣沙飡金清平請政幷遣汲飡金好儒弟監大舍金欽吉等進調其送使奈末被珍那副使奈末好福送清平等於筑紫是月肅愼七人從清平等至之癸未詔近京諸國而放生甲申遣使於四方國說金光明經仁王經丁亥髙麗遣大使後部主博河于副使前部大兄德富朝貢仍新羅遣大奈末金楊原送髙麗使人於筑紫是年將都新城而限內田園者不問公私皆不耕悉荒然遂不都矣」【秋七月の朔が丁卯の戊辰の日に、高官および官僚の諸人に、爵位を与え、各々に差が有った。甲戌の日に、耽羅の客が、帰国した。壬午の日に、龍田の風神と廣瀬の大忌の神を祭った。この月に、村國の連の雄依が死んだ。壬申年の功労で、外小紫の位を贈った。彗星が東に出た。長さが七八尺有った。九月になって、空から消えた。八月の朔が丙申の丁酉の日に、親王以下、小錦以上の高官、及び皇女や姫王や五位以上の位階を持つ女官達に、俸禄を与え、各々差が有った。辛亥の日に、「四方で大規模なお祓いを行え。必要な物は、国毎に国造が出しなさい。お祓いの中心は馬一匹と布一常。それ以外は郡司が出しなさい。各々、刀一口・鹿皮一張・くわ一口・刀子一口・鎌一口・矢一具・稻一束だ。また戸毎に、麻一條出しなさい」と詔勅した。壬子の日に、「死刑や没収三種の流刑は、同じように一段階軽くしなさい。労役の刑より以下は、発覚していても発覚していなくても、残らず許しなさい。ただしすでに流した者は、許すな」と詔勅した。この日に、諸国に捕らえた生き物を逃がしてやるように詔勅した。この月に、大三輪の眞上田の子人の君が死んだ。天皇は、聞いてとても哀しんだ。壬申年の功労で、内の小紫の位を贈った。それで大三輪の眞上の田迎の君の名を謚号した。九月の丙寅が朔の日に、雨が降って朔を告げなかった。乙亥の日に、王と公卿を京および畿内に派遣して、人毎に兵器を調べさせた。丁丑の日に、筑紫の大宰の三位の屋垣の王に、罪が有って土佐へ流した。戊寅の日に、役人及び諸蕃の人達に、俸禄を与えた。各々、差が有った。丙戌の日に、神官が「新嘗の為に国郡を占い物忌みは尾張国の山田の郡、次は丹波国の訶沙の郡、が一緒に受け入れた」と奏上した。この月に、坂田の公の雷が死んだ。壬申年の功労で、大紫の位を贈った。冬十月の乙未が朔の日に、酒を準備して臣下のために宴会を開いた。丁酉の日に、相嘗で諸々の神祇にお供えを祀った。甲辰の日に、大乙上の物部の連の摩呂を大使とし、大乙中の山背の直の百足を小使として、新羅に派遣した。十一月の乙丑が朔の日に、新嘗なので、朔を告げなかった。丁卯の日に、新羅が、沙飡の金清平を派遣して裁可を願った。一緒に汲飡の金好儒と弟監の大舍の金欽吉達を派遣して、年貢を進上した。その送使の奈末の被珍那と副使の奈末の好福と清平達を筑紫へ送った。この月に、肅愼人七人が、清平達と一緒にやって来た。癸未の日に、京に近い諸国に詔勅して、生物を放たせた。甲申の日に、使者を四方の国に派遣して、金光明經と仁王經の説教をさせた。丁亥の日に、高麗が、大使の後部の主簿の阿于と副使の前部の大兄の徳富を派遣して、朝貢した。それで新羅は、大奈末の金楊原を派遣して、高麗の使者を筑紫に送った。この年に、新城に都を造ろうとした。区域内の田園は、公私を問わず、皆が耕さず、残らず荒廃していた。しかしとうとう都を造らなかった。】とあり、八月丙申朔は7月30日で九州の暦で、他は標準陰暦と合致する。

ここでの「告朔」は「こくさく」で『令集解』でいう「こうさく」とは異なり、「こうさく」の始まりは702年大宝二年九月十四日の「制諸司告朔文者主典以上送弁官惣納中務省」で701年大宝元年正月四日の「天皇御大安殿受祥瑞如告朔儀」とどちらか不明で天皇が目出度い知らせを受けて告朔の儀礼のようだと言っていることから、臣下からか神のお告げかよくわからない。

告朔の儀礼は『舊唐書』に詳しく、698年聖曆元年正月「尋制每月一日於明堂行告朔之禮・・・無天子每月告朔之事」と毎月1日に告朔之禮を行う制度を尋ねて、今では天子が実施していないと答え、幹寶注に「周正建子之月告朔日也」と周が子の月の1日に始めたと記述している。

ただし、この朔日は新月の日ではなく、この頃は晦日が新月だったことが日食記事からわかっていて、前日が朔だったことを告げる儀式だったようだ。

すなわち「告朔之禮」は天子が行う儀礼で、この儀礼をおこなわない場合は場合、「不行告朔之禮」若しくは「無告朔之事」と記述するのが正しく、不告朔は「朔」を告げなかったと理解すべきである。

これは、この日に「こくさく」の儀礼すなわち、朔日を神に報告する儀礼ではなく告げなかったことを意味し、朝廷は正確な朔日を使っていたが、この暦を使わない九州に向かって、本日が朔日だと告げてこの暦を使いなさいと宣言していたということだ。

これまでは、朝、朔を確認して布告していたが、暦を導入して朔を推定できるようになり、布告しなくても記録が朔と記述できるようになったことを示し、『舊唐書』にも772年六月庚戌に「有司言日蝕」と計算報告の記録があり、「陰雲不見」と見えなかったので、朔と記述していない。

ここでも、高麗が畿内に朝貢してきたので、新羅が朝貢の場所が機内ではなく筑紫でなければならないので、筑紫に連れて行って、筑紫は加増する余裕が有るのに対して、畿内は遷都すらできなかった。

2021年1月8日金曜日

最終兵器の目 天武天皇10

  『日本書紀』慶長版は

五年春正月庚子朔群臣百寮朔拜朝癸夘髙市皇子以下小錦以上大夫等賜衣袴褶腰帶脚帶及机杖唯小錦三階不賜机丙午小錦以上大夫等賜祿各有差甲寅百寮初位以上進薪即日悉集朝庭賜宴乙夘置祿射于西門庭中的則給祿有差是日天皇御嶋宮宴之甲子詔曰凡任國司者除畿內及陸奧長門國以外皆任大山位以下人二月庚午朔拝癸巳耽羅客賜舩一艘是月大伴連國麻呂等至自新羅夏四月戊戌朔辛刄(丑)祭龍田風神廣瀬大忌神倭國添下郡鰐積吉事貢瑞鶏其冠似海石榴華是日倭國飽波郡言雌鶏化雄辛亥勅諸王諸臣被給封戸之税者除以西國相易給以東國又外國人欲進仕者臣連伴造之子及國造子聽之唯雖以下庶人其才能長亦聽之巳未詔美濃國司曰在礪杵郡紀臣河佐麻呂之子遷東國即爲其國之百姓五月戊辰朔庚午宣進調過期限國司等之犯狀云云甲戌下野國司奏所部百姓遇凶年飢之欲賣子而朝不聽矣是月勅禁南淵山細川山並莫蒭薪又畿內山野元所禁之限莫妄焼折六月四位栗隈王得病薨物部雄君連忽發病而卒天皇聞之大驚其壬申年從車駕入東國以有大功降恩贈內大紫位因賜氏上是夏大旱遣使四方捧幣帛祈諸神祗亦請諸僧尼祈于三寶然不雨由是五穀不登百姓飢之

【五年の春正月の庚子が朔の日に、臣下や役人が朝廷に拝礼した。癸卯の日に、高市皇子以下、小錦以上の高官達に、衣物と袴と 平帯と腰帯と脚帯と脇息と杖を与えた。ただし小錦の三階には脇息を与えなかった。丙午の日に、小錦以上の高官達に、俸禄を与え其々差が有った。甲寅の日に、役人の初位以上が、薪を献上した。その日に、残らず朝庭に集って宴会を開いた。乙卯の日に、褒美の禄を並べて西の門の庭で弓を射る儀式を行った。的に命中した人には褒美の祿を与え其々差が有った。この日に、天皇は、嶋宮に居て宴会を開いた。甲子の日に、「全ての国司を任命するのに、畿内や陸奧と長門国を除いて、これ以外は皆、大山位以下の者を任命しなさい」と詔勅した。二月の朔が庚午の癸巳の日に、耽羅の客に船一艘を与えた。この月に、大伴の連の國摩呂達が、新羅から着いた。夏四月の朔が戊戌の辛丑の日に、龍田の風神と廣瀬の大忌神を祭った。倭国の添の下の郡の鰐積の吉事が、目出たい鷄を貢上した。その鶏冠が、つばきの花のようだった。この日に、倭国の飽波の郡が「雌鷄が、雄に化けた」と言った。辛亥の日に、「諸王や諸臣に与えていた封戸の税は、西の国の税を与えず代わりに東の国の税を与えなさい。また畿内の外の国の人で朝廷に出仕しようと思う者は、臣・連・伴造の子、及び国造の子なら許しなさい。ただしそれより低い地位の庶民といっても、才能がある者は許しなさい」と詔勅した。己未の日に、美濃の国司に「砺杵の郡に居る紀の臣の訶佐麻呂の子を東国に遷して、それでその国の百姓にしなさい」と詔勅した。五月の朔が戊辰の庚午の日に、年貢を進上せずに期限が過ぎた国司達が犯した罪状を宣べた云云。甲戌の日に、下野国司が「管轄をする百姓が、凶作のため、飢えて子を売ろうとしている」と奏上した。それで朝廷は許さなかった。この月に、「南淵の山と細川の山の入山を禁じて、一緒に草刈も木こりも許さない。また畿内の山野の、元々から入山を禁じている所は区切って木を焼いたり切ったりしてはならない」と詔勅した。六月に、四位の栗隈王が病に罹って薨じた。物部の雄君の連が、急に発病しいて死んだ。天皇は、聞いてとても驚いた。あの壬申年に、車駕に付き従って東国に入り、大功が有ったので、恩賞を与えて内大紫位を贈った。それで氏上を与えた。この夏は、大変な干ばつだった。使者を四方に派遣して、供物を奉納して、諸々の神紙に祈らせた。また諸々の僧尼に頼んで、三宝に祈願した。しかし雨が降らなかった。この為、五穀は実らなかった。百姓は飢えた。】とあり、二月庚午朔は2月2日で理由は不明だが707年のことと考えられ、それ以外は標準陰暦と合致する。

『舊事本紀』に「孫内大紫位物部雄君連公守屋大連之子此連公飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位奉齋神宮」と記述され、壬申年に関して全く記述せず、守屋の子と記述され、守屋の死亡が630年ころと言うことがここでも証明され、壬申の乱も次項に記述される物部連公麻侶が朝臣姓をもらう以前に壬申の乱が無く、氏上も贈ではなく賜で生きているときに授与されている。

西の税が入ってこなくなったので、東の税収で官僚を賄ったようで、登場人物も西の人物が出現せず、唐の支配がかなり厳しかった様子がうかがえ、外交施設も最終的には筑紫に送っている。

唐の支配が強いとはいえ、倭国勢力の排除による財力取得による、大盤振る舞いの様子が目に浮かぶようで、壬申の乱は『舊唐書』の「日本舊小國併倭國之地」とあるように、唐の力を借りた大革命で、一瞬にして小国の俀国が大国になったことを、如実に表している。

2021年1月6日水曜日

最終兵器の目 天武天皇9

  『日本書紀』慶長版は

「四月甲戌朔戊寅請僧尼二千四百餘而大設齋焉辛已勅小錦上當摩公廣麻呂小錦下久努臣麻呂二人勿使朝參壬午詔曰諸國貸税自今以後明察百姓先知冨貧簡定三等仍中戸以下應與貸癸未遣小紫美濃王小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野遣小錦中間人蓋大山中曾祢連韓大祭大忌神於廣瀬河曲丁亥小錦下文努臣麻呂坐對捍詔使官位書追庚寅詔諸國曰自今以後制諸漁獵者莫造檻穽及施機槍等之類亦四月朔以後九月三十日以前莫置比溝沙伎理梁且莫食牛馬犬?(犭表:猨)鶏之完以外不在禁例若有犯者罪之辛夘三位麻續王有罪流于因播一子流伊豆嶋一子流血鹿嶋丙申簡諸才藝者給祿各有差是月新羅王子忠元到難波六月癸酉朔乙未大分君惠尺病將死天皇大驚詔曰汝惠尺也背私向公不惜身命以遂雄之心勞于大役恒欲慈愛故爾雖既死子孫厚賞仍騰外小紫位未及數日薨于私家秋七月癸夘朔己酉小錦上大伴連國麻呂爲大使小錦下三宅吉士入石爲副使遣于新羅八月壬申朔耽羅調使王子久麻伎泊筑紫癸已大風飛沙破屋丙申忠元禮畢以歸之自難波發舩巳亥新羅髙麗二國調使饗於筑紫賜祿有差九月壬寅朔戊辰耽羅王姑如到難波冬十月辛未朔癸酉遣使於四方覔一切經庚辰置酒宴群臣丙戌自筑紫貢唐人三十口則遣遠江國而安置庚寅詔曰諸王以下初位以上毎人備兵是日相摸國言髙倉郡女人生三男十一月辛丑朔癸夘有人登宮東岳妭言而自刎死之當是夜直者悉賜爵一級是月大地動」

【夏四月の朔が甲戌の戊寅の日に、僧や尼二千四百人余に頼んで、大法会を催した。辛巳の日に、「小錦上の當摩の公の廣麻呂と小錦下の久努の臣の麻呂の二人は、朝廷に参内してはならない」と詔勅した。壬午の日に、「諸国の貸税は、これから、よく百姓を観察して、まず貧富を調べて、おおよそ三等分に決めなさい。それで中間の戸から以下に貸与しなさい」と詔勅した。癸未の日に、小紫の美濃王と小錦下の佐伯の連の廣足を派遣して、風の神を龍田の立野に祠らせた。小錦中の間人の連の大蓋と大山中の曾禰の連の韓犬を派遣して、大忌の神を廣瀬の河曲に祭らせた。丁亥の日に、小錦下の久努の臣の磨呂が、詔書を伝達した使者に対して拒否したので、官位を残らず取り上げた。庚寅の日に、諸国に「これより以後、諸々の漁や狩猟民に、檻や仕掛けを造るなど、狩猟を制限する。また四月の朔より以後、九月三十日より以前に、魚を捕る仕掛けや簗を設置することを禁じる。また牛や馬や犬や猿や鷄の肉を食べてはならない。それ以外は禁じない。もし犯したら罰する」と詔勅した。辛卯の日に、三位の麻續王が罪を犯した。因播に流した。一人の子を伊豆の嶋に流した。一人の子を血鹿の嶋に流した。丙申の日に、諸々の才能ある者を選んで、俸禄を与え各々差が有った。この月に、新羅の王子の忠元が、難波に着いた。六月の朔が癸酉の乙未の日に、大分の君の惠尺が、病で死の淵に居た。天皇はとても驚いて、「お前惠尺は、私心ではなく公のために骨身を惜しまなかった。雄々しい振る舞いで大乱で功労があった。変わらず深い愛情を持っていた。だから、お前がたとえ死んでも、子孫に手厚く褒賞する」と詔勅した。それで外小紫の位に昇級した。数日もせずに、私邸で薨去した。秋七月の朔が癸卯の己酉の日に、小錦上の大伴の連の國麻呂を大使として、小錦下の三宅の吉士の入石を副使として、新羅に派遣した。八月の壬申が朔の日に、耽羅の年貢を納める使者の王子の久麻伎が、筑紫に停泊した。癸巳の日に、強風が吹いて砂が舞い上がり屋根を壊した。丙申の日に、忠元が、儀礼が終わって帰った。難波から船出した。己亥の日に、新羅と高麗の二国の年貢を納める使者を筑紫で饗応した。俸禄を与え差が有った。九月の朔が壬寅の戊辰の日に、耽羅の王の姑如が、難波に着いた。冬十月の朔が辛未の癸酉の日に、使者を四方に派遣して、一切經を探し求めた。庚辰の日に、酒を準備して臣下達のために宴会を開いた。丙戌の日に、筑紫が唐人三十人を貢上した。それで遠江の国に派遣して置いた。庚寅の日に、「諸王以下、初位以上は、人毎に兵器を備えなさい」と詔勅した。この日に、相模の国が「高倉の郡の女人が、一度に三人の男子を生んだ」と言った。十一月の朔が辛丑の癸卯の日に、人がいて宮の東の岳に登って、不吉な言葉を発して自ら首を斬って死んだ。この夜に当直した者に、残らず爵位を一級昇級した。この月に、大地震があった。】とあり、四月甲戌朔は3月30日、六月癸酉朔は5月30日、八月壬申朔は7月30日で筑紫の暦で他は標準陰暦と合致するが、7・9・10月の前月は小の月のためどちらとも言えない。

前項の「諸王四位栗隈王」や「三位麻續王」と諸王と諸臣を別け三位や四位という数値の位の大宝令、と664年の冠位26階が混在し、『続日本紀』には文武元年八月「賜王親及五位已上食封各有差」と大宝令以前から施行されており、大化三年の「是歳制七色一十三階」は本当の大化3年697年の記事の可能性があり、大化の冠位と大化の冠位を受け付けなかった文武朝廷の混在を表していると思われる。

そして、耽羅は天武2年に「耽羅使人・・・在國王及使者久麻藝等肇賜爵位・・・當其國之佐平位」と爵位を与え、それまでは朝貢だったものが、調を進上して、臣下の待遇になり、『三国史記』新羅文武王10年「封安勝爲高句麗王」と安勝を高句麗王に封じたように新羅も高句麗の宗主国で共に爵位を得ているから新羅が高麗を連れ立って調を貢上しているが、高句麗は日本に泰治手は新羅と対等との考えが有ったのだろう。

天武天皇になって、負けたはずの日本に新羅からの朝貢記事が毎年のようあり、王子まで来ていり、670年に正式に同盟国の俀国が政権について、新羅が正式な国賓として来日したことを示し、俀国の倭国に対する裏切りが大きい物であり、日本との同盟関係があるから、新羅も唐と対立関係になれたと言えそうだ。


2021年1月4日月曜日

最終兵器の目 天武天皇8

  『日本書紀』慶長版は

三年春正月辛亥朔庚申百濟王昌成薨贈此小紫位二月辛巳朔戊申紀臣阿閇麻呂卒天皇大悲之以勞壬申年之役贈大紫位三月庚戌朔丙辰對馬國司守忍海造大國言銀始出于當國即貢上由是大國授小錦下位凡銀有倭國初出于此時故悉奉諸神祗亦周賜小錦以上大夫等秋八月戊寅朔庚辰遣忍壁皇子於石上神宮以膏油瑩神寶即日勅曰元來諸家貯於神府寶物今皆還其子孫冬十月丁丒朔乙酉大來皇子自泊瀬齋宮向伊勢神宮四年春正月丙午朔大學寮諸學生陰陽寮外藥寮及舍衞女墮羅女百濟王善光新羅仕丁等捧藥及珍異等物進丁未皇子以下百寮諸人拜朝戊申百寮諸人初位以上進薪庚戌始興占星臺壬子賜宴群臣於朝庭壬戌公卿大夫及百寮諸人初位以上射于西門庭亦是日大倭國貢瑞鶏東國貢白鷹近江國貢白鵄戊辰祭幣諸社二月乙亥朔癸未勅大倭河內攝津山背播磨渉(淡)路丹波但馬近江若狹伊勢美濃尾張等國曰選所部百姓之能歌男女及侏儒伎人而貢上丁亥十市皇女阿閇皇女參赴於伊勢神宮已丒詔曰甲子年諸氏被給部曲者自今以後除之又親王諸王及諸臣幷諸寺等所賜山澤嶋浦林野陂池前後並除焉癸己詔曰群臣百寮及天下人民莫作諸惡若有犯者隨事罪之丁酉天皇幸於髙安城是月新羅遣王子忠元大監級飡金比蘇大監奈末金天沖第監大麻朴武麻弟監大舍金洛水等進調其逐使奈末金風那奈末金孝福送王子忠元於筑紫三月乙巳朔丙午土左大神以神刀一口進于天皇戊午饗金風那等於筑紫即自筑紫歸之庚申諸王四位栗隈王爲兵政官長小錦上大伴連御行爲大輔是月髙麗遣大兄冨干大兄多武等朝貢新羅遣級飡朴勤修大奈末金美賀進調夏

【三年の春正月の朔が辛亥の庚申の日に、百済王の昌成が薨じた。小紫の位を贈った。二月の朔が辛巳の戊申の日に、紀の臣の阿閉麻呂が死んだ。天皇は、とても悲しんだ。壬申の年の功労で、大紫の位を贈った。三月の朔が庚戌の丙辰の日に、對馬の国司の守の忍海の造の大國が「銀が私の国に出た。それで貢上します」と言った。このため、大國に小錦下の位を授けた。おおよそ銀が倭国にでたことは、この時にはじめて出た。それで、残らず諸々の神々に奉納した。また全ての小錦より以上の高官達に与えた。秋八月の朔が戊寅の庚辰の日に、忍壁皇子を石上の神宮に派遣して、磨き油で神寶につやをだした。その日に、「元々諸家の、神の倉庫に貯蔵した宝物は、今、其々の子孫に返しなさい」と詔勅した。冬十月の朔が丁丑の乙酉の日に、大來皇女が、泊瀬の齋宮からあ、伊勢神宮に向った。四年の春正月の丙午が朔の日に、官僚育成機関の諸々の学生や陰陽の機関や医学の機関およびインドの女やタイの女や百済王の善光と新羅の雑役達が、藥や珍しい物を手に持って進上した。丁未の日に、皇子より以下、諸役人が、朝廷を拝んだ。戊申の日に、諸役人の、初位以上が、薪を進上した。庚戌の日に、はじめて星を観測する物見やぐらを立てた。壬子の日に、臣下のために朝庭で宴会を開いた。壬戌の日に、官吏や諸役人の、初位以上が、西門の庭で矢を射る儀式を行った。この日に、大倭の国が、目出たい鷄を貢上した。東国は、白い鷹を貢上した。近江国は、白い鵄を貢上した。戊辰の日に、諸社に御幣を祀った。二月の朔が乙亥の癸未の日に、大倭と河内と攝津と山背と播磨と淡路と丹波と但馬と近江と若狭と伊勢と美濃と尾張らの国に「管轄の百姓で上手く歌う男女や背の低い人や芸のある人を選んで貢上しなさい」と詔勅した。丁亥の日に、十市皇女と阿閉皇女が、伊勢神宮に赴任した。己丑の日に、「甲子の年に諸氏に与えた私有民を、これからは、全て止めなさい。また親王と諸王や諸臣と、それに併せて諸寺等に与えた山沢や嶋の浜辺や林野や・土手のある池は、以前のものも今後もみな止めなさい」と詔勅した。癸巳の日に、詔して曰はく、「臣下や役人及び天下の人民は、諸々の悪事をしてはいけない。もし犯したら、内容に従って罰する」と詔勅した。丁酉の日に、天皇は、高安の城に行幸した。この月に、新羅は、王子の忠元や大監の級飡の金比蘇と大監の奈末の金天沖と第監の大麻の朴武摩と第監の大舍の金洛水達を派遣して、年貢を進上した。その送使の奈末の金風那と奈末の金孝福が、王子の忠元を筑紫に送った。三月の朔が乙巳の丙午の日に、土左の大神が、神刀一口を、天皇に進上した。戊午の日に、金風那達を筑紫で饗応した。それで筑紫から帰った。庚申の日に、諸王の四位の栗隈王を軍務の長官にした。小錦上の大伴の連の御行を次官にした。この月に、高麗が、大兄の富干と大兄の多武達を派遣して、朝貢した。新羅は、級飡の朴勤修と大奈末の金美賀を派遣して、年貢を進上した。】とあり、正月辛亥朔は前項に続いて705年2月1日、三月庚戌朔は705年3月1日で、ただし、ともに前月朔が前月の30日なので九州の説話の否定はできず、それ以外は標準陰暦と合致する。

百済王昌成の子の郎虞は『続日本紀』に737年天平九年七月「己丑散位從四位下百濟王郎虞卒」と死亡していて、703年大宝三年八月に「以從五位上百濟王良虞爲伊豫守」と職を与えられ、674年の昌成死亡では郎虞の年齢が高年齢となり異様で、705年の記事なら子が郎虞が20歳程度となって理に適う。

また、銀出土記事はどちらとも言えないが、無文銀銭の出土地が大津で埋納時期はおそらくこれ以降の694年までと考えられるが、和同開珎作成前に使えるお金を埋納するのか疑問で、無文銀銭の年代も再考が必要かもしれない。

標準陰暦と合致する、675年3月の饗応を筑紫で行い、その後都に帰っていて、天武紀では筑紫での饗応がほとんどで、天武期は首都機能が筑紫にあり、鎌足や大友皇子が政務を遂行していたと考えられ、郭務悰も695年頃まで在日し、それまで、多数の唐人に爵位している。