2021年1月13日水曜日

最終兵器の目 天武天皇12

  『日本書紀』慶長版は

六年春正月甲子朔庚辰射于南門二月癸巳朔物部連麻呂至自新羅是月饗多祢嶋人等於飛鳥寺西槻下三月癸亥朔辛已召新羅使人清平及以下客十三人於京夏四月壬辰朔壬寅村田史名倉坐指庠乗輿以流于伊豆嶋乙巳送使珍那等饗于筑紫即從筑紫歸之五月壬戌朔不告朔甲子勅大博士百濟人率母授大山下位因以封三十戸是日倭畫師音檮授小山下位乃封二十戸戊辰新羅人阿飡朴刺破從人三口僧三人漂著於血鹿嶋巳刄(丑)勅天社地社神税者三分之一爲?(捉上天:擬)供神二分給神主是月旱之於京及畿內雩之六月壬辰朔乙巳大震動是月詔東漢直等曰汝等黨族之自本犯七不可也是以從小墾田御世至于近江朝常以謀汝等爲事今當朕世將責汝等不可之狀以隨犯應罪然頓不欲絶漢直之氏故降大恩以原之徒(從)今以後若有犯者必入不赦之例秋七月辛酉朔癸亥祭龍田風神廣瀬大忌神八月辛夘朔乙已大設齋於飛鳥寺以讀一切經便天皇御寺南門而禮三寶是時詔親王諸王及群卿毎人賜出家一人其出家者不問男女長幼皆隨願度之因以會于大齋丁巳金清平歸國即漂着朴判破等付清平等返于本土戊午耽羅遣王子都羅朝貢九月庚申朔己丒詔曰凡浮浪人其送本土者猶復還到則彼此並科課役冬十月庚寅朔癸夘內小錦上河邊臣百枝爲民部卿內大錦下丹比公麻呂爲攝津職大夫十一月巳未朔雨不告朔筑紫大宰獻赤鳥則大宰府諸司人賜祿各差且專捕赤鳥者賜爵五級乃當郡々司等加増爵位因給復郡內百姓以一年之是日大赦天下己夘新嘗辛巳百寮諸有位人等賜食乙酉侍奉

新嘗神官及國司等賜祿十二月巳丑朔雪不告朔

【六年の春正月の朔が甲子の庚辰の日に、南門で弓を射る儀式を行った。二月の癸巳が朔の日に、物部の連の摩呂が、新羅から帰った。この月に、多禰嶋の人達が飛鳥寺の西のケヤキの下で饗応した。三月の朔が癸亥の辛巳の日に、新羅の使者の清平及び以下の客人十三人を京に呼んだ。夏四月の朔が壬辰の壬寅の日に、杙田の史の名倉が、輿に乗っている天皇を指差して非難したので、伊豆の嶋に流した。乙巳の日に、送使の珍那達を、筑紫で饗応した。それで筑紫から帰った。五月の壬戌が朔の日に、朔を告げなかった。甲子の日に、大博士の百済人の率母に詔勅して、大山下の位を授けた。それで三十戸に封じた。この日に、倭の畫師の音梼に、小山下の位を授けた。それで二十戸に封じた。戊辰の日に、新羅人の阿飡の朴刺破と従者三人と僧三人が、血鹿の嶋に漂着した。己丑の日に、「天社地社の神税は、三つに分けて、一つを、神に供えるために、あとの二つを神主に分けなさい」と詔勅した。この月は、旱魃だった。京と畿内で雨乞いした。六月の朔が壬辰の乙巳の日に、大地震が有った。この月に、東の漢の直達に「お前たちの一族は、昔から七つのいけない事を犯した。そのため、小墾田の世から、近江の朝廷に至るまで、いつもお前達は陰謀を企てた。今、私の世になって、お前たちのいけない行為を責めて、犯行に従って罰しなければならない。しかし急に漢の直の氏を絶やそう思わない。それで、大恩を下して許そう。今から以後、もし犯す者がいたら、きっと赦さない」と詔勅した。秋七月の朔が辛酉の癸亥の日に、龍田の風神と廣瀬の大忌の神を祭った。八月の朔が辛卯の乙巳の日に、盛大に飛鳥の寺に法会を開いて、一切經を読経した。それで天皇は、寺の南門に居て、三宝に拝礼した。この時に、親王と諸王及び公卿に詔勅して、人毎に出家した者一人を与えた。その出家者は、男女と長幼とを問わず、皆、願いどおりに出家した。それで大法会を開いた。丁巳の日に、金清平が、国に帰った。即ち漂着した朴刺破達を、清平達に従わせて、本土に返した。戊牛の日に、耽羅が、王子の都羅を派遣して、朝貢した。九月の朔が庚申の己丑の日に、「全ての浮浪人を、その出身地に送ってまた戻ってきたら、出身地でもこちらでも課役しなさい」と詔勅した。冬十月の朔が庚寅の癸卯の日に、内の小錦上の河邊の臣の百枝を民部卿とした。内の大錦下の丹比公の麻呂を攝津職の大夫とした。十一月の己未が朔の日に、雨が降って朔を告げなかった。筑紫の大宰が、赤烏を献上した。それで大宰府の官吏に、俸禄して各々差が有った。また赤烏を捕った者に、爵位の五級を与えた。それでその郡の郡司達に、爵位を加増した。それで郡内の百姓に一年報いた。この日に、天下に大赦した。己卯の日に、新嘗した。辛巳の日に、官僚の諸位を持つ人たちに禄を与えた。乙酉の日に、新嘗に使えた神官及び国司達に禄を与えた。十二月の己丑が朔の日に、雪が降ったので朔を告げなかった。】とあり、標準陰暦と合致する。

朔の記述が無い説話に「饗于筑紫」と筑紫の内容が有り、朔の記事の内容は「庚寅朔・・・大錦下丹比公麻呂爲攝津職大夫」など畿内に関する内容で、天武期は朔記事がない内容が筑紫の出来事の可能性が高い。

私は何度も朔日の日干支が正しいから、『日本書紀』は真実を記述していると述べてきたが、朔記事は、中国史書や『三国史記』は1日が朔と晦日が朔が日食記事から解り、中国は晋朝から1日が朔になりそれ以前は晦日が朔で『三国史記』は国や時期によって異なる。

しかし、『日本書紀』は朔が晦日に対応する暦と30日を朔とする暦と1日が朔とする記述が混在し、倭国記事が「30日が朔」の暦、『古事記』の国が「晦日が朔」、畿内政権が「1日が朔」と判断した。

それで、立太子記事が倭国の記事と解り、垂仁・景行・政務・神功紀に卑弥呼たちの内容や『古事記』の朝廷の始まりが記述され、それ以外の武・物部・尾張の朝廷が畿内政権と判断できた。

私の標準陰暦は『史記』の史書最古の日干支付き日食記事の紀元前178年の孝文本纪三年「十月丁酉晦日有食之」から十月丁酉が11月1日で正しく、『三国史記』も紀元前54年の赫居世居西干「四年夏四月辛丑朔日有食之」も正しく、朔日記事が定数間隔でなく、『三国志』の注記「正始三年九月辛未朔」が242年ではなく、241年の日干支と間違いが有ったことも解り、史書本文が正しいことを証明できた。

『三国志』に景初3年記事は無く、「其以建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月」と景初2年12月が寅之月としていたので、後に丑月を「あとの12月」としていて、『三国志』本文は景初3年は丑月のみなので、「正始三年九月辛未朔」が241年の日干支で正しい。


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