『日本書紀』慶長版は
「八年春正月壬午朔丙戌新羅送使加良井山金紅世等向京戊子詔曰凡當正月之節諸王諸臣及百寮者除兄姉以上親及已氏長以外莫拜焉其諸王者雖母非王姓者莫拜凢諸臣亦莫拜卑母雖非正月節復准此若有犯者隨事罪之巳亥射于西門二月壬子朔髙麗遣上部大相桓父下部大相師需婁等朝貢因以新羅遣奈末甘勿那送桓父等於筑紫甲寅紀臣堅麻呂卒以壬申年之功贈大錦上位乙夘詔曰及于辛己年撿挍親王諸臣及百寮人之兵及馬故豫貯焉是月降大恩恤貧乏以給其飢寒三月辛已朔丙戌兵衞大分君稚見死當壬申年大役爲先鋒之破瀬田營由是功贈外小錦上位丁亥天皇幸於越智拜後岡本天皇陵已丒吉備大宰石川王病之薨於吉備天皇聞之大哀則降大恩云々贈諸王二位壬寅貧乏僧尼施綿布夏四月辛亥朔乙夘詔曰商量諸有食封寺所由而可加々之可除々之是日定諸寺名也己未祭廣瀬龍田神五月庚辰朔甲申幸于吉野宮乙酉天皇詔皇后及草壁皇子尊大津皇子髙市皇子阿嶋皇子忍壁皇子芝基皇子曰朕今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事奈之何皇子等共對曰理實灼然則草壁皇子尊先進盟曰天神地祗及天皇證也吾兄弟長幼幷十餘王各出于異腹然不別同異倶隨天皇勅而相扶無忤若自今以後不如此盟者身命亡之子孫絶之非忘非失矣五皇子以次相盟如先然後天皇曰朕男等各異腹而生然今如一母同産慈之則披襟抱其六皇子因以盟曰若違茲盟忽亡朕身皇后之盟旦如天皇丙戌車駕還宮已丑六皇子共拜天皇於大殿前」
【八年の春正月の朔が壬午の丙戌の日に、新羅の送使の加良井山と金紅世達が、京に向った。戊子の日に、「正月の節目となって、諸王・諸臣及び役人は、兄姉より以上の親及び自分たちの氏の長を除いては、年始の挨拶をしてはならない。諸王は、母であっても、王の姓で無かったら年始の挨拶はしてはならない。全ての諸臣は、自分たちより身分の低い母に年始の挨拶をしてはならない。正月の節目でなくても、これに倣いなさい。もし犯す者がいたら、事実に応じて罰する」と詔勅した。己亥の日に、西門で弓を射る儀式を行った。二月の壬子が朔の日に、高麗は、上部の大相の桓父と下部の大相の師需婁達を派遣して、朝貢した。それで新羅は、奈末の甘勿那を派遣して桓父達を筑紫に送った。甲寅の日に紀の臣の堅摩呂が死んだ。壬申年の功労で、大錦上の位を贈った。乙卯の日に、「辛巳の年になって、親王・諸臣及び役人達の兵器及び馬を調査する。それで、豫め集めておきなさい」と詔勅した。この月に、大恩を裁可して貧困者に恩恵を与えた。それで飢え凍えている者に物資を与えた。三月の朔が辛巳の丙戌の日に、武官の大分君の稚見が死んだ。壬申年の大乱で、先鋒として、瀬田の陣営を破った。この功績によって外の小錦上の位を贈った。丁亥の日に、天皇は、越智に行幸して、後の岡本天皇の陵で拝礼した。己丑の日に、吉備の大宰の石川王が、病気になって吉備で薨じた。天皇は、それを聞いてとても哀しんだ。それで大恩を裁可して、云云。諸王の二位を贈った。壬寅の日に、貧しい僧尼に綿布を施した。夏四月の朔が辛亥の乙卯の日に、「諸々の封禄が有る寺の由来を考えて、加えるべきは加え、止めるべきは止めなさい」と詔勅した。この日に、諸寺の名を定めた。己未の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りをした。五月の朔が庚辰の甲申の日に、吉野の宮に行幸した。乙酉の日に、天皇は、皇后及び草壁皇子の尊と大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に「わたしは、今日、お前たちと一緒に庭で誓い、千年たっても何事も無いようにしたいとと思う。どうだ」と詔勅した。皇子達は、共に「そのとおりです」と答えた。則ち草壁皇子尊が、まず進み出て「天神地祇及び天皇は証人になってほしい。私と兄弟の上から下まで併せて十王余は其々母が違う。それでも母が同じでも異なっていても区別なく、一緒に天皇の詔勅に従って、扶け合い逆らわ無い。もし今以後、この誓いを破ったら、身も心も滅び、子孫が絶える。忘れません、過ちを犯しません。」と誓った。五人の皇子も同じように、次々に誓い合った。その後で、天皇は「私の男子達は、各々母を異にして生れた。しかし今は、同じ母から生まれたようにいつくしんでいる」と言った。それで胸襟をひらいてその六人の皇子を抱きしめた。それで「もしこの誓いに反したら、すぐに我が身を亡すだろう」と誓った。皇后が盟ったことは、天皇と同じだった。丙戌の日に、駕籠に乗って、宮に帰った。己丑の日に、六人の皇子が、共に天皇を正殿の前で拝礼した。】とあり、標準陰暦と合致する。
盟約の皇子の中で河嶋皇子は天智天皇七年「忍海造小龍女曰色夫古娘生一男・・・川嶋皇子」と天智天皇の皇子で、芝基皇子も同じく「越道君伊羅都賣生施基皇子」か天武天皇二年の「宍人臣大麻呂女擬媛娘・・・其二曰磯城皇子」かよくわからず、天智天皇の皇子たちの可能性が高く、「如一母同産」も天皇にとってはみな自分の子なので、わざわざ、同じ母のようと言うのは、奇妙で、皇后の言葉、もしくは女帝の言葉のように感じられる。
また、壬申の功で昇進された紀臣堅摩呂は直接壬申の乱に記述されず、壬申の乱に記述される石川王は、壬申の功績を記述されていない。
石川王の冠位の諸王二位は大宝律令の冠位で、『続日本紀』では慶雲元年704年に「无位」の諸王へ「无位長屋王授正四位上无位大市王手嶋王氣多王夜須王倭王宇大王成會王並授從四位下」と四位を与えていて、持統譲位から8年目と合致する。
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