2022年9月30日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』履中天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「履中天皇諱去來穗別尊者大鷦鷯天皇第一太子也母日皇后磐之媛命葛城襲津彦女也三十一年春正月立為皇太子時年十五八十七年春正月大鷦鷯天皇崩元年歳次庚子春二月壬午朔皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈太皇太后都於磐余謂稚櫻宮物部伊苔井連為大連秋七月已酉朔壬子葦田宿祢女黒媛立為皇妃生二男一女 磐坂市邊押羽皇子次御馬皇子青海皇女次妃幡媛皇女生中磯皇女二年春正月丙午朔乙酉瑞齒別皇子立為儲君五年秋九月乙酉朔壬寅皇妃薨六年春正月癸未朔戊子草香幡媛皇女立為皇后 三月壬午朔丙申天皇玉躰不豫水土弗調崩于稚櫻宮時年七十又壬申年正月三日崩年七十冬十月己酉朔壬子葬于百舌鳥耳原陵天皇所生皇子二男二女兄磐坂市邊押羽皇子尊 次御馬皇子次青海皇女尊次中城皇女」、【履中天皇、諱は去来穂別で大鷦鷯天皇の第一皇子、母は皇后の磐之媛で葛城襲津彦の娘である。治世三十一年春一月、皇太子となったときは十五歳。八十七年春一月、大鷦鷯天皇が崩じた。元年春二月壬午朔、皇太子は即位し前の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后と追号した。磐余に都を造り、稚桜宮といった。物部伊莒弗連を大連とし、秋七月已酉朔壬子、葦田宿祢の娘の黒媛を皇妃とした。妃は二男一女を生み磐坂市辺押羽、御馬、青海である。次の妃の幡梭は、中磯を生んだ。二年春一月丙午朔乙酉、瑞歯別を皇太子にした。五年の秋九月乙酉朔壬寅に、皇妃黒媛は薨じた。六年春一月癸未朔戊子、草香幡梭を皇后とした。三月壬午朔丙申、天皇は病気になり、体の不調から臭くなって稚桜宮で崩じた。七十歳、また壬申年の一月三日に崩じたともいう。七十歳。冬十月己酉朔壬子に、百舌鳥耳原陵に葬った。天皇の生んだ子は二男二女。兄に磐坂市辺押羽、次に御馬、次に青海、次に中磯。】と訳した。

『舊事本紀』ではこの項の朔の日干支が天文学的朔で、『日本書紀』では、「葬皇妃」の時の車持君が筑紫国での咎の記述で、「記言事達四方志」と「四方志」も九州の史書(『梁書』倭國・文身國・大漢國・侏儒國もしくは扶桑國、扶桑國は元々史書の「諸記」を持ち4国に入らないと考えられる)だったと思われる。

『舊事本紀』では天皇の死亡年が干支で記述されているのは、仁徳・履中のみだが、『古事記』はそれ以外に崇神・成務・神功・応神・反正・・・推古まで年干支を記述し、以前記述した仁徳の大別と履中の麦入は物部氏の天皇の為、『舊事本紀』に『古事記』と共通する記録が残っていたと考えられ、天皇の死亡年の壬申年432年は麦入の崩御と思われる。

『古事記』の死亡年の干支は戊寅318年(御真木入日子印恵)の戊寅の年が始まりと考えられ、316年「去來穗別皇子定壬生部亦爲皇后定葛城部」と襲津彦の娘の磐之媛の為に葛城部を創設し、ここで葛城国造・葛城直の姓が始まり、そのため、「劍根・・・葛城直祖」、腋上池心宮御宇天皇の「葛󠄀木直祖大諸見」と葛城国がないから葛城直になっていないが、ここで、葛城部が出来て、葛城国が出来、荒田彦が国造の姓を与えられ、長江襲津彦が葛城直襲津彦宿祢の姓を得て、祖父日向襲津彦が318年に死亡したと考えられる。

すなわち、日向襲津彦が難波・河内に侵入し、大物主の子の河内に住む大田田根子の兄弟の、恐らく、大物主・大酒主の娘の弟媛を妃にして長江襲津彦が生まれ、木菟宿禰と国替えして、葛城国造荒田彦の娘の葛比売を妃に葛城襲津彦宿禰、日向泉長媛を稚櫻宮天皇の妃にして皇位継承権を得て、伊呂賣を妃に伊奢能麻和迦が生まれ、乙卯355年長江襲津彦が死亡、壬戌362年葛城襲津彦宿禰が死亡、甲午394年伊奢能麻和迦が死亡し、去來穗別が後を継いだと考えられる。

401年の履中天皇二年の立太子は421年『宋書』の『夷蛮伝倭國』に「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と讃の統治で、「立木梨輕皇子爲太子」の前年433年まで在位し、413年『晋書』の「義熙九年高句麗・倭國・・・並獻方物」、425年『宋書』「文帝元嘉二年讚又遣司馬曹達奉表獻方物」、421年『宋書』の『夷蛮伝倭國』に「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と記述され、百濟とは良好な関係を続けたが、高句麗・新羅とは戦闘が続き、418年訥祇麻立干二年には「王弟未斯欣自倭國逃還」と王弟が人質となっていたが、逃げ帰っている。

直支王・微叱己知波珍干岐の記述は『日本書紀』が挿入場所を間違えていて、朝廷の記事ではなく他家の説話であることが理解でき、倭国の記事と想定できる。

2022年9月28日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書9

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「亦一時天皇爲將豊樂而幸行日女嶋之時於其嶋鴈生卵尓召建内宿祢命以歌問鴈生卵之状其歌曰多麻岐波流宇知能阿曽那許曽波余能那賀乃比登蘇良美都夜麻登能久迩()加理古牟登岐久夜於是建内宿祢以歌語白多迦比迦流比能美古宇倍志許曽斗比多麻閇麻許曽迩斗比多麻閇阿礼許曽波余能那賀乃比登蘇良美都夜麻登能久迩尓加理古牟登伊麻陀岐加受如此白而被給御琴歌曰那賀美古夜都毘迩()斯良牟登加理波古牟良斯此者本岐歌之()片歌也此之御世兎()寸河之西有一高樹其樹之影當旦日者逮淡道嶋當夕日者越高安山故切是樹以作舩其()捷行之舩也時号其舩謂枯野故以是舩旦夕酌淡道嶋之寒泉獻大御水也()茲舩破壊以焼塩取其焼遺木作琴其音響七里尓歌曰加良怒表()志本尓夜岐斯賀阿麻理許登尓都久理加岐比久夜由良能斗能斗那加()能伊久理尓布礼多都那豆能紀能佐夜佐夜此者志都歌之歌返也此天皇()御宇()捌拾参歳(丁卯年八月十五日崩也)御陵在毛受之耳上原也」、【亦、ある時、天皇が宴会をして、日女島に出かけたとき、その島に鴈が卵を生んだ。それで建内宿禰を招いて、歌で鴈が卵を生んだ状況を聞いて歌()った。建内宿禰は、歌()った。この様に言って、琴をもらって歌()った。これは祝福の歌の問答歌だ。この世に、免寸河の西に一つの高い樹が有った。樹の影は、朝日に当れば、淡道島に届き、夕日に当れば、高安山を越える。それで、この樹を切って船を作ると、とても速い船になった。ある時その船を枯野と名付けた。それで、この船で朝夕に、淡道島の井戸水を酌んで、献上した。この船に穴が開いたら壊して塩を焼いて、燃え残った木を取って琴を作ると、音が七里に響き渡った。それで歌()った。これは志都歌の返歌だ。天皇の年は捌拾參歳。丁卯の年の八月十五日に崩じた。陵は毛受耳上原に在る。】と訳した。

建内宿禰は景行天皇三年73年から仁徳天皇五十年362年まで記述され、しかも全天皇に事績として出現するが、これは、木国の山代の内の建氏に婿入りして磯城天皇に内王・大国将軍として仕えてきたと考えられ、大国将軍の建内宿禰を継いで大鷦鷯、分家の日向襲津彦の東侵で400年から葛城氏が天皇になったと考えられる。

葛城氏は葛󠄀木直の祖の大諸見足尼・稚倭根子大毘ゝが大綜麻杵の娘の伊香色謎を妃に御間城入彦、2代目大彦の娘の御間城姫を妃に活目入彦生み、兄弟に伊邪能眞若が存在し、伊奢沙和氣大神が伊邪能眞若と考えられる。

武埴安彦の反乱で活躍して生駒を領有して生駒の活目入彦、活目入彦は竟富那毘・弟彦の妹の葛城之高千那毘賣を妃に山代内臣の祖の味師内宿禰を生み、宇豆比古の妹を妃にすることで建氏を名乗り、四道侵攻で「吉備津彦遣西道」に若建吉備津日子の配下で従軍して小国の少名日子建猪心、若建吉備津日子の娘を妃に大帯彦と出世したようだ。

大帯彦は大碓(大帯彦)、小碓(仲帯彦)、倭根子(海部根子・稚帯彦)を生み、小碓は熊襲に侵攻し、日向髪長大田根を妃に日向襲津彦が生まれ、『紀氏家牒』に葛城襲津彦の母は「葛城国造荒田彦之女葛比売生襲津彦宿祢」とあり、これは、『古事記』の「娶葛城之野伊呂賣此生御子伊奢能麻和迦王」と同じ内容の襲名と思われる。

尾張連の祖の建伊那陀宿祢の孫の品它真若の娘の高木之入日賣の子「額田大中日子命次大山守命次伊奢之真若命」とあるように、軽嶋豊明宮天皇の子の伊奢之真若の名を日向襲津彦の子の名と交換したようだ。

日向諸縣君は日向襲津彦の母の日向髮長大田根の父か兄弟と思われ、日向襲津彦と行動を共にして、生駒を征服し、その娘の髮長比賣を尾張軽嶋豊明宮天皇が妃にすることで、天皇を「烟氣不起於域中」と貧窮する土地の難波に追い出したと思われる。

また、八田皇女は妃になったのが仁徳天皇二二年で、元年に菟道稚郎子から『日本書紀』「進同母妹八田皇女」と勧められたが、二十年以上たってからの「納八田皇女將爲妃」は矛盾し、おそらく、難波に遷都した天皇に襲津彦と国替えした大鷦鷯がついて、襲津彦の影響力が小さくなって、淡海朝廷の多遅麻が八田皇女を皇后にすることで、兄弟の大別が皇位を奪取し、襲津彦は朝鮮半島で財力を蓄えて400年に、襲名した五十琴宿禰から200年間続く磐余稚櫻宮朝廷を引き継いだと思われる。

2022年9月26日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書8

   『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「亦天皇以其弟速総別王爲媒而乞庶妹女鳥王尓女鳥王語速総別王曰因太后之強不治賜八田若郎女故思不仕奉吾爲汝命之妻即相婚是以速総別王不復奏尓天皇置()幸女鳥(王之所堅而坐其殿戸之或闕上於是女鳥王如本)坐機而織服尓天皇歌曰賣杼理能和賀意富岐美能游呂須波多他賀多泥呂迦母女鳥王荅歌曰多迦由久夜波夜夫佐和氣能美游須比賀泥故天皇知其()還入於宮此時其夫()速総別王到來之時其妻女鳥王歌曰比婆理波阿米迩迦氣流多迦由玖夜波夜夫佐和氣佐那()岐登良佐泥天皇聞此歌即興軍欲殺尓速総別王女鳥王共逃退而騰于倉椅山於是速総別王歌曰波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波()()泥弖和賀弖登良須母又歌曰波斯多弖能久良波斯夜麻波佐賀斯祁柳()伊毛登能煩禮波佐賀斯玖母阿良受故自其地逃亡到宇陀之蘇迩時御軍追到而殺也其將軍山部大楯連取其女鳥王所纏御手之玉鈕而與己妻此時之後將爲豊樂之時氏々之女等皆朝参尓大楯連之妻以其王之玉鈕纏于己手而参赴於是太后石之日賣命自取大御酒柏賜諸氏々之女等尓太后見知其玉鈕不賜御酒柏乃引退召出其夫大楯連以詔之其王等因()()礼而退賜是者無異事耳夫之奴乎所纏巳()君之御手玉鈕於膚煴剥持來即與巳()妻乃給死刑也」、【亦、天皇は、弟の速總別を媒酌人として、庶妹の女鳥を望んだ。そこで女鳥が、速總別に「大后が強いので、八田若郎女に手が出なかった。それで、私は仕へたくない。私はあなたの妻になりたい。」と言って、それで結ばれた。それで速總別、復奏しなかった。それで天皇は、女鳥のいる所に直に行き、戸口の敷居の上に座った。女鳥は、機織り機に座って服を織った。天皇歌った()。女鳥答えて歌った()。それで、天皇は心情を知り、宮に帰った。その時、速總別が遣って来て、その妻の女鳥王の歌()を伝え、天皇は歌を聞いて、すぐに挙兵して殺そうとした。それで速總別は、女鳥と共に逃げて、倉椅山に登った。速總別が歌()った。又、歌()った。それで、そこから逃亡して、宇陀の蘇迩についた時、軍勢が追ひ迫って殺した。その將軍の山部大楯連は、女鳥の手に纒った玉釧を奪い取って、自分の妻に与えた。この後、宴会を開いた時、氏々の女たちが、皆、朝廷に参上した。そこで大楯連の妻が、王の玉釧を、自分の手に纒って参上した。大后石之日賣は、自ら酒の器を取って、諸氏の女たちに与えた。大后は、その玉釧を見知っていて、酒の器を与えず、身を引き退けて、夫大楯連を召し出して「その王達は、無礼なので退けた。これはおかしい事ではないぞ。お前は、君主の手に纒う玉釧を、膚の温もりがあるうちに剥いで持って来て、自分の妻に与えた。」と言って、死刑にした。】と訳した。

この記述は、溜池を造って、稲の増産で裕福になった大雀が海部直の羽田矢代宿禰の娘黒姫を妃にして淡海朝廷に接近するのに失敗し、今度は淡海朝廷を奪取しようと、淡海朝の配下の山部連に謀反を起こさせた説話だと思われ、『日本書紀』では「近江山君稚守山・・・手有纏良珠」、「隼別皇子逃走即遣吉備品遲部雄鯽」と佐伯直阿俄能胡が玉を奪い、近江山君が淡海朝を奪取したようだ。

山部連は『日本書紀』清寧天皇二年に「播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯」、『舊事本紀』白髮天皇二年「播磨國司山部連先祖伊予來目部小楯」と来目部で、仁賢天皇の時「播磨國司山部連小楯詣亦求迎白髮天皇尋」と山部を賜姓され、『古事記』と食い違うが、『古事記』は仁賢天皇が創り、馬子が追加した史書と考えられ、仁賢天皇の視点で記述されたことによると考えられ、大楯が難波・河内朝と敵対し、仁賢天皇の協力者だった事を示している。

山部は『古事記』品陀和気に「定賜海部山部山守部伊勢部也亦作釼池」と河内近辺の釼池造ったように、大山守の事績で、平群氏大雀は淡海朝廷の山君の大山守を滅ぼして、これらの地域を分割し、大山守の配下の小楯と後ろ盾の葦田宿禰の子の磐坂市邊押羽を殺害したと考えられる。

この近江山君稚守山は「息長宿祢王・・・息長日子王三柱此王者吉備品遅君針間阿宗君之祖」とあるように、息長日子の可能性が高く、播磨國司小楯の上司が針間阿宗君や吉備品遅君と思われ、葛城氏を滅ぼすのに協力した可能性が高い。

このように、同じ説話でも、ネタ元の違いで、『古事記』は佐伯直を記述せず、『舊事本紀』はこの説話を記述せず、『古事記』を造らせた仁賢天皇にとって佐伯直は功労者だったから、この記述となった。

2022年9月23日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書7

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「而還暫入坐箇木韓人名奴理能美之家也天皇聞()其太后自山代上幸而使舎人名謂鳥山人送御歌曰夜麻斯呂迩伊斯祁登理夜麻伊斯祁伊斯祁阿賀波斯豆摩()迩伊斯岐阿波牟迦()母又続遣丸迩臣日()子而歌曰美母呂能曽能多迦紀耶()流意富牽()古賀波良(意富韋古賀岐良)迩阿流岐毛牟加布許々呂袁陀迩迦()阿比淤母波愛()阿良牟又歌曰都藝泥布夜麻志呂賣能許久波母知宇知斯淤富泥泥士漏能斯漏多陀牟岐麻迦受祁婆許曽斯良受登母伊波米故是日()子臣白此御歌之時大雨尓不避其雨参伏前殿戸者違出後戸参伏後殿戸者違出前戸尓匍匐進()赴跪于庭()中將()水潦至腰其臣服著紅紐()青摺衣故水潦拂紅紐()()皆變紅色尓日()子臣之妹口()日賣仕奉太后故是口日()賣歌曰夜麻志呂能()都々紀能美夜迩母能麻袁須阿賀勢能岐美波那美多具麻志母尓太后問其所由()之時荅白僕之兄日()子臣也於是日()子臣亦其妹口比賣及奴理能美三人議而令奏天皇云太后幸行所以者奴理能美之所養虫一度爲匐虫一度爲鼓()一度爲非()()有變三色之奇虫者行此虫而入坐耳更無異心如此奏時天皇詔然者吾思奇異故欲行見自大宮上幸行入坐奴理能美之家時其奴理能美己所養()三種虫獻於大后尓天皇御立其大后所坐殿戸歌曰都藝泥布夜麻斯呂賣能許久波母知宇知斯意富泥佐和佐和迩那賀伊弊勢許曽宇知和多須夜賀波延那須岐伊理麻牽()久禮此天皇與太后所歌之六歌者志都歌之歌返也天皇戀八田若郎女賜遣御歌其歌曰夜多能比登母登須宜波古母多受多知迦阿禮那牟阿多良須賀波良許登表()許曽須宜波良登伊波米阿多良須賀志賣尓八田若郎女荅歌曰夜多能比登母登須宜波比登理表()理登母意富岐弥斯與斯登岐許佐婆比登理表()理登母故爲八田若郎女之御名代定八田部也」、【このように歌って還り、すこし筒木の韓人の奴理能美の家にいた。天皇は、大后が山代から上って来たと聞いて、近習の鳥山を使って、歌()を送った又、続けて丸迩臣口子を派遣して歌()った。又、歌()った。それで、口子臣が歌を宣べる時、大雨が降った。それで雨を避けず、前の戸口で土下座をしていると、後の戸に出てきて、後の戸口で土下座をすると、前の戸に出てきた。そこで、這うように進み、庭の中でひざまずいていると、雨が腰まで溜まった。その臣は、紅い紐を着けた忌中に着る衣装を着ていた。それで、溜水が紅い紐にふれて、青が皆、紅い色に変わった。口子臣の妹の口日賣が大后に仕へていた。それで、口日賣が歌()った。それで大后は、その理由を聞いた時「私の兄の口子臣だからです。」と答えた。口子臣は、妹の口比賣と奴理能美の三人が相談して、天皇に「大后が行ったのは、奴理能美が養う虫が、ある時は匐う虫で、ある時は鼓になり、ある時は飛ぶ鳥になって、三色に変わるる奇妙な虫だ。この虫を見ようと来ただけだ。ことさら、他意はない。」と奏上した。この様に言って来たので、天皇は「それなら私も珍しく思うから、見てみたい。」と言って、大宮から上って行き、奴理能美の家に入った時、奴理能美は養う三種の虫を大后に献上した。そこで天皇は、大后がいる戸口に立って、歌()った。天皇と大后が歌った六歌は、志都歌の歌返だ。天皇は、八田若郎女を恋しく思いて、歌()を送った。そこで八田若郎女も歌()を返した。それで、八田若郎女の御名代として、八田部を定めた。】と訳した。

筒木は以前に木菟宿禰が支配し、襲津彦と領地を交換した木国の筒木で、実家に帰ってしまったと述べ、そこに、丸迩臣口子を派遣し、筒木は、武内宿禰が婿入りした木国造の領域で倭直の祖の麻呂・吾子籠兄弟の家だったという背景で、後の淡海王の吾子籠と、この時点の淡海天皇の大臣丸迩臣印葉という立場で、大鷦鷯の義父の襲津彦は木国造の力で皇位を得たことが解る。

すなわち、葛城氏日向襲津彦は「速吸之門」から難波に引き入れてくれた筒木の木國造の娘を妃に長江襲津彦、荒田彦に婿入りして葛城襲津彦、妃が葛日賣だった、すなわち、この襲津彦も襲名した(少名日子)建猪心・武内宿禰で、兄弟が淡海臣の祖・海部直の波多八代宿禰で、倭直・大倭國造の吾子籠との関係が理解できる。

吾子籠が『日本書紀』に出現するのは仁徳天皇六二年374年、遠江の巨木で造った船で『日本書紀』「倭直吾子籠令造舩而自南海運之將來于難波津以充御舩也」とあるように、吾子籠が造った巨船で侵略した襲津彦版の神武東征と考えられ、長江襲津彦が木菟宿禰と領地を交換して筒木に住み、石之日賣が実家の筒木にやって来た。

2022年9月21日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書6

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「其大后石之日賣命其()多嫉妬故天皇所使之妾者不得臨宮中言立者足母阿賀迦迩嫉妬尓天皇聞者吉備海部直之女名黒日賣其容姿端正喚上而使也然畏其大后之嫉逃下本國天皇坐高臺望瞻其黒日賣之舩出浮海以歌曰淤岐弊迩波袁夫泥都羅之玖文()漏耶夜能摩佐豆古和藝毛玖迩幣玖陀良須故大后聞是之御歌大忿遣人於大浦追下而自歩()追去於是天皇戀其黒日賣欺大后曰欲見淡道嶋而幸行之時坐淡道嶋遥望歌曰淤志弖流夜那尓()波能佐岐用()伊傳多知弖和賀久迩美禮婆阿波志摩()淤能碁呂志摩阿遅摩()佐能志麻母美由佐氣都志摩()美由乃自其嶋傳而幸行吉備國尓黒日賣命令大坐其國之山方地而獻大御飯於是爲煮大御羮採其地之菘菜時天皇到坐其嬢子之採菘処歌曰夜麻賀多迩麻祁流阿表()那母岐備比登々等母迩斯都米婆多怒()斯久母阿流迦天皇上幸之時黒日賣獻御歌曰夜麻登弊迩尓斯布岐阿宜弖玖毛婆耶()禮曽岐袁理登母和禮和須和禮米夜又歌曰夜麻登弊迩由玖婆()多賀都麻許能母理豆能志多用波閇都々由久波多賀都麻自此後時大后爲將豊樂而於採御綱柏幸行木國之間天皇婚八田若郎女於是太后御綱柏積盈御舩還幸之時所駈使於水取司吉備國兒嶋之()仕丁是退己國於難波之大渡遇所後倉人女之舩乃語云天皇者皆(比日)婚八田若郎女而晝夜戯遊若太后不聞()此事乎静遊幸行尓其倉人女聞此語言即追近御舩白之状具如仕丁之言於是太后大恨怒載其御舩之御綱柏者悉投棄於海故号其地謂御津前也即不入坐宮而引避其御舩泝於堀江随河而上幸山代此時歌曰都藝渥()布夜夜麻志呂賀波袁迦波能煩理和賀能煩禮婆()加波能倍迩淤斐陀弖流佐斯夫袁佐斯天能紀斯賀斯多迩淤斐陀弖流波毘呂由都婆()都婆岐斯賀波那能弖理伊麻斯芝賀波能比呂理伊麻須波淤富岐美呂迦母即自山代廻到坐那良山口歌曰都藝泥布夜夜麻斯呂賀婆()袁美夜能煩理和賀能煩禮婆阿袁迩余志那良袁須疑表()陀弖夜麻夜麻登袁須疑和賀美賀本斯久迩波()迦弖()良紀多迦美夜和藝弊能阿多理如此歌」、【大后の石之日賣は、とても嫉妬深くて、天皇の腰元は、宮中に入れず、何か言えば、地団駄を踏んで嫉妬した。そこで天皇は、吉備の海部直の娘の黒日賣が容姿が端正と聞いて、呼び上げさせた。しかし、大后の嫉みを恐れて、本国に逃げ下った。天皇は、高殿にいて、黒日賣が船で出て海に浮かぶのを望み見て歌()った。それで、大后は是の歌を聞いて、とても怒って、人を大浦に派遣して、船から降ろして、歩いて帰国させた。そこで天皇は、黒日賣を恋しく思い、大后に「淡道島を見たいと思う。」と騙して、行幸した時、淡道島で、はるか遠く望んで歌()った。それで島伝いに、吉備国に行幸した。そこに黒日賣は国の山方に迎え入れて、食事を準備した。煮つけ作ろうとして、そこのあおなを採る時に、天皇は乙女があおなを採む所にやって来て座って歌()った。天皇が帰る時、黒日賣が歌()を献上した。又、歌()った。この後、大后が行楽で、御綱柏を採りに、木国に行幸した間に、天皇は、八田若郎女を娶った。そこで大后は、御綱柏を船に積み満たして、還る時、水取司を使いにせかした。吉備国の兒島の雑役夫が自分の国に帰るのに、難波の大渡で、遅れて来た雑役婦と船で遇った。それで「天皇が、最近、八田若郎女を召して、昼夜を問わず戯れ遊ぶのを、もし大后が聞いたらと、こそこそ遊び行った。」と話した。この雑役婦が語るのを聞いて、船に追って近づいて、状況をつぶさに、雑役夫が言うように話した。それで大后はとても恨んで怒り、船に載せた御綱柏を、残らず海に投げ棄てた。それで、そこを御津前といった。それで宮に入らず、船を引き、避けて、堀江にさかのぼり、河のままに山代に上った。この時歌()った。それで山代から廻って、那良山の口について歌()った。】と訳した。

この記述は、吉備との友好を求めたことを述べたと思われ、神武東征時に、吉備で「脩舟楫蓄兵会」と援助を受け、平群氏も同盟を結ぼうとしたが、襲津彦の邪魔が入った事を示している。

品陀和気朝廷にとって、吉備は重要なバックボーンで、武内宿祢の妃と考えられるのが、大日本根子彦太瓊と紐某姉との子の若日子建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女で大碓(?襲名した武内宿祢)、小碓(?少名日子建猪心)、倭根子(?波多八代)を生んでいる。

さらに、 小碓は吉備武彦の娘の大吉備建比賣・吉備穴戸武媛を妃にして讃岐・伊豫・安芸と瀬戸内を支配下にし、まさしく吉備津彦遣西道西征で、これが、後の日向からの神武東征の援助される中継点となり、大碓は美濃国造の娘の兄・弟遠子を妃にしていて、美濃国造は『舊事本紀』「美濃國造輕嶋豊明朝御世元封弟彦命次定賜國造」と記述され、大碓が大雀に繋がって、輕嶋豊明朝天皇尾綱根→難波天皇尾張名(?尾針)根・皇太子意乎巳と兄弟の美濃国造弟彦→美濃国造神骨の娘を妃と対応している。

2022年9月19日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書5

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年歳次癸酉春正月丁丑朔己卯大鷦鷯尊即天皇位尊皇后曰皇太后都遷難波謂高津宮初天皇生日木菟入于産殿明旦譽田天皇喚大臣武内宿祢語之曰是何瑞也大臣對言吉祥也復當昨日臣妻産時鷦鷯入于産屋是亦異焉天皇曰今朕之子與天臣之子同日共産並有瑞是天之表焉以為取其鳥名相易名子為後葉之契也則取鷦鷯名以太子曰大鷦鷯皇子取木菟名号大臣之子曰木菟宿祢是平群臣之始祖也二年春三月辛未朔戊寅立磐媛命為皇后誕生四所大兄去來穗別尊次住吉皇子次瑞齒別次雄朝津間稚子宿祢尊妃日向髮長媛生大草香皇子次幡梭皇女二十二年春正月天皇語皇后日納矢田皇女將為妃時皇后不聴矣三十一年春正月癸丑朔丁卯去來穗別尊立爲皇太子三十五年夏六月皇后磐之媛命薨於筒城宮三十七年冬十一月甲戌朔乙酉葬皇后於乃樂宮三十八年春正月癸酉朔戊寅立矢田皇女立爲皇后八十二年春二月乙巳朔詔侍臣物部大別連公曰皇后久經數年不生皇子以尓大別定皇子代后號為氏以為氏造改賜矢田部連公姓八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩冬十月癸未朔己丑葬於百舌鳥野陵天皇所」、【元年の正月丁丑朔己卯、大鷦鷯は即位し、先の皇后を皇太后と尊んで都を難波に遷し、高津宮といった。この天皇が生まれた日に、木菟が産屋に飛び込んできた。翌朝、父の譽田天皇が大臣の武内宿祢を呼んで「これは何のしるしだろうか」というと、宿祢は「めでたいしるしだ。昨日、私の妻が出産するとき、鷦鷯が産屋に飛び込んできた。これもまた不思議なことだ」と答えた。そこで、天皇は「我が子と宿祢の子は、同じ日に産まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しだ。その鳥の名をとって、お互いに交換し子供に名づけ、後代へのしるしとしよう」と言って鷦鷯の名を取って太子につけ、大鷦鷯といった。木菟の名を取って大臣の子につけ、木兎宿祢といった。これが平群臣の祖だ。二年春三月辛未朔戊寅、磐媛を皇后とし、皇后は四児を生んだ。大兄去来穂別、次に住吉、次に瑞歯別、次に雄朝津間稚子宿祢。妃の日向の髪長媛は、大草香、次に幡梭を生んだ。二十二年の春一月、天皇は皇后に「矢田皇女を召し入れて妃にしたい」と言ったが、皇后は許さなかった。三十一年春一月癸丑朔丁卯、去来穂別尊を皇太子とした。三十五年夏六月、皇后の磐之媛は筒城宮で薨じた。三十七年冬十一月甲戌朔乙酉、皇后を乃羅山に葬った。三十八年春一月癸酉朔戊寅、矢田皇女を皇后とした。八十二年春二月乙巳朔の日に、侍臣の物部大別連に「皇后には、長い間経っても皇子が生まれなかった。お前を子代と定めよう」と言って、皇后の名を氏として、氏造に改め、矢田部連の姓を与えた。八十三年丁卯の八月十五日に、天皇大別は崩御された。冬十月癸未朔己丑に、百舌鳥野陵に葬った】と訳した。

この記述の朔の日干支は、「三十八年春正月癸酉朔」までは正しい天文学的朔だが、「八十二年春二月乙巳朔」以降間違った朔で、453年2月1日が乙巳朔と、この日が正しいと考えられ、大鷦鷯「丁卯年八月十五日天皇大別崩」と大別が丁卯427年に死亡し、伊耶本和気「壬申年正月三日崩」と大別の甥、大前大臣の父の麦入が壬申432年に死亡し、水歯別「丁丑年七月崩」と麦入の兄弟忍坂大中姫の子の木梨輕が丁丑437年に殺害されて、去來穗別の皇后の草香幡梭皇女の兄弟の大草香が即位し、男浅津間若子「甲午年正月十五日崩」と甲午454年に大草香が殺害され、大草香の妃を穴穗が妃(?)にして即位したと考えられ、干支による年月日表記は、論理的に考えれば、間隔が60年未満である。

60年以上の間隔の歳月は歴史としては成り立たなくて、ただの記録にしか過ぎず、史書の『日本書紀』や『舊事本紀』は天皇()の統治年で60年以上を表し、記録を歴史として意味を持たせた。

『古事記』で死亡日が記述されるのは、『古事記』の神武天皇の御真木入日子、若帯日子、葛城氏の神武の品陀和気、大鷦鷯、伊耶本和氣、水歯別、男浅津間若子、そして平群氏の大長谷若建が記述され、日向襲津彦の死亡は394年で、396年即位の葛城氏の長柄襲津彦、大長谷若建の死亡日の489年「己巳年八月九日崩」は平郡氏の最後の皇后小野皇后の死亡年と考えられ、『古事記』の死亡年の干支の間隔は60年未満の間隔で、『古事記』の神武の崇神の死亡年は318年戊寅十二月と思われる。

そして、「三十一年春正月癸丑朔丁卯」の立太子は倭奴国の王朝交代で、400年まで続く倭漢直祖阿知使主の即位で、『三国史記』344年に新羅と姻戚関係を求めたが拒否され、翌年断交して、346・364年に交戦し、391・399・400年には高句麗とも交戦しているのが好太王碑文に残る。

阿知使主は百濟と良好な関係で、391年の高句麗との交戦では百濟と共に戦い、397年には「王與倭國結好以太子腆支爲質」と皇太子が来倭していて、応神天皇十五年の「讀經典」は384年枕流王が「胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮内禮敬焉佛法始於此」と百濟に仏教が入り、その時に阿知使主も経典を理解し、菟道稚郎子に教えたと考えられる。

2022年9月16日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「而興宮室於菟道而居之猶由讓位於大鷦鷯尊以久不即皇位空之既經三戴有海人費鮮魚之苞苴獻于菟道宮也太子命海人曰我非天皇乃返之令進難波大鷦鷯尊亦返以令獻菟道於是海人之苞苴鮾於往還更返之取他鮮魚亦獻焉讓如前日鮮魚亦鮾海人苦於屎還乃棄鮮魚而哭故諺曰有海人耶因己物以泣其是縁矣太子曰我知不可奪兄王之心豈煩久生之煩於天下乎乃自死焉時大鷦鷯尊聞太子薨以驚之從難波馳之到菟道宮爰太子薨之經三日時大鷦鷯尊摽擗叫哭不知所如乃解髮跨屍以三呼曰我弟皇子乃應時而活自起以居大鷦鷯尊語太子曰悲乎惜乎何(?)以欤自遊若死者有知先帝何謂我乎乃太子啓兄王曰天命也誰能留焉若有向天皇乃御所具奏兄王聖乃且有讓矣然聖王聞我死以急馳遠路豈得無勞乎乃進同母妹矢田皇女曰雖不足納采僅充掖庭之數乃且伏棺而薨矣於是大鷦鷯尊素服為之發哀哭之甚慟仍薨於菟道山上也」、【太子は宮を菟道に興して住んだが、位を大鷦鷯に譲っているので長く即位しなかった。皇位は空いたまま三年が過ぎた。ある漁師が、鮮魚の献上品を菟道宮に献じた。太子は漁師に「自分は天皇ではない」と言い、返して難波に献上させた。大鷦鷯は、また返して菟道に献上させた。漁師の献上品は両方を往復している間に、古くなって腐った。それでまた、あらためて鮮魚を献上したが、譲り合うのは前と同様で、鮮魚はまた腐った。漁師は途方にくれて鮮魚を捨てて泣いた。ことわざに、「海人でもないのに、自分の物のため泣く」というのは、これが由来だ。太子は、「私は兄王の心を変えられないことを知った。長く生きて天下を煩わせたくない」と自殺した。大鷦鷯は太子が薨じたことを聞いて、驚いて難波の宮から急遽、菟道宮に来た。太子の死後三日経っていた。大鷦鷯は胸を打ち泣き叫んで、なすすべを知らなかった。髪を解き死体にまたがって、「我が弟よ」と三度呼んだ。するとにわかに生き返り、大鷦鷯は太子に「悲しい。悔しい。どうして自殺などするのか。もし死んだと知れたら、先帝は私を何と思うか」いうと、太子は大鷦鷯に「天命だ。誰もとめることはできない。もし先帝のもとに行くことがあったら、詳しく兄王が聖で、何度も辞退したと言おう。あなたは私の死を聞いて、遠路駆けつけてくれた。お礼をしなければならない」と言い、同母妹の矢田皇女を献上して「引きとるのも迷惑だろうが、どうか後宮の数に入れてほしい」と言い、また、棺に伏せって薨じた。大鷦鷯は麻の服を着て、悲しみ慟哭すること甚だしかった。遺体は菟道の山の上に葬った。】と訳した。

この淡海天皇の菟道稚郎子は菟道に都を持ち、菟道に陵墓を造ったが、歴代の天皇は多くが首都と無関係な場所に葬られていて、神武から懿徳まで、首都が葛城に変わっても橿原の畝傍に陵墓を造り、孝昭から開化は孝霊の時、磯城の時には生駒だが首都とほゞ同じ葛城・橿原で、それ以降は疑問が残る首都と陵墓の関係となっている。

私はこれまで、天皇名は葛城氏の王の役職名と述べてきたが、氏族にとって一番重要な宗廟・葛城氏代々の陵墓の記録が残されていないのが腑に落ちず、検証したら、この現象を確認できた。

すなわち、葛城氏本家は磐余彦火火出見から大倭彦耜友まで、廟が橿原にあり、觀松彦香殖稻は天皇波延の腹心として、更に天皇大倭根子として宗廟を造ったが、稚倭根子と退位して大彦の配下の分家、恐らく分家の大諸見足尼が木国の木津に宗廟を造ったと考えられ、垂仁も木国近辺の生駒に陵墓を造った。

ところが、崇神時に山邊道上に陵墓を造っているが、景行時にも倭国山邊道上に陵墓を造っていて、葛城氏は屋主忍男武雄心が野洲朝廷を開いたと述べたが、野洲は倭岐・倭国の意味で、開化朝時の木国山代の内臣から倭国王が分家したため、開化朝では木津、垂仁朝は生駒と内臣の廟で、武内宿祢の直系平群氏は首都の野洲の山邊道上の陵墓とすると理に適い、成務時も、神功皇后も倭國狹城盾列で倭建も伊勢の能褒野で、この時の伊勢は倭国野洲近辺の伊勢遺跡の伊勢で、これらの淡海朝廷の天皇屋主忍男武雄心から息長帯姫までの葛城天皇の宗廟であったようだ。

ところが、仲哀時から首都が変わっても河内に陵墓を造り続け、この意味は、倭国野洲の皇室を構成していた、本家の平群氏が日向から東侵してきた襲津彦に畿内を追い出されて、生駒や難波や河内を領有し、『古事記』には清寧時まで河内に宗廟を持ったと記述されるが、『日本書紀』には記述されず、葛城氏本家の平群氏が『日本書紀』執筆時の天皇で清寧時まで平群王朝で河内に廟が造られ、その後、葛城氏が皇位を奪取して橿原の干傍丘磐杯丘に廟を造ったと考えれば、筋が通り、天皇名や陵墓は平群・葛城氏の天皇名や陵墓だったことが解る。

2022年9月14日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「時長田司出雲臣祖游宇宿祢曰是長田者自本山守地是以今吾將治矣尓之不可掌時游宇宿祢啓于皇太子太子謂日汝便啓大鷦鷯尊矣是游宇宿祢啓大鷦鷯尊曰臣所任長田者大中彦皇子距不令治矣大鷦鷯尊問倭直祖麻呂曰倭長田者元謂山守地是如何對曰臣之不知唯臣弟吾子籠知也適是時吾子籠遣於韓國而未還爰大鷦鷯尊謂游宇宿祢日尓躬往於韓國以喚吾子籠其兼日夜而急往乃差淡路之海人八十爲水手爰游宇往于韓國召率吾子籠而來之因問倭長田對言傳聞之於纏向珠城宮御宇天皇之世科太子大足彦尊定倭長田也是時敕旨凡倭長田者每御宇帝皇之長田也其雖帝王之子非御宇者不得掌矣是謂山守地者非矣大鷦鷯尊遣吾子籠於額田大中彦皇子而令知狀大中彦皇子更无如何焉乃知其惡而赦之勿罪然後大山守皇子每恨先帝廢之非立而重者有是怨則謀之日我殺太子遂登帝位爰大鷦鷯尊預聞(?)謀密告太子備兵令守之時太子設兵待之大山守皇子不知其備兵獨領數百兵士夜半發而行之會明詣菟道將渡河時太子服布袍取檝櫓密接渡子以載大山守皇子而濟至于河中誹渡子蹈舩而傾於是大山守皇子墮河而沒更浮流之然伏兵多起不得著岸遂沉而死焉令求其屍泛於哮羅濟時太子視其屍謌曰云々別在和歌記既」、【このとき、額田大中彦が、倭の屯田と屯倉を支配しようとして、屯田司の出雲臣の祖・淤宇宿祢に「この屯田はもとから山守の地だ。だから自分が治めるので、お前は掌ってはならない」と語った。淤宇宿祢は太子にこのことを奏上した。太子は「大鷦鷯尊に言え」と言ったので、淤宇宿祢は大鷦鷯に奏上した。「私が預かっている田は、大中彦に妨げられて治められない」大鷦鷯は、倭直の祖の麻呂に「倭の屯田は、もとから山守の地というが、どうか」と尋ねた。麻呂が「私には分からないが、弟の吾子籠が知っている」と答えた。このとき、吾子籠は韓国に派遣されていて、まだ還っていなかった。大鷦鷯は淤宇宿祢に「お前はみずから韓国に行って、吾子籠をつれて来なさい。昼夜を問わず急いで行け」と言い、淡路の海人八十人を差し向けて水主とした。淤宇は韓国に行って、吾子籠をつれ帰った。屯田のことを尋ねると、「聞いたところ、纏向珠城宮天皇の世に、太子の大足彦に、倭の屯田が定められたという。このときの勅旨は”倭の屯田は、時の天皇のものだ。帝の子と言っても、天皇の位になければ掌ることはできない”と言った。これを山守の地というのは、間違いだ」と答えた。大鷦鷯は、吾子籠を額田大中彦のもとに派遣して、このことを知らせた。大中彦は、これ以上いうべき言葉がなかった。その良くないことを知ったが、許して罰しなかった。大山守は、先帝が太子にしてくれなかったことを恨み、重ねてこの屯田のことで恨んだ。「太子を殺して帝位を取ろう」と陰謀を企てた。大鷦鷯はその陰謀を知り、ひそかに太子に知らせ、兵を備えて守らせた。太子は兵を備えて待ち構えた。大山守は、その備えのあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発した。明け方に菟道について河を渡ろうとした。そのとき太子は粗末な麻の服をつけ、舵をとって、ひそかに渡し守にまじり、大山守皇子を船にのせてこぎ出した。河の中ほどで、渡し守に船を転覆させた。大山守は河に落ち、浮いて流されたが、伏兵が多くいて、岸につけなかった。そのため、沈んで薨じた。屍を探すと、哮羅済に浮かんでいた。太子は屍を見て、歌った。云々。別に歌の書がある。】と訳した。

ここで言う、倭の屯田の倭は、「倭直祖」の麻呂と倭直・倭国造になっていないので、まだ、首都が輕嶋明宮と大和が首都なので、大和国の倭とも考えられるが、雄略前紀に「於泊瀬朝倉即天皇位遂定宮焉」と大和の泊瀬朝倉に首都を置いたのに、雄略天皇二年「自茲以後大倭國造吾子篭宿禰」と吾子篭が首都の王・天皇になってしまい、実際の倭はやはり、海・八の倭と解る。

そして、稚野毛二派の子の意富々杼は「三國君波多君息長坂君酒人君山道君・・・等之祖也」と三国、それに続く山道、そして息長の坂田の王の祖と述べ、磐余稚櫻・淡海天皇五十琴宿禰の子の「稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連」の伊莒弗が倭直祖麻呂の弟で仁徳62年に倭國造吾子篭と思われる「倭國造祖比香賀君」の娘玉彦媛を妃にしていて、 仁徳62年の吾子篭の倭国造は履中天皇時代の可能性が高く、額田大中彦と大山守の説話も難波朝末のことと考えられるる。

額田大中彦は息長宿禰の曽孫の天皇で、弟の大山守は伊莒弗に盗られる前の山道王だったことが解り、大山守は若櫻宮淡海天皇の後継で菟道宮に遷都した菟道稚郎子と共に菟道で闘う、菟道稚郎子の後見人だったことが解り、若櫻宮にいる去來穗別と難波朝の大別に敗れたようだ。

2022年9月12日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「于時皇太子菟道稚郎子皇子讓位于大鷦鷯尊未即帝位仍諮大鷦鷯尊夫君天下以治万民者蓋之如天容之如地上有驩心以使百姓百姓欣然天下安矣今我也弟之且文獻不足何敢繼嗣位登天業乎大王者風姿岐嶷仁孝遠聆以齡且長足為天下之君其先帝立我為太子豈有能才乎唯愛之者也亦奉宗廟社稷重事也僕之不佞不足以称夫昆上而季下聖君而愚臣古今之典焉願王勿疑頃即帝位我則為臣之助耳大鷦鷯尊對曰先皇謂皇位者一日之不可空故預選明徳立王爲貮祚之以副授之以民崇其寵章令聞於國我雖不賢豈棄先帝之令輙從弟王之願乎固辭不承各相讓之」、【皇太子の菟道稚郎子は、位を大鷦鷯に譲ろうと、即位しなかった。そうして大鷦鷯に「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天のごとく、受け入れることは地のごとくでなければならない。上に民を喜ぶ心があって人民を使えば、人民は欣然として天下は安らかだ。私は弟、またそうした過去の記録もなく、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができるか。大王は立派で仁孝の徳もあり、年も上だ。天下の君となるのに十分だ。先帝が私を太子としたのは、特に才があるからというわけではなく、愛しかっただけだ。宗廟社稷に仕えることは、重大なこと。私は不肖でとても及ばない。兄は上に弟は下に、聖者が君となり、愚者が臣下となるのは、古今の定め。どうか王はこれを疑わず、即位してほしい。私は臣下となって助けるだけだ」と頼んだ。大鷦鷯尊は「先帝も”皇位は一日たりとも空しくしてはならない”と言った。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てた。天皇の嗣にさいわいあらしめ、万民を授けた。寵愛のしるしと尊んで、国中にそれを知らせた。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従えますか」と答えて、固く辞退して受けず、お互いに譲り合った。】と訳した。

この説話は、葛城氏と物部氏の皇位継承争いで、履中天皇即位時の混乱を描いた説話、襲津彦の子の黒媛の父葦田宿禰をバックにした去來穗別と、尾張氏大草香皇子・額田大中彦と平群氏をバックにした住吉仲皇子と、難波天皇大別の子の木事をバックにした瑞齒別と、また、若沼毛二俣王の子の意富々杼王は「山道君・・・祖」のように大山守と考えられ、その大山守と額田大中彦と宇遲能和紀郎子の争いを記述したものと考えられる。

額田大中彦が374年仁徳天皇六二年に「是歳額田大中彦皇子獵于闘鷄・・・因喚闘鷄稻置大山主」と大中彦と大山守の関係は良好である。

この説話には阿知使主や吾子篭が記述され、これらの人物は履中紀で記述され、履中天皇即位時の混乱と理解され、菟道稚郎子は『舊事本紀』396年「八十二年春二月乙巳朔詔侍臣物部大別連公」「八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と397年に天皇が崩じ、3年間皇位が定まらず、仁徳就任と同じ無位期間で、襲名大別の兄弟の子が宇遲能和紀郎子の可能性が高い。

すなわち、難波朝天皇襲名大別の木事と、磐余稚櫻朝・五十琴宿禰の皇子で大別の兄弟の山無媛の子の宇遲能和紀郎子がそれぞれ、襲津彦と大鷦鷯が後ろ盾になって戦った説話で、その結果、大鷦鷯が後ろ盾の河内難波朝廷は残ったが、菟道稚郎子は敗れて、襲津彦の恐らく孫ではなく曽孫の2代目去來穗別(恐らく妃が袁那辨郎女か宇遲之若郎女か八田若郎女)が磐余稚櫻朝を受け継いだと思われる。

ただし、397年の干支は丁酉、丁卯は427年で『古事記』と同じ、従って、先代大別の難波宮天皇が397年に死亡し、若櫻宮天皇襲名五十琴宿禰の宇遲能和紀郎子が400年まで難波宮天皇を兼務し、400年に去來穗別が若櫻宮天皇に即位し、そして、大別が難波宮天皇に即位し、405年去來穗別が死亡し、427年丁卯に大別が死亡したと考えられる。

 

2022年9月9日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱大鷦鷯尊者譽田天皇第四皇子也母日皇后仲媛命五百入彦皇子命之孫也天皇幼而聡明叡智容貌美麗及壯仁寬慈志四十一年春二月譽田天皇崩<・・・後述・・・>生皇子五男女大兄去來穗別尊次住吉仲皇子次瑞齒別尊次雄朝嬬稚子宿祢尊次大草香皇子次幡媛皇女」、【諱は大鷦鷯で譽田天皇の第四皇子だ。母を皇后仲媛という。五百城入彦皇子命の孫で、天皇は幼いときから聡明で、英知、容貌も美しく、大人になると心広くめぐみ深かった。前天皇の四十一年春二月に譽田天皇が崩じた。<以降略>】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「大鷦鷯命坐難波之高津宮治天下也此天皇娶葛城之曽都毗古之女石之日賣命大后生御子大江之伊耶本和氣命次墨江之中津王次蝮之水歯別命次男淺津間若子宿祢命四柱又娶上云日向之諸縣君牛諸之女髪長比賣生御子波多毗能大郎子亦名大日下王次波多毗能若郎女亦名長日()比賣命亦名若日下部命二柱又娶庶妹八田若郎女又娶庶妹宇遅能若郎女此之二柱無御子也凡此大雀天皇之御子等并六王男王五柱女王一柱故伊耶本和氣命者治天下次蝮之水歯別命亦治天下次男淺津間若子宿祢命亦治天下也此天皇之御世爲大后石之日賣命之御名代定葛城部亦爲太子伊耶本和氣命之御名代定壬生部亦爲水齒別命之御名代定蝮部亦爲大日下王之御名代定大日下部爲若日下部王之御名代定若日下部又伇秦人征()茨田堤及茨田三宅又征()丸迩池依網池又掘難波之淈()江而廻海又淈()小椅江又定墨江之津於是天皇登高山見四方之國詔之於國中烟不發國皆貧窮故自今至三年悉除人民之課伇是以大殿破壊悉雖雨漏都勿脩理以椷受其漏雨遷避于不漏處後見國中於國満烟故爲人民冨今科課伇是以百姓之營不苦伇使故稱其御世謂聖帝止()申也」、【大雀は難波高津宮で天下を治めた。<・・・系図略・・・>それで、伊邪本和氣は、天下を治めた。次に蝮水齒別も亦、天下を治めた。次に男淺津間若子宿禰も亦、天下を治めた。この天皇の世に、大后石之日賣の御名代として、葛城部を定め、亦、太子の伊邪本和氣の御名代として、壬生部を定め、亦、水齒別の御名代として、蝮部を定め、亦、大日下の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めた。又、秦人を討伐して茨田堤及び茨田三宅を作り、又、丸迩池、依網池を作り、又、難波の堀江を掘って海に通し、又、小椅江を掘り、又、墨江の津を定めた。是に天皇、高山に登って、四方の國を見て「國中に烟が上がらない。國中が貧窮している。それで、今から三年、残らず人民の課伇を免除しなさい。」と言った。それで大殿は壊れて崩れ、そこら中に雨漏りしたが、都を整備することなく、器で其の漏れてくる雨を受けて、漏れない所に遷って避けた。後に國中を見ると、國に烟が満ちた。それで、人民が富んだと思って課伇を科し、これで百姓は潤って、課役に苦しまなかった。それで、その世を稱えて、聖帝の世といった。】と訳した。

応神天皇記は複数の天皇の記録が記述され、その中に稚野毛二派皇子と尾綱根・品陀真若がいたが、そのほかに、葛城氏の王の品陀和気も応神天皇の一人で、娘の仲姫と品陀和気の子の大鷦鷯で、大碓が坐王の子の大根(?大田田根子の妹を妃)の娘を妃に大帯彦と大国の将軍、小碓が若建吉備津日子と倭奴国をバックに、日向を含む仲国を手に入れたと思われる。

葛城氏の本家の大鷦鷯は日向襲津彦の娘の石之日賣を妃にすると、襲津彦に本家の地位を奪われ、石之日賣の母の兄弟と考えられる日向諸縣君は「彦火火出見尊崩葬日向高屋山上陵」と先祖火火出見が高屋に葬られ、大帯彦がその地、「日向國起行宮以居之是謂高屋宮」と高屋宮にいる時に御刀媛を見染めて、「豐國別皇子是日向國造之始祖也」と日向国造の祖を生み、また、「日向髪長大田根生日向襲津彦皇子是阿牟君之始祖也」と日向国王襲津彦を生んだ。

石之日賣は襲津彦と諸縣君の兄弟との子と思われ、それに対して、襲津彦の兄弟と諸縣君の子と思われる日向髪長媛が尾綱根の子の妃になり、それは、雄略天皇の皇后が草香幡梭姫で、『日本書紀』雄略天皇妃「爲大草香部民以封皇后」、そして、継体天皇妃が「妃尾張連草香女曰目子媛」と草香が尾張氏なので、日向髪長媛の子の大草香は尾張氏と思われるからである。

すなわち、尾張氏は313年に難波に遷都したが、首都難波の難波根子すなわち難波王・天皇の神功皇后と和珥臣祖武振熊によって皇位を奪取され、390年頃、日向襲津彦と倭直吾子篭と難波根子と阿知使主によって、木国や葛城は襲津彦、淡海は倭直吾子篭が支配したと考えられ、襲津彦は若櫻宮朝を400年に奪取した。 

2022年9月7日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書7

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故茲神之女名伊豆志袁登賣神坐也故八十神雖欲得是伊豆志袁登賣皆不得婚於是有二神兄号秋山之下氷社()夫弟名春山之霞社()夫故其兄謂其弟吾雖乞伊豆志袁登賣不得婚汝得此嬢子乎荅曰易得也尓其兄曰若汝有得此嬢子者避上下衣服量身高而醸甕酒亦山河之物悉備設爲宇礼豆玖云尓尓其弟如兄言具白其母即其母取布遅葛而一宿之間織縫衣褌及襪沓亦作弓矢令服其衣褌等令取其弓矢遣其嬢子之家者其衣服及弓矢悉成藤花於是其春山之霞社()夫以其弓矢繋嬢子之厠尓伊豆志袁登賣思異其花將來之時立其嬢子之後入其屋即婚故生一子也尓自()其兄曰吾者得伊豆志袁登賣於是其兄慷愾弟之婚以不償其宇禮豆玖之物尓愁白其母之時御祖荅曰我御世之事能許男()神習又宇都志岐青人草習乎不償其物恨其兄子及取其伊豆志河之河嶋一節竹而作八目之荒篭取其河石合塩而裹其竹葉令詛言如此竹葉青如此竹葉萎而青萎又如此塩之盈乾而盈乾又如此石之沈(而沈)臥如此令詛置於烟上是以其兄八年之間干萎病枯故其兄患泣請其御祖者即令返其詛戸於是其身如本以安平也此者神宇礼豆玖之言本者也又此品陀天皇之御子若野毛二俣王娶其母弟百師木伊呂弁亦名弟日賣真若比賣命生子大郎子亦名意富々杼王次忍坂之大中津比賣命次田井之中比賣次田宮之中比賣次藤原之琴節郎女次取止()賣王次沙祢王七王故意富々杼王者三國君波多君息長坂君酒人君山道君筑紫之米多君布勢君等之祖也又根鳥王娶庶妹三腹郎女生子中日子王次伊和嶋王二柱又堅石王之子者久奴王也凢此品陀天皇御年壹佰参拾歳甲午年九月九日崩御陵在川内恵賀之裳伏百舌鳥陵也崗也」、【それで、この神の娘に伊豆志袁登賣神がいて、八十神はこの伊豆志袁登賣を得ようと思ったが、皆、婚姻できなかった。そこに二はしらの神がいた。兄は秋山之下氷壯夫と名付け、弟は春山之霞壯夫と名づけた。それで、その兄が、その弟に「私は伊豆志袁登賣を求めたが、婚姻できなかった。お前は乙女を得られるか。」というと「簡単だ。」と答えた。そこで兄が「もしおまえが、乙女を得ることができたら、上下の衣服を脱ぎ、背丈位の甕に酒を釀し、亦、山河の産物を残らず備える賭けをしよう。」と言った。そこで弟は、兄が言ったように、詳しく母に言うと、母は、藤の蔓を取って、一晩で、衣褌、及び襪沓を織って縫い、亦、弓矢を作って、その衣褌などを着て、弓矢を取らせて、乙女の家に行かせると、その衣服、及び弓矢、残らず藤の花に変わった。そこで春山之霞壯夫は、弓矢を乙女の厠に懸けた。伊豆志袁登賣は、その花を持って来る時に、乙女の後に立って、その屋内に入るとすぐ、犯した。それで、一人の子を生んだ。それで兄に「私は伊豆志袁登賣を得た。」と言った。それでその兄は、弟が婚姻したことを激しくいきどおり嘆き、賭けた物を渡さなかった。そこで愁いて母に言った時、「現世の事、能く許曾神を見習いなさい。又、現世の人々を見習え、そんなものはいらない。」と言って、兄を恨んで、伊豆志河の河島の一節の竹を取って、八目の荒篭を作って、その河の石を取って、塩と合わせて竹の葉に包んで、呪って、「この竹の葉が青いように、竹の葉の萎えるように、青くなって萎えろ。又、この塩が乾くように、潮にまみれて乾け。又、この石が沈むように、沈んで伏せろ。」と言った。こう呪って、竈の上に置いた。これで兄は、八年間、やせ細る病で衰えた。それで、兄は患い泣いて、親に願うと、呪いの置物を戻した。それで身は安らかに平癒した。これが願懸けの言葉の基だ。<系図なので略>品陀天皇の年齢は壹佰參拾歳。甲午の年の九月九日に崩じた。陵は川内の惠賀の裳伏の岡に在る。】と訳した。

阿加流比賣神が祀られる碁曾社の碁曾は『舊事本紀』「彦己蘇根命爲凡河内國造即凡河内忌寸祖」と河内の王都、阿加流神は「素戔鳥尊將昇天時有一神號羽明玉此神奉迎而進以瑞八坂瓊之曲玉矣」と八坂瓊を創った神、伊豆志神は但馬の出石神社、由良都姫の夫が大矢口宿祢でその父が出石心大臣で、大臣、すなわち、大国の国神で、出石神社の宮で統治したと考えられる。

すなわち、この説話は大水口と大矢口が由良都姫を取り合った説話と、兄弟で由良の姫神を取り合った大国の古来の説話を纏めたと考えられ、多遅麻の姪の雌鳥姫が天皇の璽の足玉・手玉を持っていたのは、素戔鳥尊に渡した瑞八坂瓊之曲玉を君子国王の天日方奇日方が美良姫を妃にすることで手に入れて皇位に就き、『古事記』の神武天皇は大物主の娘を妃にするが、大物主の飯賀田須の妃も天皇の璽を持つ美良姫で、葛城氏は皇位を由良都姫から得て、今に至っていると主張していると思われる。

すなわち、穂積氏建諸隅が「甘美鏡」、物部氏十市根が「韴霊」()、和珥臣の多遅麻が「八坂瓊」()を手に入れて物部氏の三種の神器をもつ皇位を主張し、それを葛城氏が継承したと主張している。


2022年9月5日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書6

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又昔有新羅國王之子名謂天之日矛是人参渡來也所以参渡來者新羅國有一沼名謂阿具奴摩此泥()之邊一賤女晝寐於是日耀如虹指其陰上亦有一賤夫思異其状恒伺其女人之行故是女人自其晝寐時妊身生表(?)玉尓其所伺賤夫乞取其玉恒裹著腰此人營田於山谷之間故耕人等之飲食負一牛而入山谷之中遇逢其()主之子天下之日矛尓問其人曰何汝飲食負牛入山谷汝必殺食是牛即捕其人將入獄囚其人荅曰吾非殺牛唯送田人之食耳然猶不赦尓解其腰之玉幣其國主之子故赦其賤夫將來其玉置於床邊即化美麗嬢子仍婚爲嫡妻尓其嬢子常設種々之珍味恒食其夫故其國主之子心奢詈妻其女人言凢吾者非應爲汝妻之女將行吾祖之國即竊乗小舩逃遁渡來留于難波(此者坐難波之比賣碁曽社謂阿加流比賣神者也)於是天之日矛聞其妻遁乃追渡來將到難波之間其渡之神塞以不入故更還泊多遅摩國即留其國而娶多遅摩之俣尾之女名前津見生子多遅摩母呂須玖此之子多遅摩斐泥此之子多遅摩比那良岐此之子多遅麻毛理次多遅摩比多訶次清日子三柱此清日子娶當摩之咩斐生子酢鹿之諸男次妹菅竈止()由良度美故上云多遅摩比多訶娶其姪申()良度美生子葛城之高額比賣命此者息長帯比賣命之御祖故其天之日矛特()渡來物者玉津寶云而珠二貫又振浪比禮切浪比禮振風比禮切風比禮又奥津鏡邊津鏡并八種也此者伊豆志之八前大神也」、【又、昔、新羅の国主の子がいて名は天之日矛といい、渡ってきた。渡来した理由は、新羅国に一つの沼が有って名は阿具沼と言った。この沼の辺に、ある賎しい女が昼寝していた。この日、虹のように耀いて、その股間で反射し、亦、ある賎しい男が、その様子を訝って、ずっとその女の仕草を眺めていた。それで、この女は、晝寢していると妊娠して、赤玉を生んだ。そこでその眺めていた男は、その玉を頼んで受け取り、しっかり包んで腰に著けた。この人は田を山谷の間で営んでいた。それで、耕す人達の飲み物を、一つの牛に負せて山谷の中に入ると、その国主の子の天之日矛に偶然逢った。そこでその人に「何のためにお前は飲み物を牛に負せて山谷に入る。お前はきっとこの牛を殺して食うのだろう。」と問いかけ、それでその人を捕えて、監獄に入れようとすると、その人は「私は牛を殺そうとしていない。唯、耕す人の食物を持って行こうとした。」と答えた。それでも赦さなかった。そこでその腰の玉を解いて、国主の子に贈った。それで、その賎しい男を赦して、その玉を持って来て、床の辺に置くと、美麗な乙女になった。それで見染めて嫡妻とした。そこでその乙女は、常に種々の珍味を並べて、恒に夫に食べさせた。それで、国主の子は、奢ってて妻をののしったので、その女が「私は、お前の妻なるべき女ではない。私の親の国に行きます。」と言って、だまって小船に乗って逃げ去って渡来して、難波に留まった。これは難波の比賣碁曾の社にいる阿加流比賣神という。それで天之日矛は、その妻が逃げたことを聞いて、追って渡来して、難波に着こうとするとき、その渡り神が遮って入れなかった。それで、戻って多遲摩国に停泊した。それでその国に留まって、<・・・略・・・>由良度美を娶って、生まれた子は、葛城の高額比賣。これは息長帶比賣命の親だ。それで、その天之日矛の持って渡来した物は、玉津寶といって、珠二貫。又、浪振る比禮、浪切る比禮、風振る比禮、風切る比禮。又、奧津鏡、邊津鏡、併せて八種だ。これは伊豆志の八前の大神だ。】と訳した。

この説話は矛盾があって、天之日矛は前26年に渡来し、西暦61年に5世の孫の多遲摩毛理が常世国に出向き、200年に6世または8世の孫の神功皇后が子を生み、90年で4世代、後の140年で多くて4世代と矛盾があり、実際は、多遲摩毛理までは親子関係で、それ以降は宮の世代と言う事が解る。

但馬国造の祖は『舊事本紀』「建田背・・・但馬國造等祖」と建田背、『古事記』「息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王摩國造之祖」と息長宿祢と河俣稻依の子の大多牟坂、『舊事本紀』「但遲麻國造・・・彦坐王五世孫舩穗足尼賜國造」と淡海朝廷の系譜で、日槍の多遲摩は異なる勢力の多遲摩王の系譜で、息長宿祢の妃の母由良度美が多遲摩国王だったことになる。

多遅麻毛理の説話は、非時香菓が高麗橘で萩に自生して出雲・仲国の説話であり、武内宿禰の誕生説話が景行三年に記述されて、大国から豊国への遠征説話の始まりで、「出雲國雖検校其國之神寶」より後の中臣氏が支配していた但馬の説話と考えられ、穂積氏の祖の大矢口は由良都姫を妃にして、父は出石(伊豆志)心で、物部多遅麻の説話と思われ、すなわち、複数の王朝の多遅麻王の説話が重なって『日本書紀』の日槍説話は纏められ、これが『日本書紀』の作成方法である。


2022年9月2日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書5

  この項は説話が長いので、原文は後ろに記述する。

この仁徳後継説話は、仁徳天皇が応神天皇の子と名前を交換したため、武内氏後継者の山代王だった平群氏が河内・平群に国変えされたのを、葛城応神朝から皇位を取り返した説話と、尾張朝廷から物部朝廷への皇位奪取を混ぜ合わせて記述したものと考えられる。

品陀眞若王の妃の金田屋野姫の兄弟の尾綱根が『舊事本紀』「譽田天皇御世爲大臣」と皇太子の地位を得ていて、品陀眞若王の娘の高城入姫などを妃に天皇となり、「品太天皇御世賜尾治連姓爲」と輕嶋明宮天皇大臣大連、弟彦が難波宮天皇と継いで、「意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣」と意乎巳が難波宮の皇太子になったが、321年神功皇后と共に忍熊王を殺した印葉の弟の和珥臣祖武振熊・大別が恐らく、350年仁徳天皇三八年「立八田皇女爲皇后」の時、難波根子と天皇に就任し、「坂合連金連之子此連允恭天皇御世爲寵臣供奉」と、葛城朝廷滅亡とともに尾張氏は皇族では無くなった。

もう一人の説話は穴太足尼・息長宿禰の娘婿の子の淡海朝を受け継ぐ応神天皇の若沼毛二俣王・五十琴宿祢は「物部五十琴宿祢連・・・多遅麻大連女香兒媛為妻」と穴穂宮天皇多遅麻の娘の山無媛・香兒媛を妃に莵道稚郎子と矢田皇女、雌鳥皇女が生まれ、山無媛の兄弟の印葉が「印葉連公為大臣」とあるように、莵道稚郎子と皇位を争い、印葉が大臣と天皇になっていないので「多遅麻・・・五十琴彦連公女安媛爲妻」と五十琴彦の兄弟で多遅麻の娘婿の五十琴宿祢に磐余若櫻宮天皇の皇位を奪取され、淡海天皇の璽は山無媛、雌鳥媛が継承者の大神、天皇は五十琴宿祢へと継承されたようだ。

そして、平群氏の大泊瀬幼武・襲名大雀は配下の近江山君に隼総別と雌鳥皇女を殺害させ天皇の璽を得て、尾張氏の草香幡梭姫、和珥臣の童女君、葛城の韓媛を妃にして、三王朝を滅ぼした説話を大中彦・大山守・菟道稚郎子に当て嵌めて記述したと考えられる。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故天皇崩之後大雀命者從天皇之命以天下譲宇遅能和紀郎子於是大山守命者違天皇之命猶欲獲天下有殺其弟皇子之情竊設兵將攻尓大雀命聞其兄備兵即遣使者令告宇遅能和紀郎子故聞驚以兵伏河邊亦其山之上張陀()垣立椎()幕詐以舎人爲王露坐呉床百官恭敬往來之状既如王子之坐所而更()其兄王渡河之時具飾舩檝者春佐那葛之根取其汁滑而塗其舩中之簀椅設蹈應仆而其王子者服布衣褌既爲賤人之形執檝立舩於是其兄王隠伏兵士衣中服鎧到於河邊將乗舩時望其嚴餝之處以爲弟王坐其呉床都不知執檝()立舩即問其執檝者曰傳聞茲山有忿怒之大猪吾欲取其猪若獲其猪乎尓執檝者荅曰不能也亦問曰何由荅曰時々也往々也雖爲取而不得是以白不能也渡到河中之時令傾其舩堕入水中尓今乃浮出随水流下即流歌曰知波夜夫流宇遅能和多理迩佐袁計()理迩波夜祁牟比登斯和賀毛古迩許牟於是伏隠河邊之兵彼廂此廂一時共興矢刺而流故到訶和羅之前而沈入故以鈎探其沈處者繋其衣中甲而訶和羅嶋()故号其地謂訶和羅前也尓掛出其骨之時弟王歌曰知波夜比登宇遅能和多理迩和多理是迩多弖流阿豆佐由美麻由美伊岐良牟登許々呂波母閇杼伊斗良牟登許々呂波母閇杼母登幣波伊毛袁淤母比傳伊良那祁久曽許尓淤母比傳加那志祁久許々尓淤母比傳伊岐良受曽久流阿豆佐由美麻由美故其大山守命之骨者葬(?)于那良山也是大山守命者(土形君幣岐若()榛原君等之祖)於是大雀命與宇遅能和紀郎子二柱各譲天下之間海人貢大贄尓兄辞令貢於弟弟辞令貢於兄相譲之間既經多日如此相譲非一二時故海人既疲往還而泣也故諺曰海人手()因己物而泣也然宇遅能和紀郎子者早崩故大雀命治天下也」、【それで、天皇が崩じた後、大雀は天皇の命令に従って、天下を宇遲能和紀郎子に譲った。それに大山守は天皇の命令に反して、天下を獲ろうと思い、弟を殺そうと思って、密かに軍隊を編成して攻めようとした。そこで大雀は、兄の軍勢を備えたと聞いて、使者を派遣して、宇遲能和紀郎子に告げた。それを聞いて驚き、軍勢を河辺に伏せて、山の上に、とばりを張り 垂れ幕を立てて、騙して近習を王として、見えるように胡床に坐らせ、役人が敬って往き来する様子は、王子が座る所のようで、更に、その兄王が河を渡る時の爲に、船の櫂を置いておき、蔓の根本を突いて、そのぬめを取って、その船の中の葦で編んだ椅子に塗り、踏むと倒れるようにして、王子は、布の衣褌を着て、賎しい人の姿になって、舵をとって船に立った。ここで兄王は、兵士に伏せて隱れさせ、衣の中に鎧をつけて、川辺について、船に乗ろうとする時に、その様子見て、弟王が胡床に座っていると思い、舵をとって船に立っているのを知らず、舵取りに「この山に激しく怒る大猪がいると人伝に聞いた。私はその猪を狩ろうと思う。その猪は獲れるか。」と問いかけた。それで舵取りは「できない。」と答えた。亦「どうしてか。」と問うと、「いつどこで狩ろうとしても獲られない。だからできないと言った。」と答えた。そして、河の中程に渡った時、船を傾けて、水の中におとした。そこで浮かび出て、水流のままに流れ下った。それで流れて歌った()。ここで河辺に伏せて隱れた兵士達はそこら中、一斉に起き上がって、矢を刺して流した。それで、訶和羅の所で沈んだ。それで、鉤で沈んだところを探ると、衣の中の鎧にかかって、訶和羅と鳴った。それで、そこを訶和羅の前といった。そこで屍を引き出した時、弟王が歌った()。それで、大山守の屍は、那良山に葬った。この大山守は、土形君、幣岐君、榛原君の祖だ。そして、大雀と宇遲能和紀郎子と二柱は、各々天下を讓りあっている間に、海人が大贄を献上した。そこで兄は辞退して弟に献上させ、弟も辞退して兄に献上させて、其々讓りあいしている間に、既に多くの日が経った。このように譲り合うのは、一回や二回ではなかった。それで、海人はとうとう往来に疲れて泣いた。それで、諺に「海人よ、自分の物のために泣く。」といった。それなのに宇遲能和紀郎子は早く崩じた。それで、大雀は、天下を治めた。】と訳した。