2022年9月30日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』履中天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「履中天皇諱去來穗別尊者大鷦鷯天皇第一太子也母日皇后磐之媛命葛城襲津彦女也三十一年春正月立為皇太子時年十五八十七年春正月大鷦鷯天皇崩元年歳次庚子春二月壬午朔皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈太皇太后都於磐余謂稚櫻宮物部伊苔井連為大連秋七月已酉朔壬子葦田宿祢女黒媛立為皇妃生二男一女 磐坂市邊押羽皇子次御馬皇子青海皇女次妃幡媛皇女生中磯皇女二年春正月丙午朔乙酉瑞齒別皇子立為儲君五年秋九月乙酉朔壬寅皇妃薨六年春正月癸未朔戊子草香幡媛皇女立為皇后 三月壬午朔丙申天皇玉躰不豫水土弗調崩于稚櫻宮時年七十又壬申年正月三日崩年七十冬十月己酉朔壬子葬于百舌鳥耳原陵天皇所生皇子二男二女兄磐坂市邊押羽皇子尊 次御馬皇子次青海皇女尊次中城皇女」、【履中天皇、諱は去来穂別で大鷦鷯天皇の第一皇子、母は皇后の磐之媛で葛城襲津彦の娘である。治世三十一年春一月、皇太子となったときは十五歳。八十七年春一月、大鷦鷯天皇が崩じた。元年春二月壬午朔、皇太子は即位し前の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后と追号した。磐余に都を造り、稚桜宮といった。物部伊莒弗連を大連とし、秋七月已酉朔壬子、葦田宿祢の娘の黒媛を皇妃とした。妃は二男一女を生み磐坂市辺押羽、御馬、青海である。次の妃の幡梭は、中磯を生んだ。二年春一月丙午朔乙酉、瑞歯別を皇太子にした。五年の秋九月乙酉朔壬寅に、皇妃黒媛は薨じた。六年春一月癸未朔戊子、草香幡梭を皇后とした。三月壬午朔丙申、天皇は病気になり、体の不調から臭くなって稚桜宮で崩じた。七十歳、また壬申年の一月三日に崩じたともいう。七十歳。冬十月己酉朔壬子に、百舌鳥耳原陵に葬った。天皇の生んだ子は二男二女。兄に磐坂市辺押羽、次に御馬、次に青海、次に中磯。】と訳した。

『舊事本紀』ではこの項の朔の日干支が天文学的朔で、『日本書紀』では、「葬皇妃」の時の車持君が筑紫国での咎の記述で、「記言事達四方志」と「四方志」も九州の史書(『梁書』倭國・文身國・大漢國・侏儒國もしくは扶桑國、扶桑國は元々史書の「諸記」を持ち4国に入らないと考えられる)だったと思われる。

『舊事本紀』では天皇の死亡年が干支で記述されているのは、仁徳・履中のみだが、『古事記』はそれ以外に崇神・成務・神功・応神・反正・・・推古まで年干支を記述し、以前記述した仁徳の大別と履中の麦入は物部氏の天皇の為、『舊事本紀』に『古事記』と共通する記録が残っていたと考えられ、天皇の死亡年の壬申年432年は麦入の崩御と思われる。

『古事記』の死亡年の干支は戊寅318年(御真木入日子印恵)の戊寅の年が始まりと考えられ、316年「去來穗別皇子定壬生部亦爲皇后定葛城部」と襲津彦の娘の磐之媛の為に葛城部を創設し、ここで葛城国造・葛城直の姓が始まり、そのため、「劍根・・・葛城直祖」、腋上池心宮御宇天皇の「葛󠄀木直祖大諸見」と葛城国がないから葛城直になっていないが、ここで、葛城部が出来て、葛城国が出来、荒田彦が国造の姓を与えられ、長江襲津彦が葛城直襲津彦宿祢の姓を得て、祖父日向襲津彦が318年に死亡したと考えられる。

すなわち、日向襲津彦が難波・河内に侵入し、大物主の子の河内に住む大田田根子の兄弟の、恐らく、大物主・大酒主の娘の弟媛を妃にして長江襲津彦が生まれ、木菟宿禰と国替えして、葛城国造荒田彦の娘の葛比売を妃に葛城襲津彦宿禰、日向泉長媛を稚櫻宮天皇の妃にして皇位継承権を得て、伊呂賣を妃に伊奢能麻和迦が生まれ、乙卯355年長江襲津彦が死亡、壬戌362年葛城襲津彦宿禰が死亡、甲午394年伊奢能麻和迦が死亡し、去來穗別が後を継いだと考えられる。

401年の履中天皇二年の立太子は421年『宋書』の『夷蛮伝倭國』に「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と讃の統治で、「立木梨輕皇子爲太子」の前年433年まで在位し、413年『晋書』の「義熙九年高句麗・倭國・・・並獻方物」、425年『宋書』「文帝元嘉二年讚又遣司馬曹達奉表獻方物」、421年『宋書』の『夷蛮伝倭國』に「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と記述され、百濟とは良好な関係を続けたが、高句麗・新羅とは戦闘が続き、418年訥祇麻立干二年には「王弟未斯欣自倭國逃還」と王弟が人質となっていたが、逃げ帰っている。

直支王・微叱己知波珍干岐の記述は『日本書紀』が挿入場所を間違えていて、朝廷の記事ではなく他家の説話であることが理解でき、倭国の記事と想定できる。

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