2022年9月23日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書7

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「而還暫入坐箇木韓人名奴理能美之家也天皇聞()其太后自山代上幸而使舎人名謂鳥山人送御歌曰夜麻斯呂迩伊斯祁登理夜麻伊斯祁伊斯祁阿賀波斯豆摩()迩伊斯岐阿波牟迦()母又続遣丸迩臣日()子而歌曰美母呂能曽能多迦紀耶()流意富牽()古賀波良(意富韋古賀岐良)迩阿流岐毛牟加布許々呂袁陀迩迦()阿比淤母波愛()阿良牟又歌曰都藝泥布夜麻志呂賣能許久波母知宇知斯淤富泥泥士漏能斯漏多陀牟岐麻迦受祁婆許曽斯良受登母伊波米故是日()子臣白此御歌之時大雨尓不避其雨参伏前殿戸者違出後戸参伏後殿戸者違出前戸尓匍匐進()赴跪于庭()中將()水潦至腰其臣服著紅紐()青摺衣故水潦拂紅紐()()皆變紅色尓日()子臣之妹口()日賣仕奉太后故是口日()賣歌曰夜麻志呂能()都々紀能美夜迩母能麻袁須阿賀勢能岐美波那美多具麻志母尓太后問其所由()之時荅白僕之兄日()子臣也於是日()子臣亦其妹口比賣及奴理能美三人議而令奏天皇云太后幸行所以者奴理能美之所養虫一度爲匐虫一度爲鼓()一度爲非()()有變三色之奇虫者行此虫而入坐耳更無異心如此奏時天皇詔然者吾思奇異故欲行見自大宮上幸行入坐奴理能美之家時其奴理能美己所養()三種虫獻於大后尓天皇御立其大后所坐殿戸歌曰都藝泥布夜麻斯呂賣能許久波母知宇知斯意富泥佐和佐和迩那賀伊弊勢許曽宇知和多須夜賀波延那須岐伊理麻牽()久禮此天皇與太后所歌之六歌者志都歌之歌返也天皇戀八田若郎女賜遣御歌其歌曰夜多能比登母登須宜波古母多受多知迦阿禮那牟阿多良須賀波良許登表()許曽須宜波良登伊波米阿多良須賀志賣尓八田若郎女荅歌曰夜多能比登母登須宜波比登理表()理登母意富岐弥斯與斯登岐許佐婆比登理表()理登母故爲八田若郎女之御名代定八田部也」、【このように歌って還り、すこし筒木の韓人の奴理能美の家にいた。天皇は、大后が山代から上って来たと聞いて、近習の鳥山を使って、歌()を送った又、続けて丸迩臣口子を派遣して歌()った。又、歌()った。それで、口子臣が歌を宣べる時、大雨が降った。それで雨を避けず、前の戸口で土下座をしていると、後の戸に出てきて、後の戸口で土下座をすると、前の戸に出てきた。そこで、這うように進み、庭の中でひざまずいていると、雨が腰まで溜まった。その臣は、紅い紐を着けた忌中に着る衣装を着ていた。それで、溜水が紅い紐にふれて、青が皆、紅い色に変わった。口子臣の妹の口日賣が大后に仕へていた。それで、口日賣が歌()った。それで大后は、その理由を聞いた時「私の兄の口子臣だからです。」と答えた。口子臣は、妹の口比賣と奴理能美の三人が相談して、天皇に「大后が行ったのは、奴理能美が養う虫が、ある時は匐う虫で、ある時は鼓になり、ある時は飛ぶ鳥になって、三色に変わるる奇妙な虫だ。この虫を見ようと来ただけだ。ことさら、他意はない。」と奏上した。この様に言って来たので、天皇は「それなら私も珍しく思うから、見てみたい。」と言って、大宮から上って行き、奴理能美の家に入った時、奴理能美は養う三種の虫を大后に献上した。そこで天皇は、大后がいる戸口に立って、歌()った。天皇と大后が歌った六歌は、志都歌の歌返だ。天皇は、八田若郎女を恋しく思いて、歌()を送った。そこで八田若郎女も歌()を返した。それで、八田若郎女の御名代として、八田部を定めた。】と訳した。

筒木は以前に木菟宿禰が支配し、襲津彦と領地を交換した木国の筒木で、実家に帰ってしまったと述べ、そこに、丸迩臣口子を派遣し、筒木は、武内宿禰が婿入りした木国造の領域で倭直の祖の麻呂・吾子籠兄弟の家だったという背景で、後の淡海王の吾子籠と、この時点の淡海天皇の大臣丸迩臣印葉という立場で、大鷦鷯の義父の襲津彦は木国造の力で皇位を得たことが解る。

すなわち、葛城氏日向襲津彦は「速吸之門」から難波に引き入れてくれた筒木の木國造の娘を妃に長江襲津彦、荒田彦に婿入りして葛城襲津彦、妃が葛日賣だった、すなわち、この襲津彦も襲名した(少名日子)建猪心・武内宿禰で、兄弟が淡海臣の祖・海部直の波多八代宿禰で、倭直・大倭國造の吾子籠との関係が理解できる。

吾子籠が『日本書紀』に出現するのは仁徳天皇六二年374年、遠江の巨木で造った船で『日本書紀』「倭直吾子籠令造舩而自南海運之將來于難波津以充御舩也」とあるように、吾子籠が造った巨船で侵略した襲津彦版の神武東征と考えられ、長江襲津彦が木菟宿禰と領地を交換して筒木に住み、石之日賣が実家の筒木にやって来た。

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