『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「時長田司出雲臣祖游宇宿祢曰是長田者自本山守地是以今吾將治矣尓之不可掌時游宇宿祢啓于皇太子太子謂日汝便啓大鷦鷯尊矣是游宇宿祢啓大鷦鷯尊曰臣所任長田者大中彦皇子距不令治矣大鷦鷯尊問倭直祖麻呂曰倭長田者元謂山守地是如何對曰臣之不知唯臣弟吾子籠知也適是時吾子籠遣於韓國而未還爰大鷦鷯尊謂游宇宿祢日尓躬往於韓國以喚吾子籠其兼日夜而急往乃差淡路之海人八十爲水手爰游宇往于韓國召率吾子籠而來之因問倭長田對言傳聞之於纏向珠城宮御宇天皇之世科太子大足彦尊定倭長田也是時敕旨凡倭長田者每御宇帝皇之長田也其雖帝王之子非御宇者不得掌矣是謂山守地者非矣大鷦鷯尊遣吾子籠於額田大中彦皇子而令知狀大中彦皇子更无如何焉乃知其惡而赦之勿罪然後大山守皇子每恨先帝廢之非立而重者有是怨則謀之日我殺太子遂登帝位爰大鷦鷯尊預聞(?所)謀密告太子備兵令守之時太子設兵待之大山守皇子不知其備兵獨領數百兵士夜半發而行之會明詣菟道將渡河時太子服布袍取檝櫓密接渡子以載大山守皇子而濟至于河中誹渡子蹈舩而傾於是大山守皇子墮河而沒更浮流之然伏兵多起不得著岸遂沉而死焉令求其屍泛於哮羅濟時太子視其屍謌曰云々別在和歌記既」、【このとき、額田大中彦が、倭の屯田と屯倉を支配しようとして、屯田司の出雲臣の祖・淤宇宿祢に「この屯田はもとから山守の地だ。だから自分が治めるので、お前は掌ってはならない」と語った。淤宇宿祢は太子にこのことを奏上した。太子は「大鷦鷯尊に言え」と言ったので、淤宇宿祢は大鷦鷯に奏上した。「私が預かっている田は、大中彦に妨げられて治められない」大鷦鷯は、倭直の祖の麻呂に「倭の屯田は、もとから山守の地というが、どうか」と尋ねた。麻呂が「私には分からないが、弟の吾子籠が知っている」と答えた。このとき、吾子籠は韓国に派遣されていて、まだ還っていなかった。大鷦鷯は淤宇宿祢に「お前はみずから韓国に行って、吾子籠をつれて来なさい。昼夜を問わず急いで行け」と言い、淡路の海人八十人を差し向けて水主とした。淤宇は韓国に行って、吾子籠をつれ帰った。屯田のことを尋ねると、「聞いたところ、纏向珠城宮天皇の世に、太子の大足彦に、倭の屯田が定められたという。このときの勅旨は”倭の屯田は、時の天皇のものだ。帝の子と言っても、天皇の位になければ掌ることはできない”と言った。これを山守の地というのは、間違いだ」と答えた。大鷦鷯は、吾子籠を額田大中彦のもとに派遣して、このことを知らせた。大中彦は、これ以上いうべき言葉がなかった。その良くないことを知ったが、許して罰しなかった。大山守は、先帝が太子にしてくれなかったことを恨み、重ねてこの屯田のことで恨んだ。「太子を殺して帝位を取ろう」と陰謀を企てた。大鷦鷯はその陰謀を知り、ひそかに太子に知らせ、兵を備えて守らせた。太子は兵を備えて待ち構えた。大山守は、その備えのあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発した。明け方に菟道について河を渡ろうとした。そのとき太子は粗末な麻の服をつけ、舵をとって、ひそかに渡し守にまじり、大山守皇子を船にのせてこぎ出した。河の中ほどで、渡し守に船を転覆させた。大山守は河に落ち、浮いて流されたが、伏兵が多くいて、岸につけなかった。そのため、沈んで薨じた。屍を探すと、哮羅済に浮かんでいた。太子は屍を見て、歌った。云々。別に歌の書がある。】と訳した。
ここで言う、倭の屯田の倭は、「倭直祖」の麻呂と倭直・倭国造になっていないので、まだ、首都が輕嶋明宮と大和が首都なので、大和国の倭とも考えられるが、雄略前紀に「於泊瀬朝倉即天皇位遂定宮焉」と大和の泊瀬朝倉に首都を置いたのに、雄略天皇二年「自茲以後大倭國造吾子篭宿禰」と吾子篭が首都の王・天皇になってしまい、実際の倭はやはり、海・八の倭と解る。
そして、稚野毛二派の子の意富々杼は「三國君波多君息長坂君酒人君山道君・・・等之祖也」と三国、それに続く山道、そして息長の坂田の王の祖と述べ、磐余稚櫻・淡海天皇五十琴宿禰の子の「稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連」の伊莒弗が倭直祖麻呂の弟で仁徳62年に倭國造吾子篭と思われる「倭國造祖比香賀君」の娘玉彦媛を妃にしていて、 仁徳62年の吾子篭の倭国造は履中天皇時代の可能性が高く、額田大中彦と大山守の説話も難波朝末のことと考えられるる。
額田大中彦は息長宿禰の曽孫の天皇で、弟の大山守は伊莒弗に盗られる前の山道王だったことが解り、大山守は若櫻宮淡海天皇の後継で菟道宮に遷都した菟道稚郎子と共に菟道で闘う、菟道稚郎子の後見人だったことが解り、若櫻宮にいる去來穗別と難波朝の大別に敗れたようだ。
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