2022年9月19日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書5

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年歳次癸酉春正月丁丑朔己卯大鷦鷯尊即天皇位尊皇后曰皇太后都遷難波謂高津宮初天皇生日木菟入于産殿明旦譽田天皇喚大臣武内宿祢語之曰是何瑞也大臣對言吉祥也復當昨日臣妻産時鷦鷯入于産屋是亦異焉天皇曰今朕之子與天臣之子同日共産並有瑞是天之表焉以為取其鳥名相易名子為後葉之契也則取鷦鷯名以太子曰大鷦鷯皇子取木菟名号大臣之子曰木菟宿祢是平群臣之始祖也二年春三月辛未朔戊寅立磐媛命為皇后誕生四所大兄去來穗別尊次住吉皇子次瑞齒別次雄朝津間稚子宿祢尊妃日向髮長媛生大草香皇子次幡梭皇女二十二年春正月天皇語皇后日納矢田皇女將為妃時皇后不聴矣三十一年春正月癸丑朔丁卯去來穗別尊立爲皇太子三十五年夏六月皇后磐之媛命薨於筒城宮三十七年冬十一月甲戌朔乙酉葬皇后於乃樂宮三十八年春正月癸酉朔戊寅立矢田皇女立爲皇后八十二年春二月乙巳朔詔侍臣物部大別連公曰皇后久經數年不生皇子以尓大別定皇子代后號為氏以為氏造改賜矢田部連公姓八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩冬十月癸未朔己丑葬於百舌鳥野陵天皇所」、【元年の正月丁丑朔己卯、大鷦鷯は即位し、先の皇后を皇太后と尊んで都を難波に遷し、高津宮といった。この天皇が生まれた日に、木菟が産屋に飛び込んできた。翌朝、父の譽田天皇が大臣の武内宿祢を呼んで「これは何のしるしだろうか」というと、宿祢は「めでたいしるしだ。昨日、私の妻が出産するとき、鷦鷯が産屋に飛び込んできた。これもまた不思議なことだ」と答えた。そこで、天皇は「我が子と宿祢の子は、同じ日に産まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しだ。その鳥の名をとって、お互いに交換し子供に名づけ、後代へのしるしとしよう」と言って鷦鷯の名を取って太子につけ、大鷦鷯といった。木菟の名を取って大臣の子につけ、木兎宿祢といった。これが平群臣の祖だ。二年春三月辛未朔戊寅、磐媛を皇后とし、皇后は四児を生んだ。大兄去来穂別、次に住吉、次に瑞歯別、次に雄朝津間稚子宿祢。妃の日向の髪長媛は、大草香、次に幡梭を生んだ。二十二年の春一月、天皇は皇后に「矢田皇女を召し入れて妃にしたい」と言ったが、皇后は許さなかった。三十一年春一月癸丑朔丁卯、去来穂別尊を皇太子とした。三十五年夏六月、皇后の磐之媛は筒城宮で薨じた。三十七年冬十一月甲戌朔乙酉、皇后を乃羅山に葬った。三十八年春一月癸酉朔戊寅、矢田皇女を皇后とした。八十二年春二月乙巳朔の日に、侍臣の物部大別連に「皇后には、長い間経っても皇子が生まれなかった。お前を子代と定めよう」と言って、皇后の名を氏として、氏造に改め、矢田部連の姓を与えた。八十三年丁卯の八月十五日に、天皇大別は崩御された。冬十月癸未朔己丑に、百舌鳥野陵に葬った】と訳した。

この記述の朔の日干支は、「三十八年春正月癸酉朔」までは正しい天文学的朔だが、「八十二年春二月乙巳朔」以降間違った朔で、453年2月1日が乙巳朔と、この日が正しいと考えられ、大鷦鷯「丁卯年八月十五日天皇大別崩」と大別が丁卯427年に死亡し、伊耶本和気「壬申年正月三日崩」と大別の甥、大前大臣の父の麦入が壬申432年に死亡し、水歯別「丁丑年七月崩」と麦入の兄弟忍坂大中姫の子の木梨輕が丁丑437年に殺害されて、去來穗別の皇后の草香幡梭皇女の兄弟の大草香が即位し、男浅津間若子「甲午年正月十五日崩」と甲午454年に大草香が殺害され、大草香の妃を穴穗が妃(?)にして即位したと考えられ、干支による年月日表記は、論理的に考えれば、間隔が60年未満である。

60年以上の間隔の歳月は歴史としては成り立たなくて、ただの記録にしか過ぎず、史書の『日本書紀』や『舊事本紀』は天皇()の統治年で60年以上を表し、記録を歴史として意味を持たせた。

『古事記』で死亡日が記述されるのは、『古事記』の神武天皇の御真木入日子、若帯日子、葛城氏の神武の品陀和気、大鷦鷯、伊耶本和氣、水歯別、男浅津間若子、そして平群氏の大長谷若建が記述され、日向襲津彦の死亡は394年で、396年即位の葛城氏の長柄襲津彦、大長谷若建の死亡日の489年「己巳年八月九日崩」は平郡氏の最後の皇后小野皇后の死亡年と考えられ、『古事記』の死亡年の干支の間隔は60年未満の間隔で、『古事記』の神武の崇神の死亡年は318年戊寅十二月と思われる。

そして、「三十一年春正月癸丑朔丁卯」の立太子は倭奴国の王朝交代で、400年まで続く倭漢直祖阿知使主の即位で、『三国史記』344年に新羅と姻戚関係を求めたが拒否され、翌年断交して、346・364年に交戦し、391・399・400年には高句麗とも交戦しているのが好太王碑文に残る。

阿知使主は百濟と良好な関係で、391年の高句麗との交戦では百濟と共に戦い、397年には「王與倭國結好以太子腆支爲質」と皇太子が来倭していて、応神天皇十五年の「讀經典」は384年枕流王が「胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮内禮敬焉佛法始於此」と百濟に仏教が入り、その時に阿知使主も経典を理解し、菟道稚郎子に教えたと考えられる。

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