2022年9月26日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁徳天皇類書8

   『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「亦天皇以其弟速総別王爲媒而乞庶妹女鳥王尓女鳥王語速総別王曰因太后之強不治賜八田若郎女故思不仕奉吾爲汝命之妻即相婚是以速総別王不復奏尓天皇置()幸女鳥(王之所堅而坐其殿戸之或闕上於是女鳥王如本)坐機而織服尓天皇歌曰賣杼理能和賀意富岐美能游呂須波多他賀多泥呂迦母女鳥王荅歌曰多迦由久夜波夜夫佐和氣能美游須比賀泥故天皇知其()還入於宮此時其夫()速総別王到來之時其妻女鳥王歌曰比婆理波阿米迩迦氣流多迦由玖夜波夜夫佐和氣佐那()岐登良佐泥天皇聞此歌即興軍欲殺尓速総別王女鳥王共逃退而騰于倉椅山於是速総別王歌曰波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波()()泥弖和賀弖登良須母又歌曰波斯多弖能久良波斯夜麻波佐賀斯祁柳()伊毛登能煩禮波佐賀斯玖母阿良受故自其地逃亡到宇陀之蘇迩時御軍追到而殺也其將軍山部大楯連取其女鳥王所纏御手之玉鈕而與己妻此時之後將爲豊樂之時氏々之女等皆朝参尓大楯連之妻以其王之玉鈕纏于己手而参赴於是太后石之日賣命自取大御酒柏賜諸氏々之女等尓太后見知其玉鈕不賜御酒柏乃引退召出其夫大楯連以詔之其王等因()()礼而退賜是者無異事耳夫之奴乎所纏巳()君之御手玉鈕於膚煴剥持來即與巳()妻乃給死刑也」、【亦、天皇は、弟の速總別を媒酌人として、庶妹の女鳥を望んだ。そこで女鳥が、速總別に「大后が強いので、八田若郎女に手が出なかった。それで、私は仕へたくない。私はあなたの妻になりたい。」と言って、それで結ばれた。それで速總別、復奏しなかった。それで天皇は、女鳥のいる所に直に行き、戸口の敷居の上に座った。女鳥は、機織り機に座って服を織った。天皇歌った()。女鳥答えて歌った()。それで、天皇は心情を知り、宮に帰った。その時、速總別が遣って来て、その妻の女鳥王の歌()を伝え、天皇は歌を聞いて、すぐに挙兵して殺そうとした。それで速總別は、女鳥と共に逃げて、倉椅山に登った。速總別が歌()った。又、歌()った。それで、そこから逃亡して、宇陀の蘇迩についた時、軍勢が追ひ迫って殺した。その將軍の山部大楯連は、女鳥の手に纒った玉釧を奪い取って、自分の妻に与えた。この後、宴会を開いた時、氏々の女たちが、皆、朝廷に参上した。そこで大楯連の妻が、王の玉釧を、自分の手に纒って参上した。大后石之日賣は、自ら酒の器を取って、諸氏の女たちに与えた。大后は、その玉釧を見知っていて、酒の器を与えず、身を引き退けて、夫大楯連を召し出して「その王達は、無礼なので退けた。これはおかしい事ではないぞ。お前は、君主の手に纒う玉釧を、膚の温もりがあるうちに剥いで持って来て、自分の妻に与えた。」と言って、死刑にした。】と訳した。

この記述は、溜池を造って、稲の増産で裕福になった大雀が海部直の羽田矢代宿禰の娘黒姫を妃にして淡海朝廷に接近するのに失敗し、今度は淡海朝廷を奪取しようと、淡海朝の配下の山部連に謀反を起こさせた説話だと思われ、『日本書紀』では「近江山君稚守山・・・手有纏良珠」、「隼別皇子逃走即遣吉備品遲部雄鯽」と佐伯直阿俄能胡が玉を奪い、近江山君が淡海朝を奪取したようだ。

山部連は『日本書紀』清寧天皇二年に「播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯」、『舊事本紀』白髮天皇二年「播磨國司山部連先祖伊予來目部小楯」と来目部で、仁賢天皇の時「播磨國司山部連小楯詣亦求迎白髮天皇尋」と山部を賜姓され、『古事記』と食い違うが、『古事記』は仁賢天皇が創り、馬子が追加した史書と考えられ、仁賢天皇の視点で記述されたことによると考えられ、大楯が難波・河内朝と敵対し、仁賢天皇の協力者だった事を示している。

山部は『古事記』品陀和気に「定賜海部山部山守部伊勢部也亦作釼池」と河内近辺の釼池造ったように、大山守の事績で、平群氏大雀は淡海朝廷の山君の大山守を滅ぼして、これらの地域を分割し、大山守の配下の小楯と後ろ盾の葦田宿禰の子の磐坂市邊押羽を殺害したと考えられる。

この近江山君稚守山は「息長宿祢王・・・息長日子王三柱此王者吉備品遅君針間阿宗君之祖」とあるように、息長日子の可能性が高く、播磨國司小楯の上司が針間阿宗君や吉備品遅君と思われ、葛城氏を滅ぼすのに協力した可能性が高い。

このように、同じ説話でも、ネタ元の違いで、『古事記』は佐伯直を記述せず、『舊事本紀』はこの説話を記述せず、『古事記』を造らせた仁賢天皇にとって佐伯直は功労者だったから、この記述となった。

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