『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱大鷦鷯尊者譽田天皇第四皇子也母日皇后仲媛命五百入彦皇子命之孫也天皇幼而聡明叡智容貌美麗及壯仁寬慈志四十一年春二月譽田天皇崩<・・・後述・・・>生皇子五男女大兄去來穗別尊次住吉仲皇子次瑞齒別尊次雄朝嬬稚子宿祢尊次大草香皇子次幡媛皇女」、【諱は大鷦鷯で譽田天皇の第四皇子だ。母を皇后仲媛という。五百城入彦皇子命の孫で、天皇は幼いときから聡明で、英知、容貌も美しく、大人になると心広くめぐみ深かった。前天皇の四十一年春二月に譽田天皇が崩じた。<以降略>】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「大鷦鷯命坐難波之高津宮治天下也此天皇娶葛城之曽都毗古之女石之日賣命大后生御子大江之伊耶本和氣命次墨江之中津王次蝮之水歯別命次男淺津間若子宿祢命四柱又娶上云日向之諸縣君牛諸之女髪長比賣生御子波多毗能大郎子亦名大日下王次波多毗能若郎女亦名長日(目)比賣命亦名若日下部命二柱又娶庶妹八田若郎女又娶庶妹宇遅能若郎女此之二柱無御子也凡此大雀天皇之御子等并六王男王五柱女王一柱故伊耶本和氣命者治天下次蝮之水歯別命亦治天下次男淺津間若子宿祢命亦治天下也此天皇之御世爲大后石之日賣命之御名代定葛城部亦爲太子伊耶本和氣命之御名代定壬生部亦爲水齒別命之御名代定蝮部亦爲大日下王之御名代定大日下部爲若日下部王之御名代定若日下部又伇秦人征(作)茨田堤及茨田三宅又征(作)丸迩池依網池又掘難波之淈(堀)江而廻海又淈(堀)小椅江又定墨江之津於是天皇登高山見四方之國詔之於國中烟不發國皆貧窮故自今至三年悉除人民之課伇是以大殿破壊悉雖雨漏都勿脩理以椷受其漏雨遷避于不漏處後見國中於國満烟故爲人民冨今科課伇是以百姓之營不苦伇使故稱其御世謂聖帝止(世)申也」、【大雀は難波高津宮で天下を治めた。<・・・系図略・・・>それで、伊邪本和氣は、天下を治めた。次に蝮水齒別も亦、天下を治めた。次に男淺津間若子宿禰も亦、天下を治めた。この天皇の世に、大后石之日賣の御名代として、葛城部を定め、亦、太子の伊邪本和氣の御名代として、壬生部を定め、亦、水齒別の御名代として、蝮部を定め、亦、大日下の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めた。又、秦人を討伐して茨田堤及び茨田三宅を作り、又、丸迩池、依網池を作り、又、難波の堀江を掘って海に通し、又、小椅江を掘り、又、墨江の津を定めた。是に天皇、高山に登って、四方の國を見て「國中に烟が上がらない。國中が貧窮している。それで、今から三年、残らず人民の課伇を免除しなさい。」と言った。それで大殿は壊れて崩れ、そこら中に雨漏りしたが、都を整備することなく、器で其の漏れてくる雨を受けて、漏れない所に遷って避けた。後に國中を見ると、國に烟が満ちた。それで、人民が富んだと思って課伇を科し、これで百姓は潤って、課役に苦しまなかった。それで、その世を稱えて、聖帝の世といった。】と訳した。
応神天皇記は複数の天皇の記録が記述され、その中に稚野毛二派皇子と尾綱根・品陀真若がいたが、そのほかに、葛城氏の王の品陀和気も応神天皇の一人で、娘の仲姫と品陀和気の子の大鷦鷯で、大碓が坐王の子の大根(?大田田根子の妹を妃)の娘を妃に大帯彦と大国の将軍、小碓が若建吉備津日子と倭奴国をバックに、日向を含む仲国を手に入れたと思われる。
葛城氏の本家の大鷦鷯は日向襲津彦の娘の石之日賣を妃にすると、襲津彦に本家の地位を奪われ、石之日賣の母の兄弟と考えられる日向諸縣君は「彦火火出見尊崩葬日向高屋山上陵」と先祖火火出見が高屋に葬られ、大帯彦がその地、「日向國起行宮以居之是謂高屋宮」と高屋宮にいる時に御刀媛を見染めて、「豐國別皇子是日向國造之始祖也」と日向国造の祖を生み、また、「日向髪長大田根生日向襲津彦皇子是阿牟君之始祖也」と日向国王襲津彦を生んだ。
石之日賣は襲津彦と諸縣君の兄弟との子と思われ、それに対して、襲津彦の兄弟と諸縣君の子と思われる日向髪長媛が尾綱根の子の妃になり、それは、雄略天皇の皇后が草香幡梭姫で、『日本書紀』雄略天皇妃「爲大草香部民以封皇后」、そして、継体天皇妃が「妃尾張連草香女曰目子媛」と草香が尾張氏なので、日向髪長媛の子の大草香は尾張氏と思われるからである。
すなわち、尾張氏は313年に難波に遷都したが、首都難波の難波根子すなわち難波王・天皇の神功皇后と和珥臣祖武振熊によって皇位を奪取され、390年頃、日向襲津彦と倭直吾子篭と難波根子と阿知使主によって、木国や葛城は襲津彦、淡海は倭直吾子篭が支配したと考えられ、襲津彦は若櫻宮朝を400年に奪取した。
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