2023年11月29日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 『古事記』『舊事本紀』「帝皇本紀」後1

  「帝皇本紀」に推古廾二年六月丁卯朔己卯に「物部恵佐古連公為大連」と記述されていた。この朔の日干支は640年の日干支である。恵佐古は「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と記述される。皇極天皇は小治田天皇、豐財重日の母の吉備姫は高向王と舒明天皇の妃だった。この前年、舒明十一年七月に「今年造作大宮及大寺・・・百濟川側爲宮處」と、百濟川辺に大宮を造った。翌年四月丁卯朔壬午、この日干支は九州の日干支で、「便居廐坂宮」と廐坂宮に居住した。さらに、七月「徙於百濟宮」に遷って、十三年十月己丑朔丁酉に、「天皇崩干百濟宮」と恵佐古百濟宮大連天皇が崩じた。おそらく、廐坂宮にいた恵佐古が田村王の死後、小治田に遷ったが、蝦夷に敗れて百濟宮で薨じたのだろう。

そして、「大臣病臥之・・・辛丑薨」、「阿須迦天皇之末歳次辛丑」と641年に豊浦大臣が薨じた。吉備姫も飛鳥から小治田に遷った。実際の首都がどこなのかは解らない。皇極期から天智天皇たちが記述したため、664年からの事績を混入させている可能性が高い。但し、大化期の記事は元明天皇たちの記事で、695年以降の記事があると思われる。

また、守屋の子の雄君は、「飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位」とある。世代的にも飛鳥天皇の豊浦大臣の事だろう。「目大連女豊媛爲妻生二兒」と記述されるように、目大連の娘を妃にしている。目大連は大伴金村の事、恐らく、『古事記』に記述しない大伴糠手の娘の崇峻妃の小手子のことだろう。また、紫冠位を授けられたのは、「私授紫冠於子入鹿」と「紫冠授中臣鎌足連」だけだ。大紫は蘇我連大臣とやはり入鹿、入鹿は物部連入鹿大臣と自称していた。それ以外は元明天皇たちが記述した人物で、解らない。

同じく、目大連の子の馬古連が「難波朝御世授大華上」、恵佐古大連の子の荒猪連も「同朝御世賜大華上位」と記述される。大華上を授与された人物は『日本書紀』に無い。大錦上授与が「遣大唐押使高向史玄理」「大錦冠授中臣鎌子連」である。鎌足は『家傳』「大師伝」に「母曰大件夫人」と、恐らく、大伴夫人、目大連の家系で、馬古連が合致する。恵佐古は智奴王、母は漢王の妹、智奴王の妃の吉備姫が橘豊日の孫の高向王だ。その子が漢皇子、高向玄理は漢王の兄弟の可能性が高く、荒猪がよく合う。そして、その兄弟、天智天皇の太皇弟が「淡海朝御世爲大連」の多都彦だろうか。

2023年11月27日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇4

『隋書』に「至竹斯國」と目的地の俀国の首都の筑紫に到着したと記述した。そして、さらに、「又東至秦王國」と秦王国に到着したと。それ以降、「達於海岸」まで到着点の至が無い。秦王国の到着地は難波を経て推古十六年の「秋八月辛丑朔癸卯唐客入京」と小墾田だろう。「同於華夏」と秦王国の様子は中国人と変わらないと記述する。そして、「復令使者随淸來貢方物此後遂絶」と、また両国共に朝貢してきなさいと命令した。しかし、拒否したので、断絶したと記述した。これ以降、中国は俀国も秦王国も記述しないで、倭国のみ記述する。すなわち、俀国も秦王国も隋朝より上位と思っていたので、朝貢するように命じたから、断絶したのである。二十二年六月丁卯朔己卯の「遣犬上君御田鍬矢田部造於大唐」も、三一年の「大唐學問者僧惠齊惠光及醫惠日福因等並從智洗爾等來之」も当然倭国が対象だ。そのため、舒明二年の「大仁犬上君三田耜大仁藥師惠日遣於大唐」の御田鍬が倭国の代表である。唐時代には秦王国が存在しない、旧日本国である。隋との交渉は俀国と秦王国なので、推古期を記述した倭国は隋を認めず、唐と記述したのだろう。

二二年の「大臣臥病爲大臣而男女并一千人出家」記事は卅四年の嶋大臣の死亡記事と思われる。『上宮聖徳法王帝説』に「曾我大臣推古天皇卅四年秋八月嶋大臣爲大臣之男女并一千人」と記述する。すなわち、千人出家と大臣薨は、ほゞ、同時で、『上宮聖徳法王帝説』は続けて、「廿二年甲戌秋八月大臣病臥之卅五年夏六月辛丑薨之」と記述する。『日本書紀』は「夏五月戊子朔丁未大臣薨」と八月では無く、八月は「千人出家」の月である。すなわち、卅五年の「辛丑薨」は嶋大臣ではないと思われる。卅五年の薨は廿二年の薨から13年後の卅五年に薨じた、豊浦大臣の薨と思われる。『船王後墓誌』「阿須迦天皇之末歳次辛丑」、奇妙な『上宮聖徳法王帝説』の「辛丑薨」は641年、舒明十三年だろう。『上宮聖徳法王帝説』の「本云」以外は原則『日本書紀』と同じで、「本云」は別資料である。

推古元年は593年ではなく、592年冬十二月壬申朔巳卯に「皇后即天皇位於豐浦宮」と即位した。推古元年は592年で、1年前倒しである。すなわち、推古年は1年前、聖徳太子の薨は正しい日干支だ。法興31年の「明年正月廿二日」と翌年の622年の1年前だった。従って、嶋大臣薨も正しい日干支だから、実際は翌年627年の薨が正しいと思われる。そして、推古年は推古天皇でも嶋大臣の年号でもない、法興帝の年号だったのだろう。

聖徳太子薨去以降から、朔の日干支は正しい日干支が、大臣薨去以外無い。嶋大臣は倭国豊浦宮王である。そして、629年から、640年小治田宮の恵佐古大連即位まで小治田宮天皇は名目上、空位だ。そのかわり、嶋大臣が生まれた飛鳥岡本宮の吉備嶋皇祖母が舒明元年に即位した。そして、推古三六年の三月癸丑に「天皇崩之」、75歳で、『古事記』も「戊子年三月癸丑」である。

2023年11月24日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇3

  『隅田八幡神社人物画像鏡』の大王の日子人太子は癸未年八月までは、生存した。皇太子も大王である。また、卅二年十月癸卯朔記事の「天皇詔曰今朕則自蘇我出之大臣亦爲朕舅也」の天皇は田村皇子の説話のようだ。小治田王の娘婿だ。嶋大臣を舅と呼べる天皇は「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛」の法提郎媛の夫のみ、舒明天皇だ。すなわち、田村王は10歳代の小墾田宮皇太子で、623年、癸未年の八月以降に天皇と同等の日子人皇太子は薨じたようだ。秦王国の倉椅柴垣宮の天皇は推古、小墾田宮天皇の皇太子が田村王である。皇太子は天皇と同等だが、未成年のため、麻伊古大連を襲名できない。小墾田宮天皇不在のため、暦を扱う朝廷が飛鳥岡本宮に遷ったのだろう。『隅田八幡神社人物画像鏡』は田村王と法提郎媛の婚姻祝いなのだろうか。

すると、十一年十月己巳朔壬申の「遷于小墾田宮」の遷都によって、初代麻伊古が大連になったといえる。日子人が大連皇太子になった。推古5年の皇太子の竹田皇子死後、日子人が成人するまで、大連皇太子が不在だった。竹田皇子は推古元年20歳未満だったのだろう。成人していたら、推古天皇ではなく、竹田皇子が即位すればよい。豊浦宮は竹田皇子が皇太子で、廐戸皇子も成人前で、弟の嶋が大臣になった。

二年春二月丙寅朔の「皇太子及大臣令興隆三寶」は竹田皇子、九年春二月の「皇太子初興宮室于斑鳩」は廐戸皇子のことだろう。十一年十月己巳朔壬申に「遷于小墾田宮」と日子人皇太子が麻伊古大連皇太子に即位した。斑鳩には日子人の庶妹玄王や刀自古郎女が居住して共に山代王が生まれた。摩理勢臣が「赴干斑鳩住於泊瀬王宮」とあるように、斑鳩に泊瀬王の宮があった。そして、皇后の小治田王に田村王が婿入りした。十一年十一月己亥朔、11月2日に九州の技術者に蜂岡寺を建立させたようだ。十二月戊辰朔壬申の「始行冠位」も十二年四月丙寅朔戊辰の「作憲法十七條」も日子人皇太子だろう。

『隋書』の冠位と小仁より後が異なり、俀国の聖徳帝に対抗したのだろう。十三年夏四月辛酉朔の「造銅繍丈六佛像」も日子人皇太子で、高麗國大興王が「日本國天皇」と、秦王国の天皇と呼んでいる。『舊唐書』の「日本舊小國」は旧俀国、後の日本が小国だったの意味。「併倭國之地」は倭国が元々の日本を併合し、それを俀国が併合したという意味。「日本國者倭國之別種」は後の日本、旧俀国が倭国から分裂した国だとの意味。小国の俀国が倭国の領土を併合して、新しい日本を建国した。仁賢六年の「倭國山邊郡額田邑」までの倭国は淡海の倭国の可能性が高い。しかし、欽明七年の「倭國今來郡」などは、新漢を「いまき」と訓読し、倭が畿内に変化しだした。

2023年11月22日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇2

  三六年九月己巳朔は、日干支に該当する日が無く、598年の日干支と考えられる。推古5年、「卅九年當于泊瀨部天皇五年」と泊瀨部が殺された597年の年齢と間違えている。「便宜葬于竹田皇子之陵」と天皇が皇子の陵墓に埋葬は逆で奇異である。すなわち、馬子の子の後継者竹田皇子が597年推古5年に崩じた。翌年、馬子の陵墓に埋葬、そして、推古天皇も崩後、同じ陵墓に埋葬されたのではないだろうか。

馬子の実際の薨去年が『舊事本記』の推古5年の597年か、『日本書紀』の崇峻5年の592年か解らない。推古三二年の蘇我大臣が葛城縣の領有を求めた時、天皇が大臣を叔父と言っている。この天皇は豊御食炊屋比売では無く、記事も624年ではなく623年の記事である。『日本書紀』は法興帝の記事をもとに推古記事を記述して、混乱している。しかし、『日本書紀』が正しそうだ。『古事記』も592年壬子の崩だ。597年は竹田皇子の薨去だろうか。

三六年三月丁未朔戊申に「日有蝕盡之」と日蝕があるが、この表記では2日に日蝕があって天体異常だ。しかし、この朔の日干支は2月29日晦の日干支で、戊申が朔で正常な天体ショウーだ。しかも、この日蝕は畿内で観測されず、九州で観測できた。新旧の『唐書』に「貞觀二年三月戊申朔日有蝕之」と記述される。廿九年二月己丑朔癸巳の聖徳帝薨、三四年五月戊子朔丁未の「大臣薨」も正しい日干支である。すなわち、この頃の間違いの日干支は九州や任那の資料の日干支と考えられる。

卅二年四月丙午朔は31年4月1日朔、卅二年九月甲戌朔も31年9月1日朔で1年違う。十月癸卯朔も31年10月1日朔、卅三年正月壬申朔も32年1月1日朔と同じく違う。623年624年である。623年は癸未年、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』を作成した年である。王后即世日の二月廿一日癸酉の日干支は622年2月21日、聖徳帝の薨去日はその翌日である。それを、621年にしたために挿入が間違ってしまった。聖徳太子薨の法興32年(622年)記事を推古29年(621年)に挿入したために、間違った。法興帝が豊御食炊屋比売より1年後に薨じたのだろうか。

2023年11月20日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇1

593年、推古元年四月庚午朔己卯の「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」は九州の暦である。俀王の東漢直駒が殺害され、法興帝の弟の漢直の聖徳帝が皇太弟になった。568年に太子になったのが「東漢直駒東漢直磐井子」と磐井の子の駒なのだろう。駒に譲位された子の法興帝が30年以上帝位に就いているので、即位年は若く、子が13歳以下なので、弟が太子になった。斉明朝に、東漢長直阿利麻、東漢草直足嶋と分岐した家系を記述し、天武期に東漢直等とある。東漢直は463年、雄略七年に興・東漢直掬が初出である。雄略期以前に漢直の祖と記述されるので、漢直祖阿知使主から始まる、本家の漢直が存在したと思われる。そして、東漢直は677年以降も、「小墾田御世至于近江朝常以謀・・・今以後若有犯者必入不赦之例」と存在した。

東漢直に代わって倭漢直が、その後記述される。俀国は隋外交に失敗したのが608年、法興18年に遣隋使の一行に学生の倭漢直福因が存在した。年齢から、日子人の妃の大俣王の兄の漢王は聖徳帝の子の倭漢直福因と思われる。さらに、聖徳帝の子と思われる高向王は倭漢直比羅夫、豐財重日の兄弟の漢皇子が倭漢直縣・萬豊日・筑紫君薩野馬と考えられる。そして、天武期に東漢直を許したのは、「不欲絶漢直之氏」と漢直に類が及ぶからだろう。その結果、「川内漢直・・・賜姓曰連」、「倭漢直等賜姓曰連」と九州と難波の漢直は認められた。皇室の直系なので当然である。そして、2代目豐財重日の小墾田天皇の子の、蘇我豊浦大臣の孫を妃にした天智が即位した。

推古元年春正月壬寅朔丙辰の「以佛舎利置于法興寺刹柱礎中」は、法興帝の事績だろう。『法隆寺金堂釈迦三尊像』はその法興寺に安置されたものを、法隆寺に移設したと考えられる。倭王が俀王の名を冠した寺を建立する謂れが無い。聖徳帝漢直は川内漢直と呼ぶように、川内に基盤を持ち、川内難波の荒陵に四天王寺建立も理に適う。年齢的にも廐戸皇子と同年代である。二年春二月丙寅朔の皇太子や大臣が「競造佛舎」の記事の大臣は嶋大臣、皇太子は小墾田皇太子日子人だろう。池辺宮は穴穗部間人皇后の薨と豐聰耳は子の山背大兄が推古末20歳程度、豊浦大臣より若いので、豐聰耳は嶋大臣より若い。守屋の子の豐聰耳は嶋大臣の皇弟で、倭国太子、日子人は秦王国太子だ。

2023年11月17日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀4

推古天皇の継承者を選ぶとき、豊浦大臣にとっての叔父が存在する。「大臣曰傳聞之叔父以田村皇子欲爲天皇」と記述する叔父は誰なのだろうか。『隅田八幡神社人物画像鏡』は「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念」と記述する。すなわち、癸未年の623年まで、太子日子人が生存し、その男弟王が存在する。斯麻は嶋大臣で、626年、推古三四年に薨じて、豊浦大臣の父の嶋大臣と日子人皇太子は義理の兄弟である。日子人皇太子が生きていればすんなり日子人天皇だが、太子不在である。そして、日子人は天皇になっていないから、日子人の皇太子自体が存在しない。事実上の秦王国の実力者は意柴沙加宮の男弟王で、甥の田村王を推した。当然だが、日子人の妃の庶妹の田村王は小治田王と考えられる。しかし、秦王国天皇は名目上の天皇で、実質は吉備嶋皇祖母と豊浦大臣が飛鳥岡本宮で統治した。『船王後墓誌』に「乎娑陀宮」の時に生まれ、「等由羅宮」、「於阿須迦宮」で「才異仕有功勲」と記述される。「阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月」と641年が飛鳥末年、智奴王が崩じた。わずか1年で崩じて、秦王国は完全に滅亡した。

『舊事本紀』の史書はここで終わるが、「天孫本紀」はまだ続く。皇極天皇は天智天皇が記述したのだから俀国の女王だ。倭国は吉備嶋皇祖母、嶋皇祖母が天皇で、大臣が統治したようだ。「天孫本紀」にはもう一人、大連が存在する。史書が続いていたら、「帝皇本紀」に続いて667年、天智六年三月辛酉朔己卯にこう記述するだろう。「遷都于近江」、恵佐古大連の子の豊日すなわち荒猪の弟の多都彦連が「淡海朝御世爲大連」と。すなわち、多都彦は天智朝の大皇弟になったと記述するのだろう。吉備姫の子の葛城皇子は萬豊日と考えられる。大海皇子は653年、白雉四年「遷于倭京」の時、天皇・皇太子・皇祖母・間人皇后・皇弟が揃っている。実際は白鳳4年、俀国が皇位を奪取した初代天皇の崩。皇弟は天皇の弟、皇太子の弟ではなく、天智天皇の時は大皇弟、先代の皇弟の古人太子の意味だ。

また、守屋大連の子の雄君という人物が存在する。「飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位」とある。世代から、飛鳥朝の綬号だろう。紫冠を授けられた人物は、「私授紫冠於子入鹿而」と「紫冠授中臣鎌足連」の二人だ。どちらも飛鳥浄御原宮の人物ではない。鎌足は、『家傳』「大師伝」に645年、白鳳五年に「故遷大紫冠進爵爲公」と「天萬豐日天皇已厭萬機登遐」後に授かった。すなわち、雄君は守屋の子の嶋大臣の家系の名で、643年、皇極二年に「私授紫冠於子入鹿」と大臣蝦()が授けた。642年、皇極元年に「天皇遷移於小墾田宮」と遷都した後である。飛鳥天皇死後も飛鳥に吉備嶋皇祖母が643年まで存在した。吉備嶋皇祖母が臥せっていたから、蝦夷が仮授した。654年、白雉五年、「以紫冠授中臣鎌足連」。これは665年の白鳳5年、鎌足だ。654年は鎌足18歳、不比等は659年生まれ、理に適う。

2023年11月15日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀2

640年まで大連天皇が存在しなかった。それまで、推古天皇は誰が後継したのだろうか。簡単である。推古三四年五月戊子朔丁未に、「大臣薨・・・家於飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣」とある。舒明天皇時は飛鳥岡傍の岡本宮に首都がある。嶋大臣が生まれた宮殿であり、推古末には首都が飛鳥にあり、そこの皇后は飛鳥宮皇后である。そして、飛鳥宮には吉備嶋皇祖母が存在し、吉備嶋皇祖母は643年、皇極二年に「吉備嶋皇祖母命薨」と薨ずる。580年頃の生まれなら、576年18歳の推古天皇の娘に合致する。

600年頃豊浦宮で、嶋大臣田眼(豊浦)皇子の妃となったと思われる、吉備嶋皇祖母。皇祖母なので、舒明天皇の母だ。田眼皇女は「是嫁於息長足日廣額天皇」と記述する。息長足日廣額天皇は飛鳥天皇、豊浦皇子と考えられる。年齢から矛盾し、田眼皇女が石寸名、皇祖母天皇なのだろう。稲目大臣の娘ではなく馬子大臣の娘と考えられる。そして、皇祖母を継承した嶋皇祖母は664年、天智三年6月に「嶋皇祖母命薨」と薨じた。真の乙巳の変で薨じている。吉備嶋皇祖母の後継者、舒明前紀に記述する「蘇我蝦夷臣爲大臣」の蝦夷の妃が嶋皇祖母だろう。嶋皇祖母は贄古の娘の鎌媛大刀自だろう。贄古は厩戸豐聰耳、嶋大臣と同年代なので、嶋大臣の子の豊浦皇子の妃に適応する。そして、大臣は馬子、593年から嶋大臣、626年から豊浦大臣と継承された。

それに対して、640年即位と思われる岡本宮天皇は智奴王・恵佐古で大連天皇に即位した。皇極天皇は吉備姫と考えられる。すると、628年の推古崩から誰が継承したのだろうか。推古朝は豊浦から小墾田に遷都したので、小墾田天皇だ。『日本書紀』に「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と記述される。すなわち、彦人が娘婿の皇太子である。そして、『古事記』に「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と記述する。しかし、太子の彦人は薨じ、子の若い2世麻伊古の崗本宮天皇が即位したと思われる。その後、日子人の子の2世麻伊古の弟の智奴王・恵佐古が640年に即位した。しかし、実権は、倭国の吉備嶋皇祖が手中にしたようで、飛鳥天皇と呼ばれる。

豐財天皇は「初適於橘豐日天皇之孫高向王」と高向王の妃である。高向漢人玄理とあるように高向王は漢王、子が漢皇子、東漢直の分家の聖徳王の子が高向王と考えられる。そして、智奴・恵佐古大連天皇の妃は吉備姫の皇極、高向王との子が漢王2代目皇極の斉明天皇である。智奴王も、聖徳帝の子の漢王高向王の妹の大俣王の子である。恵佐古の子の荒猪が「難波朝御世授大華上」、難波朝は蝦夷・入鹿の朝廷で、天萬豊日が榎井臣の祖の荒猪の可能性が高い。

2023年11月13日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀1

  推古天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に、587年(泊瀨部五年)冬十二月壬申朔巳卯の記事がある。「皇后即天皇位於豐浦宮」で、推古皇后が大連ではなく天皇になった。天皇は『舊事本紀』にとって、神、皇后が神の言葉を聞き、大連にそれを伝える。神は宮そのもので、その宮が続く限り、天皇も続く。皇后の名前も、大連の名前も襲名されて、同じ名前である。すなわち、推古天皇は倉梯宮皇后なので、倉梯天皇を名乗るべきである。しかも、神となったので、倉梯宮そのものである。ところが、その首都の宮が、推古朝では、豊浦宮、小墾田宮と遷り、岡本宮で天皇が代り、矛盾している。その矛盾の原因は、推古天皇が倭国天皇、そのほかに、守屋や穴穂を継承した、秦王国の天皇が存在するからだ。

本来なら、592年十二月の「皇后即天皇位於豐浦宮」で豊浦宮皇后に代わる。そして、推古十一年十月の「遷于小墾田宮」に小墾田宮皇后に代わる。そうでなければ、筋が通らない。そこに、推古二十年に「改葬皇太夫人堅鹽媛」の記述がある。堅鹽媛は皇后になったことが無く、矛盾しているのだ。本来なら、小墾田宮皇后の前の豊浦宮皇后が皇太夫人である。しかも、文面は「誄於輕街」と葬儀で、誄者は多数、死後直ぐの様子だ。欽明帝の妃の堅鹽媛なら80歳以上である。やはり、豊浦宮皇后が皇太夫人堅鹽媛である。そして、堅鹽媛はもう一人存在した。

『古事記』に橘豊日の妃が稻目大臣の娘の意富藝多志比賣(石寸名)で、豊浦皇子多米王が生まれている。すなわち、豊浦宮皇后は守屋の妃の意富藝多志比賣の可能性が高い。そして、贄古の娘の鎌媛大刀自が「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政」と小墾田宮まで生存している。そして、「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と嶋大臣を夫に豊浦大臣を生んでいる。「豊浦大臣名日入鹿連」と矛盾を生じているが、『日本書紀』成立後に完成させたための矛盾だ。蝦夷豊浦大臣が664年まで生存しているのが、645年死亡とされた矛盾である。同様に、豊浦大臣を嶋大臣と考えて、意富藝多志比賣を嶋大臣の母にしたと考えられる。この嶋大臣の母が推古二十年の「改葬皇太夫人堅鹽媛」の堅鹽媛なのだろう。

それでは、小墾田宮皇后は誰かといえば、「是嫁於日子人大兄皇子」の小墾田皇女だろう。『古事記』は桜井玄王と記述しているが、どちらかが厩戸豐聰耳の妃の刀自古郎女である。640年、推古廾二年夏六月丁卯朔己卯、「物部恵佐古連公為大連」の記事がある。「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」だが、丁卯朔は640年の日干支である。すなわち、小墾田宮天皇の皇極天皇の夫と考えられる。恵佐古の父麻伊古も大連だが、実際は推古天皇がいるため、大連天皇に即位できない。すなわち、小墾田宮皇后の夫は麻伊古・日子人大兄と考えられる。そして、布都姫夫人の弟の妃が、「弟娣生物部石上贄古」と記述され、布都姫の夫となった。布都姫の弟は守屋で、その妃は間人穴太部王、子は厩戸豐聰耳、それが贄古である。そして、「此連公異母妹御井夫人爲妻」、「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と記述される。おそらく、布都姫の娘の刀自古郎女と考えられる。

2023年11月10日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 崇峻天皇

  大連天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に、「守屋連公爲大連亦爲大臣」以降記述されない。さらに、『日本書紀』に記述されない朔の日干支。「冬十二月壬申朔」の巳卯に「皇后即天皇位於豐浦宮」が記述される。しかも、九州の暦で、『日本書紀』は推古天皇が主役の推古前紀に記述される。崇峻紀では、この朔の日干支以外は正しい日干支である。そして、馬子は『日本書紀』に「大臣」と記述するだけで、記述されなくなる。『舊事本紀』の廾八年春二月甲午朔甲辰の「勅撰録先代舊事天皇紀及國記」の日干支は間違いだ。620年にこの日干支は無く、625年の九州歴の晦の日干支だろう。『日本書紀』の「是歳」の「嶋大臣共議之録天皇記及國記」の記事で、大臣は嶋で馬子ではなく、襲名した馬子だ。「天皇爲大臣馬子宿禰見殺」は、「大臣馬子宿禰爲天皇見殺」なのではないだろうか。崇峻天皇は既に殺されたと記述され、「見殺す」の表現の主語は上位者の天皇が見殺しにした表現だ

倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」の御井夫人は天皇夫人である。夫人は反正帝の津野媛皇夫人が皇后、星川皇子の母の夫人稚媛は大伴室屋天皇の皇后と証明した。さらに、韓媛皇太夫人は真鳥天皇の皇后、小野夫人は弘計天皇の皇后、飯豊皇女も室屋皇后だ。継体帝は「天皇位尊皇妃立爲皇大夫人媛也」、即位すると妃を夫人にするなど、全て天皇皇后だ。敏達帝の老女子夫人、菟名子夫人は皇妃、大伴狛夫人は金村の妃だろう。皇太夫人堅鹽媛とあるように、御井夫人は堅鹽媛を継承したのだろう。以降、法提郎媛、氷上娘、大甦娘、阿倍夫人と皇妃が続く。石川夫人のみ大臣妃だが、恐らく、蘇我山田大臣は倭国最後の天皇だったと考えられる。

すなわち、倉梯宮皇后だった御井夫人が「皇后即天皇位於豐浦宮」と即位した。従って、崇峻天皇は「守屋大連之妹」の御井夫人の夫である。「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」と記述され、蘇我大臣馬子である。すなわち、用明天皇の崩じた日付は守屋の薨、崇峻の崩が馬子の薨、嶋大臣が継承したと解る。そして、『古事記』の大臣の家系は豊御食炊屋比売に引き継がれた。そして、贄古と御井夫人の娘の鎌媛大刀自は「嶋大臣為妻生豊浦大臣」と記述される。すなわち、『古事記』を完成させ、『舊事本記』「帝皇本紀」までを記述させたのは、鎌媛大刀自と嶋大臣の子の豊浦大臣だろう。

2023年11月8日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 用明天皇

  用明天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」、用明天皇前年九月甲寅朔戊午に奇妙な記述がある。585年に、「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と守屋が大連天皇大臣になった。それ以降、推古廾二年夏六月丁卯朔己卯の「物部志佐古連公為大連」まで、大連天皇の記述が無い。578年、「菟道皇女侍伊勢祠即奸池邊皇子」と守屋は神の朝廷の名目上の女王菟道皇女を妃にした。女王の夫は大臣で、そのため、大臣の史書の『古事記』は守屋を沼名倉太玉敷、3代目稲目の後継者と記述した。馬子も大臣を継承しているので、馬子が倭国王、守屋が秦王国の分王朝の大臣なのだろう。通常、天皇なら大臣は不要だからである。

崇峻前紀に「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」とある。『舊事本紀』では守屋の妹が布都姫夫人で、「倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と記述する。すなわち、倭国では天皇が皇太后や皇后や夫人で、大臣が最高責任者だったことが解る。敏達五年の「立豐御食炊屋姫尊爲皇后」は倭王馬子の皇后になったのである。馬子が薨じる592年に、御食炊屋姫「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」と、馬子まで渟中倉太玉敷天皇だったと述べている。576年18歳で皇后なら、34歳は592年、崇峻5年にあたる。

実際の用明天皇は穴穗部間人皇后なので、皇后が587年、用明二年(四月)癸丑9日に崩じた。『古事記』は15日だが、暦が異なるのだろうか。用明二年五月、皇后の弟が「穴穗部皇子爲天皇」と即位する。『古事記』は「坐池邊宮治天下参歳」と三年在位になっている。敏達十四年八月に須賣伊呂杼が「穴穂部皇子欲取天下」とある。穴穗部皇子が天皇なら、三年在位で、室屋大臣が2年で辻褄はあう。実権は伊勢王の娘と思われる廣姫から、稲目の孫の泥部穴穗部皇女、皇太子泥部穴穗部皇子兄弟に遷っていたようだ。それで、用明前年九月甲寅朔戊午に「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と守屋の妃の穴穗部皇女が皇后になった。それで、守屋死後、太子の厩戸豐聰耳は成人していないので、穴穗部皇子が即位した。『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子名刀自古郎女生児山代大兄王」とある。すなわち、厩戸豐聰耳の妃の刀自古郎女の父の「馬古叔尼大臣」が大臣を取り返した。そして、穴穗部の王朝は穴穗部死後、皇弟の泊瀬部が継承した。

秦王国の首都の主は間人穴太部(池邊)、御食炊屋(倉梯)、意富藝多志比賣(豊浦)、小治田(小墾田)、多米(豊浦)と稲目の娘や孫が継承した。それ以降、倭国は643年薨の吉備嶋や664年薨の嶋の皇祖母がそれを担う。

2023年11月6日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇2

  敏達七年三月戊辰朔壬申の「菟道皇女侍伊勢祠」で菟道皇女が神の朝廷の名目上の女王になった。神の朝廷は息長眞手王、麻組郎女、佐佐宜郎女、比呂比賣、菟道磯津貝皇女と継承された。豊御食炊屋比売の娘の菟道磯津貝皇女は聖徳太子の妃で、伊勢女王ではない。そして、「即奸池邊皇子事顯而解」と用明天皇の妃になり、用明天皇は名目上大臣となった。そして、池邊皇子の娘の須賀志呂古郎女が伊勢女王を継承した。用明天皇は『舊事本紀』用明天皇前年九月甲寅朔戊午に、「守屋連公爲大連亦爲大臣」とある。用明天皇は守屋大臣である。他田宮と池邊宮の天皇の2朝に分裂した。

敏達十三年に馬子は高麗惠便を探し、善信尼を弟子にした。大別の仏教はインドからの古型の仏教で、中国の新型の仏教と異なったようだ。東倭漢直駒に影響されて、寺を造って任せようとしたと思われる。そして、漢人夜菩の娘、錦織壼の娘、2人を付けた。年齢が記述されないので、解らないが、漢人は、俀国の錦織、筑紫の人物で、既に尼僧だった可能性が高い。太子の日子人の妃は漢王の妹、俀国王と思われる。俀国は次期国王が帰依した「日出處」の跏趺坐の天子、太子は上塔の上宮法皇である。首都には当然、釈迦三尊像を持つ寺が存在し、そこには僧侶や尼僧がいるだろう。鞍部村主の司馬達は釈迦三尊像を鞍首の司馬の止利、鞍首は鞍部の頭領、村主は村長、親子か兄弟だろう。司馬達の娘の嶋は馬子の子の嶋、漢人の娘の豐女も馬子の国と思われる豊国、錦織の娘の石女は石井と、それぞれ同郷なのだろうか。あまりにも偶然過ぎる。

三月丁巳朔は九州の暦で2月晦日の日干支である。585年、敏達十四年八月乙酉朔己亥「天皇病彌留崩」と敏達天皇が崩じた。『古事記』は大臣を記述して584年四月六日に崩じた。『舊事本記』は「卅四年渟中倉太玉敷天皇」、592年の崩御である。「天皇與大連卒患於瘡」、天皇と大連が、伝染病で死んだとある。朝廷は皇后廣姫が継承して、皇太弟の穴穂部皇子が「取天下」と記述される。しかし、九月甲寅朔戊午に守屋が皇位を奪取した。守屋も天然痘に罹患していたなら、「并燒佛像與佛殿」、「棄佛像」、「如中獵箭之雀烏焉」などできない。穴穂部皇子から分裂したと思われる。用明二年五月の「立穴穗部皇子爲天皇」は585年の記事なのだろう。

『舊事本記』の大連は572年に御狩、585年守屋、それ以降は、640年、推古廾二年まで代わらない。御狩死後、弓削倭古稲目の娘の子供たちの朝廷が続いたことを示している。それに対して、『古事記』の大臣の朝廷は、3代目稲目大臣が584年薨じた。初代稲目の孫の守屋が大臣、翌年に穴穂部皇子死後、守屋と長谷部若雀が分王朝を建てたのだろう。

2023年11月3日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇1

572年、敏達元年の「守屋大連爲大連如故以蘇我馬子宿禰爲大臣」は奇妙だ。「如故」ではなく、初出で、物部弓削守屋大連の初出は585年の敏達十四年である。おそらく、橘豊日は2代目稲目の死後、大臣を継承したが、守屋は、2代目尾輿(御狩)死後、物部氏の大連を継いだのだろう。そして、585年、用明前年九月甲寅朔戊午に「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と倭国と秦王国が決裂したのだろうか。592年、推古天皇が卅四の年、「渟中倉太玉敷天皇崩」と592年まで渟中倉太玉敷天皇が継続している。『隋書』には裴淸は秦王国に来ていて、608年まで秦王国が存在する。従って、「如故」は用明で初の天皇即位を受けての、崇峻の記事である。守屋大連天皇、馬子大臣で、すなわち、守屋秦王国天皇、馬子倭王、そして、守屋崩なのだろう。

敏達天皇の頃、中国は混乱の最中で、朝鮮は、「陳朝貢」、「北齊朝貢」、「周朝貢」の朝貢合戦だった。その朝貢先に秦王国もあったと思われる。敏達二年五月丙寅朔戊辰、七月乙丑朔は前月29日晦日の変換間違いだろう。漂流者は九州の那(珂川)の津に留め置かれる。敏達四年正月丙辰朔甲子も12月30日晦日の日干支で、倭国の暦である。575年敏達四年二月壬辰朔「馬子宿禰大臣還于京師」は574年の日干支である。その結果を受けた、十月戊子朔丙申に「遣蘇我馬子大臣・・・田部名籍授于白猪史膽津」なのだろう。575年、敏達四年の「遂營宮於譯語田」は「十一月皇后廣姫薨」で実権が尾輿の家系から、稲目の家系に完全に遷ったのだろう。息長氏の子の押坂日子人が息長足日廣額の父で、推古即位時は20歳以下である。『隅田八幡神社人物画像鏡』に、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」と日子人が623年に存在する。推古帝の娘婿なので、合致する。すると、「廣姫薨」は592年崇峻五年十一月に「弑于天皇」と記述され、この時の説話かもしれない。論理的には、皇后が廣姫から豊御食炊屋比売に代わった時期と言える。

敏達五年三月己卯朔戊子の「豐御食炊屋姫尊爲皇后」は御狩の皇后ではない。推古天皇は「倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人字御井夫人」とあるように、布都姫夫人である。夫人は皇后と同等だ。御井夫人の夫は御狩の弟の贄古、「此連公異母妹御井夫人爲妻」と記述される。贄古は「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」で小治田豐浦大連である。すなわち、小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連は2代目贄古、婿の日子人であろう。また、泊瀨部は「卅九年當于泊瀨部天皇五年」と597年にも生存しているので、馬子の2代目だ。592年11月に薨じた人物は大臣馬子か御井夫人の夫の贄古、恐らく二人共であろう。

2023年11月1日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇前紀

  敏達天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に、歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌の記述がある。572年に、「物部大市御狩連公為大連」と御狩が大連天皇になった記述だ。御狩は弓削連の祖の倭古連の娘の子の阿佐姫か加波流姫の子である。弓削連は室屋大臣、意乎巳連の末裔で、倭古連は稲目の可能性が高い。稲目の名前が建小広国押楯、天国押波流岐広庭、沼名倉太玉敷と名が違うのは、政権と共に役職名を変えたからと思われる。稲目は倭王で大臣、長女が継承する時は宮が同じで名が変わらない。欽明天皇は尾輿だったが、皇后は石比賣から岐多斯比賣に替わった。すなわち、阿佐姫から加波流姫に替り、稲目が皇位を奪取したということだ。

皇位継承は皇后の娘か皇后の兄弟の娘が継承し、皇后の娘に皇后の兄弟の男子が婿入りすることで継承される。欽明天皇は年若干と記述するように、2代目尾輿が早逝だった。それで、皇后阿佐姫と思われる日影皇女の子の2代目尾輿の弟が皇后の兄弟の石比賣の娘に婿入りしていた。そして、御狩が稲目の孫の豊御食炊屋比の婿になり、3代目稲目である。2代目尾輿の陵墓が古市にあり、大市御狩は「大市」と「市」で生まれた皇子である。

欽明天皇は即位時に「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」と20代で即位した。そして、欽明三一年、「朕承帝業若干年」と即位後、若干年しか経ていないと記述している。さらに、翌年の欽明三二年、「天皇遂崩于内寝時年若干」と20代の崩御と記述する。すなわち、初代敏達が「年若干」で崩じ、次代の2代目敏達はその弟となる。皇后が廣姫で、4年間、皇位を継承したが薨じたようだ。おそらく、571年時点では、渟中倉太玉敷は20歳未満だったのだろう。稲目(倭古)の娘婿の守屋が同じ宮で皇位を継承した。

皇位は『舊事本紀』推古天皇「年十八渟中倉太玉敷天皇立爲皇后卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」と記述される。推古が34歳の時天皇が崩じ、592年のこと、推古天皇即位前年である。崇峻天皇までは蘇我氏が記述させた大臣の記録、『古事記』と同じである。用明・崇峻は大臣ということだ。推古天皇は渟中倉太玉敷天皇の皇后で、皇位を継承したと記述される。敏達五年に皇后になったのは、2代目の敏達天皇の皇后だったと思われる。本来、皇太子は実質天皇だ。推古天皇の娘の小墾田皇女の婿だから押坂日子人大兄が皇太子である。推古天皇の夫の天皇が崩じた時、太子が20歳未満だったので、推古天皇が即位した。皇位継承は皇后の長女が継承する。また、『上宮聖徳法王帝説』に記述されない、「菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」の聖徳妃が「干食王后」だと思われる。