「帝皇本紀」に推古廾二年六月丁卯朔己卯に「物部恵佐古連公為大連」と記述されていた。この朔の日干支は640年の日干支である。恵佐古は「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と記述される。皇極天皇は小治田天皇、豐財重日の母の吉備姫は高向王と舒明天皇の妃だった。この前年、舒明十一年七月に「今年造作大宮及大寺・・・百濟川側爲宮處」と、百濟川辺に大宮を造った。翌年四月丁卯朔壬午、この日干支は九州の日干支で、「便居廐坂宮」と廐坂宮に居住した。さらに、七月「徙於百濟宮」に遷って、十三年十月己丑朔丁酉に、「天皇崩干百濟宮」と恵佐古百濟宮大連天皇が崩じた。おそらく、廐坂宮にいた恵佐古が田村王の死後、小治田に遷ったが、蝦夷に敗れて百濟宮で薨じたのだろう。
そして、「大臣病臥之・・・辛丑薨」、「阿須迦天皇之末歳次辛丑」と641年に豊浦大臣が薨じた。吉備姫も飛鳥から小治田に遷った。実際の首都がどこなのかは解らない。皇極期から天智天皇たちが記述したため、664年からの事績を混入させている可能性が高い。但し、大化期の記事は元明天皇たちの記事で、695年以降の記事があると思われる。
また、守屋の子の雄君は、「飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位」とある。世代的にも飛鳥天皇の豊浦大臣の事だろう。「目大連女豊媛爲妻生二兒」と記述されるように、目大連の娘を妃にしている。目大連は大伴金村の事、恐らく、『古事記』に記述しない大伴糠手の娘の崇峻妃の小手子のことだろう。また、紫冠位を授けられたのは、「私授紫冠於子入鹿」と「紫冠授中臣鎌足連」だけだ。大紫は蘇我連大臣とやはり入鹿、入鹿は物部連入鹿大臣と自称していた。それ以外は元明天皇たちが記述した人物で、解らない。
同じく、目大連の子の馬古連が「難波朝御世授大華上」、恵佐古大連の子の荒猪連も「同朝御世賜大華上位」と記述される。大華上を授与された人物は『日本書紀』に無い。大錦上授与が「遣大唐押使高向史玄理」「大錦冠授中臣鎌子連」である。鎌足は『家傳』「大師伝」に「母曰大件夫人」と、恐らく、大伴夫人、目大連の家系で、馬古連が合致する。恵佐古は智奴王、母は漢王の妹、智奴王の妃の吉備姫が橘豊日の孫の高向王だ。その子が漢皇子、高向玄理は漢王の兄弟の可能性が高く、荒猪がよく合う。そして、その兄弟、天智天皇の太皇弟が「淡海朝御世爲大連」の多都彦だろうか。
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