2023年11月27日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇4

『隋書』に「至竹斯國」と目的地の俀国の首都の筑紫に到着したと記述した。そして、さらに、「又東至秦王國」と秦王国に到着したと。それ以降、「達於海岸」まで到着点の至が無い。秦王国の到着地は難波を経て推古十六年の「秋八月辛丑朔癸卯唐客入京」と小墾田だろう。「同於華夏」と秦王国の様子は中国人と変わらないと記述する。そして、「復令使者随淸來貢方物此後遂絶」と、また両国共に朝貢してきなさいと命令した。しかし、拒否したので、断絶したと記述した。これ以降、中国は俀国も秦王国も記述しないで、倭国のみ記述する。すなわち、俀国も秦王国も隋朝より上位と思っていたので、朝貢するように命じたから、断絶したのである。二十二年六月丁卯朔己卯の「遣犬上君御田鍬矢田部造於大唐」も、三一年の「大唐學問者僧惠齊惠光及醫惠日福因等並從智洗爾等來之」も当然倭国が対象だ。そのため、舒明二年の「大仁犬上君三田耜大仁藥師惠日遣於大唐」の御田鍬が倭国の代表である。唐時代には秦王国が存在しない、旧日本国である。隋との交渉は俀国と秦王国なので、推古期を記述した倭国は隋を認めず、唐と記述したのだろう。

二二年の「大臣臥病爲大臣而男女并一千人出家」記事は卅四年の嶋大臣の死亡記事と思われる。『上宮聖徳法王帝説』に「曾我大臣推古天皇卅四年秋八月嶋大臣爲大臣之男女并一千人」と記述する。すなわち、千人出家と大臣薨は、ほゞ、同時で、『上宮聖徳法王帝説』は続けて、「廿二年甲戌秋八月大臣病臥之卅五年夏六月辛丑薨之」と記述する。『日本書紀』は「夏五月戊子朔丁未大臣薨」と八月では無く、八月は「千人出家」の月である。すなわち、卅五年の「辛丑薨」は嶋大臣ではないと思われる。卅五年の薨は廿二年の薨から13年後の卅五年に薨じた、豊浦大臣の薨と思われる。『船王後墓誌』「阿須迦天皇之末歳次辛丑」、奇妙な『上宮聖徳法王帝説』の「辛丑薨」は641年、舒明十三年だろう。『上宮聖徳法王帝説』の「本云」以外は原則『日本書紀』と同じで、「本云」は別資料である。

推古元年は593年ではなく、592年冬十二月壬申朔巳卯に「皇后即天皇位於豐浦宮」と即位した。推古元年は592年で、1年前倒しである。すなわち、推古年は1年前、聖徳太子の薨は正しい日干支だ。法興31年の「明年正月廿二日」と翌年の622年の1年前だった。従って、嶋大臣薨も正しい日干支だから、実際は翌年627年の薨が正しいと思われる。そして、推古年は推古天皇でも嶋大臣の年号でもない、法興帝の年号だったのだろう。

聖徳太子薨去以降から、朔の日干支は正しい日干支が、大臣薨去以外無い。嶋大臣は倭国豊浦宮王である。そして、629年から、640年小治田宮の恵佐古大連即位まで小治田宮天皇は名目上、空位だ。そのかわり、嶋大臣が生まれた飛鳥岡本宮の吉備嶋皇祖母が舒明元年に即位した。そして、推古三六年の三月癸丑に「天皇崩之」、75歳で、『古事記』も「戊子年三月癸丑」である。

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