2023年11月13日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀1

  推古天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に、587年(泊瀨部五年)冬十二月壬申朔巳卯の記事がある。「皇后即天皇位於豐浦宮」で、推古皇后が大連ではなく天皇になった。天皇は『舊事本紀』にとって、神、皇后が神の言葉を聞き、大連にそれを伝える。神は宮そのもので、その宮が続く限り、天皇も続く。皇后の名前も、大連の名前も襲名されて、同じ名前である。すなわち、推古天皇は倉梯宮皇后なので、倉梯天皇を名乗るべきである。しかも、神となったので、倉梯宮そのものである。ところが、その首都の宮が、推古朝では、豊浦宮、小墾田宮と遷り、岡本宮で天皇が代り、矛盾している。その矛盾の原因は、推古天皇が倭国天皇、そのほかに、守屋や穴穂を継承した、秦王国の天皇が存在するからだ。

本来なら、592年十二月の「皇后即天皇位於豐浦宮」で豊浦宮皇后に代わる。そして、推古十一年十月の「遷于小墾田宮」に小墾田宮皇后に代わる。そうでなければ、筋が通らない。そこに、推古二十年に「改葬皇太夫人堅鹽媛」の記述がある。堅鹽媛は皇后になったことが無く、矛盾しているのだ。本来なら、小墾田宮皇后の前の豊浦宮皇后が皇太夫人である。しかも、文面は「誄於輕街」と葬儀で、誄者は多数、死後直ぐの様子だ。欽明帝の妃の堅鹽媛なら80歳以上である。やはり、豊浦宮皇后が皇太夫人堅鹽媛である。そして、堅鹽媛はもう一人存在した。

『古事記』に橘豊日の妃が稻目大臣の娘の意富藝多志比賣(石寸名)で、豊浦皇子多米王が生まれている。すなわち、豊浦宮皇后は守屋の妃の意富藝多志比賣の可能性が高い。そして、贄古の娘の鎌媛大刀自が「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政」と小墾田宮まで生存している。そして、「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と嶋大臣を夫に豊浦大臣を生んでいる。「豊浦大臣名日入鹿連」と矛盾を生じているが、『日本書紀』成立後に完成させたための矛盾だ。蝦夷豊浦大臣が664年まで生存しているのが、645年死亡とされた矛盾である。同様に、豊浦大臣を嶋大臣と考えて、意富藝多志比賣を嶋大臣の母にしたと考えられる。この嶋大臣の母が推古二十年の「改葬皇太夫人堅鹽媛」の堅鹽媛なのだろう。

それでは、小墾田宮皇后は誰かといえば、「是嫁於日子人大兄皇子」の小墾田皇女だろう。『古事記』は桜井玄王と記述しているが、どちらかが厩戸豐聰耳の妃の刀自古郎女である。640年、推古廾二年夏六月丁卯朔己卯、「物部恵佐古連公為大連」の記事がある。「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」だが、丁卯朔は640年の日干支である。すなわち、小墾田宮天皇の皇極天皇の夫と考えられる。恵佐古の父麻伊古も大連だが、実際は推古天皇がいるため、大連天皇に即位できない。すなわち、小墾田宮皇后の夫は麻伊古・日子人大兄と考えられる。そして、布都姫夫人の弟の妃が、「弟娣生物部石上贄古」と記述され、布都姫の夫となった。布都姫の弟は守屋で、その妃は間人穴太部王、子は厩戸豐聰耳、それが贄古である。そして、「此連公異母妹御井夫人爲妻」、「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と記述される。おそらく、布都姫の娘の刀自古郎女と考えられる。

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