2023年11月24日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇3

  『隅田八幡神社人物画像鏡』の大王の日子人太子は癸未年八月までは、生存した。皇太子も大王である。また、卅二年十月癸卯朔記事の「天皇詔曰今朕則自蘇我出之大臣亦爲朕舅也」の天皇は田村皇子の説話のようだ。小治田王の娘婿だ。嶋大臣を舅と呼べる天皇は「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛」の法提郎媛の夫のみ、舒明天皇だ。すなわち、田村王は10歳代の小墾田宮皇太子で、623年、癸未年の八月以降に天皇と同等の日子人皇太子は薨じたようだ。秦王国の倉椅柴垣宮の天皇は推古、小墾田宮天皇の皇太子が田村王である。皇太子は天皇と同等だが、未成年のため、麻伊古大連を襲名できない。小墾田宮天皇不在のため、暦を扱う朝廷が飛鳥岡本宮に遷ったのだろう。『隅田八幡神社人物画像鏡』は田村王と法提郎媛の婚姻祝いなのだろうか。

すると、十一年十月己巳朔壬申の「遷于小墾田宮」の遷都によって、初代麻伊古が大連になったといえる。日子人が大連皇太子になった。推古5年の皇太子の竹田皇子死後、日子人が成人するまで、大連皇太子が不在だった。竹田皇子は推古元年20歳未満だったのだろう。成人していたら、推古天皇ではなく、竹田皇子が即位すればよい。豊浦宮は竹田皇子が皇太子で、廐戸皇子も成人前で、弟の嶋が大臣になった。

二年春二月丙寅朔の「皇太子及大臣令興隆三寶」は竹田皇子、九年春二月の「皇太子初興宮室于斑鳩」は廐戸皇子のことだろう。十一年十月己巳朔壬申に「遷于小墾田宮」と日子人皇太子が麻伊古大連皇太子に即位した。斑鳩には日子人の庶妹玄王や刀自古郎女が居住して共に山代王が生まれた。摩理勢臣が「赴干斑鳩住於泊瀬王宮」とあるように、斑鳩に泊瀬王の宮があった。そして、皇后の小治田王に田村王が婿入りした。十一年十一月己亥朔、11月2日に九州の技術者に蜂岡寺を建立させたようだ。十二月戊辰朔壬申の「始行冠位」も十二年四月丙寅朔戊辰の「作憲法十七條」も日子人皇太子だろう。

『隋書』の冠位と小仁より後が異なり、俀国の聖徳帝に対抗したのだろう。十三年夏四月辛酉朔の「造銅繍丈六佛像」も日子人皇太子で、高麗國大興王が「日本國天皇」と、秦王国の天皇と呼んでいる。『舊唐書』の「日本舊小國」は旧俀国、後の日本が小国だったの意味。「併倭國之地」は倭国が元々の日本を併合し、それを俀国が併合したという意味。「日本國者倭國之別種」は後の日本、旧俀国が倭国から分裂した国だとの意味。小国の俀国が倭国の領土を併合して、新しい日本を建国した。仁賢六年の「倭國山邊郡額田邑」までの倭国は淡海の倭国の可能性が高い。しかし、欽明七年の「倭國今來郡」などは、新漢を「いまき」と訓読し、倭が畿内に変化しだした。

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