2022年11月30日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「装束(?伊弉本)別王御子市邊忍齒王御子)袁祁()之石巣別命坐近飛鳥宮治天下捌歳也天皇娶石木王之女難波王无()子也此天皇求其父王市邊王之御骨時在淡海國賤老媼参出白王子御骨所埋者専吾能知亦以其御齒可知(御齒者如三枝押齒坐也)尓起民掘土求其御骨即獲其御骨而於其蚊屋野之東山作御陵葬以韓帒之子等令守其御陵然後持上其御骨也故還上坐而召其老媼譽其不失見真()知其地以賜名号置其()老媼仍召入宮内敦廣慈賜故其老媼所住屋者近作宮邊毎日必召故鐸懸大殿戸欲召其老媼之時必引()鳴其鐸尓作御歌其歌曰阿佐遅波良袁陀尓袁須疑弖毛々豆多布奴弖由良久母淤岐米久良斯母於是置目老媼自()僕甚耆老欲退本國故随白退時天皇見送歌曰意岐米母夜阿布美能淤岐米阿須用理波美夜麻賀久理弖美迩()受加母阿良牟」、【伊弉本別王の子の市邊忍齒王の子、袁祁の石巣別は近飛鳥宮で天下を治めること捌年だった。天皇は、石木王の娘の難波王を娶ったが、子が無かった。この天皇は、その父王の市邊王の骨を求めた時、淡海國にいた賎しい老女が、遣って来て、「王子の骨を埋めたところをよく知っている。亦、その歯を見れば解る。齒は檜のような八重歯だった」と言った。それで人を集めて土を掘り、その骨を求めた。それでその骨を獲て、蚊屋野の東の山に、陵を作って葬って、韓帒の子達に陵を守らせた。その後にその骨を持ち上った。それで、その老女を呼んで、忘れないで覚えていたので、その場所を知ったのを譽めて、名を与えて置目老媼と名付けた。それで宮内に召して、手厚く大事にした。それで、その老女が住む家は、宮の近くに作って、日毎に必ず呼んだ。それで、鐘を御殿の戸に懸けて、その老女を呼ぼうとする時は、必ずその鐘を鳴らした。そこで歌()を創った。是に置目老媼が、「私はとても老いた。本国に退ぞきたい。」と言った。それで、言う通りに退かせた時、天皇が見送って歌()った。】と訳した。

この説話でも解るように、市邊王は近江の王で、『日本書紀』履中前紀に「羽田矢代宿祢之女黑媛・・・仲皇子冒太子名以姧黑媛」、『古事記』「吉備海部直之女名黒日賣」とあるように、市邊王の母は「葦田宿禰之女黒媛爲皇妃」の黒媛ではなく、淡海臣、すなわち淡海の国神・淡海の国造の祖と考えられる、屋主忍男武雄心の後継者の羽田矢代宿祢の娘の黒媛と考えたほうが理に適う。

海部直は海部部の頭領で、『日本書紀』に無い『古事記』応神記「定賜海部山部山守部伊勢部」、この伊勢は守山市の伊勢遺跡の伊勢と考えられ、山(伊吹山)と海(琵琶湖)と伊勢が揃う淡海朝廷の部と思われる部を記述し、吉備海部直は淡海の海部直の分家と考えられる。

韓帒は「近江國狹狹城山君祖倭帒宿禰妹名曰置目・・・倭帒宿禰因妹置目之功仍賜本姓狹狹城山君氏」と倭宿禰が狹狹城山君になり、大倭國造・倭直は吾子篭宿禰なので、「倭直祖麻呂」が倭直・倭宿禰麻呂、更に狹狹城山君韓帒と呼ばれ、息長氏を継いだ羽田矢代宿祢に仕えて、羽田矢代宿祢の孫を援助し、市邊王の妃の陵がある狹狹城山君の領地の蚊屋野に埋葬したことを示す。

羽田矢代宿祢は『紀氏家牒』「羽田八代宿祢男、黒川宿祢」「黒川宿祢男羽矢師宿祢」「羽矢師宿祢男泊瀬部宿祢」と氏姓が変化し、若櫻宮時代は黒川宿祢と呼ばれ、跡取りの娘が黒媛と名付けられたと考えられ、長谷朝倉宮から伊波禮甕栗宮に遷都されたあと、平群氏は額田の地で額田早良宿祢、羽田氏は長谷の地を受け継いで泊瀬部宿祢と呼ばれたのではないだろうか。

そして、平群の地は紀角宿祢子孫の建日宿祢が平群氏を継いで、「河内国和泉県坂本里」に遷って河内も含めて統治して、根使主と根国王となり、日直を配下にして坂本臣を賜姓されたようだ。

2022年11月28日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「十二月百官大會皇太子億計取天子之璽置於天子之座再拜從諸臣之位日此天子之位有功者可以處之著貴蒙迎皆弟之謀也以天下讓天皇天皇顧讓以弟莫敢即位又奉白髮天皇先欲待兄位立皇太子前後固辭曰日月出矣而爝火不息其於兄不亦難矣時雨降矣而猶浸灌不亦勞乎所謂貴為人弟者奉兄謀逃(?)難照徳解終而無處也即有處者非弟恭之義雄計不忍處也兄友弟恭不易之典聞諸古老安自獨輕也皇太子徳計曰白髮天皇以吾兄之故奉天下之事而先屬我我其羞之惟大王道建利遁聞之者歎息彩顕帝孫見之者殞涕惘々楯仲忻荷戴天之慶哀々黙首悅逢履地之恩足以克固四維永隆万葉功鄰造物清猷朕世起哉邈矣奥無得而禰雖是曰兄豈先處計非功而據咎悔必至吾聞天皇不可以久曠天命不可以謙拒大王以社稷為計百姓為心者發言慷慨至于流涕天皇於是知終不處不逆兄意乃聽而不即御坐世嘉其能以寶譲日冝哉兄弟怡々天下歸德篤於親族則民興仁矣」、【十二月、官僚が集った。億計皇太子は、天皇の璽を天皇の前に置いた。再拝して臣下の座について「この天位は、功のあった人が居るべきだ。尊い身分であることを明かして、迎え入れられたのはみな弟の考えによるものだ。」と言い、天下を天皇に譲り、天皇は弟だと、あえて即位しなかった。また、白髮天皇がまず兄に継がせようと思い、皇太子にしたのは、「太陽や月が昇って、灯りをつけておくと、その光はかえって災いとなるだろう。恵みの雨が降って、その後もなお水をそそぐと、無意味となる。人の弟として尊いのは、兄によく仕えて、兄が難をのがれられるように謀り、兄の徳を照らし、紛争を解決して、自分は表に立たないことにある。もし表に立つことがあれば、弟として恭敬の大義にそむくことになる。しかし、私は表に立つのは忍びない。兄が弟を愛し、弟が兄を敬うのは、常に変わらない摂理だ。私は古老からこう聞いている。どうしてみずから定めを軽んじられよう。」と何度も固く辞退した。億計皇太子が「白髮天皇は、私が兄だからと天下の事をまず私にとしたが、自分はそれを恥ずかしく思う。思えば大王がはじめに、たくみに逃れる道をたてたとき、それを聞くものはみな歎息した。帝の子孫であることを明らかにしたとき、見る者は恐懼のあまり涙を流した。心配に耐えなかった官僚は、天をともに頂く喜びを感じた。哀しんでいた人民は、喜んで大地をふんで生きる恩を感じた。これによって、よく四方の隅までも固めて、長く万代に国を栄えさせるだろう。その功績は天地の万物を創造した神に近く、清明な考えは、世を照らしている。その偉大さは何とも表現しがたい。だから、兄だからといって、先に即位できようか。功なく位にあると、咎めや悔いが必ずやってくる。天皇の位は長く空けてはならないと聞いている。天命は避け防ぐことはできない。大王は国家を経営し、人民のことをその心としてほしい」と言葉を述べ、激して涙を流した。天皇はそこに居まいと思ったが、兄の心に逆らえないと、ついに聞き入れた。けれどもまだ即位しなかった。世の人は、心から譲ったことを美しいこととして、「結構なことだ、兄弟が喜びやわらいで、天下は徳によっている。親族が仲睦まじいと、人民にも仁の心が盛んになるだろう」といった。】と訳した。

飯豊女王が即位出来たのは、2代目市邊忍齒別の妹が忍海()郎女とあるように、「赤石郡縮見屯倉首忍海部造」を配下にする、吉備上道臣の姻戚で、本来の若建の後継者は磐城皇子だったと考えられ、星川皇子の謀反を理由に磐城皇子も連座させられ、淡海に婿入りして宮を持っていた白髪が即位した。

子のない白髪が即位で来たのは、真鳥大臣が後見人だったからと思われ、真鳥の妃が飯豊女王だった可能性が高く、真鳥の後継者の鮪を殺害して飯豊女王の後継を姻戚の吉備上道臣の孫の磐城の孫の難波王(『日本書紀』は「丘稚子王之女」、『古事記』は子)を妃にした弘計が継承した。

億計は平群臣・和珥臣を背景に、和珥臣日觸の娘の伊勢の宮主糠君娘の娘の春日山田皇女の夫の麁鹿火の娘影媛を稚鷦鷯に迎えようとしたが、失敗して鮪を殺害することで皇位を得たが、麁鹿火を味方に出来ず、平群氏の後ろ盾を失い、巨勢氏に皇位を奪われたと思われる。

弘計も億計も皇后の実家の庇護、後ろ盾があって皇位に就けるのであり、麁鹿火は金橋宮の大連で、影媛の父ではなく列城宮の大連は麻佐良、広高宮の大連は木蓮子でそれらの娘でなくては後ろ盾とは言えず、『古事記』に記述されない、『日本書紀』でもどの皇后の妹か解らない日影媛が存在し、春日山田皇女の妹はその候補で、木蓮子と御太君の祖の娘の里媛、糠君娘が母なら皇位継承の後ろ盾として申し分ない。

2022年11月25日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書2

  長いので検証を先に述べる。

近飛鳥天皇の日干支は、即位日「元年己丑春正月己巳朔」、死亡日「三年四月丙辰朔」は天文学的日干支で、『日本書紀』も、磐坂市邊押羽の墓を求めた日干支が間違いの他は全て天文学的日干支で、朝廷の暦と考えられ、すなわち、この天皇は億計が499年即位と証明したので、弘計が488年即位、それ以前は飯豊女王が角刺宮で統治したと考えられる。

『日本書紀』の「或本云宮於甕栗」は角刺宮に対抗する平群氏の後継の甕栗宮に勢力を持つ王が存在したからと考えられる。

『日本書紀』と『舊事本紀』は白髪天皇の名前が「武廣國押稚日本根子」、『古事記』は「大倭根子」で、当然『古事記』の「大倭根子」が天皇で「武廣國押」は「広国押建」、「小広国押楯」、「天国押波流岐広庭」、「橘豐日」、「息長足日廣額」と続く蘇我氏の姓と考えられ、「稚日本根子」、「稚足姫」は2代目磐坂市邊押羽と青海郎女の姓と考えていて、甕栗宮に名目上の天皇がいたと思う。

雄計の妹が忍海部女王と名付けられているが、兄弟を見つけた場所が赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室で飯豊女王が忍海部を配下にしていた、すなわち、雄計兄弟を逃がしたと思われる。

「定策以無禁中」すなわち「定策禁中」は後継決定者がいない時に臣下が相談して継承者を決めることで、甕栗宮天皇真鳥が即位できない時に、すなわち次の皇太子の鮪が殺害されて、皇太子不在の隙に、臣下が相談して飯豊青尊を天皇に、億計を皇太子にしたことを示している。

もう一人の「定策禁中」で即位した文武天皇もクーデタで天武天皇を追い出して、臣下の阿閇皇女や不比等が相談して、文武を即位させ、阿閇皇女が皇太子となった。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「白髮天皇二年冬十一月播磨國司山部連先祖伊予來目部小楯於赤石郡親辦新嘗供物適會縮見屯倉首縱賞新室以夜継晝尓乃天皇謂兄億計王曰避禮於斯年踰數紀顯名著貴方屬倉(?+)億計王惻然大曰其自導楊見害孰與全身免死也欤天皇曰吾是去來穗別天皇之孫而困事於人飼牧馬牛豈若顯名被殺也欤遂與億計王抱相涕泣不能自禁矣億計王曰然則非弟誰能激揚大節可以顯者天皇固辭曰僕不才豈敢宣揚德業哉億計王曰弟英才賢德無以過人如此相讓再三而果使天皇自許稱述俱就室外居于下風長倉首命居竈傍左右秉燭于時夜深酒酣次弟傳記長倉首子楯日僕見此秉燭者貴人而賤巳先人而後己恭敬樽節退讓以明礼可謂君子於是小楯撫絃令秉燭者日起儛於是兄弟相讓久而不起小楯嘖之曰何為太遲速起人之億計王起儛既小天皇甚儛如先先儛者矣天皇次起自整衣帶為室壽曰築立稚室葛根築立柱者此家長御心之鎮也採舉棟樑者此家長御心之林也採置椽掩者此家長御心之乎也 採置蘆萑者,此家長御心之平也採葺草葉者此家長御富之餘也出雲者新々饗々之十握稻之穗於淺甕釀酒美飲喫哉吾子等腳日木此傍山牡鹿之角舉而吾儛者旨酒餌香市不以(??直?買)置手掌摎髙拍上賜吾常世等畢乃起節子曰壽云々在別小楯謂之曰可怜願後聞之天皇遂作殊儛誥之曰倭者彼々茅原淺原弟日僕是也小楯由是深奇異矣更使唱之也天皇誥之曰石上振之神椙伐本截末於市邊宮治天下天萬國萬押磐尊御裔僕是也小楯大驚離席悵然再拜承事供給率屬領欽伏於是悉發郡民造宮亦日權奉安置乃詣京都求迎二王也白髮天皇聞喜咨歎曰朕無子也可此爲副與大臣大連定策以無禁中仍使播磨國司來目部小楯持節將左右舍人至赤石奉迎之矣白髮天皇三年春正月天皇隨億計王到攝津國使臣連持節以王青蓋車迎入宮中也夏四月立億計王為皇太子立天皇爲皇子五年正月白髮天皇崩于時皇太子億計王與天皇讓位久而不處天皇妹飯豐青皇女於忍海角刺宮臨朝秉政自稱忍海飯豐青尊冬十一月飯豐青尊崩葬葛城垣口丘陵」、【白髮天皇の治世二年冬十一月、播磨国司で山部連の先祖の伊予来目部小楯が、赤石郡でみずから新嘗の供物を調えた。たまたま縮見屯倉首が新築祝いにきて、夜通しの宴会を開いた。そのとき天皇は兄の億計に「わざわいをここで避けて何年もたった。名を明かして尊い身分だと知らせるには、今宵はちょうどいい」と言い、億計は、「そうやって自分から暴露して殺されるのと、身分を隠して災いを免れるのと、どちらがよいだろう。」と嘆いた。天皇は「私は去來穗別天皇の孫だ。それなのに苦しんで人に仕えて、牛馬の世話をしている。名前を明かして、殺されるのなら殺されたほうがましだ」と言い、億計王と抱き合って泣き、自分を抑えることができなかった。億計は「弟以外に、誰も大事を明かして人に示すことのできる者はいない」と言い、天皇は否定して「私は才がなく、大業を明らかにすることはできないだろう」と言った。億計が「弟は賢く徳があり、これに優る人はない」と言った。このような譲り合いが、二度三度に及んだ。ついに天皇がみずから述べることを許され、共に部屋の外に行き、座の末席に着いた。屯倉首は竈のそばに座らせて、左右に火を灯させた。夜がふけて、宴もたけなわになり、つぎつぎに舞いも終わった。屯倉首は「私がこの火を灯す係りの者を見ると、人を尊んで己を賤しくし、人に先を譲って己を後にしている。謹み敬って節に従い、退き譲って礼節を明らかにしている。君子というべきだろう」と小楯にいった。小楯は琴をひき、火を灯していた二人に「立って舞え」と命じた。兄弟は譲り合ってなかなか立たなかった。小楯は「何をしている。遅すぎる。早く舞え」と責めた。億計は立って、舞い終わった。天皇は次に立って、衣装を整え、家褒めを歌()った。家褒めが終わって、節に合わせて歌った云々と別の書にある。「これは面白い。また聞きたいものだ」と小楯がいった。天皇はついに殊舞をした。そして叫び声をあげて歌()った。 小楯はこれでとても怪しみ、さらに歌わせた。天皇はまた叫び歌()った。小楯はとても驚いて席を離れ、いたみいって再拝した。一族を率いて謹み仕え、残らず郡民を集めて宮造りに従った。幾日もたたず出来た宮に、仮に入ってもらい、都に奏上して、二人の王を迎えるように求めた。白髮天皇はこれを聞いて喜び、「自分には子がない。後継ぎとしよう」と感激した。そうして大臣・大連と策を禁中に定め、播磨国司の来目部小楯に印を持たせて、左右の舎人をつれて明石に行き、迎えた。白髮天皇三年春一月、天皇は兄の億計に従って、摂津国に行った。臣・連がしるしを捧げ、青蓋車に乗って、宮中に入った。夏四月、億計を皇太子とし、天皇を皇子とした。五年一月、白髮天皇は崩じた。そのとき、皇太子億計と天皇とが皇位を譲りあい、長らく即位しなかった。このため天皇の妹の飯豊青皇女が、忍海角刺宮で仮に朝政をみた。みずから忍海飯豊青尊と言った。冬十一月、飯豊青尊は崩じた。葛城埴口丘陵に葬った。】と訳した。

2022年11月23日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱雄計皇子尊者大兄去來穗別天皇孫矣市邊押磐皇子之子也更名來目稚子雄計王母曰荑媛蟻臣女也其蟻臣者葦田宿祢子也譜弟日市邊押磐皇子娶荑媛遂生三男二女一日居夏媛王二日億計王更名嶋稚子更名大石尊三日雄計王更名來目稚子四日飯豊女王亦名忍海郎女王一云他於億計王之上五日橘王天皇久居邊裔悉知百姓憂苦恒見柱屈若納四軆溝隍布徳(?+)恵政令流行鄙貧養孀天下親附穗穴天皇三年十月天皇父市邊押磐皇子及帳内佐伯部仲子於蚊屋野為大泊瀨天皇見殺因埋穴於是天皇與億計王聞父見射恐懼皆逃亡自匿帳内日下部連使主與子吾田來彦竊奉天皇與億計王避難於丹波國余社郡使主遂改名字曰田狹來尚恐見誅從茲遁入播磨縮見山石室而自經死之矣天皇尚不識使主(?)之勸與億計王向播磨國赤石郡俱改字曰丹波小子就仕於縮見長倉首吾田彦至此不離固執臣禮日」、【諱は雄計、大兄去來穗別の孫で、市辺押磐の子だ。またの名を来目稚子という。雄計の母は荑媛といい、蟻臣の娘である。その蟻臣は葦田宿祢の子である。『譜第』に、市辺押磐皇子は荑媛を娶って、三男二女を生んだ。第一を居夏媛、第二を億計王、またの名を嶋稚子、またの名を大石、第三を雄計、またの名を来目稚子、第四を飯豊女王、またの名を忍海郎女王(ある書では、億計王の上に入れている。)、第五を橘王という。天皇は長く辺境の地にいて、人民の憂い苦しみをよく知っていた。常に虐げられるものを見ては、自分の身体を溝に投げ入れられるように感ていた。徳を敷き、恵みをほどこして、政令をよく行い、貧しい者に恵み、寡婦を養い、天下の人々は天皇に親しみなついた。穗穴天皇の治世三年十月、天皇の父の市辺押磐と、舎人の佐伯部仲子は、近江国の蚊屋野で、大泊瀨天皇に殺された。そのため、二人は同じ穴に埋められた。そこで天皇と億計は、父が射殺されたと聞いて、恐れて一緒に逃げ、身を隠した。舎人の日下部連使主と、その子の吾田彦は、ひそかに天皇と億計を連れて丹波国の余社郡に難を避けた。使主は名前を改めて田疾来にした。なお殺されることを恐れて、さらに播磨の縮見山の石屋に逃れ、みずから首をくくって死んだ。天皇は使主の行き先を知られなかった。兄の億計を促して、播磨国の赤石郡に行き、ともに名前を変えて丹波の小子といって、縮見屯倉首に仕えた。吾田彦はここに来るまで、離れず長く従い仕えた。】と訳した。

『舊事本紀』は『譜第』を採用して「妹飯豐青皇女」と雄計の妹とし、磐坂市邊押羽の妹は青海皇女で飯豐青皇女と別人に記述しているが、『日本書紀』も『譜第』を採用して顕宗紀に同様に記述し、履中紀には、磐坂市邊押羽の妹の青海皇女(「一日飯豐皇女」)としている。

これは、雄略天皇が書かせた安康以前の『日本書紀』は『譜第』を知らず、去來穗別の子の磐坂市邊押羽と青海皇女の夫の姉妹との子の磐坂市邊押羽が荑媛を妃に億計・雄計・忍海郎女を生んだと考えられ、顕宗紀を書かせた推古天皇の時代には『譜第』が残っていて、『譜第』を採用したため齟齬が生まれたと考えられる。

去來穗別の子の初代磐坂市邊押羽は去來穗別死亡時に皇位に就けない19才程度と考えられ、幼武即位時は50代で去來穗別の孫なら雄計は30才程度となり、この年令では父と一緒に狩りをする、若しくは反撃すると思われ、説話と合致せず、二代目の子なら10才程度で逃げても恥ではなく、袁祁は「御年參拾捌歳」と『日本書紀』の死亡487年なら450年頃の生まれで合致するが、実際は乙祁即位が499年なので、10年以上後ろにズレ、雄計・億計も二代目が存在する。

そして、飯豐皇女は二代目の兄弟の可能性が高く、億計が嶋稚子、弘計が來目稚子、飯豊女王が忍海部と稚国や淡海の王の名で磐坂市邊押羽が殺された場所も淡海なので、初代磐坂市邊押羽の妃は山君の娘の可能性が高い。

『古事記』は青海イコール飯豐と『譜第』と異なって『日本書紀』と同じということは、自分の姉妹や叔母を知らないはずがなく、親子は同一の宮に住むときは襲名して同一の氏姓を襲名する事を証明し、飯豊女王は2代目磐坂市邊押羽の姉妹で青海郎女も襲名する磐坂市邊押羽とセットの名前だったことが解り、宮が変わる雄計と呼ばれ、姉妹の媛は忍海郎女と呼ばれたようだ。

2022年11月21日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』清寧天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故將治天下之間平群臣之祖名志毘臣立于歌恒()取其表()祁命將婚之美人乎其孃子者兎田首等之女名大魚也尓表()祁命亦立歌恒()於是志毘臣歌曰意富美夜能表()登都波多傳須美加多夫祁理如此歌而乞其歌末之時袁祁命歌曰意富多又()美袁遅那美許曽須美賀()多夫祁礼尓志毘臣亦歌曰意富岐美能許々呂袁由良美淤美能古能夜弊能斯婆()加岐伊理多々受阿理於是王子亦歌曰斯本勢能那表()理袁美禮婆阿蘇毘久流志毘賀波多傳尓都麻多弖理美由尓志毘臣愈怒歌曰意富岐美能美古能志婆加岐夜布士麻理斯麻理母登本斯岐禮牟志婆加氣()夜氣乎()志婆加岐尓王子亦歌曰意布袁余志斯毘都久阿麻余斯賀阿禮婆宇良胡本斯祁牟志毘都久志毘如此歌而(闕闘)開明各退明且()之時意祁命袁祁命二柱議云凡朝廷人等者且()参赴於朝廷晝集於志毘門亦今者志毘必寐亦其門無人故非今者難可謀即興軍圍志毘臣家乃殺也於是二柱王子等各相譲天下意()祁命譲其弟袁祁命曰住於計()間志自乎()家時汝命不顯名者更非臨天下之君是既爲汝命之功故吾雖兄猶汝命先治天下而堅譲故不得辞而袁祁命先治天下也」、【それで、天下を治める間に、平群臣の祖の志毘臣が、歌垣に集まって、袁祁が口説こうとしていた美人の手を取った。その乙女は、菟田首の娘の、大魚だ。そこで袁祁も歌垣に混ざった。そこで志毘臣が歌()った。この様に歌って、その返歌を求めた時、袁祁が歌()った。そこで志毘臣は、亦、歌()った。そこで王子は、亦、歌()った。そこで志毘臣はますます怒って歌()った。そこで王子は、亦、歌()った。この様に歌って、争い明して、其々引き下がった。翌朝、意祁と袁祁の二柱は相談して、「凡そ朝廷の人は、朝は朝廷に參上し、昼は志毘の門に集る。亦、今は志毘はきっと寢ているだろう。亦、その門番は居ないだろう。それで、今でなければに暗殺は難しいだろう。」と言って、兵を興して志毘臣の家を圍んで、殺した。それで二柱の王子達は、其々、天下を譲り合った。意祁は、弟袁祁に譲ってい、「針間の志自牟の家に住んでいた時、あなたが名を明かさなかったら、天下を治められなかった。これはあなたの功績だ。それで、私は兄ではあるが、それでも、あなたが先に天下を治めなさい。」と言って、堅く譲った。それで、断り切れず、袁祁が先に天下を治めた。】と訳した。

『日本書紀』では皇太子袁祁に対して『古事記』は稚鷦鷯、菟田首の娘の大魚に対して物部麁鹿火大連の娘の影媛、平群賜姓前の平群臣の祖の志毘臣に対して、「奸眞鳥大臣男鮪」と大臣なのだから平群賜姓後の鮪と内容は同じでも、姓の無い皇室の鮪と平群臣と姓が有る臣下の鮪と全く異なる。

この説話は『日本書紀』の年号観では、億計が即位して稚鷦鷯が太子になったと思われる488年頃の説話で、麁鹿火大連は「石上廣高宮」から「勾金橋」の大連であるが、『舊事本紀』では大連麁鹿は「勾金橋宮御宇天皇御世爲大連」で、実際の麁鹿火大連の娘の影媛を奪い合ったのは、「麁鹿火大連薨」が536年なので、500年頃、すなわち、『梁書』どおり、499年乙祁即位で、太子の稚鷦鷯と目連、若しくは、子の荒山連とが奪い合ったと考えられる。

『舊事本紀』での物部氏の人名紹介『天孫本紀』で目連に大連が付加されるのは、伊莒弗の子の清寧天皇時「弟物部目大連」、木蓮子の子の継体天皇時「弟物部目連」、目大連 の曽孫の「弟物部守屋大連」で守屋の子雄君と目大連の娘の豊媛の子が目連を襲名し、欽明天皇時「物部目連公為大臣」、用明天皇時「守屋連公爲大連亦爲大臣」のように大臣と呼ばれ、この磯城嶋宮時「目大連」が守屋の孫では矛盾が生じ、目大連の甥の木蓮子の子、麁鹿大連の叔父の「目連」が継体天皇として即位し、この目連の孫が欽明天皇時「物部目連公為大臣」すなわち皇太子で、目連の弟の荒山の子の尾輿、更に御狩が皇位を継承し、弟の守屋も大臣と呼ばれる皇太子として殺害されたと思われる。

『日本書紀』の歴史観は485年ではなく、488年に弘計天皇が真鳥・鮪親子を滅ぼして即位し、皇太子が億計で、億計の後ろ盾が「麁鹿火」や「和珥」氏だったことを意味し、「弘計」は「こ(ぅを)け」で「乙祁」とは読めず、「億計」が『梁書』の「乙祁」と考えられ、499年に「億計」が即位したと思われる。

「目」の即位が所謂九州年号の継体元年517年で名目上517年武烈8年にもう一つの朝廷、2朝並立の稚鷦鷯天皇・皇太子の巨勢男人の崩御が「廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」と教倒元年531年に死亡している。

継体28年の死亡は推古天皇の資料で、「目」が大連に就任して28年で死亡した説話と思われ、甥の「麁鹿火」が稚鷦鷯から531年に皇位を奪って目連と並立したようで、『日本書紀』は『古事記』の鮪と皇太子の説話を「麁鹿火」の後継者争いに流用したと考えられる。

2022年11月18日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』清寧天皇類書3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十一世孫物部真掠連公巫部連文嶋連須佐連等祖伊香井宿祢子弟物部布都久留連公此連公大長谷朝御世為大連奉齋神宮依羅連柴垣女太姫為妻生一兒弟物部目大連公此連公磐余甕栗宮御宇天皇御世為連奉齋神宮弟物部鍛治師連公鏡作小輕馬連等祖弟物部竺志連公新家連等祖孫物部大前宿祢連公氷連等祖麥入宿祢之子此連公石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連次為宿祢奉齋神宮弟物部小前宿祢連公田部連等祖此連公近飛鳥八釣宮御宇天皇御世元為大連次為大宿祢奉齋神宮弟物部御辞連公佐為連等祖弟物部石持連公刑部垣連刑部造等祖」とあり訳は略す。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(御子)白髪大倭根子命坐伊波礼之甕栗宮治天下也此天皇無皇后亦()御子故御名代定白髪部故天皇崩後無可治天下之王也於是問日継所知之王也市邊忍齒別王之妹忍海郎女亦名飯豊王坐葛城忍海之高木角刺宮也尓山部連小楯任針間國之宰時到其國之人民名志()牟之新室樂於是盛樂酒酣以次第皆儛故焼大小子二口()居竃傍令儛其少子等尓其一少子曰汝兄先儛其兄亦曰汝弟先儛如此相譲之時其會人等咲其相譲之状尓遂兄儛訖次弟將儛時爲詠曰物部之我夫子之取佩於大刀之手上丹畫著其緒者載赤幡立赤幡見者五十隠山三尾之竹矣訶岐苅末押縻魚簀如調八絃琴所治賜天下伊那()本和氣天皇之御子市邊之押齒王之奴末尓即小楯連聞驚而自床堕轉而追出其室人等其二柱王子坐左右膝上泣悲而集人民作假宮坐置其假宮而貢上駅使於是其姨飯豊王聞歡而令上於宮」、【子の白髮大倭根子、伊波禮の甕栗宮で天下を治めた。この天皇は、皇后が無く、亦子も無かった。それで、御名代として白髮部を定めた。そのため、天皇が崩じた後、天下を治めるべき王が無かった。そこで、継承する王を問うと、市邊忍齒別王の妹の、忍海郎女、亦の名は飯豐王が、葛城の忍海の高木の角刺宮にいた。そこで山部連小楯を針間國の宰相に任命した時、その國の人で、名は志自牟の新室で宴会し、そこで盛り上がって、酒宴もたけなわとなって次第に皆も舞った。それで、火焚きの少年二人が、竃の傍に居て、その少年達にも舞わせた。そこでその一人の少年が「兄から先に舞いなさい。」と言うと、その兄もまた、「お前から先に舞いなさい。」と言った。この様に讓りあった時、その集まった人達は、その讓り合うのを笑った。そこで遂に兄が舞い終わって、次に弟が舞おうとする時に、伊邪本和氣の子の市邊押齒王の子孫と歌()った。それで小楯連が聞いて驚き、床から転げ回って、その部屋の人達を追ひ出して、その二柱の王子を、左右の膝の上に坐らせて、泣き悲しんで、人を集めて假宮を作り、其の假宮に置いて、驛使を送った。そこでその姨の飯豐王は、聞いて歡び、宮に上らせた。】と訳した。

目大連は磐余甕栗宮で「為連」で「為大連」ではなく、子が荒山で檜前廬入宮の大連、木蓮子大連の子の目連は「継體天皇御世為大連」と大連で混同し、継体天皇を皇位に就けた麁鹿は麻佐良の子、木蓮の孫で、目連は磐余甕栗宮から磯城嶋宮の連も目連なので磯城嶋宮まで襲名したと考えられる。

『古事記』は伊波礼甕栗宮天皇の節なのに、白髮部を定めた以外記述せず、まさしく『古事記』を創らせたのが意祁だった事を示し、白髮崩御以降に、針間国の宰相を任命し、袁祁を皇太子にしたのは飯豐王と考えられる。

『梁書』に「齊永元元年・・・名國王爲乙祁」と499年に沙門慧深が荊州に来て、乙祁が王になったと述べていて、実際は武烈天皇元年に袁祁か意祁、恐らく意祁が即位したと思われ、489年『古事記』「己巳年八月九日崩也御陵在河内之多治比高鸇嶋也」は『日本書紀』の「難波小野皇后恐宿不敬自死」の記事が八月九日の可能性があり、九月に死亡した人物は小野皇后ではなく飯豐王の可能性がある。

『日本書紀』を記述した舒明朝は『梁書』で499年に乙祁が天皇になったのだから、稚鷦鷯が乙祁と判断し、真鳥・鮪の政権から葛城氏が奪取したと考え、武烈前紀に平郡氏の滅亡を記述し、478年から502年まで在位した倭王武は筑紫国造である。

『日本書紀』の雄略紀から崇峻紀までを記述した推古天皇に対して、仁賢天皇の記述の『古事記』のほうが信頼でき、元々、『古事記』は葛城氏・平郡氏・蘇我氏の、『日本書紀』は複数の王朝の寄せ集め記事であることを念頭に考えなければならず、客観的に記述する中国史書を基にすべきである。

2022年11月16日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』清寧天皇2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「冬十月己巳朔壬申大伴室屋大連率臣連奉璽於太子元年庚申春正月戊戌朔壬子命有司設壇塲於磐余甕栗陟天皇位遂定宮謂甕栗宮焉尊葛城朝韓媛為皇太夫人葛城國大臣妾也大伴室屋大連平群真鳥大連並如故臣連伴等各依軄位焉冬十月癸巳朔辛丑葬大泊瀨天皇於丹比高鶴原陵二年冬十一月依大嘗供奉之(?料 米+)遣播磨國使者山部連先祖伊予來目部小楯於赤石郡綜見長倉首忍海部造細目新室見市邊押磐皇子子億計雄計於思奉為君奉養甚謹以私供給使起柴宮權奉安置乗馳驛養奏天皇愕然驚歎良以愴懷曰懿哉悅哉天垂特愛賜以兩兒語在雄計天皇記三年春正月丙辰朔小楯尊奉億計雄計到攝津國使臣連持節以王青蓋車迎入宮中夏四月己丑朔辛卯以億計王為皇太子以雄計王爲皇子秋七月飯豊皇女於角刺宮與夫人褥交矣謂入但一知女道亦安可異終不願交於男矣五年春正月甲戌朔己丑天皇崩于宮六年(?五年)十一月庚午朔戊寅葬于河内板門原陵天皇無胤」、【冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連は、臣・連たちを率いて、皇位の璽を太子に渡した。治世元年春一月戊戌朔壬子、司に命じて、祭壇を磐余の甕栗に設け、即位した。宮を定め、甕栗宮といった。葛城韓媛を尊んで、皇太夫人とした。葛城円大臣の娘である。大伴室屋大連と平群真鳥大連を大連に任じることは元の通りだった。臣、連、伴造らも、それぞれもとの位のまま仕えた。冬十月癸巳朔辛丑、大泊瀨幼武天皇を丹比高鷲原陵に葬った。二年冬十一月、大嘗祭の供物を調えるため、播磨国に派遣した使者、山部連の祖・伊予来目部小楯が、赤石郡において縮見屯倉首の忍海部造細目の家の新築の宴で、市辺押磐皇子の子の億計、雄計を見出した。君としてあがめようと思い、謹んで養い、私財を供して柴宮を立てて、仮住いした。早馬を走らせ、天皇に知らせた。天皇は驚き、歎息してしばらく心から悼んでから。「めでたい、悦ばしい。天は大きな恵みを垂れて、二人の子を賜った」このことは、雄計天皇の記にある。三年春一月丙辰朔、小楯は億計・雄計を奉じて摂津国にきた。臣・連にしるしを持たせて、王の青蓋車に乗せ、宮中に迎え入れた。夏四月己丑朔辛卯に、億計王を皇太子とし、雄計王を皇子とした。秋七月、飯豊皇女が角刺宮で、はじめて男と交った。人に「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。今後は男と交わりたいとは思わない」と言った。五年春一月甲戌朔己丑に、天皇は宮で崩御された。冬十一月庚午朔戊寅に、河内の坂戸原陵に葬った。天皇に御子はいない。】と訳した。

冬十月己巳朔、元年庚申春正月戊戌朔、冬十月癸巳朔、三年春正月丙辰朔は正しい天文学的朔だが、夏四月己丑朔、五年春正月甲戌朔、六年十一月庚午朔は間違った朔で、『日本書紀』も清寧天皇三年九月以降間違った朔がほとんどで、神武東征の時の吉備以外は間違った朔だったことから、「武廣國押」の蘇我氏の資料が考えられる。

特に、 夏四月己丑朔は471年4月1日の日干支で、倭王「興」の遷都の可能性が高く、武の在位期間が長く、興の甥で、興の太子である弟が死亡したと思われ、『日本書紀』の清寧天皇三年の立太子記事も蘇我氏の勢力拡大に対して、倭の武が遷都した可能性がある。

なぜなら、順帝昇明二年478年に『宋書』に「詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」と『日本書紀』の「以白髮皇子爲皇太子」が一致し、『梁書』天監元年502年「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」まで生存し、その後、磐井、その子の葛子に受け継がれ、欽明天皇十五年「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」で葛子の兄弟が継承している。

珍・斉・興が短期間での継承と武の長期在位なので、武は若い次期に即位した可能性が高く、武の皇太子が弟から武の子に変わったり、「自昔祖禰躬擐甲冑・・・欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣・・・」と父王・兄太子が自ら戦い、自らの子も戦死した可能性があり、それが482年の「億計王爲皇太子」と494年の「立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子」との皇太子だけの宮変更と思われる。

また、皇位継承者の志毘の死亡によって、清寧天皇は襲津彦の孫の玉田宿禰の娘の毛媛の子の稚媛、羽田八代宿禰の娘の黒媛の娘の飯豐皇女、韓媛の娘の栲幡娘姫の存在のため、皇位継承に混乱を生じ、飯豐皇女を擁する羽田八代宿禰が勝利し、淡海朝が復権したようだ。


2022年11月14日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』清寧天皇1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱白髮武廣國押稚日本根子尊者大泊瀨幼武天皇第三太子也母曰葛城韓媛葛城國大臣之女也天皇生而白髮長而愛民矣大泊瀨天皇於諸子中特所霊異矣二十二年以白髮武廣國押稚日本根子皇子立為太子二十三年八月大泊瀨天皇崩妃吉備稚媛隂謂劣子星川皇子曰欲登天下之位先取大藏之官矣長子磐城皇子聽母夫人教其幼子語曰皇太子雖是我弟安奇欺乎不可為乎星川皇子不聽輙隨母夫人之意遂取大藏官鎖閇外門戒備乎難權勢自由費用官物於是大伴室屋大連言於東漢掬直曰大泊瀨天皇之遺詔今將至矣冝從遺詔奉皇太子乃發軍士圍繞大藏自外拒閇縱火燔殺是時吉備稚媛磐城皇子異父兄々君城丘前來目隨星川皇子而被燔殺矣是月吉備上道臣等聞朝作乱思救其媛所生星川皇子率舩師四十艘來浮於海既而聞被燔死自海而歸也天皇即遣使嘖譲於上道臣等而奪其所賜山部也」、【諱は白髪武広国押稚日本根子、大泊瀨幼武天皇の第三子である。母を葛城韓媛といい、葛城円大臣の娘である。天皇は、生まれながらに白髪であった。成長してから人民をいつくしんだ。大泊瀨幼武天皇の多くの子の中で、特にふしぎで、変わったところがあった。二十二年、白髪武広国押稚日本根子を皇太子にした。二十三年八月に、大泊瀨天皇が崩じた。皇妃の吉備稚媛は、ひそかに幼い星川皇子に「皇位に登ろうと思うのなら、まず大蔵の役所を取りなさい」と語り、長子の磐城皇子は、母がその幼い皇子に教える言葉を聞いて「皇太子は弟だが、どうして欺くことができようか。してはならないことだ。」と言い、星川皇子はこれを聞かないで、たやすく母の意に従い、ついに大蔵の役所を取った。外門を閉ざし固めて、攻撃に備えた。権勢をほしいままにし、官物を勝手に使った。大伴室屋大連は、東漢掬直に「大泊瀨天皇の遺詔のことが、今やって来ようとしている。遺詔にしたがって皇太子を奉じなければならない。」と言い、兵士を動かして大蔵を取り囲んだ。外から防ぎ固めて、火をつけて焼き殺した。このとき、吉備稚媛と磐城皇子の異父兄の兄君と、城丘前来目も星川皇子と共に焼き殺された。この月、吉備上道臣らは、朝廷に乱あると聞いて、姫が生んだ星川皇子を救おうと思い、船軍四十艘を率いて海上にやって来たが、すでに皇子が焼き殺されたと聞いて、海路を帰った。天皇は使いを派遣して、上道臣らを咎め、その管理していた山部を召し上げた。】と訳した。

磐余若櫻朝の皇位継承は纏向朝五十琴彦の娘の多遅麻の妃の安媛、五十琴宿祢の妻の多遅麻の娘の香兒媛(?山無媛)の子と香兒媛の兄弟の印葉の子達で継承され、矢田皇女、忍坂大中比賣に婿入りすることで平群氏が皇位継承権を得たが、葛城氏の皇位継承権は木国造の荒河戸畔と同地域に住むと思われる丹羽君の祖の大荒田の娘で建稲種の妃の玉姫の子の金田屋野姫と輕嶋明宮天皇品陀真若の子の仲姫、仲姫の子の大雀と兄弟の荒田皇女、恐らく、その子が荒田彦で難波朝天皇の尾張氏、恐らく、針名根が葛城部を定めて荒田彦を葛城国造とし、娘の葛比売を長柄襲津彦が妃に葛城襲津彦を生み、葛城襲津彦の孫、大雀の子の伊耶本和気に葛城襲津彦の孫に、淡海朝の後継者の羽田矢代宿禰の娘の黒比賣が妃になって葛城氏が皇位を簒奪した。

黒比賣は『日本書紀』では羽田矢代の娘と記述していて、八代は野洲の社のことで、市邊押磐が456年に殺されたのが「近江來田綿蛟屋野」で野洲の近郊で、市邊押磐は野洲の王だったことを示し、子達は山代に逃げ、山代内臣の子達でもあった事を示している。

そして、『古事記』は「大倭根子」と天皇の名前であるが、『舊事本紀』と『日本書紀』も稚日本根子と第二位の名前となっていて、『古事記』は意祁が記述した史書と思われるため、袁祁が伊波禮甕栗宮天皇の真鳥の皇太子の志毘を殺害して、後継者がない真鳥から皇位を奪い、角刺宮の飯豐王が即位し、皇太子が意祁になったと思われる。

平群臣之祖名志毘臣」と志毘は姓がない皇位継承者で、死亡時、志毘の子は皇太子になる年令に達していなかったと思われ、『日本書紀』は白髪末年を基準に飯豐王が「大倭根子」で白髪の真鳥を「稚倭根子」と記述し、「武廣國押」と『日本書紀』を記述した蘇我氏が吉備の反乱に乗じて仲国を奪取したようだ。


2022年11月11日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書6

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又天皇婚丸迩之佐都紀臣之女袁杼比賣幸行于春日之時媛女逢道即見幸行而逃隠岡邊故作御歌其歌曰表()登賣能伊加久流表()加袁加那須岐母伊本知母賀母須岐婆()奴流母能故号其岡謂全()鋤岡也又天皇()坐長谷之百枝槻下爲豊樂之時伊勢國之工()重妹()指舉大御盞以獻尓其百枝槻葉落浮於大御盞其妹()不知落葉浮於盞猶獻大御酒天皇者()行其浮盞之葉打伏其妹()以刀刺死其頸將斬之時其妹()白天皇曰莫殺吾身有應曰()事即歌曰麻岐牟久能比志呂乃美夜波阿佐比能比傳流美夜由布比能比賀氣流美夜多氣能泥能泥陀流美夜許能泥能泥婆布美夜々本尓余志伊岐弖()岐能美夜麻紀佐久比能美加度尓比那閇夜尓淤斐陀弖流毛陀流都紀賀延()本波都延波阿米亦()淤弊理那加都延波阿豆麻袁淤弊理志豆延波比那表()淤弊理本都延能延能宇良婆波那加都延尓淤知布良婆閇那加都延能延能宇良婆()々斯毛都延尓淤知布良婆閇斯豆延能延能宇良婆波阿理岐奴能美弊能古賀佐々加()世流美豆多麻宇岐尓宇岐志阿夫良淤知那豆佐比美那許表()呂許袁呂尓許斯母阿夜尓加志古志多加比加流比能美古許登能加多理碁登母許表()婆故獻此歌者赦其罪也尓大后歌其歌曰夜麻登能許能多氣知尓古陀加流伊知能都加佐尓比那閇夜尓淤斐陀弖流波毘召()由都麻都婆岐曽賀波()能比召()理伊麻志曽能婆()那能弖理伊麻須多加比加流比能美古尓登余美岐多弖麻都良勢許登能加多理碁登母許表()婆即天皇歌曰毛々志紀能淤富美夜比登波宇豆良登理比禮登理加氣弖麻那婆志良表()由岐阿閇尓波須受米宇受須麻理韋弖祁布母加母佐加美豆久良斯多加比加流比能美夜比登許登能加多理碁登母許走()婆此三歌者天語歌也故於此豊樂譽其三重妹()()()多禄也是豊樂之日亦春日之袁杼比賣獻大御酒之時天皇歌曰美那曽々()久淤美能()登賣本陀理登良須母夫()陀理計()理加多久計()良勢斯多賀多久夜賀多久計()良勢本陀理計()良須古此者宇岐歌也尓袁杼比賣獻歌其歌曰夜須美斯志和賀淤富岐美能阿佐計()尓波伊余理陀多志田()布斗尓波伊余理陀多須知()岐豆紀賀斯多能伊多尓母賀阿世袁此者志都歌也天皇御年壱佰弐拾肆歳(己巳年八月九日崩也)御陵在河内之多治比高()嶋也」、【また、天皇は、丸迩の佐都紀臣の娘の袁杼比賣の婚姻のため、春日に行った時、乙女と道で逢った。それで、幸行を見て、岡の辺に逃げ隠れた。それで、歌()を創った。それで、その岡を金鋤岡と名付けた。又、天皇は、長谷の百枝槻の下にいて、宴会した時、伊勢の国の三重の婇が、大盞を捧げて献上した。それでその百枝槻の葉が、落ちて大盞に浮かんだ。その婇は、落葉が盞に浮かんでいることを知らず、酒を献上した。天皇はその盞に浮かんだ葉を見て、その婇をうつ伏せにして、刀を頚に突き立てて、斬ろうとした時、その婇は、天皇に、「私を殺さないでください。言いたい事が有ります。」と言って、歌()った。それで、この歌を献上したら、その罪は赦された。そこで大后が歌()った。それで天皇は歌()った。この三歌は天語歌だ。それで、この宴会の三重の婇を誉めて、多くの禄を与えた。また、この宴会の日に、春日の袁杼比賣が、酒を献上した時、天皇は歌()った。これは宇岐歌だ。そこで袁杼比賣が、歌()を献上した。これは志都歌だ。天皇の年齢は、壹佰貳拾肆歳に己巳の年の八月九日に崩じた。陵は河内の多治比の高鸇島にある。】と訳した。

『古事記』は輕島明宮朝では丸迩意富美、難波朝から丸迩臣口子、多治比柴垣宮朝丸迩許碁登臣、長谷朝倉宮朝丸迩佐都紀臣と記述しているが、『日本書紀』では和珥臣祖日觸使主、和珥臣祖口子臣、和珥臣祖難波根子武振熊、大宅臣祖木事、春日和珥臣深目のように「富美・使主」と臣を使わず、難波朝から『古事記』は臣、『日本書紀』は長谷朝倉宮朝から臣である。

『日本書紀』は平群氏、『古事記』は葛城氏が記述したのであるから、難波河内朝は武内大臣と記述されるように臣を使い、磐余稚櫻宮朝時は圓大使主、長谷朝倉宮朝前紀では圓大臣と書き分けるように磐余若櫻宮朝から遠飛鳥宮朝までとそれ以降と政権交代があった事を示している。

そのため、統一朝廷の長谷朝倉宮朝元年にはそれ以前から春日の和珥使主だった深目を春日和珥臣と記述し、難波根子の和珥臣を大宅臣と賜姓した可能性があり、中臣烏賊津連は磐余若櫻宮朝・遠飛鳥宮朝では中臣烏賊津使主と使主を使い、中臣烏賊津が襲津彦の東征に協力したから、長谷朝倉宮朝になると中臣連を賜姓されて、「中臣連遠祖天兒屋」と記述されている。

すなわち、姓は王朝統一した長谷朝倉宮朝から確立されたことを示している。

2022年11月9日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書5

 『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又一時天皇登幸葛城山之時百官人等悉給著紅紐()之青摺衣服彼時有其自所向之山尾登山上人既等天皇之鹵簿亦其装束(束装)之状及人衆相似不傾尓天皇望令問曰於茲倭國除吾亦無王今誰人如此而行即荅曰之状亦如天皇之命於是天皇大忿而矢刺百官人等悉矢刺尓其人等亦皆矢刺故天皇亦問曰然告其名尓各告名而彈矢於是荅曰吾先見問故吾()爲名告吾者雖悪事而一言雖善事而一言言離之神葛城之一言主之大神者也天皇於是惶畏而白恐我大神有宇都志意美者(自宇下五字以音也)不覺白而大御刀及弓矢始而脱百官人等所服之衣服以拝獻尓其一言主大神手打受其捧()物故天皇之還幸時其大神満山末於長谷山口送奉故是一言主之大神者彼時所顯也」、【又、ある時、天皇が葛城山に登っり、官僚等に紅い紐の青摺の衣服を与えた。その時、前方の山の尾根から、山に登る人がいた。それは天皇の行列のようで、亦、その装束の様子も、人数も、同じだった。それで天皇は望み見て、「この倭の国に、私を除いて王は居ないのに、今誰がこの様な行列を成している。」と問いかけたら、答える様子も天皇の様だった。それで天皇はとても怒って矢を向け、官僚等もみな矢を向けた。そこでその人達もまた皆、矢を向けた。それで、天皇は亦、「それなら名を告げろ。それぞれに名を告げて矢を弾とう。」と問いかけた。それに「私は先に問われたから、わたしが先に名を告げよう。私は悪事にも一言、善事にも一言、言ひ放つ神、葛城の一言主大神だ。」と答えた。天皇はこれに畏まって、「畏れ多い私の大神、現土地神が現れるとは知らなかった。」と言って、刀や弓矢から、家臣等が着た服を脱がさせて、拝礼して献上した。それでその一言主大神は、手を叩いてその捧げ物を受けとった。それで、天皇が還る時、その大神は、山末に満ちるように並んで長谷山の口で見送った。それで、この一言主大神は、この時から姿を現した。】と訳した。

「一言主」は『日本書紀』では「一事主」と記述され、「事代主」と同地域の神と思われ、「事代」は「社」と同じ概念で、社は野洲国の「野代」が語源と思われ、事代は事という地域の社と考えられ、事と呼ばれる地域は一事主が住む葛上で、事代主の家系の神武天皇と『日本書紀』は記述し、また、『古事記』では神武天皇が大物主の娘の家系としているが、大物主は大直根子の父で、大直田根子は大国を支配する根国の天子の意味で、河内に住んでいた。

そして、大国の支配者は大鹿嶋達五大夫が三国・大国・出雲朝廷を滅ぼして、大中彦が支配し、その後、大中彦から河内を支配した難波根子へと皇位が変遷し、祀ったのは当然大神なので、大物主神を祀った王家は仲国王だった中臣氏と考えられ、葛城氏の神武東征の時に協力したのが天種子、中臣氏を支配した大物主、すなわちこれが、根の天子の根子で出雲朝廷では大物主は仲国の国神であり、仲国の広島や讃岐などの琴平宮は大物主を祀っている。

『日本書紀』では神武の建国は高倉下と剱根に助けられて、皇位に就いたとするが、『古事記』は剱根を記述せず、『日本書紀』では、剱根が葛城国造となるが、その後、葛城に首都が遷るのだから葛城国は『日本書紀』で記述されず、その後は欽明朝に出現するのみで、『紀氏家牒』では「葛城国造荒田彦」、『舊事本紀』の雄略朝に葛城國(?)大臣が出現する。

葛城は316年「爲皇后定葛城部」と磐之媛の為に葛城部を定めたから葛城氏であり、葛城は荒田や葛と呼ばれていたと考えられ、長柄襲津彦の義父で剱根の子孫の国造の荒田彦の孫の磐之媛が葛城部を造ったので、葛城国は消滅して荒田国と呼ばれたと思われて、荒田国が復古して葛城国となった可能性が高く、そのため、長柄襲津彦が葛城襲津彦と呼ばれるようになったと思われる。

そして、葛城氏の初代の御毛沼は事代主の娘と婚姻することで事代主を事代で祀り始め、剱根(耜友)が磐余に岩根を敷き、「事代」の宮柱を建て、それが「こと」と呼ばれる土地と思われ、その為、仲哀天皇の首都が記述されず、急に神功皇后の首都が磐余若櫻宮と記述されたのは、仲哀天皇も磐余が首都の「琴彦(事彦)」、そして、若櫻宮が首都の「琴()宿祢」で、河内朝の視点では、磐余王は事主と呼ばれ、名目上幼武即位前なので、事主が「奉獻臣女韓媛與葛城宅七區」と葛城圓に祀られていて、その事主から幼武が譲られたと主張していると思われる。

すなわち、この説話は雄略天皇が纏向珠城宮天皇十千根 ・日代宮五琴彦・磐余若櫻宮五琴宿祢、そして、磐余若櫻宮を継いだ事代主の末裔の葛上の一事主のバックアップで『日本書紀』顕宗前紀「築立稚室葛根」と稚室葛根を築いて「結繩葛者此家長御壽之堅也」と宗廟を立てたことを述べている。


2022年11月7日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書4

  この項は歌が多いので原文は後にする。

「阿岐豆野」の地名を歌で詠み、「夜麻登能久尓袁阿岐豆志麻」のように命名説話にしているが、「阿岐豆」は「速秋津日子」・「豐秋津師比賣」のようにもともと速国・豊国で、また、『古事記』では「やまと」を「倭」(神倭天皇・大倭豐秋津島など天皇名を含む地名)、「山處」(歌中で情景?)、「山戸」(香山の戸臣・羽山の戸神?)、「夜麻登」(人名の意富夜麻登久迩阿禮比賣・夜麻登登母母曾毘賣)とあり、「夜麻登」は『日本書紀』の「倭」を「やまと」と記述している。

もともとの「夜麻登比賣」に『日本書紀』が「倭」を使ったか、『古事記』が「倭」を「夜麻登」と読んだかであるが、『舊事本紀』は「尾張大倭媛生八坂入彦命」、「大海姫命・・・皇妃誕生一男二女召八坂入彦命」と「倭」を「海」「あま」と読んだように、『日本書紀』の「倭」・「あま」を『古事記』が「夜麻登」と読んだと考えられ、『古事記』では「淡道御井宮」の「和知都美」の娘の「繩伊呂泥」が「意富夜麻登久迩阿禮比賣」で、娘が「夜麻登登母母曾毘賣」、兄弟に「倭飛羽矢若屋比賣」もいるのに、「倭」と記述せず、すなわち、『古事記』の神武天皇は最初から「大和」の王者になったので、「倭」を現代も考えるように「夜麻登」と読んだと思われる。

すなわち、「倭飛羽矢若屋比賣」は若八比賣・若倭比賣で琵琶湖の倭だから倭を使い、夜麻登と記述する姫は大和に住んだ姫だったことを示す。

『日本書紀』は「やまと」を「日本」(天皇名と日本童男と外交上の国名)、「倭」(倭国や人名や倭直などの姓)、「山門」(?山の門縣)とあり、景行天皇の皇子に稚倭根子がいて、倭を日本に書き換えた訳ではなく、畿内の政権の表意文字に日本国を使用し、皇太子の倭武は「日本」で他は「倭」をそのまま使用し、『日本書紀』も「あま」の表意文字に「倭」を使ったことが解り、三国の魂神→大国・三国の御魂神→倭大國魂とあるように、日本大國魂神も大国の神を国家が祀る神になったことを示している。

すなわち、扶桑国の雄略朝はそれ以前の朝廷の国家を「日本」として、違いを示したが、葛城氏は『三国志』や『漢書』の倭を日本の表意文字に選び、蘇我氏は日本を配下にしたので国名を、中国が理解する倭国を国名に使用して、物部氏や平群氏の日本と認識が別れたと考えられる。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「亦一時天皇遊行到於美和河之時河邊有洗衣童女其容姿甚麗天皇問其童女汝者誰子荅白巳名謂引田部赤猪子尓令詔者汝不嫁夫今將喚而還坐於宮故其赤猪子仰待天皇之命既經八十歳於是赤猪子以爲望命之間巳經多年姿体痩萎更無所恃然非顯待情不忍於悒而令持百取之札()代物参出貢獻然天皇既志()先所命之事問其赤猪子曰汝者誰老女何由以参來尓赤猪子荅白其年其月被天皇之命仰待大命至()今日經八十歳今容姿既耆更無所恃然顯白己志以参出耳於是天皇大驚吾既忘先事然汝守志待命徒過盛年是甚受()悲心裏欲婚憚其亟老不得成婚而賜御歌其歌曰美母呂能伊都加斯賀母登加斯賀母登由々斯伎加母加志波良袁登賣又歌曰比氣多能和加久流須婆良和加久閇尓韋泥弖麻斯母能淤伊尓祁流加母尓赤猪子之泣涙悉濕其所服之丹揩袖荅其大御歌而歌曰美母召()尓都久夜多麻加岐都岐阿麻斯多尓加母余良牟加微能美夜比登又歌曰久佐迦延能伊理延能波知須波那婆知須微能佐加理毘登登母志岐召()加母尓多禄給其老女以返遣也故此四歌者志都歌也 天皇幸行吉野宮之時吉野川之濵有童女其形姿美麗故婚是童女而還坐於宮後更亦幸行吉野之時留其童女之所過()於其家()立大御呉()床而坐其御呉()床弾御琴令()爲儛其嬢子尓因其嬢子之好儛作御歌其歌曰阿具良韋能加微能美弖母知比久許登尓麻比須流表()美那登許余尓母加母即幸阿岐豆野而御獦之時天皇坐御呉()床尓()咋御腕即蜻蛉來咋其()而飛(訓蜻蛉云阿岐豆也)於是作御歌其歌曰美延斯怒能表()牟々漏賀多氣尓志斯布須登多礼曽意富麻弊尓麻表()須夜須美斯志和賀淤富岐美能斯志麻都登阿具良尓伊麻志斯漏多閇能蘇弖岐蘇那布多古牟良尓阿牟加岐都岐曽能阿牟表()阿岐豆波夜具比加久能基()登那尓淤波牟登蘇良美都夜麻登能久尓表()阿岐豆志麻登布故自其時号其野謂阿岐豆野也又一時天皇登幸葛城之山上尓大猪出即天皇以鳴鏑射其猪之時其猪怒而宇多岐依來故天皇畏其宇多岐登坐榛上尓歌曰夜須美斯志和賀意富岐美能阿蘇婆志斯志斯能夜美斯志能宇多岐加斯古美和賀尓宜能煩理斯阿理表()能波理能紀能延陀 」、【またある時、天皇が遊行して、美和河についた時、河邊で衣を洗う童女がいた。その容姿がとても麗しかった。天皇はその童女に「お前は誰の子だ。」と問いかけると「私の名は引田部の赤猪子と言う。」と答えた。それで、「お前は夫に嫁ぐな。今に呼び寄せるから」と言って、宮に還った。それで、その赤猪子は、天皇の命令を待って、既に八十歳を経た。このように赤猪子は命令を待ち望む間にもう多くの年を経てしまって、姿形はやせ衰え、もう頼みとするところも無い。それでも待つ気持ちを持たずには気が晴れず忍びないと思って、たくさんの引き出物を持たせて、参上しました。それなのに天皇は、もう先に命令した事を忘れて、その赤猪子に「お前はどこの婆さんだ。どうしてやって来た」と言った。それで赤猪子は、「あの時、天皇の命令を受けて、大命を待ち望んで、今日までに八十歳を経てしまった。今では容姿は老いて、もうあてにする所が無い。それでも自分の気持ちを言いたくてやって来た。」と答えた。それで天皇は、とても驚いて、「私はもう前の事を忘れていた。それなのにお前は言いつけを守って召集の命令を待って、わけもなく盛りを過ごし、とても可哀そうだ。」と言って、心の裏では結婚しようと思ったが、年老いているので、婚姻できず歌()を与えた。又歌()った。それで赤猪子の涙が着た丹揩の袖を濡らした。その歌に答えて歌()った。又歌()った。それで多くの俸禄を老女に与えて、返した。それで、この四歌は志都歌だ。天皇が吉野宮に行った時、吉野川の辺に童女がいて姿形は美麗だった。それで、この童女と過ごして、宮に還った。その後、亦、吉野に行った時、童女と遇った所に留まって、そこに呉床を組み立てて、坐って、琴を弾いて、その娘に舞わせた。それで娘が上手く舞ったので、歌()を創った。それで阿岐豆野に行って、狩りをした時、天皇が休憩した。そこに虻が腕を噛み、それで、蜻蛉が来てその虻を咥えて飛び去った。それで歌()を創った。それで、その時からその野を阿岐豆野と名付けた。また、ある時、天皇が葛城の山の上に登った。そこに大猪が出てきた。それで天皇は鳴鏑でその猪を射た時、その猪が怒って、うなって来た。それで、天皇はそのうなり声を恐れて、榛の上に登って歌()った。】と訳した。