2022年11月23日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱雄計皇子尊者大兄去來穗別天皇孫矣市邊押磐皇子之子也更名來目稚子雄計王母曰荑媛蟻臣女也其蟻臣者葦田宿祢子也譜弟日市邊押磐皇子娶荑媛遂生三男二女一日居夏媛王二日億計王更名嶋稚子更名大石尊三日雄計王更名來目稚子四日飯豊女王亦名忍海郎女王一云他於億計王之上五日橘王天皇久居邊裔悉知百姓憂苦恒見柱屈若納四軆溝隍布徳(?+)恵政令流行鄙貧養孀天下親附穗穴天皇三年十月天皇父市邊押磐皇子及帳内佐伯部仲子於蚊屋野為大泊瀨天皇見殺因埋穴於是天皇與億計王聞父見射恐懼皆逃亡自匿帳内日下部連使主與子吾田來彦竊奉天皇與億計王避難於丹波國余社郡使主遂改名字曰田狹來尚恐見誅從茲遁入播磨縮見山石室而自經死之矣天皇尚不識使主(?)之勸與億計王向播磨國赤石郡俱改字曰丹波小子就仕於縮見長倉首吾田彦至此不離固執臣禮日」、【諱は雄計、大兄去來穗別の孫で、市辺押磐の子だ。またの名を来目稚子という。雄計の母は荑媛といい、蟻臣の娘である。その蟻臣は葦田宿祢の子である。『譜第』に、市辺押磐皇子は荑媛を娶って、三男二女を生んだ。第一を居夏媛、第二を億計王、またの名を嶋稚子、またの名を大石、第三を雄計、またの名を来目稚子、第四を飯豊女王、またの名を忍海郎女王(ある書では、億計王の上に入れている。)、第五を橘王という。天皇は長く辺境の地にいて、人民の憂い苦しみをよく知っていた。常に虐げられるものを見ては、自分の身体を溝に投げ入れられるように感ていた。徳を敷き、恵みをほどこして、政令をよく行い、貧しい者に恵み、寡婦を養い、天下の人々は天皇に親しみなついた。穗穴天皇の治世三年十月、天皇の父の市辺押磐と、舎人の佐伯部仲子は、近江国の蚊屋野で、大泊瀨天皇に殺された。そのため、二人は同じ穴に埋められた。そこで天皇と億計は、父が射殺されたと聞いて、恐れて一緒に逃げ、身を隠した。舎人の日下部連使主と、その子の吾田彦は、ひそかに天皇と億計を連れて丹波国の余社郡に難を避けた。使主は名前を改めて田疾来にした。なお殺されることを恐れて、さらに播磨の縮見山の石屋に逃れ、みずから首をくくって死んだ。天皇は使主の行き先を知られなかった。兄の億計を促して、播磨国の赤石郡に行き、ともに名前を変えて丹波の小子といって、縮見屯倉首に仕えた。吾田彦はここに来るまで、離れず長く従い仕えた。】と訳した。

『舊事本紀』は『譜第』を採用して「妹飯豐青皇女」と雄計の妹とし、磐坂市邊押羽の妹は青海皇女で飯豐青皇女と別人に記述しているが、『日本書紀』も『譜第』を採用して顕宗紀に同様に記述し、履中紀には、磐坂市邊押羽の妹の青海皇女(「一日飯豐皇女」)としている。

これは、雄略天皇が書かせた安康以前の『日本書紀』は『譜第』を知らず、去來穗別の子の磐坂市邊押羽と青海皇女の夫の姉妹との子の磐坂市邊押羽が荑媛を妃に億計・雄計・忍海郎女を生んだと考えられ、顕宗紀を書かせた推古天皇の時代には『譜第』が残っていて、『譜第』を採用したため齟齬が生まれたと考えられる。

去來穗別の子の初代磐坂市邊押羽は去來穗別死亡時に皇位に就けない19才程度と考えられ、幼武即位時は50代で去來穗別の孫なら雄計は30才程度となり、この年令では父と一緒に狩りをする、若しくは反撃すると思われ、説話と合致せず、二代目の子なら10才程度で逃げても恥ではなく、袁祁は「御年參拾捌歳」と『日本書紀』の死亡487年なら450年頃の生まれで合致するが、実際は乙祁即位が499年なので、10年以上後ろにズレ、雄計・億計も二代目が存在する。

そして、飯豐皇女は二代目の兄弟の可能性が高く、億計が嶋稚子、弘計が來目稚子、飯豊女王が忍海部と稚国や淡海の王の名で磐坂市邊押羽が殺された場所も淡海なので、初代磐坂市邊押羽の妃は山君の娘の可能性が高い。

『古事記』は青海イコール飯豐と『譜第』と異なって『日本書紀』と同じということは、自分の姉妹や叔母を知らないはずがなく、親子は同一の宮に住むときは襲名して同一の氏姓を襲名する事を証明し、飯豊女王は2代目磐坂市邊押羽の姉妹で青海郎女も襲名する磐坂市邊押羽とセットの名前だったことが解り、宮が変わる雄計と呼ばれ、姉妹の媛は忍海郎女と呼ばれたようだ。

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