2022年11月18日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』清寧天皇類書3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十一世孫物部真掠連公巫部連文嶋連須佐連等祖伊香井宿祢子弟物部布都久留連公此連公大長谷朝御世為大連奉齋神宮依羅連柴垣女太姫為妻生一兒弟物部目大連公此連公磐余甕栗宮御宇天皇御世為連奉齋神宮弟物部鍛治師連公鏡作小輕馬連等祖弟物部竺志連公新家連等祖孫物部大前宿祢連公氷連等祖麥入宿祢之子此連公石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連次為宿祢奉齋神宮弟物部小前宿祢連公田部連等祖此連公近飛鳥八釣宮御宇天皇御世元為大連次為大宿祢奉齋神宮弟物部御辞連公佐為連等祖弟物部石持連公刑部垣連刑部造等祖」とあり訳は略す。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(御子)白髪大倭根子命坐伊波礼之甕栗宮治天下也此天皇無皇后亦()御子故御名代定白髪部故天皇崩後無可治天下之王也於是問日継所知之王也市邊忍齒別王之妹忍海郎女亦名飯豊王坐葛城忍海之高木角刺宮也尓山部連小楯任針間國之宰時到其國之人民名志()牟之新室樂於是盛樂酒酣以次第皆儛故焼大小子二口()居竃傍令儛其少子等尓其一少子曰汝兄先儛其兄亦曰汝弟先儛如此相譲之時其會人等咲其相譲之状尓遂兄儛訖次弟將儛時爲詠曰物部之我夫子之取佩於大刀之手上丹畫著其緒者載赤幡立赤幡見者五十隠山三尾之竹矣訶岐苅末押縻魚簀如調八絃琴所治賜天下伊那()本和氣天皇之御子市邊之押齒王之奴末尓即小楯連聞驚而自床堕轉而追出其室人等其二柱王子坐左右膝上泣悲而集人民作假宮坐置其假宮而貢上駅使於是其姨飯豊王聞歡而令上於宮」、【子の白髮大倭根子、伊波禮の甕栗宮で天下を治めた。この天皇は、皇后が無く、亦子も無かった。それで、御名代として白髮部を定めた。そのため、天皇が崩じた後、天下を治めるべき王が無かった。そこで、継承する王を問うと、市邊忍齒別王の妹の、忍海郎女、亦の名は飯豐王が、葛城の忍海の高木の角刺宮にいた。そこで山部連小楯を針間國の宰相に任命した時、その國の人で、名は志自牟の新室で宴会し、そこで盛り上がって、酒宴もたけなわとなって次第に皆も舞った。それで、火焚きの少年二人が、竃の傍に居て、その少年達にも舞わせた。そこでその一人の少年が「兄から先に舞いなさい。」と言うと、その兄もまた、「お前から先に舞いなさい。」と言った。この様に讓りあった時、その集まった人達は、その讓り合うのを笑った。そこで遂に兄が舞い終わって、次に弟が舞おうとする時に、伊邪本和氣の子の市邊押齒王の子孫と歌()った。それで小楯連が聞いて驚き、床から転げ回って、その部屋の人達を追ひ出して、その二柱の王子を、左右の膝の上に坐らせて、泣き悲しんで、人を集めて假宮を作り、其の假宮に置いて、驛使を送った。そこでその姨の飯豐王は、聞いて歡び、宮に上らせた。】と訳した。

目大連は磐余甕栗宮で「為連」で「為大連」ではなく、子が荒山で檜前廬入宮の大連、木蓮子大連の子の目連は「継體天皇御世為大連」と大連で混同し、継体天皇を皇位に就けた麁鹿は麻佐良の子、木蓮の孫で、目連は磐余甕栗宮から磯城嶋宮の連も目連なので磯城嶋宮まで襲名したと考えられる。

『古事記』は伊波礼甕栗宮天皇の節なのに、白髮部を定めた以外記述せず、まさしく『古事記』を創らせたのが意祁だった事を示し、白髮崩御以降に、針間国の宰相を任命し、袁祁を皇太子にしたのは飯豐王と考えられる。

『梁書』に「齊永元元年・・・名國王爲乙祁」と499年に沙門慧深が荊州に来て、乙祁が王になったと述べていて、実際は武烈天皇元年に袁祁か意祁、恐らく意祁が即位したと思われ、489年『古事記』「己巳年八月九日崩也御陵在河内之多治比高鸇嶋也」は『日本書紀』の「難波小野皇后恐宿不敬自死」の記事が八月九日の可能性があり、九月に死亡した人物は小野皇后ではなく飯豐王の可能性がある。

『日本書紀』を記述した舒明朝は『梁書』で499年に乙祁が天皇になったのだから、稚鷦鷯が乙祁と判断し、真鳥・鮪の政権から葛城氏が奪取したと考え、武烈前紀に平郡氏の滅亡を記述し、478年から502年まで在位した倭王武は筑紫国造である。

『日本書紀』の雄略紀から崇峻紀までを記述した推古天皇に対して、仁賢天皇の記述の『古事記』のほうが信頼でき、元々、『古事記』は葛城氏・平郡氏・蘇我氏の、『日本書紀』は複数の王朝の寄せ集め記事であることを念頭に考えなければならず、客観的に記述する中国史書を基にすべきである。

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