2022年11月4日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書3

 『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「大長谷若建命坐長谷朝倉宮治天下也天皇娶大日下王之妹若日下部王(无子)又娶都夫良意富美之女韓比賣生御子白髪命次妹若帯比賣命(二柱)故爲白髪太子之御名代定白髪部又定長谷部舎人又定河瀬舎人也此時呉人参渡來其呉人安置於呉原故号其地謂呉原也初太后坐日下也()時自日下之直越道幸行河内尓登山上望國内者有上堅魚作舎屋之家天皇令問其家云其上堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家尓天皇詔者奴乎巳家似天皇之御舎而造即遣人令焼其家之時其大縣主懼畏稽首白奴有者()随奴不覺而過作其()畏故獻能美之御幣物布縶白犬著鈴而己族名謂腰佩人令取犬繩以獻上故令止其著火即幸行其若日下部王之許賜入其犬令詔是物者今日得道之奇物故都摩()杼比之物云而賜入也於是若日下部王令奏天皇背日幸行之事甚恐故巳直参上而弁能誰知能仕奉是以還上坐於宮之時行立其山之坂上歌曰久佐加弁能許知能夜麻登多々美許母弊具理能夜麻能許知碁知能夜麻能賀比尓多知耶加由流波毗()召久麻加斯母登尓波伊久美陀氣淤斐須恵弊尓波多斯美陀氣淤斐伊久美陀氣伊久美陀波泥受多斯美陀氣多斯尓波韋泥受能知母久美泥牟曽能淤母比豆麻阿波礼即令持此歌而返使也」、【大長谷若建、長谷の朝倉宮で天下を治めた。天皇は、大日下の妹の若日下部を娶った。子は無かった。又、都夫良意富美の娘の韓比賣を娶って、生んだ子は、白髮。次に妹の若帶比賣の二柱。それで、白髮太子の御名代として、白髮部を定め、又、長谷部の舍人を定め、又、河瀬の舍人を定めた。この時呉の人が渡ってきた。その呉の人を呉原に安住させた。それで、そこを呉原という。初め大后が、日下にいた時、日下の直越の道から、河内に行った。そこで山の上に登って国内を望みみると、堅魚を屋根に上げた屋敷を作った家が有った。天皇はその家を「その堅魚を屋根に上げて屋敷を作ったのは誰の家だ。」と問い詰めると、「志幾の大縣主の家だ。」と答えた。

そこで天皇が「奴は、自分の家を天皇の御殿のように造った。」と言って、人を派遣して家を焼かせようとした時、大縣主は怖気かしこまって、土下座して、「臣下であるのに、分をわきまえずに、過を犯したのはとても畏れ多いことでした。それで、謝罪の物を贈りましょう。」と言って、布を白い犬に懸けて、鈴をつけて、手下の腰佩という者に、犬の繩を取らして獻上した。それで、火を点けることを止た。それで若日下部の所に行って、その犬を与えて、「これは、今日道すがら手に入れた奇異の物で、求婚の物だ。」といって納めた。それで若日下部は、天皇に「日を背においでになって、とても畏れ多い事。それで、私は直に参上して仕えましょう。」と奏上した。それで宮に還り上る時に、その山の坂の上に行き立って歌った()。それでこの歌を持たせて、使を返した。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は「十五世孫尾治金連次尾治岐閇連即連等祖次尾治知々古連久努連祖此連去來穂別朝御世爲功能臣供奉十六世孫尾治坂合連金連之子此連允恭天皇御世爲寵臣供奉次尾治古利連次尾治阿古連太刀四連等祖次尾治中天連次尾治多々村連次尾治弟鹿連 日村尾治連等祖次尾治多?()志連大海部直等祖十七世孫尾治佐迷連坂合連子妹尾治兄日女連十八世孫尾治乙訓与?()連佐米述子次尾治粟原連次尾治間古連次尾治枚夫連紀伊尾張連等祖」とある。

穴穂が大日下を殺害し、大長谷が長谷から日下に婿入りしたことを此処では述べ、長谷の王が、若日下部姫の住む日下に向かう途中の難波朝天皇の難波根子を継いだ、丸迩許碁登臣の大縣主の屋敷を襲って、珍犬を得て、引き出物としたという説話と考えられる。

すなわち、大日下は尾張氏だが日向髪長媛の子で去來穗別の姻戚で、穴穂はその妃の中帯姫を得て難波朝を受け継ぐととも、去來穗別を引き継ぐ若櫻宮朝廷の皇位継承権も獲得し、大長谷が若櫻宮襲津彦の後継権者の圓大臣・押歯を殺害して朝廷を統一したと考えられる。

建振熊は神功皇后摂政元年に「令撃忍熊王」と宇治で忍熊王を殺害し、仁徳天皇六五年に飛騨宿儺を討伐しているので、神功皇后摂政元年の説話は377年頃の説話と解り、この頃に難波朝大臣意乎巳と天皇になれなかった可能性が高く、建振熊が難波天皇となり、406年大別が「河内丹比柴籬宮」に遷都して、大別が427年丁卯に崩じた。

品陀眞若の娘の弟姫、その娘婿の木事、その娘が襲名した弟媛、その婿が若櫻宮を引き継いだ瑞歯別、品陀眞若の娘弟姫の従弟と思われる難波天皇の弟彦と日向髪長媛の子の大日下が大別のあと皇位を継承したと思われ、妹の若日下部姫を妃にすることで、大長谷が難波天皇を受け継ぎ、倭得玉彦と子の弟彦の磯城朝廷から続いた王朝が大日下と従弟の尾治金連を最後に皇室から排除されたようだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿