2022年11月7日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書4

  この項は歌が多いので原文は後にする。

「阿岐豆野」の地名を歌で詠み、「夜麻登能久尓袁阿岐豆志麻」のように命名説話にしているが、「阿岐豆」は「速秋津日子」・「豐秋津師比賣」のようにもともと速国・豊国で、また、『古事記』では「やまと」を「倭」(神倭天皇・大倭豐秋津島など天皇名を含む地名)、「山處」(歌中で情景?)、「山戸」(香山の戸臣・羽山の戸神?)、「夜麻登」(人名の意富夜麻登久迩阿禮比賣・夜麻登登母母曾毘賣)とあり、「夜麻登」は『日本書紀』の「倭」を「やまと」と記述している。

もともとの「夜麻登比賣」に『日本書紀』が「倭」を使ったか、『古事記』が「倭」を「夜麻登」と読んだかであるが、『舊事本紀』は「尾張大倭媛生八坂入彦命」、「大海姫命・・・皇妃誕生一男二女召八坂入彦命」と「倭」を「海」「あま」と読んだように、『日本書紀』の「倭」・「あま」を『古事記』が「夜麻登」と読んだと考えられ、『古事記』では「淡道御井宮」の「和知都美」の娘の「繩伊呂泥」が「意富夜麻登久迩阿禮比賣」で、娘が「夜麻登登母母曾毘賣」、兄弟に「倭飛羽矢若屋比賣」もいるのに、「倭」と記述せず、すなわち、『古事記』の神武天皇は最初から「大和」の王者になったので、「倭」を現代も考えるように「夜麻登」と読んだと思われる。

すなわち、「倭飛羽矢若屋比賣」は若八比賣・若倭比賣で琵琶湖の倭だから倭を使い、夜麻登と記述する姫は大和に住んだ姫だったことを示す。

『日本書紀』は「やまと」を「日本」(天皇名と日本童男と外交上の国名)、「倭」(倭国や人名や倭直などの姓)、「山門」(?山の門縣)とあり、景行天皇の皇子に稚倭根子がいて、倭を日本に書き換えた訳ではなく、畿内の政権の表意文字に日本国を使用し、皇太子の倭武は「日本」で他は「倭」をそのまま使用し、『日本書紀』も「あま」の表意文字に「倭」を使ったことが解り、三国の魂神→大国・三国の御魂神→倭大國魂とあるように、日本大國魂神も大国の神を国家が祀る神になったことを示している。

すなわち、扶桑国の雄略朝はそれ以前の朝廷の国家を「日本」として、違いを示したが、葛城氏は『三国志』や『漢書』の倭を日本の表意文字に選び、蘇我氏は日本を配下にしたので国名を、中国が理解する倭国を国名に使用して、物部氏や平群氏の日本と認識が別れたと考えられる。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「亦一時天皇遊行到於美和河之時河邊有洗衣童女其容姿甚麗天皇問其童女汝者誰子荅白巳名謂引田部赤猪子尓令詔者汝不嫁夫今將喚而還坐於宮故其赤猪子仰待天皇之命既經八十歳於是赤猪子以爲望命之間巳經多年姿体痩萎更無所恃然非顯待情不忍於悒而令持百取之札()代物参出貢獻然天皇既志()先所命之事問其赤猪子曰汝者誰老女何由以参來尓赤猪子荅白其年其月被天皇之命仰待大命至()今日經八十歳今容姿既耆更無所恃然顯白己志以参出耳於是天皇大驚吾既忘先事然汝守志待命徒過盛年是甚受()悲心裏欲婚憚其亟老不得成婚而賜御歌其歌曰美母呂能伊都加斯賀母登加斯賀母登由々斯伎加母加志波良袁登賣又歌曰比氣多能和加久流須婆良和加久閇尓韋泥弖麻斯母能淤伊尓祁流加母尓赤猪子之泣涙悉濕其所服之丹揩袖荅其大御歌而歌曰美母召()尓都久夜多麻加岐都岐阿麻斯多尓加母余良牟加微能美夜比登又歌曰久佐迦延能伊理延能波知須波那婆知須微能佐加理毘登登母志岐召()加母尓多禄給其老女以返遣也故此四歌者志都歌也 天皇幸行吉野宮之時吉野川之濵有童女其形姿美麗故婚是童女而還坐於宮後更亦幸行吉野之時留其童女之所過()於其家()立大御呉()床而坐其御呉()床弾御琴令()爲儛其嬢子尓因其嬢子之好儛作御歌其歌曰阿具良韋能加微能美弖母知比久許登尓麻比須流表()美那登許余尓母加母即幸阿岐豆野而御獦之時天皇坐御呉()床尓()咋御腕即蜻蛉來咋其()而飛(訓蜻蛉云阿岐豆也)於是作御歌其歌曰美延斯怒能表()牟々漏賀多氣尓志斯布須登多礼曽意富麻弊尓麻表()須夜須美斯志和賀淤富岐美能斯志麻都登阿具良尓伊麻志斯漏多閇能蘇弖岐蘇那布多古牟良尓阿牟加岐都岐曽能阿牟表()阿岐豆波夜具比加久能基()登那尓淤波牟登蘇良美都夜麻登能久尓表()阿岐豆志麻登布故自其時号其野謂阿岐豆野也又一時天皇登幸葛城之山上尓大猪出即天皇以鳴鏑射其猪之時其猪怒而宇多岐依來故天皇畏其宇多岐登坐榛上尓歌曰夜須美斯志和賀意富岐美能阿蘇婆志斯志斯能夜美斯志能宇多岐加斯古美和賀尓宜能煩理斯阿理表()能波理能紀能延陀 」、【またある時、天皇が遊行して、美和河についた時、河邊で衣を洗う童女がいた。その容姿がとても麗しかった。天皇はその童女に「お前は誰の子だ。」と問いかけると「私の名は引田部の赤猪子と言う。」と答えた。それで、「お前は夫に嫁ぐな。今に呼び寄せるから」と言って、宮に還った。それで、その赤猪子は、天皇の命令を待って、既に八十歳を経た。このように赤猪子は命令を待ち望む間にもう多くの年を経てしまって、姿形はやせ衰え、もう頼みとするところも無い。それでも待つ気持ちを持たずには気が晴れず忍びないと思って、たくさんの引き出物を持たせて、参上しました。それなのに天皇は、もう先に命令した事を忘れて、その赤猪子に「お前はどこの婆さんだ。どうしてやって来た」と言った。それで赤猪子は、「あの時、天皇の命令を受けて、大命を待ち望んで、今日までに八十歳を経てしまった。今では容姿は老いて、もうあてにする所が無い。それでも自分の気持ちを言いたくてやって来た。」と答えた。それで天皇は、とても驚いて、「私はもう前の事を忘れていた。それなのにお前は言いつけを守って召集の命令を待って、わけもなく盛りを過ごし、とても可哀そうだ。」と言って、心の裏では結婚しようと思ったが、年老いているので、婚姻できず歌()を与えた。又歌()った。それで赤猪子の涙が着た丹揩の袖を濡らした。その歌に答えて歌()った。又歌()った。それで多くの俸禄を老女に与えて、返した。それで、この四歌は志都歌だ。天皇が吉野宮に行った時、吉野川の辺に童女がいて姿形は美麗だった。それで、この童女と過ごして、宮に還った。その後、亦、吉野に行った時、童女と遇った所に留まって、そこに呉床を組み立てて、坐って、琴を弾いて、その娘に舞わせた。それで娘が上手く舞ったので、歌()を創った。それで阿岐豆野に行って、狩りをした時、天皇が休憩した。そこに虻が腕を噛み、それで、蜻蛉が来てその虻を咥えて飛び去った。それで歌()を創った。それで、その時からその野を阿岐豆野と名付けた。また、ある時、天皇が葛城の山の上に登った。そこに大猪が出てきた。それで天皇は鳴鏑でその猪を射た時、その猪が怒って、うなって来た。それで、天皇はそのうなり声を恐れて、榛の上に登って歌()った。】と訳した。

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