2022年11月14日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』清寧天皇1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱白髮武廣國押稚日本根子尊者大泊瀨幼武天皇第三太子也母曰葛城韓媛葛城國大臣之女也天皇生而白髮長而愛民矣大泊瀨天皇於諸子中特所霊異矣二十二年以白髮武廣國押稚日本根子皇子立為太子二十三年八月大泊瀨天皇崩妃吉備稚媛隂謂劣子星川皇子曰欲登天下之位先取大藏之官矣長子磐城皇子聽母夫人教其幼子語曰皇太子雖是我弟安奇欺乎不可為乎星川皇子不聽輙隨母夫人之意遂取大藏官鎖閇外門戒備乎難權勢自由費用官物於是大伴室屋大連言於東漢掬直曰大泊瀨天皇之遺詔今將至矣冝從遺詔奉皇太子乃發軍士圍繞大藏自外拒閇縱火燔殺是時吉備稚媛磐城皇子異父兄々君城丘前來目隨星川皇子而被燔殺矣是月吉備上道臣等聞朝作乱思救其媛所生星川皇子率舩師四十艘來浮於海既而聞被燔死自海而歸也天皇即遣使嘖譲於上道臣等而奪其所賜山部也」、【諱は白髪武広国押稚日本根子、大泊瀨幼武天皇の第三子である。母を葛城韓媛といい、葛城円大臣の娘である。天皇は、生まれながらに白髪であった。成長してから人民をいつくしんだ。大泊瀨幼武天皇の多くの子の中で、特にふしぎで、変わったところがあった。二十二年、白髪武広国押稚日本根子を皇太子にした。二十三年八月に、大泊瀨天皇が崩じた。皇妃の吉備稚媛は、ひそかに幼い星川皇子に「皇位に登ろうと思うのなら、まず大蔵の役所を取りなさい」と語り、長子の磐城皇子は、母がその幼い皇子に教える言葉を聞いて「皇太子は弟だが、どうして欺くことができようか。してはならないことだ。」と言い、星川皇子はこれを聞かないで、たやすく母の意に従い、ついに大蔵の役所を取った。外門を閉ざし固めて、攻撃に備えた。権勢をほしいままにし、官物を勝手に使った。大伴室屋大連は、東漢掬直に「大泊瀨天皇の遺詔のことが、今やって来ようとしている。遺詔にしたがって皇太子を奉じなければならない。」と言い、兵士を動かして大蔵を取り囲んだ。外から防ぎ固めて、火をつけて焼き殺した。このとき、吉備稚媛と磐城皇子の異父兄の兄君と、城丘前来目も星川皇子と共に焼き殺された。この月、吉備上道臣らは、朝廷に乱あると聞いて、姫が生んだ星川皇子を救おうと思い、船軍四十艘を率いて海上にやって来たが、すでに皇子が焼き殺されたと聞いて、海路を帰った。天皇は使いを派遣して、上道臣らを咎め、その管理していた山部を召し上げた。】と訳した。

磐余若櫻朝の皇位継承は纏向朝五十琴彦の娘の多遅麻の妃の安媛、五十琴宿祢の妻の多遅麻の娘の香兒媛(?山無媛)の子と香兒媛の兄弟の印葉の子達で継承され、矢田皇女、忍坂大中比賣に婿入りすることで平群氏が皇位継承権を得たが、葛城氏の皇位継承権は木国造の荒河戸畔と同地域に住むと思われる丹羽君の祖の大荒田の娘で建稲種の妃の玉姫の子の金田屋野姫と輕嶋明宮天皇品陀真若の子の仲姫、仲姫の子の大雀と兄弟の荒田皇女、恐らく、その子が荒田彦で難波朝天皇の尾張氏、恐らく、針名根が葛城部を定めて荒田彦を葛城国造とし、娘の葛比売を長柄襲津彦が妃に葛城襲津彦を生み、葛城襲津彦の孫、大雀の子の伊耶本和気に葛城襲津彦の孫に、淡海朝の後継者の羽田矢代宿禰の娘の黒比賣が妃になって葛城氏が皇位を簒奪した。

黒比賣は『日本書紀』では羽田矢代の娘と記述していて、八代は野洲の社のことで、市邊押磐が456年に殺されたのが「近江來田綿蛟屋野」で野洲の近郊で、市邊押磐は野洲の王だったことを示し、子達は山代に逃げ、山代内臣の子達でもあった事を示している。

そして、『古事記』は「大倭根子」と天皇の名前であるが、『舊事本紀』と『日本書紀』も稚日本根子と第二位の名前となっていて、『古事記』は意祁が記述した史書と思われるため、袁祁が伊波禮甕栗宮天皇の真鳥の皇太子の志毘を殺害して、後継者がない真鳥から皇位を奪い、角刺宮の飯豐王が即位し、皇太子が意祁になったと思われる。

平群臣之祖名志毘臣」と志毘は姓がない皇位継承者で、死亡時、志毘の子は皇太子になる年令に達していなかったと思われ、『日本書紀』は白髪末年を基準に飯豐王が「大倭根子」で白髪の真鳥を「稚倭根子」と記述し、「武廣國押」と『日本書紀』を記述した蘇我氏が吉備の反乱に乗じて仲国を奪取したようだ。


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