『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又天皇婚丸迩之佐都紀臣之女袁杼比賣幸行于春日之時媛女逢道即見幸行而逃隠岡邊故作御歌其歌曰表(袁)登賣能伊加久流表(袁)加袁加那須岐母伊本知母賀母須岐婆(波)奴流母能故号其岡謂全(金)鋤岡也又天皇(由)坐長谷之百枝槻下爲豊樂之時伊勢國之工(三)重妹(婇)指舉大御盞以獻尓其百枝槻葉落浮於大御盞其妹(婇)不知落葉浮於盞猶獻大御酒天皇者(看)行其浮盞之葉打伏其妹(婇)以刀刺死其頸將斬之時其妹(婇)白天皇曰莫殺吾身有應曰(白)事即歌曰麻岐牟久能比志呂乃美夜波阿佐比能比傳流美夜由布比能比賀氣流美夜多氣能泥能泥陀流美夜許能泥能泥婆布美夜々本尓余志伊岐弖(豆)岐能美夜麻紀佐久比能美加度尓比那閇夜尓淤斐陀弖流毛陀流都紀賀延(波)本波都延波阿米亦(袁)淤弊理那加都延波阿豆麻袁淤弊理志豆延波比那表(袁)淤弊理本都延能延能宇良婆波那加都延尓淤知布良婆閇那加都延能延能宇良婆(波)々斯毛都延尓淤知布良婆閇斯豆延能延能宇良婆波阿理岐奴能美弊能古賀佐々加(賀)世流美豆多麻宇岐尓宇岐志阿夫良淤知那豆佐比美那許表(袁)呂許袁呂尓許斯母阿夜尓加志古志多加比加流比能美古許登能加多理碁登母許表(袁)婆故獻此歌者赦其罪也尓大后歌其歌曰夜麻登能許能多氣知尓古陀加流伊知能都加佐尓比那閇夜尓淤斐陀弖流波毘召(呂)由都麻都婆岐曽賀波(婆)能比召(呂)理伊麻志曽能婆(波)那能弖理伊麻須多加比加流比能美古尓登余美岐多弖麻都良勢許登能加多理碁登母許表(袁)婆即天皇歌曰毛々志紀能淤富美夜比登波宇豆良登理比禮登理加氣弖麻那婆志良表(袁)由岐阿閇尓波須受米宇受須麻理韋弖祁布母加母佐加美豆久良斯多加比加流比能美夜比登許登能加多理碁登母許走(袁)婆此三歌者天語歌也故於此豊樂譽其三重妹(婇)(而)治(洽)多禄也是豊樂之日亦春日之袁杼比賣獻大御酒之時天皇歌曰美那曽々(斗)久淤美能(袁)登賣本陀理登良須母夫(本)陀理計(許)理加多久計(斗)良勢斯多賀多久夜賀多久計(斗)良勢本陀理計(斗)良須古此者宇岐歌也尓袁杼比賣獻歌其歌曰夜須美斯志和賀淤富岐美能阿佐計(斗)尓波伊余理陀多志田(由)布斗尓波伊余理陀多須知(和)岐豆紀賀斯多能伊多尓母賀阿世袁此者志都歌也天皇御年壱佰弐拾肆歳(己巳年八月九日崩也)御陵在河内之多治比高(鸇)嶋也」、【また、天皇は、丸迩の佐都紀臣の娘の袁杼比賣の婚姻のため、春日に行った時、乙女と道で逢った。それで、幸行を見て、岡の辺に逃げ隠れた。それで、歌(略)を創った。それで、その岡を金鋤岡と名付けた。又、天皇は、長谷の百枝槻の下にいて、宴会した時、伊勢の国の三重の婇が、大盞を捧げて献上した。それでその百枝槻の葉が、落ちて大盞に浮かんだ。その婇は、落葉が盞に浮かんでいることを知らず、酒を献上した。天皇はその盞に浮かんだ葉を見て、その婇をうつ伏せにして、刀を頚に突き立てて、斬ろうとした時、その婇は、天皇に、「私を殺さないでください。言いたい事が有ります。」と言って、歌(略)った。それで、この歌を献上したら、その罪は赦された。そこで大后が歌(略)った。それで天皇は歌(略)った。この三歌は天語歌だ。それで、この宴会の三重の婇を誉めて、多くの禄を与えた。また、この宴会の日に、春日の袁杼比賣が、酒を献上した時、天皇は歌(略)った。これは宇岐歌だ。そこで袁杼比賣が、歌(略)を献上した。これは志都歌だ。天皇の年齢は、壹佰貳拾肆歳に己巳の年の八月九日に崩じた。陵は河内の多治比の高鸇島にある。】と訳した。
『古事記』は輕島明宮朝では丸迩意富美、難波朝から丸迩臣口子、多治比柴垣宮朝丸迩許碁登臣、長谷朝倉宮朝丸迩佐都紀臣と記述しているが、『日本書紀』では和珥臣祖日觸使主、和珥臣祖口子臣、和珥臣祖難波根子武振熊、大宅臣祖木事、春日和珥臣深目のように「富美・使主」と臣を使わず、難波朝から『古事記』は臣、『日本書紀』は長谷朝倉宮朝から臣である。
『日本書紀』は平群氏、『古事記』は葛城氏が記述したのであるから、難波河内朝は武内大臣と記述されるように臣を使い、磐余稚櫻宮朝時は圓大使主、長谷朝倉宮朝前紀では圓大臣と書き分けるように磐余若櫻宮朝から遠飛鳥宮朝までとそれ以降と政権交代があった事を示している。
そのため、統一朝廷の長谷朝倉宮朝元年にはそれ以前から春日の和珥使主だった深目を春日和珥臣と記述し、難波根子の和珥臣を大宅臣と賜姓した可能性があり、中臣烏賊津連は磐余若櫻宮朝・遠飛鳥宮朝では中臣烏賊津使主と使主を使い、中臣烏賊津が襲津彦の東征に協力したから、長谷朝倉宮朝になると中臣連を賜姓されて、「中臣連遠祖天兒屋」と記述されている。
すなわち、姓は王朝統一した長谷朝倉宮朝から確立されたことを示している。
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