2023年10月30日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇3

東漢直の初出は掬、463年の雄略七年に新漢の技術者を献上したとある。倭王は漢直の祖の阿知使主とあるように、漢直だった。倭王興から武に替わったのは477年、「倭國遣使獻方物」を最後に翌年、昇明二年に武が「遣使上表」と記述される。親族と記述されず、『日本書紀』も「白髮皇子爲皇太子」と記述する。「爲皇太子」は倭国の王朝交代だった。従って、漢直から東漢直掬、武に倭王が交代したことを意味する。そして、仁賢七年に「爲皇太子」、これは、武烈七年505年と考えられ、石井が筑紫君倭王である。証拠は無いが、武王が502年まで出現する。そして、528年継体二二年に石井薨後、「筑紫君葛子恐坐父誅」と、子の葛子が継承した。崇峻五年に「東漢直駒東漢直磐井子也」と記述されている。

そして、556年欽明十七年に、「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と記述される。火君は筑紫君石井の子で火中君葛子の弟、皇太弟なのだろう。554年欽明十五年に、「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と倭国の王朝交代を記述している。火中君葛子の子が薨じ、火君の東漢直糠兒が皇太弟になったのだろう。そして、568年、欽明廿九年「立爲皇太子」と東漢坂上直が皇太子、子の麻呂が東漢直駒と考えられる。馬子に殺害された駒、その子の法興帝がまだ若く、693年、推古元年に弟の聖徳帝が皇太弟となったのだろう。東漢直駒の妃の馬子の娘の河上娘が鬼前太后だと考えられる。

570年、欽明卅一年春三月甲申朔に2代目稻目の天国押波流岐広庭・上殖葉が薨じた。そして、571年、欽明三二年四月是月に「天皇遂崩于内寝時年若干」と記述される。また、敏達元年歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌に「物部大市御狩連公為大連」と572年4月に即位している。すなわち、尾輿は桧隈高田皇子の娘日影姫との子に皇位を継承したが若干年の在位で崩じた。そのため、皇太子だった御狩、稲目の孫の婿が敏達5年に即位したと考えられる。在位32年で「朕承帝業若干年」のように若干年とは言わない。欽明即位時にも、「卽天皇位時年若干」と記述するように、即位時に20歳代、欽明三二年なら50代で「年若干」ではない。「若干年」と記述される天皇は清寧天皇が在位5年、若干年で合致する。允恭天皇は大草香と考えられ、長男の目弱王が死亡時七歳で、父大草香も若く、これも合致する。在位四二年で若干とは言わない。

2023年10月27日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇2

  秦王国は反百濟で、任那の秦王国領の継続を願い、倭王稲目は親百濟で、任那を百濟に与えようとした。秦王国は新羅を制御できなくなり、倭王稲目は新羅領の侵犯までの力が無かったようだ。結果的に俀国は親新羅・親唐、倭国は親百濟で、652年、義慈王十三年に「王與倭國通好」と同盟した。すなわち、倭と百濟、対俀と新羅、対任那復興の秦王国との三竦みの状態だったことを示している。

545年、欽明六年「高麗大亂被誅殺者衆」は548年の事のようだ。545年の『三国史記』には「王薨號為安原王」が記述されるのみだ。それに続いて、『梁書』「云安原以大淸二年卒以其子為寧東將軍高句麗王樂浪公誤也」と記述する。大乱など無く、548年、陽原王四年に「以濊兵六千攻百濟獨山城新羅將軍朱珍來援故不克而退」の記事がある。『三国史記』の安原王薨は「是梁大同十一年東魏武定三年也」と東魏の記録と『日本書紀』の記録によるのだろう。550年の欽明十一年二月辛巳朔庚寅は正しい日干支だが、「百濟本記云三月十二日辛酉」は3月11日である。2月1日を1月30日朔と考えた証拠である。

欽明十四年五月戊辰朔の「河内國言泉郡茅渟海中有梵音」は428年の説話と考えている。前年、大雀大別の薨が427年、丁卯年八月十五日だった。そこに寺が在って、大別死後に像が見つかったから、大別の寺に奉納したと考えた。敏達六年十一月庚午朔の「獻經論若干卷并律師禪師比丘尼咒禁師造佛工造寺工六人」の記事も527年の説話の可能性がある。造寺工が来る前に寺があったのは奇異で、大別王に百濟が技術者を送って、寺を造った。しかし、大別王が薨じ、その後の11月に、像を造った寺に安置したと考えられる。

555年、欽明十六年に「吉備五郡置白猪屯倉」と屯倉を置いた。屯倉は直轄地で、日本の統治形態は有力者が各氏族との姻戚関係で影響力を持って、労役させたと思われる。この、吉備の屯倉は稲目と尾輿の配下と思われる穂積氏の直轄地ということになる。127年、景行五七年に「諸國興田部屯倉」と屯倉を置いた。『古事記』は「倭屯家」、『舊事本紀』は記述されない。倭屯家は邪馬台国を統治する大倭王の住む地域に屯倉を置いたということだ。『日本書紀』では「賜膳大伴部」を賜姓され、膳夫は浮羽の人物である。すなわち、九州に屯倉ができたことを示し、倭国の記事と解る。仁徳即位前に額田大中彦が要求したのも、「倭屯田及屯倉」である。同じ頃と思われる、息長帯日売が「百濟國渡屯家」、依網屯倉も置き、日臣が置いたのだろうか。

『古事記』に記述されない、村合屯倉、倭蒋代屯倉など、多数の屯倉が記述され、日臣が侵略したのだろう。まさに名目上倭王武の配下の日臣の「東征毛人五十五國」の結果の55の国の屯倉と考えられる。そして、石井の敗北で、糟屋屯倉、すなわち、倭国の首都を直轄地にした初代稲目の建小広国押楯が倭王となった。そして、536年、宣化元年に論功で、蘇我大臣稻目宿禰、尾張連、麁鹿火を裏切ったと思われる新家連、阿倍臣が得た屯倉から、筑紫に兵糧を集めた。稲目は更に、備前兒嶋郡や倭國高市郡も得たようだ。倭国と畿内政権の統治形態の差が屯倉のようだ。

2023年10月25日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇1

  欽明七年春正月甲辰朔と欽明九年正月癸巳朔は12月晦日、共に百濟との交渉で、九州の記事のようだ。朝鮮半島では、倭国は500年、炤知麻立干二十二年に「倭人攻陷長峰鎭」と侵略後では、608年に隋文林郞裴淸が倭国に向かったことの記事があるだけだ。実質の外交は653年、 義慈王十三年に「王與倭國通好」、そして、白村江の戦乱につながる。500年の倭王は武王で、478年順帝昇明二年に「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國渡平海北九十五國」と述べる。九州の眾夷をまとめ、東の毛人五十五国は眾夷の日臣大伴氏を武王の配下と見做したのだろう。しかし、大伴氏が安定を崩し、倭国が分裂した。そして、戦乱の結果、若い継体帝の孫と孫娘の婿が残った。それで、540年に講和し、541年に百濟と新羅もそれに倣った。

倭王武とその姻戚と思われる大伴室屋によって、朝鮮半島と日本列島南部、関東まで、名目上手中にした。478年に『宋書』の順帝昇明二年の「遣使上表」の上表文で宣言していた。ところが、大伴室屋朝廷が崩壊し、意祁は新羅の宗主国としての秦・扶桑国を復興した。新羅は宗主国秦が復興し、倭が新羅を侵略できなくなったようだ。500年炤知麻立干二十二年に「倭人攻陷長峰鎭」以降、倭の侵略が無い。そして、倭王武が502年、天監元年「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と綬号されているので、その後、石井が継承している。石井は綬号されていないので、綬号できる力が無くなったようだ。その結果、新羅は弱い秦と倭を見ると、503年、智證麻立干四年に、「始祖創業已來國名未定・・・號新羅國」と独立した。国号が無かったということは、国家として認められていなかったことを示す。そして、石井が薨じて、倭が分裂した。すると、秦には元号があったので、それに倣って、536年、法興王二十三年に「始稱年號云建元元年」と建元元年を宣言した。しかし、551年眞興王十二年の「改元開國」以降取りやめた。それは、北齊武成皇帝河清四年、565年、眞興王二十六年に「使持節東夷校尉樂浪郡公新羅王」の綬号の為だ。綬号される国に元号は有り得ない。日本では、倭国が綬号した、が、畿内政権は中国と対等だったから、元号が続いたと考えられる。倭国は、大業六年には「倭國遣使貢方物」と朝貢したが、倭が政権に就くと、『舊唐書』貞観五年、「不宣朝命而還」と決裂している。そして、俀国も「法興元」という元号を使い、それは隋に臣従してないから使った。

2023年10月23日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇前紀2

  江田船山古墳から出土した『銀錯銘大刀』の銘文に「治天下獲□□□鹵大王世」と不明な大王の名が出現する。この古墳から、523年に崩じた百済武寧王の陵から出土した垂飾付耳飾りと同型飾りが出土した。当然、被葬者の「事典曹人名无利弖」は百済王→大王→被葬者なので、それ以降の死亡と思われる。この時、江田船山を支配した王が「獲□□□鹵」大王である。九州の大王なので、俀国か倭国の王や皇太子である。蘇我氏倭国王、初代稲目の子に『古事記』に記述されない上殖葉皇子がいる。「かみうえは」・「獲・み・う・え・歯」と考えられる。そして、『古事記』に記述されないということは、何処か他に記述されているということだ。それが、橘仲皇女の娘の石姫に婿入りした天國排開廣庭なのではないだろうか。上殖葉は偉那公の先、稲目も偉那の目大臣で、よく符合する。

日本天皇及太子皇子倶崩薨」を記述した、『百濟本記』と『梁書』が食い違っていた。『三国史記』内でも525年の聖王三年「春二月與新羅交聘」と541年眞興王二年「春三月百濟遣使請和許之」と食い違う。百濟の525年の資料が違うようだ。500年、炤知麻立干二十二年「倭人攻陷長峰鎭」以降、倭王武が新羅を制圧した。倭は百濟の宗主国、そして、新羅も破り戦乱が無かった。そんな中で、交聘・請和は奇妙だ。541年なら、盟主倭が破れ、百濟に後ろ盾が無くなった。それに対して、力を付けた新体制倭国が調停者となって、講和したのなら理解できる。元年の「高麗百濟新羅任那並遣使獻並修貢職召集秦人」は新体制倭国王の稲目から見た記述だ。秦人は秦王国の秦人を意味し、秦王国が名目上の中心となって、講和したと考えられる。

九月乙亥朔己卯に「遂不爲罪」と、襲名した大伴金村を不問にした。539年12月以前、恐らく3月に「難波祝津宮」に尾輿が継体帝の領地の難波に出向いた。そして、継体帝金村大連天皇を追い詰めたようだ。理由は、男大迹天皇六年の任那四縣の制圧に新羅と宗主国の旧倭国が怒った。それで、石井との戦乱を引き起こしたのは、金村継体帝の責任と追い詰め、殺害したと思われる。そして、山田皇后が尾輿に皇位を譲り、大臣も稲目が継承した。大伴目大連は、539年12月以降は大臣である。そして、大伴氏は許されて、欽明二三年に大將軍大伴連狹手彦と活躍した。539年頃は若かったと考えられ、山田皇后の孫、539年3月に薨じた皇太子の子なのだろう。

2023年10月20日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇前紀1

欽明天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に539年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申に記述がある。「尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と、尾輿が天皇で、目が大臣である。『日本書紀』には欽明天皇即位前紀に「大伴金村大連物部尾輿大連爲大連及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣」とある。すなわち、539年11月から12月に、大伴金村目大連天皇から尾輿大連天皇への継承があった。また、()目が大臣だったと記述している。そして、539年12月に、尾輿大連天皇、目大臣、すなわち、稲目大臣の体制になった。

539年に大伴金村目大連天皇と荒山が崩じた。そして、皇太子の荒山の子の尾輿が大連天皇に即位した。また、荒山の婿の2代目の目連の天国押波流岐広庭が目大臣、2代目稲目になった。このように想定できる。荒山の姉妹の橘中比賣を初代稲目の建小広国押楯が妃にし、娘石比賣と小石比賣を荒山の子の尾輿が妃にする、皇位奪取の常套手段だ。金村の妃の山田皇后が、金村崩後も実権を持ち、自ら皇位を継承しようとした。娘婿の初代稲目の建小広国押楯の天国押波流岐広庭に天皇を引き継ごうと考えたと考えられる。それで、即位前の荒山が薨じ、初代稲目の建小広国押楯も同時期に薨じた。

『舊事本紀』「天孫本紀」に尾輿の母の記述が無い。しかし、『古事記』に無く、『日本書紀』に、広国押建金日の妃が記述される。『古事記』に無く、『日本書紀』に記述される人物は継体帝本人やその子の妃と考えられる。億計の娘の「春日山田皇女」、物部木蓮子の娘の「宅媛」である。許勢男人の娘の「紗手媛、香香有媛」は『日本書紀』にも『古事記』にも記述されない。従って、継体帝目大連の娘で、袁本杼の子の広国押建金日が婿入りして、大臣を継承したのだろう。

継体帝目大連の娘の紗手媛、香香有媛の子は広国押建金日と建小広国押楯と考えられる。目子郎女の娘婿となり、意乎巳連を引き継いだ大臣である。そして、継体帝目大連の子の荒山は麁鹿火の本家の木蓮子の娘の宅媛に婿入りした。すなわち、荒山は秦王国と扶桑国の後継者である。金村天皇、荒山皇太子は戦乱での死亡したため、当然尾輿は若く、子は13歳以下だったと思われる。そのため、皇后の兄弟の稲目が皇太子になったと考えられる。

稲目の孫の豊御食炊屋比売は628年戊子三月十五日癸丑に崩じている。豊御食炊屋比売は559年生まれ、敏達五年、18歳で皇后だ。すると、初代稲目の娘の堅鹽媛は欽明元年、540年に18歳程度である。堅鹽媛の兄弟の2代目稲目大臣は10代、欽明尾輿天皇は20代だろう。

2023年10月18日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 宣化天皇

宣化天皇にも大連を「帝皇本紀」は記述しないが、「天孫本紀」は押甲と荒山を記述する。『日本書紀』は宣化天皇元年二月壬申朔「以大伴金村大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連並如故又以蘇我稻目宿禰爲大臣」と記述する。すなわち、秦王国金村大連天皇、扶桑国麁鹿火大連天皇、女王国稻目大臣である。すなわち、麁鹿火を襲名した押甲大連扶桑国天皇、すると、荒山大連は女王国天皇以外残っていない。押甲は麁鹿火の弟、荒山は目大連金村の子、もしくは、婿である。目大連の子に金連が存在し、借馬連の祖だが、目大連の弟にも記述される。また、金連は尾張氏にも存在し、曾孫が紀伊尾張連の祖である。広国押建金日・建小広国押楯は尾張氏の祖の妹の子である。尾張氏は既に存在し、この祖は紀伊尾張氏と考えられ、金連を襲名したようだ。

また、建小広国押楯は袁本杼の子で広国押建金日の兄弟、すなわち、巨勢大臣の子でもある。『古事記』は大臣の系図だったが、広国押建金日の後継者が沼名倉太玉敷だった。すなわち、意祁の娘の手白髮は、前項で倭比賣が袁本杼の子の妃と述べたように、広国押建金日の妃の可能性が高い。それは、目子郎女の兄の尾張連の祖の凡連が意乎巳連を引き継いだと考えられるからである。そして、広国押建金日から沼名倉太玉敷が大臣を継承した。しかし、沼名倉太玉敷は49年も大臣として生きていて、奇異である。当然3代程度の襲名があったと考えるべきだろう。

『日本書紀』は大臣を稻目と記述している。すなわち、初代稲目が女王国大臣に就位したと考えられる。3代目が沼名倉太玉敷なのだから、2代目が天国押波流岐広庭、初代は建小広国押楯である。建小広国押楯の妃は意祁の子の橘中比賣、『古事記』に記述されない。すなわち、橘中比賣は意祁の子ではなく大伴金村大連天皇の子だ。その義子が建小広国押楯、初代稲目である。そして、橘中比賣の娘が石比賣、岐多斯比賣や小兄比賣も弓削連の祖の倭古連の娘達と思われる。倭古連は目大連の子で建小広国押楯と考えられ、孫が守屋弓削大連である。

三月壬寅朔の「有司請立皇后」は541年3月晦日の説話と考えられる。明要改元の年で、前皇后が筑紫で崩じたのではないだろうか。五月辛丑朔「収藏穀稼蓄積儲粮」と筑紫の兵糧を奪ったようで、争いがあったと思われる。そして、七月に「物部麁鹿火大連薨」と扶桑国が崩壊した。二年冬十月壬辰朔は9月晦日で、「天皇以新羅冦於任那」「助任那」と九州の暦だ。

539年二月乙酉朔甲午に大伴金村大連継体天皇が崩じた。おそらく、皇太子も共に崩じたのだろう。「廿五年三月日本天皇及太子皇子倶崩薨」と記述される。初代稲目大臣建小広国押楯も妃の橘中比賣も女王の太郎女、皇太子の太郎子も崩じたのだろう。大倭國身狹桃花鳥坂上陵は野洲近辺のことと考えられる。『古事記』には建小広国押楯も天国押波流岐広庭にも陵が記述されない。襲名した人物は1つの陵墓にまとめられ、末代の一人に代々の霊がある陵墓なのだろう。

2023年10月16日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安閑天皇

531年の安閑元年夏四月癸丑朔、元年冬十月庚戌朔甲子は534年の日干支である。534年が507年元年の継体28年を示している。すなわち、534年小長谷若雀が「天皇崩于磐余玉穗宮」、535年安閑「天皇崩于勾金橋宮」である。秋七月辛巳朔は534年6月晦日で、九州の暦で俀国か倭国の説話と思われる。

閏十二月己卯朔壬午「幸於三嶋」は恐らく534年10月晦日と考えられる。それ以外なら、529年と539年にあるのみである。九州の暦で三島は三潴郡の三島神社あたりの事だろうか。九月甲辰朔丙午「詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税も8月晦日で九州の暦である。桜井田部連の祖は穴門国造と同祖、犬養部は筑紫、豐國、火國などに置かれた。難波吉士は日香香の子孫、曾都毘古の神武東征の倭國造と同祖で、日臣と考えられる。

安閑二年12月の「以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬于是陵」は勾金橋宮で戦乱があったのだろうか。広国押建金日は三月十三日、安閑天皇が「十二月癸酉朔己丑」に崩じた。さらに、皇后が同時に、恐らく皇后の後継者の神前皇女も同時に薨じて葬られた。勾金橋宮が落城したのだろうか。

神前皇女は坂田大跨王の娘の廣媛の娘で、おそらく、坂田公の先の中皇子の娘か孫である。袁本杼の妃が多数記述される。しかし、広国押建金日と天國押波流岐廣庭の薨年代の差が1世代以上ある。袁本杼の子や孫の妃が記述されているようだ。すなわち、春日山田皇女や神前皇女の初代袁本杼の娘は、490年の大長谷若建継承から507年の大臣就任までの第一世代の子達だ。そして、507年に倭彦の妹と思われる倭比賣たちを妃にする、袁本杼の子の世代で分けられる。

三尾君の娘の倭比賣の子に大郎女、三尾君の娘の若比賣の子に大郎子を記述するが、名が無い。これは王位在位中に殺害され、後継者が名を付けられなかったことを意味する。すなわち、535年の「春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬」以降に女王国王の大郎女や、その兄弟の大郎子が殺害されたと考えられる。それが、継体25年539年の「日本天皇及太子皇子倶崩薨」の可能性が高い。

535年の「春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬」の春日山田皇女は、2代目麁鹿火の小長谷若雀の妃である。継体帝目大連の妃の春日山田皇后は欽明天皇即位前紀に記述される。欽明の即位の時に山田皇后に即位を請願したが断られている。おそらく、実態は逆で、欽明天皇が奪ったのだろう。後継者の目連は大臣、山田皇后が即位すれば、目大臣が大連になれたと思う。

2023年10月13日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安閑天皇前紀

  安閑天皇の大連を「帝皇本紀」は記述しないが、「天孫本紀」は麁鹿火と記述する。『日本書紀』は安閑天皇即位前紀に「以大伴大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連」と記述する。すなわち、いつ大連になったか記述せず、前代から継続中である。大伴大連は秦王国の継体帝元年「以大伴金村大連爲大連」、539年が継体25年なので515年と考えられる。511年、実際は3年ずれて514年と思われる五年冬十月に、「山背筒城」へ遷都して、根王の娘の廣媛を妃に、そして、515年に朝廷を開いたと考えられる。山代、難波の天皇根子だ。麁鹿火は、扶桑国麁鹿火天皇元年507年に「物部麁鹿火大連爲大連」と天皇になった。

秦王国継体帝は「廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」から、継体25年539年崩である。後継天皇は「歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申尾輿連公為大連」、巳未は539年だ。扶桑国麁鹿火天皇崩は「秋七月物部麁鹿火大連薨是年也太歳丙辰」と536年である。536年は宣化元年で、天皇は「帝皇本紀」に無い、物部氏非公認の押甲と荒山である。

すなわち、宣化天皇期は2朝廷以上の分裂ということが解る。荒山は目大連の子、押甲は麁鹿火の弟、すなわち、麁鹿火の後継者、麁鹿火を襲名したと考えられる。それは、1代目麁鹿火の小長谷若雀、2代目麁鹿火の『古事記』に記述されない「春日山田皇女」を皇后にした麁鹿火だ。そして、3代目麁鹿火の押甲は536年に崩じた。1代目麁鹿火の小長谷若雀は534年「天皇廿八年歳次甲寅崩」、甲寅は534年である。すなわち、1代目小長谷若雀が534年、小長谷若雀の妃の皇太后が535年、2代目が536年に相次いで崩じている。まさに、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」で、継体帝と子の荒山が扶桑国を滅ぼしたのだろう。

広国押建金日は袁本杼と尾張連の祖の凢連の妹との子だ。『紀氏家牒』に「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢家軽里星河辺故名川辺宿祢男巨勢川上宿祢男巨勢男人宿祢」とある。袁本杼・男人は河辺の出身だ。そして、蘇我石河宿祢は「蘇我臣川辺臣之祖也」と後に川辺臣を引き継ぐ、後に川辺が地盤となる。川辺王の巨勢川辺宿祢は亦の名が軽部宿祢、巨勢伊刀は軽部臣の祖である。「木梨之輕太子御名代定輕部爲」とあるように、軽部は允恭天皇時に制定された。そして、「蘇我石河宿祢男奉仕履中反正允恭安康雄賂五代朝」とあるように蘇我石河宿祢より後に川辺臣を賜姓される。

すなわち、蘇我氏は巨勢氏から川辺臣を引き継いだ。それが、広国押建金日か建小廣國押楯ということだ。広国押建金日は「乙卯年三月十三日」535年に薨で、安閑天皇(皇太后)は「十二月癸酉朔己丑」で異なる。広国押建金日は529年継体二三年「九月巨勢男人大臣薨」と袁本杼から大臣を引き継いだと思われる。広国押建金日は470年代の雄略期の生まれと思われる。川辺臣を賜姓される蘇我石河宿祢が統治した、軽里星河辺で生まれたことと符合する。

2023年10月11日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇2

  南海中耽羅人初通百濟國」は498年東城王二十年八月の「王以耽羅不修貢賦」のことと思われる。それを、仁賢天皇十一年を意祁天皇(武烈天皇)11年目に記述したのだろうか。朝鮮記事は、原文が年号付き記事でない場合、精査が必要である。

天皇行至樟葉宮」、「遷都山背筒城」、「遷都弟國」は秦王国金村大連天皇の遷都と思われる。『古事記』の袁本杼の扶桑国の首都は伊波禮玉穗宮だろう。「勾大兄皇子親聘春日皇女」は麁鹿火の太子の2代目麁鹿火が春日皇女に婿入りしたのだろう。『古事記』には春日皇女が記述されないから、広国押建金日の妃ではない。

磐井の乱は目大連の子の荒山、孫の尾輿の王朝には影響しなかったようだ。『舊事本紀』には「磐余玉穗朝代石井者從新羅」と磐井が朝鮮で戦っていた人物とだけ記述される。すなわち、石井の乱は麁鹿火、袁本杼、蘇我氏が戦ったようだ。石井の乱で疲弊して、麁鹿火、袁本杼は没落し、目大連と尾輿は漁夫の利を得たことになる。 石井の乱で、袁本杼が527年丁未四月九日に薨じた。「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」の長門以東は稲目、筑紫は分割され、糟屋・豊は稲目、筑後と肥は葛子が領有したようだ。

勝てなかった扶桑国は稲目と金村によって、531年「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と壊滅状態となったようだ。そして、稲目と同盟した袁本杼の娘婿と思われる広国押建金日が528年、女国王大臣を継承した。小長谷若雀の後継は春日郎子の兄弟が麁鹿火を継承したと思われる。「廿八年歳次甲寅崩」は、その麁鹿火が534年に崩じた記録と考えられる。『舊事本紀』は、物部氏直系の天皇は歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申の「尾輿連公為大連」と記述する。すなわち、538年までは、大伴大連の朝廷だったことを示している。

531年「大歳辛亥三月是月高麗弑其王安」は同年『三国史記』「十三年夏五月王薨號爲安藏王」のようだ。しかし、薨じたのは5月で、『梁書』「七年,安卒」『三国史記』「梁書云安藏王在位第八年普通七年卒」と526年である。すなわち、この『三国史記』の531年記事は『日本書紀』からの引用と解る。また、『三国史記』は「十五年春三月王薨號為安原王」と545年に安原王の薨を記述する。『日本書紀』の安藏王薨の三月と合致する。しかし、『梁書』「太清二年延卒」『三国史記』「梁書云安原以大淸二年卒」と548年薨だ。すなわち、『百濟本記』は安原王の記事にあった、継体25年539年の継体帝崩御の記事を流用したのではないだろうか。539年には継体帝もその子と思われる荒山も崩じているようだ。

2023年10月9日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇1

499年に意祁の妃の春日大郎女が女王国王になったと思われる。そして、500年に小前から、意祁が扶桑国を継承した。おそらく、小前の後継者が成人していなかったのだろう。そして、489年に真鳥が薨じてから、506年まで真鳥の大臣の継承者は袁本杼になっていた。しかし、金村は大伴朝廷復興のため、丹波國桑田の倭彦を女王国王にして、後ろ盾になろうとしたと思われる。倭彦が小前大宿祢の可能性がある。

しかし、扶桑国の麁鹿火が507年、元年春正月辛酉朔丙寅に袁本杼と倭比賣の娘の大郎女を女国王と承認したようだ。女王国王の父の袁本杼は正式な大臣になった。倭比賣は近江國高嶋郡の三尾君加多夫の妹、袁本杼の母の振媛の姪、袁本杼の従妹と考えられる。袁本杼は大臣、三国と丹波大国王を兼ねた御太君に就位したと思われる。破れた金村天皇は樟葉宮に逃れたと考えられる。畿内は実力者3名が拮抗する状態となった。

507年2月、大伴金村大連は、「乃跪上天子鏡劔璽符再拜」と天皇の璽を手にして即位した。天皇の璽を拝むのは天皇で、517年継体元年2月の事と考えられる。最後に天皇の璽を手にしたのは小前大連天皇の顕宗天皇だ。倭彦から璽を手に入れたようだ。そして、「無嗣」の天皇を嘆くなら武烈天皇が身近なのに清寧天皇を嘆く。それは、小長谷若雀は、「辛亥三月聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」と531年崩で子がいるからだ。この時、武烈天皇は「無嗣」でなく、「無嗣」だったのは、大伴室屋大連天皇で、皇后が飯豐郎女、飯豐郎女は子を生まなかった。だから、大伴室屋が「毎州安置三種白髮部」と白髮部を置いた。部を置くのは天皇である。

三月庚申朔の「宜備禮儀奉迎手白香皇女」は袁本杼の説話と思われる。すなわち、手白香皇女の娘婿が天国押波流岐広庭稲目と考えられ、大臣を継承した。手白香皇女の夫の袁本杼は2代目の袁本杼と考えられる。広国押建金日の薨が535年、天国押波流岐広庭が571年と36年の1から2世代差がある。継体八年春正月の「太子妃春日皇女」の記事がある。これは、意祁が麻佐良、すなわち、初代麁鹿火の小長谷若雀が天皇である。その義兄弟の2代目麁鹿火安閑になる皇太子の妃の春日皇女である。廣國押建金日は『古事記』に妃を記述しないので、春日皇女の夫でない。

2023年10月7日土曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇前紀3

  袁本杼は大長谷若建の後継者である。春日の袁杼比賣・童女君の甥の可能性が高い。丸迩許碁登臣の子孫なのだろうか。女王国のNo.2で、女王国No.1は真鳥大連である。大長谷若建が489年己巳八月九日に薨じて、大臣の後を継いだ。麻佐良は義兄弟、2代目麁鹿火は甥、3代目麁鹿火は婿で後継者と考えられる。

袁本杼の先祖の若沼毛二俣は息長眞若中比賣の子である。若沼毛二俣は息長眞若中比賣の妹の弟日賣眞若比賣を妃に意富富杼王を生んだ。兄弟に忍坂大中津比賣がいる。しかし、忍坂大中比賣は応神天皇と迦具漏比賣の子で、意富富杼は忍坂大中比賣の姉妹に婿入りしたと思われる。『上宮記』逸文の系図では忍坂大中比賣と娘の衣通郎女が兄弟になっている。しかし、衣通郎女は男浅津間若子の恋愛対象で、忍坂大中比賣の妹と考えられる。すなわち、意富富杼は男淺津間若子宿禰と義兄弟で、波多君の祖、波多臣の祖の波多八代宿禰に婿入りした人物である。その意富富杼と同名なのが大臣を継承する袁本杼で、意富富杼と同地域の人物だ。

袁本杼は近江國高嶋郡三尾の人物で、三尾君加多夫の叔父と思われる。男大迹、すなわち大国の男人、彦太、すなわち大彦、大臣である。木蓮子は御太君の祖の娘を妃にしていている。三国の彦太君の祖の娘、すなわち、年齢からすると、彦太君の叔母を妃にし、麁鹿火は甥にあたる。袁本杼の父の彦主人は振媛の地の三國坂中井の主人、王・主の配下になっていたようだ。袁本杼は女国王と思われる、三尾君加多夫の妹の倭比賣に婿入りして、大郎女、すなわち、女国王を生んでいる。

扶桑国小長谷若雀天皇は竺紫君石井を荒甲(麁鹿火)に撃たせた。麁鹿火は金村に「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と同盟を迫ったようだ。長門以東は蘇我氏、「磐井掩據火豐」のように、筑紫・豊・肥は石井の領地である。結果、竺紫君は粕屋以東を橘豊日の祖父や父達に奪われた。「東漢直駒東漢直磐井子」、「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻河上娘蘇我馬子宿禰女也」と記述する。すなわち、石井の子は馬子の娘婿なので、粕屋以東は馬子が手に入れた。年齢的に石井の子は合わないので、石井を襲名した葛子の子と思われ、肥は葛子が継承した。そして、男人大臣が薨じて、女王国が滅びた。そして、後代、巨勢臣藥が豐足臣の子と豐国王になっていて、橘豊日の配下のようだ。巨勢氏は石井掃討の立役者だったのだろう。そして、己未十二月庚辰朔甲申に「尾輿連公為大連」とあるように、尾輿が天皇に即位した。麁鹿火と別系統の金村・目大連の孫のである。

2023年10月6日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇前紀2

元号は『二中歴』「年始五百六十九年内丗九年」と記述される。すなわち、継体元年より569年前の前53年から始まった。それを継承した、継体元年である。そして、その元号が大長8年、711年まで継続した。天智天皇が即位しても、天武天皇が即位しても元号は変わらなかった。それは、神の朝廷の元号だったからということだ。そして、文武天皇が大化元号を建元した朝廷を追放して、大宝元号を建元した。

継体天皇は継体二四年に「朕承帝業於今廿四年」と述べている。すなわち、「獲保宗廟」から24年の539年の宣言だ。そして、欽明元年歳次己未539年、十二月庚辰朔甲申「尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と政権が変わった。継体二四年の宣言後に崩じたようだ。そして、540年から尾輿が大連天皇で、3代目金村が20歳前で皇太子の大臣である。

意祁・麻佐良の子の若雀は婿の2代目麁鹿火と考えられる。意祁は初代麁鹿火の妹の影媛・春日娘子を妃にし、2代目麁鹿火の小長谷若雀が後を継ぐ。2代目麁鹿火の小長谷若雀の子の3代目麁鹿火も存在すると思われる。袁本杼の娘に婿入りして、広国押建金日と呼ばれたと思われる。2代目麁鹿火の小長谷若雀は、『古事記』に記述されない春日山田皇女を妃にしたようだ。『日本書紀』は武烈皇后にも、『古事記』に記述しない春日娘子、すなわち、春日山田皇女を重複させた。それは、3代目麁鹿火が女国を滅ぼし、扶桑国に統一したことを意味するようだ。丸迩日爪臣の娘の糠若子の夫は初代麁鹿火の妃なのだろう。力のある麁鹿火の妹の皇后影媛の子が、力のある影媛の兄の娘に婿入りして、皇位を継承する。吉備上道臣から物部麁鹿火に権力が遷った。

そして、3代目麁鹿火は大臣家の巨勢氏と尾張氏との娘に婿入りしたと思われる。尾張連の祖の凡連は、すでに尾張連が允恭五年に尾張連吾襲がいて、おそらく、紀伊尾張連の祖の枚夫のことと思われる。紀伊は平群氏に付いて回る地名だ。紀武内宿が「産紀伊国故名」、これは、山代の紀伊で紀伊国造莵道彦の国だ。そして、「家大倭国平群県紀里」とあるように、平群県に「下影媛居地同名紀里」と故郷の地名を持ち込んだ。その紀伊に尾張連が住み、平群氏は意乎巳連の家系で大臣の本家である。

2023年10月4日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇前紀1

  継体天皇の大連を『舊事本紀』「帝皇本紀」は欽明天皇元年「尾輿連公為大連」まで記述しない。麻佐良大連より後、尾輿大連まで、物部氏の傍流ということなのだろう。天皇と呼ばれる主要な王族は全て姻戚関係がある。だから、蘇我氏から見ると大臣でも、物部氏から見ると大連の入鹿と同様な物部大連だったのだろう。各国の氏族王も、物部氏や葛木氏、尾張氏などの男子を婿にする。そして、臣や連、直、国造を賜姓され、お墨付きを得る。それによって、地元では大連や大臣や天皇を自称したのだろう。関東の倭武天皇、実際は野洲朝廷()の将軍(都督)武、豐木入日子の子や孫が婿入りした王の子孫だろう。天皇と認められると、より多くの氏族に天皇の氏族が婿入り出来て、影響力が強まる。天皇位を奪われると、次の天皇の影響力のある氏族が取って代わる。

『日本書紀』は507年継体元年二月に「大伴金村大連爲大連」「物部麁鹿火大連爲大連」と記述する。すなわち、麁鹿火は麻佐良の後継の扶桑国王なので、継体天皇は大伴金村ということになる。意祁が法治国家として、中国や高句麗の律令を推進して、不満が高まったので、女王国を復興させたと考えられる。そして、扶桑国王麁鹿火と秦王国王金村と女王国の大臣継承者の袁本杼の三大実力者が神の朝廷の後継を争った。麁鹿火は正当な後継者の麁鹿火が扶桑国王を継承したのは当然だ。金村は倭彦を女王国王にして復権を目指し、麁鹿火は女王国大臣を袁本杼にしようとしたと思われる。

金村は袁本杼の妃の倭媛の義兄もしくは義父の倭彦を女王国王に擁立した。しかし、金村の計略が失敗し、袁本杼と姻戚関係の麁鹿火が連合したようだ。しかし、金村は女王国を自称した。継体七年、513年九月「遷都磐余玉穗一本云七年也」と袁本杼を玉穗宮に追い出して秦王国を建国した。そして十二月辛巳朔戊子に「詔曰朕承天緒獲保宗廟」と宣言した。

ただし、『日本書紀』の継体朝は、「天皇廿八年歳次甲寅崩而此云廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」と3年のずれがある可能性がある。すると、継体七年、513年は3年のずれで516年12月に「獲保宗廟」、翌517年継体年号が発布されたのなら、よく合致する。「巨勢男人大臣薨」も529年ではなく、527年丁未年四月九日である。529年の薨は巨勢男人を襲名した太子だったのだろうか。

2023年10月2日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 武烈天皇

大伴金村連爲大連」は継体七年十二月辛巳朔戊子の「朕承天緒獲保宗廟」で朝廷を開いた。継体二十年、実際は継体七年に「遷都磐余玉穗一本云七年也」と磐余が首都である。そして、517年に継体年号に改元した。おそらく、女王国が崩壊したとおもわれ、女王名が大郎女と役職だけで名が無く、後継が存在しなかったから、命名出来なかったのだろう。袁本杼の義父の三尾君の加多夫は大海部直の祖の尾治多与志連、倭比賣は妹の兄日女と思われる。おそらく、尾治多与志連が倭彦王で、大海部直、すなわち、528年、袁本杼の義子の広国押建金日の大倭王(女王国)の大臣になったと思われる。広国押建金日が勾大兄と呼ばれ、兄日女とよく合致する。そして、507年に、おそらく、麁鹿火大連の妹の影媛・春日娘子を妃に小長谷若雀が継承した。

武烈朝は531年「大歳辛亥三月」に「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と崩壊した。『古事記』は武烈朝の小長谷若雀が記述したと考えられる。扶桑国は日干支で暦を記録せず、年月日を使用した。中国の宋朝の影響を受けたのだろう。しかし、年干支が解るだけの記録は、絶対年代が解らず、紀伝体の史書になってしまった。そのため、雄略紀から武烈紀は後から絶対年代で記録した蘇我氏と、理解がずれたと思われる。

そのため、顕宗天皇の意祁は名君だが、武烈天皇の意祁は暴君になる。この意祁は親子、布都久留と麻佐良の違いである。しかし、麻佐良は暴君ではないだろう。法治国家を目指し、理不尽な盟神探湯や骨卜などの宗教的占いからの脱却である。『筑後国風土記』にやはり衙頭で裁判する石井君の説話があり、やはり「暴虐」と記述する。おそらく、処刑方法も中国や高句麗から取り入れたので、見せしめの処刑となり、残虐になったと思われる。ただし、盟神探湯は実行しなかったと思う。もし、実行した後で無罪と解ったら、天皇の権威が失墜する。

武烈六年九月乙巳朔は九州の日干支で、「傅國之機立子爲貴」は倭の武王の石井君への継承と思われる。『梁書』に天監元年502年、「高祖即位進武號征東大將軍」と武王は生存している。そして、王が交代すると訪中して、受号されるが、石井は畿内政権に妨げられて、断念したと思われる。