2023年10月13日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安閑天皇前紀

  安閑天皇の大連を「帝皇本紀」は記述しないが、「天孫本紀」は麁鹿火と記述する。『日本書紀』は安閑天皇即位前紀に「以大伴大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連」と記述する。すなわち、いつ大連になったか記述せず、前代から継続中である。大伴大連は秦王国の継体帝元年「以大伴金村大連爲大連」、539年が継体25年なので515年と考えられる。511年、実際は3年ずれて514年と思われる五年冬十月に、「山背筒城」へ遷都して、根王の娘の廣媛を妃に、そして、515年に朝廷を開いたと考えられる。山代、難波の天皇根子だ。麁鹿火は、扶桑国麁鹿火天皇元年507年に「物部麁鹿火大連爲大連」と天皇になった。

秦王国継体帝は「廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」から、継体25年539年崩である。後継天皇は「歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申尾輿連公為大連」、巳未は539年だ。扶桑国麁鹿火天皇崩は「秋七月物部麁鹿火大連薨是年也太歳丙辰」と536年である。536年は宣化元年で、天皇は「帝皇本紀」に無い、物部氏非公認の押甲と荒山である。

すなわち、宣化天皇期は2朝廷以上の分裂ということが解る。荒山は目大連の子、押甲は麁鹿火の弟、すなわち、麁鹿火の後継者、麁鹿火を襲名したと考えられる。それは、1代目麁鹿火の小長谷若雀、2代目麁鹿火の『古事記』に記述されない「春日山田皇女」を皇后にした麁鹿火だ。そして、3代目麁鹿火の押甲は536年に崩じた。1代目麁鹿火の小長谷若雀は534年「天皇廿八年歳次甲寅崩」、甲寅は534年である。すなわち、1代目小長谷若雀が534年、小長谷若雀の妃の皇太后が535年、2代目が536年に相次いで崩じている。まさに、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」で、継体帝と子の荒山が扶桑国を滅ぼしたのだろう。

広国押建金日は袁本杼と尾張連の祖の凢連の妹との子だ。『紀氏家牒』に「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢家軽里星河辺故名川辺宿祢男巨勢川上宿祢男巨勢男人宿祢」とある。袁本杼・男人は河辺の出身だ。そして、蘇我石河宿祢は「蘇我臣川辺臣之祖也」と後に川辺臣を引き継ぐ、後に川辺が地盤となる。川辺王の巨勢川辺宿祢は亦の名が軽部宿祢、巨勢伊刀は軽部臣の祖である。「木梨之輕太子御名代定輕部爲」とあるように、軽部は允恭天皇時に制定された。そして、「蘇我石河宿祢男奉仕履中反正允恭安康雄賂五代朝」とあるように蘇我石河宿祢より後に川辺臣を賜姓される。

すなわち、蘇我氏は巨勢氏から川辺臣を引き継いだ。それが、広国押建金日か建小廣國押楯ということだ。広国押建金日は「乙卯年三月十三日」535年に薨で、安閑天皇(皇太后)は「十二月癸酉朔己丑」で異なる。広国押建金日は529年継体二三年「九月巨勢男人大臣薨」と袁本杼から大臣を引き継いだと思われる。広国押建金日は470年代の雄略期の生まれと思われる。川辺臣を賜姓される蘇我石河宿祢が統治した、軽里星河辺で生まれたことと符合する。

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