2023年10月23日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇前紀2

  江田船山古墳から出土した『銀錯銘大刀』の銘文に「治天下獲□□□鹵大王世」と不明な大王の名が出現する。この古墳から、523年に崩じた百済武寧王の陵から出土した垂飾付耳飾りと同型飾りが出土した。当然、被葬者の「事典曹人名无利弖」は百済王→大王→被葬者なので、それ以降の死亡と思われる。この時、江田船山を支配した王が「獲□□□鹵」大王である。九州の大王なので、俀国か倭国の王や皇太子である。蘇我氏倭国王、初代稲目の子に『古事記』に記述されない上殖葉皇子がいる。「かみうえは」・「獲・み・う・え・歯」と考えられる。そして、『古事記』に記述されないということは、何処か他に記述されているということだ。それが、橘仲皇女の娘の石姫に婿入りした天國排開廣庭なのではないだろうか。上殖葉は偉那公の先、稲目も偉那の目大臣で、よく符合する。

日本天皇及太子皇子倶崩薨」を記述した、『百濟本記』と『梁書』が食い違っていた。『三国史記』内でも525年の聖王三年「春二月與新羅交聘」と541年眞興王二年「春三月百濟遣使請和許之」と食い違う。百濟の525年の資料が違うようだ。500年、炤知麻立干二十二年「倭人攻陷長峰鎭」以降、倭王武が新羅を制圧した。倭は百濟の宗主国、そして、新羅も破り戦乱が無かった。そんな中で、交聘・請和は奇妙だ。541年なら、盟主倭が破れ、百濟に後ろ盾が無くなった。それに対して、力を付けた新体制倭国が調停者となって、講和したのなら理解できる。元年の「高麗百濟新羅任那並遣使獻並修貢職召集秦人」は新体制倭国王の稲目から見た記述だ。秦人は秦王国の秦人を意味し、秦王国が名目上の中心となって、講和したと考えられる。

九月乙亥朔己卯に「遂不爲罪」と、襲名した大伴金村を不問にした。539年12月以前、恐らく3月に「難波祝津宮」に尾輿が継体帝の領地の難波に出向いた。そして、継体帝金村大連天皇を追い詰めたようだ。理由は、男大迹天皇六年の任那四縣の制圧に新羅と宗主国の旧倭国が怒った。それで、石井との戦乱を引き起こしたのは、金村継体帝の責任と追い詰め、殺害したと思われる。そして、山田皇后が尾輿に皇位を譲り、大臣も稲目が継承した。大伴目大連は、539年12月以降は大臣である。そして、大伴氏は許されて、欽明二三年に大將軍大伴連狹手彦と活躍した。539年頃は若かったと考えられ、山田皇后の孫、539年3月に薨じた皇太子の子なのだろう。

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