2020年4月29日水曜日

最終兵器の目 継体天皇12

 『日本書紀』慶長版は
是天皇聞其行狀遣人徵入而不肯來領以河內母樹馬飼首御狩奉詣於京而奏曰臣未成勅旨還入京鄕勞往虛歸慙恧安措伏願陛下待成國命入朝謝罪奉使之後更自謨曰其調吉士亦是皇華之使若先吾取歸依實奏聞吾之罪過必應重矣乃遣調吉士卒衆守伊斯枳牟羅城於是阿利斯等知其細碎爲事不務所期頻勸歸朝尚不聽還由是悉知行迹心生飜背乃遣久禮斯巳母使于新羅請兵奴湏久利使于百濟請兵毛野臣聞百濟兵來迎討背評傷死者半百濟則捉奴湏久利杻械枷鏁而共新羅圍城責駟阿利斯等曰可出毛野臣毛野臣嬰城自固勢不可擒於是二國圖度便地淹留弦晦筑城而還號曰久禮牟羅城還時觸路拔騰利枳牟羅布那牟羅牟雌枳牟羅阿夫羅久知波多枳五城冬十月調吉士至自任那奏言毛野臣爲人傲恨不閑治體竟無和解擾亂加羅又倜儻任意而思不防患故遣月頰子徵召是歲毛野臣被召到于對馬逢疾而死送葬尋河而入近江其妻歌曰比攞哿駄喩輔曳輔枳能朋樓阿苻美能野愷那能倭倶吾伊輔曳符枳能朋樓目頰子初到任那時在彼鄕家等賜歌曰柯羅屨伱嗚以柯伱輔居等所梅豆羅古枳駄樓武哿左屨樓以祇能和駄唎嗚梅豆羅古枳駄樓二十五年春二月天皇病甚丁未天皇崩于磐余土穗宮時年八十二冬十二月丙申朔庚子葬于藍野陵
【そこで、天皇は、その行いを聞いて、人を派遣して呼び出したが遣ってこなかった。河内の母樹馬飼の首の御狩に命じて、京に来させて、「私は、まだ詔勅の内容を完了させずに、都の地に帰ってきたら、苦労をねぎらいにやって来て何もなく帰ることになる。どうして大恥をそのままにしておけましょう。土下座してお願いしますのは、陛下、天皇の命令を完了させてから天皇の御殿の庭で謝罪しますから待っていただきたい」と奏上した。与えられた任務を奏上してから、また自ら「この調の吉士もまた、天皇の勅使だ。もし私より先に帰るようなことがあって、このように聞かされたら、わたしの罪はきっと重大だろう」と考えた。それで調の吉士を派遣して、軍を率いて伊斯枳牟羅の城を守らせた。そこで、阿利斯達は、よく聞いて、約束した勤めを果たさなかったことを知って、何度も都に帰るよう勧めたがそれでも帰ろうとしなかった。そのため、よく知ったうえで、裏切ろうとした。それで久禮斯己母を派遣して、新羅に使者を送って出兵を要請した。奴須久利を、百済に派遣して出兵を要請した。毛野臣は、百済の兵が来ると聞いて、背の評で迎え討った。傷を負って死んだ者が半数だった。百済は、奴須久利を捕えて、手枷・足枷・首枷でつないで、新羅と一緒に城を囲み、阿利斯等に「毛野臣を出せ」と罵倒した。毛野臣は、城で守って自ら固めたので勢いだけで生け捕りに出来なかった。それで、二国は、何度も考えて同じところに留まって一月経った。城を築いて還り、久禮牟羅の城と名付けた。帰る時に通達しがてら、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を奪った。冬十月に、調の吉士が、任那から帰って来て、「毛野臣は、人となりが傲慢で人の話を聞かず、国を治めようともしない。とうとう仲直りも出来ず、加羅をかき乱した。才気がすぐれている者に任せて、考えもしないで苦しみを防ごうともしない」と奏上した。それで、目頬子を派遣して呼び出した。この年に、毛野臣が、呼び出されて対馬に着いて、病気になって死んだ。送葬の時に、河を探しながら、近江に入った。その妻が歌った()。目頬子が、はじめて任那に着いた時に、その里に住む者達が、歌を贈った()二十五年の春二月に、天皇の、病がとてもひどかった。丁未の日に、天皇は、磐余の玉穂の宮で崩じた。その時、年齢は八十二だった。冬十二月の朔が丙申の庚子の日に、藍野の陵に葬った。】とあり、十二月丙申朔は11月30日で11月が小の月なら標準陰暦と合致する。
『日本書紀』の記述時に「或本云天皇二十八年歲次甲寅崩」と534年に崩じた資料が有って安閑天皇以降を継体天皇が28年に崩じたことを前提に記述しているが、継体紀は531年で終了させ、本来、安閑元年は継体28年なのに安閑元年正月に安閑天皇が遷都を行っている。
これは、継体年号を建元した天皇が534年に遷都しただけのことで、540年に天皇と宣言したと以前に述べたが、それに対応していて、すなわち、長男相続は同一人物とみなされ、継体天皇は535年から2代目が相続したことを示している。
この、継体天皇の死亡が531年でも534年2月でもないこと(継体の崩が甲寅年1月でないと合わない)、そして、安閑元年が534年正月からで2月からでないことが、王の生き死にで天皇が交替するのではなく、宮が変わった時に天皇が変わる、宮こそが天皇ということを継体天皇と安閑天皇の交代時期の説話で解るのである。
そして、「百濟本記爲文其文云太歲辛亥三月師進至于安羅營乞亡城是月髙麗弑其王安又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨由此而言辛亥之歲」と説明文に記述しているように、本来は初代継体天皇が534年に崩じたのだが、扶桑国天皇が531年に崩じて太子や皇子も薨じたとしているのだから、それに付随して継体紀の一部、秦王国の継体紀が3年前倒しになっているということだ。
すなわち、528年継体天皇二二年の磐井の乱は531年、529年継体天皇二三年の「巨勢男人大臣薨」は532年の可能性が高く、磐井の乱に乗じて扶桑国を壊滅させ、混乱を収拾するために、磐井の太子の葛子と取引して磐井が侵略した火国の領有を認め、豊国すなわち分身国王の蘇我氏を満足させるため糟屋郡と安芸すなわち倭国の故地の大漢国の領有を認めたと思われる。
そのため、蘇我氏の王朝は倭国を名乗り、蘇我氏の役職名の安閑・宣化・欽明天皇の名に広国の地名を持つ役職名を持った思われる。

2020年4月27日月曜日

最終兵器の目 継体天皇11

 『日本書紀』慶長版は
秋九月巨勢男人大臣薨二十四年春二月丁未朔詔曰自磐余彥之帝水間城之王皆頼博物之臣明哲之佐故道臣陳謨而神日本以盛大彥申略而膽瓊殖用隆及乎繼體之君欲立中興之功者曷嘗不頼賢哲之謨謀乎爰降小泊瀬天皇之王天下幸承前聖隆乎(平)日久俗漸蔽而不寤政浸衰而不改但湏其人各以類進有大略者不問其所短有髙才者不非其所失故獲奉宗廟不危社稷由
是觀之豈非明佐朕承帝業於今二十四年天下清泰內外無虞土脉膏腴穀稼有實竊恐元元由斯生俗藉此成驕故令人舉廉節宣揚大道流通鴻化能官之事自古爲難爰曁朕身豈不愼歟秋九月任那使奏云毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅淹留二歲懶聽?()焉爰以日本人與任那人頻以兒息諍訟難決(定)元無能判毛野臣樂置誓湯曰實者不爛虛者必爛是以投湯爛死者衆又殺吉備韓子那多利斯布利恒惱人民終無和解於
【秋九月に、巨勢の男人大臣が薨じた。二十四年の春二月の丁未が朔の日に、「磐余彦の帝から水間城の王までは、皆、物事をよく知っている臣下が、聡明で物事の道理に通じていたので助けを求めた。それで、道臣が国家経営の方法を考え示して天神を祀る日本が栄えた。大彦が考えを言って膽瓊殖がそれを用いて隆盛した。繼體の君になって、中興の功績を成し遂げるには、どの人物の賢明で道理をわきまえた方法に頼ればよいのか。ここで小泊瀬天皇の天下の時に王として即位して、幸なことに以前の聖者から受け継いで、世の中が栄えて平和な日が続いている。しかし、世の中はだんだん暗雲が垂れ込めているが目覚めようとせず、政治は非力に慣れて改めようとしない。ただその似た者同士が話て採用するだけだ。おおざっぱな者は、その足りないところを問おうともしない。才能ある者はその誤りを認めなかった。それでも、わたしが王朝の徴の祠を得て、国家を危うくしていないようだが、どうして私には確かな助けが無いのか。わたしが皇帝に就任して、もう二十四年たった。天下は清々しく安らかで、内外に何の懸念も無い。土地はよく肥え、穀物は良く実った。人知れず恐れているのは万民がこれにかこつけていつもの事と思い上がってしまうことだ。人に決まりや節目を伝え、人の行うべき正しい道を広く世の中にはっきりと指し示し、天子の大きな教えを広く行い、勤めを成し遂げることは昔から困難だ。この度私が帝となったからには控えずにいられようか」と詔勅した。秋九月に、任那の使者が「毛野臣が、とうとう久斯牟羅で、御殿を造って、滞在して二年経っても、人の政策を聞くことを怠った。それで日本人と任那人と子供の争いごとが、頻繁に起こって決着が難しいので、最初から判断しない。毛野臣が、くかたちで簡単に仕置きして、『本当のことを言う者は爛れず。嘘つきはきっと爛れる』と言う。このように、熱湯の中に投げ入れられて爛れ死ぬ者がたくさんいる。また吉備の韓子の那多利と斯布利を殺して、いつものように人民が大騒動になったが、とうとう和解できませんでした」と奏上した。】とあり、標準陰暦と合致する。
即位して、遷都もした天皇が何の理由もなしに大演説するのはとても異様で、私は、継体建元から24年後の540年の欽明天皇元年で「遷都倭國磯城郡磯城嶋仍號爲磯城嶋金刺宮」と遷都して明要に改元した年なら、継体・安閑・宣化と物部物部麁鹿火との共同統治から脱した時の、補佐する人がいなくても、物部目天皇は十分やっていけると宣言したと思われる。
内容は、神武天皇から崇神天皇までは自分たちの先祖の物部氏が大連として天皇を助け、崇神天皇は物部氏が天皇になったが、それを尾張氏が助け、神日本と記述したのは、本来は誉田天皇と資料が残っていたのだろうが、それを書き換えて、意味不明なものにしてしまったが、道臣と神武天皇の関係は既に述べた。
日向国の葛城氏になる襲津彦が道臣の助けで畿内の葛城に侵入できて、婿の建内宿禰が天皇となり、葛城の子たちが継承し、助けた道臣は室屋大連と呼ばれ、巨勢氏が天皇になった時には金村大連が助けた。
ここで、継体の君と記述されるが、元号に継体があり、当然前後関係は、自らを継体帝と先に呼んで、元号を継体としたのであって、後から継体としたのなら、このような文中に記述せず、崩じたときに、尊んで継体と名付けたとすればよく、逆に、先に継体号を使っていたのなら、途中で継体建元でなくもっと前から元号が『二中歴』に残っているはずだ。
『二中歴』には紀元前から元号があったと述べており、お手本の中国は帝号を持っているのだから、『 舊事本紀』に記述されていることからも『日本書紀』の綏靖天皇即位前に「今汝特挺神武自誅元惡」のように連綿と漢風諡号が存在し淡海三船が選定したものではない可能性がある。
そして、この天皇は武烈天皇の時に王となったと記述していて、継体元年には武烈天皇が存命であった可能性が高く、継体24年530年に武烈天皇が崩じ、その天皇が巨勢男人だった可能性が高い。

2020年4月24日金曜日

最終兵器の目 継体天皇10

 『日本書紀』慶長版は
夏四月壬午朔戊子任那王巳能末多干岐來朝啓大伴大連金村曰夫海表諸蕃自胎中天皇置內官家不棄本王封其地良有以也今新羅違元所賜封限數越境以來侵請奏天皇救助臣國大伴大連依乞奏聞是月遣使送己能末多干岐幷詔在任那近江毛野臣推問所奏和解相疑於是毛野臣次于熊川召集新羅百濟二國之王新羅王佐利遲遣久遲布禮百濟遣恩率彌騰利赴集毛野臣所而二王不自來參毛野臣大怒責問二國使云以小事大天之道也何故二國之王不躬來集受天皇勅輕遣使乎今縱汝王自來聞勅吾不肯勅必追逐退久遲布禮恩率彌縢利心懷怖畏各歸召王由是新羅改遣其上臣伊叱夫禮智干岐卒衆三千來請聽勅毛野臣遙見兵仗圍繞衆數千人自熊川入任那己叱己利城伊叱夫禮智干岐次于多多羅原不敢歸待三月頻請聞勅終不肯宣伊叱夫禮智所將士卒等於聚落乞食相過毛野臣傔人河內馬飼首御狩御狩入隱他門待乞者過捲手遙擊乞者見云謹待三月佇聞勅旨尚不肯宣惱聽勅使乃知欺誑誅戮上臣矣乃以所見具述上臣上臣抄掠四村盡將人物入其本國或曰多多羅等四村之所掠者毛野臣之過也
【夏四月の朔が壬午の戊子の日に、任那の王の己能末多干岐が来朝した。大伴の大連金村に、「その海の向こうの外国は、腹の中に天皇がいた皇后が、内の官家を置いてから、本来の土地を見捨てなかったので、その土地を領有できている。今、新羅は、元々から与えた領土の境界を破って、しばしば境界を越えてやって来て侵略する。お願いです、天皇に奏上して、私の国を救い助けてください」と願い出た。大伴の大連は、願いどおり聞いたことを奏上した。この月に、使者の己能末多干岐を派遣した。併せて任那に赴任している近江の毛野臣に「奏上の内容を聞き問いただして、お互いの疑いを解いて仲直りさせなさい」と詔勅した。そこで、毛野臣は、熊川に宿営して、新羅と百済の二国の王を呼び集めた。新羅の王の佐利遲は、久遲布禮を派遣して、百済は、恩率彌騰利を派遣して、毛野臣の所に夫々集まりにやってきて、二人の王は、自らやってこなかった。毛野臣は、とても怒って、二国の使者を責めて問いただして、「小国が大国に仕えることは天の道理だ。どうして二国の王が、自ら夫々やって来て天皇の詔勅を受けないで、軽輩者を使者として派遣するのだ。今、よしんばお前の王が、自ら来て詔勅を聞いても、私は詔勅を申し述べない。追い返すだけだ」と言った。久遲布禮と恩率彌縢利は、心底恐れおののいて、夫々帰って王を呼んだ。このため、新羅は、あらためてその上臣の伊叱夫禮智干岐を派遣して、兵士三千人を率いて、やって来て詔勅を聞かせろと求めた。毛野臣は、遠くに護衛の武器で取り囲んで、兵士が数千人居るのを見て、熊川から、任那の己叱己利城に入った。伊叱夫禮智干岐は、多多羅原に宿営して、敢えて帰らないで三月待った。しきりに詔勅を聞かせるよう求めた。ついに宣下しなかった。伊叱夫禮智が將いた兵士等は、集落で食べ物を求めて、毛野臣の従者の河内の馬飼の首の御狩の前を共に過ぎようとした。御狩が、他人の門に入って隱れ、食べ物を求める者が通り過ぎるのを待って、こぶしを握って叫んだ。物乞いを見て「恐れ敬って三月も待って、詔勅の主旨を聞こうと待っていたが、未だに、宣下が無い。詔勅を聞く使者を悩ますのは、騙して上臣を成敗することと知れ」と言った。それで見たことを詳しく上臣に話した。上臣は、四村を掠め取って、残らず人や物を持ち去って本国に入った。ある人が、「多多羅達の四村を奪われたのは、毛野臣の失敗だ」と言った。】とあり、標準陰暦と合致する。
前項で、秦王国が朝鮮経営を倭国から取り戻そうとしたと記述したが、朝鮮は、中国史書の『後漢書』に「韓有三種皆古之辰國也馬韓最大共立其種為辰王・・・馬韓諸國邑各以一人主祭天神號為天君・・・馬韓人復自立為辰王・・・辰韓耆老自言秦之亡人・・・有似秦語,故或名之為秦韓
弁辰與辰韓雜居・・・其國近倭」と高句麗の地は郡や衛氏によって経営されていたが、南部の三韓は昔の辰国に経営されていたとしている。
辰国を中国の秦と勘違いしているようだが、辰韓と記述して秦が支配は変で、秦語は中国語ではないのか、秦人は中国人ではないのか、訛りなら辰韓語、俗称なら辰韓人で、天神を祀り天君と神主すなわち王がよばれていて、弁辰與辰韓雜居していて倭人に近いと言っているのだから辰国は倭人のくにで、領地が倭に近いのなら馬韓も倭に近い。
そして、『三國志』も「辰韓者古之辰國也・・・馬韓信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君・・・弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と同様で、『晉書』も「馬韓・・・國邑各立一人主祭天神謂爲天君・・・辰韓在馬韓之東自言秦之亡人避役入韓韓割東界以居之立城柵言語有類秦人由是或謂之爲秦韓・・・弁辰亦十二國・・・皆屬於辰韓」と『後漢書』とほぼ同じで、300年代までこの状態だった。
この、秦国は『隋書』の秦王国で物部王朝の国名で辰国は尾張王朝で大人国から続く系譜、東鯷国は()氏の神王朝、君子国から続く系譜で、日本の王朝の変遷である。
この間、倭は新羅に対しては紀元前50年赫居世八年の「倭人行兵,欲犯邊」から500年炤知麻立干二十二年の「春三月倭人攻陷長峰鎭」まで侵略と友好を繰り返したが、急に665年文武王五年の「交通倭國」まで途絶えた。
それに対して、百済は397年阿莘王六年に「夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」と人質を差し出すことから国交が始まり、428年毗有王二年の「春二月・・・倭國使至從者五十人」から記述されていなくて、608年武王九年の「春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路」と使者が立ち寄ったことを記述して、653年義慈王十三年の「秋八月王與倭國通好」とずっと友好関係である。
すなわち、百済は397年の人質を除いて倭と友好的で、逆に言えば畿内の秦王国までは百済と友好的ではなく、それに対して、新羅は500年まで倭と対立し扶桑国まで友好的だったことが解り、その後、分裂した蘇我氏の倭国と友好関係を続け、白村江の記事でも百済と友好を結んだから戦ったのである。
すなわち、神功皇后の新羅征伐は、穴門豐浦宮の王と香椎の王が行った尾張・物部王朝の日本とは異なる国が戦ったのであり、香椎宮の王は倭で穴門豐浦宮の王は襲津彦達葛城王朝軍で、応神天皇十四年「臣領己國之人夫百廿縣而歸化然因新羅人之拒皆留加羅國爰遣葛城襲津彦」 とこの応神14年は390年即位の応神14年403年若しくは396年即位の応神14年で409年にあたり、397年の太子腆支の人質は神功皇后の征韓の結果で、胎中の天皇は396年即位の応神天皇の可能性が高い。
物部王朝は古来の朝鮮経営を取り戻そうと、物部系の穗積臣押山や物部氏の分王朝の伊勢遺跡のある近江の毛野臣が朝鮮経営に当たったが大失敗してしまい、蘇我氏の倭国に朝鮮外交を取り戻されてしまったのだろう。

2020年4月22日水曜日

最終兵器の目 継体天皇9

  『日本書紀』慶長版は
二十二年冬十一月甲寅朔甲子大將軍物部大連麁鹿火親與賊帥磐井交戰於筑紫御井郡旗鼓相望埃塵相接決機兩陣之間不避萬死之地遂斬磐井果定壇場十二月筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪二十三年春三月百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰夫朝貢使者恒避嶋曲毎苦風波因茲濕所齎全壞無色請以加羅多沙津爲臣朝貢津路是以押山臣爲請聞奏是月遣物部伊勢連父根吉士老等以津賜百濟王於是加羅王謂勅使云此津從置官家以來爲臣朝貢津渉安得輙改賜隣國違元所封限地勅使父根等因斯難以面賜却還大嶋別遣錄史果賜扶余由是加羅結儻新羅生怨日本加羅王娶新羅王女遂有兒息新羅初送女時幷遣百人爲女從受而散置諸懸令着新羅衣冠阿利斯等嗔其變服遣使徵還新羅大羞翻欲還女曰前承汝聘吾便許婚今既若斯請還王女加羅已富利知伽報云配合夫婦安得更離亦有息兒棄之何往遂於所經拔刀伽古跛布那宇羅三城亦拔北境五城是月遣近江毛野臣使于安羅勅勸新羅更建南加羅喙已呑百濟遣將軍君尹貴麻那甲背麻鹵等往赴安羅式聽詔勅新羅恐破蕃國官家不遣大人而遣夫智奈麻禮奚奈麻禮等往赴安羅式聽詔勅於是安羅新起髙堂引昇勅使國主隨後昇階國內大人預昇堂者一二百濟使將軍君等在於堂下凢數月再三謨謀乎堂上將軍君等恨在庭焉
【二十二年の冬十一月の朔が甲寅の甲子の日に、大將軍の物部大連の麁鹿火は、自ら賊の王の磐井と、筑紫の御井郡で交戦した。軍旗と太鼓を互いに見合って、巻き立つちりやほこりが互いに交わった。両陣営の間を重要拠点と考えて、到底命が助からないと思ってもそこから逃げ出さなかった。とうとう磐井を斬って、それで、領土を決めた。十二月に、筑紫君の葛子は、父のとがめのまきぞえになる事を恐れて、糟屋の屯倉を献上して、死罪のかわりにと願い出た。二十三年の春三月に、百済の王、下哆唎国守の穗積の押山臣に「朝貢の使者は、いつも岬を避けいつも波風に苦しんでいます。それで、持って来た貢物が濡れてすべてが色あせて損なってしまう。お願いします。加羅の多沙の津を、私達の朝貢する基地としたい」と言った。それで、押山臣は願いを聞き入れて奏上した。この月に、物部の伊勢連の父根と吉士の老達を派遣して、津を百済の王に与えた。そこで、加羅の王は、勅使に「この津は、官家を置いてから、私が朝貢する経過地の港だ。どうして簡単に決まりを変えて隣国に与えることが出来るのか。境界を決めて任された領土なのに決まりと違っている」と言った。勅使の父根達は、このように、直面して、与えれないと思って、大嶋にすごすごと帰ってきた。別の使者を派遣して扶余に与えたと記録されている。このために、加羅は、新羅と友好を結んで、日本を怨むようになった。加羅の王は、新羅の王の娘を娶って、子が生まれた。新羅は、はじめ、女を送る時に、併せて百人を派遣して、女の従者とした。それを受けて諸縣に別け置いて、新羅の衣冠を着せた。阿利斯等が、その服を変えたことに怒り恨んで(仏教用語)、使者を派遣してつき返した。新羅はとても恥をさらしたと、もう一度女を返そうとして、「以前お前との婚姻の求めを聞いて、私はそれを許して婚姻させた。今、このように女どもを返されてしまったので、王の娘を返してほしい」と言った。加羅の己富利知伽が「夫婦を取り合わせておいて、どうして今更離れ離れに出来ましょうか。さらに、子も有るのにそれを捨ててどこに行けましょうか。」と報告した。それで、新羅と加羅の間へ進軍して、刀伽と古跛と布那牟羅の、三つの城を奪い取った。また、北の境界の五つの城を奪い取った。この月に、近江の毛野臣を使者として、安羅に派遣した。詔勅で新羅に、更に、南加羅と喙已呑を建国させた。百済は、將軍の君の尹貴と麻那甲背と麻鹵等を派遣して、安羅に出向いて、詔勅を形式にのっとって聞いた。新羅は、外国の官家を侵略したことを咎められることを恐れて、大物を派遣しないで、夫智奈麻禮と奚奈麻禮等を派遣して、安羅に出向いて、詔勅を形式にのっとって聞いた。それで、安羅は、新にりっぱな御殿を建てて、勅使を引き連れて昇った。国主は、勅使の後について段を昇った。国内の大物が、一緒に御殿に上った者は十二人だった。百済の使者の將軍の君達は、御殿の下に座らされた。全部で数ヶ月の間、再三、御殿に登ろうとしたが、登れずに庭に座らされたことを恨んだ。】とあり、廿二年十一月甲寅は10月30日で10月が小の月なら標準陰暦と合致する。
前項で、「近江毛野臣卒衆六萬欲往任那爲復興」と任那を復興しようと6万もの大船団を向かわせたにもかかわらず、磐井軍すなわち倭国軍によって阻止された為、磐井と戦争になったのだが、磐井との対戦相手は既に継体年号を建元した物部秦王国で、勝ったら物部目が本州、、物部麁鹿火が筑紫以西と皮算用している。
しかし、倭国の象徴の糟屋郡を渡しただけで命が救われることなど考えられず、しかも、葛子は筑紫君と国造から出世してしまっているのだから、実際のところ、秦王国は葛子を懐柔して、蘇我氏が倭国王を名乗るのだから、糟屋郡を手中にしたのは蘇我氏と解る。
私はこの闘いに乗じて517年に大漢国を発展させて天皇を名乗る秦王国が誕生して建元したのであり、倭と文身国と大漢国が連合して扶桑国を滅ぼし、秦王国が直接朝鮮経営に乗り出そうとしたが、尾張王朝以降に朝鮮経営を行っていた倭国が邪魔なので、文身国とともに倭を攻めて勝利して、糟屋郡と倭国号を文身国が取り、朝鮮の経営権を秦王国が取ったと思われる。
任那復興軍は、倭国に取られた朝鮮経営を取り戻そうとした軍隊で、倭国もそれまで同程度以上の軍を朝鮮に配していたと考えられる。
また、伽耶と新羅の同盟は『三国史記』に522年法興王九年に「春三月加耶國王遣使請婚王以伊飡比助夫之妹送之」、524年法興王十一年に「秋九月王出巡南境拓地加耶國王來會」 と同様な記事が記述され、『日本書紀』と誤差が有り、507年に遷都した巨勢王朝や517年即位の物部王朝と異なる、おそらく、標準陰暦と合致しない朔の記事なのだから磐井の604年頃即位して22年の記事と考えられる。

2020年4月20日月曜日

最終兵器の目 継体天皇8

 『日本書紀』慶長版は
二十一年夏六月壬辰朔甲午近江毛野臣卒衆六萬欲往任那爲復興建新羅所破南加羅喙巳呑合任那於是筑紫國造磐井陰謨叛逆猶預經年恐事難成恒伺間隙新羅知是密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍於是磐井掩據火豊二國勿使修職外邀海路誘致髙麗百濟新羅任那等國年貢職舩內遮遣任那毛野臣軍亂語揚言曰今爲使者昔爲吾伴摩肩觸肘共器同食安得卒爾爲使俾余自伏伱前遂戰而不受驕而自矜是以毛野臣乃見防遏中途淹滯天皇詔大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人等曰筑紫磐井反掩有西戎之地今誰可將者大伴大連等僉曰正直仁勇通於兵事今無出於麁鹿火右天皇曰可秋八月辛卯朔詔曰咨大連惟茲磐井弗卒汝徂征物部麁鹿火大連再拜言嗟夫磐井西戎之姧猾負川阻而不庭憑山峻而稱亂敗德反道侮嫚自賢在昔道臣爰及室屋助帝而罰拯民塗炭彼此一時唯天所賛臣恒所重能不恭伐詔曰良將之軍也施恩推惠恕己治人攻如河決戰如風發重詔曰大將民之司命社稷存亡於是乎在勗哉恭行天罰天皇親操斧鉞授大連曰長門以東朕制之筑紫以西汝制之專行賞罰勿煩頻奏
【二十一年の夏六月の朔が壬辰の甲午の日に、近江の毛野の臣が、兵士六萬人を率いて、任那に進軍して、新羅に破られた南加羅・喙己呑を復興して、任那に併せようとした。それに対して、筑紫の国造の磐井が、密かに反逆を謀ったが、それに対抗しないで、ぐずぐず引き延ばして何年も経ってしまった。磐井の征伐が出来なかった事を恐れて、いつも磐井の隙を伺っていた。新羅は、これを知って、密に賄賂を磐井の所に持って行って、毛野の臣の軍をふせぎとめてほしいと働きかけた。それで、磐井は、火と豊の二国の後ろ盾となって、職務を遂行しなかった。日本海では海路で待ち伏せし、高麗や百済新羅任那達の国の務めとしての年貢の船を招き寄せて、瀬戸内海では任那に派遣する毛野の臣の軍を遮って、やたら声を大にして「今こそ使者の役目を果たせ、昔は私の中間として、肩を摺り寄せ手を取り合って、同じ釜の飯を共にした。どうしてだしぬけに使者となって、お前に従わせて私をしもべとするか」と言って、とうとう戦って受諾せず、強く誇りを持っていた。それで、毛野の臣は、防ぎとめられて、なかなか順調に進軍できないで、とどこおった。天皇は、大伴の大連の金村と物部の大連の麁鹿火と許勢の大臣の男人達に「筑紫の磐井が反逆して通行を閉ざして、西の戎の地を自分のものにした。今こそ誰が将軍になって戦うべきか」と詔勅した。大伴の大連達はことごとくが、「うそや偽りのなくいつくしみふかくして勇氣あって軍事に関する事柄に精通しているのは、今となっては麁鹿火の右に出る者が無い」と言った。天皇は、「解った」と言った。秋八月の辛卯が朔の日に「相談して決めたが、大連よ、磐井が従わないのでお前が出かけて行って征伐しろ」と詔勅した。物部麁鹿火大連は、二度拝礼して 「なんということか、その磐井は西の戎のよこしまで、悪がしこいやつだ。川を隔てていることを理由に出仕しない。山が急峻だと言って山賊を反乱と言う。品性は損ない道徳を踏み外す。我々を侮辱しておごり高ぶって自分は賢者と思っている。昔は道の臣から今の室屋まで、帝を助けて悪事に対して報いを与えた。人民を泥や火の中にいるようなひどい苦しみから救ったことは、あれもこれもほんの一瞬のことだった。ただ天が讃えるのは、私が何時も重責にあるからだ。無礼者をきっと征伐します」と言った。「すぐれた将軍が率いる軍隊だ。情けを施して思いやりを推し進めて、人を治めなさい。河を引き裂くように攻め、風が吹き立つように戦いなさい」と詔勅した。「大將軍は人民がたのみとするものだ。国家が存続するか消滅するかはこの戦いに有る。はげめ。礼儀を忘れてはならないが、進軍して天罰を与えろ」と重ねて詔勅した。天皇は、みづからまさかりを手に取って、大連に授けて「長門から東を私が押さえよう。筑紫から西をお前が押さえなさい。お前がやりたいように賞罰を行いなさい。くり返し奏上するような煩わしい事は不要だ。」と言った。】とあり、標準陰暦と合致する。
磐井軍は火と豊を押さえて瀬戸内から日本海に出られないようにしているのだから、関門海峡を支配していて、山口県側はやはり豊国ということになる。
倭王武は『宋書』の順帝昇明二年478年に「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國・・・武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」と記述され、福岡平野の須恵器が6世紀になって福岡平野以外で出土していることから、毛人五十五國が豊国で衆夷六十六國が筑後や肥後で倭国自体は福岡平野と肥前などで『後漢書』の「三十許國」から糟屋郡を盗られて、大宰府を奪っていると考えられ、その結果、磐井の墓が八女に造られた。
『梁書』に「文身國在倭國東北七千餘里」とこの距離は短里の1里50mで350Kmだが、875里と短理で報告し、それに対して梁朝は長里の報告と考え、倭国は短里と知っているのでそれを8倍して7千里としたと考え、糟屋郡から東北45Kmの北九州市が文身国と考た。
すなわち、蘇我氏は俀国から独立した倭国王になる人物なので、文身国王の可能性が高く、この時期の豊国は北九州市から周防まで、そして、後に蘇我氏は「廣國押武金日」・「武小廣國押盾」・「天國排開廣庭」と広国を取ったという名前を得ていて、大漢国が広国の可能性が高く、『梁書』の「大漢國在文身國東五千餘里」と周防から30Kmの安芸の可能性が高い。
ちなみに、『梁書』に「扶桑在大漢國東二萬餘里」とあるので、広島から120Kmと岡山から扶桑国となる。
そして、物部麁鹿火大連の言葉は実際は道臣から室屋までと大伴大連金村の言葉、内容は平郡王朝時代の話、出撃したのは大伴大連金村で、関門海峡での分割を申し出た天皇は物部目で、物部麁鹿火に九州を自分が豊国以東を取ると相談した反逆者で、巨勢・大伴対物部・蘇我・磐井の戦いである。

2020年4月17日金曜日

最終兵器の目 継体天皇7

 『日本書紀』慶長版は
八年春正月太子妃春日皇女晨朝晏出有異於常太子意疑入殿而見妃臥床涕泣惋痛不能自勝太子恠問曰今且涕泣有何恨乎妃曰非餘事也唯妾所悲者飛天之鳥爲愛養兒樹巓作樔其愛深矣伏地之?()爲護衞子土中作窟其護厚焉乃至於人豈得无慮無嗣之恨方鍾太子妾名隨絶於是太子感痛而奏天皇詔曰朕子麻呂古汝妃之詞深稱於理安得空爾無荅慰乎宜賜匝布屯倉表妃名於萬代三月伴跛築城於子呑帶沙而連滿奚置烽候邸閣以備日本復築城於爾列比麻湏比而絙麻且奚推封聚士卒兵器以逼新羅駈略子女剥掠村邑凶勢所加罕有遺類夫暴虐奢侈惱害侵凌誅殺尤多不可詳載九年春二月甲戌朔丁丑百濟使者文貴將軍等請罷仍勅副物部連遣罷歸之是月到于沙都嶋傳聞伴跛人懷恨銜毒恃強縱虐故物部連卒舟師五百直詣帶沙江文貴將軍自新羅去夏四月物部連於帶沙江停住六日伴跛興師往伐逼晩衣裳劫掠所齎盡焼帷幕物部連等怖畏逃遁僅存身命泊汶慕羅十年夏五月百濟遣前部木?(刕・州)不麻甲背迎勞物部連等於已汶而引導入國群臣各出衣裳斧鐵帛布助加國物積置朝庭慰問慇懃賞祿優節秋九月百濟遺州利即次將軍副物部連來謝賜巳汶之地別貢五經博士漢髙安茂請代博士段楊爾依請代戊寅百濟遺灼莫古將軍日本斯那奴阿比多副髙麗使安定等來朝結好十二年春三月丙辰朔甲子遷都弟國十七年夏五月百濟國王武寧薨十八年春正月百濟太子明即位二十年秋九月丁酉朔巳酉遷都磐余玉穗
【八年の春正月に、太子の妃の春日皇女が、朝遅く出てきて、いつもと違うことが有った。太子は、真意を疑いつつ、御殿に入って見た。妃は、床に臥して涙を流して泣いて、嘆いて心を傷めなき止むことが無かった。太子はおかしく思って「今朝涙を流して泣いているのは何を悔やしがってのことか」と聞いた。妃が「些細なことではありません。ただ私が悲んでいるのは、天に飛んでいく鳥も子を大切に育てる為に、樹のてっぺんに巣を作って、その愛情を深くする。地を這いまわる虫達も子を付き添って守る為に、土の中に穴を作って、その護を手厚くする。それで人に至っては、どうして思慮も無く出来ましょうか。跡取りが無く悔しいが、その憐れみは太子に集中する。それで、私の名は忘れられてしまう」と言った。そこで、太子が身にしみて感じて、天皇に奏上した。「私の子の麻呂古よ、お前の妃の言葉は、とても理屈に適っている。どうしてどうでもよいと思って慰めて答えてやらないのか。匝布の屯倉を与えて、妃の名を何代も残せ」と詔勅した。三月に、伴跛が、城を子呑・帶沙に築いて、滿奚に付けて、狼煙を上げる陣を置いて、日本に備えた。また城を爾列比と麻須比に築いて、麻且奚と推封に絙す (?交通を守った)。兵士と武器を集めて、新羅に迫った。子女を、馬を走らせて掠め取り、村邑を剥すようにうばい取った。極悪の勢力が襲った所は、暴虐と贅沢で残った物がほとんど無かった。侵略されて大変な被害が有り、罪をとがめて殺された者がとても多かったが、詳しくは書けない。九年の春二月の朔が甲戌の丁丑の日に、百済の使者の文貴將軍達が帰りたいと要請した。それで詔勅して、物部の連と一緒に、帰らせた。(『百濟本記』には物部至至連)この月に、沙都の嶋に着いたら、伴跛の人が、恨み傷ついて、強い軍隊を頼りにむごいことをやりたい放題だと人伝に聞いた。それで、物部の連は、軍艦五百を率いて、すぐに帶沙の江に着いた。文貴將軍が、新羅から去った。夏四月に、物部の連が、帶沙の江に停泊して六日後、伴跛が、軍を興して帶沙に来て伐った。迫って来て衣裳を脱がせて、持って来た物を脅して奪って、本陣でを残らず焼いた。物部の連達は、怯え恐れて逃げ出した。命からがら、汶慕羅に停泊出来た。十年の夏五月に、百済は、前部木?(刕州)不麻甲背を派遣して、物部の連達を己汶に労い迎えて、国に導き入れた。役人は、それぞれ衣裳や鉄斧や絹布を出して、国の特産物を付け加えて、朝庭へ貢ぐ荷物に積んで置いた。お見舞いは丁寧で礼儀正しく、ほうびは当を得てすぐれていた。秋九月に、百済は州利即次將軍を派遣して、物部の連と一緒にやって来て、己汶の土地を貰ったお礼をした。別に五經博士の漢高安茂を貢上して、博士段楊爾と交代するように願った。願い通りに交代させた。戊寅の日に、百済は、灼莫古將軍と日本の斯那奴阿比多を派遣して、高麗の使者安定等と一緒に、来朝して友好の約束を結んだ。
十二年の春三月の朔が丙辰の甲子の日に、都を弟国に遷した。十七年の夏五月に、百済王の武寧が薨じた。十八年の春正月に、百済の太子明が即位した。二十年の秋九月の朔が丁酉の己酉の日に、磐余の玉穗に都を遷した。】とあり、十二年三月丙辰朔は標準陰暦と合致するが、二十年九月丁酉朔は合致せず、407年か464年が合致し、これまでの検証では407年が妥当である。
或る本で7年遷都とあるのは、「十二年春三月丙辰朔甲子遷都弟國」と弟国の宮にいる天皇7年の意味と考えられ、弟国へ遷都したのは継体年号建元の翌年で、磐余玉穗へ遷都したのは正和元年と改元した年に当たる。
また、百済と新羅の関係する戦乱は、『三国史記』の403年の百済阿莘王に「十二年春二月倭國使者至王迎勞之特厚秋七月遣兵侵新羅邊境」 と新羅の實聖尼師今に「二年・・・秋七月 百濟侵邊が対応していそうで、ここの物部氏に対応する人物が「百濟本記云物部至至連」としている。
この人物は、『舊事本紀』に「九世孫物部多遅麻連・・・弟物部竺志連公奄智蘰連等祖」、「十一世孫物部真掠連公・・・弟物部竺志連公新家連等祖」と世代を超えた同一名の竺志連が存在し、至至連と音が似ていて、しかも、筑紫に関係する人物で、倭国と密接な関係が有りそうである。
物部目連が同じように「磐余甕栗宮御宇天皇御世」と「継體天皇御世為大連」とあるが「磯城嶋宮御宇天皇御世」と同じ世代に記述され子供が「飛鳥浄御原宮御宇天皇御世・・・物部目大連女豊媛」と化け物のように記述されるが、これが、目の連の襲名すなわち宮の相続であり、竺志連も相続で、大足彦の頃(葛城王朝の大足彦)から襲名している人物が継体天皇の時代まで続いていたことを示している。
『三国史記』の百済の武寧王517年に「十六年春三月戊辰朔日有食之」と記述されているが、この日は壬戌で三月戊辰朔は516年と一年ずれていて、武寧王は「二十三年・・・夏五月王薨」と524年に薨じたことになるが、1年ずれているのだから523年に薨じ、継体天皇十七年記事は正しいことがわかり、東城王が23年12月に薨じたが、武寧王元年が数日あっただけということだ。
朝鮮の日干支は日本と交流中のみ日食関係で記述されるのがほとんどで、2~3例のみ日干支が記述されるが、それ以外は月が最小単位で、新羅は201年まで、百済は592年まで、高句麗
は612年までで、新羅は572年に「冬十月二十日」と日付を記述し、百済も633年、高句麗も643年に日付の記述を開始したが、中国は日干支を続け、日本は朔付きの日干支を記述し続けた。
すなわち、朝鮮の朔や晦の日干支は朝鮮以外の資料による記述の可能性が高く、日干支の朔の当てはめ間違いも3回あるだけだ。

2020年4月15日水曜日

最終兵器の目 継体天皇6

 『日本書紀』慶長版は
七年夏六月百濟遣姐彌文貴將軍洲利即爾將軍副穗積臣押山貢五經博士段楊爾別奏云伴跛國略奪臣國已汶之地伏願天恩判還本属秋八月癸未朔戊申百濟太子淳陀薨九月勾大兄皇子親聘春日皇女於是月夜清談不覺天曉斐然之藻忽形於言乃口唱曰野絁磨倶伱都磨磨祁哿泥底播屢比能哿湏我能倶伱伱倶婆絁謎鳴阿利等枳枳底與慮志謎鳴阿利等枳枳底莽紀佐倶避
能伊陀圖鳴飫斯毗羅枳倭例以梨魔志阿都圖唎都磨怒唎絁底魔倶囉圖唎都磨怒唎絁底伊慕我堤鳴倭例伱魔柯絶毎倭我堤嗚磨伊慕伱魔柯絁毎磨左棄逗囉多多仚阿藏播梨矢自(泪)矩矢慮于魔伊祢矢度伱伱播都等唎柯稽播儺倶儺梨奴都等利枳蟻矢播等余武婆絶稽矩謨伊麻娜以幡孺底阿開伱啓梨倭蟻慕妃和唱曰莒母唎矩能簸都細能哿波庾那峨例倶屢駄開能以矩美娜開余嚢開謨等等陛嗚磨莒等伱都倶唎湏衞陛嗚磨府曳伱都倶唎府企儺湏美母慮我紆陪伱能朋梨陀致倭我彌細磨都奴娑播符以簸例能伊聞能美儺矢駄府紆嗚謨紆陪伱堤堤那皚矩野湏美矢矢倭我於朋枳美能於魔細屢娑佐羅能美於寐能武湏弥陀例駄例夜矢比等母紆陪伱泥堤那皚矩冬十一月辛亥朔乙卯於朝庭引列百濟姐弥文貴將軍斯羅汶得至安羅辛巳奚及賁巴委佐伴跛既殿奚及竹汶至等奉恩勅以已汶帶沙賜百濟國是月伴跛國遣戢攴獻珍寶乞巳汶之地而終不賜國十二月辛已朔戊子詔曰朕承天緖獲保宗廟兢兢業業間者天下安靜海內清平屢致豊年頻使饒國懿哉摩呂古示朕心於八方盛哉勾大兄光吾風於萬國日本邕邕名擅天下秋津赫赫譽重王畿所寶惟賢爲善最樂聖化憑茲遠扇玄切藉此長懸寔汝之力宜處春宮助朕於仁翼五補闕
【七年の夏六月に、百済が、姐彌文貴將軍と州利即爾將軍を派遣して、穗積の臣の押山に付き添わせて、五經博士の段楊爾を献上した。「伴跛国が、私の国の己汶の地を略奪した。土下座してお願いしますから、天子の恩恵で判断して本の国に返してください」と特に奏上した。秋八月の朔が癸未の戊申の日に、百済の太子の淳陀が薨じた。九月に、勾の大兄の皇子が、みづから春日の皇女を妃に迎えた。この月の夜にまじめに話をして、知らず知らずに明け方になった。素晴らしく美しい言葉が俄かに口から出てきた。それで唱えた()。私の愛する妃も仲良く唱えた()。冬十一月の朔が辛亥の乙卯の日に、朝庭に、百済の姐彌文貴將軍が、斯羅の汶得至、安羅の辛已奚および賁巴委佐、伴跛の既殿奚および竹汶至達を引き連れて、勅命によって受けた恩恵を受けてお礼の宣言をした。己汶と滯沙を、百済国に与えた。この月に、伴跛国の、戢支を派遣して、珍宝を献上して、自分が失った地を欲しがったがとうとう与えなかった。十二月の朔が辛巳の戊子の日に、「私は天子の始祖を承って、天子の祠を続けることが出来て、恐れつつしんで勤めた。これまで、天下はやすらかで皆が従い、海の内側は清々しくあたりまえの生活が出来、すこし年を取ったが、とても国が豊かになった。素晴らしい事だ、摩呂古よ、私の心を四方八方に指し示すことが出来た。とても栄えたぞ、勾の大兄よ、私のしかたを多くの国に威光を示すことが出来た。日本は和らいで、私の名は天下中に例を見ない。秋津は勢いよく、良い評判は私が統治する王都に重しとなっている。大事なのは賢い人が善政をすることで最も愛される。あがめられる国にしようとすることで遠くまで風を起こすことが出来、奥深い功績によって長い間託すことが出来る。
本当にお前の力が必要だ。はじめから宮に居て、私を助けていつくしみほどこして、私の助けとなって足りないところを補ってほしい」と言った。】とあり、八月癸未は8月2日で7月が小の月なので、大の月なら標準陰暦と合致するが九月も小の月で後ろもズレてしまうが、それ以外は標準陰暦と合致する。
八月の朔が癸未なのは482年、425年があり、『三国史記』の毗有王は「久尒辛王之長子或云腆支王庶子」とどちらの子かわからなと記述しているが、425年に久尒辛王の長子すなわち太子が薨去していたとすれば話がよく通る。
『三国史記』の記述は阿莘王397年に「六年夏五月王與倭國結好」、402年に「十一年・・・五月遣使倭國求大珠」、403年に「十二年春二月倭國使者至王迎勞之特厚」、腆支王の405年に「腆支在倭聞訃哭泣請歸倭王以兵士百人衛送・・・腆支留倭人自衛」、409年に「五年倭國遣使 送夜明珠 王優禮待之」、418年に「十四年夏遣使倭國送白綿十匹」、毗有王の428年に「二年春二月・・・倭國使至從者五十人」 と交流が有り、これ以降653年まで途絶える。
『三国史記』が倭に朝貢や人質に出したなどと記述しているのだから、500年代に倭と交流があれば当然記述されるだろうから、一切『三国志記』で記述しない扶桑国・秦王国の力を頼り、倭は倭の五王に当てられると思われる阿知使主と都加使主が畿内政権に帰順して配下となったため記述されなくなったと思われる。
そして、この王朝の始まりの宣言は、物部氏の王朝が石上神宮に宗廟を既に持っており、新しい王朝というのは不自然だが、蘇我氏の倭国王朝としてなら、良く合致し、太子が勾大兄で「勾大兄皇子是爲廣國排武金」と蘇我氏の役職名で、天皇なら「廣國排武」などの国名や功績などを付加しない。

2020年4月13日月曜日

最終兵器の目 継体天皇5

 『日本書紀』慶長版は
「二年冬十月辛亥朔癸丑葬小泊瀬稚鷦鷯天皇于傍丘磐杯丘陵十二月南海中耽羅人初通百濟國三年春二月遣使于百濟括出在任日本縣邑百濟百姓浮逃絶貫三四世者並遷百濟附貫也五年冬十月遷都山背筒城六年夏四月辛酉朔丙寅遣穗積臣押山使於百濟仍賜筑紫國馬四十匹冬十二月百濟遣使貢調別表請任那國上哆唎下哆唎娑陀牟婁四縣哆唎國守穗積臣押山奏曰此四縣近連百濟遠隔日本且暮易通鶏犬難別今賜百濟合爲同國固存之策無以過此然縱賜合國後世猶危況爲異場幾年能守大伴大連金村具得是言同謨而奏廼以物部大連麁鹿火宛宣勅使物部大連方欲發向難波館宣勅於百濟客其妻固要曰夫住吉神初以海表金銀之國髙麗百濟新羅任那等授記胎中譽田天皇故大后息長足姫尊與大臣武內宿祢毎國初置官家爲海表之蕃屏其來尚矣抑有由焉縱削賜他違本區域綿世之刺詎離於口大連報曰教示合理恐背天勅其妻功諫云稱疾莫宣大連依諫由是改使而宣勅付賜物幷制肯依表賜任那四縣大兄皇子前有縁事不開賜國晩知宣勅驚悔欲改令曰自胎中之帝置官家之國輕隨蕃乞輙示賜乎乃遣日鷹吉士改宣百濟客使者荅啓父天皇圖計便宜勅賜既畢子皇子豈違帝勅妄改而令必是虛也縱是實者持杖大頭打孰與持杖小頭打痛乎遂罷於是或有流言曰大伴大連與哆唎國守穗積臣押山受百濟之賂矣」
【二年の冬十月の朔が辛亥の癸丑の日に、小泊瀬稚鷦鷯天皇を傍丘の磐杯の丘の陵に葬った。
十二月に、南の海中の耽羅の人が、はじめて百済国に通じた。三年の春二月に、使者を百済に派遣した。日本に任せられた縣や邑の百済の百姓が逃げ出して本籍から断絶して三四世になってしまった者を一括りにして一緒に百済へ移して戸籍に付けた。五年の冬十月に、都を山背の筒城に遷した。六年の夏四月の朔が辛酉の丙寅の日に、穗積の臣の押山を派遣して、百済への使者とした。それで筑紫の国の馬を四十匹を与えた。冬十二月に百済が、使者を派遣して税を献上した。別に表を奏上して任那の国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四縣を求めた。哆唎の国守の穗積の臣の押山が、「この四縣は、百済に近く接して、日本には遠くて隔たっている。一昼夜で行き来出来て、鶏と犬の鳴き声とを比べられず、どちらか一方しか聞けません。今は百済に与えて、合せて同じ国にすれば、固く我が国の政策が保たれてこれに過ぎた考えは無い。しかし、ほしいままに与えて国を併せても、後世では約束が守られるか危うい。いわんや立場が異なれば、数年ですら守ることが出来ないだろう」と奏上した。大伴の大連の金村は、何人もがこのように言うので、考えに同意して奏上した。それで物部大連麁鹿火に、詔勅の宣下の使者に当てた。物部大連が、丁度、難波の館に着き、百済の客に詔勅を宣下しようとしたところ、その妻が「それは住吉の大神が、はじめて海の向こうの金銀がたくさんある国の、高麗・百済・新羅・任那等を、腹の中の誉田天皇に授けて記述した。それで、大后の息長足姫の尊は、大臣の武内の宿禰と、国毎に初めて官家を置いて、海の向こうの外国に対する堺として、それから今に至るまでだいぶ経過した。これがそもそもの理由だ。百済の欲しいままに領地を割いて与えれば、本来の境界の領域と異なる。ずっと後世まで棘が刺さった様に、いつまでも皆の誹謗を受けることになる」と頑なに引きとどめた。大連は「言うことは理に適うが、おそらく、天皇の詔勅に背く」と答えた。その妻は「病気だと言って宣下しなさるな」とひたすらいましめた。大連は諌言に従った。それで、使者を変えて詔勅を宣下した。賜物に併せてその通知の書を付けて、表で任那の四縣を与えた。大兄の皇子は、以前からの事情の原因を知っていて、国を与えることに関わっていなくて、後で詔勅の宣下を知った。驚いて悔しがって撤回しようとした。「腹の中の帝の時から、官家を置いた国を、軽々しく外国が求めるまゝに、訳もなく与えてはならない」と命じた。それで日鷹の吉士を派遣して、改めて百済の客に宣下した。使者は「父の天皇が、都合よく計画して、詔勅を与えたことはもう後戻りできないことだ。子である皇子が、どうして帝の詔勅に逆らって、節度がなく命令を変えるのか。きっとこれは真実ではない。たとえ、これが真実なら、杖の大きい端を持って打つか、杖の小さい端を持って打つかどちらが痛いか考えなさい」と答て、とうとう帰ってしまった。そこで、有る人物が「大伴の大連と、哆唎の国守の穗積の臣の押山とが、百済の賄賂を受け取った」と言いふらした。】とあり、標準陰暦と合致する。
『三国史記』の東城王498年に「二十年八月王以耽羅不修貢賦親征至武珍州耽羅聞之遣使乞罪乃止耽羅卽耽牟羅」と10年の誤差があるが、おそらく、顕宗天皇2年の出来事を継体天皇2年に挿入したと考えられる。
『百濟本記』の久羅麻致支彌は車持君の可能性が高く、404年履中天皇5年に筑紫の部と部民を勝手に奪ったと断罪され筑紫三神に奉納させたとするが、天武13年に「胸方君車持君・・・賜姓曰朝臣」と天武年間まで車持部の王で、車持君は宗像王と同盟していることが解る。
そして、『三国史記』の武寧王511年に「十年春正月下令完固隄防驅內外游食者歸農」と日本府の中の百済人を百済に引き渡し、その人々が帰農したと考えられ、東城王・阿莘王・腆支王・毗有王の時に倭に朝貢や人質を送って、当然、戦闘で領民も奪われたと考えられる。
この人々の3・4世が90年後に百済に返されたが、「毗有王以降義慈王」まで倭と交友が無く、武寧王は扶桑国もしくは秦王国から領民を返されたようで、4縣贈与も『三国史記』の毗有王428年に「二年春二月王巡撫四部賜貧乏穀有差倭國使至從者五十人」の記事が対応しそうで、倭が分裂して離れた領地が車持部で、その王朝の大王が蘇我氏だった可能性がある。
すなわち、継体紀の記述には400年代の王の事績も含まれていることを考えて究明しなければならない。

2020年4月10日金曜日

最終兵器の目 継体天皇4

 『日本書紀』慶長版は
三月庚申朔詔曰神祗不可乏主宇宙不可無君天生黎庶樹以元首使司助養令全性命大連憂朕無息被誠款以國家世世盡忠豈唯朕日歟宜備禮儀奉迎手白香皇女甲子立皇后手白香皇女脩教于内遂生一男是爲天國排開廣庭尊是嫡子而多年於二兄治後<??ここまで『▽▽』の中に記述>有其天下戊辰詔曰朕聞土有當年而不耕者則天下或受其飢矣女有當年而不績者天下或受其寒矣故帝王躬耕而勸農業后妃親蚕而勉桑序况厥百寮曁于萬族廢棄農績而至殷富者乎有司普告天下令識朕懷癸酉納八妃元妃尾張連草香女曰目子媛生二子皆有天下其一曰勾大兄皇
子是爲廣國排武金日尊其二曰檜隈髙田皇子是爲武小廣國排盾尊次妃三尾角折君妹曰稚子媛生大郎皇子與出雲皇女次坂田大跨王女曰廣媛生三女長曰神前皇女仲曰茨田皇女少曰馬來田皇女次息長真手王女曰麻績娘子生荳角皇女是侍伊勢大神祠次茨田連小望女曰關媛生三女長曰茨田大娘皇女仲曰白坂活日姫皇女少曰比野稚郎皇女次三尾君堅楲女曰倭媛生二男二女其一曰大娘子皇女其二曰椀子皇子是三國公之先也其三曰耳皇子
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其四曰赤姫皇女次和珥臣河內女曰荑媛生一男二女其一曰稚綾姫皇女其二曰圓娘皇女其三曰厚皇子次根王女曰廣媛生二男長曰兔皇子是酒人公之先也少曰中皇子是坂田公之先也是年也太歲丁亥
【三月の庚申が朔の日に、「神祇に()主が不足してはならない。この世には主君が無くてはならない。天神は庶民を生み、元首を打ち立てて、助け養うことを任せ、私は授かった運命を全うしよう。大連は、わたしの子息が無いことを憂いて、正直なところを打ち明けて、国家に、代々忠義を尽くした。けっして私が言っているだけでない。礼儀を持って、手白香の皇女を迎なさい」と詔勅した。甲子の日に、手白香の皇女を皇后に立てて、中に導いた。それで一人の男子を生んだ。これを天國排開廣庭の尊といった。これが嫡子で何年も経って二人の兄が国を統治した後で、天下を治めた。戊辰の日に、「私が聞いたところ、軍人が時節道理に耕作しないときは、天下が飢えることがある。女が時節道理につむがないと、天下が凍えることがある。それで、帝王がみずから耕作して、農業を推進し、后妃が自ら蚕が育つよう、桑が育つ始めに仕事をはげむ。ましてやぬかづく官僚から、人民にいたるまで、耕し紡がなければ、栄えて豊かになるはずがない。役人たちよ、天下にあまねく知らせて、決まりとしなさい」と詔勅した。癸酉の日に、八人の妃を召し入れた。最初の妃は、尾張の連の草香の娘で目子媛といった。二人の子を生んだ。皆、天下人だった。その一人を勾大兄の皇子と言った。これを廣國排武金日の尊と呼んだ。二人目を桧隈高田の皇子と言った。これを武小廣國排盾の尊と呼んだ。次の妃は、三尾の角折の君の妹の稚子媛いう。大郎の皇子と、出雲の皇女とを生んだ。次に、坂田の大跨の王の娘を廣媛という。三人の女子を生んだ。長女を神前の皇女という。中の子を茨田の皇女という。小さい子を馬來田の皇女という。次に、息長の眞手王の娘を麻績の娘子という。荳角の皇女を生んだ。この姫は伊勢の大神を祠った。次は、茨田の連の小望の娘の關媛という。三人の女子を生んだ。長女を茨田の大娘の皇女という。中の子を白坂活日姫の皇女という。小さい子を小野の稚郎の皇女という。次に、三尾の君の堅楲の娘を倭媛という。二人の男子と二人の女子を生んだ。一人を大娘子の皇女という。二番目を椀子の皇子という。この皇子は三国公の先祖だ。三番目を耳の皇子という。
四番目を赤姫の皇女という。次に、和珥の臣の河内の娘を荑媛という。一人の男子と二人の女子を生んだ。一番目を稚綾姫の皇女という。二番目を圓娘の皇女という。三番目を厚の皇子という。次に、根の王の娘を廣媛という。二人の男子を生んだ。長子を兔の皇子という。酒人の公の先祖だ。小子を中の皇子という。坂田の公の先祖だ。この年は、太歳が丁亥だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
手白香皇女は雄略天皇の皇后の春日大娘皇女の娘で「和珥臣深目之女童女君」が祖母で和珥臣の血統、和珥臣は伊勢遺跡の天皇の末裔でもちろんこの姫も襲名で雄略天皇の娘だったら化け物になってしまい、春日大娘皇女の3代くらい後で、皇后となるのに十分な血統、しかも、仁賢天皇の娘で巨勢氏の配下も異存が無い皇后で、天皇本人も物部氏と血統として申し分ない。
そして、三尾君の娘たちは「天皇父聞振媛顏容沿妙甚有媺色自近江國高嶋郡三尾之別業」と三尾に住んでいた蘇我の稲目の兄弟若しくは従弟の娘で襲名した稲目や馬子の妃たちと思われ、倭彦と三尾君堅楲は三尾君堅楲の娘に倭姫がいることから義理の親子の可能性が高い。
また、息長真手王の義理の息子が男大迹で、息長足日廣額につながり、継体天皇の妃と呼ばれているが、その継体天皇が何人かすなわち、蘇我氏や物部氏・大伴氏・巨勢氏の王を合算した説話で、これらの妃の夫は異なる。
すなわち、天皇の命令もどの王の命令か考慮が必要で、金村が継体天皇として表記する時は物部氏が大連で、物部氏が天皇として表記するときは金村が大連で、これが本来の姿と考えられる。
安閑・宣化天皇の母は尾張連の姫だが、『古事記』では「尾張連等之祖凢連之妹」と尾張連賜姓前の凢連の妹と記述され、尾張連を賜姓されたのは、『舊事本紀』「品太天皇御世賜尾治連姓」と応神天皇の時、この応神天皇は390年頃即位の建内宿禰で、この天皇即位時に前皇太子の尾綱根が尾張連を賜姓されたので、この兄弟が目子媛となり、尾張氏と義兄弟になった人物の6世の孫が継体天皇の一人で、その子が安閑・宣化天皇になる。