『日本書紀』慶長版は
「二十一年夏六月壬辰朔甲午近江毛野臣卒衆六萬欲往任那爲復興建新羅所破南加羅喙巳呑合任那於是筑紫國造磐井陰謨叛逆猶預經年恐事難成恒伺間隙新羅知是密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍於是磐井掩據火豊二國勿使修職外邀海路誘致髙麗百濟新羅任那等國年貢職舩內遮遣任那毛野臣軍亂語揚言曰今爲使者昔爲吾伴摩肩觸肘共器同食安得卒爾爲使俾余自伏伱前遂戰而不受驕而自矜是以毛野臣乃見防遏中途淹滯天皇詔大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人等曰筑紫磐井反掩有西戎之地今誰可將者大伴大連等僉曰正直仁勇通於兵事今無出於麁鹿火右天皇曰可秋八月辛卯朔詔曰咨大連惟茲磐井弗卒汝徂征物部麁鹿火大連再拜言嗟夫磐井西戎之姧猾負川阻而不庭憑山峻而稱亂敗德反道侮嫚自賢在昔道臣爰及室屋助帝而罰拯民塗炭彼此一時唯天所賛臣恒所重能不恭伐詔曰良將之軍也施恩推惠恕己治人攻如河決戰如風發重詔曰大將民之司命社稷存亡於是乎在勗哉恭行天罰天皇親操斧鉞授大連曰長門以東朕制之筑紫以西汝制之專行賞罰勿煩頻奏」
【二十一年の夏六月の朔が壬辰の甲午の日に、近江の毛野の臣が、兵士六萬人を率いて、任那に進軍して、新羅に破られた南加羅・喙己呑を復興して、任那に併せようとした。それに対して、筑紫の国造の磐井が、密かに反逆を謀ったが、それに対抗しないで、ぐずぐず引き延ばして何年も経ってしまった。磐井の征伐が出来なかった事を恐れて、いつも磐井の隙を伺っていた。新羅は、これを知って、密に賄賂を磐井の所に持って行って、毛野の臣の軍をふせぎとめてほしいと働きかけた。それで、磐井は、火と豊の二国の後ろ盾となって、職務を遂行しなかった。日本海では海路で待ち伏せし、高麗や百済新羅任那達の国の務めとしての年貢の船を招き寄せて、瀬戸内海では任那に派遣する毛野の臣の軍を遮って、やたら声を大にして「今こそ使者の役目を果たせ、昔は私の中間として、肩を摺り寄せ手を取り合って、同じ釜の飯を共にした。どうしてだしぬけに使者となって、お前に従わせて私をしもべとするか」と言って、とうとう戦って受諾せず、強く誇りを持っていた。それで、毛野の臣は、防ぎとめられて、なかなか順調に進軍できないで、とどこおった。天皇は、大伴の大連の金村と物部の大連の麁鹿火と許勢の大臣の男人達に「筑紫の磐井が反逆して通行を閉ざして、西の戎の地を自分のものにした。今こそ誰が将軍になって戦うべきか」と詔勅した。大伴の大連達はことごとくが、「うそや偽りのなくいつくしみふかくして勇氣あって軍事に関する事柄に精通しているのは、今となっては麁鹿火の右に出る者が無い」と言った。天皇は、「解った」と言った。秋八月の辛卯が朔の日に「相談して決めたが、大連よ、磐井が従わないのでお前が出かけて行って征伐しろ」と詔勅した。物部麁鹿火大連は、二度拝礼して 「なんということか、その磐井は西の戎のよこしまで、悪がしこいやつだ。川を隔てていることを理由に出仕しない。山が急峻だと言って山賊を反乱と言う。品性は損ない道徳を踏み外す。我々を侮辱しておごり高ぶって自分は賢者と思っている。昔は道の臣から今の室屋まで、帝を助けて悪事に対して報いを与えた。人民を泥や火の中にいるようなひどい苦しみから救ったことは、あれもこれもほんの一瞬のことだった。ただ天が讃えるのは、私が何時も重責にあるからだ。無礼者をきっと征伐します」と言った。「すぐれた将軍が率いる軍隊だ。情けを施して思いやりを推し進めて、人を治めなさい。河を引き裂くように攻め、風が吹き立つように戦いなさい」と詔勅した。「大將軍は人民がたのみとするものだ。国家が存続するか消滅するかはこの戦いに有る。はげめ。礼儀を忘れてはならないが、進軍して天罰を与えろ」と重ねて詔勅した。天皇は、みづからまさかりを手に取って、大連に授けて「長門から東を私が押さえよう。筑紫から西をお前が押さえなさい。お前がやりたいように賞罰を行いなさい。くり返し奏上するような煩わしい事は不要だ。」と言った。】とあり、標準陰暦と合致する。
磐井軍は火と豊を押さえて瀬戸内から日本海に出られないようにしているのだから、関門海峡を支配していて、山口県側はやはり豊国ということになる。
倭王武は『宋書』の順帝昇明二年478年に「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國・・・武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」と記述され、福岡平野の須恵器が6世紀になって福岡平野以外で出土していることから、毛人五十五國が豊国で衆夷六十六國が筑後や肥後で倭国自体は福岡平野と肥前などで『後漢書』の「三十許國」から糟屋郡を盗られて、大宰府を奪っていると考えられ、その結果、磐井の墓が八女に造られた。
『梁書』に「文身國在倭國東北七千餘里」とこの距離は短里の1里50mで350Kmだが、875里と短理で報告し、それに対して梁朝は長里の報告と考え、倭国は短里と知っているのでそれを8倍して7千里としたと考え、糟屋郡から東北45Kmの北九州市が文身国と考た。
すなわち、蘇我氏は俀国から独立した倭国王になる人物なので、文身国王の可能性が高く、この時期の豊国は北九州市から周防まで、そして、後に蘇我氏は「廣國押武金日」・「武小廣國押盾」・「天國排開廣庭」と広国を取ったという名前を得ていて、大漢国が広国の可能性が高く、『梁書』の「大漢國在文身國東五千餘里」と周防から30Kmの安芸の可能性が高い。
ちなみに、『梁書』に「扶桑在大漢國東二萬餘里」とあるので、広島から120Kmと岡山から扶桑国となる。
そして、物部麁鹿火大連の言葉は実際は道臣から室屋までと大伴大連金村の言葉、内容は平郡王朝時代の話、出撃したのは大伴大連金村で、関門海峡での分割を申し出た天皇は物部目で、物部麁鹿火に九州を自分が豊国以東を取ると相談した反逆者で、巨勢・大伴対物部・蘇我・磐井の戦いである。
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