2020年4月22日水曜日

最終兵器の目 継体天皇9

  『日本書紀』慶長版は
二十二年冬十一月甲寅朔甲子大將軍物部大連麁鹿火親與賊帥磐井交戰於筑紫御井郡旗鼓相望埃塵相接決機兩陣之間不避萬死之地遂斬磐井果定壇場十二月筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪二十三年春三月百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰夫朝貢使者恒避嶋曲毎苦風波因茲濕所齎全壞無色請以加羅多沙津爲臣朝貢津路是以押山臣爲請聞奏是月遣物部伊勢連父根吉士老等以津賜百濟王於是加羅王謂勅使云此津從置官家以來爲臣朝貢津渉安得輙改賜隣國違元所封限地勅使父根等因斯難以面賜却還大嶋別遣錄史果賜扶余由是加羅結儻新羅生怨日本加羅王娶新羅王女遂有兒息新羅初送女時幷遣百人爲女從受而散置諸懸令着新羅衣冠阿利斯等嗔其變服遣使徵還新羅大羞翻欲還女曰前承汝聘吾便許婚今既若斯請還王女加羅已富利知伽報云配合夫婦安得更離亦有息兒棄之何往遂於所經拔刀伽古跛布那宇羅三城亦拔北境五城是月遣近江毛野臣使于安羅勅勸新羅更建南加羅喙已呑百濟遣將軍君尹貴麻那甲背麻鹵等往赴安羅式聽詔勅新羅恐破蕃國官家不遣大人而遣夫智奈麻禮奚奈麻禮等往赴安羅式聽詔勅於是安羅新起髙堂引昇勅使國主隨後昇階國內大人預昇堂者一二百濟使將軍君等在於堂下凢數月再三謨謀乎堂上將軍君等恨在庭焉
【二十二年の冬十一月の朔が甲寅の甲子の日に、大將軍の物部大連の麁鹿火は、自ら賊の王の磐井と、筑紫の御井郡で交戦した。軍旗と太鼓を互いに見合って、巻き立つちりやほこりが互いに交わった。両陣営の間を重要拠点と考えて、到底命が助からないと思ってもそこから逃げ出さなかった。とうとう磐井を斬って、それで、領土を決めた。十二月に、筑紫君の葛子は、父のとがめのまきぞえになる事を恐れて、糟屋の屯倉を献上して、死罪のかわりにと願い出た。二十三年の春三月に、百済の王、下哆唎国守の穗積の押山臣に「朝貢の使者は、いつも岬を避けいつも波風に苦しんでいます。それで、持って来た貢物が濡れてすべてが色あせて損なってしまう。お願いします。加羅の多沙の津を、私達の朝貢する基地としたい」と言った。それで、押山臣は願いを聞き入れて奏上した。この月に、物部の伊勢連の父根と吉士の老達を派遣して、津を百済の王に与えた。そこで、加羅の王は、勅使に「この津は、官家を置いてから、私が朝貢する経過地の港だ。どうして簡単に決まりを変えて隣国に与えることが出来るのか。境界を決めて任された領土なのに決まりと違っている」と言った。勅使の父根達は、このように、直面して、与えれないと思って、大嶋にすごすごと帰ってきた。別の使者を派遣して扶余に与えたと記録されている。このために、加羅は、新羅と友好を結んで、日本を怨むようになった。加羅の王は、新羅の王の娘を娶って、子が生まれた。新羅は、はじめ、女を送る時に、併せて百人を派遣して、女の従者とした。それを受けて諸縣に別け置いて、新羅の衣冠を着せた。阿利斯等が、その服を変えたことに怒り恨んで(仏教用語)、使者を派遣してつき返した。新羅はとても恥をさらしたと、もう一度女を返そうとして、「以前お前との婚姻の求めを聞いて、私はそれを許して婚姻させた。今、このように女どもを返されてしまったので、王の娘を返してほしい」と言った。加羅の己富利知伽が「夫婦を取り合わせておいて、どうして今更離れ離れに出来ましょうか。さらに、子も有るのにそれを捨ててどこに行けましょうか。」と報告した。それで、新羅と加羅の間へ進軍して、刀伽と古跛と布那牟羅の、三つの城を奪い取った。また、北の境界の五つの城を奪い取った。この月に、近江の毛野臣を使者として、安羅に派遣した。詔勅で新羅に、更に、南加羅と喙已呑を建国させた。百済は、將軍の君の尹貴と麻那甲背と麻鹵等を派遣して、安羅に出向いて、詔勅を形式にのっとって聞いた。新羅は、外国の官家を侵略したことを咎められることを恐れて、大物を派遣しないで、夫智奈麻禮と奚奈麻禮等を派遣して、安羅に出向いて、詔勅を形式にのっとって聞いた。それで、安羅は、新にりっぱな御殿を建てて、勅使を引き連れて昇った。国主は、勅使の後について段を昇った。国内の大物が、一緒に御殿に上った者は十二人だった。百済の使者の將軍の君達は、御殿の下に座らされた。全部で数ヶ月の間、再三、御殿に登ろうとしたが、登れずに庭に座らされたことを恨んだ。】とあり、廿二年十一月甲寅は10月30日で10月が小の月なら標準陰暦と合致する。
前項で、「近江毛野臣卒衆六萬欲往任那爲復興」と任那を復興しようと6万もの大船団を向かわせたにもかかわらず、磐井軍すなわち倭国軍によって阻止された為、磐井と戦争になったのだが、磐井との対戦相手は既に継体年号を建元した物部秦王国で、勝ったら物部目が本州、、物部麁鹿火が筑紫以西と皮算用している。
しかし、倭国の象徴の糟屋郡を渡しただけで命が救われることなど考えられず、しかも、葛子は筑紫君と国造から出世してしまっているのだから、実際のところ、秦王国は葛子を懐柔して、蘇我氏が倭国王を名乗るのだから、糟屋郡を手中にしたのは蘇我氏と解る。
私はこの闘いに乗じて517年に大漢国を発展させて天皇を名乗る秦王国が誕生して建元したのであり、倭と文身国と大漢国が連合して扶桑国を滅ぼし、秦王国が直接朝鮮経営に乗り出そうとしたが、尾張王朝以降に朝鮮経営を行っていた倭国が邪魔なので、文身国とともに倭を攻めて勝利して、糟屋郡と倭国号を文身国が取り、朝鮮の経営権を秦王国が取ったと思われる。
任那復興軍は、倭国に取られた朝鮮経営を取り戻そうとした軍隊で、倭国もそれまで同程度以上の軍を朝鮮に配していたと考えられる。
また、伽耶と新羅の同盟は『三国史記』に522年法興王九年に「春三月加耶國王遣使請婚王以伊飡比助夫之妹送之」、524年法興王十一年に「秋九月王出巡南境拓地加耶國王來會」 と同様な記事が記述され、『日本書紀』と誤差が有り、507年に遷都した巨勢王朝や517年即位の物部王朝と異なる、おそらく、標準陰暦と合致しない朔の記事なのだから磐井の604年頃即位して22年の記事と考えられる。

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