2020年4月10日金曜日

最終兵器の目 継体天皇4

 『日本書紀』慶長版は
三月庚申朔詔曰神祗不可乏主宇宙不可無君天生黎庶樹以元首使司助養令全性命大連憂朕無息被誠款以國家世世盡忠豈唯朕日歟宜備禮儀奉迎手白香皇女甲子立皇后手白香皇女脩教于内遂生一男是爲天國排開廣庭尊是嫡子而多年於二兄治後<??ここまで『▽▽』の中に記述>有其天下戊辰詔曰朕聞土有當年而不耕者則天下或受其飢矣女有當年而不績者天下或受其寒矣故帝王躬耕而勸農業后妃親蚕而勉桑序况厥百寮曁于萬族廢棄農績而至殷富者乎有司普告天下令識朕懷癸酉納八妃元妃尾張連草香女曰目子媛生二子皆有天下其一曰勾大兄皇
子是爲廣國排武金日尊其二曰檜隈髙田皇子是爲武小廣國排盾尊次妃三尾角折君妹曰稚子媛生大郎皇子與出雲皇女次坂田大跨王女曰廣媛生三女長曰神前皇女仲曰茨田皇女少曰馬來田皇女次息長真手王女曰麻績娘子生荳角皇女是侍伊勢大神祠次茨田連小望女曰關媛生三女長曰茨田大娘皇女仲曰白坂活日姫皇女少曰比野稚郎皇女次三尾君堅楲女曰倭媛生二男二女其一曰大娘子皇女其二曰椀子皇子是三國公之先也其三曰耳皇子
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其四曰赤姫皇女次和珥臣河內女曰荑媛生一男二女其一曰稚綾姫皇女其二曰圓娘皇女其三曰厚皇子次根王女曰廣媛生二男長曰兔皇子是酒人公之先也少曰中皇子是坂田公之先也是年也太歲丁亥
【三月の庚申が朔の日に、「神祇に()主が不足してはならない。この世には主君が無くてはならない。天神は庶民を生み、元首を打ち立てて、助け養うことを任せ、私は授かった運命を全うしよう。大連は、わたしの子息が無いことを憂いて、正直なところを打ち明けて、国家に、代々忠義を尽くした。けっして私が言っているだけでない。礼儀を持って、手白香の皇女を迎なさい」と詔勅した。甲子の日に、手白香の皇女を皇后に立てて、中に導いた。それで一人の男子を生んだ。これを天國排開廣庭の尊といった。これが嫡子で何年も経って二人の兄が国を統治した後で、天下を治めた。戊辰の日に、「私が聞いたところ、軍人が時節道理に耕作しないときは、天下が飢えることがある。女が時節道理につむがないと、天下が凍えることがある。それで、帝王がみずから耕作して、農業を推進し、后妃が自ら蚕が育つよう、桑が育つ始めに仕事をはげむ。ましてやぬかづく官僚から、人民にいたるまで、耕し紡がなければ、栄えて豊かになるはずがない。役人たちよ、天下にあまねく知らせて、決まりとしなさい」と詔勅した。癸酉の日に、八人の妃を召し入れた。最初の妃は、尾張の連の草香の娘で目子媛といった。二人の子を生んだ。皆、天下人だった。その一人を勾大兄の皇子と言った。これを廣國排武金日の尊と呼んだ。二人目を桧隈高田の皇子と言った。これを武小廣國排盾の尊と呼んだ。次の妃は、三尾の角折の君の妹の稚子媛いう。大郎の皇子と、出雲の皇女とを生んだ。次に、坂田の大跨の王の娘を廣媛という。三人の女子を生んだ。長女を神前の皇女という。中の子を茨田の皇女という。小さい子を馬來田の皇女という。次に、息長の眞手王の娘を麻績の娘子という。荳角の皇女を生んだ。この姫は伊勢の大神を祠った。次は、茨田の連の小望の娘の關媛という。三人の女子を生んだ。長女を茨田の大娘の皇女という。中の子を白坂活日姫の皇女という。小さい子を小野の稚郎の皇女という。次に、三尾の君の堅楲の娘を倭媛という。二人の男子と二人の女子を生んだ。一人を大娘子の皇女という。二番目を椀子の皇子という。この皇子は三国公の先祖だ。三番目を耳の皇子という。
四番目を赤姫の皇女という。次に、和珥の臣の河内の娘を荑媛という。一人の男子と二人の女子を生んだ。一番目を稚綾姫の皇女という。二番目を圓娘の皇女という。三番目を厚の皇子という。次に、根の王の娘を廣媛という。二人の男子を生んだ。長子を兔の皇子という。酒人の公の先祖だ。小子を中の皇子という。坂田の公の先祖だ。この年は、太歳が丁亥だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
手白香皇女は雄略天皇の皇后の春日大娘皇女の娘で「和珥臣深目之女童女君」が祖母で和珥臣の血統、和珥臣は伊勢遺跡の天皇の末裔でもちろんこの姫も襲名で雄略天皇の娘だったら化け物になってしまい、春日大娘皇女の3代くらい後で、皇后となるのに十分な血統、しかも、仁賢天皇の娘で巨勢氏の配下も異存が無い皇后で、天皇本人も物部氏と血統として申し分ない。
そして、三尾君の娘たちは「天皇父聞振媛顏容沿妙甚有媺色自近江國高嶋郡三尾之別業」と三尾に住んでいた蘇我の稲目の兄弟若しくは従弟の娘で襲名した稲目や馬子の妃たちと思われ、倭彦と三尾君堅楲は三尾君堅楲の娘に倭姫がいることから義理の親子の可能性が高い。
また、息長真手王の義理の息子が男大迹で、息長足日廣額につながり、継体天皇の妃と呼ばれているが、その継体天皇が何人かすなわち、蘇我氏や物部氏・大伴氏・巨勢氏の王を合算した説話で、これらの妃の夫は異なる。
すなわち、天皇の命令もどの王の命令か考慮が必要で、金村が継体天皇として表記する時は物部氏が大連で、物部氏が天皇として表記するときは金村が大連で、これが本来の姿と考えられる。
安閑・宣化天皇の母は尾張連の姫だが、『古事記』では「尾張連等之祖凢連之妹」と尾張連賜姓前の凢連の妹と記述され、尾張連を賜姓されたのは、『舊事本紀』「品太天皇御世賜尾治連姓」と応神天皇の時、この応神天皇は390年頃即位の建内宿禰で、この天皇即位時に前皇太子の尾綱根が尾張連を賜姓されたので、この兄弟が目子媛となり、尾張氏と義兄弟になった人物の6世の孫が継体天皇の一人で、その子が安閑・宣化天皇になる。

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