『日本書紀』慶長版は
「元年春三月丁丑朔戊寅立春日娘子爲皇后是年也太歲已卯二年秋九月刳孕婦之腹而觀其胎
三年冬十月解人指甲使掘暑預十一月詔大伴室屋大連發信濃國男丁作城像於水派邑仍曰城上也是月百濟意多郎卒葬於髙田丘上四年夏四月拔人頭髮使昇樹巓斮倒樹本落死昇者爲快
是歲百濟末多王無道暴虐百姓國人遂除而立嶋王是爲武寧王五年夏六月使人伏入塘楲流出於外持三刃矛刺殺爲快六年秋九月乙巳朔詔曰傳國之機立子爲貴朕無繼嗣何以傳名且依天皇舊例置小泊瀬舍人使爲代號萬歲難忘者也冬十月百濟國遣麻那君進調天皇以爲百濟歷年不脩貢職留而不放七年春二月使人昇樹以弓射墜而咲夏四月百濟王遣期我君進調別表曰前進調使麻那者非百濟國主之骨族也故謹遣斯我奉事於朝遂有子曰法師君是倭君之先也八年春三月使女躶形坐平板上牽馬就前遊牝觀女不淨沾濕者殺不濕者沒爲官婢以此爲樂及是時穿池起菀以盛禽獸而好田獵走狗試馬出入不時不避大風甚雨衣濕而忘百姓之寒食美而忘天下之飢大進侏儒倡優爲爛漫之樂設奇偉之戲縱靡靡之聲日夜常與宮人沈湎于酒以錦繡爲席衣以綾紈者衆冬十二月壬辰朔巳亥天皇崩于列城宮」
【元年の春三月の朔が丁丑の戊寅の日に、春日の娘子を皇后に立てた。この年は太歳が己卯だった。二年の秋九月に、妊娠した夫人の腹を裂いて、その胎児を観察した。三年の冬十月に、人の生爪を剥いで、夏野菜(自然薯?)を掘らせた。十一月、大伴の室屋の大連に「信濃国の一人前の男を集めて、城に似せた砦(?)を水派の邑に作れ」と詔勅した。それで城上と言った。この月に、百済の意多郎が亡くなった。高田の丘の上に葬った。四年の夏四月に、人の髪の毛を引き抜いて、木のてっぺんに登らせて、根元から木を切り倒して、転落死させることを楽しんだ。この歳に、百済の末多王が、人の道にはずれて、むごいことをして百姓をを苦しめた。国の人は、それで、王を排除して、嶋王を立てた。これを武寧王という。五年の夏六月に、人を溜池の樋に俯せに入れて、外に流れ出てきたところを、三刃の矛で、刺し殺してよろこんだ。六年の秋九月の乙巳が朔の日に、「国の要を伝えていくには自分の子を皇太子に立てることで貴ばれる。私は、後嗣が無い。何で王朝を伝えればよいのか。それで、天皇の旧例によると、小泊瀬の舍人を置いて、治世の名として、長く忘れられないようにしなさい」と詔勅した。冬十月に、百済国は、年貢を献上するため麻那君を派遣した。天皇は百済が何年も貢ぐ役割をしないので留めたまま放免しなかった。七年の春二月に、人を樹に昇らせて、弓で射墜して屈託なくわらった。夏四月に、百済の王が、斯我君を派遣して、貢物を献上した。別に上表文で、「前回に貢物を献上するために派遣した麻那は、百済国の王族ではない。それで、謹んで斯我を派遣して、朝廷のために献上した」とあった。それで斯我に子がいて、法師君といった。これは倭の君の先祖だ。八年の春三月に、女を裸にして、平板の上に坐らせて、馬を目の前に牽いてきて交尾させ、女の性器を観察した時、濡れ潤った者は殺し、湿らせていなかった者は奴隷にして、楽しんだ。この頃になると、池を掘って庭を造り、動物をたくさん放し、狩を楽しみ、犬を走らせて馬と競わせ、入ったきり出てこなかった。暴風雨が居座って、着物が濡れても、百姓が凍えることを忘れ、美食して天下の人々が飢えていることを忘れた。見識のない人や芸人を周りに置き、音楽が咲き乱れ、並はずれてりっぱな芝居小屋を設けて、華やかな嬌声を上げた。日夜いつも宮人と、酒色にふけってすさんだ生活を送り、刺繍を施した織物を晴れ着とし、染めた絹の衣を着た者が多かった。冬十二月の朔が壬辰の己亥の日に、天皇は、列城の宮で崩じた。】とあり、六年九月乙巳朔は9月2日、八年十二月壬辰朔は12月2日、共に前の月は小の月で大の月なら合致し、他は標準陰暦と合致する。
皇后春日娘子、『舊事本紀』は「春日娘女立為皇后」呼ばれる父が推古天皇の時代には残っていなくて不明、『古事記』には皇后すら記述されていないが、今までの実質女系による皇位継承から考えると、春日大娘皇女の娘、すなわち、天皇の従妹か「和珥臣日爪女糠君娘生一女是爲」と記述される春日山田皇女の可能性が高く、『日本書紀』には「一本云和珥臣日觸女大糠娘生一女是爲山田大娘皇女更名赤見皇女」と春日山田なのか山田なのか赤見なのか解らないがこれらの人物の一人が皇后でなければ武烈天皇の正統性が危うい。
百済記事は『三国史記』の東城王二十三年に「是以怨王
至是使人刺王至十二月乃薨諡曰東城王」、武寧王に「牟大在位二十三年薨卽位春正月佐平苩加據加林城叛王帥兵馬至牛頭城命扞率解明討之苩加出降
王斬之」と502年武烈天皇四年記事と合致し、同時代の両国の暴政を対比するように描いている。
しかし、武烈天皇の暴政記事には日干支が記述されず、武烈天皇六年の継嗣が無いと言う記述は顕宗天皇の記事と思われ、実際の悲惨な事件は507年以降の、継体25年531年に記述される「日本天皇及太子皇子倶崩薨由此而辛亥之歳當廿五年矣後勘校者知之也」の記事で崩じた仁賢天皇親子の事と考えられ、それが皇后の父の不記・不明の原因と考えられる。
そした、武烈天皇の母は雄略紀に「曰童女君生春日大娘皇女」と春日大娘、すなわち祖父が雄略天皇で実際の悪政が平郡王朝か巨勢王朝を対象にしたのか確証が得られず、後の王朝が前王朝を簒奪した言い訳を記述したことは確かなのだろう。
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