2020年4月29日水曜日

最終兵器の目 継体天皇12

 『日本書紀』慶長版は
是天皇聞其行狀遣人徵入而不肯來領以河內母樹馬飼首御狩奉詣於京而奏曰臣未成勅旨還入京鄕勞往虛歸慙恧安措伏願陛下待成國命入朝謝罪奉使之後更自謨曰其調吉士亦是皇華之使若先吾取歸依實奏聞吾之罪過必應重矣乃遣調吉士卒衆守伊斯枳牟羅城於是阿利斯等知其細碎爲事不務所期頻勸歸朝尚不聽還由是悉知行迹心生飜背乃遣久禮斯巳母使于新羅請兵奴湏久利使于百濟請兵毛野臣聞百濟兵來迎討背評傷死者半百濟則捉奴湏久利杻械枷鏁而共新羅圍城責駟阿利斯等曰可出毛野臣毛野臣嬰城自固勢不可擒於是二國圖度便地淹留弦晦筑城而還號曰久禮牟羅城還時觸路拔騰利枳牟羅布那牟羅牟雌枳牟羅阿夫羅久知波多枳五城冬十月調吉士至自任那奏言毛野臣爲人傲恨不閑治體竟無和解擾亂加羅又倜儻任意而思不防患故遣月頰子徵召是歲毛野臣被召到于對馬逢疾而死送葬尋河而入近江其妻歌曰比攞哿駄喩輔曳輔枳能朋樓阿苻美能野愷那能倭倶吾伊輔曳符枳能朋樓目頰子初到任那時在彼鄕家等賜歌曰柯羅屨伱嗚以柯伱輔居等所梅豆羅古枳駄樓武哿左屨樓以祇能和駄唎嗚梅豆羅古枳駄樓二十五年春二月天皇病甚丁未天皇崩于磐余土穗宮時年八十二冬十二月丙申朔庚子葬于藍野陵
【そこで、天皇は、その行いを聞いて、人を派遣して呼び出したが遣ってこなかった。河内の母樹馬飼の首の御狩に命じて、京に来させて、「私は、まだ詔勅の内容を完了させずに、都の地に帰ってきたら、苦労をねぎらいにやって来て何もなく帰ることになる。どうして大恥をそのままにしておけましょう。土下座してお願いしますのは、陛下、天皇の命令を完了させてから天皇の御殿の庭で謝罪しますから待っていただきたい」と奏上した。与えられた任務を奏上してから、また自ら「この調の吉士もまた、天皇の勅使だ。もし私より先に帰るようなことがあって、このように聞かされたら、わたしの罪はきっと重大だろう」と考えた。それで調の吉士を派遣して、軍を率いて伊斯枳牟羅の城を守らせた。そこで、阿利斯達は、よく聞いて、約束した勤めを果たさなかったことを知って、何度も都に帰るよう勧めたがそれでも帰ろうとしなかった。そのため、よく知ったうえで、裏切ろうとした。それで久禮斯己母を派遣して、新羅に使者を送って出兵を要請した。奴須久利を、百済に派遣して出兵を要請した。毛野臣は、百済の兵が来ると聞いて、背の評で迎え討った。傷を負って死んだ者が半数だった。百済は、奴須久利を捕えて、手枷・足枷・首枷でつないで、新羅と一緒に城を囲み、阿利斯等に「毛野臣を出せ」と罵倒した。毛野臣は、城で守って自ら固めたので勢いだけで生け捕りに出来なかった。それで、二国は、何度も考えて同じところに留まって一月経った。城を築いて還り、久禮牟羅の城と名付けた。帰る時に通達しがてら、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を奪った。冬十月に、調の吉士が、任那から帰って来て、「毛野臣は、人となりが傲慢で人の話を聞かず、国を治めようともしない。とうとう仲直りも出来ず、加羅をかき乱した。才気がすぐれている者に任せて、考えもしないで苦しみを防ごうともしない」と奏上した。それで、目頬子を派遣して呼び出した。この年に、毛野臣が、呼び出されて対馬に着いて、病気になって死んだ。送葬の時に、河を探しながら、近江に入った。その妻が歌った()。目頬子が、はじめて任那に着いた時に、その里に住む者達が、歌を贈った()二十五年の春二月に、天皇の、病がとてもひどかった。丁未の日に、天皇は、磐余の玉穂の宮で崩じた。その時、年齢は八十二だった。冬十二月の朔が丙申の庚子の日に、藍野の陵に葬った。】とあり、十二月丙申朔は11月30日で11月が小の月なら標準陰暦と合致する。
『日本書紀』の記述時に「或本云天皇二十八年歲次甲寅崩」と534年に崩じた資料が有って安閑天皇以降を継体天皇が28年に崩じたことを前提に記述しているが、継体紀は531年で終了させ、本来、安閑元年は継体28年なのに安閑元年正月に安閑天皇が遷都を行っている。
これは、継体年号を建元した天皇が534年に遷都しただけのことで、540年に天皇と宣言したと以前に述べたが、それに対応していて、すなわち、長男相続は同一人物とみなされ、継体天皇は535年から2代目が相続したことを示している。
この、継体天皇の死亡が531年でも534年2月でもないこと(継体の崩が甲寅年1月でないと合わない)、そして、安閑元年が534年正月からで2月からでないことが、王の生き死にで天皇が交替するのではなく、宮が変わった時に天皇が変わる、宮こそが天皇ということを継体天皇と安閑天皇の交代時期の説話で解るのである。
そして、「百濟本記爲文其文云太歲辛亥三月師進至于安羅營乞亡城是月髙麗弑其王安又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨由此而言辛亥之歲」と説明文に記述しているように、本来は初代継体天皇が534年に崩じたのだが、扶桑国天皇が531年に崩じて太子や皇子も薨じたとしているのだから、それに付随して継体紀の一部、秦王国の継体紀が3年前倒しになっているということだ。
すなわち、528年継体天皇二二年の磐井の乱は531年、529年継体天皇二三年の「巨勢男人大臣薨」は532年の可能性が高く、磐井の乱に乗じて扶桑国を壊滅させ、混乱を収拾するために、磐井の太子の葛子と取引して磐井が侵略した火国の領有を認め、豊国すなわち分身国王の蘇我氏を満足させるため糟屋郡と安芸すなわち倭国の故地の大漢国の領有を認めたと思われる。
そのため、蘇我氏の王朝は倭国を名乗り、蘇我氏の役職名の安閑・宣化・欽明天皇の名に広国の地名を持つ役職名を持った思われる。

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