『日本書紀』慶長版は
「男大迹天皇譽田天皇五世孫彥主人王之子也母曰振媛振媛活目天皇七世之孫也天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色自近江國髙嶋郡三尾之別業遣使聘于三國坂中井納以爲妃遂産天皇天皇幼年父王薨振媛廼歎曰妾今遠離桑梓安能得膝養余歸寧髙向奉養天皇天皇壯大愛士禮賢意豁如也天皇年五十七歲八年冬十二月已亥小泊瀬天皇崩元無男女可絶繼嗣壬子大伴金村大連議曰方今絶無繼嗣天下何所繋心自古迄今禍由斯起今足仲彥天皇五世孫倭彥王在丹波國桑田郡請試設兵仗夾衞乗輿就而奉迎立爲人主大臣大連等一皆隨爲奉迎如計於是倭彥王遙望迎兵懼然失色仍遁山壑不知所詣」
【男大迹天皇は、譽田天皇の五世の孫で彦主人王の子だ。母を振媛といい、活目天皇の七世の孫だ。天皇の父は、振媛の容貌が言いようもなく美しく、とてもよい表情だと聞いて、近江国の高嶋の郡の三尾の別業(私は別業を別荘ではなく領地・国元と考えている)から、使者を、三国の坂中井へ求めさせて、妃として迎え入れ、天皇を産んだ。天皇が幼い時に、父王が薨じた。振媛はそれで「私は今、遠く故郷(桑梓:詩経小雅小弁「維桑與梓必恭敬止靡瞻匪父靡依匪母」)を離れている。どうやって子を膝に乗せてのんびり養うことが出来ましょう。残された私は、高向に里帰りして天皇を養いたい」と嘆いた。天皇は、大きく立派で、軍人を慈しみ、賢い人を敬い、心は大きく小事にこだわらない。天皇が年齢五十七歳の時、武烈天皇八年の冬十二月の己亥の日に、小泊瀬天皇が崩じた。元から男女の子が無く、後継者が絶えるので、壬子の日に、大伴の金村の大連が「今跡継ぎが無く王朝が絶えようとしている。天下をどこに繋げたらよいのだろう。昔から今まで、災いはこんな時に起こる。現在、足仲彦天皇の五世の孫で倭彦王が、丹波国の桑田の郡にいる。武器を持った衛士に守らせた御輿で迎えに行って主になってもらおう」と相談した。大臣や大連達は、皆一緒になって相談したとおりに迎えに行った。そこで、倭彦の王は、遠くから迎えに来た行軍を見て、恐れおののいて、顔面蒼白になって、山奥に逃れてゆくえ知らずとなった。】とある。
『二中歴』の「継体五年元丁酉」から517年に継体天皇が即位したと述べたが、男大迹がこの継体天皇なら6世代経った人物が517年に即位するのだから、1世代(親子差)20年とすると410年頃に皇位にあった応神天皇の末裔となり、396年にはじまり453年に滅ぼされた葛城王朝の初代天皇の応神天皇である建内宿禰の末裔である蘇我氏の王の記述と考えられる。
もちろん、実際の継体天皇は『隋書』に秦王国と呼ばれる大国・大人国・辰(秦)国・神国と呼ばれた国の末裔の物部氏の天皇であるが、『日本書紀』の継体紀を記述したのは扶桑国を継ぐ倭国王の蘇我馬子なのだから何の遠慮もいらないし、男大迹は巨勢王朝最後の天皇名で、これ以降舒明天皇までは蘇我氏の役職王名である。
そして、最初に候補に挙がった倭彦で推挙したのが大伴氏であるが、倭と呼ぶ地域を雄略天皇は『史記』『漢書』『三国志』を読んで天国から天降った尾張氏を倭王と考え大和を倭と表記し、『三国志』の韓に接する倭から香椎宮の神功皇后を倭女王と表記しているので、倭はこの時日本海側に移動したとかんがえたのだろう。
それで、畿内の王朝は大倭、さらに葛城氏は日本と書き、百済の木滿致も大倭の支配下の人物とし、最初に書いた雄略天皇の『日本書紀』は日本>
大倭>
倭・百済という上下関係を記述し、さらに、推古紀に記述した『日本書紀』にも継承され、『隋書』の中の倭は蘇我氏の王朝として記述された。
そして、足仲彦天皇の五世の孫で倭彦は、「菟狹國造祖號曰菟狹津彦」のように、その土地の代表者が土地の名を冠して名付けられ、「名曰珍彦・・・賜名爲椎根津彦此即倭直部始祖也」「珍彦爲倭國造」と地位が倭国造で氏姓が倭直である。
『舊事本紀』に「孫物部伊莒弗連・・・此連公稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮倭國造祖比香賀君女玉彦媛為妻」と雄略天皇のときの倭国造が推古天皇時の倭国造ではないことから、4世紀後半に神武東侵があって珍彦が倭国造になった可能性が有る。
そして、『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」、『日本書紀』「屋主忍男武雄心命・・・娶紀直遠祖菟道彥之女影媛生武內宿祢」と武内宿祢の叔父が倭国造になり、武内宿祢の子が襲津彦すなわち熊襲の津の長官で日向が熊襲、日向国から神武天皇は出発し、信頼する配下は日臣すなわち火国の王で「大伴氏之遠祖日臣」と倭彦を推薦する氏族で最後の葛城氏の神武東征の人々が出揃って、それらの5世の孫が天皇の擁立の立役者になった。
神話に直結する時代に臣はそぐわないが、300年代なら不自然でも何でもないので、日向から日臣とともに襲津彦(屋主忍男武雄心)が紀伊の珍彦の力を借りて葛城の地に入り、神武天皇の武内宿祢が皇位を奪った。
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