2020年4月13日月曜日

最終兵器の目 継体天皇5

 『日本書紀』慶長版は
「二年冬十月辛亥朔癸丑葬小泊瀬稚鷦鷯天皇于傍丘磐杯丘陵十二月南海中耽羅人初通百濟國三年春二月遣使于百濟括出在任日本縣邑百濟百姓浮逃絶貫三四世者並遷百濟附貫也五年冬十月遷都山背筒城六年夏四月辛酉朔丙寅遣穗積臣押山使於百濟仍賜筑紫國馬四十匹冬十二月百濟遣使貢調別表請任那國上哆唎下哆唎娑陀牟婁四縣哆唎國守穗積臣押山奏曰此四縣近連百濟遠隔日本且暮易通鶏犬難別今賜百濟合爲同國固存之策無以過此然縱賜合國後世猶危況爲異場幾年能守大伴大連金村具得是言同謨而奏廼以物部大連麁鹿火宛宣勅使物部大連方欲發向難波館宣勅於百濟客其妻固要曰夫住吉神初以海表金銀之國髙麗百濟新羅任那等授記胎中譽田天皇故大后息長足姫尊與大臣武內宿祢毎國初置官家爲海表之蕃屏其來尚矣抑有由焉縱削賜他違本區域綿世之刺詎離於口大連報曰教示合理恐背天勅其妻功諫云稱疾莫宣大連依諫由是改使而宣勅付賜物幷制肯依表賜任那四縣大兄皇子前有縁事不開賜國晩知宣勅驚悔欲改令曰自胎中之帝置官家之國輕隨蕃乞輙示賜乎乃遣日鷹吉士改宣百濟客使者荅啓父天皇圖計便宜勅賜既畢子皇子豈違帝勅妄改而令必是虛也縱是實者持杖大頭打孰與持杖小頭打痛乎遂罷於是或有流言曰大伴大連與哆唎國守穗積臣押山受百濟之賂矣」
【二年の冬十月の朔が辛亥の癸丑の日に、小泊瀬稚鷦鷯天皇を傍丘の磐杯の丘の陵に葬った。
十二月に、南の海中の耽羅の人が、はじめて百済国に通じた。三年の春二月に、使者を百済に派遣した。日本に任せられた縣や邑の百済の百姓が逃げ出して本籍から断絶して三四世になってしまった者を一括りにして一緒に百済へ移して戸籍に付けた。五年の冬十月に、都を山背の筒城に遷した。六年の夏四月の朔が辛酉の丙寅の日に、穗積の臣の押山を派遣して、百済への使者とした。それで筑紫の国の馬を四十匹を与えた。冬十二月に百済が、使者を派遣して税を献上した。別に表を奏上して任那の国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四縣を求めた。哆唎の国守の穗積の臣の押山が、「この四縣は、百済に近く接して、日本には遠くて隔たっている。一昼夜で行き来出来て、鶏と犬の鳴き声とを比べられず、どちらか一方しか聞けません。今は百済に与えて、合せて同じ国にすれば、固く我が国の政策が保たれてこれに過ぎた考えは無い。しかし、ほしいままに与えて国を併せても、後世では約束が守られるか危うい。いわんや立場が異なれば、数年ですら守ることが出来ないだろう」と奏上した。大伴の大連の金村は、何人もがこのように言うので、考えに同意して奏上した。それで物部大連麁鹿火に、詔勅の宣下の使者に当てた。物部大連が、丁度、難波の館に着き、百済の客に詔勅を宣下しようとしたところ、その妻が「それは住吉の大神が、はじめて海の向こうの金銀がたくさんある国の、高麗・百済・新羅・任那等を、腹の中の誉田天皇に授けて記述した。それで、大后の息長足姫の尊は、大臣の武内の宿禰と、国毎に初めて官家を置いて、海の向こうの外国に対する堺として、それから今に至るまでだいぶ経過した。これがそもそもの理由だ。百済の欲しいままに領地を割いて与えれば、本来の境界の領域と異なる。ずっと後世まで棘が刺さった様に、いつまでも皆の誹謗を受けることになる」と頑なに引きとどめた。大連は「言うことは理に適うが、おそらく、天皇の詔勅に背く」と答えた。その妻は「病気だと言って宣下しなさるな」とひたすらいましめた。大連は諌言に従った。それで、使者を変えて詔勅を宣下した。賜物に併せてその通知の書を付けて、表で任那の四縣を与えた。大兄の皇子は、以前からの事情の原因を知っていて、国を与えることに関わっていなくて、後で詔勅の宣下を知った。驚いて悔しがって撤回しようとした。「腹の中の帝の時から、官家を置いた国を、軽々しく外国が求めるまゝに、訳もなく与えてはならない」と命じた。それで日鷹の吉士を派遣して、改めて百済の客に宣下した。使者は「父の天皇が、都合よく計画して、詔勅を与えたことはもう後戻りできないことだ。子である皇子が、どうして帝の詔勅に逆らって、節度がなく命令を変えるのか。きっとこれは真実ではない。たとえ、これが真実なら、杖の大きい端を持って打つか、杖の小さい端を持って打つかどちらが痛いか考えなさい」と答て、とうとう帰ってしまった。そこで、有る人物が「大伴の大連と、哆唎の国守の穗積の臣の押山とが、百済の賄賂を受け取った」と言いふらした。】とあり、標準陰暦と合致する。
『三国史記』の東城王498年に「二十年八月王以耽羅不修貢賦親征至武珍州耽羅聞之遣使乞罪乃止耽羅卽耽牟羅」と10年の誤差があるが、おそらく、顕宗天皇2年の出来事を継体天皇2年に挿入したと考えられる。
『百濟本記』の久羅麻致支彌は車持君の可能性が高く、404年履中天皇5年に筑紫の部と部民を勝手に奪ったと断罪され筑紫三神に奉納させたとするが、天武13年に「胸方君車持君・・・賜姓曰朝臣」と天武年間まで車持部の王で、車持君は宗像王と同盟していることが解る。
そして、『三国史記』の武寧王511年に「十年春正月下令完固隄防驅內外游食者歸農」と日本府の中の百済人を百済に引き渡し、その人々が帰農したと考えられ、東城王・阿莘王・腆支王・毗有王の時に倭に朝貢や人質を送って、当然、戦闘で領民も奪われたと考えられる。
この人々の3・4世が90年後に百済に返されたが、「毗有王以降義慈王」まで倭と交友が無く、武寧王は扶桑国もしくは秦王国から領民を返されたようで、4縣贈与も『三国史記』の毗有王428年に「二年春二月王巡撫四部賜貧乏穀有差倭國使至從者五十人」の記事が対応しそうで、倭が分裂して離れた領地が車持部で、その王朝の大王が蘇我氏だった可能性がある。
すなわち、継体紀の記述には400年代の王の事績も含まれていることを考えて究明しなければならない。

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