2020年4月15日水曜日

最終兵器の目 継体天皇6

 『日本書紀』慶長版は
七年夏六月百濟遣姐彌文貴將軍洲利即爾將軍副穗積臣押山貢五經博士段楊爾別奏云伴跛國略奪臣國已汶之地伏願天恩判還本属秋八月癸未朔戊申百濟太子淳陀薨九月勾大兄皇子親聘春日皇女於是月夜清談不覺天曉斐然之藻忽形於言乃口唱曰野絁磨倶伱都磨磨祁哿泥底播屢比能哿湏我能倶伱伱倶婆絁謎鳴阿利等枳枳底與慮志謎鳴阿利等枳枳底莽紀佐倶避
能伊陀圖鳴飫斯毗羅枳倭例以梨魔志阿都圖唎都磨怒唎絁底魔倶囉圖唎都磨怒唎絁底伊慕我堤鳴倭例伱魔柯絶毎倭我堤嗚磨伊慕伱魔柯絁毎磨左棄逗囉多多仚阿藏播梨矢自(泪)矩矢慮于魔伊祢矢度伱伱播都等唎柯稽播儺倶儺梨奴都等利枳蟻矢播等余武婆絶稽矩謨伊麻娜以幡孺底阿開伱啓梨倭蟻慕妃和唱曰莒母唎矩能簸都細能哿波庾那峨例倶屢駄開能以矩美娜開余嚢開謨等等陛嗚磨莒等伱都倶唎湏衞陛嗚磨府曳伱都倶唎府企儺湏美母慮我紆陪伱能朋梨陀致倭我彌細磨都奴娑播符以簸例能伊聞能美儺矢駄府紆嗚謨紆陪伱堤堤那皚矩野湏美矢矢倭我於朋枳美能於魔細屢娑佐羅能美於寐能武湏弥陀例駄例夜矢比等母紆陪伱泥堤那皚矩冬十一月辛亥朔乙卯於朝庭引列百濟姐弥文貴將軍斯羅汶得至安羅辛巳奚及賁巴委佐伴跛既殿奚及竹汶至等奉恩勅以已汶帶沙賜百濟國是月伴跛國遣戢攴獻珍寶乞巳汶之地而終不賜國十二月辛已朔戊子詔曰朕承天緖獲保宗廟兢兢業業間者天下安靜海內清平屢致豊年頻使饒國懿哉摩呂古示朕心於八方盛哉勾大兄光吾風於萬國日本邕邕名擅天下秋津赫赫譽重王畿所寶惟賢爲善最樂聖化憑茲遠扇玄切藉此長懸寔汝之力宜處春宮助朕於仁翼五補闕
【七年の夏六月に、百済が、姐彌文貴將軍と州利即爾將軍を派遣して、穗積の臣の押山に付き添わせて、五經博士の段楊爾を献上した。「伴跛国が、私の国の己汶の地を略奪した。土下座してお願いしますから、天子の恩恵で判断して本の国に返してください」と特に奏上した。秋八月の朔が癸未の戊申の日に、百済の太子の淳陀が薨じた。九月に、勾の大兄の皇子が、みづから春日の皇女を妃に迎えた。この月の夜にまじめに話をして、知らず知らずに明け方になった。素晴らしく美しい言葉が俄かに口から出てきた。それで唱えた()。私の愛する妃も仲良く唱えた()。冬十一月の朔が辛亥の乙卯の日に、朝庭に、百済の姐彌文貴將軍が、斯羅の汶得至、安羅の辛已奚および賁巴委佐、伴跛の既殿奚および竹汶至達を引き連れて、勅命によって受けた恩恵を受けてお礼の宣言をした。己汶と滯沙を、百済国に与えた。この月に、伴跛国の、戢支を派遣して、珍宝を献上して、自分が失った地を欲しがったがとうとう与えなかった。十二月の朔が辛巳の戊子の日に、「私は天子の始祖を承って、天子の祠を続けることが出来て、恐れつつしんで勤めた。これまで、天下はやすらかで皆が従い、海の内側は清々しくあたりまえの生活が出来、すこし年を取ったが、とても国が豊かになった。素晴らしい事だ、摩呂古よ、私の心を四方八方に指し示すことが出来た。とても栄えたぞ、勾の大兄よ、私のしかたを多くの国に威光を示すことが出来た。日本は和らいで、私の名は天下中に例を見ない。秋津は勢いよく、良い評判は私が統治する王都に重しとなっている。大事なのは賢い人が善政をすることで最も愛される。あがめられる国にしようとすることで遠くまで風を起こすことが出来、奥深い功績によって長い間託すことが出来る。
本当にお前の力が必要だ。はじめから宮に居て、私を助けていつくしみほどこして、私の助けとなって足りないところを補ってほしい」と言った。】とあり、八月癸未は8月2日で7月が小の月なので、大の月なら標準陰暦と合致するが九月も小の月で後ろもズレてしまうが、それ以外は標準陰暦と合致する。
八月の朔が癸未なのは482年、425年があり、『三国史記』の毗有王は「久尒辛王之長子或云腆支王庶子」とどちらの子かわからなと記述しているが、425年に久尒辛王の長子すなわち太子が薨去していたとすれば話がよく通る。
『三国史記』の記述は阿莘王397年に「六年夏五月王與倭國結好」、402年に「十一年・・・五月遣使倭國求大珠」、403年に「十二年春二月倭國使者至王迎勞之特厚」、腆支王の405年に「腆支在倭聞訃哭泣請歸倭王以兵士百人衛送・・・腆支留倭人自衛」、409年に「五年倭國遣使 送夜明珠 王優禮待之」、418年に「十四年夏遣使倭國送白綿十匹」、毗有王の428年に「二年春二月・・・倭國使至從者五十人」 と交流が有り、これ以降653年まで途絶える。
『三国史記』が倭に朝貢や人質に出したなどと記述しているのだから、500年代に倭と交流があれば当然記述されるだろうから、一切『三国志記』で記述しない扶桑国・秦王国の力を頼り、倭は倭の五王に当てられると思われる阿知使主と都加使主が畿内政権に帰順して配下となったため記述されなくなったと思われる。
そして、この王朝の始まりの宣言は、物部氏の王朝が石上神宮に宗廟を既に持っており、新しい王朝というのは不自然だが、蘇我氏の倭国王朝としてなら、良く合致し、太子が勾大兄で「勾大兄皇子是爲廣國排武金」と蘇我氏の役職名で、天皇なら「廣國排武」などの国名や功績などを付加しない。

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