2020年12月30日水曜日

最終兵器の目 天武天皇7

『日本書紀』慶長版は

閏六月乙酉朔庚寅大錦下百濟沙宅昭明卒爲人聡明叡智時稱秀才於是天皇驚之降恩以贈外小紫位重賜本國大佐平位壬辰耽羅遣王子久麻藝都羅宇麻等朝貢巳亥新羅遣韓阿飡金承元阿飡金祗山大舍霜雪等賀騰極幷遣一吉飡金薩儒韓奈末金池山等弔先皇喪其送使貴干寶真毛送承元薩儒於筑紫戊申饗貴干寶等於筑紫賜祿各有差即從筑紫返于國秋八月甲申朔壬辰詔在伊賀國紀臣阿閇臣等壬申年勞勳之狀而顯寵賞癸卯髙麗遣上部位頭大兄邯子前部大兄碩千等朝貢仍新羅遣韓奈末金利益送髙麗使人于筑紫戊申喚賀騰極使金承元等中客以上二十七人於京因命大宰詔耽羅使人曰天皇新平天下初之即位由是唯除賀使以外不召則汝等親所見亦時寒浪嶮久淹留之還爲汝愁故冝疾歸仍在國王及使者久麻藝等肇賜爵位其爵者大乙上更以錦繡潤飾之當其國之佐平位則自筑紫返之九月癸丑朔庚辰饗金承元等於難波奏種々樂賜物各有差冬十一月壬子朔金承元罷歸之壬申饗髙麗邯子新羅薩儒等於筑紫大郡賜祿各有差十二月壬午朔丙戌侍奉大嘗中臣忌部及神官人等幷播磨丹波二國郡司亦以下人夫等悉賜祿因以郡司等各賜爵一級戊戌以小紫美濃王小錦下紀臣訶多麻呂拜造髙市大寺司時知事福林僧由老辞知事然不聽焉戊申以義成僧爲小僧都是日更加佐官二僧其有四佐官始起于此時也是年也太歳癸酉

【閏六月の朔が乙酉の庚寅の日に、大錦下の百済の沙宅の昭明が死んだ。人柄は聰明で叡智に富んでいて、一時は秀才と称された。天皇は、驚いて、恩賞を与えて外小紫の位を贈った。重ねて本国の大佐平の位を与えた。壬辰の日に、耽羅は、王子の久麻藝と都羅と宇麻達を派遣して朝貢した。己亥の日に、新羅は、韓阿飡の金承元と阿飡の金祇山と大舍の霜雪達を派遣して、最高位に登った事を祝賀した。あわせて一吉飡の金薩儒と韓奈末の金池山達を派遣して、先皇の喪を弔った。その送使の貴干寶と眞毛は、承元と薩儒を筑紫に送った。戊申の日に、貴干寶達を筑紫で饗応した。俸禄を与えそれぞれ差が有った。それで筑紫から国に返った。秋八月の朔が甲申の壬辰の日に、伊賀国にいる紀の臣の阿閉麻呂達に、壬申の年の功労の顕彰を詔勅した。癸卯の日に、高麗は、上部の位頭大兄の邯子と前部の大兄の碩干達を派遣して、朝貢した。それで新羅は、韓奈末の金利益を派遣して、高麗の使者を筑紫に送った。戊申の日に、最高位に登った祝賀の使者の金承元達は、中位の客人より以上の二十七人を京に呼んだ。それで大宰に命じて、耽羅の使者に「天皇は、新に天下を平定して、はじめて即位した。そのため、ただの賀使を除いて、それ以外は招待しなかった。それはお前たち自らが見たとおりだ。また時候は寒く浪が急峻になる。ながく留まっていると、帰るお前たちが困るだろう。だから早く帰りなさい」と詔勅した。なお、国にいる王や使者の久麻藝達に、はじめて爵位を与えた。その爵位は大乙上だった。さらに錦の刺繍で飾った。その国の佐平位にあたる。それで筑紫から帰った。九月の朔が癸丑の庚辰の日に、金承元達を難波で饗応した。種々の樂曲を演奏した。物を与え、各々に差が有った。冬十一月の壬子が朔の日に、金承元が帰った。壬申の日に、高麗の邯子と新羅の薩儒達を筑紫の大郡で饗応した。俸禄を与え各々差が有った。十二月の朔が壬午の丙戌の日に、大嘗の世話をする中臣と忌部及び神官の人達と、一緒に播磨と丹波の、二国の郡司、また以下の人夫達に、残らず俸禄を与えた。それで郡司達に、各々、爵位一級を与えた。戊戌の日に、小紫の美濃王と小錦下の紀の臣の訶多麻呂を、高市の大寺を造る責任者にした。この時、知事の僧の福林が、老いたので知事を辞めると申し出た。しかし許さなかった。戊申の日に、僧の義成を、小僧都にした。この日に、さらに記録係の二人の僧を加えた。その四人の記録係がいるのは、はじめてこの時に起った。この年は、太歳が癸酉だった。】とあり、八月甲申朔は前項と同じく704年の9月1日で、673年は5月に閏月があるので一月ズレたと考えられ、それ以外は標準陰暦と合致する。

しかし、同じように一月ズレると704年とも合致し、673年に新たに平定し初めての即位は大げさで、初位の天皇は神武と崇神で、神武は当然で、崇神は尾張王朝の始まり、おそらく『粟原寺鑪盤銘』の「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮」の内容から仲臣朝臣大嶋と額田姫の孫の文武天皇が『新唐書』の「子天武」を701年に筑紫にある浄御原から追い出し、704年に藤原宮も奪取して平定して、統一したことを表していると思われる。

日並は東宮で、これまで東宮と呼ばれた人物は、「聖徳太子」と「天智天皇」と「天武天皇」で天皇の子息ではなく甥や弟で日並が草壁皇子では有り得ず、日並は蘇我女系の天智の娘の婿で『新唐書』の「子天武」の義兄にあたあり、『新唐書』の「子天武」の母の家柄のため、皇太子になれなかったと考えられる。

すなわち、704年の藤原宮奪取によって、男系の俀国王朝から女系の蘇我倭国王朝に戻った。

そのため、朝鮮半島の国々も新しい王朝を承認し、高麗と百済は既に独立国でないため、朝貢という形で訪日し、宗主国の新羅に従っていて、畿内の旧朝廷に従っていた播磨と丹波が文武朝に率先して従い恩賞をうけたのだろう。

2020年12月28日月曜日

最終兵器の目 巻第二十九 天武天皇6

  『日本書紀』慶長版は

二年春正月丁亥朔癸巳置酒宴群臣二月丁巳朔癸未天皇命有司設壇場即帝位於飛鳥淨御原宮立正妃爲皇后々生草壁皇子尊先納皇后姉大田皇女爲妃生大來皇女與大津皇子次妃大江皇女生長皇子與弓削皇子次妃新田部皇女生舍人皇子又夫人藤原大臣女氷上娘生但馬皇女次夫人氷上娘弟五百重娘生新田部皇子次夫人蘇我赤兄大臣女大蕤娘生一男二女其一曰穗積皇子其二曰紀皇女其三曰田形皇女天皇初娶鏡王額田姫王生十市皇女次納胸形君德善女尼子娘生髙市皇子命次宍人臣大麻呂女?(捉止天:□)媛娘生二男二女其一曰忍壁皇子其二曰磯城皇子其三曰泊瀬部皇女其四曰託基皇女乙酉有勳功人等賜爵有差三月丙戌朔壬寅備後國司獲白雉於龜石郡而貢乃當郡課役悉免仍大赦天下是月聚書生始寫一切經於川原寺夏四月丙辰朔己巳欲遣侍大來皇女于天照太神宮而令居泊瀬齋宮是先潔身稍近神之所也夏五月乙酉朔詔公卿大夫及諸臣連幷伴造等曰夫初出身者先令仕大舍人然後選簡才能以?(`死:充)當職又婦女者無問有夫無吏及長幼欲進仕者聽矣其考選准官人之例癸丒大錦上坂本財臣卒由壬申年之勞贈小紫位

【二年の春正月の朔が丁亥の癸巳の日に、酒席を設けて臣下を楽しませた。二月の朔が丁巳の癸未の日に、天皇は、高官に命じて高御座を設営して、飛鳥淨御原の宮で帝に即位した。正妃を皇后に立てた。后は、草壁皇子の尊を生んだ。それより前に皇后の姉の大田皇女を召し入れて妃にした。大來皇女と大津皇子を生んだ。次の妃の大江皇女は、長皇子と弓削皇子とを生んだ。次の妃の新田部皇女は、舍人皇子を生んだ。また夫人の藤原大臣の娘の氷上の娘は、但馬皇女を生んだ。次の夫人の氷上娘の妹の五百重の娘は、新田部皇子を生んだ。次の夫人の蘇我の赤兄の大臣の娘の太蕤の娘は、一人の男子と二人の女子を生んだ。その第一を穗積皇子という。その第二を紀皇女という。その第三を田形皇女という。天皇は、はじめ鏡王の女の額田の姫王を娶って、十市皇女を生んだ。次に胸形の君の徳善の娘の尼子の娘を召し入れて、高市皇子の命を生んだ。次に宍人の臣の大麻呂の娘の(?カヂ)媛の娘は、二人の男子と二人の女子を生んだ。その第一を忍壁皇子という。その第二を磯城皇子という。その第三を泊瀬部皇女という。その第四を託基皇女という。乙酉の日に、勲功が有った人達に、爵位を与え差があった。三月の朔が丙戌の壬寅の日に、備後の国司が、白雉を亀石の郡で捕まえて貢上した。それで當の郡の課した労役を全て免じた。さらに、天下大赦を発令した。この月に、勉強している人を集めて、はじめて一切經を川原寺で写経した。夏四月の朔が丙辰の己巳の日に、大來皇女を天照太神宮に派遣して仕えさせようとして、泊瀬の齋宮に住まわせた。ここはまず身を潔めて、だんだん神に近づく場所だ。五月の乙酉が朔の日に、高官や諸々の臣連併せて伴造達に「初めて官職につく者は、まず大舍人に仕えなさい。その後でその才能を簡単に選択して、該当の職に充てなさい。また婦女は、夫の有無や長幼を問わず、進んで仕えようとする者は認めなさい。その選考は役人の例に準じなさ」と詔勅した。癸丑の日に、大錦上の坂本の財の臣が死んだ。壬申の年の功労で、小紫位を贈った。】とあり、正月丁亥朔は12月30日、二月丁巳朔も1月30日、三月丙戌朔は2月29日、四月丙辰朔は3月30日、夏五月乙酉朔は4月29日で晦日が朔で、これまでは30日が朔はあったが29日の朔は無くて合致せず704年がピッタリ合致し、大長元年の説話と考えられる。

704年時点の説話であれば、『粟原寺鑪盤銘』の「比賣朝臣額田以甲午年始」と694年に鏡王の娘の額田姫が浄御原天皇の為に粟原寺を建立した時代背景が合致し、『万葉集』で、額田姫の歌に関係する人物は天智天皇と大江皇女の子の弓削皇子が関係しているだけで、大海人皇子は出現せず、大江皇女は天智天皇が中大兄皇子呼ばれるように同地域に育ったと思われ、額田姫の母鏡王女も天智天皇と歌を交わし、額田姫は天智天皇の子の世代だった可能性が高い。

天智天皇の関係する歌も額田姫・鏡王以外は倭皇后、鏡王の歌では他に鎌足と狭い範囲で、天智天皇の鎮魂歌をうたっているのは額田姫だけで、『粟原寺鑪盤銘』を裏付けていて、それに対して、天武天皇の関係者は持統天皇と藤原夫人で、天武天皇が天智天皇の姫を皇后にしていて、天智天皇と同年代の大海人皇子が天武天皇とするのは理に適わない。

天武天皇紀は元明天皇が記述したのだから、『日本書紀』から誰かを特定できず、名前が真人と王族ではあるが皇子とは言えず、『日本書紀』に 日並皇子を記述していないのだから、草壁皇子の父と日並皇子の父とは異なる人物で『新唐書』の天智天皇の子の天武天皇とは異なる文武天皇の祖父を想定すべきである。

これまで、東宮と呼ばれた人物は、聖徳太子と天智天皇と天武天皇だけで、その時の天皇の子供ではなく、日並も『粟原寺鑪盤銘』の「浄御原宮天下天皇」の子ではないと考えられ、「甲午年始」、694年に日並が生存し、天智天皇の弟である可能性が高く、695年の壬申の乱で日並がが殺害されて、天智天皇の子の天武天皇が即位し、大化と年号を建元したと考えられる。

すなわち、元明天皇、この天武天皇を『粟原寺鑪盤銘』で伽藍を建造させた中臣大嶋と元明天皇の祖父蘇我倉山田石川麻呂を記述しているのではと考えており、兄の天智天皇を蝦夷と想定し、『古事記』の宗賀倉王、妻が鏡女王で『古事記』の豐御氣炊屋比賣すなわち額田部姫と想定している。

『古事記』は 元明天皇の父母までのことで、『古事記』の「糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」は元明天皇の兄の蝦夷のことと考えられる。

さらに、柿本人麻呂の皇子に関する歌を見ると、軽皇子・日並皇子、泊瀬部皇女、忍坂皇子、高市皇子、長皇子、新田部皇子、忍壁皇子、舎人皇子、弓削皇子、明日香皇女で明日香皇女と 軽皇子以外はすべて天武天皇の皇子たちで、柿本人麻呂は壬申の乱の後、 軽皇子が即位する前の時期に活躍した歌人であることが解る。

2020年12月25日金曜日

最終兵器の目 天武天皇5

  今回も壬申の乱で長くなるので、先に解説を書こうと思う。

三回に渡って壬申の乱を解説したが、壬申の乱は、八月庚申朔が8月2日で九州の説話、大臣たちの処刑は畿内の説話ではなく、672年に発生した、「左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安」達と戦った説話と、草壁皇子が全く登場しないことから、689年の草壁皇子死後で高市皇子が生きていた、但し「後皇子尊薨」と実際死んだか不明だが696年までに発生した大友皇子との戦い、そして、701年に発生した文武朝のクーデタの説話が接合された記述と考えられる。

蘇賀・中臣大臣を殺害したのにその後に持統四年の「高市爲太政大臣以正廣參授丹比嶋眞人爲右大臣」まで左右大臣を置かず、この間は鎌足が内大臣として大友皇子太政大臣を補佐したと考えられる。

天智紀は大化5年699年まで記述され、天武天皇の内容には700年以降の説話が挿入されていて、天武天皇五年の「村國連雄依卒」は701年正月の大伴連御行・縣犬養宿祢大侶達と一緒に反乱を起こし、それに天武天皇が対応しようと都を離れたときに、文武天皇がクーデターを起こした可能性が高い。

『古事記』に「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期」と清原大宮天皇の時に反乱を起こして即位したと記述し、藤原遷都は『続日本紀』に慶雲元年十一月「始定藤原宮地」と704年に遷都していて、それまでは浄御原宮である。

『日本書紀』慶長版は

「是日將軍吹屓爲近江所敗以獨率一二騎走之逮于墨坂遇逢菟軍至更還屯金綱井而招聚散率於是聞近江軍至自大坂道而將軍引軍如西到當麻衢與壹伎史韓國軍戰葦池側時有勇士來目者拔刀急馳直入軍中騎士繼踵而進之則近江軍悉走之追斬甚多爰將軍令軍中曰其發兵之元意非殺百姓是爲元凶故莫妄殺於是韓國離軍獨逃也將軍遙見之令來目以俾射然不中而遂走得免焉將軍更還本營時東師頻多臻則分軍各當上中下道而屯之唯將軍吹屓親當中道於是近江將犬養連五十君自中道至之留村屋而遣別將廬井造鯨率二百精兵衝將軍營當時麾下軍少以不能距爰有大井寺奴名德麻呂等五人從軍即德麻呂等爲先鋒以進射之鯨軍不能進是日三輪君髙市麻呂置始連菟當上道戰于箸陵大破近江軍而乗勝兼斷鯨軍之後鯨軍悉解走多殺士卒鯨乗白馬以逃之馬墮埿田不能進行則將軍吹屓謂甲斐勇者曰其乗白馬者廬井鯨也急追以射於是甲斐勇者馳追之比及鯨々急鞭馬々能拔以出埿即馳之得脱將軍亦更還本處而軍之自此以後近江軍遂不至先是軍金綱井之時髙市郡大領髙市縣主許梅儵忽口閇而不能言也三日之後方着神以言吾者髙市社所居名事代主神又牟狹社所居名生雷神者也乃顯之曰於神日本磐余彥天皇之陵奉馬及種々兵器便亦言吾者立皇御孫命之前後以送奉于不破而還焉今旦立官軍中守護之旦言自西道軍衆將至之冝愼也言訖則醒矣故是以便遣許梅而祭拜御陵因以奉馬及兵器又捧幣而禮祭髙市身狹二社之神然後壹伎史韓國自大坂來故時人曰二社神所教之辭適是也又村屋神著祝曰今自吾社中道軍衆將至故冝塞社中道故未經幾日廬井造鯨軍自中道至時人曰即神所教之辭是也軍政既訖將軍等舉是三神教言而奏之即勅登進三神之品以祠焉辛亥將軍吹負既定倭地便越大坂往難波以餘別將軍等各自三道進至于山前屯河南將軍吹屓難波小郡而仰以西諸國司等令進官鑰驛鈴傳卯癸丒諸將軍等悉會於筱(此云佐々)浪而探捕左右大臣及諸罪人等 乙夘將軍等向於不破宮因以捧大友皇子頭而獻于營前八月庚申朔甲申命髙市皇子宣近江群臣犯狀則重罪八人坐極刑仍斬右大臣中臣連金於淺井田根是日左大臣蘇我臣赤兄大納言巨勢臣比等及子孫幷中臣連金之子蘇我臣果安之子悉配流以餘悉赦之先是尾張國司守少子部連鉏釼匿山自死之天皇曰鉏釼有切者也無罪何自死其有隱謀歟丙戌恩勅諸有功勳者而顯寵賞九月已丑朔丙申車駕還宿伊勢桑名丁酉宿鈴鹿戊戌宿阿閇已亥宿名張庚子詣于倭京而御嶋宮癸夘自嶋宮移崗本宮是歳營宮室於崗本宮南即冬遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮冬十一月戊子朔辛亥饗新羅客金押實等於筑紫即日賜祿各有差十二月戊午朔辛酉選諸有功勳者増加冠位仍賜小山位以上各有差壬申舩一隻賜新羅客癸未金押實等罷歸是月大紫韋那公髙見薨」

【この日に、將軍の吹負は、近江の軍の為に敗れて、一二人の騎兵を率いて逃げた。墨坂に着いて、たまたま菟の軍が来たのに会った。さらに帰って金綱の井に駐屯して、散り散りになった兵士を招き集めた。そこで、近江の軍は、大坂の道から来ると聞きて、將軍は兵士を引いて西に行き、當麻の要衝に着いて、壹伎の史の韓國の軍と葦池の辺で戦った。その時、勇士の來目という者がいて、刀を拔いて急に馳せ参じて、一気に軍の中に入った。騎士は次から次へと絶え間なく進軍して近江の兵は残らず逃げた。追いかけて斬ること多数だった。そこで將軍は、軍中に「この兵を蜂起した元々の真意は、百姓を殺すのではない。元凶を倒すためだ。だから、みだりに殺してはならない」と命令した。そこで、韓國は、軍を離れて一人で逃げた。將軍は遠くを見て、來目に弓を射させたが当たらず、とうとう走って逃げることが出来た。將軍は、また本陣に帰った。その時に東の軍は、どんどん多数集まって、兵士を分けて、各々、上中下の道に割り当てて駐屯させた。ただし將軍の吹負だけ、自ら中道に当たった。そこで、近江の將軍の犬養の連の五十君は、中道から来て、村屋に留まって、別の將軍の廬井の造の鯨を派遣して、二百の精兵を率いて將軍の陣営を攻撃した。その時に配下の兵士が少く防げなかった。そこで大井寺の使用人、名は徳麻呂達五人がいて軍に従った。それで徳麻呂達は、先鋒として、進軍して矢を射った。鯨の軍は進むことが出来なかった。この日に、三輪の君の高市麻呂・置始の連の菟が、上道に当たり、箸陵で戦った。近江の軍を大破して、勝利に乗じて、ついでに鯨の軍の退路を断った。鯨の軍は残らず武器を解いて逃げて、多くの兵士を殺した。鯨は、白馬に乗って逃げた。馬が泥田に墮ちて、進んでいくことが出来なかった。それで將軍の吹負は、甲斐の勇者に「あの白馬に乗った者は、廬井の鯨だ。すみやかに追って射殺せ」と言った。そこで、甲斐の勇者は、馬に乗って追いかけた。鯨に追いつくころに、鯨は急に馬に鞭を打った。馬がうまく泥から抜け出した。それで馬で逃げることが出来た。將軍は、またさらに本拠に帰って軍を置いた。これより後、近江の軍はとうとう来なかった。これより前に、金綱の井に軍を置いた時に、高市の郡の大領の高市の縣主の許梅が、急にに口が閉じて、言葉を発せられなくなった。三日後に、神がかりして「私は、高市の社に居る、名は事代主の神だ。また、身狹の社に居る、名は生靈の神だ」と言った。すなはち「神日本磐余彦天皇の陵に、馬と種々の兵器を奉納しなさい」と顕わした。それでまた「私は皇御孫の命の前後に立って、不破に送って奉還する。いまも官軍の中に立って守護している」と言った。また「西道から軍兵が来ようとしている。慎重になれ」と言った。言ひ終わって覚めた。それで、すぐに許梅を派遣して、御陵を祭り拝んで、それで馬と兵器を奉納した。また幣を捧げて、高市・身狹の、二社の神を祭礼した。その後で壹伎の史の韓國が、大坂から遣って来た。それで、当時の人が「二社の神の教えた言葉はまさしくこれだ」と言った。また村屋の神は、神職が神がかりして、「今、私の社の中道から、軍兵が遣って来る。それで、社の中道を守れ」と言った。それで、まだ幾日も経たずに、廬井の造の鯨のが軍が、中道から遣って来た。当時の人は、「すなわち神の教えた言葉は、これだ」と言った。戦がすべて終わってから、將軍達は、この三神の教えた言葉を奏上した。それで詔勅して三神に品物を進上して祠った。辛亥の日に、將軍の吹負は、すでに倭の地を平定した。それで大坂を越えて、難波に行った。そのほか別の將軍達が、各々三つの道から進軍して、山前に着いて、河の南に駐屯した。それで將軍の吹負は、難波の小郡に留まって、西方の諸國司達に言って、役所のカギ・駅使を証明する鈴・証明の印を進上させた。卯癸の日に、諸々の將軍達は、残らず筱浪に集まって、左右の大臣、および諸々の罪人達を探し捕まえた。乙卯の日に、將軍達は不破の宮に向った。それで大友皇子の頭を捧げて、陣営の前に献上した。八月の朔が庚申の甲申の日に、高市皇子に命じて、近江の臣下の犯した罪状を宣下させた。それで重罪の八人を極刑にした。なお、右大臣の中臣の連の金を淺井の田根で斬った。この日に、左大臣の蘇我の臣の赤兄・大納言の巨勢の臣の比等、および子や孫、一緒に中臣の連の金の子、蘇我の臣の果安の子を残らず流刑にした。このほかはのこらず赦免した。これより前に、尾張の國司の守の少子部の連の鉏釼が、山に隠れて自ら死んだ。天皇は「鉏釼は功が有った者だ。罪も無いのにどうして自ら死んだ。それはなにか陰謀があったのか」と言った。丙戌の日に、諸々の勲功が有った者に恩勅して、皆の前で恩賞を与えた。九月の朔が己丑の丙申の日に、駕籠で帰って伊勢の桑名に宿を取った。丁酉の日に、鈴鹿に宿を取った。戊戌の日に、阿閉に宿を取った。己亥の日に、名張に宿を取った。庚子の日に、倭京に着いて、嶋の宮にいた。癸卯の日に、嶋の宮から岡本の宮に移った。この歳は、宮室を岡本の宮の南に造った。その冬に、遷り住んだ。これを飛鳥の淨御原の宮という。冬十一月の朔が戊子の辛亥の日に、新羅の客の金押實達を筑紫で饗応した。その日に、俸禄を与え各々差が有った。十二月の朔が戊午の辛酉の日に、諸々の勲功が有った者を選んで、冠位を加増した。なお、小山の位より以上を与えること、各々、差が有った。壬申の日に、船を一隻、新羅の客に与えた。癸未の日に、金押實達が帰った。この月に、大紫の韋那の公の高見が薨じた。】とあり、八月庚申朔以外は標準陰暦と合致する。

2020年12月23日水曜日

最終兵器の目 天武天皇4

  今回も壬申の乱で長くなるので、先に解説を書こうと思う。

前項で、天智紀と天武紀の断絶を記述したが、『続日本紀』と天武・持統紀も断絶があり、當麻眞人國見・文忌寸智徳・大伴宿祢御行御行・阿倍朝臣御主人は天武・持統紀で壬申の功を記述せず、しかも、大宝元年七月の褒賞以前も壬申の功に触れていない。

全て触れないかと言えばそうでもなく、文武元年「賜勤大壹丸部臣君手直廣壹」、文武二年「直廣參田中朝臣足麻呂卒詔贈直廣壹」、文武三年「坂上忌寸老壬申年軍役・・・宜贈直廣壹」、大宝元年正月「直廣壹縣犬養宿祢大侶卒・・・贈正廣參」、大宝元年六月「正五位上忌部宿祢色布知卒詔贈從四位上」と壬申の功を述べて褒賞され、丸部臣君手は生きていて、大宝元年七月の褒賞の人物はほとんど生きていて、大伴連御行・縣犬養宿祢大侶は701年に発生した壬申の役の立案をし、功績があったため、一緒に褒賞した可能性がある。

そして、阿倍朝臣御主人は大宝元年三月甲午に「建元爲大寶元年始依新令改制官名位号・・・以大納言正從二位阿倍朝臣御主人爲右大臣」と右大臣まで出世するが壬申の功を記述せず、一斉褒賞に記述されながら、死亡時も壬申の功を記述されなかった。

壬申の役の人物が大宝元年まで、これだけの多くの人物が生き残り、716年に次世代の人物に褒賞したというのは、670の褒賞と考えることが合理的とは言えず、701年に壬申の役が発生したと考える方が理に適う。

そのため、757年の恩賞で「合傳三世從五位上尾治宿祢大隅壬申年功」と三世代後で60年ならよく合致し、758年にも「尾張連馬身以壬申年功」と壬申年の褒賞を行い、「馬身子孫並賜宿祢姓」と3世代程度後に姓を与えて、世間も納得出来るが、1世紀も後の5世代程後では馬身を知る人物がいない。

『日本書紀』慶長版は

「秋七月庚寅朔辛卯天皇遣紀臣阿閇麻呂多臣品治三輪君子首置始連菟率數万衆自伊勢大山越之向倭旦遣村國連男依書首根麻呂和珥部臣君手膽香瓦臣安倍率數万衆自不破出直入近江恐其衆與近江師難別以赤色著衣上然後別命多臣品治率三千衆屯莿萩野遣田中臣足麻呂令守倉歴道時近江命山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等率數萬衆將襲不破而軍于犬上川濱山部王爲蘇賀臣果安巨勢臣比等見殺由是亂以軍不進乃蘇賀臣果安自犬上返刺頸而死是時近江將軍羽田公矢國其子大人等率已族來降因授斧鉞拜將軍即北入越先是近江放精兵忽衝玉倉部邑則遣出雲臣狛擊追之壬辰將軍吹負屯于乃樂山上時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰古京是本營處也宣國守將軍從之則遣赤麻呂忌部首子人令戍古京於是赤麻呂等詣古京而解取道路橋板作楯堅於京邊衢以守之癸已將軍吹屓與近江將大野君果安戰于乃樂山爲果安所敗軍卒悉走將軍吹負僅得脱身於是果安追至八口仚而視京毎街竪楯疑有伏兵乃稍引還之甲子近江別將田邊小隅越麻深山而卷幟拖皷詣于倉歴以夜半之衘梅穿城劇入營中則畏己率與足麻侶衆難別以毎人令言金仍挍刀而毆之非言金乃斬耳於是足摩侶衆悉亂之事忽起不知所爲唯足摩侶聡知之獨言金以僅得免乙未小隅亦進欲襲莿萩野營而怱到爰將軍多臣品治遮之以精兵追擊之小隅獨免走焉以後遂復不來也丙申男依等與近江軍戰息長横河破之斬其將境部連藥戊戌男依等討近江將秦友足於鳥籠山斬之是日東道將軍紀臣阿閇麻呂等聞倭京將軍大伴連吹屓爲近江所敗則分軍以遣置始連菟率千餘騎而急馳倭京壬寅男依等戰于安河濱大破則獲社戸臣大口土師連千嶋丙午討栗太軍追之辛亥男依等到瀬田時大友皇子及群臣等共營於橋西而大成陣不見其後旗旘蔽野埃塵連天鉦皷之聲聞數十里列弩亂發矢下如雨其將智尊率精兵以先鋒距之仍切斷橋中湏容三丈置一長板設有搨板度者乃引板將墮是以不得進襲於是有勇敢士曰大分君稚臣則棄長矛以重擐甲拔刀急蹈板度之便斷著板綱以被矢入陣衆悉亂而散走之不可禁時軍智尊拔刀斬退者而不能止因以斬智尊於橋邊則大友皇子左右大臣等僅身免以逃之男依等即軍于粟津岡下是日羽田公矢國出雲臣狛合共攻三尾城降之 壬子男依等斬近江將犬養連五十君及谷直?(土富:鹽)手於粟津市於是大友皇子走無所入乃還隱山前以自縊焉時左右大臣及群臣皆散亡唯物部連麻呂旦一二舍人從之初將軍吹負向乃樂至稗田之日有人曰自河內軍多至則遣坂本臣財長尾直真墨倉墻直麻呂民直小鮪谷直根麻呂率三百軍士距於龍田復遣佐味君少麻呂率數百人屯大坂遣鴨君蝦夷率數百人守石手道是日坂本臣財等次于平石野時聞近江軍在髙安城而登之乃近江軍知財等來以悉焚秋税倉皆散亡仍宿城中會明臨見西方自大津丹比兩道軍衆多至顯見旗旘有人曰近江將壹伎史韓國之師也財等自髙安城降以渡衞我河與韓國戰于河西財等衆少不能距先是遣紀臣大音合守懼坂道於是財等退懼坂而居大音之營是時河內國司守來目臣塩籠有歸於不破宮之情以集軍衆爰韓國到之密聞其謀而將殺塩籠々々知事漏乃自死焉經一日近江軍當諸道多至即並不能相戰以解退 」

【秋七月の朔が庚寅の辛卯の日に、天皇は、紀の臣の阿閉麻呂・多の臣の品治・三輪の君の子首・置始の連の菟を派遣して、数万の兵士を率いて、伊勢の大山を、越えて倭に向った。また、村國の連の男依・書の首の根麻呂・和珥部の臣の君手・膽香瓦の臣の安倍を派遣して、数万の兵士を率いて、不破から出て、すぐに近江に入った。その兵士と近江の兵士と別けられないことを恐れて、赤色の衣を上に着た。後に、別に多の臣の品治に命じて、三千の兵士を率て、莿萩野に駐屯させた。田中の臣の足麻呂を派遣して、倉歴の道を守らせた。時には近江、山部の王・蘇賀の臣の果安・巨勢の臣の比等に命じて、数万の兵士を率いて、不破を襲うとして、犬上の川の辺に軍をおいた。山部の王は、蘇賀の臣の果安・巨勢の臣の比等に殺された。この乱のために、進軍できなかった。それで蘇賀の臣の果安は、犬上から返って、頚を刺して死んだ。この時に、近江の將軍の羽田の公の矢國、その子の大人達が、同族を率いて降伏してきた。それで斧と鉞を授けて、將軍にした。それで、北越に入った。これより先に、近江は、精兵を放ち、急に玉倉部の邑に向かった。それで出雲の臣の狛を派遣して、攻撃して追い返した。壬辰の日に、將軍の吹負は、乃樂山の上に駐屯した。その時に荒田尾の直の赤磨呂が、將軍に「古い京は元々は陣営の場所だ。強固に守るべきだ」と教えた。將軍は従った。それで赤麻呂・忌部の首の子人を派遣して、古い京を外敵から守った。そこで、赤麻呂達は、古い京に着いて、道路の橋の板を抜き取って、楯に作り直して、京の辺の要衝に立てて守った。癸巳の日に、將軍の吹負、近江の將軍の大野の君の果安と、乃樂山で戦った。果安の為に敗られて、軍平が残らず逃げた。將軍の吹負は、何とか逃れることが出来た。そこで、果安は、追って八口に着いて、山に登って京をみたら、街毎に楯が立っていた。伏兵が居ることを疑って、それでしばらくして引き返した。甲午の日に、近江の他の將軍の田邊の小隅が、鹿深の山を越えて、幟を巻き付けた鼓を抱きしめて、倉歴に着いた。夜半に、梅を銜えて、城を打ち破って、激しく陣営の中に入り込んできた。それで自軍の兵と足摩侶の兵と分別できないことを恐れて、人毎に「金」と言わせた。それで刀を拔いて叩き、「金」と言わなかったら斬った。そこで、足摩侶の兵はみな混乱した。この事態が急だったのでどうしようもなかった。ただし足摩呂だけ、意味を知って、一人「金」といって何とか免れた。乙未の日に、小隅がまた進軍して、莿萩野の陣営を襲おうと急に遣って来た。そこで將軍の多の臣の品治が遮って、精兵を使って追撃した。小隅は、一人だけ免れて逃げた。以後、ついにまた軍は来なかった。丙申の日に、男依達は、近江の軍と、息長の横河で戦って破った。その將軍の境部の連の藥を斬った。戊戌の日に、男依達は、近江の將軍の秦の友足を鳥篭の山で討って斬った。この日に、東道の將軍の紀の臣の阿閉麻呂達は、倭京の將軍の大伴の連の吹負が近江の為に敗られたことを聞いて、軍を分けて、置始の連の菟を派遣して、千騎余を率いて、すみやかに倭京に駆け付けた。壬寅の日に、男依達は、安河の辺で戦って大破した。それで社戸の臣の大口・土師の連の千嶋をとらえた。丙午の日に、栗太の軍隊を追討した。辛亥の日に、男依達が瀬田に着いた。その時に大友皇子と臣下達は、一緒に橋の西に陣営を置いて、大陣営となっていてその後が見えなかった。旗が旘野を遮り、埃塵は空へとつながった。鉦鼓の音は、数十里まで聞こえた。弓が列をなし乱射して矢が雨のように降って来た。その將軍の智尊は、精兵を率いて、先鋒として防いだ。それで橋の中を切断して、三丈ほどにして、一つの長板を置いた。もしも板を踏んで渡る者がいたら、板を引いて堕とそうとした。それで、進軍して襲撃できなかった。そこに勇敢な兵士がいた。大分の君の稚臣という。それで長矛を棄てて、鎧を重ねて身に着けて、刀を拔いていそいで板を踏み渡った。それで板に着けた綱を切断し、矢を被弾しながら陣営に入った。兵士は残らず混乱して散り散りに逃げ、止めることが出来なかった。その時に將軍の智尊は、刀を拔いて逃げる者を斬りもう止められなかった。それで、智尊を橋の辺で斬った。大友皇子・左右大臣達は、なんとか逃れて逃げることが出来た。男依達は、それで粟津の岡のふもとに軍を置いた。この日に、羽田の公の矢國・出雲の臣の狛が、合流して一緒に三尾の城を攻めて降した。壬子の日に、男依達は、近江の將軍の犬養の連の五十君と谷の直の鹽手を粟津の市で斬った。そこで、大友皇子は、逃げ居る所が無かった。それで帰って山前に隱れて、自ら首をくくった。その時、左右大臣と臣下は、皆、散り散りに逃げた。ただし物部の連の麻呂は、また一二人の近習のみ従った。はじめ將軍の吹負は、乃樂に向って稗田に着いた日に、人が「河内から軍兵が多く着いた」といった。すなはち坂本の臣の財・長尾の直の眞墨・倉墻の直の麻呂・民の直の小鮪・谷の直の根麻呂を派遣して、三百の兵士を率いて、龍田で防いだ。また佐味の君の少麻呂を派遣して、数百人を率いて、大坂に駐屯した。鴨の君の蝦夷を派遣して、数百人を率いて、石手の道を守らせた。この日に、坂本の臣の財達が、平石の野に続いた。その時に、近江の軍が高安の城にいると聞いて登城した。それで近江の軍は、財達が来たのを知って、残らず税の倉を焼いて、皆、散り散りに逃げた。それで城の中を宿にした。あけぼのに、西の方を見たら、大津・丹比、両方の道から、軍兵が多数遣って来た。よく旗が見えて人が「近江の將軍の壹伎の史の韓國の軍だ」と言った。財達は、高安の城から降って衞我の河を渡って、韓國と河の西で戦った。財達は、兵が少くて距ぐことが出来なかった。これより前に、紀の臣の大音を派遣して、懼の坂の道を守せた。そこで、財達は、懼の坂に退却して、大音の陣営に居た。この時に、河内の國司の守の來目の臣の鹽篭が、不破の宮に帰順したいと思って、軍兵を集めた。そこに韓國が遣って来て、ひそかにそのはかりごとを聞いて、鹽篭を殺そうとした。鹽篭は、計画が漏れたことを知って、それで自ら死んだ。一日を経って、近江の軍が、諸々の道に多数遣って来た。それで一緒に戦うことが出来ず、退散した。】とあり、標準陰暦に合致する。

2020年12月21日月曜日

最終兵器の目 天武天皇3

  壬申の乱で長くなるので、先に解説を書こうと思う。

757年の天平宝字元年でも「贈小紫村國連小依壬申年功田一十町贈正四位上文忌寸祢麻呂贈直大壹丸部臣君手並同年功田各八町贈直大壹文忌寸智徳同年功田四町贈小錦上置始連莵同年功田五町。五人並中功合傳二世・・・贈大紫星川臣麻呂壬申年功田四町贈大錦下坂上直熊毛同年功田六町贈正四位下黄文連大伴同年功田八町贈小錦下文直成覺同年功田四町」と恩賞を授与されたが、村國連小依以外は「壬申年之功」を記述されていない。

『日本書紀』で記述される、「大三輪眞上田子人君・坂田公雷・紀臣堅麻呂・大錦下秦造綱手・舍人連糠虫・土師連眞敷・膳臣摩漏・ 大伴連望多・直大參當麻眞人廣麻呂・直廣參贈蚊屋忌寸木間」や、壬申の乱で記述されるが『続日本紀』の大宝元年に記述されない「小錦下多臣品治・大分君惠尺・大分君稚見・土師連眞敷・美濃王・大伴連男吹・石川王・大錦上坂本財臣・紀臣阿閇麻呂・栗隈王・小錦下三宅連石床・大錦下羽田眞人八國」が実際の活躍した人物の可能性がある。

文武天皇5年は大宝元年で7月に壬申の褒賞が有ったが、天武5年7月に「村國連雄依卒以壬申年之功贈外小紫位」と記述し、褒賞が5年も経てからでは無意味で、最終決戦で勝利して、そこで、小依が秦で褒賞した、同じ記事の可能性が高い。

すなわち、壬申の乱と『続日本紀』の大宝元年の壬申の功に冠位が記述されず、姓が古いのは、正しい記述をすると時代が違うことが解ってしまうためであり、しかも、協力を拒否する栗隈王や左右大臣たちなど敵対する人物以外は天智天皇に全く記述されず断絶があるが、天武・持統紀と『続日本紀』は繋がっている。

『日本書紀』慶長版は

丙戌旦於朝明郡迹太川邊望拜天照大神是時益人益到之奏曰所置關者非山部王石川王是大津皇子也便隨益人參來矣大分君惠尺難波吉士三綱駒田勝忍人山邊君安麻呂小墾田猪手埿部賦枳大分若(君)稚臣根連金身漆部友背之輩從之天皇大喜將及郡家男依乗驛來奏曰發美濃師三千人得塞不破道於是天皇美雄依之務既到郡家先遣髙市皇子於不破令監軍事遣山背部小田安斗連阿加布發東海軍又遣稚櫻部臣五百瀬土師連馬手發東山軍是日天皇宿于桑名郡家即停以不進是時近江朝聞大皇弟入東國其群臣悉愕京內震動或遁欲入東國或退將匿山澤爰大友皇子謂群臣曰將何計一臣進曰遲謀將後不如急聚驍騎乗跡而逐之皇子不從則以韋那公磐鍬書直藥忍坂直大摩侶遣于東國以穗積臣百足及弟百枝物部首日向遣于倭京且遣佐伯連男於筑紫遣樟使主盤磐手於吉備國並悉令興兵仍謂男與磐手曰其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人元有?(上矢余:隸)大皇弟疑有反歟若有不服色即殺之於是磐手到備國授苻之日紿廣嶋令解刀磐手乃拔刀以殺也男至筑紫時栗隈王承符對曰筑紫國者元戍邊賊之難也其峻城深湟臨海守者豈爲內賊耶今畏命而發軍則國空矣若不意之外有倉卒之事頓社稷傾之然後雖百殺臣何益焉豈敢背德耶輙不動兵者其是縁也時栗隈王之二子三野王武家王佩劔立于側而無退於是男按劔欲進還恐見亡故不能成事而空還之東方驛使磐鍬等將及不破磐鍬獨疑山中有兵以後之緩之行時伏兵自山出遮藥等之後磐鍬見之知藥等見捕則返逃走僅得脱當是時大伴連馬來田弟吹屓並見時否以稱病退於倭家然知其登嗣位者必所居吉野大皇弟矣是以馬來田先從天皇唯吹負留謂立名于一時欲寧艱難即招一二族及諸豪傑僅得數十人丁亥髙市皇子遣使於桑名郡家以奏言遠居御所行政不便宣御近處即日天皇留皇后而入不破比及郡家尾張國司守小子部連鉏釣率二万衆歸之天皇即美之分其軍塞處處道也到于野上髙市皇子自和蹔參迎以便奏言昨夜自近江朝驛使馳至因以伏兵而捕者書直藥忍坂直大麻呂也問何所往荅曰爲所居吉野大皇弟而遣發東國軍韋那公磐鍬之徒也然磐鍬見兵起乃逃還之既而天皇謂髙市皇子曰其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議今朕無與計事者唯有幼子少孺子耳奈之何皇子攘臂按劔奏言近江群臣雖多何敢逆天皇之靈哉天皇雖獨則臣髙市頼神祇之靈請天皇之命引率諸將而征討豈有距乎爰天皇譽之携手撫背曰愼不可怠因賜鞍馬悉授軍事皇子則還和蹔天皇於茲行宮興野上而居焉此夜雷電雨甚則天皇祈之曰天神地祇扶朕者雷雨息矣言訖即雷雨止之戊子天皇往於和蹔撿挍軍事而還 已丒天皇往和蹔命髙市皇子號令軍衆天皇亦還于野上而居之是日大伴連吹屓密與留守司坂上直熊毛議之謂一二漢直等曰我詐稱髙市皇子率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營乃汝內應之既而繕兵於百濟家自南門出之先秦造熊令犢鼻而乗馬馳之俾唱於寺西營中曰髙市皇子自不破至軍衆多從爰留守司髙坂王及興兵使者穗積臣百足等據飛鳥寺西槻下爲營唯百足居小墾田兵庫運兵於近江時營中軍衆聞熊叫聲悉散走仍大伴連吹負率數十騎劇來則熊毛及諸直等共與連和軍士亦從乃舉髙市皇子之命喚穗積臣百足於小墾田兵庫爰百足乗馬緩來逮于飛鳥寺西槻下有人曰下馬也時百足下馬遲之便取其襟以引墮射中一箭因拔刀斬而殺之乃禁穗積臣五百枝物部首日向俄而赦之置軍中旦喚髙坂王稚狹王而令從軍焉既而遣大伴連安麻呂坂上直老佐味君宿那麻呂等於不破宮令奏事狀天皇大喜之因乃令吹屓拜將軍是時三輪君髙市麻呂鴨茂君蝦夷等及群豪傑者如響悉會將軍麾下乃規襲近江因以撰衆中之英俊爲別將及軍監庚寅初向乃樂

【丙戌の日の朝に、朝明の郡の迹太川の辺で、天照の太神を遠くから拝んだ。この時に、益人が着いて、「関に置いた者は、山部の王・石川の王でなかった。これは大津の皇子だ」と奏上した。それで益人についてやって来た。大分の君の惠尺・難波の吉士の三綱・駒田の勝の忍人・山邊の君の安麻呂・小墾田の猪手・泥部の賦枳・大分の君の稚臣・根の連の金身・漆部の友背の同輩が、従った。天皇はとても喜んだ。郡家につこうかとするときに、男依が、駅馬に乗って来て「美濃の兵士三千人が蜂起して、不破の道を防ぐことが出来きた」と奏上した。それで、天皇は、雄依の働きをほめて、郡家に着いて、まず高市の皇子を不破に派遣して、軍事を任せた。山背部の小田・安斗の連の阿加布を派遣して、東海の軍を蜂起させた。また稚櫻部の臣の五百瀬・土師の連の馬手を派遣して、東山の軍を蜂起させた。この日に、天皇は、桑名の郡家に宿を取った。それで停って進軍しなかった。この時に、近江朝は、大皇弟が東国に入ったことを聞いて、その役人が残らずおびえて、京の内が打ち震えた。あるいは逃げて東国に入いろうとした。あるいは退却して山沢に隠れようとした。そこで大友の皇子は、臣下に「どうしたらよいか」と言った。一人の臣が進み出て、「計画が遅いと後手となる。だから、急いで勇猛な騎馬隊を集めて、後ろを追いかけて駆逐しては」と言った。皇子は従わなかった。韋那の公の磐鍬・書の直の藥・忍坂の直の大摩侶を、東国に派遣した。穗積の臣の百足・弟の五百枝・物部の首の日向を、倭京に派遣した。また、佐伯の連の男を筑紫に派遣した。樟の使主の磐手を吉備の国に派遣して、一緒になって全兵を蜂起させた。それで男と磐手とに「筑紫の大宰の栗隈の王と、吉備の国守の當摩の公の廣嶋の二人は、元々大皇弟側に付いていたが、背く疑いがあるかもしれないので、もし服従しなかったらすぐに殺せ」と言った。そこで、磐手は、吉備国に着いて、命令書を授ける日に、廣嶋を欺いて刀をおろさせた。磐手は、それで刀を抜いて殺した。男が筑紫に着いた時、栗隈の王は、命令書を受け取って「筑紫の国は、元々から周辺の賊の攻撃から国境を守る。それで城を急峻に堀を深く造って、海に向かって守るのは、まったく国内の賊の為ではない。今、命令を恐れて軍を蜂起したら、国が無くなる。もし不意の外の攻撃に、他ごとであわただしくしていて事が有ったら、たちどころに社稷が傾くだろう。だから後で百回私を殺されても、何の利益も無い。どうして敢えて国益に背けましょうか。簡単に軍を動さないのは、このためだ」と答えた。その時に栗隈の王の二人の子、三野の王・武家の王が、剱を帯びて隣にに立って退かなかった。そこで、男は、剱に手を掛けて進もうとしたが、あとで殺されることを恐れたので、目的を達成できずにむなしく帰った。東方の公用の使者の磐鍬達は、不破に行こうとしたが、磐鍬一人が山中に兵士が居ることを疑って、後をゆっくり付いていった。その時、伏兵が山から出てきて、藥達の後を遮った。磐秋はそれを見て、藥達が捕えられたことを知って、逃げ帰って、なんとか免れることが出来た。この時に、大伴の連の馬來田・弟の吹負は、二人とも状況が不利と判断して、病気と言って、倭の家に帰った。そしてその嗣位に登るのは、きっと吉野に居る大皇弟だろうと知った。それで、馬來田は、先頭に立って天皇に従った。ただし吹負だけは留まって、一度、名を知らしめて、災難をやわらげようと思った。それで一二の同族と諸々の豪傑を招いて、僅かだが数十人を得た。丁亥の日に、高市皇子は、使者を桑名の郡家に派遣して「御所から遠くに居ては、政事を行いようがない。近い所にいるべきだ」と奏上した。その日に、天皇は、皇后を留めて、不破に入った。郡家に着いた頃に、尾張の国司の守の小子部の連の鉏鉤が、二万の兵士を率いて帰順した。天皇は、すなわち褒め称えて、その兵士を分配して、所々の道を塞いだ。野上に着いたときに、高市皇子は、和蹔から迎えに来て、それで「昨夜、近江朝から、伝令の早馬が着いた。それで伏兵を使って捕えたら、書の直の藥・忍坂の直の大麻呂だった。何処に行くのかと問いかけたら、『吉野に居る大皇弟の為に、東国の軍を蜂起させるために派遣する韋那の公の磐鍬の家来だ。しかし磐鍬は蜂起の兵を見て、それで逃げ帰った』と答えた」と奏上した。すでに天皇は、高市皇子は「近江朝には、左右の大臣や知略に長けた臣下が、一緒に相談して決めている。今、私は、一緒に相談するものが居ない。ただ幼少の未熟者しかいない。どうしたらよいのか」と言った。皇子は、腕まくりをして剱に手を掛けて「近江の群臣が、多いといっても、どうして天皇の守り神に逆らえるのか。天皇がたった一人と言っても、私高市と、神祇の神秘な力に頼って、天皇の命令に従って、諸將を率いて征討します。こんな我らをどうして防げましょう」と奏上した。それで天皇が誉めて、手を取って背を撫でながら、「念いりに怠ってはいけないぞ」と言った。それで鞍のついた馬を与えて、全ての軍事を任せた。皇子は、和蹔に帰った。天皇は、そこで、行宮を野上に造って居た。この夜、雷鳴が響いて雨が酷かった。天皇は「天神地祇よ、私を助けてくださるなら、雷や雨を止めてください」と祈った。言い終わったら雷や雨がやんだ。戊子の日に、天皇、和蹔に行って、軍事を点検して帰った。己丑の日に、天皇は、和蹔に行って、高市皇子に命令して、軍兵に命令を発した。天皇は、また野上に帰っていた。この日に、大伴の連の吹負は、ひそかに留守の司の坂上の直の熊毛と相談して、一二人の漢の直達に「私は偽って高市皇子と名乗って、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の路から、出て陣営に対峙する。それでお前たちが陣内から応じろ」と言った。すぐに兵を百済の家で準備させて、南の門から出た。まず秦の造の熊を、ふんどしだけにして、馬に乗せて、馬を走らせて、寺の西の陣営の中へ「高市皇子が、不破から着いた。軍兵が多く従っている」と叫んだ。そこで留守の司の高坂の王と兵を蜂起させる使者の穂積の臣の百足達が、飛鳥寺の西のケヤキの下に集まって陣営とした。ただし百足だけは小墾田の兵器庫に居て、兵器を近江に運んだ。その時に陣営の中の兵士たちが、熊の叫ぶ声を聞いて、残らず散り散り逃げた。それで大伴の連の吹負は、数十騎を率いて息せき切ってやって来た。それで熊毛および諸々の直達は、みんな一つになった。兵士はまた従った。それで高市皇子の命令と言って、穗積の臣の百足を小墾田の兵器庫に呼んだ。そこで百足は、馬に乗ってゆっくりやって来た。飛鳥寺の西のケヤキの下の人がいて「馬から下りなさい」と言った。その時百足は、馬から下ることが遅かった。それでその襟首を取って引きずり下して、射一箭で打ちぬき刀を拔いて斬り殺した。それで穗積の臣の五百枝・物部の首の日向を監禁した。すこしして赦免して軍の中に置いた。また、高坂の王・稚狹の王を呼び出して、軍に従わせた。すでに大伴の連の安麻呂・坂上の直の老・佐味の君の宿那麻呂達を不破の宮に派遣して、事情を奏上した。天皇は、とても喜んだ。それで吹負に命じて將軍にした。この時に、三輪の君の高市麻呂・鴨の君の蝦夷達、および諸々の豪傑達は、響き渡るように残らず將軍の指揮下に集まった。それで近江を襲撃することを決めた。兵士の中の俊英をよって、副将軍や軍を監督させた。庚寅の日に、まず乃樂に向う。】


2020年12月18日金曜日

最終兵器の目 天武天皇2

  今回は、壬申の乱で長文なので、解説を先にする。

ここでの登場人物は、冠位が全く記述されず、3つの特色あるグループに分けることが出来る。

1つは、『日本書紀』で褒賞されて、『続日本紀』で褒賞されず、しかも、壬申の乱で登場しない人物、1つは『続日本紀』の710年までに記述された人物および701年の褒賞で冠位が無い人物、そして616年以降に記述された人物である。

村國小依は最大の功労者で天武天皇五年に「村國連雄依卒以壬申年之功贈外小紫位」と冠位を記述するが、 大宝元年の「先朝論功行封時賜村國小依百廿戸」と冠位を記述せず、また、『日本書紀』に百廿戸を与えた記事もなく、霊亀二年には「壬申年功臣贈少紫村國連小依息」と死亡時に与えられた冠位を記述して、『日本書紀』の資料が手に入ったことで褒賞していない人物にも褒賞を行ったようだ。

すなわち、実際に起こった事実を並び替えると壬申の乱→ 先朝論功行封時→大宝元年(村國連雄依卒→贈外小紫位)→霊亀二年と考えられ、小紫位は大化改元時に古い冠位を復古し、雄依に与えられた可能性があり、大化3年の冠位一十三階と大化5年の冠位十九階の改変の期間が短すぎるのは一方が697年か699年の出来事だった可能性が高、恐らく冠位が増えた冠位十九階が699年だったのだろう

『日本書紀』慶長版は

「是月朴井遭(?)雄君奏天皇曰臣以有私事獨至美濃時朝庭宣美濃尾張兩國司曰爲造山陵豫差定人夫則人別令執兵臣以爲非爲山陵必有事矣若不早避當有危歟或有人奏曰自近江京至于倭京處處置候亦命菟道守橋者遮皇大弟宮舍人運私粮事天皇惡之因令問察以知事已實於是詔曰朕所以讓位遁世者獨治病全身永終百年然今不獲已應承禍何默亡身耶六月辛酉朔壬午詔村國連男依和珥部臣君手身毛君廣曰今聞近江朝庭之臣等爲朕謀害是以汝等三人急往美濃國告安八磨郡湯沐命多臣品治宣示機要而先發當郡兵仍經國司等差發諸軍急塞不破道朕今發路甲申將入東時有一臣奏曰近江群臣無有謀心必造天下則道路難通何無一人兵徒手入東臣恐事不就矣天皇從之思欲返召男依等即遣大分君惠尺黃書造大伴逢臣志摩于留守司髙坂王而令乞驛鈴因以謂惠尺等曰若不得鈴廼志摩還而覆奏惠尺馳之往於近江喚髙市皇子大津皇子逢於伊勢既而惠尺等至留守司舉東宮之命乞驛鈴於髙坂王然不聽矣時惠尺往近江志摩乃還之復奏曰不得鈴也是日發途入東國事急不待駕而行之儵遇縣犬養連大伴鞍馬因以御駕乃皇后載輿從之逮于津振川車駕始至便乗焉是時元從者草壁皇子忍壁皇子及舍人朴井連雄君縣犬養連大伴佐伯連大目大伴連友國稚櫻部臣五十瀬書首根摩呂書直智德山背直小林山背部小由安斗連智德調首淡海之類二十有餘人女孺十有餘人也即日到菟田吾城大伴連馬來田黃書造大伴從吉野宮追至於此時屯田司舍人土師連馬手供從駕者食過甘羅村有獦者二十餘人大伴朴本連大國爲獦者之首則悉喚令從駕亦徵美濃王乃參赴而從矣運湯沐之米伊勢國駄五十匹遇於菟田郡家頭仍皆棄米而令乗步者到大野以日落也山暗不能進行則壤取當邑家籬爲燭及夜半到隱郡焚隱驛家因昌(唱)邑中曰天皇入東國故人夫諸參赴然一人不肯來矣將及横河有黑雲廣十餘丈經天時天皇異之則舉燭親康式占曰天下兩分之祥也然朕遂得天下歟即急行到伊賀郡焚伊賀驛家還于伊賀中山而當國郡司等率數百衆歸焉會明至莿萩野暫停駕而進食到積殖山口髙市皇子自鹿深越以遇之民直大火赤染造德足大藏直廣隅坂上直國麻呂古市黒麻呂竹田大德膽香瓦臣安倍從焉越大山至伊勢鈴鹿爰國司守三宅連石床介三輪君子首及湯沐令田中臣足麻呂髙田首新家等參遇于鈴鹿郡則且發五百軍塞鈴鹿山道到川曲坂下而日暮也以皇后疲之暫留輿而息然夜曀欲雨不得淹息而進行於是寒之雷雨已甚從駕者衣裳濕以不堪寒及到三重郡家焚屋一間而令熅寒者是夜半鈴鹿關司遣使奏言山部王石川王並來歸之故置關焉天皇便使路直益人徵」

【この月に、朴の井の連の雄君が、天皇に「私は、私事が有って、一人で美濃に行った。その時に朝庭が、美濃・尾張、二つの国司に宣下して『山陵を造るために、あらかじめ人夫を記して準備しなさい』と言った。それで各人のそれぞれが武器を執った。私が思うに、山陵を作ってはいけない、きっと何か起こる。もし早急に中止しなければ、必ず危機が訪れる」と奏上した。ある人が「近江の京から、倭の京に至るまで、所々に様子見を置いた。また菟道の橋守に命じて、大皇弟の宮の近習の、私物の兵糧を運ぶ事を止めるべきだ」と奏上した。天皇は、不快に思って、それで詳しく調べて、すべて事実だったことを知った。そこで、「私は、位を讓って隠遁したのは、自分で体の病を治し、ずっと過ごしたいからだ。しかし今、どうすることもできずにわざわいを受けた。どうして黙って身を滅ぼそうと言うのか」と詔勅した。六月の朔が辛酉の壬午の日に、村国の連の男依・和珥部の臣の君手・身毛の君の廣に 「いま聞いたのだが、近江の朝庭の臣下達が、私を傷つけよう謀っている。それで、お前達三人は、すぐに美濃の国に行って、安八磨の郡の湯沐令の多の臣の品治に告げて、はかりごとの要点を伝え示して、まず當の郡の兵を蜂起させなさい。それで、国司達に伝えて、諸軍を蜂起させて、すみやかに不破の道を塞ぎなさい。私は、これから出立しよう」と詔勅した。甲申の日に、東に入った時に一人の臣下がいて、「近江の役人は、元々、悪だくみの心が有った。きっと天下に危害を及ぼす。それで道路を通れなくするでしょう。どうして一人の兵も持たない、素手で東に入れましょうか。私が恐れるのは、事を成就できないことです」と奏上した。天皇は、それに従って、男依達を呼び返そうと思った。それで大分の君の惠尺・黄書の造の大伴・逢の臣の志摩を留守を守る役人の高坂の王のもとに派遣して、駅馬の供与を受ける資格の鈴を求めた。それで惠尺達に「もし鈴を得られなければ、志摩は帰って復命しなさい。惠尺は馬を走らせて、近江に行って、高市の皇子・大津の皇子を呼び寄せて、伊勢で会うように」と言った。それで惠尺達は、留守を守る役所について、東宮の命を述べて、駅馬の供与を受ける資格の鈴を高坂の王に求めた。しかし聞かなかった。それで惠尺は、近江に行った。志摩はそれで帰って、「鈴を得ることが出来なかった」と復命した。この日に、出発して東国に入った。事を急いで、駕籠を待たずに行った。すぐに縣犬養の連の大伴の鞍が付いた馬に遇って、それで乗った。それで皇后は、輿に載って従った。津振の川について、車駕がはじめて到着した。それで乗った。この時、はじめから従った者は、草壁の皇子・忍壁の皇子、および近習の朴の井の連の雄君・縣犬養の連の大伴・佐伯の連の大目・大伴の連の友國・稚櫻部の臣の五百瀬・書の首の根摩呂・書の直の智徳・山背の直の小林・山背部の小田・安斗の連の智徳・調の首の淡海の仲間たち、二十人余で、下級女官は十人余居た。その日に、菟田の吾城に着いた。大伴の連の馬來田・黄書の造の大伴が、吉野の宮から追いついた。この時、屯田の司の近習の土師の連の馬手が、駕籠に従う者の食事を提供した。甘羅の村を過ぎ、狩りの者が二十人余居た。大伴の朴本の連の大國は、狩りの者の首だ。それで残らず呼んで駕籠に従わせた。また美濃の王を呼び寄せた。それで参上して従った。湯煎した米を運ぶ伊勢の国の荷駄五十匹に、菟田の郡の家のところで会った。それで皆、米を棄てて、歩く者を乗せた。大野に着いたら日が暮れた。山が暗くなって進軍出来なかった。それでその邑の家の垣根を壊し取って明かりとした。夜半になって隱の郡に着いて、隱の駅の施設を焼いた。それで邑の中で「天皇が、東国に入った。それで、人夫達よそれぞれ参上しなさい」と呼びかけた。しかし一人も来なかった。横河に着こうとしたとき、黒雲がわき立った。広さ十丈余で天まで広がった。その時に、天皇は怪しんだ。それで明かりを手に持って自ら無事を占って、「天下が二つに分れるきざしだ。しかし私がきっと天下を得る」と行った。それですみやかに行軍して伊賀の郡に着いて、伊賀の駅の施設を焼いた。伊賀の山中に着いて、當の国の郡司達が、数百の人々を率いて集まって来た。明け方に、莿萩野に着いて、しばらく駕籠を停めて食事をした。積殖の山の入り口に着いて、高市の皇子が、鹿深から越えて会った。民の直の大火・赤染の造の徳足・大藏の直の廣隅・坂上の直の國麻呂・古市の黒麻呂・竹田の大徳・膽香瓦の臣の安倍が従った。大山を越えて、伊勢の鈴鹿に着いた。ここに国司守の三宅の連の石床・副官の三輪の君の子首、および湯沐の令の田中の臣の足麻呂・高田の首の新家達が、鈴鹿の郡に集まって会った。それでまた、五百の軍を蜂起して、鈴鹿の山道を塞ごうとした。川曲の坂下に着いて、日が暮れた。皇后が疲れたので、しばらく輿を留めて休息した。しかし夜に曇って雨が降って来た。それで休むことが出来なかったので進軍した。そこで、寒くて雷がなり雨が降ってひどかった。駕籠に従う者は、衣服が濡れて、寒さに耐えられなかった。それで三重の郡家に着いて、家屋を一軒焼いて、凍えた者の暖を取った。この夜半に、鈴鹿の関の司が、使者を派遣して「山部の王・石川の王が、帰順した。それで、関に置いた」と奏上した。天皇は、それで路の直の益人を使者にして召喚した。】とあり、六月辛酉朔は6月2日で暦が違い、やはり、703年が合致する。

2020年12月16日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十八  天武天皇1

  『日本書紀』慶長版は

天渟中原瀛真人天皇天命開別天皇同母弟也幼曰大海人皇子生而有岐㠜之姿及壯雄拔神武能天文遁甲納天命開別天皇女菟野皇女爲正妃天命開別天皇元年立爲東宮四年冬十月庚辰天皇臥病以痛之甚矣於是遣蘇賀臣安麻侶召東宮引入大殿時安摩侶素東宮所好密領東宮曰有意而言矣東宮於茲疑有隱謀而愼之天皇勅東宮授鴻業乃辭讓之曰臣之不幸元多病何能保社稷願陛下舉天下陛皇后仍立大友皇子冝爲儲君臣今日出家爲陛下欲修功德天皇聽之即日出家法服因以收私兵器悉納於司壬午入吉野宮時左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等送之自菟道返或曰虎著翼放之是夕御嶋宮癸未至吉野而居之是時聚諸舍人謂之曰我今入道修行故隨欲修道者留之若仕欲成名者還仕於司然無退者更聚舍人而詔如前是以舍人等半留半退十二月天命開別天皇崩元年春三月壬辰朔己酉遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫告天皇喪於郭務悰等於是郭務悰等咸著喪服三遍舉哀向東稽首壬子郭務悰等再拜進書函與信物夏五月辛卯朔壬寅以甲冑弓矢賜郭務悰等是日賜郭務悰等物捴合絁一千六百七十三匹布二千八百五十二端綿六百六十六斤戊午髙麗遣前部富加抃等進調庚申郭務悰等罷歸

【天渟中原瀛眞人天皇は、天命開別天皇の同母弟だ。幼い時に大海人の皇子という。生まれた時から背が高く堂々として、大人になって男らしさが群を抜きこの上なく優れた武徳を持っていた。天文や吉凶の判断に優れていた。天命開別の天皇の娘の菟野皇女を召し入れて、正妃とした。天命開別の天皇の元年に、立って東宮となった。四年の冬十月の庚辰の日に、天皇は、病に臥せって、とても痛ましかった。そこで、蘇賀の臣の安麻侶を派遣して、東宮を呼んで、寝所に引き入れた。その時に安摩侶は、元から東宮とゆかりが有り、密に東宮を手に入れようと、「よく考えて答えてください」と言った。東宮は、ここに、隱された陰謀があることを疑って慎んだ。天皇は、東宮に詔勅して大業を授けた。それで「私は具合が悪く、元から多くの病が有る。どうして国家を保つことが出来ましょう。お願いですから、陛下、天下を皇后に与えてください。そして、大友の皇子を立てて、皇太子にしてください。私は、今日、出家して、陛下の為に、世のため、人のためになるよい行いの修行をしたい」といって断った。天皇は、聞き入れた。その日に、出家して法服を着た。そのため、個人の武器を集めて、全て司直に収めた。壬午の日に、吉野の宮に入った。その時に左大臣の蘇賀の赤兄の臣・右大臣の中臣の金の連、および大納言の蘇賀の果安の臣達が送ってくれて、菟道に着いて引き返した。或るひとが、「虎に翼を着けて放った」と言った。この夕に、嶋の宮に居た。癸未の日に、吉野に到着していた。この時に、諸々の近習達を集めて、「私は今、出家して修行しようと思う。それで、一緒に修行しようと思う者は留りなさい。もし雇われて名を成そうと思う者は、帰って役所で仕えなさい」と言った。しかし、退席する者はいなかった。さらに近習を集めて、詔勅したが前の通りだった。ここで、近習達は、半ばは留り半ばは退席した。十二月に、天命開別の天皇が崩じた。元年の春三月の朔が壬辰の己酉の日に、内小の七位の阿曇の連の稻敷を筑紫に派遣して、天皇の喪を郭務悰達に告げた。そこで、郭務悰達は、みな喪服を着て、三回哀悼の意を表した。東に向って頭を地に着くまで下げた。壬子の日に、郭務悰達が、書函と印の物とを進上した。夏五月の朔が辛卯の壬寅の日に、甲冑と弓矢を、郭務悰達に与えた。この日に、郭務悰達に与えた物は、全てで太絹一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤だった。戊午の日に、高麗が、前部の富加抃達を派遣して年貢を進上した。庚申の日に、郭務悰達が帰った。】とあり、三月壬辰朔は2月30日で、天武天皇からは元明天皇の王朝が記述していて、『続日本紀』はほとんど朔の日干支が正しく、以前に述べた朝鮮半島などの暦ではなく九州の暦だと考えられる。

そして、その筑紫に派遣した三月壬辰朔には内小七位阿曇連稻敷は「建元爲大寶元年始依新令改制官名位号・・・外位始直冠正五位上階」と大宝令から使われる冠位で701年以降の説話で中国使節が701年以降まで滞在し、大宝二年十二月の「太上天皇崩」が元の記事と考えられ、『那須国造碑』に「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月」と少なくとも689年から700年まで評督が存在し、筑紫都督府が頂点に立った制度と考えられ、白村江で負けて唐の影響下となったために導入された制度と思われ、その最高権力者が郭務悰およびその後任達で702年まで郭務悰の後任達が残っていた。

そして、それ以降の記述なのだから、全て評ではなく郡と記述し、天智紀では大后だったものが皇后と記述され、文武天皇のクーデターで退位して太上天皇となっていた天武天皇とその妻が大后とつじつまが合う。

704年に改元されて大長になっているので、大后が引継ぎ、704年に20歳になった總持が天皇に即位し、大長に改元し、總持が藤原京を捨て、『続日本紀』に慶雲元年十一月「壬寅始定藤原宮地」と代わりに文武が入京したのだろうか。


2020年12月14日月曜日

最終兵器の目 天智天皇9

  『日本書紀』慶長版は

夏四月丁卯朔辛卯置漏剋於新臺始打候時動鍾鼓始用漏剋此漏剋者天皇爲皇太子時始親所製造也云云是月筑紫言八足之鹿生而即死五月丁酉朔辛丒天皇御西小殿皇太子群臣侍宴於是再奏田儛六月丙寅朔巳巳宣百濟三部使人所請軍事庚辰百濟遣羿真子等進調是月以栗隈王爲筑紫師新羅遣使進調別獻水牛一頭山鶏一隻秋七月丙申朔丙午唐人李守真等百濟使人等並罷歸八月乙丒朔丁卯髙麗上部大相可婁等罷歸壬午饗賜蝦夷九月天皇寢疾不豫冬十月甲子朔庚午新羅遣沙飡金万物等進調辛未於裏開百佛眼是月天皇遣使奉袈裟金鉢象牙沈水香旃檀香及諸珍財於法興寺佛庚辰天皇疾病弥留勅喚東宮引入臥內詔曰朕疾甚以後事属汝云云於是再拜稱疾固辭不受曰請奉洪業付属大后令大友王奉宣諸政臣請願奉爲天皇出家修道天皇許焉東宮起而再拜便向於內裏佛殿之南踞坐胡床剃除鬢髮爲沙門於是天皇遣次田生磐送袈裟壬午東宮見天皇請之吉野修行佛道天皇許焉東宮即入於吉野大臣等侍送至菟道而還十一月甲午朔癸卯對馬國司遣使於筑紫大宰府言月生二日沙門道久筑紫君薩野馬韓嶋勝娑々布師首磐四人從唐來曰唐國使人郭務悰等六百人送沙宅孫登等一千四百人揔合二千人乗舩四十七隻倶泊於比智嶋相謂之曰今吾輩人舩數衆忽然到彼恐彼防人驚駭射戰乃遣道文等預稍披陳來朝之意丙辰大友皇子在內裏西殿織佛像前左大臣蘇我赤兄臣右大臣中臣金連蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣侍焉大友皇子手執香鑪先起誓盟曰六人同心奉天皇詔若有違者必被天罰云云於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起泣血誓盟曰臣等五人隨於殿下奉天皇詔若有違者四天王打天神地祇亦復誅罰三十三天證知此事子孫當絶家門必亡云々丁巳灾近江宮從大藏省第三倉出壬戌五臣奉大友皇子盟天皇前是日賜新羅王絹五十匹絁五十匹綿一千斤韋一百挍十二月癸亥朔乙丑天皇崩于近江宮癸酉殯于新宮于時童謠曰美曳之弩能曳之弩能阿喩阿喩舉曾播施麻倍母曳岐愛倶流之衞奈疑能母騰制利能母騰阿例播倶流之衞於?(方尓:弥)能古能野陛能比母騰倶比騰陛多爾伊麻拖藤柯祢波美古能比母騰矩阿箇悟馬能以喩企波々箇屢麻矩儒播羅奈爾能都底舉騰多拖尼之曳鶏武己卯新羅進調使沙飡金万物等罷歸是歳讚岐國山田郡人家有雞子四足者又大炊省有八鼎鳴或一鼎鳴或二或三倶鳴或八倶鳴

夏四月の朔が丁卯の辛卯の日に、水時計を新しい高殿に置いた。はじめて時を打った。鐘や鼓が響いた。はじめて水時計を使った。この水時計は、天皇が、皇太子になった時に、はじめて親ら造ったものだ云云。この月に、筑紫が、「八つの足がある鹿が、生れてすぐに死んだ」と言った。五月の朔が丁酉の辛丑の日に、天皇は、西の小殿にいた。皇太子と家臣が、宴席にいた。そこで、田儛を何度も歌い踊った。六月の朔が丙寅の己巳の日に、百済の三部の使者のが援軍を願い出た。庚辰の日に、百済、羿眞子達を派遣して、年貢を進上した。この月に、栗隈の王を、筑紫の率とした。新羅が、使者を派遣して年貢を進上した。別に水牛一頭・山鷄一隻を献上した。秋七月の朔が丙申の丙午の日に、唐人の李守眞達と、百済の使者達が、一緒に帰った。八月の朔が乙丑の丁卯の日に、高麗の上部大相の可婁達が帰った。壬午の日に、蝦夷を饗応した。九月に、天皇が病気で寝込んで治らなかった。冬十月の朔が甲子の庚午の日に、新羅が、沙飡の金萬物達を派遣して年貢を進上した。辛未の日に、内裏で、百佛の開眼をした。この月に、天皇は、使者を派遣して袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、および諸々の珍しい宝を法興寺の佛に奉上させた。庚辰の日に、天皇は、病気で最期の時を迎えた。詔勅で東宮を呼び出して、寝所のなかに引入れて、「私は、病気がひどい。後の事をお前にまかせる」と詔勅した云云。ここで、再拜して、病気だからと固辞して、「お願いですから、大業をささげて、大后に任せてください。大友の王に、諸々の政務を任せてください。私は、天皇の御為に、出家して修行することを許してください」と行って受けなかった。天皇は許した。東宮は立ち上がって再拜した。それで内裏の佛殿の南に向かって、床几にうずくまって、鬢と髮を剃って、僧になった。そこで、天皇は、次田の生磐を派遣して、袈裟を送らせた。壬午の日に、東宮は、天皇に会って、吉野に行って、佛道の修行をしたいと願った。天皇は許した。東宮はすぐに吉野に入った。大臣達は途中まで送った。菟道に着いて帰った。十一月の朔が甲午の癸卯の日に、對馬の司が、使者を筑紫の大宰府に派遣して「月が始まって二日の日に、僧の道久・筑紫の君の薩野馬・韓嶋の勝の裟婆・布師の首の磐の四人、が唐から来て、『唐国の使者の郭務悰達六百人と、送使の沙宅孫登達千四百人、総勢二千人が、船四十七隻に乗って、一緒に比知の嶋に停泊して、『今、私たちの人と船の数が多い。急に彼の地に着いたら、きっと彼の国の防備兵が、驚き乱れて弓を撃ってくるだろう。それで道久達を派遣して、少し早く朝廷に来日の真意をかくさず述べよう』と話し合った」と言った。丙辰の日に、大友の皇子が、内裏の西殿の織物の佛像の前に居た。左大臣の蘇我の赤兄の臣・右大臣の中臣の金の連・蘇我の果安の臣・巨勢の人の臣・紀の大人の臣が従った。大友の皇子は、手に香炉をもって、まず立ち上がって「六人の心を一つにして、天皇の詔勅をうけたまわった。もしたがうことが有ったら、必ず天罰を被るだろ」と、誓った云云。そこで、左大臣の蘇我の赤兄の臣達が、手に香炉を持って、次々と立ち上がった。ひどく泣き悲しんで「私たち五人は、殿下に従って、天皇の詔勅を受けたまわった。もし違うことが有ったなら、四天王に打たれるだろう。天神地祇も処罰するだろう。忉利天がこの事を証明して、子孫が絶え、家門はきっと亡ぶだろう」誓って云云。丁巳の日に、近江の宮で火災があった。大藏の省の第三の倉から出火した。壬戌の日に、五人の臣が、大友の皇子を奉じて、天皇の前で盟った。この日に、新羅の王に、絹を五十匹・太絹を五十匹・綿を一千斤・なめしがわを一百枚与えた。十二月の朔が癸亥の乙丑の日に、天皇が、近江の宮で崩じた。癸酉の日に、新宮で葬儀儀礼をした。その時に、風刺歌で言うことに三歌()、己卯の日に、新羅が年貢の進上の使者の沙飡の金萬物達が帰った。この歳に、讃岐の国の山田の郡の人の家に、雞子に四つの足がある者が有った。また大炊に八つの鼎が有って鳴った。あるいは一つの鼎が鳴った。あるいは二つ或いは三つ一緒に鳴った。あるいは八つ共にに鳴った。】とあり、五月丁酉朔と七月丙申朔は共に2日で前月が小の月で、畿内以外、九州や朝鮮半島の暦で、他は標準陰暦と合致する。

ここでの大后は天智天皇の皇后ではなく、高祖母の中宮前天皇のことで、太皇弟の叔母で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「鬼前太后崩・・・上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以労疾」と俀国では母が太后で妻が王后と呼ばれている。

そして、 筑紫君薩野馬達の帰国は天智天皇四年「九月庚午朔壬辰・・・郭務悰凡二百五十四人七月廿八日至于對馬」と既に大挙して来日しており、その前の天智天皇三年「夏五月戊申朔甲子。百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」と先触れできたはず、すなわち、天智天皇三年5月以前の話でなくては意味が通らない。

持統四年に「天命開別天皇三年・・・筑紫君薩夜麻弓削連元寶兒四人思欲奏聞唐人所計」と664年に帰国したと読め、『日本書紀』どおりなら、即位後なら天智4年が天智10年で意味が通らない。

すなわち、筑紫君薩夜麻が俀国王の天萬豊日で、664年までの天智皇太子は俀国の皇太子で摂政、舒明天皇の妻で前天皇の天豐財重日足姫が661年に俀国王を天萬豊日に譲って天萬豊日が朝鮮半島に出兵し、天智天皇が俀国の摂政となったと考えられる。

2020年12月11日金曜日

最終兵器の目 天智天皇8

  『日本書紀』慶長版は

九年春正月乙亥朔辛巳詔士大夫等大射宮門內戊子宣朝庭之禮儀與行路之相避復禁斷誣妄妖偽二月造戸籍斷盜賊與浮浪于時天皇幸蒲生郡匱邇野而觀宮地又修髙安城積穀與塩又築長門城一筑紫二三月甲戌朔壬午於山御井傍敷諸神座而班幣帛中臣金連宣祝詞夏四月癸卯朔壬申夜半之後灾法隆寺一屋無餘火雨雷震五月童謠曰于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古多麻提能伊鞞能野鞞古能度珥伊提麻志能倶伊播阿羅珥茹伊提麻西古多麻提能鞞能野鞞古能度珥六月邑中獲龜背書申字上黃下玄長六寸許秋九月辛未朔遣阿曇連頰垂於新羅是歳造水碓而冶鐵十年春正月己亥朔庚子大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前奏賀正事癸卯大錦上中臣金連命宣神事是日以大友皇子拜太政大臣以蘇我赤兄臣爲左大臣以中臣金連爲右大臣以蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣爲御史大夫甲辰東宮太皇弟奉宣施行冠位法度之事大赦天下丁未髙麗遣上部大相可婁等進調辛亥百濟鎮將劉仁願遣李守真等上表是月以大錦下授佐平余自信沙宅紹明以小錦下授鬼室集斯以大山下授達率谷那晉首木素貴子憶禮福留荅㶱春初㶱日比子贊波羅金羅金湏鬼室集信以上小山上授達率德頂上吉大尚許率母角福牟以小山下授餘達率等五十餘人童謠云多致播那播於能我曳多曳多那例々騰母陀麻爾農矩騰岐於野兒弘伱農倶二月戊辰朔庚寅百濟遣臺久用善等進調三月戊戌朔庚子黃書造本實獻水臬甲寅常陸國貢中臣部若子長尺六寸其生年丙辰至此歳十六年也

九年の春正月の朔日が乙亥の辛巳の日に、貴族達に詔勅して、朝廷内で大射をした。戊子の日に、朝庭での禮儀と、行き交うときに互いに譲り合うことを宣下した。また、誹謗やあやしい言説を厳重に禁止した。二月に、戸籍を造った。盗賊と浮浪者を禁じた。その時に、天皇は、蒲生の郡の匱邇の野に行幸して、宮地を見た。また、高安の城を修繕し、殻物と鹽とを積んだ。又、長門の城一つ・筑紫の城二つを築く。三月の朔が甲戌の壬午の日に、山の御井の辺に、諸神の座を敷いて、供物を分けた。中臣の金の連が、祝詞を宣べた。夏四月の朔が癸卯の壬申の日に、あかつきに、法隆寺に火災があった。一屋も余すことが無かった。大雨がふり雷が鳴り響いた。五月、童謠に言うことに、()六月に、邑の中で亀を獲った。背に申の字が書かれていた。上が黄色で下は赤黒かった。長さ六寸くらい。秋九月の辛未の朔の日に、阿曇の連の頬垂を新羅に派遣した。この歳に、水碓を造って鉄鉱石を溶かした。十年の春正月の朔が己亥の庚子の日に、大錦上の蘇我の赤兄の臣と大錦下の巨勢の人の臣とが、殿の前に進み出て、賀正の事を奏上した。癸卯の日に、大錦上の中臣の金の連が、命じられて神事を宣べた。この日に、大友の皇子を、太政大臣官位を授けた。蘇我の赤兄の臣を、左大臣にした。中臣の金の連を、右大臣にした。蘇我の果安の臣・巨勢の人の臣・紀の大人の臣を、御史大夫にした。甲辰の日に、東宮の太皇弟が天皇の命により宣下して、冠位・法度の事を施行した。天下に大赦をした。丁未の日に、高麗が、上部の大相の可婁達を派遣して、年貢を進上した。辛亥の日に、百済の鎭將の劉仁願は、李守眞達を派遣して、上表文を送った。この月に、大錦下を、佐平の余自信・沙宅紹明に授けた。小錦下を、鬼室集斯に授けた。大山下を達率の谷那晉首・木素貴子・憶禮福留・答㶱春初・㶱日比子贊波羅金羅金須・鬼室集信に授けた。小山上を、達率の徳頂上・吉大尚・許率母・角福牟に授けた。小山下を、余の達率達五十余人に授けた。風刺歌に()。二月の朔が戊辰の庚寅の日に、百済が臺久用善達を派遣して、年貢を進上した。三月の朔が戊戌の庚子の日に、黄書の造の本實が水測り()を献上した。甲寅の日に、常陸の国が、中臣部の若子貢上した。背丈が尺六寸だった。その生れた年は丙辰よりこの歳まで、十六年だ。】とあり、九月辛未朔は644年の8月30日若しくは701年の可能性があり、二月戊辰朔は1月30日で1月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

前項で述べた通り、鎌足の死亡が持統6年の692年頃と考えられ、ここで記述される宣下した大皇弟は大海皇子ではなく、孝徳天皇の皇弟で、天智天皇はまだ23歳程度で大友皇子はまだ幼少で13歳に達しておらず、694年の出来事と考えられる。

しかも、大海人皇子なら大皇弟ではなく皇弟で、695年の大友皇子即位の時の大皇弟と考えられ、『藤氏家伝』に「太皇弟以長槍刺貫敷板帝驚大怒以將執害大臣固諌帝即止之太皇弟初忌大臣所遇之高」と続いて「自茲以後 殊親重之」さらに「後値壬申之亂從芳野向東土歎曰若使大臣生存吾豈至於此困哉人之所思略此類也」と意味が通らない文面で、太皇弟が恨んだはずなのに、仲良くなったが、結局謀反を起こしたような書きまわしだ。

天皇が即位した時の乱暴で、鎌足の出世を妬んだ太皇弟と前紀に「生而有岐嶷之姿及壯雄拔神武。能天文遁甲」と記述される優秀な天武天皇と別人で、『藤氏家伝』も二人の太皇弟を記述していて、『新唐書』も「天智死子天武立」と天武天皇が天智天皇の子と記述され、大友皇子の兄弟が即位した。

すなわち、やはり乱暴な大皇弟は即位できず、文武天皇の祖父とは別人で、『粟原寺鑪盤銘』の「爾故比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」と額田姫が「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時」と694年に浄御原宮天皇の時に大倭国の為に寺を造り、「日並御宇東宮」と日並が太皇弟で、妻が額田姫すなわち額田部の姫で大倭国王舒明天皇の系列の王家である。

2020年12月9日水曜日

最終兵器の目 天智天皇7

  『日本書紀』慶長版は

八年春正月庚辰朔戊子以蘇我赤兄臣拜筑紫率三己卯朔巳丒耽羅遣王子久麻伎等貢獻丙申賜耽羅王五穀種是日王子久麻伎等罷歸夏五月戊寅朔壬午天皇縱獦於山科野大皇弟藤原內大臣及群臣皆悉從焉秋八月丁未朔巳酉天皇登髙安嶺議欲修城仍恤民疲止而不作時人感而歎曰寔乃仁愛之德不亦寛乎云云是秋霹礰於藤原內大臣家九月丁丑朔丁亥新羅遣沙飡督儒等進調冬十月丙午朔乙卯天皇幸藤原內大臣家親問所患而憂悴極甚乃詔曰天道輔仁何乃虛説積善餘慶猶是無徵若有所湏便可以聞對曰臣既不敏當復何言但其葬事宣用輕易生則無務於軍國死則何敢重難云云時賢聞而歎曰此之一言竊比於往哲之善言矣大樹將軍之辭賞詎可同年而語哉庚申天皇遣東宮大皇弟於藤原內大臣家授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏自此以後通曰藤原大臣辛酉藤原內大臣薨甲子天皇幸藤原內大臣家命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔仍賜金香鑪十二月災大藏是冬修髙安城收畿內之田税于時災斑鳩寺是歳遣小錦中河內直鯨等使於大唐又以佐平餘自信佐平鬼室集斯等男女七百餘人遷居近江國蒲生郡又大唐遣郭務悰等二千餘人

【八年の春正月の朔が庚辰の戊子の日に、蘇我の赤兄の臣を、筑紫の率にした。三月の朔が己卯の己丑の日に、耽羅が、王子の久麻伎達を派遣して貢献した。丙申の日に、耽羅の王に五穀の種を与えた。この日に、王子の久麻伎達が帰った。夏五月の朔が戊寅の壬午の日に、天皇は、山科の野に臣下を引き連れた狩りを行った。大皇弟と藤原の内大臣及び下臣、皆残らず従った。秋八月の朔が丁未の己酉の日に、天皇は、高安の嶺に登って、相談して城を造ろうとしたが人々が疲弊することを心配して止めた。当時の人は「これはめぐみいつくしむ品性を持ち合わせていると言わずにいられない」と感心してほめたたえた云云。この秋に、藤原の内大臣の家に落雷した。九月の朔が丁丑の丁亥の日に、新羅が、沙飡の督儒達を派遣して、年貢を進上した。冬十月の朔が丙午の乙卯の日に、天皇は、藤原の内大臣の家に行幸して、親ら容体を聞いた。それなのに苦しみやつれつくしてひどい状態だった。それで「天神が思いやりを助けるという道理などというのはうそだ。善行を積み重ねて余りあるめでたいことがあるのに何の助けの兆候が無い。もしできることが有るのなら教えてほしい」と詔勅した。「私は才能も無いのに今更何を言えましょう。ただし私の葬事は、簡単なものにしてください。生きているときは軍事に関与しなかった。死んでまでどうしていくつもの難儀を残せましょう」と答えた、云云。当時の賢者がこれを聞いて「この一言を言えば、昔の哲人の名言としていつの日か後漢の馮異將軍と比べて同じだと賞賛されるだろう」と褒め称えた。庚申の日に、天皇は、東宮の大皇弟を藤原の内大臣の家に派遣して、大織冠と大臣の位とを授けた。それで、姓を与えて、藤原の氏とした。これより以後、ずっと藤原の内大臣といった。辛酉の日に、藤原の内大臣が薨じた。甲子の日に、天皇は、藤原の内大臣の家に行幸した。大錦上の蘇我の赤兄の臣に命じて、恩詔を宣べあげた。それで、金の香鑪を与えた。十二月に、大藏が火災にあった。この冬に、高安の城を築城して、畿内の田の税を徴収した。その時に、斑鳩の寺が火災にあった。この歳に、小錦中の河内の直の鯨達を派遣して、大唐への使者とした。また佐平の餘自信と佐平の鬼室集斯達が、男女七百人余を、近江の国の蒲生の郡に遷して住まわせた。また大唐が、郭務悰達二千人余を派遣した。】とあり、十月丙午朔は9月30日で9月が小の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。

藤原姓を授与されたとするが、天武天皇十三年の「更改諸氏之族姓作八色之姓以混天下萬姓一曰眞人二曰朝臣」と朝臣姓を制定して、授与した氏族の中に中臣は存在するが、藤原が無く、『続日本紀』で文武二年八月「丙午詔曰藤原朝臣所賜之姓」と698年に朝臣を得て、朝臣付与時684年には藤原姓が無かった。

すなわち、藤原賜姓は天武13年より後に鎌足のみに与えられ、698年に不比等・大嶋達に藤原朝臣を与えられ、大嶋は持統五年「神祗伯中臣朝臣大嶋」、持統七年「賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物」とあり、その間の持統六年「天皇觀藤原宮地」と藤原の宮の建設中の十月に鎌足が危篤となって、新しい都に因んで藤原姓を与えられたと考えたほうが理に適う。

藤原朝臣大嶋は朝臣賜姓時に藤原が含まれていないので、698年以降のことと考えられ、『藤氏家伝』も「即位二年 冬十月・・・ 仍授織冠 以任内大臣 改姓爲藤原朝臣」と、鎌足一人の藤原姓だったのに対し、朝臣の賜姓は文武2年の朝臣賜姓を述べ、死後の付与とも考えられる。

2020年12月7日月曜日

最終兵器の目 天智天皇6

  今回は家族構成が長く、解説を前にする。

まず私は、「納四嬪」に違和感を感じたが、それは、これまで女官を正妃とともに記述してこなかったからで、この四嬪に入っていない姫の子が弘文天皇や田原天皇と追号される人々で、天智紀を記述した人物にとっての敵対勢力、四嬪に入っている人々が乙巳の変以降天智天皇まで記述したという結論を出すことで違和感が解消された。

すなわち、複数の王を天智天皇にあてはめ天智紀を記述した人物、元明天皇達が記述した前の4嬪と4女の差別で4嬪の父は天智天皇に滅ぼされた側の子たちで、注釈を書いたのが持統天皇でも元明天皇でも自分の母親がわからないはずがなく、天智天皇の娘でない可能性がある。

天命は天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令だが、この場合は、新しい王朝を打ち立てたという意味で、『日本書紀』には景行天皇四〇年「臣受命天朝達征東夷・・・冀曷曰曷時復命天朝然天命忽至」、仁徳天皇即位前紀「先帝何謂我乎乃太子啓兄王曰天命也誰能留焉若有向天皇之御所」、允恭天皇即位前紀「夫帝位不可以久曠天命不可以謙距」、顕宗天皇即位前紀「天皇不可以久曠天命不可以謙拒」、顕宗天皇元年「天命有屬皇太子推讓・・・宜奉兄命承統大業・・・即天皇位」と新しい王朝誕生時に記述している。

天智天皇は自ら「天命開別」と天命で別の新しい王朝を開いたと呼んで、『三国史記』文武王十年「十二月土星入月京都地震中侍智鏡退倭國更號日本」、『新唐書』咸亨元年「遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本」と670年に国号を変え、『舊唐書』に「日本舊小國併倭國之地」と小国だった新しい王朝の日本は大きい国の倭を併合したと記述している。

すなわち日本は『舊唐書』に「日本國者倭國之別種也」と倭国の分国で中国史書で倭種ではなく倭国と呼ばれたことが有るのは『隋書』の「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼・・・大業三年其王多利思北孤遣使朝貢・・・明年・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」の俀国で、別に「大業六年己丑倭國遣使貢方物」と絶縁後の610年に倭国が朝貢し、、琉球国の「寬取其布甲而還時倭國使來朝見之曰此夷邪久國人所用也」と倭国が琉球国を連れて朝貢している。

高麗の母夫人の記述は周王朝を念頭にした言葉で紀元前1046年に紂王を牧野の戦いで破り、周王朝を建て、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされ、周でも千年持たなかったのだからということで、668年に『三国史記』寶臧王二十七年「置安東都護府於平壤」と滅亡し、建国は『三国史記』「而未遑作宮室但結廬於沸流水上居之國號高句麗因以高爲氏時朱蒙年二十二歳是漢孝元帝建昭二年新羅始祖赫居世二十一年甲申歳也」と紀元前37年建国で700年余だ。

『日本書紀』慶長版は

七年春正月丙戌朔戊子皇太子即天皇位壬辰宴群臣於內裏戊申送使博德等服命二月丙辰朔戊寅立古人大兄皇子女倭姫王爲皇后遂納四嬪有蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘生一男二女其一曰大田皇女其二曰鸕野女及有天下居于飛鳥淨御原宮後移宮于藤原其三曰建皇子唖不能語次有遠智娘弟曰姪娘生御名部皇女與阿陪皇女阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂次有阿倍倉梯磨大臣女曰橘娘生飛鳥皇女與新田部皇女次有蘇我赤兄大臣女曰常陸娘生山邊皇女又有宮人生男女者四人有忍海造小龍女曰色夫古娘生一男二女其一曰大江皇女其二曰川嶋皇子其三曰泉皇女又有栗隈首德萬女曰黒媛娘生水主皇女又有道君伊羅都賣生施基皇子又有伊賀采女宅子生伊賀皇子後字曰大友皇子夏四月乙卯朔庚申百濟遣末都師父等達(?)調庚午末都師父等罷歸五月五日天皇縱獦於蒲生野于時大皇弟諸王內臣及群臣皆悉從焉六月伊勢王與其弟王接日而薨未詳官位秋七月髙麗從越之路遣使進調風浪髙故不得歸以栗前王拜筑紫率于時近江國講武又多置牧而放馬又越國獻燃土與燃水又於濱臺之下諸魚覆水而至又饗夷又命舍人等爲宴於所々時人曰天皇天命將及乎秋九月壬午朔癸巳新羅遣沙㖨飡金東嚴等進調丁未中臣內臣使沙門法弁秦筆賜新羅上臣大角干庾信舩一隻付東嚴等庚戌使布勢臣耳麻呂賜新羅王輸御調舩一隻付東嚴等冬十月大唐大將軍英公打滅髙麗髙麗仲牟王初建國時欲治千歲也母夫人云若善治國可得也但當有七百年之治也今此國亡者當在七百年之末也十一月辛巳朔賜新羅王絹五十疋綿五百斤韋一百挍付金東嚴等賜東嚴等物各有差乙酉遣小山下道守臣麻呂吉士小鮪新羅是日金東嚴等罷歸是歳沙門道行盜草薙剱逃向新羅而中路風雨芒迷歸

【七年の春正月の朔が丙戌の戊子の日に、皇太子が天皇に即位した。壬辰の日に、臣下が内裏で饗宴をもようした。戊申の日に、送使の博徳達が服命した。二月の朔が丙辰の戊寅の日に、古人の大兄の皇子の娘の倭姫の王を皇后に立てた。それで四人を妃にした。蘇我の山田の石川の麻呂の大臣の娘がいて、遠智の娘という。一人の男子と二人の女子を生んだ。第一を大田の皇女という。第二を鸕野の皇女という。天下を取って、飛鳥淨御原宮に居た。後に宮を藤原に移した。第三を建の皇子という。おしで話すことが出来なかった。次に遠智の娘の妹がいて、姪の娘という。御名部の皇女と阿陪の皇女とを生んだ。阿陪の皇女は、天下を取って、藤原宮に居た。後に都を乃樂に移した。次に阿倍の倉梯の麻呂の大臣の娘がいて、橘の娘という。飛鳥の皇女と新田部の皇女とを生んだ。次に蘇我の赤兄の大臣の娘がいて、常陸の娘という。山邊の皇女を生んだ。また女官で、男女を生んだ者が四人いた。忍海の造の小龍の娘がいて、色夫古の娘という。一人の男子と二人の女子を生んだ。第一を大江の皇女という。第二を川嶋の皇子という。第三を泉の皇女という。また栗隈の首の徳萬の娘がいて、黒媛の娘という。水主の皇女を生んだ。また越の道の君の伊羅都賣がいて、施基の皇子を生んだ。また伊賀の采女の宅子の娘がいて、伊賀の皇子を生んだ。のちの名を大友の皇子という。夏四月の朔が乙卯の庚申の日に、百済が、末都師父達を派遣して、年貢を持ってきた。庚午の日に、末都師父達が帰った。五月五日の日に、天皇は、蒲生野に人を従えて狩りをした。そのときに、大皇弟と諸王と内臣と臣下が、皆残らず従った。六月に、伊勢の王とその弟王が続けて薨去した。秋七月に、高麗が越の路から使者を派遣して年貢を進上した。風や浪が高くて帰ることが出来なかった。栗前の王を、筑紫の率にした。その時に、近江国が、武術を習った。また多くの牧場を置いて馬を放し飼いした。また越国が、燃える土と燃る水とを献上した。また浜の高殿の下が、諸々の魚が水面を覆うほどやってきた。また蝦夷を饗応した。また近習達に命じて、宴席を所々で催した。当時の人は、「天皇は、とうとう天命に到達した」と言った。秋九月の朔が壬午の癸巳の日に、新羅、沙㖨飡の金東嚴達を派遣して、年貢を進上した。丁未の日に、中臣の内臣が、沙門の法辨と秦筆を派遣して、新羅の上臣の大角干の庾信に船一隻を東嚴達に持たせて与えた。庚戌の日に、布勢の臣の耳麻呂を使いに、新羅の王に年貢を運ぶ船一隻を東嚴達に持たせて与えた。冬十月に、大唐の大將軍の英公が、高麗を打ち滅した。高麗の仲牟王は、はじめて建国する時に、千年の間治めようとした。母の夫人が「もしうまく国を治めても千年はむつかしい。ただし七百年位は治められるかもしれない」と言った。今、この国が滅んだのは、丁度、七百年の末にあたる。十一月の辛巳が朔の日に、新羅の王に、絹五十匹と綿五百斤となめし革一百枚を与えた。金東嚴達に持たせた。東嚴達にも物を与えて、それぞれ格差あった。乙酉の日に、小山下の道守の臣の麻呂と吉士の小鮪を新羅に派遣した。この日に、金東嚴達が帰った。この歳に、沙門の道行が草薙の剱を盜んで、新羅に逃げた。それで途中で風雨にあって、方角を見失て帰った。】とあり、正月丙戌朔は丙戌ではなく丙辰で丙戌は704年大長元年のことで即位は667年 、九月壬午朔は8月30日、十一月辛巳朔は10月30日で共に前月が大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

2020年12月4日金曜日

最終兵器の目 天智天皇5

  『日本書紀』慶長版は

六年春二月壬辰朔戊午合葬天豊財重日足姫天皇與間人皇女於小市岡上陵是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓髙麗百濟新羅皆奉哀於御路皇太子謂群臣曰我奉皇太后天皇之所勅憂恤萬民之故不起石槨之役所冀永代以爲鏡誡焉三月辛酉朔己卯遷都于近江是時天下百姓不願遷都諷諫者多童謠亦衆日々夜々失火處多六月葛野郡獻白䴏秋七月己未朔巳巳耽羅佐平椽磨等貢獻八月皇太子幸倭京冬十月髙麗大兄男生出城巡國於是城內二弟聞側助士大夫之惡言拒而勿入由是男生奔入大唐謀滅其國十一月丁已朔乙丑百濟鎮將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聦等送大山下境部連石積等筑紫都督府巳巳司馬法聡等罷歸以小山下伊吉連博德大乙下笠臣諸石爲送使是月築倭國髙安城讚吉國山田郡屋嶋城對馬國金田城潤十一月丁亥朔丁酉以錦十四匹纈十九匹緋二十四匹紺布二十四端桃染布五十八端斧二十六釤六十四刀子六十一挍賜椽磨等

【六年の春二月の朔が壬辰の戊午の日に天の豊財重日足の姫の天皇と間人の皇女とを小市の岡の上の陵に合葬した。この日に、皇孫の大田の皇女を、陵の前の墓に葬った。高麗と百済と新羅が、皆、葬列の道すがら、哀悼を奏上した。皇太子は役人に「私は、皇太后天皇の詔勅を聞いてから、人民に悪いことが起こらないかと心配で、石室を造らせる使役をさせなかった。願っていることはずっと、石室を造らないことを手本に戒めとしなさい」と言った。三月の朔が辛酉の己卯の日に、都を近江に遷した。この時に、百姓皆が、都を遷すことを願っていなくて、遠回しに諫める人が多く、風刺歌も多かった。夜昼なく火事が多かった。六月に、葛野の郡が、白い燕を献上した。秋七月の朔が己未の己巳の日に、耽羅が、佐平の椽磨達を派遣して、貢献した。八月に、皇太子は、倭京に行幸した。冬十月に高麗の大兄の男生が、城を出て国を巡回した。そこで、城内の二人の弟が、近習の護衛の陰口を聞いて、男生を入城させなかった。それで男生は、大唐に逃げ込んで、その国を滅ぼそうとした。十一月の朔が丁巳の乙丑の日に、百済の鎭將の劉仁願が、熊津の都督府の熊山の縣令の上柱國の司馬の法聰達を派遣して、大山下の境部の連の石積達を筑紫の都督府に送った。己巳の日に、司馬の法聰達が帰った。小山下の伊吉の連の博徳と大乙下の笠の臣の諸石を、送使とした。この月に、倭国の高安城と讚吉の国の山田の郡の屋嶋の城と對馬の国の金田の城を築いた。閏十一月の朔が丁亥の丁酉の日に、錦十四匹と絞り染め十九匹と赤い絹二十四匹と紺の布二十四端とつきぞめの布五十八端と斧二十六と柄の長い鎌六十四と刀子六十二枚を、椽磨達に与えた。】とあり、七月己未朔は6月30日で6月が小の月なら標準陰暦と合致し、潤十一月丁亥朔は私の計算では12月1日で閏月が翌年2月に割り当てているので、概ね合致し、他は標準陰暦と合致する。

皇孫太田皇女の字句も、皇太后天皇も天智天皇の母が天皇でなければ意味不明な字句で、天智天皇の母が天皇だから自分の娘が天皇の孫で、天智天皇の母がその会話の時、天皇でなかったらこのような呼び方はせず、皇太后は間人皇女で2人を併せて記述したとしても天皇は不要で、会話の時生きているから皇太后と呼ばれ、会話の時天皇だから皇太后天皇と呼んでいる。

ここで、皇孫は「皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊以爲葦原中國之主」と瓊瓊杵尊であり、それ以外は「大兄去來穗別天皇孫也」、「渟中倉太珠敷天皇孫」と天皇名の後にその天皇の孫と呼び、「皇孫建王八歳薨」は斉明天皇の項に記述されてまさしく斉明天皇の孫でこの項と同じ用例だ。

そして、『三国史記』の666年寶臧王二十五年に「蓋蘇文死長子男生代爲莫離支初知國政出巡諸城使其弟男建男産留知後事或謂二弟曰男生惡二弟之逼意欲除之不如先爲計二弟初未之信又有告男生者曰二弟恐兄還奪其權欲拒兄不納男生潛遣所親往平壤伺之二弟收掩得之乃以王命召男生男生不敢歸男建自爲莫離支發兵討之男生走據國内城使其子獻誠詣唐求哀」と一年遅れで記述され、1年のずれがあるかもしれない。

『三国史記』667年文武王七年に「十二月中侍文訓卒唐留鎭將軍劉仁願傳宣天子勅命」と劉仁願は鎮将と記述され合致し、前項で述べたように来日と帰国がセットになっている。