『日本書紀』慶長版は
「四年春二月癸酉朔丁酉間人大后薨是月勘挍百濟國官位階級仍以佐平福信之功授鬼室集斯小錦下復以百濟百姓男女四百餘人居于近江國神前郡三月癸卯朔爲間人大后度三百三十人是月給神前郡百濟人田秋八月遣達率荅㶱春築城於長門國遣達率憶禮福留達率四比福夫筑紫國築大野及椽二城耽羅遣使來朝九月庚午朔壬辰唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德髙等冬十月己亥朔己酉大閲于菟道十一月已巳朔辛巳饗賜劉德髙等十二月戊戌朔辛亥賜物於劉德髙等是月劉德髙等罷歸是遣小錦守君大石等於大唐云云五年春正月戊辰朔戊寅髙麗遣前部能婁等進調是日耽羅遣王子姶如等貢獻三月皇太子親往於佐伯子麻呂連家問其所患慨歎元從之功夏六月乙未朔戊戌髙麗前部能婁等罷歸秋七月大水是秋復租調冬十月甲午朔己未髙麗遣臣乙相奄𨛃等進調是冬京都之鼠向近江移以百濟男女二千餘人居于東國凡不擇緇素起癸亥年至于三歳並賜官食倭漢沙門智由獻指南車」
【四年の春二月の朔が癸酉の丁酉の日に、間人大后が薨じた。この月に、百済国の官位の階級を日本と比較した。それで、佐平の福信の功績で、鬼室集斯に小錦下を授けた。また、百済の百姓の男女四百人余を、近江の国の神前の郡に居住させた。三月の癸卯が朔の日に、間人の大后の為に、三百三十人を出家させた。この月に、神前の郡の百済の人に田を与えた。秋八月に、達率の答㶱春を派遣して、長門の国に築城した。達率の憶禮福留と達率の四比福夫を筑紫の国に派遣して、大野と椽の二城を築城した。耽羅が使者を派遣して来朝した。九月の朔が庚午の壬辰の日に、唐国が、朝散大夫の沂州司馬の上柱国の劉徳高達を派遣した。冬十月の朔が己亥の己酉の日、菟道に大規模な調査に入った。十一月の朔が己巳の辛巳の日に、劉徳高達を饗応した。十二月の朔が戊戌の辛亥の日に、劉徳高達へ物を与えた。この月に、劉徳高達が帰った。この歳に、小錦の守の君の大石達を大唐に派遣した云云。五年の春正月の朔が戊辰の戊寅の日に、高麗が、前部の能婁達を派遣して、年貢を進上した。この日に、耽羅が、王子の姑如達を派遣して、貢献した。三月に、皇太子が、親ら佐伯の子麻呂の連の家に訪問して、その病状を聞いた。昔から従った功績を感慨深く嘆いた。夏六月の朔が乙未の戊戌の日に、高麗の前部の能婁達が帰った。秋七月に、洪水が有った。この秋に、税を返還した。冬十月の朔が甲午の己未の日に、高麗が、下臣の乙相の奄𨛃達を派遣して、税を進上した。この冬に、京都の鼠が、近江に向って移った。百済の男女二千人余を、東国に居住させた。法服の者も素の服の者もどちらもすべて、癸亥の年から、三年間、皆に役人が食料を与えた。倭の漢の沙門の智由は、南方を向くカラクリの車を献上した。】とあり、四年春二月癸酉朔は1月30日、五年六月乙未朔は5月30日で前月が大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、四年九月庚午朔は9月2日、十一月己巳朔は11月2日、五年冬十月甲午朔己未は10月2日で全て唐に対する記事となっていて、俀国記事の可能性が高く、他は標準陰暦と合致する。
『舊唐書』の劉仁軌傳に「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會高宗甚悅擢拜大司憲」、高宗に麟德「二年春正月壬午幸東都丁酉幸合璧宮戊子慮雍洛二州及諸司囚甲子以發向泰山」と1月25日に高宗が泰山に出発して、倭王と面会して大喜びしてるように、天智三年後半から翌年前半には天皇が不在のため、『日本書紀』は摂政としていないが、『藤氏家伝』は「十四年皇太子攝政契闊早年・・・攝政六年春三月遷都于近江國」と667年まで摂政に就任している。
前項で664年5月の「是月大紫蘇我連大臣薨」は入鹿と述べたが、そうであるから、『藤氏家伝』は乙巳の変より前に「及崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と647年若しくは648年に加増され、その後に「以中大兄爲皇太子改元爲大化詔曰社稷獲安寔頼公力車書同軌抑又此擧仍拝大錦冠授内臣封二千戸」と『日本書紀』どおりだが大活躍にしては一段階上と微妙で、しかも、649年から663年までは大錦冠は存在しないので『日本書紀』の孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年「以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣増封若于戸」も矛盾しているので、664年に内臣に就任し、「白鳳五年秋八月・・・超拝紫冠増封八千戸」と665年に紫冠を授与されて、きれいに当てはまる。
すると、662年から664年までの天智天皇の摂政が矛盾するが、俀国での皇太子と摂政と考えられ、持統四年「天命開別天皇三年土師連富杼氷連老筑紫君薩夜麻弓削連元寶兒四人」と664年に筑紫君すなわち俀国王が帰国していて、斉明天皇六年「思幸筑紫將遣救軍」、斉明天皇七年「御船西征始就于海路」と出兵して俀国王が不在だったので俀国の摂政となったと考えられる。
天智天皇一〇年の「筑紫君薩野馬・・・唐國使人郭務悰等六百人送使沙宅孫登等一千四百人合二千人」は天智天皇八年「大唐遣郭務悰等二千餘人」と669年に既に郭務悰が来日しており、帰国は天武天皇元年「郭務悰等罷歸」と矛盾し、天智天皇三年「夏五月戊申朔甲子百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」の時の帰国が符合する。
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