2020年12月7日月曜日

最終兵器の目 天智天皇6

  今回は家族構成が長く、解説を前にする。

まず私は、「納四嬪」に違和感を感じたが、それは、これまで女官を正妃とともに記述してこなかったからで、この四嬪に入っていない姫の子が弘文天皇や田原天皇と追号される人々で、天智紀を記述した人物にとっての敵対勢力、四嬪に入っている人々が乙巳の変以降天智天皇まで記述したという結論を出すことで違和感が解消された。

すなわち、複数の王を天智天皇にあてはめ天智紀を記述した人物、元明天皇達が記述した前の4嬪と4女の差別で4嬪の父は天智天皇に滅ぼされた側の子たちで、注釈を書いたのが持統天皇でも元明天皇でも自分の母親がわからないはずがなく、天智天皇の娘でない可能性がある。

天命は天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令だが、この場合は、新しい王朝を打ち立てたという意味で、『日本書紀』には景行天皇四〇年「臣受命天朝達征東夷・・・冀曷曰曷時復命天朝然天命忽至」、仁徳天皇即位前紀「先帝何謂我乎乃太子啓兄王曰天命也誰能留焉若有向天皇之御所」、允恭天皇即位前紀「夫帝位不可以久曠天命不可以謙距」、顕宗天皇即位前紀「天皇不可以久曠天命不可以謙拒」、顕宗天皇元年「天命有屬皇太子推讓・・・宜奉兄命承統大業・・・即天皇位」と新しい王朝誕生時に記述している。

天智天皇は自ら「天命開別」と天命で別の新しい王朝を開いたと呼んで、『三国史記』文武王十年「十二月土星入月京都地震中侍智鏡退倭國更號日本」、『新唐書』咸亨元年「遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本」と670年に国号を変え、『舊唐書』に「日本舊小國併倭國之地」と小国だった新しい王朝の日本は大きい国の倭を併合したと記述している。

すなわち日本は『舊唐書』に「日本國者倭國之別種也」と倭国の分国で中国史書で倭種ではなく倭国と呼ばれたことが有るのは『隋書』の「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼・・・大業三年其王多利思北孤遣使朝貢・・・明年・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」の俀国で、別に「大業六年己丑倭國遣使貢方物」と絶縁後の610年に倭国が朝貢し、、琉球国の「寬取其布甲而還時倭國使來朝見之曰此夷邪久國人所用也」と倭国が琉球国を連れて朝貢している。

高麗の母夫人の記述は周王朝を念頭にした言葉で紀元前1046年に紂王を牧野の戦いで破り、周王朝を建て、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされ、周でも千年持たなかったのだからということで、668年に『三国史記』寶臧王二十七年「置安東都護府於平壤」と滅亡し、建国は『三国史記』「而未遑作宮室但結廬於沸流水上居之國號高句麗因以高爲氏時朱蒙年二十二歳是漢孝元帝建昭二年新羅始祖赫居世二十一年甲申歳也」と紀元前37年建国で700年余だ。

『日本書紀』慶長版は

七年春正月丙戌朔戊子皇太子即天皇位壬辰宴群臣於內裏戊申送使博德等服命二月丙辰朔戊寅立古人大兄皇子女倭姫王爲皇后遂納四嬪有蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘生一男二女其一曰大田皇女其二曰鸕野女及有天下居于飛鳥淨御原宮後移宮于藤原其三曰建皇子唖不能語次有遠智娘弟曰姪娘生御名部皇女與阿陪皇女阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂次有阿倍倉梯磨大臣女曰橘娘生飛鳥皇女與新田部皇女次有蘇我赤兄大臣女曰常陸娘生山邊皇女又有宮人生男女者四人有忍海造小龍女曰色夫古娘生一男二女其一曰大江皇女其二曰川嶋皇子其三曰泉皇女又有栗隈首德萬女曰黒媛娘生水主皇女又有道君伊羅都賣生施基皇子又有伊賀采女宅子生伊賀皇子後字曰大友皇子夏四月乙卯朔庚申百濟遣末都師父等達(?)調庚午末都師父等罷歸五月五日天皇縱獦於蒲生野于時大皇弟諸王內臣及群臣皆悉從焉六月伊勢王與其弟王接日而薨未詳官位秋七月髙麗從越之路遣使進調風浪髙故不得歸以栗前王拜筑紫率于時近江國講武又多置牧而放馬又越國獻燃土與燃水又於濱臺之下諸魚覆水而至又饗夷又命舍人等爲宴於所々時人曰天皇天命將及乎秋九月壬午朔癸巳新羅遣沙㖨飡金東嚴等進調丁未中臣內臣使沙門法弁秦筆賜新羅上臣大角干庾信舩一隻付東嚴等庚戌使布勢臣耳麻呂賜新羅王輸御調舩一隻付東嚴等冬十月大唐大將軍英公打滅髙麗髙麗仲牟王初建國時欲治千歲也母夫人云若善治國可得也但當有七百年之治也今此國亡者當在七百年之末也十一月辛巳朔賜新羅王絹五十疋綿五百斤韋一百挍付金東嚴等賜東嚴等物各有差乙酉遣小山下道守臣麻呂吉士小鮪新羅是日金東嚴等罷歸是歳沙門道行盜草薙剱逃向新羅而中路風雨芒迷歸

【七年の春正月の朔が丙戌の戊子の日に、皇太子が天皇に即位した。壬辰の日に、臣下が内裏で饗宴をもようした。戊申の日に、送使の博徳達が服命した。二月の朔が丙辰の戊寅の日に、古人の大兄の皇子の娘の倭姫の王を皇后に立てた。それで四人を妃にした。蘇我の山田の石川の麻呂の大臣の娘がいて、遠智の娘という。一人の男子と二人の女子を生んだ。第一を大田の皇女という。第二を鸕野の皇女という。天下を取って、飛鳥淨御原宮に居た。後に宮を藤原に移した。第三を建の皇子という。おしで話すことが出来なかった。次に遠智の娘の妹がいて、姪の娘という。御名部の皇女と阿陪の皇女とを生んだ。阿陪の皇女は、天下を取って、藤原宮に居た。後に都を乃樂に移した。次に阿倍の倉梯の麻呂の大臣の娘がいて、橘の娘という。飛鳥の皇女と新田部の皇女とを生んだ。次に蘇我の赤兄の大臣の娘がいて、常陸の娘という。山邊の皇女を生んだ。また女官で、男女を生んだ者が四人いた。忍海の造の小龍の娘がいて、色夫古の娘という。一人の男子と二人の女子を生んだ。第一を大江の皇女という。第二を川嶋の皇子という。第三を泉の皇女という。また栗隈の首の徳萬の娘がいて、黒媛の娘という。水主の皇女を生んだ。また越の道の君の伊羅都賣がいて、施基の皇子を生んだ。また伊賀の采女の宅子の娘がいて、伊賀の皇子を生んだ。のちの名を大友の皇子という。夏四月の朔が乙卯の庚申の日に、百済が、末都師父達を派遣して、年貢を持ってきた。庚午の日に、末都師父達が帰った。五月五日の日に、天皇は、蒲生野に人を従えて狩りをした。そのときに、大皇弟と諸王と内臣と臣下が、皆残らず従った。六月に、伊勢の王とその弟王が続けて薨去した。秋七月に、高麗が越の路から使者を派遣して年貢を進上した。風や浪が高くて帰ることが出来なかった。栗前の王を、筑紫の率にした。その時に、近江国が、武術を習った。また多くの牧場を置いて馬を放し飼いした。また越国が、燃える土と燃る水とを献上した。また浜の高殿の下が、諸々の魚が水面を覆うほどやってきた。また蝦夷を饗応した。また近習達に命じて、宴席を所々で催した。当時の人は、「天皇は、とうとう天命に到達した」と言った。秋九月の朔が壬午の癸巳の日に、新羅、沙㖨飡の金東嚴達を派遣して、年貢を進上した。丁未の日に、中臣の内臣が、沙門の法辨と秦筆を派遣して、新羅の上臣の大角干の庾信に船一隻を東嚴達に持たせて与えた。庚戌の日に、布勢の臣の耳麻呂を使いに、新羅の王に年貢を運ぶ船一隻を東嚴達に持たせて与えた。冬十月に、大唐の大將軍の英公が、高麗を打ち滅した。高麗の仲牟王は、はじめて建国する時に、千年の間治めようとした。母の夫人が「もしうまく国を治めても千年はむつかしい。ただし七百年位は治められるかもしれない」と言った。今、この国が滅んだのは、丁度、七百年の末にあたる。十一月の辛巳が朔の日に、新羅の王に、絹五十匹と綿五百斤となめし革一百枚を与えた。金東嚴達に持たせた。東嚴達にも物を与えて、それぞれ格差あった。乙酉の日に、小山下の道守の臣の麻呂と吉士の小鮪を新羅に派遣した。この日に、金東嚴達が帰った。この歳に、沙門の道行が草薙の剱を盜んで、新羅に逃げた。それで途中で風雨にあって、方角を見失て帰った。】とあり、正月丙戌朔は丙戌ではなく丙辰で丙戌は704年大長元年のことで即位は667年 、九月壬午朔は8月30日、十一月辛巳朔は10月30日で共に前月が大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

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