2020年12月28日月曜日

最終兵器の目 巻第二十九 天武天皇6

  『日本書紀』慶長版は

二年春正月丁亥朔癸巳置酒宴群臣二月丁巳朔癸未天皇命有司設壇場即帝位於飛鳥淨御原宮立正妃爲皇后々生草壁皇子尊先納皇后姉大田皇女爲妃生大來皇女與大津皇子次妃大江皇女生長皇子與弓削皇子次妃新田部皇女生舍人皇子又夫人藤原大臣女氷上娘生但馬皇女次夫人氷上娘弟五百重娘生新田部皇子次夫人蘇我赤兄大臣女大蕤娘生一男二女其一曰穗積皇子其二曰紀皇女其三曰田形皇女天皇初娶鏡王額田姫王生十市皇女次納胸形君德善女尼子娘生髙市皇子命次宍人臣大麻呂女?(捉止天:□)媛娘生二男二女其一曰忍壁皇子其二曰磯城皇子其三曰泊瀬部皇女其四曰託基皇女乙酉有勳功人等賜爵有差三月丙戌朔壬寅備後國司獲白雉於龜石郡而貢乃當郡課役悉免仍大赦天下是月聚書生始寫一切經於川原寺夏四月丙辰朔己巳欲遣侍大來皇女于天照太神宮而令居泊瀬齋宮是先潔身稍近神之所也夏五月乙酉朔詔公卿大夫及諸臣連幷伴造等曰夫初出身者先令仕大舍人然後選簡才能以?(`死:充)當職又婦女者無問有夫無吏及長幼欲進仕者聽矣其考選准官人之例癸丒大錦上坂本財臣卒由壬申年之勞贈小紫位

【二年の春正月の朔が丁亥の癸巳の日に、酒席を設けて臣下を楽しませた。二月の朔が丁巳の癸未の日に、天皇は、高官に命じて高御座を設営して、飛鳥淨御原の宮で帝に即位した。正妃を皇后に立てた。后は、草壁皇子の尊を生んだ。それより前に皇后の姉の大田皇女を召し入れて妃にした。大來皇女と大津皇子を生んだ。次の妃の大江皇女は、長皇子と弓削皇子とを生んだ。次の妃の新田部皇女は、舍人皇子を生んだ。また夫人の藤原大臣の娘の氷上の娘は、但馬皇女を生んだ。次の夫人の氷上娘の妹の五百重の娘は、新田部皇子を生んだ。次の夫人の蘇我の赤兄の大臣の娘の太蕤の娘は、一人の男子と二人の女子を生んだ。その第一を穗積皇子という。その第二を紀皇女という。その第三を田形皇女という。天皇は、はじめ鏡王の女の額田の姫王を娶って、十市皇女を生んだ。次に胸形の君の徳善の娘の尼子の娘を召し入れて、高市皇子の命を生んだ。次に宍人の臣の大麻呂の娘の(?カヂ)媛の娘は、二人の男子と二人の女子を生んだ。その第一を忍壁皇子という。その第二を磯城皇子という。その第三を泊瀬部皇女という。その第四を託基皇女という。乙酉の日に、勲功が有った人達に、爵位を与え差があった。三月の朔が丙戌の壬寅の日に、備後の国司が、白雉を亀石の郡で捕まえて貢上した。それで當の郡の課した労役を全て免じた。さらに、天下大赦を発令した。この月に、勉強している人を集めて、はじめて一切經を川原寺で写経した。夏四月の朔が丙辰の己巳の日に、大來皇女を天照太神宮に派遣して仕えさせようとして、泊瀬の齋宮に住まわせた。ここはまず身を潔めて、だんだん神に近づく場所だ。五月の乙酉が朔の日に、高官や諸々の臣連併せて伴造達に「初めて官職につく者は、まず大舍人に仕えなさい。その後でその才能を簡単に選択して、該当の職に充てなさい。また婦女は、夫の有無や長幼を問わず、進んで仕えようとする者は認めなさい。その選考は役人の例に準じなさ」と詔勅した。癸丑の日に、大錦上の坂本の財の臣が死んだ。壬申の年の功労で、小紫位を贈った。】とあり、正月丁亥朔は12月30日、二月丁巳朔も1月30日、三月丙戌朔は2月29日、四月丙辰朔は3月30日、夏五月乙酉朔は4月29日で晦日が朔で、これまでは30日が朔はあったが29日の朔は無くて合致せず704年がピッタリ合致し、大長元年の説話と考えられる。

704年時点の説話であれば、『粟原寺鑪盤銘』の「比賣朝臣額田以甲午年始」と694年に鏡王の娘の額田姫が浄御原天皇の為に粟原寺を建立した時代背景が合致し、『万葉集』で、額田姫の歌に関係する人物は天智天皇と大江皇女の子の弓削皇子が関係しているだけで、大海人皇子は出現せず、大江皇女は天智天皇が中大兄皇子呼ばれるように同地域に育ったと思われ、額田姫の母鏡王女も天智天皇と歌を交わし、額田姫は天智天皇の子の世代だった可能性が高い。

天智天皇の関係する歌も額田姫・鏡王以外は倭皇后、鏡王の歌では他に鎌足と狭い範囲で、天智天皇の鎮魂歌をうたっているのは額田姫だけで、『粟原寺鑪盤銘』を裏付けていて、それに対して、天武天皇の関係者は持統天皇と藤原夫人で、天武天皇が天智天皇の姫を皇后にしていて、天智天皇と同年代の大海人皇子が天武天皇とするのは理に適わない。

天武天皇紀は元明天皇が記述したのだから、『日本書紀』から誰かを特定できず、名前が真人と王族ではあるが皇子とは言えず、『日本書紀』に 日並皇子を記述していないのだから、草壁皇子の父と日並皇子の父とは異なる人物で『新唐書』の天智天皇の子の天武天皇とは異なる文武天皇の祖父を想定すべきである。

これまで、東宮と呼ばれた人物は、聖徳太子と天智天皇と天武天皇だけで、その時の天皇の子供ではなく、日並も『粟原寺鑪盤銘』の「浄御原宮天下天皇」の子ではないと考えられ、「甲午年始」、694年に日並が生存し、天智天皇の弟である可能性が高く、695年の壬申の乱で日並がが殺害されて、天智天皇の子の天武天皇が即位し、大化と年号を建元したと考えられる。

すなわち、元明天皇、この天武天皇を『粟原寺鑪盤銘』で伽藍を建造させた中臣大嶋と元明天皇の祖父蘇我倉山田石川麻呂を記述しているのではと考えており、兄の天智天皇を蝦夷と想定し、『古事記』の宗賀倉王、妻が鏡女王で『古事記』の豐御氣炊屋比賣すなわち額田部姫と想定している。

『古事記』は 元明天皇の父母までのことで、『古事記』の「糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」は元明天皇の兄の蝦夷のことと考えられる。

さらに、柿本人麻呂の皇子に関する歌を見ると、軽皇子・日並皇子、泊瀬部皇女、忍坂皇子、高市皇子、長皇子、新田部皇子、忍壁皇子、舎人皇子、弓削皇子、明日香皇女で明日香皇女と 軽皇子以外はすべて天武天皇の皇子たちで、柿本人麻呂は壬申の乱の後、 軽皇子が即位する前の時期に活躍した歌人であることが解る。

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