壬申の乱で長くなるので、先に解説を書こうと思う。
757年の天平宝字元年でも「贈小紫村國連小依壬申年功田一十町贈正四位上文忌寸祢麻呂贈直大壹丸部臣君手並同年功田各八町贈直大壹文忌寸智徳同年功田四町贈小錦上置始連莵同年功田五町。五人並中功合傳二世・・・贈大紫星川臣麻呂壬申年功田四町贈大錦下坂上直熊毛同年功田六町贈正四位下黄文連大伴同年功田八町贈小錦下文直成覺同年功田四町」と恩賞を授与されたが、村國連小依以外は「壬申年之功」を記述されていない。
『日本書紀』で記述される、「大三輪眞上田子人君・坂田公雷・紀臣堅麻呂・大錦下秦造綱手・舍人連糠虫・土師連眞敷・膳臣摩漏・ 大伴連望多・直大參當麻眞人廣麻呂・直廣參贈蚊屋忌寸木間」や、壬申の乱で記述されるが『続日本紀』の大宝元年に記述されない「小錦下多臣品治・大分君惠尺・大分君稚見・土師連眞敷・美濃王・大伴連男吹・石川王・大錦上坂本財臣・紀臣阿閇麻呂・栗隈王・小錦下三宅連石床・大錦下羽田眞人八國」が実際の活躍した人物の可能性がある。
文武天皇5年は大宝元年で7月に壬申の褒賞が有ったが、天武5年7月に「村國連雄依卒以壬申年之功贈外小紫位」と記述し、褒賞が5年も経てからでは無意味で、最終決戦で勝利して、そこで、小依が秦で褒賞した、同じ記事の可能性が高い。
すなわち、壬申の乱と『続日本紀』の大宝元年の壬申の功に冠位が記述されず、姓が古いのは、正しい記述をすると時代が違うことが解ってしまうためであり、しかも、協力を拒否する栗隈王や左右大臣たちなど敵対する人物以外は天智天皇に全く記述されず断絶があるが、天武・持統紀と『続日本紀』は繋がっている。
『日本書紀』慶長版は
「丙戌旦於朝明郡迹太川邊望拜天照大神是時益人益到之奏曰所置關者非山部王石川王是大津皇子也便隨益人參來矣大分君惠尺難波吉士三綱駒田勝忍人山邊君安麻呂小墾田猪手埿部賦枳大分若(君)稚臣根連金身漆部友背之輩從之天皇大喜將及郡家男依乗驛來奏曰發美濃師三千人得塞不破道於是天皇美雄依之務既到郡家先遣髙市皇子於不破令監軍事遣山背部小田安斗連阿加布發東海軍又遣稚櫻部臣五百瀬土師連馬手發東山軍是日天皇宿于桑名郡家即停以不進是時近江朝聞大皇弟入東國其群臣悉愕京內震動或遁欲入東國或退將匿山澤爰大友皇子謂群臣曰將何計一臣進曰遲謀將後不如急聚驍騎乗跡而逐之皇子不從則以韋那公磐鍬書直藥忍坂直大摩侶遣于東國以穗積臣百足及弟百枝物部首日向遣于倭京且遣佐伯連男於筑紫遣樟使主盤磐手於吉備國並悉令興兵仍謂男與磐手曰其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人元有?(上矢余:隸)大皇弟疑有反歟若有不服色即殺之於是磐手到備國授苻之日紿廣嶋令解刀磐手乃拔刀以殺也男至筑紫時栗隈王承符對曰筑紫國者元戍邊賊之難也其峻城深湟臨海守者豈爲內賊耶今畏命而發軍則國空矣若不意之外有倉卒之事頓社稷傾之然後雖百殺臣何益焉豈敢背德耶輙不動兵者其是縁也時栗隈王之二子三野王武家王佩劔立于側而無退於是男按劔欲進還恐見亡故不能成事而空還之東方驛使磐鍬等將及不破磐鍬獨疑山中有兵以後之緩之行時伏兵自山出遮藥等之後磐鍬見之知藥等見捕則返逃走僅得脱當是時大伴連馬來田弟吹屓並見時否以稱病退於倭家然知其登嗣位者必所居吉野大皇弟矣是以馬來田先從天皇唯吹負留謂立名于一時欲寧艱難即招一二族及諸豪傑僅得數十人丁亥髙市皇子遣使於桑名郡家以奏言遠居御所行政不便宣御近處即日天皇留皇后而入不破比及郡家尾張國司守小子部連鉏釣率二万衆歸之天皇即美之分其軍塞處處道也到于野上髙市皇子自和蹔參迎以便奏言昨夜自近江朝驛使馳至因以伏兵而捕者書直藥忍坂直大麻呂也問何所往荅曰爲所居吉野大皇弟而遣發東國軍韋那公磐鍬之徒也然磐鍬見兵起乃逃還之既而天皇謂髙市皇子曰其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議今朕無與計事者唯有幼子少孺子耳奈之何皇子攘臂按劔奏言近江群臣雖多何敢逆天皇之靈哉天皇雖獨則臣髙市頼神祇之靈請天皇之命引率諸將而征討豈有距乎爰天皇譽之携手撫背曰愼不可怠因賜鞍馬悉授軍事皇子則還和蹔天皇於茲行宮興野上而居焉此夜雷電雨甚則天皇祈之曰天神地祇扶朕者雷雨息矣言訖即雷雨止之戊子天皇往於和蹔撿挍軍事而還 已丒天皇往和蹔命髙市皇子號令軍衆天皇亦還于野上而居之是日大伴連吹屓密與留守司坂上直熊毛議之謂一二漢直等曰我詐稱髙市皇子率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營乃汝內應之既而繕兵於百濟家自南門出之先秦造熊令犢鼻而乗馬馳之俾唱於寺西營中曰髙市皇子自不破至軍衆多從爰留守司髙坂王及興兵使者穗積臣百足等據飛鳥寺西槻下爲營唯百足居小墾田兵庫運兵於近江時營中軍衆聞熊叫聲悉散走仍大伴連吹負率數十騎劇來則熊毛及諸直等共與連和軍士亦從乃舉髙市皇子之命喚穗積臣百足於小墾田兵庫爰百足乗馬緩來逮于飛鳥寺西槻下有人曰下馬也時百足下馬遲之便取其襟以引墮射中一箭因拔刀斬而殺之乃禁穗積臣五百枝物部首日向俄而赦之置軍中旦喚髙坂王稚狹王而令從軍焉既而遣大伴連安麻呂坂上直老佐味君宿那麻呂等於不破宮令奏事狀天皇大喜之因乃令吹屓拜將軍是時三輪君髙市麻呂鴨茂君蝦夷等及群豪傑者如響悉會將軍麾下乃規襲近江因以撰衆中之英俊爲別將及軍監庚寅初向乃樂」
【丙戌の日の朝に、朝明の郡の迹太川の辺で、天照の太神を遠くから拝んだ。この時に、益人が着いて、「関に置いた者は、山部の王・石川の王でなかった。これは大津の皇子だ」と奏上した。それで益人についてやって来た。大分の君の惠尺・難波の吉士の三綱・駒田の勝の忍人・山邊の君の安麻呂・小墾田の猪手・泥部の賦枳・大分の君の稚臣・根の連の金身・漆部の友背の同輩が、従った。天皇はとても喜んだ。郡家につこうかとするときに、男依が、駅馬に乗って来て「美濃の兵士三千人が蜂起して、不破の道を防ぐことが出来きた」と奏上した。それで、天皇は、雄依の働きをほめて、郡家に着いて、まず高市の皇子を不破に派遣して、軍事を任せた。山背部の小田・安斗の連の阿加布を派遣して、東海の軍を蜂起させた。また稚櫻部の臣の五百瀬・土師の連の馬手を派遣して、東山の軍を蜂起させた。この日に、天皇は、桑名の郡家に宿を取った。それで停って進軍しなかった。この時に、近江朝は、大皇弟が東国に入ったことを聞いて、その役人が残らずおびえて、京の内が打ち震えた。あるいは逃げて東国に入いろうとした。あるいは退却して山沢に隠れようとした。そこで大友の皇子は、臣下に「どうしたらよいか」と言った。一人の臣が進み出て、「計画が遅いと後手となる。だから、急いで勇猛な騎馬隊を集めて、後ろを追いかけて駆逐しては」と言った。皇子は従わなかった。韋那の公の磐鍬・書の直の藥・忍坂の直の大摩侶を、東国に派遣した。穗積の臣の百足・弟の五百枝・物部の首の日向を、倭京に派遣した。また、佐伯の連の男を筑紫に派遣した。樟の使主の磐手を吉備の国に派遣して、一緒になって全兵を蜂起させた。それで男と磐手とに「筑紫の大宰の栗隈の王と、吉備の国守の當摩の公の廣嶋の二人は、元々大皇弟側に付いていたが、背く疑いがあるかもしれないので、もし服従しなかったらすぐに殺せ」と言った。そこで、磐手は、吉備国に着いて、命令書を授ける日に、廣嶋を欺いて刀をおろさせた。磐手は、それで刀を抜いて殺した。男が筑紫に着いた時、栗隈の王は、命令書を受け取って「筑紫の国は、元々から周辺の賊の攻撃から国境を守る。それで城を急峻に堀を深く造って、海に向かって守るのは、まったく国内の賊の為ではない。今、命令を恐れて軍を蜂起したら、国が無くなる。もし不意の外の攻撃に、他ごとであわただしくしていて事が有ったら、たちどころに社稷が傾くだろう。だから後で百回私を殺されても、何の利益も無い。どうして敢えて国益に背けましょうか。簡単に軍を動さないのは、このためだ」と答えた。その時に栗隈の王の二人の子、三野の王・武家の王が、剱を帯びて隣にに立って退かなかった。そこで、男は、剱に手を掛けて進もうとしたが、あとで殺されることを恐れたので、目的を達成できずにむなしく帰った。東方の公用の使者の磐鍬達は、不破に行こうとしたが、磐鍬一人が山中に兵士が居ることを疑って、後をゆっくり付いていった。その時、伏兵が山から出てきて、藥達の後を遮った。磐秋はそれを見て、藥達が捕えられたことを知って、逃げ帰って、なんとか免れることが出来た。この時に、大伴の連の馬來田・弟の吹負は、二人とも状況が不利と判断して、病気と言って、倭の家に帰った。そしてその嗣位に登るのは、きっと吉野に居る大皇弟だろうと知った。それで、馬來田は、先頭に立って天皇に従った。ただし吹負だけは留まって、一度、名を知らしめて、災難をやわらげようと思った。それで一二の同族と諸々の豪傑を招いて、僅かだが数十人を得た。丁亥の日に、高市皇子は、使者を桑名の郡家に派遣して「御所から遠くに居ては、政事を行いようがない。近い所にいるべきだ」と奏上した。その日に、天皇は、皇后を留めて、不破に入った。郡家に着いた頃に、尾張の国司の守の小子部の連の鉏鉤が、二万の兵士を率いて帰順した。天皇は、すなわち褒め称えて、その兵士を分配して、所々の道を塞いだ。野上に着いたときに、高市皇子は、和蹔から迎えに来て、それで「昨夜、近江朝から、伝令の早馬が着いた。それで伏兵を使って捕えたら、書の直の藥・忍坂の直の大麻呂だった。何処に行くのかと問いかけたら、『吉野に居る大皇弟の為に、東国の軍を蜂起させるために派遣する韋那の公の磐鍬の家来だ。しかし磐鍬は蜂起の兵を見て、それで逃げ帰った』と答えた」と奏上した。すでに天皇は、高市皇子は「近江朝には、左右の大臣や知略に長けた臣下が、一緒に相談して決めている。今、私は、一緒に相談するものが居ない。ただ幼少の未熟者しかいない。どうしたらよいのか」と言った。皇子は、腕まくりをして剱に手を掛けて「近江の群臣が、多いといっても、どうして天皇の守り神に逆らえるのか。天皇がたった一人と言っても、私高市と、神祇の神秘な力に頼って、天皇の命令に従って、諸將を率いて征討します。こんな我らをどうして防げましょう」と奏上した。それで天皇が誉めて、手を取って背を撫でながら、「念いりに怠ってはいけないぞ」と言った。それで鞍のついた馬を与えて、全ての軍事を任せた。皇子は、和蹔に帰った。天皇は、そこで、行宮を野上に造って居た。この夜、雷鳴が響いて雨が酷かった。天皇は「天神地祇よ、私を助けてくださるなら、雷や雨を止めてください」と祈った。言い終わったら雷や雨がやんだ。戊子の日に、天皇、和蹔に行って、軍事を点検して帰った。己丑の日に、天皇は、和蹔に行って、高市皇子に命令して、軍兵に命令を発した。天皇は、また野上に帰っていた。この日に、大伴の連の吹負は、ひそかに留守の司の坂上の直の熊毛と相談して、一二人の漢の直達に「私は偽って高市皇子と名乗って、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の路から、出て陣営に対峙する。それでお前たちが陣内から応じろ」と言った。すぐに兵を百済の家で準備させて、南の門から出た。まず秦の造の熊を、ふんどしだけにして、馬に乗せて、馬を走らせて、寺の西の陣営の中へ「高市皇子が、不破から着いた。軍兵が多く従っている」と叫んだ。そこで留守の司の高坂の王と兵を蜂起させる使者の穂積の臣の百足達が、飛鳥寺の西のケヤキの下に集まって陣営とした。ただし百足だけは小墾田の兵器庫に居て、兵器を近江に運んだ。その時に陣営の中の兵士たちが、熊の叫ぶ声を聞いて、残らず散り散り逃げた。それで大伴の連の吹負は、数十騎を率いて息せき切ってやって来た。それで熊毛および諸々の直達は、みんな一つになった。兵士はまた従った。それで高市皇子の命令と言って、穗積の臣の百足を小墾田の兵器庫に呼んだ。そこで百足は、馬に乗ってゆっくりやって来た。飛鳥寺の西のケヤキの下の人がいて「馬から下りなさい」と言った。その時百足は、馬から下ることが遅かった。それでその襟首を取って引きずり下して、射一箭で打ちぬき刀を拔いて斬り殺した。それで穗積の臣の五百枝・物部の首の日向を監禁した。すこしして赦免して軍の中に置いた。また、高坂の王・稚狹の王を呼び出して、軍に従わせた。すでに大伴の連の安麻呂・坂上の直の老・佐味の君の宿那麻呂達を不破の宮に派遣して、事情を奏上した。天皇は、とても喜んだ。それで吹負に命じて將軍にした。この時に、三輪の君の高市麻呂・鴨の君の蝦夷達、および諸々の豪傑達は、響き渡るように残らず將軍の指揮下に集まった。それで近江を襲撃することを決めた。兵士の中の俊英をよって、副将軍や軍を監督させた。庚寅の日に、まず乃樂に向う。】
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