2020年12月4日金曜日

最終兵器の目 天智天皇5

  『日本書紀』慶長版は

六年春二月壬辰朔戊午合葬天豊財重日足姫天皇與間人皇女於小市岡上陵是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓髙麗百濟新羅皆奉哀於御路皇太子謂群臣曰我奉皇太后天皇之所勅憂恤萬民之故不起石槨之役所冀永代以爲鏡誡焉三月辛酉朔己卯遷都于近江是時天下百姓不願遷都諷諫者多童謠亦衆日々夜々失火處多六月葛野郡獻白䴏秋七月己未朔巳巳耽羅佐平椽磨等貢獻八月皇太子幸倭京冬十月髙麗大兄男生出城巡國於是城內二弟聞側助士大夫之惡言拒而勿入由是男生奔入大唐謀滅其國十一月丁已朔乙丑百濟鎮將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聦等送大山下境部連石積等筑紫都督府巳巳司馬法聡等罷歸以小山下伊吉連博德大乙下笠臣諸石爲送使是月築倭國髙安城讚吉國山田郡屋嶋城對馬國金田城潤十一月丁亥朔丁酉以錦十四匹纈十九匹緋二十四匹紺布二十四端桃染布五十八端斧二十六釤六十四刀子六十一挍賜椽磨等

【六年の春二月の朔が壬辰の戊午の日に天の豊財重日足の姫の天皇と間人の皇女とを小市の岡の上の陵に合葬した。この日に、皇孫の大田の皇女を、陵の前の墓に葬った。高麗と百済と新羅が、皆、葬列の道すがら、哀悼を奏上した。皇太子は役人に「私は、皇太后天皇の詔勅を聞いてから、人民に悪いことが起こらないかと心配で、石室を造らせる使役をさせなかった。願っていることはずっと、石室を造らないことを手本に戒めとしなさい」と言った。三月の朔が辛酉の己卯の日に、都を近江に遷した。この時に、百姓皆が、都を遷すことを願っていなくて、遠回しに諫める人が多く、風刺歌も多かった。夜昼なく火事が多かった。六月に、葛野の郡が、白い燕を献上した。秋七月の朔が己未の己巳の日に、耽羅が、佐平の椽磨達を派遣して、貢献した。八月に、皇太子は、倭京に行幸した。冬十月に高麗の大兄の男生が、城を出て国を巡回した。そこで、城内の二人の弟が、近習の護衛の陰口を聞いて、男生を入城させなかった。それで男生は、大唐に逃げ込んで、その国を滅ぼそうとした。十一月の朔が丁巳の乙丑の日に、百済の鎭將の劉仁願が、熊津の都督府の熊山の縣令の上柱國の司馬の法聰達を派遣して、大山下の境部の連の石積達を筑紫の都督府に送った。己巳の日に、司馬の法聰達が帰った。小山下の伊吉の連の博徳と大乙下の笠の臣の諸石を、送使とした。この月に、倭国の高安城と讚吉の国の山田の郡の屋嶋の城と對馬の国の金田の城を築いた。閏十一月の朔が丁亥の丁酉の日に、錦十四匹と絞り染め十九匹と赤い絹二十四匹と紺の布二十四端とつきぞめの布五十八端と斧二十六と柄の長い鎌六十四と刀子六十二枚を、椽磨達に与えた。】とあり、七月己未朔は6月30日で6月が小の月なら標準陰暦と合致し、潤十一月丁亥朔は私の計算では12月1日で閏月が翌年2月に割り当てているので、概ね合致し、他は標準陰暦と合致する。

皇孫太田皇女の字句も、皇太后天皇も天智天皇の母が天皇でなければ意味不明な字句で、天智天皇の母が天皇だから自分の娘が天皇の孫で、天智天皇の母がその会話の時、天皇でなかったらこのような呼び方はせず、皇太后は間人皇女で2人を併せて記述したとしても天皇は不要で、会話の時生きているから皇太后と呼ばれ、会話の時天皇だから皇太后天皇と呼んでいる。

ここで、皇孫は「皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊以爲葦原中國之主」と瓊瓊杵尊であり、それ以外は「大兄去來穗別天皇孫也」、「渟中倉太珠敷天皇孫」と天皇名の後にその天皇の孫と呼び、「皇孫建王八歳薨」は斉明天皇の項に記述されてまさしく斉明天皇の孫でこの項と同じ用例だ。

そして、『三国史記』の666年寶臧王二十五年に「蓋蘇文死長子男生代爲莫離支初知國政出巡諸城使其弟男建男産留知後事或謂二弟曰男生惡二弟之逼意欲除之不如先爲計二弟初未之信又有告男生者曰二弟恐兄還奪其權欲拒兄不納男生潛遣所親往平壤伺之二弟收掩得之乃以王命召男生男生不敢歸男建自爲莫離支發兵討之男生走據國内城使其子獻誠詣唐求哀」と一年遅れで記述され、1年のずれがあるかもしれない。

『三国史記』667年文武王七年に「十二月中侍文訓卒唐留鎭將軍劉仁願傳宣天子勅命」と劉仁願は鎮将と記述され合致し、前項で述べたように来日と帰国がセットになっている。

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